【6820】山科電化前後の記憶(1)

「山科電化」とはいうが、当然東海道全線電化(完了)が正しい。しかし1945年12月から1960年まで、丸々15年間を山科で、それも例の半径600m大カーブに最も近い所に居住したファンとしては、やはり「山科電化」といいたくなる。すなわちこの小文は、東海道線の電化工事ではなく、山科地区の、それもほぼ大カーブ前後に限った「視野の極めて狭い」思い出に過ぎないことをお断りしておく。

東海道線の電化は敗戦後1949年2月1日沼津-静岡、同年5月20日浜松に伸び、7月には湘南電車こと80系が東京から静岡に、翌年2月浜松まで延長。1953年7月21日電化は名古屋に達し、11月には稲沢まで電機が足を伸ばした。1955年7月15日稲沢-米原間電化で関ヶ原の難所が消滅。最後まで残った米原-京都間=東海道線全線電化完了が1956年11月19日であった。これで山科大築堤から蒸機が駆逐された。


先ずはポールがしばし安定して線路脇で寝ていられる枕木小片の要所配布から始まった

線路脇で待機するコンクリートポール 1955年12月10日

山科地区での本格的な電化工事は1年近く前の1955年12月ごろから、それもトロリーが先ず枕木の小片を築堤上の何か所かに配置することから始まった。これはポールが犬走りで安定するための「枕」だった。次いでコンクリートポールが、直線部分に限って配布され、穴掘りが開始された。現在なら専用のドリルがあるが、当時のこととて100%手掘りであり、ただ余計な掘削を避けるため、垂直方向に掘った土を持ち上げ排出する道具(手動)が使われた程度である。


建植済のポールにビームを付ける作業 竹ハシゴと滑車 ロープが活用されているが全くの人海戦術ではある 1955年12月23日 手前は国道1号線鉄橋

ポールの建立もあっけないほど簡単で、長い丸太と滑車でポールを持ち上げ、穴に納め、土を埋め戻して足で踏み固める。垂直かどうかの検査も、垂鉛―というと聞こえがいいが、要は紐にぶら下げた錘を片手でかざし、2方向から目視し、ロープを引っぱって修正しおしまい。

なぜか直線部分のみ、ビーム取付も先行した。ご存知この区間は下り1線、上りは戦時中に1線増やした2線だが、その1線を休止。予め配布済のビームも線路脇に待機している。列車の合間に長い丸太を2方向からロープで支え、滑車で吊り上げ、線路と平行状態で一旦待機。列車が通過直後に90度回して両端をコンクリートポールに止める。なお架線作業は完全に電気屋(電力区)の分野だが、保線区も当然ながら立ち会って、列車の運行状態等にアドバイスしていた。この日は上り線の中央が休止。


京津線跨線橋での上り貨物。蛇足だが1954年8月30日のD52365ボイラー破裂事故はこのあたりで発生し、小生が自宅2階から目撃することになる。


【6803】カラフルDC-加太編(1)

  • カラフルなディーゼルカー(気動車、以下DCと表記)のこと

 蒸気機関車牽引の旅客や貨物列車の撮影によく出掛けました。それらの合間には、どの線区でも必ずカラフルなディーゼルカーが通過しました。蒸機列車と違い、バックを気にしなくてもよいし、なによりも周囲の風景によく溶け込んで見えました。それは当時の日本の風景の一つでした。でも我々は当時、貧乏学生か薄給な勤務初年兵であり、高価なカラーフィルムをふんだんに使えません。蒸機以外は撮影しないことにしていました。それでも時々気が向けば、通過する通勤通学や優等列車のDCにカラーフィルムを消費していました。
 そんなポジフィルムが、およそ300コマほど残っています。拙著HP『蒸気機関車山路を行く』のテーマから外れているので、アップもしていませんでしたが最近、ページ稼ぎに『カラフルDC』としてアップしました。幸いカラーの損傷が少ないので見ることはできますが、如何せんバカちょんカメラに中程度の撮影技術。お目にかける代物ではない物も多いのですが、ご辛抱ください。また、DCの形式説明などに誤りなどがあるかと思います。ご遠慮なくコメント欄等でご指摘ください。お願いします。

 まずは、加太会で撮影した関西線加太付近のDCからです。

1.加太会発足の日、320D湊町発亀山行き、キハ35が画面左へ25‰の坂を下ります 

 2.同日323D、昼前の亀山発湊町行き。キハ35とキハ20の混編成です。

3.明けて1965228日。206D準急「かすが1号」です。キハ55、キロハ25など。後部には、2両のキハ17が併結されています。まさか客扱いはしていないように思われます。翌日からのダイア改正に備え回送かもしれません。この日は、例の2442レ「鳥羽快速」の運転最終日でした。「かすが1号」の8分後に撮影地を通過しました。最終日の蒸機はC57148で、現在大阪の共永興業株式会社の本社ビル内に陳列されています。同社の本社ビル完成記念に整備陳列したものです。同時発行の「永遠に走れ!われらの蒸気機関車」と題した箱入りSPレコード付記念誌が手元にあります。
 一日の撮影終了後、関駅まで出て、文字通り最終の2441レで山陽本線兵庫まで乗車帰宅しました。19644月入社の初年兵は、毎朝兵庫から大阪まで、「鳥羽快速」で通勤し、時に帰りも同列車でした。11ヶ月間の客車通勤もこの日でおしまいでした。 

 4.中在家信号所の334D湊町発名古屋行き、5時間近くの運転です。画面奥の待避線で335Dと交換し、手前の待避線にバックで進入、再び方向転換して坂を下って行きました。

 5.DC列車は併結・分離が得意で、分岐駅の多い関西線にはそんな列車が沢山通過しました。 これもその一つ、準急「平安1、かすが1号、はまゆう」の奈良、白浜、京都行きです。キハ55、キロハ25などが見える10両編成です。

 6.同日332D、キハ35の4連です。農家は稲刈りです。刈取り機から粉塵が上っています。懐かしい日本の風景の一つです。

7.同様の334D、今度はキハ20との混成5連です。

 次回は、特急「あすか」や急行に格上げされた「かすが」、「はやたま」などをお目にかけます。


【6775】Re. ニュースから2題/西日本車体工業8月末日会社解散

..生さんが投稿された【6628】で、堺市が殆ど決まりかけていたLRTの導入を断念したことと、西日本車体工業が8月末日をもって会社解散のニュースを拝読した。

関東地方でも宇都宮市においてJR宇都宮駅東口~清原工業団地間にLRT導入の計画があり、昨年の選挙では知事、市長ともに推進派が勝利したが「税金の無駄使い」「そんなもん作って誰が乗るねん」という意見が根強くあるため、実現の可能性は微妙な情勢である。また、路線バスを運行している関東自動車も乗客を取られる立場から反対しており、中量輸送機関が必要であれば「連接バス」の方が良いという意見もある。確かに需要予測が極めて過大、かつ成人1人当たり1台以上マイカーを保有しているような土地柄、しかも工業団地への通勤者の9割以上がマイカー通勤といった現状では、反対派でなくても、導入に対して疑問を持たざるを得ない部分が多々ある。

堺市の場合は、幹線である南海本線・高野線と阪堺線・上町線の沿線を結ぶネットワークとしての機能を充分に果たせると思う。都電荒川線が好調な理由は、三ノ輪橋、町屋駅前、熊野前、王子駅前、新庚申塚、大塚駅前、東池袋4丁目、鬼子母神前の各停留所で幹線系の鉄道と接続しており、そのフィーダー輸送としての役割を果たしているためと、160円の運賃が適正と認識されているからであると思われる。東急世田谷線も同様のことが言えるであろう。

西日本車体工業(以下西工と略す)の8月末日会社解散のニュースはショックであった。ご承知の通り「西工」は「西鉄」の連結子会社で、平成4年に日産ディーゼル指定のボディー架装メーカーの指定を受けると、今までの西日本中心の販売から全国展開となり、関東地方でも、東京都営、横浜市営、京王バス、東急バス等で日常的に見られるようになった。

我々の世代で「西工」といえば、昭和41年2月にモデルチェンジした、H..生さんも書かれている「正面窓付近の逆『く』の字形のデザイン」(通称「かまぼこ形」)を思い出すが、それ以前の車体も全体的に丸味を帯びており、他社の車体とは一線を隔していた。余談になるが、某ミュージック劇場の宣伝カーに使われていた車体の前後共に丸味を帯びていたマイクロバスも「西工」製であった。

昭和53年10月のモデルチェンジは、基本構造は「かまぼこ形」を踏襲するも全面のプレスを変更して、逆『く』の字の角度が浅くなった。(通称「はんぺん形」)

昭和58年10月にフルモデルチェンジが行われ、車体がスケルトン構造となり、丸味がなくなった。以上が路線車の車体の大凡の変遷である。

スケルトン車体以前、モノコック車体時代のユーザーの東限は、近江鉄道辺りと思われているようであるが、実際はもっと東で、昭和28年に旭川市の「近藤バス」に納入実績ある。これは例外としても、近江鉄道に「かまぼこ形」が近江八幡、彦根、長浜の各営業所に配置され、彦根営業所の車両は名古屋近鉄バスと相互乗入れで彦根~大垣間、長浜営業所の車両は木ノ本~敦賀間で使用され、岐阜県、福井県まで足を伸ばしていた。「かまぼこ形」以前の「丸形」は仙台市交通局にまとまった両数が納入されている。また、群馬県の上信電鉄と群馬中央バスに納入されており、これらを初めて見た時には「何だ、これは」と思った。群馬中央バスは昭和61年頃まで生き残り、最後は競輪場の観客輸送に使用されていた。静岡鉄道に「かまぼこ形」がまとまった両数が納入され、東海道線安倍川鉄橋の前後で車窓からよく見られた。

関西では、ユーザーにより「好き嫌い」があったようで、京都市交通局や大阪市交通局、阪急バス等では好んで導入されていたが、京阪バスは「丸形」1両、「かまぼこ形」が4両納入されたのみである。京阪グループでは、江若交通に「かまぼこ形」が6両納入され、安曇川営業所に配置、若江本線にも使用され小浜まで足を伸ばしてした。福井の京福電鉄に「かまぼこ形」が1両いたが、自家用中古車を改造したものである。(京福電鉄のバス部門は子会社の「丸岡バス」に売却して、「丸岡バス」が「京福バス」に社名変更している)岩手県交通に「かまぼこ形」の自家用中古改造車が1両いた。

昭和60年頃まで、地元の京成電鉄バス、新京成電鉄バスに相当数の「かまぼこ形」が見られたが、京成自動車工業が西工のライセンス製造したものである。ところが「NSKボディー」の銘板を付けた車両もあり、実態を調べようと思っていたが廃車されてしまった。

スケルトン車体になってからは新車の他に、大阪市バスや阪急バス等の中古車が広範囲に存在するが、あまりバスの話をすると「この人何者」と思われるのでこの辺で止めておきたい。

会社解散により、正社員290名は、他の西鉄グループの会社に転籍されるであろうが、派遣社員、契約社員等の非正規雇用の人は現契約期間満了と同時に失職することになると思われる。また、下請業者まで含めると影響は計り知れない。今回の最大要因は「日産ディーゼル」と「三菱ふそう」の合弁会社設立により、バス車体の生産を「三菱ふそうバス製造(MFBM)」に集約するというバス業界の再編成によるものであるが、昭和21年10月以降65年に亘る歴史が消え去り、何年か後には「西工」で作られたバスそのものが姿を消してしまうことになると思うと、誠に寂しい限りである。

モノコック車体時代の印象に残っている車両を画像と共に紹介する。

丸形車体

 

京都市バスのツーマン車/40年式BR20(中書島のターンテーブル)

 

42年式BR20(北野線代替バス)

 

仙台市バス/39年式MR470(仙台駅前で初めて見た時、不思議な感じがした)

 

群馬中央バス/45年式RB120 初年度登録が年式となるため45年式となっているが、41年製のサンプルカーを購入したもの。丸形としては最末期の車両である。

 

宮崎交通/39年式RC100P 初期の冷房車で冷房機が天井に付いている。

かまぼこ形

 

かまぼこ形の初期車/44年式BA30(伏見線代替バス)

 

ワン・ツーマン兼用車/48年式BU04(中書島のターンテーブル)

 

定期観光バス/49年式MR470(形式からも判るようにエアサスではない)

 

改造冷房車/51年式RE100/市電錦林車庫廃止時の導入された低床車で、この1両のみ試験的に冷房改造した。

 

京福電鉄福井支社/43年式MR410(元自家用の送迎車に中扉を設置して路線車に改造した)

 

近江鉄道/44年式RE120

 

江若交通/46年式BU05

 

尼崎市バス/44年式RE100(かまぼこ形の初期車であるが、上下共にサッシ窓のため新しく見える)

 

京都交通の急行用車/47年式B805L(冷暖房・リクライニングシート付で、山陰線電化前、祇園~園部間を東舞鶴・天橋立系統と合わせて15分間隔で運行されていた。福知山、夜久野行もあり、ダイヤ通り走ると普通列車より早く、丹波と京都市内中心部を直結する交通機関として多くの人に利用されていた)

 

京成電鉄/上:43年式BA30・下:44年式BU10(西工のライセンス製造の京成車体工業製である。「西工」の銘板が付いていた車両もあったが、会社の諸元表は全車「京成車体工業」と記載されており、実体を調べ損ねた。転居当初、身近に「西工」が存在したことは心強かったが程なく姿を消してしまった。

はんぺん型

 

京都市交通局/54年式RE121

 

京都市交通局/57年式K-MP118K

 

熊本バス/56年式K-MP107K(熊本バスの前身は熊延鉄道である)

 

熊本電鉄/57年式K-MP118M

 

 

 

 

 

 

 

 


【6740】冬の芭石鉄道へ Part10 撮影最終日も『トホホ』

第6日目 2010年1月3日
① 犍為天波大酒店8:30-(チャーター車)→8:50石渓站9:32-(第2次)→10:01蜜蜂岩駅
② 蜜蜂岩站12:45-(バイク)→石渓站-(チャーター車)→13:20飯店14:00-(チャーター車)→18:50成都 
今回、最後の撮影日です。いつものように、朝起きて窓の外を最初に見ますが、滞在で1番の濃霧です。日頃の行いを悔やみますが、こればかりは、どうしようもありません。今日は、撮影後石渓站から成都のホテルまで戻りますので、スーツケースをチャーター車に積み込んでの出発です。
8:50石渓站に到着後、ゆっくりと時間が取れたので、構内を散策できました。

遅れましたが、これが、切符売場と待合室です。でも、待合室に待つ人はいません。みんな、ホームでたむろしているのが、日常的です。

観光客車の車内です。綺麗ですが、室内灯はありません。一般客車は、ロングシートです。これでも、窓上には、番号が記載されている座席指定車です。左下は、有名な家畜も運ぶ車両です。

今日の第2次は、№9(機関車)+№10(テンダー車)+12+9+15+16の一般客車と観光客車№2の5両編成です。連休最終日とあって、1番空いていました。

胡小姐は、今日のダイヤを聞いています。第1日目に聞いた時は、今日は観光列車が運行しない日でしたが、走りますとの返事を聞いてきました。ラッキーです。2本は撮れます。
発車後、ビデオで走行を撮りますが、市街地を抜けると、益々霧は濃くなりました。


蜜蜂岩站を発車する、第2次。背景は、霧で見えません。下は、相棒の写真です。

列車が走り去ると、いつものように、火床から落とした石炭ガラを求めて、村人がひらう光景が見えます。そして、竹を蜜蜂岩站へと運ぶ、人力台車が降りてきました。

10:01蜜蜂岩站到着。相棒は、発着風景を撮りたいと言うので、ここで分かれて、絶壁の岩が出口にある、第5トンネルへと向かいました。

まず、折り返しの第2次を撮ろうと、待ちましたが、シャッターを押しても、切れません。『???』の世界です。試しシャッターは、確認したのですが、肝心の時に、濃霧が原因なのか、AFが正常に作動してくれません。以前のD300には、こんな事はありませんでした。

左のカットで試し撮影は、出来ましたが、肝心の列車通過時に、シャッターが切れません。AFをONにしたのが間違いでした。霧のある日は、濃淡が少なく、AF機能に障害が出るようです。代わりに、胡小姐が撮ってくれた写真を掲載します。

設定をいじくったのが、原因と思っても分りません。今日も『トホホ』です。仕方ありません。以後、全ての高機能を解除して、全マニアルモードに変更しました。
 

 

そして、観光列車を待ちました。山間に、待ちに待った、ドラフト・汽笛が響き、カメラを構えますが、今度は、列車は来ません。どうして、『???』です。

胡小姐に聞きますが、彼女も『???』です。そうだ、昨日もらった蜜蜂岩站の民宿の名刺があります。聞いてみて欲しいと言って、電話をしてもらうと、SLは、確かに来たが、戻って行ったとの返事です。線路際を走ってきた、バイクを呼び止めて聞いてみましたが、同じ返事です。

撮影しようと、待ち構えたカットです。霧が晴れれば、列車が来れば、希望の写真が取れるのですが・・・。

これは、来るわけないと判断して、蜜蜂岩站へと戻りました。途中に相棒がいて、聞くと、SLは、ここまで来て、貨車のレンガを降ろして、返ったと言います。



また、相棒が撮った写真です。観光列車のダイヤを利用して、石渓站からレンガを輸送したようです。相棒は、こんなにたくさんのレンガをどうするのと、聞いています。胡小姐は、これで家を造りますと、答えると、誰が造るのかと、聞きなおします。家の人が自分で造るのと、言われると、『ええ~』です。

田舎では、自分でレンガを重ねて、家を造ります。支柱は鉄筋を入れていますが、わずかで、大地震があれば、あっけなく崩れて大惨事をもたらす事は、必至ですが、耐震建築方法は、知りません。

胡小姐が、今日朝、石渓站で聞いた事は、間違っていたのです。と、すると、我々が石渓站まで戻る、観光列車がありません。次は、15:58蜜蜂岩站発の列車です。我々は、それでも良かったのですが、胡小姐は、19:30までにホテルへ着かないと、キャンセルとみなして、部屋がなくなる。それでは間に合わないと、必至に言います。

とにかく、蜜蜂岩站まで歩きました。13:40着、ここから、石渓站まで歩くと、約10キロ近く、約2時間は、かかります。我々は、そのつもりをしましたが、胡小姐は、民宿のオーナーと、何やら交渉しています。

そして、ここでは、食事も取れないので、今から戻ります。民宿のオーナーが、今、バイクを持っている友達に電話をしてくれています。石渓站まで、送ってもらいますと言いました。

台湾に続いて、2回目の体験です。バイクの後ろに乗って、芭石鉄道の線路沿いの狭い、犬走りを走ります。直ぐ横は、谷底の場所も多くあります。スリル満点の下山でした。

日本より暖かいとはいえ、5度程度です。走り始めると、結構寒くなります。帽子、サングラス、マスク、ホカロン、手袋と、防寒対策のおかげで助かりましたが、何もない胡小姐は、降りると、何度も何度も『寒い、寒い』と半泣き状態で、寒さに震え上がっていました。直ぐに、ホカロンを渡してあげましたが、食事に行くまで震えていました。



石渓站
で乗換えたチャーター車に乗って行った食堂も、昨日の民家と同様な、地元の家庭料理で、これには、相棒も大感激で、またまた、厨房に入って、調理方法を見ていました。
私も普段は、家で昼夕とコックさんですので、新しい調理方法やメニューが増えました。

これで、ゆっくりと成都に戻れると思って、暖かい車内でウトウトし始めたら、大渋滞に遭いました。原因は、交通事故です。楽山→成都への道路は、片側1車線の迂回路のない1本道です。全く動きません。痺れを切らして、前を歩いていくと、運転席が潰れたトラックが、進路を遮断しています。おまけにその先の車線には、反対方向から来る車で溢れています。自分勝手が多く、交通マナー等考えないドライバーが多い中国です。これでは、先へは行けません。

白バイも来ていますが、お手上げ状態です。どう解決するのかと、思っていたら、約1時間半後、壊れたトラックを移動させて、反対側車線を動けるようにしてから、ようやく渋滞を解除しました。

楽山からは、高速道路を猛スピードです。行きは濃霧、帰りは、交通事故渋滞に巻き込まれて、約5時間をかけて、18:50、成都に到着しました。


成都では、今までとは違って、立派なレストランで、本場の麻婆豆腐等の四川料理を堪能しました。胡小姐のお薦めで、四川演劇観賞、按摩と旅の疲れを癒し、ゆっくりとしました。


【6738】続・電車は4両がええ

元電車少年は電車の話となるといまでも眼の色、顔の色、爪の色も変わる。4両がええなあとなったのは、線路脇でカメラを構え1列車を入れるのに頃合いの角度となるからであった。理由は窓の数、台車の格好がよく分かったからだ。この話を高橋師匠にしたら、「架線柱の間隔は何メーター毎か知ってるか?」との質問があった。元電車少年は知らなんだ。「50メーターおきやで。」と教えられた。「これをもとにしてパンタの位置を頭の中で計算して撮るのに4連が一番うまい具合に入る。」つまりパンタと架線柱が重ならない方法だとのこと。それから時々意識するようになった。でも、どの電鉄でどんな形式の4連での話しだったかは覚えていない。準特急さんの写真をわくわくしながらみせていただいているが、近鉄2200系4連、おしいなぁ-。奈良線900系片パンならうまくいったかも。小田急ちょいと首ひねれば・・・・・・。汽車撮る時はハエ叩きを意識したものだが、電車はパンタと架線柱、元電車少年は窓配置と台車。50ミリ標準レンズ1本、1/500で勝負していた時代のお話。今は撮影機材に恵まれているが、元電車少年にはPC同様さっぱり理解できない見えない世界のことだけに悔しい。でも皆さんのおかげでたのしい世界を垣間見る事が出来て、冥途の土産話は増える一方だ!


【6707】冬の芭石鉄道へ Part9 竹の香り

投稿前に準特急先輩の『電車は4両がええ』を読ませていただいておりましたが、私の小学生時代は、校庭から、阪急と国鉄の両方が見え、阪急京都線は、まだ2両編成が走っていました。一方の東海道線は、SL全盛期で、汽笛と共に、白い煙をはいて走っている列車を、いつも見ていたのを思い出しました。
当時は、我が町も人口1万人強の田舎町で、田畑が殆どでしたので、何処からでも、こんな光景を見る事ができました。    

第5日目 2010年1月2日
① 犍為天波大酒店8:40-(チャーター車)→9:10石渓站9:27-(第2次)→10:22菜子埧站

② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站18:03-(観光列車)→18:35石渓站  
道を歩き、未舗装の凸凹道に出ると、殺風景な集落が続いていました。胡小姐は、その中に建つ2階建ての民家に入っていきました。いったい、どうするのでしょうか?

見れば、雑貨店です。胡小姐は、何やら交渉をしています。そして、『丁度、お昼ご飯の準備をしているそうです。家族の人と一緒に食べてもいいですか?』と、聞いてきます。原住民の方の食事をいただけるとは、感激です。勿論、OKを出しました。

外で、一服していると、バイクに乗ったお姉さんが、『マントー=蒸しパン、ラオメン=パン』と、大きな声で走ってきました。バイクには、箱が取り付けてあります。”老面”と書いてありますが、麺類ではありません。中華風パンの1種です。農家からは、親子連れが出てきて、買っています。ここでは、屋台はありませんが、行商があるのですね。

雑貨店の厨房を見ますと、相棒は興味ぶかく調理を覗いています。

春節用の貴重な食材を追加しての料理の数々でした。相棒は、沖縄料理と食材も、味も似ていると、美味しいと、喜んで食べていました。

ご飯には、サツマイモが入っていました。楽山と同様の木桶に入れた米を中華なべに入れて、蒸しあげますが、日本と違って、粘り気のないパサパサ感のご飯です。  
  

聞けば、以前にSL撮影をしていたドイツ人が、何か食べさせて欲しいと来て以来、2度目の外国人との食事だと言っていました。

満腹感があると、落ち着くものです。リックサックに予備のCFカードを入れておいた事を思い出しました。1GBですが、午後からの撮影には、充分です。カメラが生き返りました。

丁重にお礼を言って、撮影地に戻りましたが、今回の旅で、1番印象深い食事でした。

胡小姐が言う時間になっても、中々列車は来ません。昨日、運行表を写したことを思い出しましたが、宿に置いたパソコンの中にあります。悔やみましたが、どうしようもありません。
後で確かめたら、列車は、終点で直ぐに折り返して、石渓站に戻ったようでした。一日何本も撮れません。貴重な撮影チャンスを失いました。

待ち過ぎたために、次の定期列車は、同じ場所でしか撮りようが、ありませんでした。


14:46、定期の第3次が、朝乗車した同じ編成でやってきました。

撮影後、菜子埧站に停車した列車は、中々、発車しません。何処からか乗客が集まり、列車に向かって、ゆっくりと歩いています。ダイヤは関係ありません。急がすふうでもなく、乗客を待っての発車です。ここでは、ゆっくりとした時の流れを、体感できます。

蜜蜂岩站へ向けて、歩きました。途中、蜜蜂岩站に留置してあった、貨車に積まれた、同じ竹が、線路脇に集められていました。15:18、ここで、昨日乗車した観光列車との写真を撮りました。
この竹の1束、5元=70円で引き取られるそうです。用途は、経済発展進む都市のビル建築の足場として、使用されます。

№10(テンダー車)+№9(機関車)+13+12+9+15+16(客車)+2両(観光客車)
ご覧のとおり、こちら側に乗降口はありません。車体番号も同じくありません。

15:30、第5トンネルに到着。ここで、撮りたかったのですが、列車は、既に通過済みです。次の列車は、18時過ぎで、暗くて、また待っていては、帰れません。仕方なく、短いトンネルを抜けて、帰りの定期列車を待ちました。
15:58、警笛とドラフト音が、山間にこだまして、第3次が返って来ました。ただ、編成は、往路と同じではなく、後部に2両の観光客車を連結した7両編成でした。


16:20竹の香りがする線路際を歩き、スイッチバックの蜜蜂岩站に到着。18:00に出発するであろう観光列車を待ちました。

蜜蜂岩站に留置してあった客車と貨車です。竹を満載した貨車があるという事は、貨物か混合列車が運行されると思いますが、ダイヤは、その都度の不定期らしいです。聞いても、定期列車が、早遅延が、日常的です。確かの事は、分りません。ここでは、沿線にある竹と同じく、列車の通過する時の、風を待つしかないのでしょう。

蜜蜂岩站駅舎には、2009年版ですが、10月1日からの国慶節(建国記念日)休みと5月1日のメーデーを挟んでの労働節休みの時刻表が、貼ったままになっていました。ほぼ、今日の運行と同じです。観光列車は、不定期です。これが、走る時が、効率よく撮影できます。

これらの休暇期間は、春節休みと同様に、約2~3週間前に、毎年、政府から発表されます。この期間中は、行政機関や銀行の業務は、停止します。会社関係も休みますが、都合で出社を命じると、3倍の給与を支給しなければならない法律があります。


民宿の連絡先です。誰か中国語の堪能な方を通じて、予約をされたら良いと、思います。

時間が充分ありましたので、胡小姐の通訳で、構内の民宿のオーナーと、話をして、部屋を見せてもらいました。3室(5人用と、3人用2室)あります。列車本数が、通常4往復だけです。犍為に宿泊すると、移動もこの列車になりますので、朝晩を走る列車を撮るには、ここに宿泊するのが、1番です。菜の花シーズンは、満室になると言っていましたので、挑戦される方は、ご予約を早目がよさそうです。

17:52、珍しく定刻どおり観光列車がやってきました。ビデオを撮っていたので、写真がありませんが、№10(機関車)+№14(テンダー車)+6+2+4+8(観光列車)の4両編成でした。

胡小姐の言うとおり、最後部車両へと行きますが。乗務員は、ここは満席だから前の車両に行けと、攻撃的に命じます。切符は、最後部車両ですが、乗務員はガンとして受け入れません。仕方なく、指示に従いました。

18:03、夕闇が迫る中、上下左右に車体を振りながら、来た道を下りていきます。
18:35、定刻5分遅れの、石渓站到着でした。

今日は、『トホホ』で泣かされた日でした。夕食は、あっさりと、野菜料理を求めました。
明日は、撮影最終日です。石渓站から成都まで、約4時間は必要です。夕刻前には、石渓站に、戻っていないと、いけません。帰りの列車は、明日ダイヤ確認後、決める事にして、早寝しました