東急多摩川駅にて

最近は日本の人口が減少に向かい、特に地方では過疎化が進んで鉄道のローカル線や路線バスの廃止のニュースをよく見る。このような中でも東京だけは人口があまり減らないのか多くの駅で電車がひっきりなしに上下する風景が見られる。東京、新宿、渋谷、池袋、上野界隈がそうであるし先日も総本家さんが中央本線阿佐ヶ谷での複々線4列車総並びを発表されておりその一端がうかがえる。関東では私鉄に目を向けると関西の阪急十三、南海新今宮、近鉄鶴橋のような圧巻的風景は見られないが東急東横線の多摩川駅では実に多種の電車が見られる。特に最近は神奈川県内のみ(横浜-海老名間、支線の二俣川-湘南台間、厚木貨物線)の営業であった相模鉄道がJRや東急と相互乗り入れを実施して東京心部や埼玉県まで顔を出すようになったことで多摩川駅の車両のバラェティを深めている。

東急多摩川駅では東急の他、横浜高速鉄道(みなとみらい線)、東京メトロ、東武鉄道、西武鉄道、東京都、埼玉高速鉄道、そして相模鉄道が加わることにより8社の車両を見ることができる。各車両ほぼ同じ位置の単調で面白みに欠ける記録であるがこれだけの会社がそれぞれ2~3種類の車輛を投入してくるので飽きることはない。併走も含めて発表してみる。

まず最初に今回の定点多種車両撮影に至った起爆剤的な相模鉄道についても若干触れてみたいと思う。独特の単一カラーでよく目立つ相模鉄道通称相鉄は以前は準大手私鉄の位置づけであったが、1990(平成2)年4月にいずみ中央駅まで延伸されたのを機に同年5月31日正式に大手民営鉄道として認定を受けた。相模鉄道の歴史がややこしいのは相模鉄道とは現在のJR相模線のことで大正6(1917)年に創立され、現在の相模鉄道は当初神中軌道、後に神中鉄道となった鉄道でやはり同時期の創立である。昭和18年(1943)年には神中鉄道は相模鉄道に吸収合併され、元の相模鉄道自身は1944年に国有化され残った神中線が相模鉄道となって今日に至っている。その間相模鉄道は東急になったり小田急の干渉があったりして紆余曲折の歴史があったが横浜駅西口(相鉄ジョイナスや高島屋のある所)の土地買収により安定的な経営をするようになったと言われている。私が最初に見た相模鉄道には神中時代の汽車ポッポのムードが残っていた。駅の改札口は木製のラッチが多く海老名などは田圃に蛇が出てくるような田舎であった。1955年の流線形湘南窓ボディマウントの5000系や続いて登場した1961年の6000系20メートル車の導入で大手に近づいて来たように思う。5000系、6000系の写真である。

1972.2.20 大和付近を行く急行海老名行き5011。湘南窓に車体下部を覆ったスタイルに人気があったが直ぐに更新改造されて消えて行きそのスタイルが惜しまれる車両である。▼

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DF50思い出写真(10)山陰本線

DF50は北海道や関東地方を除き概ね各地で見られた。伯備線、大社線や中央本線では撮ることができなかったが、0番台スルザー形(ズルツアー形)65両、500番台マン形73両計138両の走行線区は一応網羅したつもりである。

最終回はDF50が健在であった時代にDRFC-OBの皆さんが日常よく見たり乗ったりされた山陰本線である。所属は勿論DF50が大量に配属されていた米子区である。

最初は1969.5.4京都駅山陰線ホームから撮ったDF50525である。カラーでなく残念であるが旧塗装(新製時の茶系)の方が急行を含め旧型車を牽くのに似合っており私は古い色が好みであった。▼

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東進続々

小湊鉄道は昼過ぎには切り上げて東京へ戻ります。五井からJRだけで速く戻れるのですが、せっかく東京まで来ていて、少しは時間もあるのでここは京成電鉄に乗ってみることにしました。泉北高速鉄道と同じく新京成電鉄も社名が消滅すると報じられているので、その前に乗ってみようとも思いました。またSNSにアップするような投稿ですがご覧ください。このような投稿なら日常フェイスブックに出しているものとほぼ同じですので簡単に出すことが出来ます。丁寧に過去の資料の下調べをして投稿をされる先輩からはお叱りを受けそうですが、ご容赦願います。

▲新京成電鉄8800型 京成津田沼 京成もそうですが標準軌で18メートル級車体3扉というのは関西では京阪や阪神もほぼ同様なので親しみを感じます。

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癒しの島 台湾鉄道2024年厳冬の旅 Part4 南廻線を行く

第4日目 1月26日

今日はツアー参加の皆さんと合流する日です。各自の行程がLINEで送られてきていますが、殆どの方は台東のホテルへ着かれるのが夕刻以降です。私は既に高雄に居りますので午前中でも合流は可能です。誰か早くに合流できる方はおられないかと探していましたらブギウギさんが昨夜は花蓮に宿泊されて「花蓮6:35(莒光602次)⇒9:48台東、莒光701次到着を撮影後、台東10:17(新自強372次)⇒10:46金崙」という投稿が入っていました。私もほぼ同じ行程を立てていましたので金崙大橋でお会いできるだろうとホテルを出発しました。

① 高雄 6:40(莒光701次)⇒9:12 金崙

【 ドジ一発目 】
高雄車站へはMRTで向かわなければいけませんが、ホテルの最寄り駅「巨蚕站」始発は 6:12です。高雄車站までの所要時間は約14分ですので十分間に合います。
朝5時半には起き上がりチェックアウトをして巨蚕站へと向かいました。
5:45 ホームに下りましたが始発電車なのに待っておられる客が多いようです。直ぐに電車も入線してきましたが始発にしては多い感じがします。
6:00 台鉄高雄站に着きいつものようにきっぷ自動販売機に入力して莒光701次のきっぷを購入しようとしますがモニターには表示がされません。壊れているのかと隣の販売機に同じことをしますが同様です。腕時計を見ても間違いありません。
どうしてか聞こうと有人カウンターへ行って莒光701次のきっぷが欲しいと言いますと「明日のきっぷですね。発券しますか?」とトンチンカンな返答です。
ここで初めておかしいと気づき駅の時計を確認しますと、7:00が表示されています。腕時計は6:00と1時間違っています。
どおりでMRTの乗客が多かった訳です。
台湾に着く前に飛行機の中で台湾時間に合わせていました。昨日まで間違っていませんでしたがなぜか日本時間に変わっていました。これでは何度きっぷ販売機に入力しても希望する列車は表示されません。
改めて今からでも間に合う新自強 415次のきっぷを購入しました。

① 高雄 7:48(新自強 415次)9:36 台東 
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東進続

東武鉄道を撮った翌日、あいにくの雨でしたが小湊鉄道へ向かいました。小湊鉄道はJR東日本からキハ40を導入し、さらに魅力がアップしたように思います。もちろんキハ200も車体の造形だけでなくDMH17エンジンを搭載し貴重な存在ですが、今や原型に近いキハ40が走るのはとても素晴らしいことです。午後には東京に戻らねばならなかったので、昼からは雨も上がるとの予報だったのですが、消化不良な撮影になってしまいました。こちらも次回以降再訪の宿題です。それにしても首都圏には面白い非電化私鉄がいくつもあり羨ましい、と思います。他にも数を減らしていますが関東鉄道には在来車のキハ0系やキハ532、鹿島臨海鉄道には6000系が最後の活躍を見せています。さよなら運転とかですと、人が殺到し激パ状態となり一気に戦意喪失してしまいます。そうならないうちに行くのです。行くのなら今です。

▲キハ401 五井 もとの番号はキハ402021 コイルサスなので暖地仕様です。

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東進

先日2月のはじめ、久しぶりに東京へ行って参りました。特別な列車が走るとかさよなら運転があるとかではありません。ただの日常です。東武鉄道は、車両や線区のバリエーションが広くなかなか興味深い存在だと思っています。本当は、奥地に行ってSLやうまく行けば野岩鉄道に残る6050系も、と考えていたのですが都合により叶いませんでした。次回以降の宿題です。その代わりと言っては何ですが、大師線と亀戸線に初めて乗ることが出来ました。SNSに載せる写真日記のようですが、ご笑覧ください。

▲新鋭スペーシアX、思っていたよりも白が映えます 獨協大学前

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 NYで話題になった戦前の「参宮快速」のポスター

旧twitterであるXのタイムラインを眺めていると、ある方の投稿された写真に、複数の鉄道好事家の方が集まって議論している場面に出くわした。

写真はニューヨークの美術館で開催されたアールデコの時代のポスター展に出されていた、日本のポスターに米国在住の日本人写真家が惹きつけられて、このような短い文章と写真を投稿された。

>「先日アールデコのポスター特別展を見に行ったら日本の鉄道ポスターが一枚展示されていた。1935年の黒住豊之助という方の作品だとか。説明によると京阪神から伊勢神宮までの快速列車開通の広告らしい。」

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広島から新聞ネタ3題

いつものように、中国新聞の記事のご紹介です。すべて令和6年1月27日の記事です。まずは錦川鉄道(旧岩日線)のキハ40です。

このキハ40は平成29年4月に宇都宮運転所で廃車になったキハ401009で、烏山線で使われていました。元のキハ402139で、トイレを撤去したりして1000番代になっていた1両です。廃車後に錦川鉄道に来たのですが、レールがつながっていても、廃車になった車両を甲種輸送はできないのか、陸路をトレーラーで運ばれてきました。

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梅小路区を塒(ねぐら)としたC57達

東海道本線電化後の梅小路区では旅客用機関車として名機C51最後の活躍が見られたがその後継機として北陸本線富山電化による金沢区や他区からC57が転属してきた。C51と同じように京都-園部間の旅客列車を中心に活躍していたので京都在住や近郊の方々には最もなじみのあった機関車ではなかろうか。かく言う私も4年間の京都での下宿生活の中で山陰本線京都-馬堀間は授業の合間というより授業をさぼって撮影を楽しんだ場所である。特に京都駅から僅か30分のC57牽引オハ61系客車の旅で保津川の渓谷を楽しめるとは京都に縁のある蒸機ファンには最高の路線であった。

それでは[梅]の区名の入ったC57のラインアップを若い番号順に紹介する。

C575  金沢区からの転属で正面の形式入りナンバープレートが人気を集めた。

C5715  金沢区からの転属でC575と同様当初はツララ切りが残っていた。

C5739 金沢区から名古屋区を経ての転属である。

C5743 遠く羽越本線酒田区からの転属で梅小路区在籍期間は短かった。

C5789 これも金沢区から亀山区を経ての転属である。

C57127 常磐線平区からの転属である。

C57190   同じ関西の和歌山区からの転属で戦後製の異色スタイルであった。

それでは順に彼女達(貴婦人ではなくそこらのよく働くおばはんと思っていた)の在りし日を追ってみる。梅小路区からさらに他区へ転属した機関車は可能な限りその姿も紹介する。

 

C575   1937年7月 川崎製造 製造番号1800  新製後の配置は何と梅小路区でその後宮原区、姫路区を経て戦前に金沢区に配置され64年10月福知山区へ配属されるまでずっと金沢育ちである。福知山区の後66年9月に梅小路区に配属された。71年7月豊岡区を経て72年3月に浜田区へ転出し74年7月に同区で廃車となっている。この機関車は形式入りナンバープレートが見事で美形のC57であった。71年5月23日には京都-姫路間をC575+C5739の重連で「汽車ポッポの旅」として走行している。尚、廃車後は姫路市の御立交通公園に保存されている。

1967.12.3 保津峡-馬堀間を行くC575牽引の923列車敦賀・豊岡行き。▼

1969.2.25馬堀駅発車のC575牽引敦賀行き923列車。朝降った雪が少し残っている。▼

1972.8.24  出雲市-知井宮間を行く C575の浜田区へ転属後の姿で形式入りナンバープレートもなくなっている。左の線路は今は廃止された大社線。▼

 

C5715 1938年1月川崎製造 製造番号は1869 新製後の配置は名古屋区で2年後の 1940年9月に金沢区に転属し以降63年4月に梅小路区に転属するまでずっと金沢育ちである。71年6月に梅小路区で廃車となっている。

1965.6 京都 C5715の金沢区時代からのツララ切りをアップしてみた。蒸機の専門家にツララ切りはD51にない理由を訊いてみた。D51はデフステイが少し高いこととC57の方が速度が速く運転室の窓が割れやすいからではないかとの回答を得た。飯山線のC56にもツララ切りがあったと思うがどなたかツララ切りについてご存知の方はご教示願いたい。▼

1968.10.8  馬堀駅到着前のC5715牽引敦賀行き923列車。この時はツララ切りはなくなっていた。 ▼

1968.10.8  到着前の写真を撮った後に走って出発も撮ったがピンボケで二兎を追えずやはりうまくいかなかった。若い元気なころの思い出写真である。▼

1968.11.14  嵯峨付近を行く午後の園部発1832列車京都行き。 ▼

 

C5739 1938年1月日立製造 製造番号947 新製後金沢区に配属され一時米原区にあったが44年以降はずっと金沢区にあり北陸育ちである。64年9月に梅小路に配属され山陰本線京都近郊で活躍後の71年6月遠く鹿児島区へ転属となり74年4月同区で廃車となった。

1969.2.25  保津川渓谷を行く園部発1830列車京都行き。 ▼

C5739はC575と重連で71.5.23に京都・姫路間を記念列車として往復したが、記録された方がおられたら貼り付け願いたい。

1972.5.1  同区を訪問した際に庫の中にいる姿を発見。右は翌1973年4月9日お召し列車を牽引することになる門鉄デフのC57117[宮崎]。▼

 

C5743 1938.3三菱製造 製造番号227 新製後の配置は水戸区で以降宇都宮区、白河区、千葉区、尾久区、酒田区等東日本の各地を回り65年6月に梅小路区にやってきた。しかし同機は同年10月豊岡区に転属してしまった。その後68年10月には米子区に転属し69年12月同区で廃車となった。動輪が米子駅前に保存されている。

1965.6 C5743が梅小路区にいたのは65年6月より同年10月福知山区に転属するまでの僅か4か月。ターンテーブル(転車台)にのる同機はデフレクター(除煙板)下部の点検用開口部があることと正面のシールドビームの前明灯が特色。▼

65.6 C5743のキャブ(運転室)で区名札には確かに「梅」の表示が入っている。▼

梅小路区を4か月で追い出されたC5743は1965年10月に豊岡区に転属した。同年11月12日姫路駅を出発する播但線下り貨物牽引のC5743。前照灯がLP403に換装され見栄えが良くなったがこの後直ぐに長い煙突に集煙装置を装備し再び醜い姿になった。▼

 

C5789   1939年3月日立製造 製造番号1064 新製配置は名古屋区で41年9月には金沢区に転属。以降北陸線で長く活躍した後64年10月に亀山区、翌65年10月に梅小路区入りし以降園部等京都近郊区間を中心に活躍した。71年5月には宮崎区に転属し76年6月同区で廃車されるまで日豊本線で活躍した。5、15、39号機と同じく金沢育ちである。

1967.12.7   京都駅で出発待ちの元金沢組のC5789+C5715重連の1827列車園部行き。▼

1968.9.21  夏が終わり陽が早く傾くようになってきたころ馬堀駅出発するC5789牽引の1827列車園部行き。 ▼

1973.4.10  宮崎区に転出したC5789に再会したのは日豊本線青井岳。都城発宮崎行き列車を牽引して鉄橋を渡って行った。 ▼

 

C57127   1940年3月三菱製造 製造番号277 新製配置は尾久区で54年9月に平区へ転属。常磐線育ちで63年6月に梅小路区に転属して金沢組と共に活躍した。71年4月26日園部発1828列車牽引を最後に定期列車運行を終えている。同機はさらに71年6月に宮崎区に転属し同年11月に鹿児島区へ再転し74年4月に同区で廃車となっている。

1964.5.4  京都を出発して東海道本線と分岐し梅小路区横の大カーブを行く923列車敦賀・豊岡行き。▼

1968.5.19  珍しく京都駅東海道本線ホームに到着したC57127牽引の列車。かつて東海道本線蒸機時代はこのような感じでなかったかと想像しながら夢中でシャッターを切った。臨時列車か回送ではないかと思うが詳細はわからない。▼

1972.5.1  川中さんの車で鉄鈍爺さんと九州横断旅行をしこの日の午後鹿児島入りした。鹿児島区には懐かしい梅小路から来たC5739とともに、C57127がいた。ボイラ端面が角形なのが特徴。右は宮崎区のC57117。▼

1972.5.1   C57127の斜め横のビューで三菱の銘板と[梅]から[鹿]に変わった区名表示が読み取れる。▼

 

C57190 1946年12月三菱三原製造 製造番号523 新製配置は門司港区で以降56年10月米子区、1959年10月伊勢区、61年2月和歌山区、65年10月梅小路区と前半九州、後半関西で活躍した。C57の第4次車(190~201号)は九州、北海道に多く配置され本州は当機190と亀山区の198の2両だけであった。別形式にしてもいい程のスタイルでC59似とも言われファンも多い。

1963年8月6日 C57190は梅小路区の前は和歌山区にあって準急列車なども牽引していた。この日は庫の中で休んでいたが何となくC59に似ている。左は同区の入れ換え用C50115。▼

1965.5.3  紀勢本線南部駅で交換する2106列車天王寺発白浜口行き準急「しらはま」牽引のC57190。▼

本題の梅小路時代に入る。ところで金沢区等から転属してきた梅小路区のC57は毎日やってくる福知山区のC57と外観上大きく異なるのは福知山区のC57はドーム後方に重油タンクが付いていることである。関西地区にはタンク付きが多い。これに対して梅小路区の他区からの転入車は重油タンクはなく比較的オリジナルな姿である。参考に64年5月4日梅小路区で撮った福知山区の重油タンク付きのC57128である。この機関車は大津に保存されており大津の86さんに案内していただいた。▼

一方、同じ関西の和歌山区から来たC57190は同区の他のC57と同様ドームの後ろに重油タンクがついている。さらに梅小路に来てから煙突に集煙装置を付けてしまった。写真は66年6月5日早朝の馬堀付近の園部発624列車京都行きC57190である。番号が見えなくてもその風貌で分かる。▼

続いて馬堀の定番撮影地。1968年10月8日園部発京都行き1830列車。▼

終わりに

阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震に続いて今年は元日の夕方能登半島で大地震が起こった。阪神・淡路や東日本と比べて死者は少ないが、3週間経っても復興が見えにくく趣味の投稿をやっていていいのかと思うことがある。私は多くの病気を抱えており整形外科、眼科、皮膚科等で通院し25日は要介護認定検査を控えているが一人住まいで気が滅入るのでデジ青を利用して投稿やコメントをすることが気晴らしにしているのも事実である。ただ最近は特に記憶が薄れ、何回読み直しても誤字や間違った表現が減らないのが気になる。「梅小路のC57」は今書店で販売されている「蒸機の時代No94」北陸線特集に掲載された諸先輩の金沢時代のC57等に触発されたのも事実である。蒸機を知らない方も多くなりそういう方々には迷惑をかけているような気がするがお付き合いいただき御礼申し上げる。今度はカラーでもう少し新しい車両を紹介したいと思う。

C57の履歴は交友社SLNo3を参考にした。

 

 

 

 

DF50の思い出写真(9)土讃線・予讃線 

世界の恐ろしい戦争に加えて新年早々いろいろな悲しいニュースが飛び込んできた。さらに政治の世界はどうなっているのか嫌な年のスタートとなった。この様な中で正月もあっという間に1週間が過ぎてしまった。デジ青もなかなか気分的に進まないが、私のヘボシリーズが残っているのでこれを片付けないといけないと思いDF50の思い出写真シリーズを始める。

今回は四国のささやかな思い出である。確か快速つくばねさんからご指摘があったかと思うが、当時の時刻表には土讃本線、予算本線とあるが、最近の時刻表にはなし表示であることを確認しそれに従った。

1977.8.27  松山から高知までバスで山越えし、南国土佐の高知駅12時41分発のDF50517[高知]牽引226列車高松行きの最後部オハフ332392四コチに乗車。メモにはこの日は酷暑とあるがDF50の正面貫通ドアはだらしなく開けっ放しで男前台無しである。このDF50517~520は1958年新製当初から四国に配置され78~79年の廃車まで基本的に高知区から他区へ出ることがなかったのも珍しい。▼

DF50517を再度撮ろうと思い土佐山田でキハ58128の急行「あしずり3号」に乗り換え大歩危で降りて追い抜いた226列車を山間部で待つも現れたのはまたドア開けっ放しのだらしない姿のまま。諦めて次の急行「土佐5号」で阿波池田に向った。夕方の225列車高松発高知行きDF5012[高松]を撮影。この日は阿波池田で泊まった。▼ 続きを読む

今年、やります! 第10回写真展 

 DEFCクローバー会の最大のイベントの一つ。写真展を今年の3月に開催。場所は花の都の京都は四条通り祇園にある「西利ぎゃらりい」で。

 ところで、

 クローバー会会員諸氏に告ぐ!貴殿のこれでどや!という「どや顔写真」を・・・皆さんの応募をお待ちしていますぞ!

 どんな写真でもいいの?という声が聞こえてきそうだが、そう、公序良俗に反していなければよし!とりあえずは「鉄路輝く」と「まちとまちをつなぐローカルな鉄道」というテーマで。まあ、ちょっと二番目のテーマはわかりにくいが、このように考えてみたらどうだろうか。「ローカルな鉄道」は人間の体で例えると毛細血管のような鉄道。太い動脈があっても毛細血管がないと人間の体の維持ができないのだ。そのようなイメージでこのテーマを考えれば何のことはない。撮りためた写真から、また最新作までどんどん応募を。特に新作をお待ちしておりますぞ!

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DF50の思い出写真(8)播但線

私の知る播但線DF50は列車牽引でなく補機運用であった。播但線は過去に生野峠のトンネル内で機関車の不幸な事故が起きた暗い過去もあったが、回送を兼ねたC57の3重連を生むなどファン向けのサービス運行もあった路線である。北陸本線の杉津峠のような印象的なシーンではないが播但線補機の数少ない記録である。

1962.12.16和田山駅で待機する前補機DF5064[米子]+本務機C5523[豊岡]の貨物列車。DF50はピカピカの新車の感じで茶系の落ち着いた旧塗装であった。C5523は少し見づらいが流線形改造の面影が運転室付近に残っている。▼

196712.16生野駅の城崎発3606列車週末準急「ゆあみ」大阪行き。本務機C5562[豊岡]と前補機DF5064[米子]が側線に後退する姿。DF5064はこの日は補機専用の仕業であった。C5562はラストナンバーで姫路からはEF58交代して大阪に向った。▼

撮影とフィルム現像の失敗で申し訳ない写真であるが、1969.2.23生野付近で下ってくるDF50前補機+C57本務機の姫路方面に向う上り貨物列車。C57は既に絶気状態である。各列車こんな姿で和田山-生野間を走っていた。▼

次年度の幹部が決定しました

総会に行く道中、団体列車「楽」と遭遇

こんばんは、現役生会長です。

先週日曜日の総会にて、次年度の幹部が決定しました。1月より、新体制に移行します。

今年は、OBの皆さまをはじめ多くの方々からご支援を賜り、会誌『青信号』の復活や4年ぶりのクローバー祭出店をすることができました。また、JR西日本イノベーションズ様やガーネッシュ様、どうりん様のように、新しい交流も生まれました。DRFC65周年にふさわしい年となったのではないかと思います。私も、そのような年に会長を務めさせていただけたことを大変嬉しく思うと同時に、支えてくださった全ての方々に感謝しております。

皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。

東のC59、C62の記録

総本家青信号特派員さんの「西のC59、C62全記録」シリーズが一段落されたと思うのでここで仙台を中心とした「東のC59、C62」を発表したい。特派員さんほど秀麗な写真はないが、わずかな記録であるので、見たことがあるシーンも含まれているのはそれだけ撮影枚数が少ないということでご容赦いただきたい。

まず、C59であるが東北本線のC59は上野から宇都宮、白河、福島あたりで活躍してきたが私が見たのはわずかに残った仙台区の2両で最後の活躍をしていた頃である。

2両は戦前型のC5990と戦後型のC59176 である。何れも山陽路のそれとは異なり予備灯がついていた。仙台機関区は駅の横にありC59~C62の大型旅客用の機関車が狭い場所にたむろしていた。因みに貨物機は長町区が中心であった。1965.9.4 仙台C5990▼

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DF50の思い出写真(7)紀勢本線・関西本線

関西にいても紀勢本線は遠く、さらに関西本線のDF50の活躍は限定されていた。1965年5月2日名古屋23時20分発夜行ディーゼル準急紀伊勝浦行き「うしお2号」に乗車。翌5月3日早朝5時過ぎの新宮で下車した。ここで新宮6時30分発天王寺行き123列車で紀伊田辺で下車しC57やD60の撮影に向った。この時、雨の早朝の新宮駅で撮ったのが唯一のDF5016[亀山]である。この後に交換する列車にDF50は見られず、準急もC57、C58であった。▼

もう少し前の1963年5月3日亀山区で撮った茶系塗装のDF5031[亀山]でピクのDF50特集に掲載された。▼

1972年9月9日下庄駅でC57198の126列車を撮った後下り多気方面に向かうDF5014[亀山]の列車。▼

1968.9.29関西本線加太-中在家(信)の大カーブを行く廃止直前の急行「大和」湊町行きを牽引するDF5025[亀山]。大阪通信員さんを始め加太会の皆さんの主戦場。この写真も趣味誌に掲載されたことがある。今見るとこの写真はあちこちに氾濫している。▼

青信号50号はDF50573でした。

準特急さんにより各地で活躍したDF50の記事が続いていて楽しませてもらっています。DF50機関車はキハ55系気動車と同じように国鉄車輛近代化転換期に登場しましたが地味な存在でした。端正な車体でED70とともに好きな機関車でした。塗色が変わったころは客車もブルーに変わったころでともに亀山駅で初めて見たのを思い出します。
50号の表紙は題が「なごり雪」で1981(昭和56)年3月2日土讃本線雪の坪尻駅となっています。ガリ版刷りからタイプ印刷にグレードアップしたと中島禎孝会長が巻頭に書いておらqれ1983(昭和58年)11月26日の発行でした。

DF50思い出写真(6)篠ノ井線・中央本線

前回の北陸線同様に、殆んど撮ったことのない路線を紹介する。しばらくこのような路線が続くがご容赦願いたい。

1965年7月16日名古屋23時11分発長野行き準急「おんたけ」に乗車。翌7月17日篠ノ井に5時37分着。ここで6時13分着名古屋発準急「きそ」牽引のDF505[長野]+DF506[長野]+D51を撮る。「きそ」は足回りが見えないホームの向こう側に入線していい写真が撮れず失敗。▼

折り返しDD5133の新宿行き428列車で篠ノ井線の姨捨に向う。上下D51貨物の後に新宿発長野行きDF50重連準急「上高地」を撮る。この列車は松本から篠ノ井線内は普通列車となる。1965.7.17姨捨-稲荷山を下る準急「上高地」くずれ長野行き普通列車。▼

富士山をバックにした中央本線小淵沢-信濃境間を行くDF506[長野]を先頭とする新宿7時発松本12時33分着の準急「穂高1号」が行く。よくデジ青に投稿下さる村樫四郎様の写真である。▼

長野区のスルザー形若番は1959年に敦賀一区から長野区へ移り、その後1966年に亀山区へ移り1977年から1978年にかけて同区で廃車されたものが多い。

 

会誌『青信号』が完成しました

現役生会長です。

この度、会誌『青信号』77号が完成しました。2019年以来、4年ぶりの発行です。77号の発行が実現できたのは、執筆に携わった会員の他、印刷をしてくださったプリントステーションの皆さま、私どもにノウハウを教えてくださったOBの皆さまのおかげです。また、発行を楽しみに待っていてくださった皆さまのおかげでもあります。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。

77号のテーマは、復刊を記念して再発進とし、会員の自由投稿をメインとしています。バックナンバーと比較すると、拙い箇所も多々あるかと存じますが、お読み頂いた皆さまの、鉄道の魅力発見につながれば幸いです。

『青信号』77号ですが、バックナンバーと併せて同志社 EVEでも販売いたします。是非、お買い求めください。尚、オンラインでの予約については、同志社 EVE終了後を予定しております。

上毛電鉄デハ101に乗る

11月11日(土)京王9ミリ会という趣味の団体によるバスツアーに参加して久しぶりに1928(昭和3)年製の釣り掛け電車の音を堪能してきた。このツアーには藤本哲男さんも参加され知らない人が多い中で心強いばかりであった。京王自動車の貸し切り観光バスの車内では何と小田急のロマンスカーの下敷きも配布され、この会は小田急の同類の会と親交があるように感じた。車庫のある大胡からデハ101に乗車し大胡→西桐生→中央前橋→大胡と全線を走破した。貸し切り電車の運行ダイヤの都合か西桐生のホームのベンチで上毛弁当を30分足らずで食べさらにこの日は上州名物の空っ風も吹いて難儀した。▼

デハ101はイベント車両として活躍中で既に乗られた方もおられると思うが私は始めての乗車であった。板張りの床の点検蓋からは走行中の地面が見えたのは久しぶりの体験である。神戸川崎車輛製デハ101 ▼

上毛電鉄は東武の関連会社であるが、現在営業に使用されている車両は元京王井の頭線の3000系である700系ばかり。このツアーでは列車撮影が計画されていなかったので、2018.12.1樋越-大胡間で撮ったクハ724+デハ714の中央前橋行きとクハ724の譲渡前の1969.5.23撮影の京王井の頭線時代のクハ3709を載せた。上毛の700系もそろそろ廃車となるらしいが次は東京メトロのようだ。▼

井の頭公園を出て終点吉祥寺に向う4連時代のクハ3709▼