山科電化前後の記憶(1)

「山科電化」とはいうが、当然東海道全線電化(完了)が正しい。しかし1945年12月から1960年まで、丸々15年間を山科で、それも例の半径600m大カーブに最も近い所に居住したファンとしては、やはり「山科電化」といいたくなる。すなわちこの小文は、東海道線の電化工事ではなく、山科地区の、それもほぼ大カーブ前後に限った「視野の極めて狭い」思い出に過ぎないことをお断りしておく。

東海道線の電化は敗戦後1949年2月1日沼津-静岡、同年5月20日浜松に伸び、7月には湘南電車こと80系が東京から静岡に、翌年2月浜松まで延長。1953年7月21日電化は名古屋に達し、11月には稲沢まで電機が足を伸ばした。1955年7月15日稲沢-米原間電化で関ヶ原の難所が消滅。最後まで残った米原-京都間=東海道線全線電化完了が1956年11月19日であった。これで山科大築堤から蒸機が駆逐された。


先ずはポールがしばし安定して線路脇で寝ていられる枕木小片の要所配布から始まった

線路脇で待機するコンクリートポール 1955年12月10日

山科地区での本格的な電化工事は1年近く前の1955年12月ごろから、それもトロリーが先ず枕木の小片を築堤上の何か所かに配置することから始まった。これはポールが犬走りで安定するための「枕」だった。次いでコンクリートポールが、直線部分に限って配布され、穴掘りが開始された。現在なら専用のドリルがあるが、当時のこととて100%手掘りであり、ただ余計な掘削を避けるため、垂直方向に掘った土を持ち上げ排出する道具(手動)が使われた程度である。


建植済のポールにビームを付ける作業 竹ハシゴと滑車 ロープが活用されているが全くの人海戦術ではある 1955年12月23日 手前は国道1号線鉄橋

ポールの建立もあっけないほど簡単で、長い丸太と滑車でポールを持ち上げ、穴に納め、土を埋め戻して足で踏み固める。垂直かどうかの検査も、垂鉛―というと聞こえがいいが、要は紐にぶら下げた錘を片手でかざし、2方向から目視し、ロープを引っぱって修正しおしまい。

なぜか直線部分のみ、ビーム取付も先行した。ご存知この区間は下り1線、上りは戦時中に1線増やした2線だが、その1線を休止。予め配布済のビームも線路脇に待機している。列車の合間に長い丸太を2方向からロープで支え、滑車で吊り上げ、線路と平行状態で一旦待機。列車が通過直後に90度回して両端をコンクリートポールに止める。なお架線作業は完全に電気屋(電力区)の分野だが、保線区も当然ながら立ち会って、列車の運行状態等にアドバイスしていた。この日は上り線の中央が休止。


京津線跨線橋での上り貨物。蛇足だが1954年8月30日のD52365ボイラー破裂事故はこのあたりで発生し、小生が自宅2階から目撃することになる。

カラフルDC-加太編(1)

  • カラフルなディーゼルカー(気動車、以下DCと表記)のこと

 蒸気機関車牽引の旅客や貨物列車の撮影によく出掛けました。それらの合間には、どの線区でも必ずカラフルなディーゼルカーが通過しました。蒸機列車と違い、バックを気にしなくてもよいし、なによりも周囲の風景によく溶け込んで見えました。それは当時の日本の風景の一つでした。でも我々は当時、貧乏学生か薄給な勤務初年兵であり、高価なカラーフィルムをふんだんに使えません。蒸機以外は撮影しないことにしていました。それでも時々気が向けば、通過する通勤通学や優等列車のDCにカラーフィルムを消費していました。
 そんなポジフィルムが、およそ300コマほど残っています。拙著HP『蒸気機関車山路を行く』のテーマから外れているので、アップもしていませんでしたが最近、ページ稼ぎに『カラフルDC』としてアップしました。幸いカラーの損傷が少ないので見ることはできますが、如何せんバカちょんカメラに中程度の撮影技術。お目にかける代物ではない物も多いのですが、ご辛抱ください。また、DCの形式説明などに誤りなどがあるかと思います。ご遠慮なくコメント欄等でご指摘ください。お願いします。

 まずは、加太会で撮影した関西線加太付近のDCからです。

1.加太会発足の日、320D湊町発亀山行き、キハ35が画面左へ25‰の坂を下ります 

 2.同日323D、昼前の亀山発湊町行き。キハ35とキハ20の混編成です。

3.明けて1965228日。206D準急「かすが1号」です。キハ55、キロハ25など。後部には、2両のキハ17が併結されています。まさか客扱いはしていないように思われます。翌日からのダイア改正に備え回送かもしれません。この日は、例の2442レ「鳥羽快速」の運転最終日でした。「かすが1号」の8分後に撮影地を通過しました。最終日の蒸機はC57148で、現在大阪の共永興業株式会社の本社ビル内に陳列されています。同社の本社ビル完成記念に整備陳列したものです。同時発行の「永遠に走れ!われらの蒸気機関車」と題した箱入りSPレコード付記念誌が手元にあります。
 一日の撮影終了後、関駅まで出て、文字通り最終の2441レで山陽本線兵庫まで乗車帰宅しました。19644月入社の初年兵は、毎朝兵庫から大阪まで、「鳥羽快速」で通勤し、時に帰りも同列車でした。11ヶ月間の客車通勤もこの日でおしまいでした。 

 4.中在家信号所の334D湊町発名古屋行き、5時間近くの運転です。画面奥の待避線で335Dと交換し、手前の待避線にバックで進入、再び方向転換して坂を下って行きました。

 5.DC列車は併結・分離が得意で、分岐駅の多い関西線にはそんな列車が沢山通過しました。 これもその一つ、準急「平安1、かすが1号、はまゆう」の奈良、白浜、京都行きです。キハ55、キロハ25などが見える10両編成です。

 6.同日332D、キハ35の4連です。農家は稲刈りです。刈取り機から粉塵が上っています。懐かしい日本の風景の一つです。

7.同様の334D、今度はキハ20との混成5連です。

 次回は、特急「あすか」や急行に格上げされた「かすが」、「はやたま」などをお目にかけます。

Re. ニュースから2題/西日本車体工業8月末日会社解散

..生さんが投稿された【6628】で、堺市が殆ど決まりかけていたLRTの導入を断念したことと、西日本車体工業が8月末日をもって会社解散のニュースを拝読した。

関東地方でも宇都宮市においてJR宇都宮駅東口~清原工業団地間にLRT導入の計画があり、昨年の選挙では知事、市長ともに推進派が勝利したが「税金の無駄使い」「そんなもん作って誰が乗るねん」という意見が根強くあるため、実現の可能性は微妙な情勢である。また、路線バスを運行している関東自動車も乗客を取られる立場から反対しており、中量輸送機関が必要であれば「連接バス」の方が良いという意見もある。確かに需要予測が極めて過大、かつ成人1人当たり1台以上マイカーを保有しているような土地柄、しかも工業団地への通勤者の9割以上がマイカー通勤といった現状では、反対派でなくても、導入に対して疑問を持たざるを得ない部分が多々ある。

堺市の場合は、幹線である南海本線・高野線と阪堺線・上町線の沿線を結ぶネットワークとしての機能を充分に果たせると思う。都電荒川線が好調な理由は、三ノ輪橋、町屋駅前、熊野前、王子駅前、新庚申塚、大塚駅前、東池袋4丁目、鬼子母神前の各停留所で幹線系の鉄道と接続しており、そのフィーダー輸送としての役割を果たしているためと、160円の運賃が適正と認識されているからであると思われる。東急世田谷線も同様のことが言えるであろう。

西日本車体工業(以下西工と略す)の8月末日会社解散のニュースはショックであった。ご承知の通り「西工」は「西鉄」の連結子会社で、平成4年に日産ディーゼル指定のボディー架装メーカーの指定を受けると、今までの西日本中心の販売から全国展開となり、関東地方でも、東京都営、横浜市営、京王バス、東急バス等で日常的に見られるようになった。

我々の世代で「西工」といえば、昭和41年2月にモデルチェンジした、H..生さんも書かれている「正面窓付近の逆『く』の字形のデザイン」(通称「かまぼこ形」)を思い出すが、それ以前の車体も全体的に丸味を帯びており、他社の車体とは一線を隔していた。余談になるが、某ミュージック劇場の宣伝カーに使われていた車体の前後共に丸味を帯びていたマイクロバスも「西工」製であった。

昭和53年10月のモデルチェンジは、基本構造は「かまぼこ形」を踏襲するも全面のプレスを変更して、逆『く』の字の角度が浅くなった。(通称「はんぺん形」)

昭和58年10月にフルモデルチェンジが行われ、車体がスケルトン構造となり、丸味がなくなった。以上が路線車の車体の大凡の変遷である。

スケルトン車体以前、モノコック車体時代のユーザーの東限は、近江鉄道辺りと思われているようであるが、実際はもっと東で、昭和28年に旭川市の「近藤バス」に納入実績ある。これは例外としても、近江鉄道に「かまぼこ形」が近江八幡、彦根、長浜の各営業所に配置され、彦根営業所の車両は名古屋近鉄バスと相互乗入れで彦根~大垣間、長浜営業所の車両は木ノ本~敦賀間で使用され、岐阜県、福井県まで足を伸ばしていた。「かまぼこ形」以前の「丸形」は仙台市交通局にまとまった両数が納入されている。また、群馬県の上信電鉄と群馬中央バスに納入されており、これらを初めて見た時には「何だ、これは」と思った。群馬中央バスは昭和61年頃まで生き残り、最後は競輪場の観客輸送に使用されていた。静岡鉄道に「かまぼこ形」がまとまった両数が納入され、東海道線安倍川鉄橋の前後で車窓からよく見られた。

関西では、ユーザーにより「好き嫌い」があったようで、京都市交通局や大阪市交通局、阪急バス等では好んで導入されていたが、京阪バスは「丸形」1両、「かまぼこ形」が4両納入されたのみである。京阪グループでは、江若交通に「かまぼこ形」が6両納入され、安曇川営業所に配置、若江本線にも使用され小浜まで足を伸ばしてした。福井の京福電鉄に「かまぼこ形」が1両いたが、自家用中古車を改造したものである。(京福電鉄のバス部門は子会社の「丸岡バス」に売却して、「丸岡バス」が「京福バス」に社名変更している)岩手県交通に「かまぼこ形」の自家用中古改造車が1両いた。

昭和60年頃まで、地元の京成電鉄バス、新京成電鉄バスに相当数の「かまぼこ形」が見られたが、京成自動車工業が西工のライセンス製造したものである。ところが「NSKボディー」の銘板を付けた車両もあり、実態を調べようと思っていたが廃車されてしまった。

スケルトン車体になってからは新車の他に、大阪市バスや阪急バス等の中古車が広範囲に存在するが、あまりバスの話をすると「この人何者」と思われるのでこの辺で止めておきたい。

会社解散により、正社員290名は、他の西鉄グループの会社に転籍されるであろうが、派遣社員、契約社員等の非正規雇用の人は現契約期間満了と同時に失職することになると思われる。また、下請業者まで含めると影響は計り知れない。今回の最大要因は「日産ディーゼル」と「三菱ふそう」の合弁会社設立により、バス車体の生産を「三菱ふそうバス製造(MFBM)」に集約するというバス業界の再編成によるものであるが、昭和21年10月以降65年に亘る歴史が消え去り、何年か後には「西工」で作られたバスそのものが姿を消してしまうことになると思うと、誠に寂しい限りである。

モノコック車体時代の印象に残っている車両を画像と共に紹介する。

丸形車体

 

京都市バスのツーマン車/40年式BR20(中書島のターンテーブル)

 

42年式BR20(北野線代替バス)

 

仙台市バス/39年式MR470(仙台駅前で初めて見た時、不思議な感じがした)

 

群馬中央バス/45年式RB120 初年度登録が年式となるため45年式となっているが、41年製のサンプルカーを購入したもの。丸形としては最末期の車両である。

 

宮崎交通/39年式RC100P 初期の冷房車で冷房機が天井に付いている。

かまぼこ形

 

かまぼこ形の初期車/44年式BA30(伏見線代替バス)

 

ワン・ツーマン兼用車/48年式BU04(中書島のターンテーブル)

 

定期観光バス/49年式MR470(形式からも判るようにエアサスではない)

 

改造冷房車/51年式RE100/市電錦林車庫廃止時の導入された低床車で、この1両のみ試験的に冷房改造した。

 

京福電鉄福井支社/43年式MR410(元自家用の送迎車に中扉を設置して路線車に改造した)

 

近江鉄道/44年式RE120

 

江若交通/46年式BU05

 

尼崎市バス/44年式RE100(かまぼこ形の初期車であるが、上下共にサッシ窓のため新しく見える)

 

京都交通の急行用車/47年式B805L(冷暖房・リクライニングシート付で、山陰線電化前、祇園~園部間を東舞鶴・天橋立系統と合わせて15分間隔で運行されていた。福知山、夜久野行もあり、ダイヤ通り走ると普通列車より早く、丹波と京都市内中心部を直結する交通機関として多くの人に利用されていた)

 

京成電鉄/上:43年式BA30・下:44年式BU10(西工のライセンス製造の京成車体工業製である。「西工」の銘板が付いていた車両もあったが、会社の諸元表は全車「京成車体工業」と記載されており、実体を調べ損ねた。転居当初、身近に「西工」が存在したことは心強かったが程なく姿を消してしまった。

はんぺん型

 

京都市交通局/54年式RE121

 

京都市交通局/57年式K-MP118K

 

熊本バス/56年式K-MP107K(熊本バスの前身は熊延鉄道である)

 

熊本電鉄/57年式K-MP118M

 

 

 

 

 

 

 

 

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part10 撮影最終日も『トホホ』

第6日目 2010年1月3日

① 犍為天波大酒店8:30-(チャーター車)→8:50石渓站9:32-(第2次)→10:01蜜蜂岩駅
② 蜜蜂岩站12:45-(バイク)→石渓站-(チャーター車)→13:20飯店14:00-(チャーター車)→18:50成都

今回、最後の撮影日です。いつものように、朝起きて窓の外を最初に見ますが、滞在で1番の濃霧です。日頃の行いを悔やみますが、こればかりは、どうしようもありません。今日は、撮影後石渓站から成都のホテルまで戻りますので、スーツケースをチャーター車に積み込んでの出発です。
8:50石渓站に到着後、ゆっくりと時間が取れたので、構内を散策できました。
▲ 遅れましたが、これが、切符売場と待合室です。でも、待合室に待つ人はいません。みんな、ホームでたむろしているのが、日常的です。 続きを読む

続・電車は4両がええ

元電車少年は電車の話となるといまでも眼の色、顔の色、爪の色も変わる。4両がええなあとなったのは、線路脇でカメラを構え1列車を入れるのに頃合いの角度となるからであった。理由は窓の数、台車の格好がよく分かったからだ。この話を高橋師匠にしたら、「架線柱の間隔は何メーター毎か知ってるか?」との質問があった。元電車少年は知らなんだ。「50メーターおきやで。」と教えられた。「これをもとにしてパンタの位置を頭の中で計算して撮るのに4連が一番うまい具合に入る。」つまりパンタと架線柱が重ならない方法だとのこと。それから時々意識するようになった。でも、どの電鉄でどんな形式の4連での話しだったかは覚えていない。準特急さんの写真をわくわくしながらみせていただいているが、近鉄2200系4連、おしいなぁ-。奈良線900系片パンならうまくいったかも。小田急ちょいと首ひねれば・・・・・・。汽車撮る時はハエ叩きを意識したものだが、電車はパンタと架線柱、元電車少年は窓配置と台車。50ミリ標準レンズ1本、1/500で勝負していた時代のお話。今は撮影機材に恵まれているが、元電車少年にはPC同様さっぱり理解できない見えない世界のことだけに悔しい。でも皆さんのおかげでたのしい世界を垣間見る事が出来て、冥途の土産話は増える一方だ!

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part9 竹の香り

投稿前に準特急先輩の『電車は4両がええ』を読ませていただいておりましたが、私の小学生時代は、校庭から、阪急と国鉄の両方が見え、阪急京都線は、まだ2両編成が走っていました。一方の東海道線は、SL全盛期で、汽笛と共に、白い煙をはいて走っている列車を、いつも見ていたのを思い出しました。
当時は、我が町も人口1万人強の田舎町で、田畑が殆どでしたので、何処からでも、こんな光景を見る事ができました。

第5日目 2010年1月2日

① 犍為天波大酒店8:40-(チャーター車)→9:10石渓站9:27-(第2次)→10:22菜子埧站
② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站18:03-(観光列車)→18:35石渓站  

道を歩き、未舗装の凸凹道に出ると、殺風景な集落が続いていました。胡小姐は、その中に建つ2階建ての民家に入っていきました。いったい、どうするのでしょうか?
見れば、雑貨店です。胡小姐は、何やら交渉をしています。そして、『丁度、お昼ご飯の準備をしているそうです。家族の人と一緒に食べてもいいですか?』と、聞いてきます。原住民の方の食事をいただけるとは、感激です。勿論、OKを出しました。
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電車は4両がええ

 中国旅日記であんなことあるのかと怖くなり、また、日々デジカメとパソコンで悩んでいる超アナログ人間が今日は失礼して割り込まさせてもらいます。

 近鉄大阪線長谷寺~榛原と言えば超有名な撮影場所。もうかれこれ5年くらい前のことであるが、近鉄特急の著者、総本家青信号特派員、新京阪沿線在住の元電車少年各氏と行った時のことである。元電車がふともらした言葉。「あんなー、電車ちゅうもんやなー、4両くらいが丁度ええんや」

 この含蓄のある言葉。小生なりに4両ならMT半々が多く、パンタの位置も対称的で横から撮るにはいいのかなとか考えてみた。しかし、待てよ。ローカルムードは単行がいいし、長編成の方が堂々としてカッコいいとも思う。これは人それぞれのような気がする。

 そして、やはり、各人それぞれが通勤通学などで毎日乗ったり、眺めたり、つまり、最も接触度の高い電車が好みとなるのではないか。それが、4両の特急であったり、10両の急行であったりするのであろう。撮影地などで鉄道少年に好みを訊くと殆んどが、JRのブルートレイン、特急電車と自分の住む近くの私鉄をあげる。多分、好みの電車は地域と時代が影響するのであろうと言うのが小生なりの結論である。勿論、そうでないという人も居られることは承知している。 

 ところで、京都の趣味の世界の大御所高橋弘さんの「関西の鉄道、その懐かしき時代」と言う交友社発行の写真集がある。お持ちの方も多いと思うが、この本は昭和20年代後半から昭和30年代のまさしく4両編成全盛期と言っても過言ではない時代の作品集である。戦前の古豪と各社競って発表した初期の高性能車が競演したこの時代は趣味的にも最も面白い時代であったような気がする。元電車少年の「電車は4両くらいがええ」と言うのはこの地域のこの時代を言われており、もっと言うなら、最近の暖かみの無い人間運搬車と化したステンレス長編成電車に対してうんざりされての発言ではないかと言う気もする。断っておくが、元電車少年はベースは地元関西であると思うが、日本全国くまなく行脚され、路面電車に至ってはドイツを制覇されたことを申し上げておく。

 小生はそのような諸先輩から10年遅れて趣味の世界に入った。最初は蒸機で出発したが、DRFCの会員となった時、授業をサボって連日行われた伝統(?)の京阪・阪急論戦に巻き込まれ、次第に大手私鉄にも趣味の対象が拡がっていった。しかし、私鉄撮影を始めた頃には戦前の古豪はローカル運用中心で、初期の高性能車も阪神3011系や京阪1800系のように3ドア化されたり、ロングシート化されたりして原型を留めていなかった。それでも凡そ40年前の記録なのでフィルムに古傷の多い毎度の拙作ではあるが、数点披露したい。

①阪急900、920(1967.6.6 宝塚南口~宝塚武庫川橋梁 宝塚行き)

4両と言えば、阪急神戸線の900、920の特急を思い出す。赤い円形には白地で大きく特急、その両側に大阪、神戸と書かれていた。猛スピードで阪神間を往復していたが、気づいた時の920系は6~7連の各停運用。後年、今津線で写した4連に特急時代を重ね合わせた。

 

②阪急1000~1003(1969.3.4今津線仁川~甲東園 宝塚行き)

 阪急初の高性能車。戦前の阪急スタイル920を踏襲して製造された戦後製の710、810の直ぐ後にデビュー。そのスタイルは大きく変化して次の時代の阪急スタイルとなった。そのスムーズな加速と静かな音は小学生には驚きで、2連で今津線に入線した時はわざわざ折り返して来るのを待って乗った思い出がある。

 

③阪急107・1529・105・1525(1969.1.30西向日町~長岡天神 天神橋行き)

 関西3名車の一つP6が幌枠付きで4連で特急、急行で走る姿が最高。その姿には間に合わなかったが、それでも学生時代は各停3連と急行6連が結構見られた。撮影メモを見ると1968年頃から京都本線の各停には4連が登場していた。この独特の風貌を持つP6の最盛期は戦前の新京阪時代の2連あたりであったのかもしれないが、晩年の6~7連の線路が傷むほどの走行ぶりも魅力的であった。この電車に乗りたくて下宿を京都郊外に構えたほどである。

 

④近鉄2205・3011・2233・2304(1968.9.9赤目口 上本町行き急行)

 近鉄特急の著者から、学生時代に当時旧2200で2ドアの原型が2両残っていることを教えられ、時々、大阪線、名古屋線を覗いて見た。急行は5~6連が主体であったが、4連も見られ、2ドアの片目スタイルが先頭で来た時はやったと思った。

 

⑤近鉄908(1968.4.20東生駒 上本町行き特急)

 大型化された奈良線で無料の通勤タイプの特急が4または6連で走っていた。中には白色も残っていた。ネガを見ると800等小型高性能車も写っている。昨年、兵庫県で近鉄車両を撮ったので、今度は奈良県で阪神電車を撮りたい。

 

⑥南海2017・2818・2024・サハ4801(1969.3新今宮 難波行き特急)

 南海2000も大出力の古豪電車。客車を牽く姿であるが、新宮発の客車は和服のおばさんの影になってしまった。これも4連電車である。

 

⑦京阪1804~1805(八幡町~淀 淀屋橋行き急行)

 京阪の初期の高性能車。後に続く1810系とは車長が1メートルほど短いことは最近知った。この時期はまだ、特急色で2ドアの姿であったが、ロングシート化され、主に急行運用に入っていた。当時のネガを見ると他の急行も5~6連が多く、4連の急行はこの時期にはなかったのではないかと思われる。

⑧小田急1159~1059(2009.10.4富水 箱根湯本行き)

 最近デジカメで撮った4連のうち二つ披露する。箱根登山カラーと言おうか、スイスカラーと言おうか、新松田~湯本間に毎日見られるもの。

⑨富士急1101~1205(2009.9.13 寿~三つ峠 大月行き)

 元京王5000の2連+2連の4連。最近、富士急では客寄せでレトロカラーなどを復活させており、その都度、訪問せざるを得なくなった。

 以上4連を中心にした古いネガを出してみた。 ご笑覧下され。

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part8 『トホホ』の反省

今出川浄福寺さんより、コメントをいただきましたので、ご返信をしたいのですが、JPGファイルを添付できません。申し訳ありませんが、恥かしながら、ここに掲載させていただきます。

上記が、問題のSD-HCです。ケースは、廃棄しましたのでありませんが、現物です。

そして、保存されたファイルは、337カットありましたが、開けるファイルは、84カットのみで、残り253カットは、修復ソフトで、復旧を試みましたが、不可能でした。

デジカメをご使用の皆様、繰り返し使用できるメモリーです。何回も安心して使えるのが、もっとも重要な事です。私のように、『安物買いの銭失い』になって、折角、苦労して撮った写真が、消滅する事がないように、日本で、信頼できる店で高くとも、間違いないメーカー品を購入される事を、お薦めします。私も帰国後、直ぐに本物を買い求めました。 Part9 へ続く

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part7 『トホホ』のスタート

第5日目 2010年1月2日

① 犍為天波大酒店 8:40(チャーター車)→9:10 石渓站 9:27-第2次)→10:22 菜子埧站
② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站-(観光列車)→石渓站

6:30、今日は、1日中、芭石鉄道を撮影します。張り切って起床し、部屋の窓の外を見ますと、昨日と同様に、霧です。四川盆地特有の気象ですが、とりわけ大渡河沿いのこの辺りは、霧発生が日常的だそうです。何とか、撮影時には、晴れて欲しいと祈りながら、石渓站に向かいました。

途中で、昨日、石炭ガラが目に入って、眼の痛みがひかないのを、心配した胡小姐は、病院に寄ってくれました。同じ症状の患者が多いそうで、目を洗浄してもらいますかと、聞いてくれましたが、芭石鉄道撮影を優先したいので、丁重に断りましたが、しかし、その後も、ゴミは取れず、北京に着くまで、痛みが続きました。

今日は、サングラスとマスクは忘れず、ホカロンも衣服に付けて、準備は万全と思っていましたが、昨夜、今までの撮影をパソコンにバックアップした際に、CFメモリーをカメラに戻すのを、忘れてしまっているのに気づきました。しょっぱなから、また、『ドジ』を踏んでのスタートでした。

しかし、今回の旅のために、デジタル1眼レフを、NIKON-D300からD300Sに買い換え、パワーアップしました。以前のようにCFカードのみの使用から、主流のSDカードも併せての使用が可能です。これで、RWA+JPG画像に分けての使用ができるようになりました。

SDカードは、上海の電器屋街で格安で購入したSD-HC16GBが、入っています。試しに、連写をして、撮影後のモニターを見て確認しましたが、問題ありません。
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白鬚駅、探してみましたが‥

西村さま、ご無沙汰しています。
江若鉄道高島町駅に続いて、白鬚駅の模型化に挑戦されているとのこと。ご同慶です。やはり、江若鉄道の廃止は、鉄道趣味の中でエポックメイキングな出来事であり、在学中の最大の思い出でしたね。
白鬚駅の駅舎の写真がないか、すぐに探してみたのですが、残念ながら私の撮った中には、該当する写真はありませんでした。白鬚となると、どうしても湖岸の鳥居に気をとられてしまい、駅舎までは気が回らなかったようです。
関連する図書として、大津歴博が発行した江若鉄道の図録も見たのですが、載っていませんでした。ただ、江若の木造駅舎は、おおよその意匠は共通のようで、他駅から類推することが出来るかもしれません。
お詫びに、つぎの写真2点を貼っておきます。最近、取材で当地を訪れる機会がありました。駅や線路を偲ぶものは何も残っていませんでしたが、湖上の鳥居はそのまま、神社の境内も昔のままでした。

江若最終日、車内から見た白鬚駅付近

40年後の白鬚駅跡。線路跡は国道の拡幅に利用された

江若鉄道 白鬚駅について

白鬚駅

白鬚駅

久々に江若鉄道のことで皆さんにお願いがあります。以前から工事を続けていました高島町駅も完成に近づき(まだ大々的にご紹介するところまで至っていませんが)、そろそろ第2弾の構想を練りはじめています。お隣の白鬚駅を作ろうと考えているのですが、またしても情報がありません。特に駅舎の写真がほしいのです。プラットフォームや白鬚駅での車両の写真は散見されますが、道路側から駅本屋を写したか写っている写真をお持ちなら、あるいは何かの図書などに出ていることをご存知なら 是非お教えください。唯一 参考になるのは昭和44年9月6日付け京都新聞土曜版のカラー写真です。唐破風をもった瓦屋根がうまく作れるか自信はないのですが、護岸と湖水面、できれば鳥居を入れたジオラマを描いています。よろしくお願いします。

ニュースから2題

身近なことからいうと、堺市が殆ど決まりかけていた新型LRT電車の導入を断念。これにより久々の関西地区における路面電車の新規路線の夢が画餅に終わった。それのみならず阪堺線の堺市内区間の存続も極めて危うくなったことが想像できる。単に鉄道マニアだけでなく近未来の交通政策を考えているものにおいても非常に残念な結果になったといえよう。

昨年の堺市長戦における争点であったLRTの導入は、前市長のシャープの工場誘致とともに大浜地区の活性化などのビジョンは描けていた。しかしリーマンショック以降の急速な経済状況の悪化で、「もしかして赤字が増えるものはやらない方がいいのでは」という世論にもつながった。橋下大阪府知事の政治パフォーマンスも時にはポピュラリズムに敷衍する。識者としては非常に残念な結論と言えなくもない。今の経済状況下では消極法しかでてこないが、これでは座して死を待つのみではないかとも言えるであろう。橋下知事の大阪府政には戦後処理的な暫定的な役割も感じるがそこの負の部分が最もでたことの一つがこれではないだろうか。

もう一つのニュースは鉄道でなくバスの話。九州に本社をおく西日本車体工業が会社解散という悲痛なニュースだ。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/keizai/detail/20100122-OYS1T00197.htm

70−80年代に正面運行窓付近の逆「く」の字型の車体デザインで一世を風靡したNSKボディーであるが、近年は親会社である西鉄のバス事業がずっと縮小して苦戦していることが伝わってきた。今の路線バス事業はローカル部門は殆ど赤字でそれを高速バス事業で補うのがせめてもの経営。しかし高速道路の大幅割引で公共交通の役割だけでは存続が困難になった事業者が増加している。そうでなくても西鉄はじめ九州地区ではバス会社の苦境が伝わっていた。

NSKボディーは京都市バスでもかつては結構見られたが、私自身が九州出身だけに非常に残念に思う。またこういう企業が無くなって代わりの産業があるかという問いに「ない」としか言いようがないのが今の社会状況だ。

映画「フラガール」では常磐炭坑の閉鎖に伴い「ハワイアンセンター」設置の夢というテーマがモチーフになっていた。今の地方には就業や若者の未来、数十年働ける環境や企業の存在と言った基盤が非常に薄い。そういう背景からみてもこの西日本車体の解散には行政や地方政治の無策を痛切に感じる。地方の「荒れ」は最後には日本中を覆うのではないか。私の不安ができれば当たらないことを願うのみである。

「こだま」型 若き日の思い出 (4)

昭和30年代後半になると各地の幹線で電化が推進される。その多くは交流電化が採用され、直流区間にも乗り入れ可能な交直両用の特急用車両が計画された。「こだま」型の人気は絶大で、地方からも「こだま」型電車の到来が待ち望まれていた。
このような背景で生まれたのが、「こだま」型の交直両用電車、60Hz用481系、50Hz用483系で、それまでのDC特急を置き換えたり、新設の特急を誕生させた。
その嚆矢として、北陸本線に「雷鳥」(大阪~富山)「しらさぎ」(名古屋~富山)各1往復が、昭和39年12月から走り始めた。もともと、東海道新幹線開業の同年10月から運転予定で列車ダイヤにもスジも入れられていたが、肝心の車両が間に合わず、年末からの運転開始となった。

山科大築堤を行く、運転開始間もない「雷鳥」。わずか1往復の運転で「第◎雷鳥」でも「雷鳥◎号」でもない、ただの「雷鳥」

 初めての481系も山科で撮っている。151系に比べて床面が高く、その分ボンネット部が圧縮され、ややズングリした印象であるが、60Hz用を示すためスカート部が赤に塗られたのが新鮮だった。今まで電車とは全く無縁だった北陸本線に「こだま」型が走り、しかも京都で見られるとは、大変な嬉しさだった。その後、さらに151系と識別を容易にするため、昭和40年10月改正増備車からは481系、483系ともに赤い”ヒゲ”が入れられた。
北陸に待望の「こだま」型が走ったのだから、その人気ぶりは伺えようというもの。改正後ごとに「雷鳥」「しらさぎ」は増発が続けられ、昭和53年10月改正では、「雷鳥」19往復、「しらさぎ」6往復、計25往復となった。481系の増備車は貫通型になり、すべてが「こだま」型ではなかったし、一部は581系も含まれるものの、たいへんな数の「こだま」型が北陸路を駆け巡った。ボンネット型の「雷鳥」は平成16年まで残り、実に40年もの歴史を持ち、特急の中では最長となった。

湖西線が昭和49年にできるまでの「雷鳥」は米原回りだった。田村駅の南方、現在の長浜ドーム前付近を行く

赤ヒゲの入った「しらさぎ」。米原を出てすぐの北陸本線。当時は田園が広がり、すがすがしい光景の中を行く、「こだま」型はますます美しかった

「こだま」型 若き日の思い出(3)

昭和39年10月1日、「こだま」型の地図は、一夜で塗り変わる。東海道新幹線の開業によって東海道本線の昼間特急からすべて撤退し、全線の電化が完成した山陽本線に活躍の場を移す。
東海道新幹線と接続して、下関行き「しおじ」、宇野行き「ゆうなぎ」「うずしお」(「うずしお」は昭和36年10月改正から)が、、新大阪、大阪から出発して行った。「つばめ」「はと」は、新大阪を始終発に変更して、サヤ420を介してEF30、ED73に牽かれ交流区間の博多まで乗り入れを果たした。
翌年昭和40年10月改正から、さらに広島行き「しおかぜ」が加わる。、それまで昼間特急は「かもめ」「みどり」のみだった山陽本線は、日本一の特急街道に召し上げられた。その拠点になったのが、向日町運転所(現・京都総合運転所)、一躍、花形車両の配置区となり、151系や、153系やキハ82系などが顔を揃えて全国的に注目を浴びることになる。
私も撮影対象として、本数の増加した「こだま」型を求めて、大阪、新大阪へ出向いた。すべて駅撮りではあるが、現在の駅と違って、障害物も少なく、広々して写しやすい。
151系は出力増強されて順次181系に改造されたほか、181系新造車も増備された。そして、「こだま」型の交直両用版481系が出現する。

大阪駅の「うずしお」。手前のクハ151-9は、博多乗り入れのためジャンパ栓が増設され、連結器カバーもはずされた

昭和39年10月改正で新設された「ゆうなぎ」。先頭はクロ151-1 当時の新大阪駅はすぐ横まで民家が迫っていた

上毛電鉄「新春イベント2010」

総本家・青信号特派員さんが1月10日から14日にかけて6回に亘り「新春から鉄道写真三昧」のタイトルで正月期間中の活動報告をされた。私は年末の28日に「銚子電鉄」、29日に「ひたちなか海浜鉄道」に出かけたこともあって、元旦と2日は自宅でおとなしくして、3日に「上毛電鉄」を訪れた。当日、上毛電鉄は「新春イベント2010」が開催され、群馬県近代化遺産に登録されているデハ101の臨電の運転、昨年東急から入線したデキ3021が大胡電車庫内での運転が実施された。

 上毛電鉄の前に伊勢崎の華蔵寺遊園地に保存されているC6120を見学した。年末に高崎での仕事帰りに行ったのであるが、閉園間際で夜景しか撮れなかったためである。

高崎駅で両毛線小山行(441M)に乗換待ちの間に、信越線横川行(127M)クモハ107-110+クハ106-110を撮影し、これが今年の撮り初めとなった。伊勢崎到着後急ぎ足で華蔵寺遊園地へ。駅から約3キロあるため30分かかり、9時30分開園直後に到着した。既に10人位の人が撮影しており、その後も続々と撮影者が来園してきた。20分程で見学と撮影を切上げ、前橋までバックして上毛電鉄の中央前橋駅へ。JRの前橋駅から約1キロ離れており、レトロ調のシャトルバスが運賃100円で結んでいる。乗車予定の電車まで少し時間があるので駅の直ぐ横の踏切で到着電車の撮影をしたが、既に三脚が数台並んでいた。撮影後、電車に乗り4つ目の上泉で下車して桐生寄りの踏切でデハ101を撮影した。次の電車で大胡に行くと、車庫内ではパンタを上げたデキ3021と、デハ104が停車していた。暫くすると前橋方面からデハ101が戻ってきて3両並びとなった。その他にも元銚子電鉄デハ101が履いていた雨宮製の台車、東武伊勢崎線の急行に使用されていた行先板等が展示され充実した内容であった。

今年の撮り初め クモハ107-110+クハ106-110

 

華蔵寺遊園地のC6120

12月の初めの地元の新聞には1月8日搬出と書かれていたが、実際には1月19日に搬出された。12月16日から1月4日まではキャブ内が一般公開された。

 デキ3021+元東武鉄道テ241

 

昨年10月に東急から入線後、整備が続けられて自走できるまでになった。貨車は昭和3年日本車輌製で、野田線七光台検修区の非常用機材倉庫として使用されていた。

 デハ101

開業時に昭和3年川崎車輌で新製された車両で、現役の営業車としては最も古いと云われている。)この日は、臨時電車として大胡→西桐生→中央前橋→大胡と営業運転された。1往復9万円で貸切運転ができるため、結構走っているようである。

 

上泉~赤坂間(真横から狙えばバックに赤城山が綺麗に入るが、人が多かったため踏切から撮影した。

デハ104

 

平成9年に廃車されたが解体されずに残されている。デハ101が1両しかなく多人数の団体に対応できないため、復活を期待したいところである。電装品が老朽化して復活が難しければ、クハ化してデハ101とMT編成を組んでも良いと思う。

 デハ711+クハ721

 

上は中央前橋駅直ぐ横の踏切から手軽に撮影できるので、時間の無い時におススメである。下は大胡

東武鉄道で使用されていたヘッドマーク

 

ヘッドマークからも判る通り、浅草~中央前橋間を直通運転していた時期があった

台車

 

銚子電鉄デハ101が履いていた台車で、762mmから1067mmに改造した痕跡がはっきり残っていた。

 

東武鉄道クハ701が履いていたKS105

「こだま」型 若き日の思い出 (2)

山科大築堤の「つばめ」

日本の基幹路線ともいうべき東海道本線の全線電化が完成したのは昭和31年のことで、電化を機に、当時の客車特急「つばめ」「はと」を凌ぐ高速列車の計画が立てられた。EH10を使った高速度試験も行われたが、従来の機関車牽引では限界があり、動力分散方式の電車を採用することになった。
こうして誕生したのが初の特急電車モハ20系、のちの151系で、昭和33年に東京~大阪間の「こだま」としてデビューした。すべてに画期的な性能・設備だったが、中でもボンネット型の前面形状は、今だに名車として語り継がれ、「こだま」型を強く印象づけている。
乙訓の老人は、Oさんの世話で「こだま」の試運転に潜り込むという幸運に恵まれ、車内で「こだま」を設計された星晃さんに会われている。その後「トレランス」号で星さんと再会され、「こだまの試運転に乗れたのは一生の思い出です」と礼を言ったと述懐されている。

その後、好評に答えて「つばめ」「はと」「富士」などが相次いで151系で登場したが、旺盛な輸送需要にはまだ追い付かなかった。そこで、全く新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をすることになり、昭和34年に東海道新幹線が建設起工された。つまり、東海道本線では電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進めるという、二重の投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。
こうして、昭和39年、新幹線の開業と引き換えに東海道本線の昼行特急は全廃となり、わずか6年で東海道本線から撤退することになる。子供心にもぜひ記録しておきたいという欲望がメラメラと湧いて来る。

中学生ながら“山科の定番撮影”にこだわった一枚。これで後部が切れていなかったら言うことなし  (昭和39年8月3日)

この時に初めて行ったのが山科の大築堤だった。京阪御陵駅で降りて、駅前の道を南下して築堤をくぐるトンネルの手前に上へ行く小道があり、なんの障害もなく築堤に上れた。
ここで写したのが「つばめ」である。他の「こだま」「はと」などと共通の編成であるが、ただ唯一、ヘッドマークだけが違っていた。他は白地にスミ文字のいたってシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになっている。由緒正しき「つばめ」の矜持にも感じられた。
客車時代の「つばめ」には全く記憶も記録も持ち合わしていない私にとって、「つばめ」と聞いて真っ先に思い出すのは、151系の「つばめ」である。
最終日となる昭和39年9月30日も、中学校から帰ってすぐに山科に駆けつけている。前にも書いたが、その時に築堤にいたのはほんの2、3人だった。とくに最後の「こだま」を見送るときは先客も帰ってしまい、私一人で、本日最後の東海道本線の電車特急を見送った。その「こだま」は、フィルムが切れてしまい、写せなかったが、夕闇の大築堤を、赤いテールライトが過ぎ去っていく光景が、今も記憶の片隅に残っている。

最終日、山科の大築堤を下って行く「第二つばめ」。つぎの日は東海道新幹線の開業日、10日後には東京オリンピックが開かれる、日本の歴史を刻んでいく日々だった(昭和39年9月30日)

 

25年前の新春鉄道写真三昧

【6240】で総本家青信号特派員さんが阪堺電車の初詣風景の素晴らしい画像と書き込みを拝見して、25年前の昭和61年の元旦、ほぼ同じ場所で撮影したことを思い出し、当時の画像を引っ張り出してみた。

昭和58年のゴールデンウィーク期間中に生活の拠点を東京都内東部の亀有に移し、急激な生活環境の変化と旧形国電、旧形客車が姿を消したこともあって、鉄道に対する情熱はすっかり冷え切っていた時期であったが、正月休みに帰省した時に何故か阪堺線の「改々電車」(205形)と元京都市電(251形)が見たくなって出掛けたものと思われる。「改々電車」と元京都市電が営業運転に就くのは、ラッシュ時と初詣輸送時くらいのため、関西在住の頃にまともな写真が撮れておらず、チャンスと思ったのかもしれない。そのため車両中心の画像であるが、満員の乗客で当時を偲んでいただければと思う。

モ205形

旧阪堺電気軌道が開業時に新製した木製車を昭和12年から22年にかけて鋼体化した車両で、205~250の46両在籍した。最後はワンマン化されなかった平野線で使用されていたが、昭和55年11月27日、地下鉄谷町線が八尾南まで延長に伴い、平野線が廃止された時に246~248の3両が中扉を新設してワンマン化され生き残り、主にラッシュ時と正月に使用された。改造を重ねているため「改々電車」と言われた。(怪々電車と言う人もいた)

モ251形

元京都市電の1800形(ワンマン改造前は800形)で251~256の6両が在籍した。京都市電時代の旧番は車号順に1844、1866~1870である。複雑な改番を行った600形→1600形と違い、800形時代の車号に単純に1000をプラスしただけである。転入当初は日常的に使用されたが、パワー不足でスピードが出ないため多客時以外は使用されなかった。廃車後は256(元1870←870)が京都時代の塗装で我孫子道車庫に保存され、一般公開時に見ることができる。また、255(1869→869)はアメリカアリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され、869時代の前後扉に復元の上動態保存されている。

251/元1844←844で、251形の内この車のみ昭和25年近畿車輛製である。844時代は九条車庫の配置にされ、伏見線でよく乗った思い出深い車である。窓枠は昭和30年代後半にアルミサッシに取替えられていた。

 

252/元1866←866で、昭和28年愛知富士産業製、このグループが5両全車転入した。ツーマン時代は間接自動制御で烏丸車庫に配置され、通学時によく乗った車両である。車体は半鋼製であったが、内装は木目プリントの軽金属板が使用されていた。866は、600形を1600形への改造にあたりテストカーとして、ヘッドライトのシールドビーム化(但し1灯)自動昇降式ビューゲルの取付け、車内外スピーカーの取付け、直接制御化が行われた。

 

254/元1868←868で、昭和28年愛知富士産業製。867~870はワンマン改造時に直接制御となった。

 

255/元1869←869で、昭和28年愛知富士産業製。廃車後アリゾナ州の博物館(オールド・プエブロ・トロリー)に譲渡され動態保存されている。869時代の前後扉に復元されているが、ヘッドライトが窓下に移動、集電装置が阪堺時代のパンタのままと原形とは多少異なるがよく残ったと思う。

 

256/元1870←870で、昭和28年愛知富士産業製。現役時代は「タマノ井酢」の広告車であった。廃車後、京都時代の塗装に戻され動態保存されており、一般公開時に見ることができる。

モ121形

昭和42年に元大阪市電の1601形を譲受け、木製車モ101形の足回りを組合せて竣工した。121~130の10両在籍したが平成12年までに廃車となり、ラストナンバーの130が浜寺公園に保存されている。

 

モ151形

昭和2年川崎造船所兵庫工場製で電4形として10両作られた。モ161形、モ301形への改造により、最終的には151~154の4両となった。当初は直接制御であったが昭和35年に多段式間接制御に改造、昭和54年にワンマン化されたが平成13年までに廃車された。

 

モ161形

昭和3年161~170か川崎車輌で、昭和6年171~176が田中車輌と大阪鉄工所で作られた。当初から総括制御が可能な間接非自動制御で連結器を持ち、昭和26年まで平野線で連結運転を行っていた。現在も10両が健在で多客時を中心に使用されている。

 モ301形

モ151形とモ161形の戦災復旧車で301~307の7両在籍した。制御器は多段式間接制御で301形同士の連結運転は可能であったが、161形とは制御器の相違から不可能であった。

 

モ351形

木製車モ101形の主電動機を流用して昭和37年(351・352)と38年(353~355)に帝国車両で作られた。車体は昭和32年に新製されたモ501形とほぼ同じであるが車掌台の窓が異なる。主電動機を流用しているため釣掛式であるが、台車は空気バネの新品、主電動機も間接自動式の新品である。昭和61年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

モ501形

昭和32年帝国車両で当時の最新鋭技術によって作られた高性能車で501~505の5両在籍した。昭和60年から冷房化され、現在も全車健在である。

 

 

 

この時点では505は未だ冷房化はされていない。

 

 

 

 

 

 

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part6 蜜蜂岩站→黄村井站乗車

今日は、阪神大震災から、15年目を迎えました。私ごとで、申し訳ありませんが、当時、私は勤務していた会社の神戸支店の責任者として赴任して、業務も順調で、意気揚々としていましたが、突然の惨事に啞然とするばかりでした。
鉄道網もズタズタとなり、5日後、三田からの神戸電鉄が開通したので、地下鉄新神戸駅圣由で、市内へと、行く事が出来るようになりました。徒歩で、三ノ宮に近づくにつれて、目の前に拡がる光景は、想像を絶するものでした。

高校生時代にも予兆がなかった突然の心臓発作で倒れ、10分搬送が遅れたら死んでいたと言われた経験を持ちます。人間、何処でどうなるか分らない。人生は、1回のみ、一瞬一瞬を大切に生きようと、あらためて思った日でした。
こんな日に、神戸と同様に、四川大地震で大被害を受けた地の、紀行文を書くのは、自然と力が入ります。

第4日目 2010年1月1日

① 成都クラウンプラザ8:30-(チャーター車)→13:50石渓站14:30-(観光列車)→15:08蜜蜂岩站15:20-(観光列車)→16:20黄村井站
② 黄
村井站17:35-(観光列車)→石渓站18:45-(チャーター車)→19:15犍為天波大酒店

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「こだま」型 若き日の思い出 (1)

京都駅の「こだま」

ボンネット形の「こだま」型電車の定期運用がいよいよ3月改正で消えると書いた。昭和33年の151系「こだま」のデビューから数えて半世紀あまり、ついに輝かしい歴史に幕を下ろす時が来た。
デビュー当時の「こだま」型は、撮影の対象というより、乗りたくても乗れない憧れの列車だった。山科の人間国宝は「展望車に乗るのが憧れでした」と折に触れて語っておられるが、私にとっては、まさしく「こだま」型がそれに当たる。そう思いながら、古い鉄道写真アルバムを繰っていると、第一ページにこんな写真が貼ってあった。

京都駅1番ホームの上り「第一こだま」 東京方のクハ151

昭和36年8月3日7時30分、上り「第一こだま」、小学6年生の腕ではさすがに稚拙な写真だが、特徴あるホーム屋根の形状から京都駅と分かる。この日、京都駅の一番ホームに私はいた。と言っても「こだま」に乗った訳ではなかった。
8月の中旬に家族で伊豆箱根への旅行を計画していた。その下調べに、父とともに京都駅へ来たのである。この頃の東海道本線は、逼迫する輸送需要に追いついていなかった。「こだま」が昭和33年にデビューし、その後も「つばめ」「はと」「富士」と電車特急「こだま」型が増発されたものの、電車特急の人気は高く、2週間前発売の指定券はすぐに売り切れていた。ダフ屋が横行していた時代で、何倍もする特急券を泣く泣く購入せざるを得ない。
勢い、自由席のある急行に目が向くが、これも夏のシーズンなどは満員になる。とくに京都から東上する場合、大阪で乗り込まれると、座れる可能性は極めて低い。この頃の交通公社の時刻表には、急行・特急の月旬ごとの前年の乗車率が載っていた。8月号を見ると、東海道本線の主要な急行は、軒並み100を超していた。
そんな状況の中で、実際それを確かめに京都駅へ来て、乗るアテもない「こだま」を写したということである。
これほど左様に、当時の「こだま」型は、日本国民すべての憧れでもあったのだ。ちなみに、その旅行、急行の利用はあきらめ、結局、京都発の普通列車を乗り通し、約10時間かけて沼津に着いた。

EF510-501が故障

皆様、今年もよろしくお願いいたします。

特派員氏の新年からの投稿におおいに勇気づけられております。

また阪急6300の記事に現況を知りました。懐かしくも時代の流れは必然です。

国鉄117系、京阪3000系、そして阪急6300系と3種の2ドアクロスシート車が3様に駆け抜けた頃の京阪間は、夢のようでした。いやほんとうに関東からこの電車たちに乗るために関西の大学を目指した学友も居てたと思います。

 

さて、他ブログからの転載記事ですが、昨年12月に落成したJR東の特急牽引機が取手付近のデッドセクションで故障、停まってしまったようです。

http://blogs.yahoo.co.jp/koutyan485_583/11534900.html

EF81の置き換え用の期待を担って登場した新鋭機もこのくらいの初期故障はやむをえないのか。

正直に言うと私もブルトレ専用機が出たこともあまり知らなかったのですが、番号の付け方と車体カラーにEF60500番台、EF65500番台以来の期待が込められているように思えます。

投入直後で冬期ということもあり、まだ本調子がでないのか。久々の華やかなロコだけに復調して常磐線のクイーンとして羽ばたいてもらいたいものです。

今回は写真が無くて済みません。