【2084】これなんだ?教えて下さい!

雨のそぼ降る午後、ある新刊をもって会長・乙訓の老人を訪ねた。会長猊下はいつもの玉座に鎮座まします。

実はこの本は3月からDRFCクローバー会に入会する法学部法律学科78年度生・上原正英氏の作品である。これを会長猊下にご高覧頂きたくて訪問したのである。会長猊下はぺらぺらと一瞥して後、「余はその昔、推理小説に熱中したものである。最近のものはあまり面白くないではないか」「畏れながら申し上げます。猊下はどのような作家をお好みでしょうか?」「よい質問じゃ。余は松本清張、横溝正史、江戸川乱歩、鮎川哲也などを好む」「畏れながら有栖川氏は鮎川哲也の弟分でございます」「なに?では読んでみよう」てな具合であった。

そのとき、長老猊下は表紙を見た瞬間、「この車体は●●鉄道の○○や」と即断を下された。《そんなこと、ほんとに分かるのかいな~?》と思わず疑いましたがなにせこの世界では伝説の方、確認したくてこっそりと皆様にお尋ねする次第です。

この車体の出自をご存じの方、教えていただけませんか?

なお、献上した本は私が先輩であることをいいことに作者にサインを入れてもらって買った本であり、決して巻き上げたりしたようないかがわしいものではないことを明言しておく。


【2065】門鉄デフのD50

以前の澤村達也さんのコメントに「門鉄デフのD50のバラキットを持っているので、参考になる現物機を紹介してほしい」とのご要望があり、また紹介しますと約束してから、もうかなりの日数が経ってしまいました。やっと該当するネガを探し出すことができました。 

門鉄デフはC55・C57に代表される旅客用蒸機がとくに有名ですが、D50・D60のような貨物用の太いボイラーを備えた蒸機に装備すると、まるでゼロワンを彷彿とさせるようなスタイルになり意外と似合うものです。私が蒸機を本格的に撮り出した昭和40年代の前半、D50の総数380両のうち、昭和42年度は63両、昭和43年度では21両と急速にその数を減じていきます。そのうち、撮影できた25両のなかで門鉄デフ装備は7両に過ぎません。うち1両を除いて、門鉄デフの本場、北九州に在籍していました。いずれも分類上、K-7形と称される小倉工場製の切り欠きデフですが、デフそのものの大きさは機によって少し違います。63,129、374は除煙板が比較的小さいタイプ、これに対して105は大きなタイプ、また62,90は除煙板の下辺が斜めになっています。

 

 

北九州以外のもう1両は、米原区のD50131でした。この機は長野工場製の切り欠きデフN-2形で、形はだいぶ違います。米原~田村間の交直接続に、他のD50とともに使用されていましたので、ご覧になった方も多いと思います。

模型化の参考になれば幸いです。  

 

大分区で出区待ちの05062(大)は大きな切り欠きデフ

 

門司区で見かけた〔柳〕のD5063 オーソドックスな門デフを装備

石炭車を牽いて筑前垣生のカーブを行くD5090〔若〕

電化工事の進む大分区でのD50105〔大〕。大きな切り欠きデフを装備

煙だらけの門司区で休むD50129〔柳〕は標準的な切り欠きデフ

最終ナンバーに近いD50374〔柳〕は休車中

D50131〔米〕は長工式、交直接続で活躍

 


【2042】栄書紹介

このたび、和久田康雄さんの「日本の市内電車ー1895‐1945-が成山堂書店から上梓された。20日夕、配達を受け「はて、なにを送っていただいたのか」と思ったが、孫に「じっちゃん、嵐電しょう」とねだられプラレールの組み立てを手伝った。気になる図書を開いたのは深夜3時30分になってからのことである。(するっと関西のおもちゃはすべて嵐電となっている。)

紐解くや、「これはこれは」となった。安楽マニアの老人には、とても嬉しい内容が満載されている。和久田さんは東京大学在学中に学内図書館にある鉄道文書に着眼され、私鉄関係について筆写され、それをまとめ鉄道ピクトリアル誌で連載された。それは世の私鉄研究の原本になり、われわれは教本の一つにしてきた。のちに「私鉄史ハンドブック」となり、私鉄史研究者の参考書となっている。これに加え統計資料から考察を加え、われわれが知りたかった車両群解明の手掛かりを提供された。

かねて現役引退後、「公文書閲覧で国会図書館通いです」とおっしゃったことがあり、須磨の大人、名古屋の朋友:重軽氏から「図書館で出会った」と聞かされていた。学生時代から後期高齢者になられた(なる?)この年まで、われわれに常に情報を提供し続けられた和久田さんに国民、いや鉄路栄誉賞をささげたいと思っているところである。

申込みは〒160-0012 新宿区南元町4番51 (株)成山堂書店 TEL:03(3357)5861、FAX:03(3357)5867 出版案内を貰えるようになると、料金、送料が後払いOKとなる。今回は本体3,570円 送料390円 計4,060をご用意ください。


【2029】前歯健造君は生きていた!

今日、40数年の時空を越えてあの「須磨のガイコツ」前歯健造君から電話がありました。声だけを聞けば学生時代と変わりません。

実は以前から前歯氏についてよからぬ噂が流れていました。それは彼が「クローバー会には入らん」と言ったきり姿を消して、以来ようとして行方が分からなくなった。雨の降る山間の駅の待合室でオリンパスペンEEを磨いていたとか、北海道の線路端でオリンパスペンEEで写真を撮っていた、とか噂が出ていましたが、その後途絶え数十年が流れてしまったのです。

だまされやすい純粋な性格のため、小海線がいい、と岩波さんに言われると「小海線を愛する会」に入り、客車はスハ43がスバラシイと中林さんに言われると「急行つるぎを愛する会」を創り、カメラはハーフサイズがいいと宮本氏に聞かされるとオリンパスペンEEを買ってきてずっと愛用していました。

そんな彼がなぜかたくなにOB会である「クローバー会」にはいるのをいやがり身を隠したのか積年の疑問でした。そんなとき東京特派員の鬼太郎さんから新宿の居酒屋で前歯さんに会ったとの連絡を頂いたのです。教えてもらったアドレスは会社のものでした。北京特派員の陳さんに相談したら「会社のアドレスへ個人でアクセスするとリストに載せられてあとでひどい目に遭わされるから気をつけろ」とまるでアダルトサイトでひどい目にあったような用心深さです。まさかとは思いましたが用心に越したことはないと売り込みを装いメールしてみました。その返事が先ほどの電話でした。

鬼太郎特派員のねつ造記事で誤解しておりましたがOB会には参加しているとのことでした。ただ、須磨の自宅は早くに引き払い金沢文庫にいるので関西に行く機会がなかったこと、会社のアドレスしかないので書き込みが出来なかったこと、でも子会社に監査役で行ってからは少し自由になって、この4月からさらに転勤するのでこれからは関西出張もありそうなのでぜひ会おうと話してくれました。今後は東京支部の集まりには出席しますと約束して電話を切りましたが40数年の時空は一瞬にして消え去ったのです。

やっぱりDRFCの仲間はいいものですね!


【2002】CRHの旅Ⅲ Part5 上海鉄路博物館

ひと休みをしたらもうお昼です。南京路の食堂に入って、大好きな上海名物、スープの入った小籠包を食しました。広州の飲茶料理にもありますが、551の豚マンサイズの大きな小籠包は、上海だけです。スープを飲むために、ストローを付けた店もあります。

南京路を散歩して、地鉄人民広場駅に向かいました。春節のお祝いに広場では、今年の干支の、大きな金色牛のモニュメントが、展示されていました。ホテルや商店も春節向けの、綺麗な飾り付けが、施されています。

『上海鉄路博物館』は、宝山路駅近くの元上海北駅跡にあります。1号線で、一旦上海駅下車して、駅反対側にある3・4号線の高架駅に乗り換えます。朝と違って、鉄道駅は大混雑です。
駅正面の売店で、時刻表を探し求めますが、ありません。日本のように街中の本屋では、売っていません。駅構内に入らなければなりませんが、混雑する時は、切符を見せないと入場させてくれないので、訳を言って入場しました。
全国統一版時刻表の他に、北京、上海、天津等の大都市には、オリジナルバージョンがあるので、行く度に購入しています。

高架軌道車窓からは、全国各地へと向かう夜行寝台列車の、オンパレードの上海客車区が見る事ができます。

1つ目の駅が、宝山路駅です。高架ホーム窓から、『上海鉄路博物館』を確認してから、向かいました。徒歩、約10分で到着。休館日と思っていましたが、開館しています。以前は、週3日間の開館でしたが、変わったようです。

SN26蒸気機関車 600mmゲージ 全国でも3両しか残っていない貴重な文化遺産 車体長14.85m、空重量31.64t、動輪直径711mm、動輪配置 0-5-0式  雲南省の山岳路線で使用されたと思われる。                        

現在の営業日は、毎週、火曜日~土曜日です。但し、開館時間は、午前9:00~11:30、午後14:00~16:30となっています。以外の時間は、閉館退場ですので、ご注意下さい。また、変更もあると思いますので、行かれる方は、下記のHPで確認して下さい。
公式サイト:http://www.museum.shrail.com/

中国で、初めて鉄路が開業されたのは、上海でした。上海~呉松間14.5キロ、762mmナローゲージ、1876年12月1日全線開通しましたが、西方列強による不当な建設だった為に、1877年10月清政府により、廃線させられました。

その後、この呉松鉄路の旧路線3分の1を利用して、淞沪鉄路が、上海~炮台湾間16.09キロ、1898年8月5日に開業しました。この鉄路跡は、1997年4月に開通した上海地鉄明珠線(3号線)として今も利用されています。

北京鉄路博物館と比べると、スケールは比べようもなく小さく、展示車両も3両でしたが、以前の上海北駅を新しく復元した博物館内の展示は、シュミレーションをはじめ、ボリュームもあり、説明も充実していています。上海を中心とした鉄路の歴史をじっくりと楽しめました。上海に行かれる方は、是非の訪問をお勧めします。

宝山路駅前には、上海の秋葉原があります。PC周辺機器等、数100軒以上の店が集まっています。バッチ物と思いましたが、SONY製USBメモリー、信じられないでしょうが、何と360GBも売っていました。36GBでは、ありません。
初めは、300元以上を提示してきますが、しぶとく交渉すると70元(約1,000円)には、なりました。今でも、ちゃんと使用できます。動画等の大容量DATAを持ち歩くには、役に立っています。

こんな面白い物が、結構ありますので、『上海鉄路博物館』へ行かれた折は、是非ここへも寄ってみて下さい。
明日の日本へのフライトは、17:30です。オープン以来まだ行っていない上海南駅に行く事にしました。


【1988】「汽車住宅物語」に寄せて

西村雅幸さんが書き込みされた1月16日付【1572】「汽車住宅物語」の表紙の車両について、乙訓の長老より東武鉄道日光軌道線のハ57形ではないかというご指摘があり、RP誌135号の写真からほぼこれに間違いないというところまで来た。しかしながら写真は電動車テ17の後部に連結されているもので、サイズも小さく今一つ不安があった。もっと鮮明な写真がないものかと探したところ、一昨年東武博物館で購入した一冊の本のことを思い出した。東武鉄道OB岡 準二氏の遺作写真集「なつかしの鉄道とバス」というタイトルの本である。もしやここに載っているのではないかと思い見た処、テ11に牽かれたハ57の美しい風景写真が掲載されており、扉の形状、窓のサイズ、扉上の水切り等が表紙の写真と一致し、ハ57形と確定できた。

ハ57形について改めて書くと、昭和4年汽車会社製の半鋼製ボギー車で、57~61の5両作られた。牽引する電動車はテ10形で昭和4年日車製の半鋼製2軸単車で、10~19の10両作られた。昭和28年に宇都宮車両で100形(101~110)が一気に10両新製、翌昭和29年には宇都宮車両と汽車会社で200形連接車(201~206)が3編成作られ、従来の電車は事業用として残されたテ12を除き全車廃車となった。RP誌135号にはハ57形の廃車年月は書かれていないが、100形の登場した昭和28年度に廃車されたと思われる。「汽車住宅物語」の表紙の住宅は、その直後と考えられるが、終戦直後の混乱も一先ず落ち着き、住宅不足とは縁がないと思われる日光のような山間の観光地に、電車の廃車体を利用した住宅が作られたことは誠に興味深い。古川電工の増産に伴う就業人口増加による住宅の供給が間に合わなかったためであろうか。いつ頃まで存在したのかは勿論不明であろうが、昭和30年代の終り頃まで存在していれば、或いはファンの目に触れていたかも知れない。

11日、HPを開けたところトップページが岡山電軌に変わっており、最初に出てきたのが日光軌道線時代の塗装に変更された3005号車、次はKUROの3007号車であった。893-2さんが「汽車住宅物語」の話題に合わせて変更されたものと思われるので、日光軌道線から岡山電軌に至るまでの流れを簡単に書いてみたい。

昭和28年に車両を一新した日光軌道線であるが、東照宮のみ見学する場合はともかく、中禅寺湖、立木観音、湯元温泉まで行く場合、軌道線を利用すると終点の馬返しでケーブルカーに、更にケーブルカーの終点、明智平でバスに乗換える必要があった。一方、バスは日光駅から中禅寺湖を通り湯元温泉まで直通で運行され、観光客が乗換え不要のバスに流れるのは自然の成り行きであった。それでも沿線の古川電工の貨物輸送のために運行が続けられていたが、こちらもトラック輸送に切り替えられたため、遂に昭和43年2月24日限りで廃止となった。

廃止後の車両の行方であるが、100形は10両全車揃って当時単車のボギー車化を進めていた岡山電軌に譲渡、連接車の200形は大き過ぎるためか、引取り手がなく東武博物館に保存された203+204以外は解体された。また、電機のED611は栗原電鉄に譲渡され、同電鉄廃止後は栃木県の個人宅に保存されている。

岡山電軌では3000形3001~3010となり、ビューゲルから岡電式パンタに取替え、方向幕の移設、後にワンマン化が行われ、同社の主力として活躍したが、平成2年から冷房車と代替で廃車が始まり、現在残っているのは3005、3007、3010の3両である。(それ以前に3001が昭和48年10月に事故で廃車になっている。また、日光時代の旧車号は順に102、105、106、107、110、104、108、101、103、109である)3005は平成17年4月、日光軌道線時代の塗装に復元、3007は平成16年11月、烏城と呼ばれる岡山城のイメージに合わせて黒を基調とした塗装に変更、3010はデザイン賞受賞作品のチェック模様となっている。3005と3007は夏季以外は定期ダイヤで運行、3010は予備車となっているが、各車両とも夏は運転されない。

日光軌道線は、現役時代の昭和42年3月と翌年1月の2回訪問したが、いずれも神橋の鉄橋と国鉄・東武日光駅前での撮影に終わっている。亡母から「日光に行くのやったら菱屋の羊羹を買うてきて」と頼まれた。加えて昭和43年1月の時は東照宮境内に売っている「お札」の購入を頼まれ、ついでに東照宮を見学したため、肝心の電車撮影の時間が大幅に削減されてしまった。

 

101  昭和42年3月25日   神橋鉄橋 

 

104  昭和42年3月25日    同

 

110  昭和42年3月25日    同

 

110  昭和42年3月25日  国鉄日光駅前

 

110  昭和42年3月25日    同   (バックの山は男体山である)

 

3004(旧107)  昭和44年3月18日/本や資料によっては、全車両入線時にワンマン改造をしたように書かれているものがあるが、それは間違いで写真のように当初はツーマンで入線している。

 

3003(旧110)  昭和44年10月22日/ワンマン改造されているが、出入口の表示からも判るようにツーマンで使用されている。

 

3009(旧103)  昭和44年10月22日/この車は平成14年廃車後、栃木県のファン宅で保存されている。

3006(旧104)  昭和46年7月28日