【1454】天然色写真で巡る40年前の九州 (8)

鹿児島交通

指宿枕崎線に乗って南国の旅は続く。車窓から見る開聞岳は美しい円弧を描いている。終点の枕崎で鹿児島交通のキハ105に乗り換える。キハ100形101~106は、国鉄キハ07の100番台車と酷似した自社発注車で昭和27年製。赤に青帯という強烈な塗装が南国らしい。単行の車内は高校生で満員。この頃から田舎の高校生の車内マナーは悪かったが、現代のような悪態はなく、バンカラの延長ともとれる、まだ容認できるものであった。

キハ07似の鹿児島交通キハ100

鹿児島交通は、当時、枕崎と伊集院を結んでいた49.6kmの私鉄で、かつては南薩鉄道と名乗っていた。途中から分岐して知覧までの支線もあったが、水害によって訪れる4年前に廃止になっている。ちょうと中間の加世田に車庫がある。
加世田を有名にしたのは、7両の蒸機の廃車体である。いずれも自社で使用され、廃車後、10年以上前から野外に放置されたままになっている。その錆び方も尋常ではない。

下の写真の一枚目、1・2両目は、開業時に製造した大正2年製のハノーバー社製C型タンク機の2・1号機。3両目は4号機で、大正15年日車製のC型タンク機、二枚目の3両、先頭から13・14・12号機、いずれも国鉄C12形を飽和式に改めた自社機12形で、この3両が在籍していた。
加世田駅・車庫はこの放置蒸機だけでなく、オープンデッキの客車や貨車の廃車体もおびただしく、建屋も朽ち果てて末路を見る思いだったが、意外に長持ちし、昭和59年3月に廃止となった。直接の要因も、水害による不通区間の復旧困難のためで、最後までイベント蒸機の運転や軽快気動車の導入が検討されていたという。

加世田の放置蒸機。先頭はドイツ・ハノーバー社製

国鉄C12と同型の自社機12形は3両連なって放置


【1433】江若近江今津/鹿児島市電

なぜかしばらく鳴りを鎮めていた総本家青信号特派員氏が、憑き物でも落ちたか、心機一転されたか、俄然連続投稿。江若となると拙老も負けてなるものかと奮起したいところだが、その実あれだけ江若に通いつめたのに、終点近江今津まで行ったのはたったの1回、それも就職してからで、要は運賃がすこぶる高い鉄道だったから、に尽きる。

近江今津の本屋は屋根が尖って著しく高く、一見山小屋風?だったと記憶する。画面右側に半分写っているだけだが、ご推量願いたい。構内は広かった。撮影は1969年7月27日。

電車と、それも路面電車なんぞとは無縁と思われがちの拙老だが、少しは撮っている。これは1955年3月20日の撮影で、ドイツ製バルジーナという35mmスプリングカメラだったが、なまじファインダーにパララックス矯正装置がついているのが仇になり、例えば製造銘板や台車など、接写の際修正して、その後ほぼ間違いなく戻し忘れる。と、これも間違いなくその後の撮影はパンタやポールが切れる、という始末となる。

1955年時点での鹿児島市電は2軸単車の方が多かったように記憶する。解説は本来なら乙訓老人のお役目であろうが、このところ沈黙を続けて御座らっしゃるので、どなたか、代稽古(といっては大変失礼だが)を努めて下され。

なおフイルムは純正品を買う金がなく、写真屋で得体の知れぬ代物を使った。現像するまで種類や感度が分からない、というのは、太秦あたりの映画カメラマン助手の助手あたりが、残尺と称する、撮影時中途半端に残ったネガフイルムをくすね、小遣い稼ぎに写真屋に売り、写真屋はそれを何回使ったか分からん古パトロ-ネに詰めて売り、カネのない我々が買う、という仕組みである。

それでもその後の「純正ネオパンSS」と違い、53年経過してもビクともしていないのが何とも皮肉である。


【1426】天然色写真で振り返る40年前の九州(7)

鹿児島市電

西鹿児島駅前に進入する400形(2点とも昭和44年3月21日)

蒸機を巡る九州の旅は続く。相変わらず夜行列車を活用した南北トンボ返りパターンだった。満員の夜行臨時急行「しろやま51号」で西鹿児島駅に降り立った。多くの蒸機が集結する鹿児島機関区でたっぷり時間を掛けて撮影し、久しぶりのユースホステルへ向かう途中の西鹿児島駅前で鹿児島市電をとらえる。
この時代の鹿児島市電、のちに廃止となる上町線、伊敷線も健在で、市電のピークを迎えていた。増加する需要に対処するため、廃止の続いていた大阪市電から大量の車両を購入していた。懐も豊かだったのだろうか、徹底的に改造され、鹿児島市電型ともいうべきスタイルに生まれ変わった。中には鹿児島では初登場となる連接車も含まれていた。
そのような中で現れたのは、412号(400形)と607号(600形)であった。
400形は、元は東京都電の木造ボギーの4000形で、鹿児島で半鋼製の正面二枚窓に改造された。東京と大阪の路面電車が在籍したのも鹿児島だけではないだろうか。しかし、この車両も大阪からの転属車両の増加に伴い、撮影したこの年には廃車されてしまう。

南国らしい駅前に停車中の600形

もう一方の600形は昭和34年の鹿児島生まれ。正面が小大小の3枚窓、方向幕上のヘッドライト、パンタ集電と、典型的な鹿児島市電スタイルである。それ以上に鹿児島を印象づけるのは、この黄と緑の塗装だろう。一見、ド派手な趣味の悪そうな塗装に見えるが、いかにも南国らしい鹿児島を印象付ける色である。事実、のちにクリームに赤帯が標準塗装となるが、リバイバル塗装として、この色が復活している。
この西鹿児島駅前、現在までに2回の路線移設を経て、九州新幹線の終点の駅前としての形を整え、電停名も鹿児島中央駅前となった。少し前、40年ぶりに駅前に立った。低床車1000・7000形が走る市電にも、観覧車がある駅前風景にも、当時の面影はなかった。


【1417】江若鉄道高島町駅のこと

しばらく掲示板から遠ざかっていましたが、年末になって思い残してきたことを書き連ねていきます。
まず、西村雅幸さんが以前に江若鉄道のDD13+オハ27を完成され、オハ27が留置してあった高島町駅構内をレイアウトに再現するための資料を求めておられる記事を読みました。
まずは模型の完成をお祝いするとともに、私の撮っていた高島町駅の写真を遅ればせながら載せたいと思います。
高島町は、終点の近江今津に近い主要駅で、一時は終点であっただけに、2面4線のホームのほか、側線も持つ広い構内でした。どうしても車両ばかりに目が行き、なかなか駅の施設にまでは目が行かないもので、私はこんな程度しか撮っていません。なにかの参考になれば幸いです。
われわれの鉄道趣味活動の原点ともいえる江若鉄道が模型で再現されることを願っています。

改札口からホームを見る。

オハ27は下り方ホームに横付けされて留置されていた。

山側から見るオハ27。もう一本側線があった。

高島町の駅名標。楷書の書体も懐かしい。

駅舎正面 (大津歴史博物館図録より転載)


【1401】おじん2人ヨーロパ軽便 その23-12

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その5

小生にしては珍しく約1か月の間隔があいてしまった。やれ嬉しや、この「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズもやっと消え失せたか、とはかない喜びを感じた手合いがもし居れば、そ奴に呪いあれッ!

次に訪ねた VALE OF RHEIDOL RAILWAY は旧スレート運搬の産業鉄道ではなく、純粋の観光鉄道で、1902年12月22日開業。軌間1フィート11 1/2インチ(597mm)で、ウエールズ西岸 Cardigan Bay に面するリゾートタウン Aberystwyth の英国鉄道駅から Devils Bridge (滝があるそうな)まで、11 3/4マイル(約19km)の間に600フィート(約180m)程を、Afon Rheidol なる川に沿って上る。180mなんて丘もいいとこだが、そこはそれ、ほとんど山らしい山がない英国・ウエールズのことだから、山といってもいいのか。かつての「ウェールズの山」なる、心温まる映画をご記憶だろうか。

この鉄道はその後 Great Western 鉄道に属したが、その後国鉄に統合され、ご多分に洩れず1988年11月5日一旦停止した運行を、新組織で続けている。いきなり見た機関車はPRINS of WALES なる銘板を付けた3号機で、当線オリジナルの2号、GWR時代は1213号、国鉄時代に9に改番。1902年 Daves & Metcalfe 製1C1タンク。ため色というのか、海老茶色というべきか、実に美しく、かつ軌間からは信じられないほどでっかいアウトサイドフレーム機関車で、サイドタンクが大きく煙室の前まで伸び、さらにその前にエアコンプレッサーがどかんと立っている。連結器はドロップフック。キャブの少し前から幅が広がっているのは何でか。

機関車はこのように素晴らしいのだが、客車はいささか、機関車にマッチしているとは云いかねる。運行は1999年の場合4月2日から10月28日まで、月、金曜日には運休する日があり、大方は Aberystwyth 11時、14時30分発、Devils Bridge 発13時、16時30分の2往復だが、6~9月には4往復する日が計32日ある。運賃は往復で大人10.5ポンドと高いが、小人は大人1人につき2人まで各1ポンド、これを超えると1人5.25ポンド、犬1匹1ポンドとある。一等車は片道1ポンドプラス。他に交通機関はないと見え、運賃は往復のみの設定であった。

上ってくる列車を撮るべく場所を探したが、何分線路両側とも森が深く、おまけに著しく狭く、カーブもきつく、見通しは全くきかない。パンフレットにもあまり展望の開けた写真は無いようで、土地不案内者にはどうしょうもない。走行中の機関車は8号で、これはGWR時代の1923年増備、やはり1C1でGRW Swindon 工場製。名前は「LLYWELYN」 だが、例によってウエールズ語だから何と発音するのか。スリヴェリン?

我々は滝には興味がなく、途中山をやや外れたあたりでの「走り」を撮ろうと、不案内の猛烈に狭い道を山勘で走っていたらタイヤがパンクした。万一に備え軍手まで持ってきてはいたが、弱ったのは道が狭く、もし対向車なり追い越し車がきたらどうにもならない。仕方なく農家の矢張り狭い駐車場を無断で一時占有させて貰い、タイヤを替えた。レンタカーでかなり各地を走ったが、パンクは唯一の経験だった。このお陰で「走り」は諦めざるを得なかった。

Aberystwyth まで下りて来て、British Rail の駅でディーゼルカーを撮ったが、駅近辺に何と何と、単気筒の内燃機関車が半分朽ち、赤錆姿で鎮座しているではないか。ラストン1915年製で、製番50823、煙突まわりは新しい同社DLも同じ雰囲気である。通りかかった鉄道従業員と思しきオッサンは、親切に「こいつはペトロル(ガソリン)で始動、温まったらパラフィン(灯油=米語ならケロシン)い切り替えた」と教えてくれた。そんならフォードソンと同じである。

しかし1915(大正4)年で単気筒とは。我国では実に1904(明治37)年、大阪難波で福岡駒吉が焼玉ではあるが5馬力の単気筒石油発動機関車を生み出し、翌年以降北九州の軌道に約80台を馬車軌道の馬に替わる「日本版アイアンホース」として供給しているから、これは世界的にも誇ってよい。

その隣には1930年製のディーゼル機関車がいた。また現役の10なる短く小さい入換用DLがいた。


【1382】CRH2 新幹線初の寝台車となる!!

驚きです。信じられません。あろうことか、何と新幹線が寝台に登場しました!!!

写真: / 写真販売

21日付中国新聞社電によると、北京-上海間で21日、高速車両のCRH2を寝台車仕様に改造した列車の運行が始まった。CRH2は日本で「はやて」、「あさま」などとして運行されているE2系新幹線電車がベースになっている。

中国では、「航空機は豪華、鉄道は最低限のサービス」とのイメージが強い。新たに導入された寝台車は、「航空機以上の鉄道サービス」を実現する計画の一環という。また「夜に乗車、翌朝着」の運行ダイヤで、目的地での時間を有効利用できることも競争力のひとつ。従来の航空機利用客の取り込みを狙う。

写真は、北京駅に入線した上海行きの寝台列車。列車番号はD301。発車時間は午後9時31分。D301は、現在、北京-上海間で建設が進められている京滬高速鉄道を走るのではなく、在来線を走る高速寝台列車として運行する。

これは、是非とも乗車してみなければなりません。会社を辞めてでも行く事にしました。
ただ、持病が悪化して直ぐに動けません。担当医の許可が取れ次第に駆けつけます。