【2389】2009年青春18きっぷの旅Ⅱ 急行『つやま』

3月14日の時刻改正前は、連日ブルートレインへの別れのニュースが全国に放映されていましたが、もう1つ忘れてならない列車がありました。

我々が貧乏学生だった頃、周遊券等で度々利用した急行列車、それは、鉄道旅行には、欠かせない存在でした。2009年3月13日は、最後に残った昼間の急行『つやま』が、消える日でもありました。

天気予報では、最終日は、どうやら雨模様です。12日朝、起きると、快晴です。1日早いが、もう行くしかありません。青春18きっぷで、一路岡山を目指しました。

岡山までは、新旧いろいろな電車が行きかう。

① 長岡京8:39(快速735T)→9:06新大阪 223系
② 新大阪9:09(新快速3423M)→10:17姫路 223系12両
③ 姫路10:38(普通957M)→11:09播州赤穂 223系4両
④ 播州赤穂11:49(普通1915M)→13:03岡山 クモハ114-1098+クモハ115-1505
⑤ 岡山13:13(快速3936D)→14:21津山 キハ47-44+キハ47-1128

コケティシュな亀甲駅

既に急行『つやま』は、出発した後でしたので、次の快速『ことぶき』で、撮影地のロケハンをしながら、追いかけました。
旧津山扇形機関車庫に、キハ48-6+キハ48-1003が、折り返し待ちをしていました。

ふと、津山駅内でパンフレットを見ていると、この由緒ある機関区見学は、通常土日祝日ですが、明日金曜日に限って、13:30~15:00公開と掲載されています。

ダメもとで、電話をかけましたら、まだ余裕があるというので、迷わず明日の予約を入れました。
岡山に向かう『つやま』の撮影地は、迷った末、岡山に帰るのに10分おきにバス運行があって、便利な牧山~玉柏間に決めました。


⑥津山15:15(957D)→16:26玉柏 キハ120系2連
予定より早めに、岡山駅へ着けましたので、留置されているキハ58とキハ28を見学した後、岡山電気軌道のLRT『MOMO』に初乗車しました。


⑦岡山19:16(1332M)→20:41姫路 
⑧姫路20:42(3536M)→22:02高槻
⑨高槻22:06(普通)→22:16長岡京

翌日は、天気予報どおり、朝から雨の1日でした。最終日の乗車のために、早め出かけました。昨日は、赤穂線経由でしたが、今日は山陽線での岡山入りです。

① 長岡京7:24(快速717M)→7:45新大阪 223系
② 新大阪7:38(新快速3407M)→9:03姫路 223系12両
③ 姫路9:10(普通953M)→9:29相生 223系4両
④ 相生9:33(普通1311M)→10:38岡山 115系4両

向いのホームでカメラを構えていますと、折り返し前の運用となる快速『ことぶき』3935Dが、入線してきました。最後の出発ホームとなる9番線は、同業者が待ち構えていましたが、全国区のブルートレインと違って、わずかなファンで、TVカメラも地元OHKの1社のみの、静かな別れのスタートでした。


キハ48-1003+キハ48-6の編成です。最後の日ですので、もしかしたら、キハ58+キハ28の増結があるかもと期待したのですが、かなわぬ夢でした。

急行ですので、ここでは青春18きっぷは使用できません。車内で、記念の乗車券+急行券を購入しました。1,110円+740円=1,840円の出費です。

この日は、車掌が男女各1名の計2名が、乗務していました。定員224名に対して、約半数の109名の乗客と、最後まで寂しい限りです。沿線での撮影者も、殆ど皆無状態でした。

急行つやま号については、鉄道ジャーナル4月号に詳細が掲載されているとおり、津山市のメンツで残した急行列車です。デッキスペースがあるかないかの違いと、1駅停車駅が少ないので、数分速いだけですので、わざわざ740円を支払ってまで、乗車する客は、極めてまれだったようです。

11:13岡山定刻発車。最後の昼間急行内で、思い出に駅弁を食べました。津山は、同じく定刻の12:18に到着です。
車庫見学参加者は、約50名ほどでした。1936年に完成した車庫は、扇形としては、現存する全国13ヶ所中、梅小路に次いで2番目の17線を誇ります。

ただ、残念ながら補修が行きとどかずで、老朽化が進んでいます。後世に伝え残すべき鉄道遺産の1つです。寄付やボランティアの力を借りてでも、最盛期の状態に復元してもらいたいと思いました。

車庫には、量産化を前提として試作、伯備線で使用されていたDE50-1、寝台特急『出雲』牽引機として活躍したDD51-1187、そして四国鉄道博物館より借用中のDE10-1が展示されていました。近々には、戻されるそうです。貴重な写真が撮れました。

機関車は、車庫とは反対に、保存状態は極めて良く、今でも走りそうな様子でした。
職員の方々が、手作りで作られたと思われる展示室にもいろいろと貴重な品々が集められていました、何よりも、案内説明をされている方々が、非常に熱心で好感をもてました。

最後の走行写真は、ちょっと歩いては遠いが、野々口~牧山にしました。昨日は、同じ場所での撮影者は、4名でしたが、ここでは、2名のみ。いずれも近郊のファンでした。
⑥津山15:15(957D)→16:14野々口 キハ120系2連
⑦野々口17:42(959D)→18:09岡山 キハ120系2連

最終出発駅や到着駅でも、恒例の花束贈呈等のイベントもなかったようで、本当にひっそりと長い歴史を閉じた、昼間急行列車の最後でした

⑧岡山18:18(1930M)→19:27播州赤穂 103
⑨播州赤穂19:33(3532M)→21:32高槻 223系
⑩高槻21:36(普通)→21:46長岡京

帰りの列車ダイヤは以上ですが、当日は強風で、湖西線が止まりました。播州赤穂では、折り返しの新快速が、30分以上も延着となり、その後も遅れ続けました。


【2372】少し前の飯田線Ⅲ

(3)- ② 戦前型2扉車 42系

42系は、昭和9年7月20日、吹田~須磨間の電化に伴う電車運転開始の際に新製された電車である。その後、同年9月20日に須磨~明石間、昭和12年10月10日に吹田~京都間と電化区間が延伸され、同時に電車運転区間も延伸された。通称「合いの子」と呼ばれた広窓半流車は、次の流電の項で解説する。

1.クモハ42形

昭和8年電車運転開始に備え13両(001~013)製作された、両運転台付2扉車で、パンタの向きは、002、004、006の3両が偶数向き、その他の車両は奇数向きであった。戦時中の昭和19年に001~010の4扉化、011~013の片運化と3扉化が計画されたが、4扉化が実施されたのは002~004、007、010の5両、片運3扉化は012の1両のみで、実施は戦後の昭和28年であった。42形で残った7両は、昭和25年9月中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属したが、昭和31年に008、009、011、013の4両が飯田線用として豊橋区に、001、006、007の3両が宇部、小野田線用として宇部区に転属。豊橋区の4両は主に快速に使用され、快速が準急に格上げの上80系に置き換えられた後も、主として30番台の4連貫通運用に使用された。2扉、貫通幌付の堂々たるスタイルでファンを魅了していたが、昭和53年に80系300番台投入により運用を離脱し廃車となった。

 

42009   昭和43年4月4日  豊橋   (両端クモハ42で長躯辰野に向かう1227M  

 

42011  昭和43年4月4日  豊橋

 

42013  昭和41年3月13日 本長篠  (前日1227Mで辰野まで行き、その日の内に260Mで飯田まで戻り、1泊後飯田発一番電車646M 豊橋行)

 

42008他3連 昭和54年5月1日 飯島~伊那本郷  (クハユニ56を含む3連の40番台の運用)

クモハ43形

昭和8年から9年にかけて37両(001~037)製作された片運の2扉車で、奇数車は奇数向き、偶数車は偶数向きであった。戦時中、全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。残り24両の内、事故と戦災で5両廃車となり、19両が中央線のモハ51形改造のモハ41形と交換で横須賀線に転属した。昭和26年から性能を70系と合わせるため出力増強工事が実施され、7両が新形式モハ53形となり、残りの12両の内004、007、009、013、015、022、025の7両が飯田線に転属、昭和45年3月、004、022、025の3両が低屋根に改造され身延線に転属した。残り4両は主に伊那松島区の所属し、昭和53年、80系300番台との第1次置換えで007、009、013の3両が廃車、015のみが昭和58年の最終置換えまで生き延びた。飯田線転属後、運転台側の貫通幌が撤去されたため、スタイルは前述のクモハ42形よりは多少劣るものの狭窓、2扉の堂々たるものであった。

 

43007  昭和46年9月25日  辰野 

 

43009  昭和48年7月28日  辰野 

 

43009  昭和48年9月2日  辰野 

 

43013  昭和48年9月1日  伊那本郷  (伊那2号の通過待ちで停車中の257M) 

3.クモハ53形

前述のクモハ43形の出力増強車で、昭和26年から28年にかけて7両改造された。当初は43800番台を名乗ったが昭和28年6月の称号改正で新形式モハ53形000~006となった。旧車号は順に016、017、018、011、020、021、012である。昭和53年2月000、001の2両が伊那松島区に転属し、2両とも昭和58年の最終置換えまで活躍した。クモハ43形同様、運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

53000   昭和52年5月3日  辰野

 

53001   昭和45年11月23日  辰野

 

53001   昭和50年1月2日  豊橋(649M伊那大島行)

 4.クハ47100番台←クハ58形

42系列の制御車として、昭和8年から10年にかけて25両(001~025)製作された片運の2扉車で、全車両偶数(下り)向きであった。昭和10年に唯一両作られたラストの025は半流であった。戦時中全車4扉化が計画されたが実施されたのは13両に留まった。尚半流の025は4扉化された。残り12両の内3両が戦災と事故で廃車となり、残りの9両が昭和25年横須賀線用として東鉄に転属した。比較的早い時期に身延線と伊東線に転属となり昭和28年6月の改番でクハ47形に編入され100番台が付与され、全車車両の向きに合わせて100~116の偶数番号となった。但し、旧番号順ではなく、当時身延線にいた002、003、007、008、018、020、021が100~112に、伊東線にいた014、016が114、116となり、後日、114、116も身延線に転属した。その後、静鉄局の方針で、電動車を偶数向きに、制御車を奇数向きに統一することになり全車両奇数向きに方転された。昭和33年飯田線快速を4連貫通にするため、102、104、108、114、116の5両が豊橋区に転属の上、114、116を偶数向き方転、後に108も方転された。昭和46年3月に伊那松島に転属した104のみが昭和58年の最終置換えまで活躍したが、豊橋に残った4両は昭和53年、80系300番台との第1次置換えで廃車となった。104、116の2両は運転台側の貫通幌が撤去されていた。

 

4710   昭和43年4月4日  豊橋

 

47108   昭和49年8月27日  宮田

 

47104  昭和54年5月1日 伊那市  (茅野発平岡行238Mで、6両で茅野を発車して辰野、伊那松島で夫々2両を切離し、伊那松島~平岡間は2両であった。今は殆どの列車が2両であるが、旧形時代は少なかった)


【2364】1953年3月15日特急「かもめ」処女列車

56年前になってしまったが、この日から東海道・山陽本線に特急「かもめ」が運行を開始した。今では掃いても捨てきれないぐらい日本全国特急だらけで、新幹線や特急に乗らずに旅ができるもんならやってみろといわれているのと同じ。急行が激減し、準急は消滅してしまった。1953年時点の国鉄には、特急と名が付く列車は東海道本線東京―大阪間の「つばめ」「はと」のみ。この「かもめ」が実に敗戦後3番目の特急だったのである。

下りは京都始発8時30分、広島14時15分着、20分発。門司17時54分着、58分発、博多終着19時10分。停車駅は他に大阪、神戸、姫路、岡山、小郡、下関のみ。上りは博多10時00分、広島14時48分着、53分発。京都終着20時40分である。

機関車は処女列車用に綺麗に磨き上げられ、煙室扉ハンドルが梅小路にちなみ梅模様の真鍮磨きだしと御召し並みのC59100だった。スハニ、スハ3両、マシ、スロ3両、最後尾スハフで一等車がないところが「つばめ」「はと」と差がついた。運転局では将来展望車を新製したかった由だが、これは遂に叶わなかった。

このとき小生は高校1年生で、特急とは撮るものであっても、自分が乗るなどとは考えもしなかった。学生時代に国鉄特急に乗車した経験は、北海道均一周遊券が急行料金抱き合わせに改悪された代償に、急行との差額を払えば特急にも乗れるようになり、一番安い名古屋-京都間を、差額特急券という珍券ほしさに一度だけある。ただし電車特急「こだま」だったが。

写真は何れも1953年3月15日の京都発処女列車。今なら大騒ぎの押し合いへしあい、怒号が飛び交うところだろうが、この時は「何人か」は撮影に来ていた程度。それも大方は顔見知りだった。カメラさえ持っていれば線路下りても目くじらは立てられなかった。


【2361】恥ずかしい質問

最近、同級生とちょっとした論争になりました。負けられない論争です。

論点は昭和三十年代前半の奈良電のことです。私が「子供の頃奈良電に乗ると車掌が扉を手で締めて回っていた。しかも一両と言うことも多かった」といったところ、「アホ抜かせ!それは京阪の電車や、奈良電は自動で閉まったワイ!」と威張っています。彼は久津川の出身ですがその頃は本当に京阪だけが手動開閉だったのでしょうか?乙訓の老人様、覚えておられたらお教え下さい。


【2335】2009年青春18きっぷの旅Ⅰ Part4 高山本線

いつものように朝風呂にゆっくりと浸かって、頭を覚ましました。朝食に行く間のひと時、夜明けを待っていると、眼下に富山駅が見えました。どちら様か、津山駅でホテルの窓から見られたのと同じ光景です。窓は、少ししか開きませんので、カメラを落とさぬようにシャッターを切りました。

JR&地鉄の富山駅

朝食後、富山地鉄市内線を見ながら駅に向かいました。

① 富山8:08(848D)→8:58猪谷
今日のスタートは、キハ120系です。ホームで待っていると、4両編成もの120系が入線してきました。さすが、両運転台の4両ともなると、異様に見えます。2両を切り離して、848Dは、キハ120-346+キハ120-345の2両編成で、猪谷へと走り出しました。

発車してからは、睡魔が襲ってきて、何も覚えていません。猪谷で乗務員に『お客様、このままですと富山に戻りますよ。』と、丁寧に起こされました。

② 猪谷9:11(1826D)→10:12高山10:35(4714C)→13:01 美濃太田  
高山で23分停車、列車番号は変わりますが、同じキハ48-5810+キハ48-6812の2両編成です。

直ぐに向かいのホーム前方に、美濃太田からのキハ48系が到着してきました。乗換客はかなり多かったのですが、座席数が違います。1人1ボックス専用でした。

やがて列車は、定刻に高山に到着しました。向かいのホームには、キハ48系2両編成が2本と、留置線に1本が止まっていました。ワイドビューひだ号も留置線で、折り返し待ちです。

停車時間が23分もありますので、下りて駅前を散策しました。さすが、観光地高山です。駅前は、観光客が多数います。白川郷へ向かうバス乗り場には、長蛇の列が続いています。

昼飯用に美味しそうな米ジュースを仕入れて、席に戻ると、ガラガラだった車内は、立ち席も出る満員列車です。椅子に置いておいた荷物を網棚に上げて、席を譲らざるを得ませんでした。

向いに座った若者に、どこまで行くのか聞いてみると、次の駅で降りると言います。詳しく聞いてみると、高山駅からの車窓がとても綺麗なので、この区間だけが、バスツアーに入っているとの事でした。

例年なら、絶景の雪景色が見られるらしいのですが、暖冬で残雪すらありません。ちなみにこのツアー客は、白川郷に行ってきたが、ここでも期待した雪景色は見られず、雨ばかりでがっかりしたと、嘆いておられました。

美濃太田までの間に、ひだ3号・5号・7号と、3本も交換、本当に高山本線は、特急だけしか走っていないのかと、時刻表を見ると、そのとおり、何と下呂→高山間では、昼間は5時間も普通列車の運行はありません。

③ 美濃太田13:28(3627C )→13:42鵜沼
多治見始発のキハ11系2連が入ってきました。後は、鵜沼で名鉄に乗り換えて、合流地のホテルにたどり着けます。クローバー会の総会が終わっても、自宅までの普通列車の旅が続きますが、1人旅は、ひとまず終了です。

翌日は、乙訓の老人御一行のおともで、明治村見学の後、名鉄パノラマカーも撮影に参り、JR鵜沼から高山線、東海道線と4列車を乗り継いで、無事帰宅しました。


【2328】おじん2人ヨーロッパ軽便 その最終版

SNOWDON MOUTAIN RAILWAY

YVでも公開された「ウエールズの山」という映画(1955年)をご記憶だろうか。原題は「The Englisyman who went up a Hill but came down a Mountain」と長く、けして大作ではないが、心温まるものだった。1917年ウエールズのとある小村に、英国政府測量官2名がやってくる。村人自慢の「山」を測量したら、規程(1,000フィート=306m)に16フィート足らず、「山」から「丘」に格下げになると知った村は大騒ぎになる、というお話。 

老齢の司祭が檄を飛ばし、先ずは測量官の自動車に細工=故障させて足止め。その間に村人たちは文字通り老若男女こぞって仕事をおっぽり出し、麓から土を運び上げて1,000フィートを回復しようというのである。しかし無情の大雨が降り折角の土が流出してしまう。鉄道員も協力し、鉄道が雨で不通として測量官の足止めを続け、さらに土を運び上げる。サッカー場の芝まで剥がし土止めに。82歳の老司祭が倒れ、山上に葬られる。

再測量の結果1,000フィートを満足し、若い測量官は村娘とむすばれ、万事めでたしめでたし。六甲山最高峰が931.3m、西宮市の甲山ですら309.4mである。いかに英国に山が乏しいかだが、その英国で登山なるスポーツが発祥したのも不思議である。

この部分のみはほぼレベルに近い 左手の建物は最初の離合地である

ところでウエールズとイングランドで最も高い「山」がこのスノードン山の1085mで、しかも登山鉄道がある。全長7.53km、平均勾配12.5%、最急が18%、2連式アブトで軌間800mm(2フィート7 1/2インチ)とメートル法なのは、スイス方式だから。開業は1896年4月6日、平均速度は5マイル/時(8km)。


DLは流石に強力だが、ブリエンツ・ロートホルン同様、全然面白くない

勿論蒸気機関車だったが、現在ではスイス・ロコ=ウインターツール1895、96、1922年製が4両現役。1986、92年製DLが4両。さらに1995年電気式のディーゼルカーが3両加わったが、最新ホームページには Out of Service とあるのは何故だろうか。不人気なのか、それとも欠陥があったのか。この時は2両重連(総括制御ができる)で運行していた。パンフの表紙に使うぐらいだから、少なくともこの時点では自慢の車両だったろうに。

http://www.snowdonrailway.co.uk/


総括運転の電気式DC 麓側の台車部分床上に機関と発電機が載っている

我々おじん2人はマン島とウエールズの旅の最後にこのスノードンを訪ねた。乗車はせず撮影だけだったが、線路は羊の放牧地をグネグネ延々と曲がって突っ切る。厳重に囲い込まれていながら、それでいて歩行者のための Foot Path が通じており、所々に柵を越すハシゴがある。画面に点々と白いものが見えるのは、ネガのホコリではなく、放牧の羊である。

フットパスを徒歩下山するグループ


借り物の300mm望遠レンズを使い、3個列車を写し込む。画面をクリックし、拡大してご覧あれ

なお長らくご愛顧を頂き?この延々と続いた「おじん」シリーズは、今回を以って終わりとさせていただく。ヤレヤレやっと終わったかと喜ぶ向きもあるかもしれないが、油断は禁物。いつ何時別の「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズが始まるか分からない。世の中一寸先は闇なのですぞ。

羊放牧のための厳重な柵を乗り越えるフットパスのはしご 上にいるのは相棒=先達=写真の名手=全行程ボランティア運転手=全プラン立案推進者=ツアーコンダクター