【3077】少し前の流鉄(旧流山電鉄)

引続き、現役時代の昭和43年4月8日、初めて訪問した時に撮影した画像をお目にかける。当時の在籍車両はモハ5両、クハ2両の計7両で、当時途中交換可能駅がなく、運転間隔を30分以下につめることができず乗客数に応じて、単行、2連、4連で運行されていた。

モハ100形(101~103、105)

南武線の前身、南武鉄道のモハ100形で、大正15年に101~106、昭和3年に107~111、昭和6年に112~115の15両が汽車会社で作られた。昭和19年4月1日付で青梅線の前身、青梅電気鉄道と共に買収されたが、車両の形式車号はそのままであった。流山には昭和24年12月26日の電化時に101~103の3両が入線、昭和30年にモハ105が入線した。各車両の経歴は画像のキャプションの通りである。

モハ101/前身は昭和3年製モハ107である。

 

モハ102/前身は昭和6年製モハ115である。

 

 

モハ103/前身は大正15年製モハ106である。

モハ105/前身は昭和6年製モハ113である。昭和24年12月電装解除されサハ代用となったが、昭和28年6月の改番で、片運のクハ6002となり可部線で使用されていた。入線時に手持ち部品で再電装と両運への復元が行われた。

クハ51/飯田線、豊橋~大海間の前身、豊川鉄道のクハ62が前身で、昭和2年川崎造船製である。昭和28年6月の改番で、クハ5601となり可部線で使用されていたが、後に福塩線に転属、昭和34年3月に廃車となり、翌年3月に入線した。

モハ1001+クハ52/西武池袋線の前身、武蔵野鉄道のデハ1321とデハ1323が前身で、共に昭和2年日本車両製である。昭和38年3月にまずクハ52が入線し、12月にモハ1001が入線した。常時2両ペアで使用されていたが、完全な固定編成ではなく、クハ52は元京浜急行クハ480形の車体を利用して作られたモハ1101と組むこともあった。また、クハ52は車体更新時に窓の2段化とアルミサッシ化が行われた。

 

サハ31(廃車)/昭和8年汽車会社で作られたガソリンカー・キハ31が前身。昭和24年頃にエンジンを降ろしサハとして使用されていた。昭和38年5月に廃車されたが、訪問時には休憩室として使用されていた。その後も解体を免れ、現在は流山運動公園で保存されている。エンジン他機器が全く付いてないが、戦前製の単車ガソリンカーの生残りとして貴重な存在である。尚、流山運動公園は流山駅から歩くと30分程かかるが、つくばエクスプレスの流山セントラルパーク駅からは10分位である。園内に入ってから場所がわからず探し回ったが、テニスコートの直ぐ後ろの森の中にある。以前は車内にも入れたようであるが、現在は、隣に展示されているD5114のアスベストが飛散する恐れがあるとかで、柵の中に入れない。


【3064】流鉄「明星」さよなら運転

流鉄(元総武流山電鉄で昨年8月1日社名変更)の「明星」編成(クモハ2003+モハ2101+クハ21)が4月29日「さよなら運転」を最後に引退した。同編成は平成7年12月、西武鉄道701系を購入したもので、入線に当りクハ1745+モハ745+モハ746+クハ1746の4両編成を、クハ1745の運転台部分をモハ745に接合して3両編成に改造する工事を実施している。今回の廃車による代替車はなく、同社の保有車両は3両編成×2本(流星/クモハ3001+モハ3101+クハ31・若葉/クモハ3002+モハ3102+クハ32)2両編成×2本(青空/クモハ2001+クモハ2002・なの花/クモハ2005+クモハ2006)の計10両となった。今年の11月頃に西武から元101系の2両編成が入線する予定となっているが、これが増備なのか代替廃車となる車両が出るのかは不明である。

当日は流山発8時56分から11往復し、馬橋発14時40分の列車がラストランとなり、流山到着後撮影会が実施された。今まで朝のラッシュ時は3両編成が3編成使用されていたが、4月30日から1編成2両編成が混在することになった。

平成17年8月24日「つくばエクスプレス」が開業し、鰭ケ崎駅から0.7キロ離れた地点に「南流山駅」、流山駅から1.5キロ離れた地点に「流山セントラルパーク駅」が開業した結果、都心に向かう通勤、通学客がそちらに流れてしまったため、乗客が大幅に減少し、ラッシュのピーク時でも2両で間に合うようになった。昭和48年4月1日武蔵野線府中本町~新松戸間が開業し、南流山駅が設置された時も乗客の逸走が心配されたが、都心に直結していないことと、貨物主体のため列車本数が少なく使い勝手が悪かったことにより等により、それほど影響はなかった。ウソのような話であるが、昭和60年頃まで帰宅ラッシュ時とも云える夜8時台に新松戸駅を発車する府中本町方面行の電車は1本しかなかった。

2両編成の「青空」と「なの花」はワンマン対応に改造されているが、現状は車掌が乗務している。会社の規模が小さく、従業員数も少なく、兼業といっても貸室業位しか行っておらず、人員削減は簡単にはいかないようである。

 

さよなら運転のヘッドマーク(流山向き)

 

最終1本前の馬橋行(小金城址~鰭ヶ崎間)

 

最終1本前の流山行(鰭ヶ崎~平和台間)

 

馬橋行最終(鰭ヶ崎~平和台間)

 

流山駅に到着した最終電車

 

到着後行われた撮影会

 

車内吊りのポスター

 

4月30日からの時刻表(一部列車が2両編成になっただけでダイヤ改正はない)


【3049】DRFC関東連絡網について

先日の犬山総会の頃から「関東にもOB諸氏が沢山住んでいるのに、世代を超えた付き合いが無いのは寂しいことだ」とか、有名撮影地で「どかんかー、ボケ~!」と怒鳴った相手がOB会員だったら恥かしいなどの話が出ました。
また京都や地方のOB諸氏が東京へ出張やプライベートで来られたとき、撮影の同行や心ばかりの歓迎の宴を催せれば、もっと楽しいだろうとも考えました。
そこで、どんな方々が何処に居らっしゃって鉄活動をされているのかいないのか、取り敢えずメールで連絡の付く方を対象に「DRFC関東連絡網」と言うメーリングリスト(ML)を作りました。
現在は10数名の参加者が居らっしゃいます。
参加資格は関東在住者に限らず、東京へ来られる機会がある方も歓迎しますので、奮ってご参加ください。
ML参加希望の申し込み先 → y_square@wta.att.ne.jp
 
さて今夜はミーティングと称し、顔合わせを兼ねて軽いお食事会(飲み会)を西新宿の都庁周辺で挙行しました。
参加者は準特急さん、シグマ太郎さん、デカンショまつり号さん、新所沢都民さん、曙太郎さん、ロギング太郎の6名です。
水曜日は「No残業day」と言う社会慣行があり、今後も1~2カ月に一回位のペースで気長に開催しようと考えています。
会場となるお店は客単価が3,000円ほどで済み、閉店が21時と極めて健康的です。
 
今回の会合で、
1.会の名称を「DRFC関東連絡網」とする。
2.会長を「準特急」氏とする。
3.副会長を「デカンショまつり号」氏とする。
4.MLの世話役を「ロギング太郎」とする。
ことを決めました。
 
今後は関東在住者への呼びかけを広め、OB会の関東支部への昇格に向けて、活動を進めてまいります。
皆々様の、ご支援をお願いします。
また「私は関東の○○さんと親交がある」などの情報がありましたら、上記メールアドレスへご連絡頂ければ幸甚です。


【3028】市電誘拐事件!?

京都市内の高架下(コンプライアンスのために場所を秘す)に保管されていた京都市電(700型、500型など)がいつの間にかなくなっているのに近くに住んでいる市電マニアが気づいて大騒ぎになっている。

いなくなったのが分かったのが10日の日曜日。散歩していた市電マニアがいつもの様に高架下に目をやると、トタン葺きの小屋は跡形もなくなりきれいに整地されていた。あわてて付近を探したが行方はようとして分かっていない。また今のところ身代金などの要求は来ていない模様。

だれか行き先を知っている方があれば編集部までご連絡願いたし。


【3026】老人の妄言

5月12日読売新聞夕刊に、佐藤優(同志社神学部出身・元外務省主任分析官)が「裏切りマナー」と題した一文を草している。冒頭に『旧ソ連崩壊前後の政争で裏切りを何度も目撃した。共産党に忠誠を誓っていた忠実な官僚が、崩壊後は、反共路線を掲げたエリツィン大統領の側近となった。こういう裏切りをした官僚が過激なほど反共的になった』こと。彼自身拘置所に512日収容されている間、旧同僚や親しくしていた学者などが検察庁に迎合したことも記している。

これは別段今に始まった事ではない。拙老幼少のみぎりの悲しい体験だが、戦時中「軍国おじさん」と称された人たち、教員が、学校だけでなく、町内にも必ず複数いた。当然職場にもいたのであろう。彼らは実に元気に「鬼畜米英」「撃ちてし止まむ」「神風が吹く」と唱えまわっていた。

それはそれでまあいい。新聞という新聞も全部が「軍国新聞」(朝日新聞は旗頭だった)だったのだから。問題は敗戦後で、彼ら、かの新聞は、ことごとくが手のひらを返し、生まれながらの平和主義者であったかのように、実に見事に「親米・平和主義者」に変身したのであった。ある数学の教師は、「英語はすばらしい。名詞に単数・複数の区別がある」といい、中学生だった拙老は、複数といっても、sがつくだけで2でも10万でも同じじゃないか、と感じた記憶が鮮明である。

鉄道趣味(というか、模型)界にもいた。戦時中の「科学と模型」誌に勇ましい「軍国模型観」めいたものを書き続けていたYなる御仁も、たちまち華麗に変身し、「自分は戦時中反戦主義者であった」「空威張りの軍部は着々と敗戦を招く」などと書きだした。流石にTMS誌で山崎主筆にボロクソに非難され、確かその後はピク誌に浜松工場のC53のことなどの短信ぐらいで姿というか、名前を見せなくなったが。

なんでこの欄にこんな事を、といぶかしく思われるだろう。こうした手合いは、別に軍国主義や平和、親米などとは、実は何の関係もない、とあるとき(勿論長じてからだが)気付いた。つまりは、常にその時代、最も有利で余人との差別化がなしえるものを、いち早く(他の人たちより)察知し、人より早く、かつ声高に、あたかもそれが自分の変わらぬ、昔からの信念であるかのように唱えているのである。

しかしそれとて、誰でも出来るというわけではないから、一種の能力、あるいは処世術には違いない。要は鉄面皮であり、恥知らずなのだが、こうした手合いに共通するのは、恐らく自分自身、その不合理性や非道徳性などに「全く」気付いていないことであろう。

で、この話は起承転結とは参らぬが、例えばかつての北海道C62騒ぎを思い出されたい。あの時、どれだけの人間が、集団ヒステリー状態で北海道へ行ったか。行った人間をこき下ろしているのではないから誤解の無いように願いたいが、この一連の蒸気機関車ブームで、俄かマニアがどっさり誕生し、しかも彼らに共通点があった。実は昔から蒸気機関車が好きだった、と異口同音に唱えていた事で、そんならもっと早く写真を撮っていればいいのに、と正直思ったものである。

次の共通点は、これらの「俄かマニア」のエネルギー発散状況が尋常でなく、拙老にはマニア歴の短さ(引け目?)を、ボルテージの高さで一生懸命補い、繕っていたように思えてならない。そして見事に、数年で彼らは姿を消した。要は「流行りもの」にいち早く飛びついただけで、彼らは今は何をターゲットにしているんだろうか。

これも誤解の無いように願いたいが、何をし、何に熱中しようと、他人や社会に迷惑を与えない限り、何時やめようと、その人の勝手である。これは拙老とて全く異論はない。しかし、どうもこういう御仁は、あることに熱中しているその間、なんやらいい訳?めいた、自分を納得させるような言動も必然のようだ。

最近若干下火になった感もないでもないが、燎原の火のごとく燃え盛り続けた「廃線跡訪問記」も、ややこれに似たところがあるように思える。これも別段人に迷惑をかけるわけではないから、何をしようと、書こうと、その人の勝手だし、現実にその本が「猛烈に」売れるのだから、そのようなものが書けない拙老にはねたましい限りである。中には廃止されないと興味の対象たりえないとしか思えない、ある程度の年齢の方も居られるが、彼らはその鉄道が健在な時には、一体何をしておられたのか。彼らも一種の「軍国おじさん」だと理解すれば納得もするのだが。

やれやれ、徹頭徹尾、老人の「怨み節」になってしまった。こんな事を書くとは、即ち先がそう長くないことでありますな。


【3015】伊予鉄道横河原線/森松線


森松駅

[2904]ぶんしゅう旅日記で伊予鉄道の鉄道線が出た。つい先頃路面電車の写真をこれでもかとばかりに並べ、多分に顰蹙を買ったばかりだが、横河原線ときては黙っておれない。で、また懲りずに40年以上前の写真を探し、いそいそとスキャンする事に。撮影は1965年7月12日と1966年4月29日。

周知の通り伊予鉄道は四国最初の鉄道(私設鉄道)であり、762mm軌間は我国最初である。機関車始め2軸客車は当初ドイツから輸入され、連結器は螺旋連環式だが、通常左右にあるバッファーが中央にユニコンのような1本のみ。

1911年以降路面電車が加わり、軌間762mmの主要線区は1067mm軌間に拡幅改築し電化。非電化の線区も次々と1067mmに改軌されたのは、単に貨車を直通させるためで、車体も連結器も元のまま。単に軌間を1フィート拡幅したのみで、予讃線が松山に達した以後も貨車の相互直通はなかった。

空襲でかなりの被害があったが、敗戦後1950年に郡中線が電車化したのち、非電化で残った横河原、森松線は1954年蒸気機関車を廃止しディーゼル機関車に。客車、貨車は全部2軸車だったが、客車2両をつなぎ、旧軸箱守を生かしてTR23タイプ?のボギー台車(メタル軸箱とコロ軸受とがあった)をはいたボギー客車に改造。DL1両がボギー客車3両(型式ハフ550+ハ500+ハニフ570)を牽引するのが基本で、ラッシュには重連DLがボギー客車6両を牽く列車もあった。森松線は1965年12月1日廃止。横河原線は松山市-平井が1967年6月10日、平井-横河原が10月1日、それぞれ改築・電化されて今日に到っている。
横河原駅を裏から見る

横河原駅

横河原線の列車

退校時の見奈良駅 駅員はラッシュ時以外無配置

横河原駅の本屋内部の写真がなく、現在の姿と照合できないのが残念だが、森松は撮っており、恐らく雰囲気に大差はないと思われるので、代用させていただく。改札口上部の発車時刻表ではおおむね60分毎の発車で、発駅の松山市では30分毎に横河原、森松行が交互に発車。だから両線が分岐する伊予立花では、上下DL牽引列車が1時間計4本=15分毎に行き交っていたことになる。


森松駅改札口と出札口 7、1019時台以外は1時間1本しか列車はない

森松駅 結構駅員がいるのは当時どこでも同じ 手小荷物も扱っていた



伊予立花駅 上下DL牽引列車が15分毎に行違う プラットホームが低い

入鋏式車内補充券は通常丸穴パンチだが、伊予鉄道では駅改札口で使うパンチを車掌も使っていたのが極めて珍しく、他例を知らない。