【4227】久留里線の旅

8月12日(水曜日)夏休みを取り、「青春18」を利用して久留里線に乗車した。東京都内の千葉県に最も近いところに住みながら久留里線は初乗車であった。他にも小湊鉄道の上総牛久~上総中野間、いすみ鉄道全線が未乗区間として残っているので近々乗車したいと思っている。

今回の目的は、久留里線の乗車のみであるため、いつもより1時間以上遅く、8時に出発。仕事で千葉市や市原市に行く時は、金町から千葉まで京成で行くが、今回は新松戸から武蔵野線、西船橋経由千葉へ。千葉駅で降りると9時32分発木更津行(155M)が湘南色に塗り替えられた113系4連+スカ色の4連で停車しており乗車予定の電車を1本遅らせて撮影。撮影後この電車に乗ったが、間に合うと思っていた木更津駅10時6分発の上総亀山行(929D)にタッチの差で接続しないことが判明し、一旦蘇我で降りて駅撮りをすることにした。京葉線の201系、205系の初期車、電留線のE257系を撮影後、横須賀線から直通のE217系15連で木更津に到着。車両基地(正式名称は幕張車両センター木更津派出所)に、旧国鉄色に塗り替えられたキハ3098が停まっており、駐輪場から撮影した。エンジンが駆動しており、次の運用に入ることは間違いなく、時刻表を確認の上、帰りに久留里駅で撮影することにした。

11時52分発上総亀山行(931D)は、キハ381002+キハ384の2連で座席ほぼ満席であった。次の駅は「祇園」。住宅街の無人駅であるが、由来は京都の「祇園」から来ており、平 影清が京を偲んで住居のあった付近を「祇園村」と呼んだと伝えられている。京都出身者としては、ストレートに「祇園」ではなく「上総祇園」にしてもらいたいところ。上総清川、東清川と棒線の無人駅に停車して、次の横田は交換駅であるが、対向列車はなくタブレットを交換して直ぐ発車。東横田、馬来田、下郡、小櫃、俵田と棒線の駅(馬来田が簡易委託の他は無人)が続き、ほどなく久留里に到着して上りの木更津行(キハ371002+キハ383)と交換。駅の手前に県立高校があり、ここの通学客が久留里線最大のお得意様である。この先の乗客は数える程で、山間部に入り、平山、上総松丘と棒線の無人駅を過ぎ、トンネルを抜けて終点の上総亀山に到着した。降りたのは約10名で、同業者が1人、親子鉄が2人、亀山温泉に行くと思われる観光客が2人、残りが地元客で、おばさん1人が駅前から黄和田車庫行のバスに乗り継いだ。一昨年まではここから安房鴨川行の路線バスがあり、房総半島の横断が可能であったが、千葉駅~安房鴨川間の高速バス「カピーナ号」が途中からローカルバスに変身して役割を引き継いでいる。(バス停は駅前にはなく徒歩5分位のところにある)折り返しの938Dまで1時間以上あり周辺を散策して時間を潰した。

帰りは旧国鉄色のキハ3098を撮るため久留里で一旦降りたが、ここでも待ち時間が約1時間あり、久留里城を見学しようと思ったが、片道30分もかかるので周辺の散策に切り替えた。久留里止まりの937Dは、予想通りキハ3098+キハ381001であった。駅舎側の上総亀山方面行のホームに停まったので、駅長氏に上りホームから撮影してもよいか尋ねたところ「向こうのホームには行かないで」とのこと。同業者が5名程おり、一般客も携帯電話で盛んに撮影していた。そのキハ30であるが今時珍しい非冷房車であった。横田での交換はこちらが先着で、3分停車のため急ぎ下りホームから撮影したがモロ逆光であった。交換した下り列車はキハ372+キハ381であった。

木更津到着後、折り返しの941Dを駅の千葉寄りの踏切で撮影するべく時刻表を確認すると、内房線の198Mと同時発車である。加速は電車の方が良いので先に通過するだろうと思ったが、電車は8両編成のため、タッチの差でキハ30は撮影できなかった。今回の主目的は久留里線の乗り潰しであったが、千葉駅で湘南色の113系を撮影したため乗車が1本遅れてしまい、走行写真は撮影できなかった。次の「18」の時には走行を中心に撮影したいと思っている。横田~東清川間の小櫃川鉄橋あたりが狙い目と思われ、馬来田までは日東交通の路線バスが並行して走っているため利用可能である。久留里以遠の山間区間は、景色は良いが列車本数が少なく時間のロスが大きいのが難点である。

 

湘南色のマリ117編成(Tc111-2152M113-2072M112-2072Tc111-2056)千葉

 

クハ201-110他10連  蘇我/関西ではリニューアルされて新車のような顔をして走っている201系であるが、JR東日本では京葉線に10連×4本、中央線に10連×2本の60両が残るのみ。

 

クハ205-3他10連  蘇我/205系の1次車で窓が上段下降、下段上昇の2段窓が特徴

上総亀山駅で折り返し発車待ちのキハ384+キハ381002

 

上総亀山駅

 

黄和田車庫行の君津市コミニュテイーバス。道路交通法80条適用のため白ナンバー。

久留里駅

 

横田駅で交換したキハ372+キハ381

 

木更津駅を発車したキハ3098+キハ381001であるが、同時発車の電車のためキハ3098は撮れなかった。

歴 史

明治43年6月千葉県の臨時県議会決議で千葉県営久留里軽便鉄道として建設が決まり、大正元年12月28日、木更津~久留里間を762㎜で開業。大正12年9月1日、関東大震災による被害の復旧費の増大と大正11年に制定された改正鉄道敷設法の「木更津より久留里、大多喜を経て大原に至る鉄道」のルート上にあるため無償で国に譲渡され、鉄道省久留里線となった。昭和5年8月20日762㎜から1067㎜に改軌。昭和11年3月25日久留里~上総亀山間が延伸開業したが、昭和19年12月16日不要不急路線として休止され、昭和22年4月1日営業を再開した。

現 状

木更津~上総亀山間13往復、木更津~久留里間4往復、計17往復運転されている。終日ほぼ1時間間隔であるが時間帯により2時間近く空くことがあり、本数が減る久留里~上総亀山間はその傾向が強い。

首都圏では珍しくタブレット閉塞方式を採用しており、交換可能駅は横田と久留里の2ヶ所のため最高3列車しか運行ができない。以前は馬来田、小櫃、上総松丘も交換可能で、駅構内やホームにその痕跡が残っている。乗客は通勤、通学での利用が多く、特に久留里の県立高校の生徒は他に公共交通機関の通学手段がない。列車の編成は平日ラッシュ時3~4連、昼間2連で、学休期は終日2連である。但し、行楽シーズンの休日は昼間でも4連になることがある。昼間は乗客が少ないためワンマン化されても不思議でないが、全便ツーマンで運行されているのは、人員削減に反対している千葉動労との関係であろう。久留里線に限らず千葉支社管轄の各線では、3月中旬に毎年のようにストライキが行われ、間引き運転や運休が行われるが、久留里線は運休となる。

地元の人は久留里線のことを「パー線」と呼んでおり、語源は「久留里線」→「クルクルパー線」→「パー線」から来ている。速度が遅い上、本数が少なく不便であることから、このような表現になったのであろう。

車 両

幕張車両センター木更津派出所にキハ30形3両、キハ37形3両、キハ38形7両、計13両が配置されている。いずれも久留里線のみで見られる形式である。

キハ30形(62、98、100)

昭和36年~41年に非電化通勤路線向けに製作されたキハ35、36の両運転台バージョンである。キハ35(片運トイレ付)が258両、キハ36(片運トイレ無)が49両、キハ30(両運トイレ無)が106両、合計413両作られたが、JRで生き残っているのは上記3両のみである。98は旧国鉄色に塗り替えられ7月4日から運転され、残り2両も塗装変更される予定である。今時珍しい非冷房車である。

 

キハ3896/上 木更津、下 横田

キハ37形(2、1002、1003)

キハ37形は、昭和58年地方交通線用の量産先行車として新製された気動車で、1、1001が新潟鉄工、2、1002、1003が富士重工で新製され、前車が加古川線、後車が久留里線に配置された。1、2はトイレ付で1000番台はトイレ無しである。その後の増備はなく5両の新製で終わってしまった。加古川線の2両は山陰の後藤総合運転所に転属し、山陰本線、境港線で使用されたが今年1月に廃車となった。久留里線の3両は平成10年に冷房改造され引続き使用されているがトイレは閉鎖されている。

 

キハ371002/久留里

キハ38形(1~4、1001~1003)

昭和61年から62年にかけてキハ35の改造名義で台車、主要部品を流用して、トイレ付4両、トイレ無し3両の計7両が国鉄工場で作られた。

当初は高崎区に配置され八高線で使用されていたが、平成8年3月、高麗川~八王子間電化時に、非電化区間の高麗川~高崎間の車両も新系列のキハ110系に置き換えられたため、久留里線に転属してきた。冷房は改造当初から付いている。トイレは閉鎖されている。

 

キハ383/久留里

 

キハ381002/上総亀山

小櫃駅の直ぐ近くの公民館にC12287が保存されているのが見える。ちなみにC12287は昭和22年9月日本車輛製で当初後藤寺区に配置され、その後鹿児島区に転属し、昭和59年6月南延岡区で廃車となった機関車で、今回は時間の関係で見に行けなかったが、次回は是非訪れたいと思っている。久留里線の気動車化以前や貨物列車にC12が使用されていたということで保存されている。


【4180】1954年高校修学旅行 その4


雲仙一帯は鉄道と無関係だから、小生もおとなしく一緒に行動し、もっぱら帰京後お買い上げ頂く級友の撮影にいそしんだ。行程は島原港から三角に船で渡るが、バスは島原港で乗り捨てる。当時の島原-三角間九州商船は80分、1日4往復、花園丸138トンとあり、これではバスを乗せられるはずもなく、しかも我々修学旅行生だけでも500人以上が乗船したのだから、ボートピ-プル並のすさまじさ。今では島原外港から直接熊本港に60分、2社17往復のフェリーが運行している。

島原では出港まで30分ぐらいあったか。売店のおばさんに聞くと、島原鉄道の本社車庫がある島原湊(現在島原)まで10分ぐらいという。それなら往復20分として、5分だけでも撮影が出来ると無謀にも聞いた方角に走り出しかけたら、おばさんが呼び止め、当時まだ貴重品に近かった自転車を、どこの馬の骨とも知れぬ、しかも団体の一員に貸してくれた。恐らくは小生の人品骨柄卑しからぬを察知したのであろう。


台枠以下を生かし、車体を近所の造船所で新製した私鉄版木製オハ61?のホハ31 元来は温泉鉄道ホロハ2だった

一見中型車だが、その実雑型車(鉄道作業局)の窓配置を改造したホハニ3751 国鉄ホハユニ3751が原型

必死にペダルをこぐ。この自転車はまだ新しいのに、何とブレーキがないではないか。減速には足で地面をこすり、ともかく島原湊駅待合室に自転車を乗り入れて放り出し、居合わせた駅長に一声掛けて改札口を駆け抜け、目に付く限り撮った撮った。二眼レフはすぐフイルムが尽き、交換している暇はなく、35mmは幸い余裕があった。


16号機 鉄道省1406←九州鉄道38

22号機 ←海軍呉工廠 立山重工業1943年製

キハ202 中国鉄道キハユニ110の買収車 原型をよく残している

キハ102 元来キハニだったが、敗戦後急行用に整備 最終ユニ102に

日車製キハ4501 私鉄車ではトルコン装着のはしり

ハフ52 屋根がやたら深いのは雨漏防止改造 元来口之津鉄道カ1 雨宮製量産60人乗り2軸車

この島原湊はすぐ傍に海が迫り(そんなことは後年再訪、再々訪で知った)、余り広くないところにぎっしりレールが敷かれ、しかも1線ごとに整備清掃用の足場があって、かような切迫した撮影ではイライラするばかり。何がなんだか分からぬまま、ともかく目に付く車輌を乱写し、さらに欲を出して駅長に廃札を所望。駅長は1日4便の出港時分=その切迫を承知だから、他の仕事をしている駅員も動員督励し、確か3人掛りで廃札印を押して一式呉れた。


ホハニ3751

ホハニ3751の台車

ホハ12187 国鉄同番車の払下だが、何と窓が1個多いのに気付いたのは1年半後

ナユニ5660 国鉄同番車の払下 旧関西鉄道477「関西大ボギー」の生き残り

屋根と窓数から旧九州鉄道ヘ(1等)かト(2等)車の成れの果てと分かったのははるか後年

ユ2 単車とはいえ全室の郵便車は私鉄では珍しい

ニ11 

救援車

また必死にペダルを漕ぎ、かつ足で地面をこすって船着場へ。その間近になって、やっとこの自転車は輸出用で、ペダルを少し戻すとブレーキになることが判明した。花園丸にはすでに仲間全員(小生以外)が乗船済で、売店のおばさんに礼を述べて自転車を返却。教師は無断離脱とあってカンカンに怒っていた(らしい)が、面と向かっては何も云わなかった(当然仏頂面だったが)。


【4173】福田靜二写真展 『京都市電⑥物語』 開催! ご案内

ようやく、蒸し暑さも過ぎて、過ごしやすくなってきましたが、新型インフルエンザが、蔓延の兆しをみせ始めております。ご老体の多いクローバー会の皆様、出かける時は、マスクを忘れずに、着けてください。

さて、9月末で、定年退職が決まった福田静二君が、退職記念として、写真展を開催されますので、ご案内させていただきます。

場所は、いつもの京阪七条駅近くの、『集酉楽サカタニ』、開催期間は、9月1日~30日です。
題名は、『京都市電⑥物語』です。京都市電で、最後に残った[6番系統]に、焦点をあてた写真を展示するそうです。多分、数1000点も撮った、京都市電6番の写真の中でも、福田君が厳選した写真です。福田流の、味のある写真を見るのは、楽しみです。

猛暑で、こもっておられた皆様、もう熱中症で倒れる心配は、不要です。散歩がてらに見に行きましょう。
福田君は、土日曜日、会場に詰めているそうです。

9月26日(土)18:00からは、打ち上げ会を開催するそうですので、この日も是非に、ご参加下さい。


【4162】韓国1971年その5(総括)

 韓国1971年その5は総括と言うよりはこれまでの積み残し分です。まず、コダックのネガカラーで撮った慶州の入れ替え中のディーゼル機関車とミカ3蒸機、そして客車です。保存状態が悪い上に次に続く白黒も含め、パソコンの操作技量も低く、見辛くて申し訳ありません。

1971.4.23 慶州

1971.4.23慶州

1971.4.23慶州 1971.4.23慶州

 

1971.4.26 ソウル近郊 客車

ソウル近郊で見た客車。窓の形が何となく京阪の貴賓車16に似ている。

1971.4.26旧ソウル駅舎

 ソウル駅舎と当時の市民。1925年完成で東京駅に似た赤レンガ建物は新ソウル駅完成の2003年まで使われていたとか。

1971.4.25南山

 南山に保存されたソウル市電。

1971.4.26 水原

 鉄道近代化PRボード。日本の鶴見川付近を行く20系ブルートレイン。

1971.4.24 東大邱

 1971年4月には韓国大統領選挙が行われた。画面が小さくて恐縮ですが、一番右が再選を果たした朴正熙氏。その隣りが、先日死去し、23日に国葬が行われた金大中氏。初挑戦で惜敗とのこと。その後の拉致事件、死刑判決、南北首脳会談、ノーベル平和賞受賞は最近の新聞等でご存知のとおり。当時、選挙ポスターは白黒であった。


【4146】豊橋鉄道田口線

湯口先輩の【3776】「1953年高校生東京へ その9(最終回)」で、豊橋駅で撮影された「田口鉄道モハ36」の画像について、【3825】でK.H生さんよりコメントあった。田口鉄道→豊橋鉄道田口線は、昭和41年3月23日、京阪沿線の高校在学中に一度だけ訪れたことがあり、その時の模様等を書いてみたい。

豊橋鉄道田口線の沿革を簡単に記すと、大正14年5月 豊川鉄道専務倉田藤四郎氏、田口町長関谷守男氏、旧内務省官吏平松雅夫氏ら発起人により田口鉄道敷設免許申請書を鉄道大臣に提出。大正15年11月 豊川鉄道長篠(現大海)~田口間の蒸気鉄道施設が認可。分岐駅を長篠から鳳来寺口(現本長篠)に変更し、経路も変更したところ急勾配となったため、動力を蒸気から電気に変更して再申請して受理された。設立時の資本金300万円の内訳は宮内省125万円(25000株)、豊川鉄道75万円、鳳来寺鉄道20万円、鳳来寺12.5万円とこれだけで約80%を占め、地元やその有力者の出資は僅かであった。宮内省の出資比率が高いのは、段戸御料林の森林鉄道と田口鉄道を接続させて御料林の経営を抜本的に発展させる目論見があったためである。尚、宮内省は戦後解体により同省の所有株式は地元が引き受けた。本社は豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同一場所の豊橋市花田町に置かれたが、戦争末期の7月27日、戦災のため鳳来寺駅に移転した。

昭和3年5月、工事に着手し、昭和7年12月全線が開通した。昭和18年8月1日、豊川、鳳来寺鉄道は鉄道省に買収され、田口鉄道は対象外となったが、列車の運行は引き続き鉄道省に委託された。昭和26年4月1日より本長篠で飯田線の電車と併結により、豊橋まで直通運転の開始。昭和27年5月運行委託が終了。昭和31年10月豊橋鉄道と合併し同社の田口線となった。車両管理を委託していた国鉄豊川分工場が閉鎖されたため、昭和38年3月24日をもって豊橋直通運転が廃止された。

昭和39年12月田口線のバス化計画が発表、それに伴い、地元住民、製材業者を中心に廃止反対運動が展開された。昭和40年9月17日、清崎~三河田口間水害のため不通になりバス代行となった。昭和43年7月19日、全線の運輸営業廃止が認可、廃止直前の8月29日に台風10号の大雨による田峯~清崎間の路盤流失のため三河海老~清崎間が不通となり、清崎駅にモ36が取り残された。最終日の8月31日は本長篠~三河海老間で、モ15による「さよなら運転」が実施された。

昭和41年3月23日に訪れた時の状況

前日まで、日立電鉄、茨城交通、関東鉄道の各線の乗り歩きをして東京駅23時30分発大阪行に乗車して4時56分豊橋に到着。飯田線下りの一番電車は5時36分発の新城行であったが、本長篠まで行かないのでパスして、次の5時55分発辰野行の最後部クハユニ56011に乗車した。本長篠到着は6時50分で、駅舎寄りの1番線には6時54分発清崎行(モハ37)が停車しており、早朝のためか乗客は僅かであった。清崎~三河田口間は昨年の9月の水害以降不通となりバス代行になっていた。鳳来寺駅を過ぎ、ほぼ中間の三河海老でモハ15+モハ14の上り列車と交換、駅の本長篠寄りに小さな車庫がありモハ38が顔を出していた。程なく清崎に到着したが何もない山の中の駅であった。写真撮影後再びモハ37に乗り鳳来寺で下車。先程三河海老で交換したモハ15+モハ14が本長篠~鳳来寺間の折り返し運用に入り、隣のホームに停車していた。せっかくここまで来たのだからお寺でも見学しようと思っていたが、ここから更にバスで20分位かかると聞いてあっさりパス。電車撮影後モハ15に乗り本長篠に戻った。この後、クモハ51800+クハ47071+クモハ61003+クハ18003の621M平岡行(後2両三河川合で切離し)で中部天竜に行き、ED17、ED18を撮影後豊橋に戻り、急行「いこま」で京都に戻った。また、クモハ51800の車内の標記は改造前のクモハ51042のままであった。

車両

昭和7年開業時の車両は電気機関車1両(デキ53)、電車2両(モハ101、102→モハ36、37)の僅か3両であったが、豊川、鳳来寺鉄道と共通で使用され、同社の車両は豊橋~三河川合間の豊川、鳳来寺鉄道で使用され、豊川鉄道のモハ10形が使用されていた。昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲受け、更に豊橋鉄道合併後の昭和31年10月、福塩線で使用されていたモハ1610(元豊川鉄道モハ31)を購入、その他、昭和30年に団体輸送用に作られた木製単車(サハ201)が1両在籍したが、昭和37年に廃車された。

デキ53

昭和4年4月、田口鉄道開業時に日本車輛、東洋電機で新製された。デキ53の「53」は、鳳来寺鉄道デキ50、豊川鉄道デキ51、52、54と一連の車号が付番されたためである。前述の4両が鉄道省に買収後も田口鉄道所有機として引き続き飯田線で活躍し、昭和27年5月以降は田口鉄道線内のみの使用となった。豊橋鉄道合併後田口線の貨物減少により昭和40年7月渥美線に転属、昭和43年11月1日の改番でデキ451となり、昭和59年、渥美線貨物営業廃止により廃車された。

 

昭和43年4月4日  高師

 

昭和45年3月9日  高師

モ10形(14、15)

前述の通り、昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲り受けたもの。モハ10形は大正15年豊川鉄道、鳳来寺鉄道電化時に豊川鉄道向けとして5両、鳳来寺鉄道向け1両の6両新製された。当初はモハ1形と称していたが昭和13年の改番でモハ10形に改番され、鳳来寺鉄道所属車はモハ10、豊川鉄道所属車はモハ11~15となった。戦後モハ11、12は部品が調達できず昭和24年に廃車、残り4両も昭和26年4月に廃車となったが、モハ10、13が大井川鉄道に譲渡されモハ201、202として再起した。「モハ」→「モ」への改称は昭和39年7月に実施されている。モ14は当初田峰駅跡に保存されていたが、昭和53年田口町の奥三河資料館に移動し、田口線で使用されていた備品等共に大切に保存されている。私はまだ訪れたことはないがリタイヤ後廃線跡の探訪を兼ねて是非訪れてみたい。

 

昭和41年3月23日   三河海老

 

昭和41年3月23日   鳳来寺

モ30形(36、37、38)

モ36とモ37は昭和4年田口鉄道の開業時にモハ101形101、102として日本車輌で新製された車両で、昭和13年豊川鉄道の同形車と同一形式に改番され、モハ36、モハ37となった。豊川鉄道のモハ30形は31~33の3両で34、35としてもよかったのであるが、あえて36以降に付番したのは会社の違いを意識したものと思われる。昭和27年5月自主運行になるまでは飯田線で使用されていた。田口線と飯田線の直通運転は昭和26年4月1日に開始されているので、それに合わせて国鉄形との機器の統一と密連化が実施されたものと思われる。田口鉄道に返還後も引き続き国鉄形と併結で豊橋直通運用に使用されていたが、乗務員室が狭く国鉄の運転士から嫌われたため常に後部に連結されていた、乗入廃止後、連結器は自連に戻された。田口線廃止後は渥美線に転属し、600Vに降圧、車体更新が実施され、窓がアルミサッシとなった。昭和43年11月の改番でモ1711、1712となり、モ1711は平成3年、モ1712は昭和62年に廃車された。

 

昭和41年3月23日   本長篠

 

昭和41年3月23日   清崎

 

モ36→モ1711に改番後  昭和60年3月24日 高師

 

モ37→モ1712に改番後  昭和60年3月24日 三河田原

モ38は豊橋鉄道と合併後の昭和31年10月、豊橋直通車の増強のため、福塩線で使用されていた、モハ1610を購入したものある。元を正せば元豊川鉄道モハ31で、モ36、37とは生まれも育ちも同じで、国鉄に買収後、昭和28年6月の改番でモハ1610となった。湯口先輩がお書きになった【4015】「1954年高校修学旅行その2」に福山駅で撮影された旧豊川鉄道買収車モハ1600形の画像があるのでご覧いただきたい。購入時に豊川分工場で車体更新を実施し、窓のアルミサッシ化、蛍光灯化等が実施された。昭和41年4月に一足早く渥美線に転属し、昭和43年11月の改番でモ1713となった。

 

昭和41年9月1日   高師

 

昭和43年4月4日   高師

 

昭和45年3月9日   高師


【4133】1954年3月高校修学旅行 その3

先回急行「筑紫」で博多まで乗車したように記したが、長崎には翌朝到着している。すなわち門司で「筑紫」を下り、門司港発22時20分(門司22時33分始発)の長崎行各停夜行列車411レ(大村線経由)に乗車したとしか考えられない。我々の高校は普通科、商業科併せて1学年11クラス、当然500人を超えていたから、客車も6両は必要で、全員が同じ行動をしたのか、日をずらしたのかは全く記憶がない。


C51253 門デフが珍しかった

長崎終着は7時10分で、全員下車と思いきや、かなりの乗客が残ったまま、列車はそのまま走り去った、と記憶する。はるか後年島原鉄道で諫早経由、長崎大に通学された山城正一氏に伺うと、三菱造船所への通勤者輸送だった由で、長崎以遠は勿論時刻表に記載のない列車だった。

長崎では島鉄バスでグラバー邸やらの名所を廻るのだが、小生は教師に申し出て観光を辞退し、バスを下り一人長崎交通の電車を撮った。所定の時間・場所に必ず居るから、と誓約したのは当然だが、今から思えばよく教師がOKしたものである。当時大学受験万能の指導に反発し、突っ張って(別段暴力を振るっていたわけではない。ただ全く勉強をせず、映画館に入り浸ってはいた)おり、担任教師からは間違いなく問題児扱いだったから、いくら止めてもこいつはやりたい事をするだろうと諦めたか、しばらくでも問題児の顔を見ずにすむと思ったか。両方かもしれない。

で、先ずは長崎駅構内でC51253を撮る。その後有名になった「門デフ」装着機関車を見たのはこれが初めてで、門デフに尋常ならざる執念を燃やした関 崇博氏がその後鉄道ファンに連載した折にはこの時の写真も使って頂いた。最近ネコ社から刊行された同氏の「門鉄デフ物語」にも56頁に1枚、C51253がある。


長崎電軌61 長崎駅前
同 51

同 54

長崎電軌は別段撮りたくて撮ったわけではなく、他にターゲットがなかったから。時間も余りなく、撮影も、バスにピックアップしてもらったのも、記憶は定かでないが長崎駅近辺ではあった。それから雲仙へ。このとき丁度「君の名は」のロケと重なり、確か雲仙のどこかで岸 恵子様の麗姿も寸見した。行く所ことごとく「君の名は」で埋め尽くされ、イヤというほど「君の名は饅頭」や「真知子漬け」が氾濫し「真知子岩」やら「真知子橋」やらが雨後の筍さながらに満ち溢れていた。マフラーかストールかを「真知子巻き」するのも大流行していた。


同 124

同 131

同 213
同 307