DF50の思い出写真(7)紀勢本線・関西本線

関西にいても紀勢本線は遠く、さらに関西本線のDF50の活躍は限定されていた。1965年5月2日名古屋23時20分発夜行ディーゼル準急紀伊勝浦行き「うしお2号」に乗車。翌5月3日早朝5時過ぎの新宮で下車した。ここで新宮6時30分発天王寺行き123列車で紀伊田辺で下車しC57やD60の撮影に向った。この時、雨の早朝の新宮駅で撮ったのが唯一のDF5016[亀山]である。この後に交換する列車にDF50は見られず、準急もC57、C58であった。▼

もう少し前の1963年5月3日亀山区で撮った茶系塗装のDF5031[亀山]でピクのDF50特集に掲載された。▼

1972年9月9日下庄駅でC57198の126列車を撮った後下り多気方面に向かうDF5014[亀山]の列車。▼

1968.9.29関西本線加太-中在家(信)の大カーブを行く廃止直前の急行「大和」湊町行きを牽引するDF5025[亀山]。大阪通信員さんを始め加太会の皆さんの主戦場。この写真も趣味誌に掲載されたことがある。今見るとこの写真はあちこちに氾濫している。▼

青信号50号はDF50573でした。

準特急さんにより各地で活躍したDF50の記事が続いていて楽しませてもらっています。DF50機関車はキハ55系気動車と同じように国鉄車輛近代化転換期に登場しましたが地味な存在でした。端正な車体でED70とともに好きな機関車でした。塗色が変わったころは客車もブルーに変わったころでともに亀山駅で初めて見たのを思い出します。
50号の表紙は題が「なごり雪」で1981(昭和56)年3月2日土讃本線雪の坪尻駅となっています。ガリ版刷りからタイプ印刷にグレードアップしたと中島禎孝会長が巻頭に書いておらqれ1983(昭和58年)11月26日の発行でした。

DF50思い出写真(6)篠ノ井線・中央本線

前回の北陸線同様に、殆んど撮ったことのない路線を紹介する。しばらくこのような路線が続くがご容赦願いたい。

1965年7月16日名古屋23時11分発長野行き準急「おんたけ」に乗車。翌7月17日篠ノ井に5時37分着。ここで6時13分着名古屋発準急「きそ」牽引のDF505[長野]+DF506[長野]+D51を撮る。「きそ」は足回りが見えないホームの向こう側に入線していい写真が撮れず失敗。▼

折り返しDD5133の新宿行き428列車で篠ノ井線の姨捨に向う。上下D51貨物の後に新宿発長野行きDF50重連準急「上高地」を撮る。この列車は松本から篠ノ井線内は普通列車となる。1965.7.17姨捨-稲荷山を下る準急「上高地」くずれ長野行き普通列車。▼

富士山をバックにした中央本線小淵沢-信濃境間を行くDF506[長野]を先頭とする新宿7時発松本12時33分着の準急「穂高1号」が行く。よくデジ青に投稿下さる村樫四郎様の写真である。▼

長野区のスルザー形若番は1959年に敦賀一区から長野区へ移り、その後1966年に亀山区へ移り1977年から1978年にかけて同区で廃車されたものが多い。

 

会誌『青信号』が完成しました

現役生会長です。

この度、会誌『青信号』77号が完成しました。2019年以来、4年ぶりの発行です。77号の発行が実現できたのは、執筆に携わった会員の他、印刷をしてくださったプリントステーションの皆さま、私どもにノウハウを教えてくださったOBの皆さまのおかげです。また、発行を楽しみに待っていてくださった皆さまのおかげでもあります。この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。

77号のテーマは、復刊を記念して再発進とし、会員の自由投稿をメインとしています。バックナンバーと比較すると、拙い箇所も多々あるかと存じますが、お読み頂いた皆さまの、鉄道の魅力発見につながれば幸いです。

『青信号』77号ですが、バックナンバーと併せて同志社 EVEでも販売いたします。是非、お買い求めください。尚、オンラインでの予約については、同志社 EVE終了後を予定しております。

上毛電鉄デハ101に乗る

11月11日(土)京王9ミリ会という趣味の団体によるバスツアーに参加して久しぶりに1928(昭和3)年製の釣り掛け電車の音を堪能してきた。このツアーには藤本哲男さんも参加され知らない人が多い中で心強いばかりであった。京王自動車の貸し切り観光バスの車内では何と小田急のロマンスカーの下敷きも配布され、この会は小田急の同類の会と親交があるように感じた。車庫のある大胡からデハ101に乗車し大胡→西桐生→中央前橋→大胡と全線を走破した。貸し切り電車の運行ダイヤの都合か西桐生のホームのベンチで上毛弁当を30分足らずで食べさらにこの日は上州名物の空っ風も吹いて難儀した。▼

デハ101はイベント車両として活躍中で既に乗られた方もおられると思うが私は始めての乗車であった。板張りの床の点検蓋からは走行中の地面が見えたのは久しぶりの体験である。神戸川崎車輛製デハ101 ▼

上毛電鉄は東武の関連会社であるが、現在営業に使用されている車両は元京王井の頭線の3000系である700系ばかり。このツアーでは列車撮影が計画されていなかったので、2018.12.1樋越-大胡間で撮ったクハ724+デハ714の中央前橋行きとクハ724の譲渡前の1969.5.23撮影の京王井の頭線時代のクハ3709を載せた。上毛の700系もそろそろ廃車となるらしいが次は東京メトロのようだ。▼

井の頭公園を出て終点吉祥寺に向う4連時代のクハ3709▼

 

今週末は EVE です!

現役生会長です。

11月26日 (日)~28日 (火)は、今出川校地にて同志社EVEが開催され、当会も出店いたします。今年は新町レイアウトや会員保有の鉄道グッズの展示、写真展(スライドショーでの投影)の他、『青信号』の販売も行います。また、カレー店 ガーネッシュ様のYouTube動画の投影も行います。

昨年の展示の様子 (新町レイアウト)

展示教室は良心館104教室、時間は26日 (日) と27日 (月) が10:00~18:00、28日(火)が10:00~16:00です。会員一同、皆さまのご来場を心よりお待ちしています。

DF50思い出写真(5)北陸本線

北陸本線と仰々しく書いたが実は機関区のはずれで撮ったもの1枚だけである。1965年2月10日京都駅で同学年のTさん、Sさんの見送りを受けて21時12分発521列車新潟行きに乗車。翌11日8時15分曇り空の筒石駅で下車。灰色の日本海はすぐ横で、客貨ともに糸魚川区のD51牽引だったが長野発米原行き611列車1本だけC57が牽いていた。筒石12時5分215列車直江津行きで直江津まで行く。ここで機関区を物色。この時に目的のD50183[直江津]と1両だけいたDF50515[富山]を撮影。この後は直江津15時30分発長野行きに乗車しスイッチバック駅二本木で下車し投宿。雪の中でD51重連急行「白山」等を撮影して東京に向った。

ということで有名な敦賀一区時代のDF50の活躍は逃してしまい直江津区で撮ったこのDF50515だけである。急行「日本海」、「黒部」、「北陸」等を牽引したものと思われる。同機は1970年に高松に転属し1977年に廃車されている。▼

DF50思い出写真(4)奥羽本線

これは再度申し上げるが蒸機の撮影の合間に撮ったDF50の気まぐれ写真である。カラーの変色、ピンボケを敢えて出したがお許し願いたい。秋田にもDF50マン形が集中配属され、奥羽本線、羽越本線の優等列車牽引等に活躍していたが、羽越本線では撮る機会がなかった。今回はやや日誌風にし、番号の分かる機関車はその変遷を記した。

1965(昭和40)年8月31日急行「八甲田」で早朝の青森に下り立ち、初めての東北の爽やかな空気を吸った。キューロクの入れ換えやC60の上野行きを撮ったあと奥羽本線の列車に乗った。一人旅で気の向くまま鶴ヶ坂で降りた。そこでC60、C61、D51の旅客列車とDF50を撮った。

8時40分大館発青森行きを牽引する秋田区のDF50549が鉄道防雪林の横を青森を目指してやってくる。

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クローバー祭 2023

現役生会長です。

先週の土日に、京田辺キャンパスにて開催されるクローバー祭に出店させていただきました。コロナ禍後、初の出店です。

京田辺レイアウトを展示しましたが、様々な情景を表現したジオラマは、お子様だけでなく、大人の方々からも大変好評でした。

お越し頂いた皆さま、本当にありがとうございました。また、出店されていた皆さま実行委員会の皆さまも、二日間お疲れ様でした。

「お城と鉄道」番外編 会津若松城(鶴ヶ城)

「DE50の思い出・磐越西線」で忘れていた城がまた一つ出てきた。同志社の方ならご存知NHK大河ドラマ「八重の桜」に出てくる名城である。綾瀬はるか主演の大河ドラマ「八重の桜」は2013年に放映されたのであれからかれこれ10年経過したことになる。

会津若松城は文禄2(1593)年に蒲生氏郷が本格的な天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名し、慶応4(1868)年戊辰戦争では新政府軍の1か月に及ぶ猛攻に耐えた難攻不落の城として知られる。明治7(1874)年に建物全てが破却されたが昭和40(1965)年に天守閣が再建された。

山本八重(後の新島襄の妻)は、会津藩士山本権八、佐久の両親のもと1845年というから丁度私の100年前に会津で生まれている。兄は山本覚馬で京都府議会議長、京都府顧問などを歴任。新島襄の協力者で今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。

慶応4(1868)年、板垣退助率いる新政府軍が攻め入った鶴ヶ城で婦女子、老人、少年兵とともに24歳の八重は鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟三郎の形見の服を着て戦うなど幕末のジャンヌ・ダルクと言われた。さらに薙刀の名手で22歳の若さで壮烈な死を遂げた中野竹子の名も忘れられない。

「逆賊」の汚名を背負わされた会津藩は下北半島に斗南藩など貧しい土地を与えられたり苦難の道を歩んだが、その後徐々に復権されていった。山本覚馬の京都での活躍もそうであるが津田梅子らとともに日本最初の女子留学生に選ばれた山川捨松(薩摩の元老大山巌の妻)も会津藩士の娘であるなど明るい話題も出た。また、京都守護職であった9代藩主松平容保の孫にあたる松平節子は秩父宮妃勢津子殿下となられている。

198911.18 会津若松城(鶴ヶ城)▼

2013.4.10   「八重の桜」ポスター 東武下今市駅 ▼

2018.10.25 会津鉄道会津田島駅に掲載の会津宣伝ポスター ▼

2013.4.10  東武鉄道上今市で方向転換して東武日光に向う会津若松発 東武日光行き快速「AIZUマウントエクスプレス号」AT751+AT701。2010年新潟トランシス製造の車体には「八重の桜」の宣伝が入る。

 

DF50思い出写真(3)磐越西線

1963(昭和38)年4月1日の動力車配置表によると郡山に磐越西線用に3両(564,565,566)のDF50が配属されている。1966(昭和41)年3月21日に常磐線蒸機の撮影後、磐越西線の蒸機を撮りに行った。目的はD50であった。川桁で寒い布団で寝た翌22日に撮ったDF50の旅客列車で何れも川桁-猪苗代間の高原地帯である。

早朝の日出谷発郡山行き222列車。この時点ではまだ磐梯山の山容を見ることができた。▼

上野発喜多方行き2401列車牽引のDF50。先頭はスハフ42か。DF50のブルンブルンに続きズシン、ズシンの客車音。▼

DF50は3両しかないためか上り急行「第1ばんだい」2404列車会津若松発上野行きはD51[磐越西線管理所(会津若松)]牽引であった。珍しく蒸機牽引急行列車である。朝方見えていた磐梯山も昼前にはご覧の通りである。▼

この日は曇天であったが、目的のD50貨客共に1本づつ撮ることができた。

DF50思い出写真(2)日豊本線

比較的優等列車の多い路線には500番台マン型が配属された。当時の大分運転所にその500番台が集中配属されていた。ここでもC55やC57が旅客列車や貨物列車を担当し、DF50は急行の「高千穂」、「日向」、「ぶんご」、「夕月」等に、また、ブルートレイン特急の「富士」、「みずほ」、「彗星」に使われた。

1962.10.20 修学旅行は関西汽船で別府に行き、1泊後高崎山に行った。お猿に土産物を盗られないようにしながらDF50の列車を撮った。西大分-東別府間を行く520列車南延岡発門司港行きで左手に駐車中の観光バスが見られるがこの付近を大分交通別大線(1972.4廃止)が走っていた。▼

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DF50の思い出写真(1)福知山線

DF50は亜幹線の無煙化を目的に1957(昭和32)年に先行試作され1963(昭和38)年まで増備された電気式ディーゼル機関車である。1-7号機は試作機である。

DF50と言えばED60やED70等と似た顔で国鉄設計陣の思想なのか車両会社の提案なのか、はたまた両者の合作なのかよくわからないが、とてもいい顔をしていると思う。それにBーBーBの軸配置は丙線入線を考慮したようであるがこれが16mの短い車体に綺麗に収まっている。一方、同じディーゼル機でもDD13やDD51は凸型であることも影響しているのか好きになれない機関車だった。また、DD50と異なり暖房車連結不要の蒸気発生装置がついていて正しく無煙化対応がなされていた。0番台は新三菱重工、汽車、日車でスイスのズルツァー社との提携で65両、500番台は西ドイツ(現ドイツ)マン社との提携で川車、東芝、日立で73両計138両が製造された。500番台のマン型の方が僅かながら定格速度が速かったので優等列車の多い路線で使用された。機械的なこと、技術的なことはよくわからないが、マン型はドドドドという連続した音で、ズルツアー型は焼玉のようなポンポンポンというリズミカルな音だったということだが私にはの2種類の区別がわからなくいつもブルンブルンブルンという音に続くオハ61系等の客車のガタンガタンの音の記憶が強くとにかくスピードが遅い機関車という印象を持っている。当初は茶色っぽい色(こちらの方が貫禄があって好きであった)で後に明るいオレンジとグレーに変更されていったが線区によってあるいは列車種別や固定編成客車用に対しても一貫してオレンジ、グレーの色を変えなかったことが嬉しい。

1961.4.2 私が最初に撮った鉄道写真は宝塚駅手前でのDF5049[米子]牽引の門司発712列車山陰線経由大阪行き長距離鈍行であった。ご覧の通り下手な写真であるが、鋼体化改造客車のひとつ開いた窓や木製の日よけ、ドアを開けて風にあたるお客など開放的でこれが客車と思う日常いつでも見られた列車風景であった。▼

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上京区民まつり2023 に出展

現役生会長です。

10月29日(日)に上京中学校で開催された上京区民まつりに出展させていただきました。

新町レイアウトを展示しましたが、お子様を中心に多くの方々にお越しいただき、大盛況でした。

お越しいただいた皆さま、ありがとうございました。また、主催された皆さまや出展されていた皆さま、お疲れ様でした。

お城と電車(25)彦根城

徳川家康の命により、関ケ原で戦功のあった上州高崎の井伊直政が近江に封ぜられ慶長8(1603)年頃に築城に着手し元和8(1622)年に全体の完成がなされた。彦根城はその普請に際して近縁の諸城から門や櫓など多くの建物を移建したとも伝えられ、石垣も運ばれたという。大津城、安土城、長浜城、小谷城などがその対象となったようである。

2023.8.29 彦根城 三層三階の天守に石垣は牛蒡積み(野面積みでも奥行きのある胴長石を用いる)▼

2023.8.29 本丸太鼓門 ▼

2023.8.29  彦根駅の3475M近江塩津発新快速姫路行きクモハ224-104 ▼

彦根城は車を運転していた頃近江八幡城や安土城訪問後に行こうとしたがテントを張って工事中のため諦めた経緯がある。今回の訪問で日本の残存天守のある城は全て行ったことになる。猛暑の中、彦根駅からは徒歩でも行けるが往復タクシーを利用した。タクシーを降りてからが大変で長い階段状の道を歩き、天守へは急な階段を登り一苦労で会った。電車からは遠くに彦根城を見ることができたが、線路端を歩き城を入れて電車を撮る気力はなかった。湖国に聳える国宝彦根城を最後に「お城と電車」シリーズは終了とさせていただく。

 

お城と電車(24)姫路城

姫路城の始まりは羽柴秀吉が姫山に三重の天守を構えた時からである。慶長6(1601)年に姫路に入城した池田輝政は大造営に着手し、同14年までに城郭全体の事業を成し遂げた。白鷺城とも言われ最も美しい城である。

2014.4.10  国宝であり、世界文化遺産登録の姫路城▼

2014.4.10 満開の桜と姫路城 ▼

姫路城をバックにした鉄道写真は是非撮ってみたいが場所が見つからず今日に至っている。あれだけ大きな城であるから新幹線、播但線、山陽電鉄のどこかで見えると思うが熊本や松山の様にはいかない。皆さんで撮れそうな場所があれば情報をお願いしたい。仕方なく姫路駅付近で撮影した写真を貼らせていただく。

2014.4.10 EF651136牽引西鹿児島発新大阪行き32列車「なは」と播但線用103系 ▼

1965.11.12 姫路駅を出発するC5743[豊岡]牽引の播但線貨物列車 ▼

 

京田辺レイアウト 京田辺BOXへ

お世話になっております。現役生会長です。

昨日、総会終了後に京田辺レイアウトの移動作業を行いました。長らく新町BOXにて保管されていましたが、11月に開催されるクローバー祭出店に際して、この度京田辺BOXに移動させることとなりました。業者の方々の安全な輸送、そして暑い中での搬入及び搬出に協力してくれた会員の皆さんのおかげで、スムーズに作業は完了しました。改めて感謝申し上げます。

クローバー祭は11月4日(土)と5日(日)に京田辺校地にて開催されます。当会も京田辺レイアウトを出店します。新町にて保管中にレイアウトの修繕も行いましたので、ぜひお越しください。

現役生一同お待ちしております。

お城と電車(23)松山城

夏目漱石の「坊っちゃん」や道後温泉で有名な松山にも残存天守がある。松山城は姫路城、和歌山城とともに三大平山城に数えられている。賤ケ岳の七本槍の一人加藤嘉明が築城した最初の松山城は五層であった。現存する天守は安政元(1854)年の再建であり、日本の残存天守の中では一番新しい。

1998.5.1 勝山山頂にある壮麗なたたずまいの松山城 ▼

伊予鉄道市内線電車と松山城を入れて撮れる場所が愛媛県庁付近にあるが、その機会を逃してしまった。伊予鉄市内線ではDRFCの間では元京都市電2000形の活躍が人気であるが、どのような形式でもかまわないのでお城を入れて撮られた方がおられたら貼り付け投稿していただきたい。私のは2017.7.16JR松山駅前の2103である。▼

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~27~

2007年9月3日 諫早・長崎の日常を撮る

島原鉄道の続きとして、諫早・長崎の日常の光景を見ていただきます。列車待ちの間に撮った写真ばかりで、格別な意識もなく、当たり前に撮った写真です。その後、2022年9月に西九州新幹線が開業し、列車も駅舎もすっかり新しくなりました。まもなく開業一年となる西九州新幹線に乗ったことがない身にとっては、デジ青やほかのメディアで、現在の同付近を知ることしか術はありませんが、15年前との風景の違いを感じています。朝早くに諫早駅前のホテルを抜け出して、島原鉄道のDCを撮り、朝食後に諫早駅で長崎行き「あかつき」を撮った。もう“ブルトレ”という言葉も聞かなくなったが、15年前,(高齢者にとっては“つい最近”)には、まだ走っていた。九州伝統の椀型のヘッドマークを付けていた。▲▲最後部には“レガートシート”のオハ14形300番台を連結。

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