1954年3月北陸から長野、三重 その1


近江鉄道ホハフ3 1954.3.23 近江八幡 旧湖南鉄道のキロハ2→八日市鉄道キハニ2→  旧機関室は左側 戦後まで現役蒸気動車だったが客車化の際中央にも扉を設けた その後ハニ2 台車は両方共蒸気動車時代の付随台車である
 
九州の修学旅行から帰ったのが1954年3月17日。それから頑張って級友の写真をプリントし、代金を稼いでフイルムを買い、春休みになるのを待ちかねて今度は京都-富山-松本-名古屋-木津-京都の学割切符で、3人で超超ビンボー旅に出た。1人はアルゼンチン・タンゴファンなら必ず名前を知っているFS先輩(小生の4歳年長だが、なぜか彼が同志社を卒業した2年後小生が入学)、もう一人はやはり山科の住人で、2歳年長のIS先輩。


近江鉄道1号電機 のちED221 一畑電鉄を経て弘南電鉄でまだ現役のはず 元来は信濃鉄道1から国鉄ED221→西武鉄道1 1954.3.23 彦根

先ずは近江八幡、彦根で近江鉄道を撮る。いくらでも車両はいたはずなのに、なぜたったの3枚しか撮っていないのか分からない。やたら長く見える木製ボギー車フホハユニ31はその後長らく小生を悩ませた。側面は狭い窓2個毎に旧扉であるやや広い窓があって、旧側戸式であったことを示す。我国でのボギー車で側戸式とは、旧鉄道作業局ハボ1~9→コハ6500~6508の9両(英国製)しかない筈で、一部は北総鉄道→総武鉄道に払下げられ、車体が柏で物置になっていたのが車窓から見えた。この一統が近江に、なんて聞いたこともない。しかも窓配置は合致しないし、真中部分は少しおかしい。


近江鉄道フホハユニ31 2軸マッチ箱客車2両をつないで誕生したボギー客車 彦根

後日一人悩んでいたら、電車の大家であるO大先輩が、ありゃ戦時中吹田工機部で2軸客車を2両くっつけたんだ、と教えてくれた。そんなことは全くの想定外だったから、大きな溜息が出た。はるか後年までも近江のボギー客車には執念を燃やし続け、やっと解明は果したが、1912(明治45)年4月10日彦根車庫火災で多くの車両を焼損した後、1913年と1916年に2軸客車12両をつなぎ誕生した6両のボギー客車のうちの1両であった。

施工は自社となっているが、恐らくは加藤工場(加藤真次郎→加藤車輛製作所)の出張工事であろうと推定している。戦時中の吹田工機部云々とは、両端のオープンデッキを引戸に、中妻を撤去した多客対応改造で、当時民間車輌工場は陸海軍の指揮下で武器製造を強要されており、かような改造は国鉄工機部が受け持っていたのである。

英国系構造の木製客車は台枠と車体が切り離せるから、台枠をデッキ分ずらし、中央で不足する分は他の台枠を使う―2.5両分の台枠を使っての車体接合だったのである、台枠に2か所、当て金と盛大にリベットを打ち込んだ部分がその継ぎ目である。

福井に早朝5時04分に着く533レは米原1時46分発でで、待合室は寒くて堪らず、暖房の温気が若干でも残っているだろうと、留置中の客車に入り込んでウトウトしていたら、駅員に見付かって追い出された。その目を盗んで又別の客車に忍び込み、またウトウト。


福井鉄道モハ3 福井駅前 1954.3.24 気分のいい木製電車である 


福井鉄道モハ22

福井に着いたが余計寒い。それでも明るくなるのを待ちかねて何枚か―京福は大したものが撮れなかったが、福井の木製1型は大いに気に入った。


福井鉄道モハ64 福井駅前


福井鉄道モハ31 武生

福井鉄道モハ122 福井駅前

京福電鉄ホデハ1003 福井


福井電鉄ホサハ61 モハ63系のショーティで幅も狭い 台車はTR10 福井

JR日光線の旅 (Ⅰ)

東武日光線の「特急スペーシア」、新宿~東武日光間のJR、東武相互乗入れの「特急日光、きぬがわ号」の影に隠れて影が薄いJR日光線であるが、東北新幹線宇都宮経由で日光に行く乗客が、ジャパンレールパスを利用する外国人観光客を中心に意外多く存在する。また「青春18」のシーズンになると日本人の観光客も増加する。また、日光市、鹿沼市と県都宇都宮市を結ぶ都市間連絡路線の役割を持ち、宇都宮市への通勤、通学、買い物等の利用客も多い。日光線を観光路線としての魅力を高めるとともに、沿線の活性化を目指し、日光、下野大沢、文挟の各駅の整備と107系の塗装変更が行われている。そんなJR日光線を8月21日(金曜日)夏休みを取り「青春18」で見学した。

いつもの出勤時と同じ時間に家を出て、午前中は烏山線に乗るか、黒磯で交流電車を見るか迷ったが、烏山線は5年前に行った時と変化がないため黒磯に行くことにした。赤羽から乗車した湘南新宿ラインE231系15連(1610E)から宇都宮で211系5連(1545M)に乗換え、黒磯で暫く待つと郡山発の2123Mがロングシートのクハ700-1251+クモハ701-1251の2連で到着した。黒磯から先の東北本線はED75が10両位の客車を引いていたことを知る世代にとっては誠に寂しい限りであった。折り返しの電車まで駅の外に出ると東野交通「那須ロープウェイ」行が、元大阪市交通局の南港コスモスクエアのシャトルバスとして使用されていたバスで到着した。平成の1桁頃、登山で利用した時には元京阪バスの京都定観で走っていたバスが、塗分けをチョット変えただけで車内の成田山のお札もそのままで走っており、乗物には全く興味のない嫁さんまでがビックリしていた。それも1両や2両ではなく、1形式1両、1形式2両の珍しい車両も含めて12両も在籍していた。

 

上/クハ700-1025+クモハ701-1025 下/クモハ700-1025 天下の東北本線の普通列車が2両編成とは寂しい。

【たまにはバス① 東野交通の元大阪市バスと京阪バス】

 

栃木221167 元大阪市バス南港コスモスクエアシャトルバス(4年式PMP618P

 

栃木2284  元京阪バス定期観光 京22225554年式RC321P

                                             

2285  元京阪バス定期観光 京22253355年式RC321P

 

栃木22460  元京阪バス定期観光 京22324658年式PRC721P)/京阪バスでは1型式1両の車であった。

 

栃木22464  元京阪バス京都定期観光 京22324458年式PRC321P)/京阪バスでは1型式2両であったが車体メーカーが異なっていた。

ここで取り上げた元京阪バスは既に廃車されている。京阪バス時代の登録番号は車台番号から割り出した。

11時55分発の1550Mで宇都宮に戻り、乗車予定の日光線13時33分発845Mまで駅の外に出ると関東自動車の元大阪市バスがきた。845Mは2両編成でクハ107+クモハ106の2連で部活帰りの学生で満員であったが、鹿沼と今市でまとまった降車があり、日光到着時には座席の半分が空いている状態であった。

【たまにはバス② 関東自動車の元大阪市バス】

 

宇都宮2007065年式ULV224K

 

宇都宮2007936年式UHU2MLAA

 

宇都宮2007986年式ULV224K

帰りの852Mまでの1時間、JR、東武双方の日光駅を見学したが、JR駅と東武駅のほぼ中間地点に新宿、東武日光間の直通運転の記念プレートが設置されていた。852Mは4両編成で、外国人観光客、「青春18」の客で座席が半分位埋まった。当初の予定では文挟駅で途中下車して、改築された駅舎を見学する予定であったが、外の蒸し暑さを想像するだけで下車する気がしなくなり、そのまま宇都宮まで乗車して帰った。「青春18」で出かけると、天候と気分次第で「また今度」と思ってしまうのは年の所為であろうか。帰宅後、文挟駅と下野大沢駅の改築状況が気になり、9月9日(水曜日)改めて確認に行く羽目になった。

歴 史

日光線の歴史は古く、明治23年6月1日、日本鉄道日光線として宇都宮~今市間を開業、同年8月1日今市~日光間が開業した。明治39年11月「鉄道国有法」により国有化され、国内各地から日光に行く唯一の手段として活況を呈していたが、昭和4年10月東武鉄道日光線が全通すると競合関係になり、従来より所要時間を1時間も短縮した上野~日光間を2時間27分で結ぶ準急列車が登場した。ちなみに、東武特急の浅草~東武日光間の所要時間は2時間18分であった。

戦時体制の強化により、「準急」「東武特急」ともに消滅したが、戦後、世の中が落着くと再び競争が激化して、昭和25年6月上野~日光間の臨時快速を運転開始、昭和31年には当時開発されたばかりのキハ44800形(後のキハ55)による準急「日光」の運転開始。昭和33年4月には電化が完成。昭和34年9月、151系並の装備を有した157系「日光形」が落成し、準急「日光」を置換えた。昭和44年4月、157系が「日光号」から撤退し急行型の165系に置換え。昭和57年11月のダイヤ改正で急行「日光」が廃止され定期の優等列車は消滅した。以降、国鉄→JR東日本は、東北新幹線宇都宮乗換え日光線ルートをPRしていたが、東武に比べると所要時間では勝るものの、乗り換えの煩わしさと高額な運賃が災いして東京周辺の人は東武の利用が一般的であった。平成18年3月18日のダイヤ改正より栗橋駅の東武、JR間に設置された渡り線を経由してJRと東武の相互乗入れにより、新宿~東武日光・鬼怒川温泉間の直通運転が開始された。これによりJR東日本は日光線の観光客輸送を諦めたかに見えたが、今回日光線を観光路線として再度見直しすることになったことは喜ばしい限りである。

【現 状】

宇都宮~日光間24往復(朝の1本は小金井始発)、宇都宮~鹿沼間4往復運転されている。朝夕は宇都宮~鹿沼間で最少18分まで間隔が縮まるが昼間は1時間間隔である。営業キロ40.5km、中間駅は鶴田、鹿沼、文挟、下野大沢、今市の5駅で、全駅交換可能である。鶴田~鹿沼間は9.5kmと長く、鹿沼市とJRにより中間駅を設置する計画があるが、住民からは「そんなとこに駅作っても誰が乗るねん」という意見があり、かつての栗東新駅と同じ構図である。文挟が無人の他は有人駅で下野大沢は委託駅である。

宇都宮駅の標高が約150mに対し日光駅の標高は533mである。宇都宮~鹿沼間はほぼ平坦線、鹿沼~今市間は10~20‰、今市~日光間は20~25‰の勾配が続き、旧形時代はモーター音高らかに登っていったが、107系は120KWのMT54のモーター音も軽やかに勾配を登っていく。文挟~下野大沢間は牧場の直ぐ横を走る区間があり、中に入れてもらえれば牛を入れての撮影が可能である。

競合路線として、宇都宮駅~日光東照宮間に関東自動車がほぼ1時間に1本運転されているが、途中のルートが日光線とは異なり、運行距離が長いため行楽シーズンは交通渋滞に巻き込まれやすいのと、運賃がJRより高いので通しで利用する人は少ない。以前は30分間隔で運行され、元観光バスの車両を使用していたが、現在は通常の路線車である。宇都宮~鹿沼間はラッシュ時10分、昼間20分間隔で頻繁に運転されており、運賃はJRより高いが、両市の中心部を通りドアtoドアで利用できるため乗客が多い。宇都宮、鹿沼ともに市の中心部は東武の駅付近で、バスはJR宇都宮駅から東武宇都宮駅、JR鹿沼駅の近く通り東武新鹿沼駅の少し先の新鹿沼出張所が終点である。以前は昼間も10分間隔で運転されていた。また、宇都宮~鶴田間は市内線のバスが頻繁に運転されている。

全くの余談であるが、東野交通のバスは東武宇都宮駅が始発でJR宇都宮駅を経由して各方面に運転されており、鉄道では大回りになる宇都宮~真岡、宇都宮~益子間は利用者が多く、本数もそれなりにある。面白いは宇都宮方面行の方向幕で「東武宇都宮」ではなく「宇都宮東武」と表示されている。京都市バスや京阪バスの「三条京阪」と同じ思想であろう。ところが江若鉄道のバスは「京阪三条」となっていた。宇都宮~茂木間もJRバスが運転されており、こちらもそこそこの本数があり、かつては茨城交通茨城線の終点御前山まで、更には水戸駅まで行く便もあった。

 

シックな佇まいのJR日光駅

 

上から正面玄関、待合室、駅名板、4カ国語で書かれた団体出口の案内板

 

ロッジ風の東武日光駅

 

相互乗入れ記念プレート(双方の日光駅の中間地点にある)

 

改築された下野大沢駅

 

改築された文挟駅 

下野大沢、文挟の両駅が改築されたのは、元々駅舎が老朽化しており改築の時期にきていたのと、規模が小さく簡単に改築が可能であったためであろう。鶴田、鹿沼、今市の各駅は規模がそれなりに大きいため当面は現状のままと思われる。

JR日光線の旅 (Ⅱ)

引き続き車両について解説する。

「小山車両センター」に日光線専用車両として、クモハ107+クハ106が8編成(1~8)16両配置されている。レトロ調への塗装変更が進行中で、9月9日時点では1、2、5の3編成が完了している。旧塗装は日光線の「N」をデザインした塗装で決して悪くはないと思っている。編成は2両、4両が主体で、日光行の終電と日光発の初電は6両といわれているが確認はしていない。昼間の1時間ヘッドの時は2両と4両編成が各1本ずつ2本で運用され、朝夕は2両、4両編成が各1本ずつ加わり4本で運用される。この編成は昼間宇都宮駅南側の留置線にパンタが上がった状態で停められている。

107系は、日光線と両毛線等の北関東地区のローカル線用として、昭和63年から平成3年にかけて急行形の165系の台車、主電動機、冷房装置等の主要部品を流用して国鉄工場(当時の大宮、大井、大船、新津、長野の各工場)で製作された電車で、経歴簿上は改造車ではなく新車扱いである。日光線の8編成は、165系の置換え用として昭和63年6月から順次投入された。クモハ107-4~8の5両は新製時より前位に霜取パンタを装備し、1~3も翌年追加された。高崎区の配置車両は霜取パンタがなく耐雪ブレーキを装備しており100番台に区分され101~119の19編成38両が在籍する。101~105は0番台と同じ窓配置であるが、平成元年9月以降製作の106~119は戸袋窓がなくなり扉間大窓3枚となった。日光線用の0番代とは併結可能で、時折小山区に貸出され日光線を走っている。 

座席はセミクロスシート対応の窓配置であるにもかかわらずロングシートで、観光客の多い日光線、吾妻線、上越線を走るのに何故オールロングにしたのか疑問を感じる。現在では不要となったが高崎区の車両は横軽通過対策がされており、方向幕には長野、軽井沢、石打、越後湯沢が入っている。前述の横軽通過対策と併せて、臨時列車等で使用する予定があったのであろう。高崎区で高崎~黒磯間を直通する運用が1往復存在する。

 

クハ106-3+クモハ107-3+クハ106-2+クモハ107-2  日光

 

クモハ107-1+クハ106-1+クモハ107-2+クハ106-2 日光

 

クハ106-7+クモハ107-7+クハ106-3+クモハ107-3  文挟

 

クハ106-5+クモハ107-5  宇都宮

 

クモハ107-5  宇都宮

 

クモハ107-6+クハ106-6  文挟

 

クモハ105-5+クハ106-5  宇都宮

【参考】高崎区の107系

 

クモハ107-101+クハ106-101  横川行(20.12.22高崎駅)

 

クモハ107-109他4連 桐生行(20.12.22高崎駅)

 

クハ106-106+クモハ107-106  高崎行(21.1.8 群馬八幡~安中)

旧形国電末期の日光線

オール旧形時代の昭和42年と43年、東武日光軌道線の撮影に行った時に乗車しているが何故か撮影していない。恐らく乗車したのが撮影可能な時間でなかったかも知れない。末期の47年12月から51年1月にかけて5回宇都宮駅で撮影している。

昭和44年3月末の国鉄車両配置表によると、小山電車区の旧形国電の配置は、クモハ41038、045、096、113、クモハ40054、クハ55400、サハ57049の7両で6両使用1両予備であった。

当時の運用は下記の通りであった。

小金井(回送)宇都宮21:50(845M)日光着22:31()5:18(822M)宇都宮着5:566:05(821M)日光着6:507:00(824M)宇都宮着7:457:56(825M)鹿沼着8:118:16(828M)宇都宮着8:31(回送)小金井

編成記録

←宇都宮

47.12.12 55400+41045+41096+41038+57049+40054

48.5.13   55400+41096+40054+41045+57049+41113

51.1.4    40054+41113+57049+41045+55400+41096

 

昭和47年12月12日の編成

各車両について

 

クモハ41038(昭和12年11月新潟鐵工製、昭和52年1月25日廃車)

                                                                    

クモハ41045(昭和13年10月日本車輌製、昭和51年5月28日廃車) 

 

クモハ41096(昭和10年6月日車支店でモハ40129として新製、11年4月40049に改番、昭和19年7月片運化改造で41096に改番、昭和51年5月28日廃車)

 

クモハ41113(昭和11年2月日本車輌でモハ40066として新製、昭和19年8月片運化改造で41113に改番、昭和52年1月25日廃車)

 

クモハ40054(昭和10年6月田中車輌でモハ40134として新製、11年4月40054に改番、昭和51年3月新性能化後国府津電車区の職員輸送用として使用、JR東日本に引継がれ、平成19年5月から青梅鉄道公園に展示保存)

 

クハ55400(昭和10年6月汽車支店でクハ55110として新製、11年4月55030に改番、42年5月55400に改番、昭和51年5月28日廃車)

 

サハ57049(昭和8年8月日本車輌でサロハ56002として新製、昭和18年3月戦時改造で57049に改番、昭和51年5月28日廃車)

(ネット情報)「一円電車」復活を 大阪の企業も応援 

産経新聞より転載

 来春の本格復活を目指す旧明延鉱山(兵庫県養父市)の「一円電車」を、大阪府藤井寺市の「丸菱電機」=高垣昌史社長(68)=が応援している。バッテリー機関車のリース・整備専門会社で、募金協力はもちろん、自社の運行ノウハウも指導しており、地元・明延地区の心強い味方となっている。

 同社は、久一義郎会長(89)が昭和29年に大阪市で創業。トンネル工事用などに「日本輸送機」(本社・京都府長岡京市)が製造した機関車を約250両を所有し、リースのほか、関西では丸菱電機だけが日本輸送機の指定整備工場となっている。

 もともと明延鉱山の機関車などの部品を納めていたが、2年前に明延の住民らでつくる「鉱石の道」明延実行委員会が、イベントで走らせる一円電車の客車を牽引(けんいん)するバッテリー機関車を同社からレンタルしたことが一円電車復活運動のきっかけにもなった。

 バッテリー機関車の購入や全長約600メートルの軌道整備には2千万円が必要だが、高垣社長は「バッテリー機関車が働く場所を与えてもらうことはありがたいこと」と、格安での譲渡を約束。今年6月には運行コースを下見し、同実行委に運行マニュアルや安全対策をアドバイスした。高垣社長は「運行は安全第一。一円電車の運行は、社をあげて応援します」と話している。

2009/09/22 22:30更新

1954年高校生修学旅行 その8


大分駅前

豊肥本線で内牧だったかで下車、どこかの温泉に泊まったが、勿論500人収容できる旅館はなく、分宿だった。翌日は天気が悪く、それでも阿蘇に上ったが、視野は悪く、ヨナ(火山灰)が小雨にとけ、漱石の「二百十日」の圭さん、碌さん程ではなかったが、散々だった。当時ロープウエイなどある訳ないから当然徒歩登山で、宿が作った弁当が飯とするめの佃煮だけという、戦時中の「日の丸弁当」(米飯の真中に梅干1個)並み=究極の質実剛健ぶりだったのを、何故か55年後でも覚えている。

小雨とヨナにまみれた落武者さながらの姿を大分までの列車内で乾かし、これも別府郊外(俗世界から猛烈に離れた)の旅館に泊まったはずだが、全く記憶がない。翌日はバスでの地獄めぐりと高崎山の猿見物(だったと思う)は、例によって観光をご辞退申し上げ、日豊本線杵築(大分交通国東線)か幸崎(日本鉱業佐賀関鉄道)に行きたかった。しかしどう時刻表を繰っても所定時間内の往復は不可能で、やむなく大分交通別大線の電車で辛抱することに。



日立製の201+204 総括制御可能の優秀車 大分駅前

1 100 200しか形式がないのに 名古屋から買ったからナゴヤ=758なるインフレ形式

これでも花電車というのかしら 新川車庫

とまれ大分駅前に行き、密連装着の200型2連を見、程近い新川車庫へ。かなりのクラシックな7580型なる、インフレ番号も極まった2軸電車が何両か。聞けば名古屋から購入したからゴロ合わせで「ナゴヤ」なる形式にしたそうな。そういえばどこか忘れたが、仙台の注文流れ?かで、1000という形式にしたところもあったはず。


この6は車体幅がせまいままである 婦人の外出は和服の時代 新川

大分駅前

高崎山のサル現在150匹 電話連絡で数字札を差し替えていた 北浜-別府駅前の支線は1956年10月19日廃止

北浜-別府駅前の支線の2軸電車の胴体には、高崎山の宣伝だけでなく、現在見られる猿の概数が表示されている。全く関係ない話だが、左奥に「総天然色 立体映画」のプラカード看板を持ったモンペ、地下足袋?姿のおばはんがいる。この映画「雨に濡れた欲情」は、リタ・ヘイワース、ホセ・ファーラー主演のコロンビア映画、専用眼鏡をかけてみる立体映画だった。東京の封切(なんて言葉があった)が1954年2月17日というから、ここ別府でもそれに近い日に封切られたのであろう。


北浜の大分交通支社 「たばこ」が右書きである

関西汽船の乗り場

別府からは関西汽船の夜行便に乗船し、神戸中突堤に上陸し、元町まで歩いて国電に乗って京都に帰着した(筈)。汽船内で当時初体験のソフトクリーム(50円=当時国鉄が26km乗れたから、現在なら480円に相当)を、残った小遣いと相談しながら恐る恐る口にし、こんなうまいものがあるのかと心底思った。(その6年後、若かりし乙訓老人と生まれて初めて生ビールに接し、この時も世の中にこんなうまいものがあるのかと思ったが)

「ローマの休日」でオードリィ・ヘップバーンがスペイン階段でソフトクリーム食べるシーンが周知だが、この映画の封切はこの年4月27日である。

2009年 秋の中国鉄路 一人旅 Part1 旅立ち

今年は、5月の台湾鉄路全線乗車の後、6月には、広州→深圳→香港→上海→杭州→天津と、早くから、暑い旅を続けましたので、疲れた老体を休めておりましたが、夏も終わり、秋風が心地よい頃となると、じっとできなくなっってきました。
ストレスは、身体に悪いので、ぼちぼちどこかへ行こうと、計画を練っていましたら、いつものように、家の用事ができて、行けません。オープンにしてある航空券の手配をしようとすると、今度は、『鉄道撮影に便利な、ご希望のキャンピングができるる中古車が、見つかりました。』と、電話がきました。車を見に行ったり、登録手続き等々で、また出られなくなってしまいました。仕方ありません、またまた、計画なしに、とにかく出かけてから行程は決めようと、出発の前々日に決めました

とりあえずのフライトの到着地を迷っていました。ナローゲージのSL芭石鉄道も良いし、早川先輩が満州に行かれて、遭遇されたジテを私も見てみたい。調兵山のSLも再会したいと、迷いに迷った末、瀋陽行きを申し込みましたが、オープンにしていた航空券は広州行きで、以前にはできた経路変更がJALの都合で、できなくなっていました。
こうなれば、意地でも瀋陽を目指そうと、中国鉄路の時刻表を見ますと、深圳から瀋陽北行きの列車が、1本あります。しかし、国慶節(中国の建国記念日)休みが近く、この切符が購入できるかは、分かりません。なかったら、なったらで、成混鉄路や、海南島への鉄道連絡船もあると、楽観的に考えて、出発する事にしました。

しかし、JALに電話すると、あれほど空席が続いていたのに、『当日は満席です。前日はあります。』との、思いもかけない返事です。仕方ありません。大急ぎで、旅支度をして、翌日には関空へと向かいました。

第1日目 9月17日

広州からは、CRHで深圳へと向かい、到着後、直ぐに、切符売場に並び、後席2席を、残すのみの瀋陽行きの軟座寝台切符を、手に入れることが、できました。

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1954年高校修学旅行 その7


プラットホームには小荷物の行李が放り出したまま 南熊本

熊延鉄道では十分満足し、南熊本で69665牽引の下り臨時列車を撮って、再び市電に乗り今度は熊本電鉄が発する藤崎宮前へ。


熊本市交通局54 南熊本駅前

ここも事前情報が無いままだったが、あんまり褒められない日立製102以外は結構小生好み―なんじゃい、これはといいたいような、一筋縄でない車両がいた。


ずらり並んだ車両は先頭の電動車以外異様?な木製車ばかり バックの医院の看板にもやや辟易する?
左から31、12、22 藤崎宮前

これは架線修理車モハ12←デ3←名古屋鉄道←竹鼻鉄道 屋根上ではポールさえなければ相撲がとれる  

芸備鉄道買収客車で その前は南満州鉄道

今頃になって芸備鉄道の竣功図と照合すると、ハユブ1~4の内で、両妻を撤去しオープンデッキとした事が分かる。社紋のある窓を含め右が旧郵便室、その窓の左側が三等室で、側戸式・車幅方向5人掛椅子が中央背中合わせで4列あった。22には明治37年鉄作新橋の銘板があったという(谷口良忠「熊本電鉄」鉄道ピクトリアル136号)から、芸備ハユフ1か2が前身だが、同じ出自の三岐鉄道ハユフ1が旧番のままだったから2であろう。芸備竣功図には前所有者南満州鉄道とあり、大量のB6機などと共に日露戦争で活躍し、帰還した車両で、三岐に1952年ごろまで残っていた旧車体(台枠以下を使い車体新製=ハフ13)には芸備の社紋があった。


1923年の改軌 電化当時車両不足で藤永田造船所製有蓋貨車を自社改造した客車

戦後の竣功図に「車体 西鹿児島工場」とあるところから、改造は同工場施行とされ続けているが、蒸気機関車ならともかく、誇り高い鉄道省工場が大正期にこんなケチな改造を引き受けるはずがない。これは、戦時中定員増加化改造(40→50人)を西鹿児島工場で施行=オープンデッキ・中妻を撤去したもので、民間車両会社は武器製造を強制されており、かような半端改造は(渋々?)国鉄工機部が担当したから。近江、三岐、東濃鉄道等に同様事例(名古屋工機部)がある。旧番はヤ(屋根付貨車の意)2→ハ8→コハ32。

菊池電気軌道3がホハ57になり 戦災で車体焼失後復旧した木製車
いまいちスマートさに欠ける日立製車

モハ101、102は戦時中のこととて、電化当時の旧京都市N電の取替名義で新製した由。社長の松野鶴平は鉄道大臣も歴任した辣腕政治家で、俗に「松野ズル平」=世渡りがうまく、才覚があった。敗戦直前空襲で変電所を焼失し、陸軍が鉄橋を破壊され鹿児島本線が絶たれるのを危惧し、迂回線建設のため持ち込んでいた鉄道連隊100式鉄道牽引車と貨車を、燃料とも占有=国有財産を無手続横領し、緊急避難的に運行したという。なお武蔵野鉄道→西武農業鉄道(ピストル堤)が大量の鉄道連隊車両を取り込んでいたのも、もっと大規模な横領であった。

立野での貨物列車

立野での59670

熊本の観光は熊本城と水前寺公園だけだから大して時間が無く、熊本電気鉄道も車庫まで行けなかった。翌1955年、何とか学生の資格が得られた1957年と、続けて室園車庫へ行き、旧海軍荒尾工廠の電気機関車ED1~3を含め結構撮影もしたが、これらはまたの機会に。

熊本駅で仲間に合流し、豊肥本線で阿蘇へ。

京成電鉄 創立100周年記念列車Ⅱ

京成電鉄は創立100周年記念行事の一環として、3300形4両1編成(←上野 3324-3323-3346-3345)を往年の赤電塗装に変更して8月25日より運用を開始した。今回は前回の青電の時のようなイベントは実施されず、通常の4両編成の運用に入った

9月5日(土曜日)都心に出かける時、たまには京成で行こうと思い、京成金町駅から3501編成に乗車した。あわよくば「赤電編成」が撮れるかもしれないという下心もあり、もう一本の編成を確認するため、一旦次の柴又で下車したが、やはり3500形の3592編成であった。高砂で乗換えのため上りホームで待っていると、「次の各駅停車津田沼行は4両編成で到着します」の下りホームのアナウンス。直ぐにモハ3345を先頭に赤電の4連が到着したので慌てて撮影した。特に急ぎの用事でもなかったので、次の特急に乗れば途中で追い越してもう一度撮れるだろうと思い成田空港行特急に乗車。車内は大きな荷物を持った海外旅行客が結構乗っており満員の盛況であった。最初からエコノミーに行こうとする人やスカイライナーの通らない都営浅草線、京浜急行沿線から青砥で乗換える人が結構いるようである。東中山で「赤電」を追い抜き、津田沼で再度撮影した。津田沼到着後の運用を見ていた処、客扱いを終えると上野寄りの引上げ線に移動し15分後に「回送」で成田方面に行ったので、宗吾検車区に入庫したものと思われる。その間に千葉方面から「青電」編成がちはら台行で到着した。

 

上り電車を待っていると「赤電塗装」の3345-3346-3323-3324が普通津田沼行で来た。

 

津田沼駅に進入する赤電編成

 

津田沼到着後は一旦上野寄りの留置線で引上げ、回送で宗吾検車区に入庫した。

 

塗装変更前

 

青電編成(3356-3355-3354-3353)

3300形の現状

4両編成8本に組まれて金町線、千葉線の津田沼~ちはら台間、本線の上野~津田沼間の各駅停車で使用されている。金町線は昼間20分間隔で1本の列車で折返運転を行っており、走っておればゆっくり撮影できるが、ここ数カ月の土日は3500形のことが多い。千葉線は10分間隔であるが新京成から乗り入れる松戸~千葉中央間と津田沼~ちはら台間が交互に運転されており両方の撮影ができる。但し、新車の3000形も入っている。いづれにしても「赤電」「青電」ともども、休日や昼間の撮影は運次第である。

車齢が40年になるので引退が近いが、来年度の新車は成田空港新線関連の車両のため、もうしばらくは健在と思われる。また、北総鉄道にリースしている車両は、カメラを持っていない時に限って走っており撮影は運次第である。こちらもあと2年位は健在であろう。

編成表

←千葉、成田          上野、押上→

3301-3302-3303-3304

昭和43年11月東急車両)

3309-3310-3311-3312

(昭和43年11月日本車両)

3341-3342-3319-3320

(昭和47年2月汽車)(昭和44年12月日車)

3333-3334-3343-3344

(昭和46年2月東急)(昭和47年2月汽車)

3345-3346-3323-3324(赤電塗装)

(昭和46年10月日車)(昭和45年12月日車)

3337-3338-3347-3348

(昭和46年2月東急)(昭和46年10月日車)

3349-3350-3327-3328

(昭和46年10月日車)(昭和45年12月汽車)

3353-3354-3355-3356(青電塗装)

(昭和46年10月汽車)(昭和46年10月汽車)

北総リース車(下段は北総鉄道での車号)

3305-3306-3307-3308

(昭和43年11月日本車両)

(7261-7262-7263-7264)

3313-3314-3315-3316

(昭和43年11月汽車会社)

(7265-7266-7267-7268)

 

トップナンバーの3301編成は昭和43年製で車齢は41年になる。

上/津田沼 下/柴又

 

金町~柴又間を走行する3309編成(3309~3312)

金町~柴又間は、明治32年帝釈人車軌道として開業し、明治45年4月京成電鉄に譲渡された区間である。

 

柴又駅に停車中の3341編成(3341-3342-3319-3320)

金町~柴又間を走行する3341編成

金町線はこの区間が単線で金町駅が棒線の行き止まりのため、平日ラッシュ時10分間隔、昼間20分間隔で運転されている。

成田エクスプレス新型車両 車両展示会

仕事の関係で、2009年9月8日火曜日に品川駅9番ホームで実施された成田エクスプレス新型車両 車両展示会に参加してまいりましたので、レポートします。

事前に手元に、展示会の招待状が届きましたが、封筒・招待状ともN‘EXのイメージカラーのもので、JR東日本の熱の入れようが感じられました。

展示されたク繝・?259-7

展示されたクロE259-7

品川駅9番線に展示されたのは、6両編成1本でした。7番線には、乗務員訓練用のE259系の6

連が2本停車していました。

雑誌などで、既に掲載されている通り、グリーン車は、本皮張りのいすで、2-2の座席配置。普通車も同じ2-2の座席配置です。

デッキ部との仕切りは、グリーン車は、木目調の両開き自動ドア。普通車は、ガラス

の両開き自動ドアですが、ガラスのは、スーツケースなどが当たって割り

ることは無いようにできているとは思いますが、少し不安です。

驚いたのは、クロE259車端部にある電動車いす対応の大型洋式トイレです。鉄道車両

の車内とは思えない広さと落ち着きがある空間です。

グリーン車車内

グリーン車車内

普通車車内

普通車車内 デッキの仕切りがガラス製

電動車いす対応大型トイレ 

253系では、旅客の編成同士の移動はできませんでしたが、259系では、移動が可能となります

。昔のキハ82系を思い出しました。

前面貫通路の舞台裏

前面貫通路舞台裏
車両と車両の間の下の方には、大きなダンパがとりつけられおり、結構目立ち

ます。車体間ダンパ
見えずらいですが、車体間ダンパ

10月1日より、下り N‘EX3 9 13 15 25 29 31 39 43 49 上りN‘EX4 8 12 16 26 30 32 40 44 50に投入され、約1/3の259系となります。

職を失った253系は、波動用となるとか、特急「草津」「谷川」の185系を置き換えるとか、いろんなうわさがありますが、果たしてどうなることやら・・・・結構、車体にガタがきているものもあるようなので、固定式の椅子だけでなく、相当手を入れないといけないかもしれません。

先日、JR東日本の規則が改正されました。転用を念頭に置いた改正と思われる部分がありましたので、ご紹介します。もともと253系は、成田エクスプレス専用車であり、特急料金は、A特急料金を適用となっていましたが、成田エクスプレス以外で、B特急料金区間で運用の場合、その適用をするという改正です。

209系の転用劇の前例もありますので、楽しみです。

最後は、7番線には、乗務員訓練用のE259系の写真です。後ろに、9番線の車両も写っています。

福田静二君 『京都市電⑥物語』 新聞記事

朝夕と、涼しくなってなってきたので、旅支度を始めているが、そんな時は、なぜか回りの事情がでてくる。今回も、前々日前の関空行き決定と、なりそうです。

今朝は、早く起きすぎて、2度寝となってしまった。家内から、福田さんの記事が載っていると言われまで、熟睡でした。
早速ではないが、また掲載紙を投稿します。
朝日新聞 『あいあいAI京都』 の、第1面を飾った記事です。

福田君の今日は、高校時代の写真部OB会の面々が、訪れてくれるとかで、会場におられますので、近くを通られたら、寄って見てください。

1954年3月高校修学旅行 その6 熊延鉄道


ヂハ201 諸兄には廃止後転じた江若鉄道キハ51、52としてお馴染みであろう

熊延鉄道とは、熊本と延岡を結ぶ、遠大というより誇大もいいところな構想だったのだが、元来県境とは、およそ人里はなれた山ばかりが常識で、この2点を結ばねばならない必然性には極めて乏しい。しかし同様の発想は日本中にあり、大社宮島鉄道やら、金名鉄道(金沢-名古屋)、大阪宮津急行電鉄、横荘鉄道(横手-荘内)、果ては日露支通運電鉄なんて(詐欺同然の)大風呂敷会社も計画されたことがある。

1954年時点では敗戦後数少ない機械式の新製ディーゼルカーが4両投入済であった。記号はヂーゼルということでヂハ、汽車東京1950年12月製ヂハ101、102(機関DA54)、帝国車両1953年3月製ヂハ201、202(DMH17)である。鉄道用へのディーゼル燃料は長らく正式の配給が無く、米軍の虎の威を借りた江若鉄道のみ他社より2年程先駆けたが、その後各社は名目のみディーゼル機関を代燃ガスで駆動などとし、その実ヤミで入手したディーゼル燃料を使っていた。ヤミでもガソリンや木炭よりはるかに安く、効率的だったからである。


ヂハ102 101共熊延鉄道廃止後玉野市営キハ102、103となる

熊延ヂハ101、102もその伝で、片側に荷台があるのは、(名目上)代燃ガス発生炉を積む、として認可を得たからで、現実にはその代燃炉もなく、100%ディーゼルカーで竣功している。ヂハ201、202では既に燃料制限は撤廃されていた。


島原鉄道キハ104を購入したヂハ103 廃止後は玉野市営キハ104に 機関はDA54A

もう1両のディーゼルカーは島原鉄道キハニ104→キハ104を戦後購入し、扉1か所を埋めたヂハ103である。他に1928年ガソリンカーを導入した時の梅鉢製2軸車(木骨鋼板張り)ガハ11、12を付随車にしたハ11、12、1932年日車本店製片ボギー車キハ31を客車化したハ31がいる。もう1両雨宮1931年製2軸ガソリンカー、レカ21は戦災で焼失。


梅鉢鉄工場1928年製 標記はまだガハ11だが、当然機関は下ろしている 内燃動車には珍しい(我国に5両しかなく、全て梅鉢)単台車装着の木骨鉄皮車 屋根が凹んでいる

1915年4月6日開業(春竹-鯰)時は当然蒸機で、客車は他例の無い雨宮製小型ボギー車4両だったが、余りにも小型で1933、1940年廃車。その後鹿本鉄道から岡部鉄工所製ボギー客車を購入しハ43としたが、これはまだ姿をとどめている。他はことごとく2軸車で、土地柄九州、北九州、小倉鉄道買収車等がおり、珍しくも播丹鉄道買収車も2両。これは水前寺から分岐していた三菱航空機専用鉄道の運行を熊延鉄道が請負っており、従業員輸送に購入した梅鉢製車で、記号番号は播丹時代のハ12、38のまま。木製エンドビームの両端に播丹の前身「播州鉄道」の鋳込銘板がある。江若鉄道三井寺下機関区にも同じシリーズの車体2両が建物代わりになっていたのをご記憶であろう。なお戦時中~敗戦後には蒸気動車も2両(内1両は三菱航空機)いた。


ずらり並んだ客車群 右端は「丈夫そうな」ハ51

ハ47 北九州鉄道の買収車

ハフ46 旧九州鉄道の古強者 デッキの次の窓は埋めている

ハフ42 小倉鉄道買収(再買収)車 元来は鉄道作業局

ハ49 これもハ47同様北九州鉄道のオリジナル買収車

ハ43 鹿本鉄道(→山鹿温泉鉄道)が戦前旅客をバスに重点を移し放出したロハだった 下はその台車


播州鉄道の鋳込銘板がエンドビームに残るハ12

同じく旧播丹鉄道のハ38

鋼製2軸客車ハ51、52は「丈夫そう」なハコ=客車である。戦時中若松車両で製造したワム23000形式が2両、何らかの理由で宙に浮いていた。陸軍用語なら「員数外」=いわばヤミ車両であろう。熊延鉄道が入手し、無手続で客車として使っていたが、1946年客車代用として設計を申請。いろいろあって、認可当局は1948年、客車代用は認められないから貨車とせよ。「目下の輸送状況から見て運転保安上支障ない限り貨車で便宜上旅客の輸送を為すは差し支えない」と、よく分からん言葉を並べて認可。


ハ51 この時点では手荷物車だが、敗戦後の混乱期には大活躍した―少々のことでは潰れない


ハ52 ワム23000から軽くするためエアブレーキを取っ払っただけで乗客を乗せていた 窓は後から開けたようだ

側面の窓などは、少し世の中が落ち着いてから小倉工場で改修したもののようである。流石にディーゼルカーが就役してからは手荷物車として使っていたが、まだ10年にもならないはずなのに、すでに車体外板の長土台との溶接部分が雨水が溜まって腐っており、余程粗悪な車両だったのであろう。なお以前高松琴平電鉄の(標準軌間)同様クハをご高覧に供したのを思い出されたい。

1954年高校修学旅行 その5


島原鉄道ホハ12087 左側2ブロック目は本来3個窓の筈が4個である 12088も同様

前回島原鉄道ホハ12087の窓が1個多いと記し、写真も入れたが分かりづらい。実は同じ車両だが1枚挿入漏れがあり、今回改めて窓1個多い客車をご覧頂こう。小生がこの「不思議」に気付いたのは、かなり後になった引延しプリント現像中で、安全光の下、バットの中で徐々に浮かび上がってくる画像には胸がわくわくするものだが、このときばかりは絶句し、己の目を疑った。こんな客車が有ったのか。木製客車ファンの端くれを自認(未成年の若造だったが)していたが、未だかってこんな情報はなかった。もしかして新発見?

2浪を経て何とか大学生の資格を得た1957年3月、三度目になる島原湊で、車両課に乗り込んで担当者に詰問。このくだりは鉄道史料40号(1985年11月刊行)に記したが、ご覧頂い方は少ないだろう。結果のみ記せば、国鉄制式中型客車であるホハ12087、88は、ちゃんと1・3×5の窓配置で製造され、廃車の払下を受けた島原鉄道では、車体大修理の際当時買い溜めしていたガラスを経済的に切断使用した結果、窓幅を若干狭くせざるを得ない。それに合わせて窓を配置=間柱を建てていったら、どこかで窓1個増設しないと辻褄?が合わなくなったという、「ウッソー」といいたい話であった。


三角での機回り 三角11時56分発572レは3軸ボギーの2等車連結だが何と準混列車

貨車入換中のC1190 準混列車を牽引し熊本へ

セムフ46 三角で 北九州なら珍しくも何ともない

ミ105 水運車がいるとは ここは水が悪いのであろう 

三角構内に放置されていた軽便無蓋貨車 連結器とも本格的な構造で単なるトロッコとは思えない

話を戻して、かろうじて無事汽船出帆に間に合い、三角港に上陸。ここから熊本までは1日7本の列車があり、うち昼間2本には2等車が連結されている。すなわち島原半島との観光客連絡列車で2等車は新婚さんへの配慮である。しかし我々が乗車した572レ=列車番号で分かるように、これは貨物列車に客車を併結した準混合列車―略して「準混」であった。熊本着13時14分。

熊本では観光バスに乗換え、お決まりの熊本城や水前寺公園をめぐる。小生は再び観光を辞退?して、熊本駅で16時11分発豊肥本線723レ大分行に必ず合流するからと誓約し、自由行動。今度はお目当て熊延鉄道に行ける。確か市電を辛島町で乗換えて南熊本へ行ったと記憶する。

今なら全国津々浦々情報が満ち溢れているが、当時熊延鉄道に関しては、僅かに有蓋貨車改造の「丈夫そうなハコ」客車(TMS誌号数失念)と、「機関車」第1巻第3号(読者)通信欄の竹島秀美「熊延鉄道の機関車」しかなかった。それだけ初見参の期待も膨らもうというものである。


熊延鉄道1号機と「丈夫そうなハコ」 ワム23000が種車だが詳しくは次回に


熊延鉄道1号機 日車1943年製28トン


5号機 日車1932年製25トン

3405 九州鉄道から国鉄、博多湾鉄道、西日本鉄道、再買収という経歴で熊延入り

ピッツバーグ1898年製45トン 9号機の筈だが3405のまま

正体不詳のCタンク機残骸 

祝 『京都市電⑥物語』 写真展開催

9月1日から、福田静二君による『京都市電⑥物語』写真展が、京阪七条駅近くの、『集酉楽サカタニ』にて、開催されました。
開催期間は、9月1日~30日です。早速、行ってきましたので、ご報告させていただきます。
福田君は、土日には、会場に詰めて、皆様方のご来場をお待ちしているそうです。是非に行って見てください。
京都新聞朝刊にも掲載されておりますので、ご覧ください。朝日新聞にも、後日に掲載されるそうです。

賛書紹介「あの電車を救え!」

昨年6月中旬、衝撃的なことがあった。何時お会い出来るかと、楽しみにしていた方が亡くなったことがテレビで報じられた。この年の前年、大宮に鉄道博物館が開館した。それに合わせた年賀状に、「ぜひお訪ね下さい」と添え書きされた【岸由一郎】さん、非業の死であった。何故? それは栗原電鉄の廃線跡を地域振興で活用するため現地へ赴いておられた最中、地震に遭遇された出来事であった。

平成14年秋、吉川文夫さんから電話があり「交通博物館で学芸員なさっている岸さんをご存知ですか、」との問い合わせであった。「存じません。」「ピクトリアルで京福福井支社の開業期について発表された方です。」「それなら覚えています、あの時2度読み返した位です。」「その岸さんが十和田観光電鉄の改軌、電化直後の写真を探していらっしゃるのですが、ふと思いついたのが貴方のことです。学生時代に東北の旅をされ、十和田にも行かれましたね。」「はい、その時のメモと自家現像のピンボケフィルムはまだ残っています。」「それを彼に提供して頂けませんか。」

翌日、書留で吉川さんから聞いた住所、小金井市のアパートへフィルム1本を送った。「お役に立つものがあれば、自家現像で薄い画像ですが自由にお使い下さい。」と、添え書きを入れた。その時思い出したことがある。共に故人となった三谷、能勢両氏を加悦駅構内の“SL広場”に案内した時、加悦興産の方から保存車両整備を手伝ってくれる若いお医者さんがいるとの話を聞いた。その方は笹田さんだなと直ぐ分ったが、笹田さんと岸さんがポン友の間柄だとは全く知らなかった。笹田さんのことが趣味誌で紹介される毎に岸さんの名前が見え隠れすることに気付き、鉄道遺産保存に熱心なコンビに尊敬の念を抱くようになっていた時期でもあった。趣味が高じて鉄道遺産保存に我が身を投じた岸さんの人物像が知りたくもあった。それはいくら鉄道が好きであっても、自分の生涯の仕事に出来なかった老人の歯がゆさでもあった。そうしたことからお二人の行動に感銘を覚えた。

さて、賛書「あの電車を救え!」は、笹田さんが行動を共にした岸さんの思い出、追悼の言葉をまとめたものである。何々ブームと言われる度ごとに「鉄チャン」の資質が世間で問題にされている。私たちはどうなのだろうか、胸に手を当て反省することはないだろうか。こんな思いに駆り立てられるのは、

鉄道遺産を自分の欲望達成対象としてのみに捉えている輩が多いが、本当に鉄道を愛するなら「お二人の爪の垢でも煎じて飲んでごらん」、と言いたい老人なのである。

岸由一郎さんのような人物が今後、鉄道趣味界に生まれるだろうか。また大切な我が子を、趣味の世界に没入する事を許したご両親に、敬意を表したい。

クローバー会の諸兄はぜひご購読頂きたい、賛美の書であると思っている。

「あの電車を救え!」親友・岸由一郎とともに 著者:笹田昌宏 

発売JTBパブリッシング 1,575

RM LIBRARY 51 十和田観光電鉄の80年 著者:岸由一郎 

発行所(株)ネコ・パブリッシング 1,050

ようこそ十和田観光電鉄へ

ようこそ十和田観光電鉄へ

電化と共に1951年製・オール日立
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最新型は1955年製・車体と台車は帝車/電装品は東洋
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30屯電気機関車・1951年 日立製
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