【1678】少し前の飯田線 Ⅱ

前回は17m車を解説したが、今回から20mに入り、以降80系まで続けたいと思っている。飯田線に在籍した車両から旧形国電の概略を掴んでいただければ幸いである。時期は原則として昭和52年3月末現在の車両配置を基準にした。

(3)戦前形2扉車

戦前形2扉車は、大きく次の3グループに別れる。

  17mモハ32(前回解説したクモハ14000番台)と同一グループのクハ47000番台(事故復旧名義で車体を新製した011も含む)、050番台、サハ48、サハ45(旧サロ45)

元関西国電のクモハ42、43、53、クハ47100番台(元クハ58)

  元関西国電、流電グループのクモハ52、53、クハ47150番台(元サロハ66)、サハ48(034、1両のみ)

今回は①のモハ32と同一グループのクハ47、サハ48、サハ45を紹介する。

このグループの昭和52年3月末時点での配置は次の通りである。

クハ47 009、011、069、070、074、076(全車両伊那松島区配置)

サハ48 021、024(全車両豊橋区配置)

サハ45 昭和52年3月末は配置はないが、昭和43年9月まで012が配置され、富士電車区に転属した。

1.クハ47000番台

横須賀線の付属編成用として昭和6年に10両製造、全車両偶数(下り)向きであった。戦時中4扉化が計画されたが、004と010の2両が実施されたのみで終戦となった。この2両は後に関西に転属して、最後は片町線で終焉を迎えた。残る8両は戦災に遭うことなく終戦を迎えたが、70系の進出により身延線に転属。この時、静岡局の電動車偶数向き、制御車奇数向きの方針により、奇数(上り)向きに方転した。002と009は飯田線に転属したが、002は3扉化の上、クハ68200となり長岡区に転属。009のみが伊那松島区に残り、昭和58年8月に行われた、お別れ運転の先頭に立った。

 

クハ47001/昭和6年日車製、本来47009を掲示すべきであるが、良い写真がないため、トップナンバーの001を掲示した。(昭和48年5月6日 富士電車区)

2.クハ47050番台

横須賀線のサハ48を70系進出に伴い、ローカル線に転用するにあたりクハ化したものである。サハ48は28両作られた内、16両がクハ化されている。一部の車両はサハ時代に戦後代用2等車としてロングシート化されていたが、クハ化の際もシートはそのままであった。000番台との外観上の相違は殆どない。074と076は一時期(昭和36年頃)新前橋区に配置され、湘南色に塗られてクハ86と同様に使用されていた。鉄ピクNo.768(2005/11)のP38に準急「軽井沢号」(上野~横川間・横川~軽井沢間はバス連絡)に使用中の写真が掲載されている。

余談になるが昭和36年7月、安中市の新島 襄先生の所縁の場所を見学する学校行事があった。大阪14時55分発姫路発東京行の普通列車(144レ)で出発、当日中に東京に到着すると思ったら大間違いで、到着は翌朝の4時51分であった。ちなみに現在では15時発の新快速で出発すれば楽々当日中に到着する。上野から快速新前橋行に高崎まで乗車。車両は3枚窓のクハ86で、停車駅は赤羽、大宮、熊谷、深谷、本庄、高崎あった。車窓から畑ばかりの関東平野を見て、関西との違いを実感した。この時、上野駅で湘南色のクハ47とサハ48を見て、「何だ、これは」と思った。

クハ47069/昭和6年汽車会社でサハ48015として製作、昭和31年日車支店でクハに改造。(昭和48年3月26日 伊那松島)

クハ47070/昭和6年に日車でサハ48010として製作、昭和31年東急車両でクハに改造。(昭和52年5月4日 沢)

クハ47071/昭和6年汽車会社でサハ48017として製作、昭和31年汽車会社でクハに改造。昭和43年8月29日、平岡付近を走行中に崩壊した土砂に乗り上げ事故廃車となった。画像は豊橋区で湘南色の時であるが、廃車時の所属は伊那松島区であった。(昭和41年3月23日 中部天竜)

3.クハ47011

昭和27年豊川分工場で、昭和25年8月身延線内船~寄畑間のトンネル内で失火全焼したモハ30173の改造名義で作られた車両で当初クハ47023を名乗り、昭和34年12月の改番で47011となった。改造とは名義だけで、台枠、車体は完全な新製で座席は当時の湘南形と同じものを使用した。台車は廃車となった豊川鉄道の買収車サハ1、サハ2が履いていたTR11を流用したが、後にクハ16011のTR23と振り替えた。

(昭和40年3月20日 豊橋)

 

(昭和45年11月23日 辰野)

4.サハ48

昭和6年と7年に28両製作され、70系が登場するまで終始横須賀線で活躍した。戦後6両が代用2等車としてロングシート化された。戦災と事故で各4両、計8両が廃車、16両がクハ47に改造され、サハ48として残ったのは、18、21、24、27の僅か4両であった。21、24の2両は一時期宇都宮区に配置され、湘南色に塗られてサハ87と同様に使用され、後に豊橋区に転属し、30番台の4連運用に使用された。18と27は昭和39年2月まで横須賀線に残ったが、伊東線の元クロ49改造の48040、41と共に岡山区に転属した。

サハ48021/昭和6年汽車会社製(昭和48年7月28日 豊橋)

 

サハ48024/昭和7年日車製(昭和48年9月1日 豊橋)

5.サハ45

昭和5年と6年に横須賀線専用形式車として13両製作。戦時中の昭和19年4月、2等車廃止により、4扉化してサハ78に編入する改造が行われたが、沿線に海軍基地があり、要人の乗車を考慮して8月に復活、4、5、7、8、12の5両はサロのまま残ることになった。4扉改造車は4両が戦災廃車となったが、未改造の5両は70系登場後もサロとて活躍した。昭和39年から40年にかけてサハに格下げとなり、4、5、7、8は富士区に、12は豊橋区に転属した。

サハ45012/昭和6年日車でサロ45012として製作、昭和39年8月に格下げでサハとなった。豊橋区では湘南色に塗られ、30番台の4連運用に使用されたが、後に富士区に転属した。(昭和43年4月4日 豊橋)

【質問に答える】

【1487】でH.Kさんよりの質問の回答

.1 関西の国電は20m級が基本であったが、関東はおそらく院電からのなごりか鋼製車両や鋼体化車両の時代になっても17m車が作られた理由。

.1 関西地区で国電(当時は省電)が運転されたのは昭和7年12月1日、片町線の片町~四条畷間の電化開業に合わて、省電初の20m電動車としてモハ40、モハ41が作られた。鉄道省が半鋼製車を製作したのは大正15年で、東京地区では昭和8年前期のモハ33、モハ34まで17m車で作られた。これは車両基地の設備の準備が整っていなかったことが原因とされ、この問題が解決した8年後期からは20m車が投入され、以降は17mの新製車はない。鋼体化車は50系のことと思われるが、17m木製車の台枠以下の下回りを始め、使えるものを流用して作られたので、必然的に種車と同じ17m車になる。戦時中の昭和19年度から20m車化することになり、クハ79001~025の25両が計画されたが完成したのは8両であった。当件については、昨年11月に発売されたネコ・パブ社のRM LIBRARY「鋼体化国電モハ50系とその仲間たち」に詳しく解説されているので参照いただきたい。

クモハ11307/昭和8年新潟鐵工製、両運のモハ34036として誕生、昭和19年5月大井工機部で片運改造でモハ33018、昭和28年6月の改番でモハ11307となった。(昭和43年4月7日 弁天橋)

.2 横須賀線の電車化に際し初の2扉大型電車が作られたが、T車、Ts車、Tc車が20m級の設計であったのにMcのモハ32形(後のモハ14)はなぜ17級で作られたのか。

.2 モハ32形が作られたのは昭和5年で、当時20m車体の電動車は昭和3年製の大阪鉄道デニ500形(後の近鉄南大阪線モ6600形)位しか存在せず、車体延長による重量増加に対する従来の主電動機(MT15A)への不安、台枠、床下機器配置の新設計が間に合わなかったこと等が理由とされている。

.3 クハ77とモハ62は身延線用に作られた限定車両と推察されるが買収車や他の17m級国電を配置換えせずにわざわざ異端の新製車を作る理由はあったのか。

.3  身延線の前身、富士身延鉄道は、運賃が日本一高いと言われながらも赤字続きの経営難で、昭和13年10月1日国営に移管、昭和16年5月1日「輸送力増強をはかるため十分な改良を加えたい」という名目で買収された。(赤字の原因は、建設費及び電化工事費の多額の借入金金利の支払いと思われる)富士地区には、大規模な製紙工場や肥料工場があり、これらの工場が軍需産業への転用に伴う通勤者の激増で車両増備の必要性に迫られていたが、時節柄、電車運転線区は全国的に同じような状況のため、他線からの転用もままならず、鋼体化改造車の一部を身延線用に振向け、セミクロス、トイレ付きで製作したものと思われる。その意味ではこの車両も転用車である。


【1675】汽車住宅物語を拝借して

西村氏の投稿画面を見て驚いた。鋼製車体の元電車らしい汽車住宅ではないか。こんな電車があったのかな? あれば知らない電車となる。時代は戦後、老人の目の届くところでこんな電車が走っていたのだろうか。鋼製車体にリベットがあるが、大正時代でも、終戦直後のものでもなさそうだ。扉窓の下線が客室部分より低く、扉部の客溜まりも客室より低いようだ。台車はブリル21E、モーターは高床車用のものなのか。正面窓の巾は狭いようだ。と言うことは車体巾2m位? ならば軽便電車規格かな、と解釈してみた。ここまで頭に画いて地図を出し、若い頃の日本の電車を思い出してみた。思い当たるものがない。仙台市電43形についてひねくりまわした時もこんな電車は考えつかなかった。第2次世界大戦中、鋼製車体は完成したのに電装が出来ず、達磨さんとなっていたものが各地にあったとか。京都市電600686695の車体は九条車庫に戦中に搬入されたが、終戦を迎える迄そのままであった。仙台市電43形増備車3両は戦後になってやっと陽の目をみて、秋保と伊予で職場にありついた。こうしたことが実現できなかった汽車住宅がどこかにあったのか。

 大戦中の日本鉄道界のことを回想してみた。統制品である鉄道車両は武器の一つに位置づけられ、軍需工場や鉱産物採掘地帯での輸送用以外の新造は認められなかった。そこで先ず、軽便規格から目をつけたのは東武鉄道日光軌道線である。ここには戦時中、大分交通別大線から木造4輪電動車が送られていた。これを鋼製車体に取替えのためのものかと思った。早速ピク135号を探し出してみた。別府形テ20形3両、簡易鋼体化の車体はダブルルーフのまま。関係なし。別の戦時形5両はシングルルーフの木造車で、窓配置、数も異なり2段窓である。5両共に戦後、部品をかき集め電装したとある。全て当て外れとなった。考え直さねば……。

 

西村氏から汽車住宅物語が送られてきた。表紙絵の説明では「写真は1950年代の栃木県日光市にあった電車住宅を撮影したものである」とある。当たりである。だがピク135号掲載の写真に該当する電車が見当たらない。老人が初めて日光を訪れたのは1958年春のことである。この時すでに開業以来の旧型車は、1953年新造の100形、1955年新造の200形に取り換えられており、なにも残っていなかった。もう一度ピク誌の小林さんの紹介記事と写真を点検してみた。トレーラー、ハ5761の車体形状がもう一つ分からない。昭和4年汽車会社製造のボギー車となっている。これではないかと思ったが、確証がない。どなたかご存知の方、老人の探求欲を叶えさせ毛下さい。御願いします。

 

125日、長岡天神駅で2238分発河原町行きを待っていた。目の前に停車した梅田行き快急は93058Fである。耳にした話では9300系は6本で終わりだとか。

4本目からロングシート部の背もたれが50ミリ高くなり、最初に乗った時に気になった「しゃっくり」も収まり完成度は高くなったと思っている。細かいことを取り上げるといろいろ言いたいが、少なくとも京阪3000系より、老人の評点は高い。

 1年前にニュースを入れた都電の新車、2年度で5両を2回の新造。これで7500形を追放するのだそうだ。何時登場するのか聞き忘れた。

 伊予鉄に貰われの井の頭線3000系の残党、VVVF化して海を渡るのだとか。

 今回も写真がなくてごめんなさい。


【1647】EF55 さよなら運転

1月19日の【同軌講717】でロギング太郎さんよりご報告の通り、1月18日の「さよならEF55横川」号をもって営業運転を終了した。10月18日【738】でEF55の営業運転終了についてお知らせをしたが、最終日には是非見送りたいと思っていた。「さよなら運転」は12月に5回、1月に入って5回、計10回行われ、そのうち3回出かけたので、その時の模様等をお知らせしたい。

12月13日(土曜日)

この日は「さよならEF55みなかみ号」として高崎~水上間を運転された。たまたま高崎で仕事があり、先方とのアポが11時のため、新前橋~井野間で撮影した。赤羽駅7時過ぎの電車で出発したが、車内は一目で「鉄」とわかる乗客でほぼ満席、団塊の世代位の人が多く、中には「親子鉄」とおぼしき人もいた。高崎で107系や115系を少し撮影後、新前橋まで行き、井野寄りの陸橋で撮影した。EF55は単機で「磐越物語」用の12系客車を引いて通過した。時間があればもっと奥まで行きたかったが、今回はここで我慢せざるを得なかった。翌14日は水上まで行く予定をしていたが、朝から悪天気のため断念した。この日の水上は吹雪であったそうである。

 

         「さよならEF55みなかみ号」 新前橋~井野

1月16日(金曜日)

この日は、翌日上野発横川行で運転される「さよならEF55碓氷号」の送り込みが行われた。先頭にはEF641001が立ち、EF55は次位であることは判っていたが、たまたま休みが取れたので出かけた。赤羽駅を7時過ぎの電車に乗ったが、沿線には早くもカメラの列が見られた。取りあえず岡部で降り、通称「岡・本」で撮影しようと思ったが、激込みの様相であったので、深谷方面に戻った陸橋で撮影することにした。通過まで2時間以上もあるのに陸橋上には、すでに20名位の人がいた。電車や貨物列車が結構頻繁に通過するので退屈はしなかったが、電車にカメラを向けていた人は殆どなく、貨物列車にも無関心の人が多かった。人それぞれであるが、大半の人は「送り込み列車」の撮影のみが目的なのだろう。通過時刻が近付くにつれて、ますます人が多くなり最終的には80名位になり、パトカーが巡回する始末であった。

 

   翌日上野発の営業最終列車「さよならEF55碓氷号」の送り込み列車

 

                   赤羽駅通過

1月17日(土曜日)

この日は、上野発のEF55の最終日であった。EF55は戦後長く高崎線で活躍し、いわば「高崎線の機関車」であったので、以前から高崎線内で撮影しようと思っていた。(但し高崎線内は逆光)昨日と同じ電車で出発したが駅のホームの端や沿線には早くもカメラの砲列ができていた。どこで降りるか迷ったが、結局昨日と同じ岡部~深谷間の陸橋の反対側から撮ることにした。この場所は光線状態が今一つのため、人出は20名位であった。多くの人は順光で撮影できる信越線内に行ったのであろう。

その後、帰りの回送を撮影するため、信越線に移動した。群馬八幡で降りて、安中方面に歩き、碓氷川の「お立ち台鉄橋」の手前まで行ったが、今一つパッとしないため、結局引き返し、駅の近く踏切で撮影した。また、この日は、総本家青信号特派員さん、ロギング太郎さん、早川昭文さんが安中~磯部間で撮影され、その後、新島 襄先生の生家を訪ねられたそうである。ちなみに私は京阪沿線の中学校の時に「安中教会」と共に学校行事で訪ねている。撮影後、時間があるので久しぶりに両毛線を回って帰ろうと思い、211系5連の小山行きに乗車した。途中の下新田の車両基地には京浜東北線から引退した209系が4連と6連に組み直されて数本停められていた。トイレを設置して107系と115系の置換えに使用されると言われているが明らかにサービスダウンである。小山到着後、日光線の107系を見て帰ろうと思い宇都宮まで行ったが、発車まで30分以上あったので一旦駅の外に出た。宇都宮駅前には、地元資本の関東自動車、東武系の東野交通、JRバス関東の3社の路線バスが乗り入れているが、本数は関東自動車が圧倒的に多い。その関東自動車につい最近まで大阪市内を走っていた大阪市バスが入っておりビックリ。その他、元都バス、横浜市バス、川崎市バス、中扉両開き引き戸の京浜急行バス等が入り乱れて走っており、バスの博物館の様相を呈していた。話が横に逸れるが、7年位前は、関東自動車に元京阪宇治交通、東野交通に元京阪バスがおり、宇都宮駅前に両車が並び、樟葉の駅前のような光景が見られた。バスに見とれているうちに暗くなり、日光線は諦めて通勤快速で帰途に就いた。

         在りし日の思い出の高崎線を走る  岡部~深谷間

 

             折返しの回送列車   群馬八幡

1月18日(日曜日)

いよいよ営業最終日となり、赤羽をいつも電車で出発した。何処で撮影するか迷ったが、光線状態等を考慮し、安中~群馬八幡間の「お立ち台鉄橋」にした。今日は総本家青信号特派員さんが来られている筈で、高崎駅到着直後に携帯に電話すると「今コンコースにいる。同じ電車に早川さんと山川さんも乗っている筈」とのこと。エスカレーターを上がると特派員さんがおられ、暫くすると早川さんと山川さんとも合流することができた。満員の横川行(107系2連)に乗り、安中で下車。かなりの人が降りたが、行き先は全員「お立ち台鉄橋」である。約15分歩いて到着すると、既に150名位の物凄い人であったが、撮影場所は確保した。10時50分、定刻に営業運転の最終列車が通過した。上りの回送列車は、新島学園の先で撮影しようということになった。ここから現地までは4キロ以上の距離があるが、喋りながら歩いていると時間の経過を忘れてしまう。15人位の先客がいたが、なかなか良い場所であった。エンジン付きのパラグライダーで空から撮影していた人がいたのには驚いた。やがてDD51の引く回送列車の最後尾のEF55が目の前をゆっくりし通り過ぎて行った。

駅に戻り、「碓氷峠鉄道文化村」に行かれる、早川さん、山川さん、総本家青信号特派員さんとお別れして帰途に就いた。

久しぶりに皆さんと一緒に撮影して、楽しい一時を過ごさせていただき、時計の針が40年前に戻ったような日であった。 

             群馬八幡~安中(通称お立ち台鉄橋)

 

          安中~磯部間を行く最終営業列車の回送

かくしてEF55の「さよなら運転」は終了したが、自分でも不思議に思うくらいに拘った。昭和61年7月、営業復活運転の初日に撮影したことが原因かも知れない。

EF55に続く後ろの客車がいただけなかった。茶色の客車が既にないのならば致し方ないが、スハフ32、スハフ42、オハ47、オハニ36が現に在籍しているにも拘らず、12系が使用されたのは残念であった。昨今の諸情勢を考慮すると、安全性の見地から仕方がなかったのかも知れない。

EF55は、今回の復活運転に際し、大宮工場に入場して相当なお金と手間ひまをかけて整備をしており、このまま鉄道博物館に入れてしまうのは実にもったいない。もし、可能ならば、旧形客車を引いた元気な姿を再度見たいものである。

[番外]西北の杜号

平成5年3月7日早稲田大学鉄研の創立40周年記念列車で、上野~水上間を往復した。全区間EF5869が引き、高崎~水上間は先頭にEF551が連結された。編成は次の通りである。

←水上 EF551EF5889 +スハフ322357+オハ472261+オハニ3611+オハ472246+オハフ332555 (EF551は高崎~水上間のみ)

                  新前橋~群馬総社


【1644】掲示板記事が『レイル』に載る!

このたび発売されたプレス・アイゼンバーン『レイル』67号に、当クローバー会の重鎮、藤本哲男さんによる「法勝寺訪問記」、「山陰本線の客車たち」が24ページに渡って掲載されています。
特集テーマ「米子」にちなむ掲載で、「法勝寺」は昭和42年の自身の訪問記が記され、「客車」は山陰本線京都駅に出入りした客車が、藤本さん独自のカメラアイで綴られています。
「法勝寺」と聞いて思い出すのは、この掲示板に載った藤本さんの法勝寺の記事、そう、事の発端は、この掲示板を見ていた出版元のM氏が、須磨の老人を通じて、原稿依頼されたのが真相なのです。掲示板もクローバー会だけの連絡網でないことを改めて実感しました。趣味界のオピニオンリーダーもしっかり閲覧しているのです。
この出版の話を聞いたのは、先日、信越線へEF55の撮影に藤本さんと同行し、列車の通過を待っている間でした。鶴首して待っていた特派員は、昨日書店で発売を確認、値が張って普段は立ち読みで済ますものを、真っ先に買い求め読みふけりました。特派員も同じ年に法勝寺を訪れており、たいへん懐かしい気持ちでした。
同誌の「あとがき」で客車の例をとらえて、M氏は「日常のこまめな記録の成果」と述べています。事実、掲載されている客車は因縁のある車輌ばかりで、相当通い詰めなければ撮れないものばかりです。このスタイルを小学校の時から貫いてきた藤本さんは膨大な記録をお持ちです。掲示板でもすでにお馴染みですが、さらに出版界でもその一端が窺い知れたのです。

買って読もう『レイル』67号

 


【1616】DD16とEF55 そしてまたもや江若

       ぷるぷる様

EF55とDD16の完成ご同慶の至りです。DD16は私も多分同時期に買って いまだに完成しておりません。この調子でゆくとレールの上を走る日は来ないような・・・。    EF55もみごとな出来栄えで 工場長の力量に感服しきりです。あの台車を自作する元気は私にはとてもとても・・・。昨今は 度々この掲示板をにぎわしております江若鉄道シリーズの粗製乱造の一環として 先日キハ07キットの改造でキハ5124が一応出来上がり、現在キハ12にかかっているところです。特にキハ12は あの独特のマスクに手こずりました。屋根の曲げに失敗し、たたいて直しているうちに戦災復旧の70系客車のようにボコボコになって これからゴマカシ修理が必要です。これが終われば 次には仕掛かり中のオハ27 3両を完成させて復活シリーズは小休止しようかと思っていた矢先、Yahooオークションでキニ9のエッチング板が手に入りそうなので キニ9までやっつけようか、さりとてあの多くの窓抜きはうんざりだし・・・といったような具合です。そして車両復活はこれぐらいにして いよいよ高島町駅の復活に手をつけようかとネタ集めをしております。先輩諸氏からのアドバイスのおかげで まず日野BT31バスの図面ができました。そのうち 初めてのバス製作もやってみようと思っているところです。ジオラマ製作は全く経験がなく、わからないことだらけだけに かえって楽しい時間が過ごせそうです。それでは 橋本工房さんのご盛況ぶりに刺激されて当方も工場長の尻をたたくことにします。                         


【1608】守口の廃車体 ほか1点

拙老の投稿に早速反応があり、気をよくした老人は時間に追われ多忙中(極めて稀にそんな時もある)にも拘らずいそいそと次なるスキャンに取り掛かった。今度は住宅でなく、京阪守口にズラリ並んでいた廃車体である。番号は控えてあるが、二重三重に記されたものもあり、落書き?と思しきインチキ番号もあった。禿筆を以っていい加減な事を書くより、解説はそれこそ乙訓老人の出番であろう。撮影は1955年9月22日。

もう1枚。これは京阪と全く関係がないが、1958年3月27日伊田、ハ2618だったと思うのだが、こんな廃車体があり、半世紀たった現在でも印象深いので押し付けご紹介に及ぶ。これは2本通ったロッカーレール(縦梁)のみが鋼材、端梁は木材で、車体は鋼材上に根太を組み、隅柱、間柱を立て、その上部は長桁で押さえ、と全く当時の木造建築物同様の構造車体である。廃車時売れる鉄は外し端梁を残したが、その高さ分下に古枕木でもかましておけばいいものを、宙ぶらりんにしたから、当然ながらかくも見事に湾曲した、と推定。ごく当たり前の、但し屋根は食パン風ダブルルーフ(雨漏防止で多少加修している)の側戸式3等車である。