桜前線追っかけ2010年 Part9 徳島線、土讃線 2の1

第8日目 2010年4月3日

佃14:06-(4466D)→15:06阿波川島15:30-(457D)→16:49阿波池田16:55-(476D)→17:02佃

昨日は、18:00佐賀関港から九四行動フェリーに乗船して、19:10に四国の佐田岬三崎港に着きました。豊後水道を横切る航路距離は31km、わずか70分の乗船時間で、運賃は、九州~四国間フェリーでは最も安い8400円でした。
日豊本線側は、高速道路が未整備なので、四国に渡るには、高速通行料、燃料代、運転時間や疲労を考えると、こちらの方が早く楽なので選択しました。

三崎港からは、東へ向かい松山高速道路に乗って、松山市内が眼下に見える伊予灘SAで宿泊し、朝を迎えました。昨日までの雨模様とは違って、晴天の撮影日和です。
今日の撮影地は、琴電旧車両運転時にお世話していただいた、高松にお住まいのK氏に前もって桜と鉄道を取りたいとお聞きしましたら、徳島線小島駅、土讃線箸蔵駅と黒川駅付近を勧めていただきました。

伊予灘SAを早朝に出発し、小島駅には9:05の到着です。駅前からして、桜満開で期待が持てます。
▲ 9:12、小島駅を発車するキハ471097+キハ47118、437D。

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西村雅幸さんへ

 以心伝心とはこういうことかと思いました。と、いうのは今日思い立って今津まで出かけることになりました。途中白鬚を通るので、以前から気になっていた貴兄の白鬚駅の模型の件で白鬚神社に車を止めました。参拝してから社務所に宮司さんをお訪ねして「後輩にこの駅を模型で復元するために資料を集めている人がいますが写真はないでしょうか」とお尋ねしたところ、社務所にあげていただき壁に掛かった写真を見せていただきました。小さい写真ですが廃止直前の白鬚駅でした。また宮司さんのお母様も“目で見る旧高島町の移りかわり”という冊子を出してくださり該当写真の部分をコピーしてくださいました。

 もうご存じの写真かもしれませんがここに載せますのでご覧下さい。コピーですので不鮮明ですが宮司さんに名前を名乗っておりますので直接行っていただければ拝見させていただけることになっています。

ふるさとに学ぶ会平成22年3月1日発行「目で見る旧高島町の移り変わり」より

白鬚神社社務所にあった写真

 

完成を楽しみに待っています。

江若鉄道白鬚駅復元工事(その6)

別府鉄道から返り咲いたDC301

別府鉄道から返り咲いたDC301

駅の復元工事は遅々として進んでいない分、車両の工事が割り込んでいます。キハ5122、ハ5010、キハ5121もかなり形になったのですが、通販頼みのパーツが品切れで工事がSTOP。一方アダチ製のキットを入手して、DC301が完成しました。別府鉄道から呼び戻したことになります。もう1両 このキットを手に入れて 下回りだけを使ってDC251を作ろうと考えていますが、アダチのキットも売り切れでガッカリ。そんなわけで車両製作の浮気の虫がおさまるまで 白鬚駅の開業は水泳シーズンに間に合いそうにない状態です。

桜前線追っかけ2010年 Part8 久大本線

今日は、注目のIpadの発売日です。我が家にも、Jr.がインターネットで注文したIpadが届きました。早速触ってみましたが、画面が明るく鮮明です。動作も早い。書籍や新聞を見ましたが、とても見やすい。いずれペーパーレスの世界になるだろうと思っていましたが、実際に見てみると、現実化を実感しました。

第7日目 2010年4月2日 
天気予報通り、夜間は風と雨が吹き荒れた朝を迎えました。日田辺りまでは、行ってみたいのですが、この天候では、撮影範囲を広げても見合った結果は期待できません。近場にもロケハンしておいた撮影地がまだまだあります。

7:50、まず、今回は、まだ行っていない斬新な評判を受けている由布院駅を訪ねました。

さすが、無茶な観光開発を押さえ自然と融合するまちづくりを進め、「潤いのあるまちづくり条例」を制定した湯布院町の玄関口だけあって、駅舎もちょっと違っています。由布院の自然を象徴する落ち着いた黒の塗装をした木造駅舎は、品格さえ感じられます。
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桜前線追っかけ2010年 Part7 久大本線

第6日目 2010年4月1日

南由布10:21-(4841D)→11:19大分11:23-(4836D)→12:20南由布 道の駅ゆふいん(泊) 


昨日夕刻からパラパラ降り始めた雨は、朝起きても続いていました。6:20、由布岳裾野から昇る朝日が見えましたが、直ぐに厚い雲の中に消えました。天気予報では、2~3日は雨が続くと言っていますので、当分好条件化での撮影は望めません。

しかし、冷たかった今年の春も例年の暖かさを取り戻したようで、桜前線は急ピッチで北上しています。本当に今年の春は、異常気象続きで撮影マン泣かせです。桜前線に待ったはありませんので、これからは、撮影地を絞っていく事にしました。今日と、明日の撮影地は、久大本線湯布院が中心です。

7:05、南由布を発車した4番目の列車の大分行きの、キハ200系の4829D。
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都電8800形増備

8800形の増備車8803~8805の3両が2月上旬に搬入され、3月中旬より営業運転を開始した。メーカーは昨年新製された8801・8802と同様アルナ車両で仕様も同じである。2両の頃は中々見られなかったが、さすがに5両になると日常的に見ることができる。今回の増備により、7500形の7501・7516・7518が廃車された。

 

8803/上22年5月8日飛鳥山  下22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前

 

8804/上22年5月1日荒川車庫前  下22年4月3日 荒川7丁目~町屋駅前

 

8805/22年5月1日荒川車庫前 

他形式の動向

9000形

9001は平成19年3月、9002は平成20年12月に新製されたレトロ調車両である。貸切運転時に指名がかかることが多い。

 

9001 21年6月10日 荒川7丁目~町屋駅前

 

9002 22年5月8日 新庚申塚

8500形

平成2年にトップナンバーの8501、平成4年に8502・8503、平成5年に8504・8505が新製された。いつまでも新車と思っていたら、既に20年近く経過している。昨年になって8503と8505にラッピング広告が貼られた。スポンサーはご覧のように警視庁で、広告を見てドキッとされた方もおられるのではないだろうか。

 

8501 22年5月1日荒川車庫前

 

8503 上22年3月20日 飛鳥山 中22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前 下22年5月8日 庚申塚~巣鴨新田 

 

8505 上21年12月30日 荒川車庫前 中22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前 下22年5月8日 飛鳥山~滝野川1丁目

7500形

昨年新車との代替で7503・7513・7515の3両が廃車になり、更に今年の3月前述の3両が廃車になったため、現役で残っているのは7505・7510・7511・7512・7520の5両となった。この5両も今年8800形が5両増備されると廃車になる予定である。ラッピング広告がないのは7511のみである。

 

7511 22年3月20日 飛鳥山 

 

7512 22年5月8日 西ケ原4丁目~滝野川1丁目

 

7520 22年4月3日 荒川2丁目~荒川区役所前

7000形

7001~7005・7007・7008・7010・7013.7015・7016・7018・7019・7022~7027・7029~7031の22両が健在で主力として活躍している。廃車になった車両の内7009・7028は平成4年、7017・7021は平成12年豊橋鉄道に譲渡された。7022は黄色に青帯のリバイバル塗装車になっている。

 

7002 22年5月1日荒川車庫前

 

7022 22年5月1日荒川車庫

 

7005 22年5月8日 西ケ原4丁目~滝野川1丁目

保存車6086

最近塗替えが行われて綺麗な姿になった。京福電鉄福井支社の事故が原因で廃車になり、荒川遊園地に保存されている6152と共に現役に復帰できないものだろうか。現在荒川車庫の最も公道寄りに留置されており容易に見ることができる。

その他

荒川線と阪堺電車がPRの相互乗入れが行われることになり、7500形1両を阪堺線の旧塗装に塗替え6月6日から運行されることになった。また、阪堺線でもモ501形が1両黄色に赤帯の都電の旧塗装になる予定である。両線の活性化を目指した以降の展開に期待したい。

24年前の南阿蘇鉄道


南阿蘇鉄道の軽動車 高森

5月6日(#7991)、8日(#8015)にぶんしゅう氏の南阿蘇鉄道がアップされた。半月出遅れたが、拙老も1986年に南阿蘇鉄道を「ひと覗き」し、早いもので23年半たってしまったが、この3セク鉄道開業は同年4月1日だから、半年後である。

1986年10月18日天気不良の中で甘木鉄道を往復し、その日の内に高森へ。土曜日の午後とあって乗客(非地元民)は結構あったが、大方は阿蘇下田までに降りてしまった。新潟製の非貫通軽動車は1軸駆動にしては33‰を苦にせず上る。車内はネジ頭が丸見えのバス並で安かろう、上等でなかろう(これでも内燃動車ファンのはしくれだからあえて「悪かろう」とはいわない)だが、本年2月の登場だから、この時点まだピカピカだった。今年なら車令24年になる。


立野駅 かつてC58、96、C12が躍動した面影はカケラもない

この時点乙女チックな駅舎は立野だけだったように記憶するが、高森は「インテリジェント・バレー」を目指しといるとかで、木造でひなびた駅舎をぶっ潰し、数千万円をかけてニューメディア・特産品展示、陶芸教室などを併設した新駅舎に建て替えるんだと、駅員は力説していた。当時のことだから、農水省等の補助金での町興しの一環だったのだろう。

そのニューメディアの一端というか、実験か、待合室にキャプテンの端末があった、といっても今では完全に死語になってしまったが、Character And Pattern Telephone Information System の略。物の本によると「電話回線を使って受像機と情報センターを結び、センターに蓄積されている各種情報を利用者の選択に応じ呼び出し、受像機の画面に文字と図形で映し出すシステム。国際的にはビデオテックスと呼ばれ、キャプテンは日本での呼称」とある。

NTTがこのサービスを開始したのが1984年だったが、端末機がやたら高価ででっかく、技術未熟、何にもまして魅力あるコンテンツに乏しく、公共施設などに端末を無理やり設置はしたが、利用者も極めて少なく、結局ほぼ普及しないまま消滅した。

高森駅では列車の時間表がプリントアウトできるという表示があったので、早速トライ。ところが出てきたのは改正前ダイヤで、これじゃ何の役にも立たない。修正されていない―誰も利用していないのが歴然だった。政府はずいぶん金を投じたはずだが、全く無駄な投資ではあった。


高森に保存されていたC12241

高森の町はかつて木材で賑わい、営林署、簡易裁判所、専売公社支所(葉タバコ集積)等、官公庁出先機関も多数あったのだが、すっかり寂れてしまっていた。それでもリーズナブルな旅籠を見つけ投宿。晩飯はいらんと宣言したらヘンな顔をされ、何かいいたそうだったが、それっきり。

下駄履きで町へ出てヘンな顔の意味がわかった。飯屋、飲み屋の類も何軒かはあるのだが、一軒も営業していないのである。土曜日の晩だったからかもしれない。散々歩き回ってシケた料理屋が何と開いていたので、板長か主人かに、かくかくしかじか、何か腹のふくれるものと酒をと嘆願。

親父は見習いと思しき若者に、何か作って上げなさい、酒も、と指示し、恐らく若者の実地研修の一環で、無人のカウンターで一人淋しく、それでもともかく餓死からは逃れられた。

 翌朝はカルデラ内で軽動車を撮ったが、やはり平地では面白くない。立野11時18分発トロッコ列車は日曜とあって、沿線温泉宿泊客がかなり乗車し、かつ寒いため、標準編成の後尾にディーゼルカーを連結した珍編成だった。折り返し立野行き上りの乗客は約30人だったが、半分が阿蘇下田で降り、以後乗降なし。出入り口はチェーンと数字合わせ錠で固められ、必要の都度ガチャガチャと開閉する。

そのトロッコ列車は、2両の協三工業製「半キャブ」(国鉄貨車移動機の再生車)間に2軸無蓋貨車(トラ)を改造したテント屋根の客車が2両。中には木製の椅子、テーブルがしつらえてあり、貫通路もある。先頭機関車でキーを回すと、前後の機関車のセルモーターが回り、エンジンが始動した。総括制御だったのである。


高原の秋は結構寒く、心底燗酒がほしかった

この機関車は現在二代目が就役しており、初代は確か旧門司港駅構内を往復しているはずである。

なお高森線には私事ながら想い出がある。新婚旅行で伊丹から飛行機で福岡へ、列車で長崎、雲仙、三角から熊本、ここから大奮発で特急「はやぶさ」に乗り鹿児島へ。フェリーで櫻島へ渡り、袴腰から国鉄バスで海潟へ。古江線、日南線を全線乗車し、宮崎へ。更に日ノ影線に乗るはずが、手違いで宮崎交通バスで高千穂へ。翌日高森へ抜けたが途中でパンクし、予定が狂って高森線の13時10分発116レ(C12牽引)に間に合わなかった。それでも貨物が来るというので、嫁様を待合室に荷物と共にほったらかし、彼女曰く「右も左も分からないのに走って行ってしまった」。これはかなり後まで祟った。

桜前線追っかけ2010年 Part6 宮原線

もう桜前線は、北海道の末端へ行ってしまいました。旬が過ぎてしまったが、その間いろいろと書き込みをしてしまったので、ご無沙汰になりますが、来年挑まれる方のためにも記録を残しておきたいと思います。

第5日目 2010年3月31日

長陽駅15:15→17:10国鉄宮原線・肥後小国駅跡→17:29北里駅跡→17:57麻生釣→道の駅ゆふいん(泊)

長陽駅訪問後は、外輪山を越えて肥後小国へと向かいました。到着後、さて肥後小国駅は、どこにあっただろうと思い『道の駅小国』に立ち寄ると、駅名版、線路が残されています。地元のおばさんに聞くと、間違いなさそうで、駅跡を利用して道の駅ができたらしい。
▲ ここから、DRFCの1967年夏の合宿地、宮原線麻生釣へと、廃線跡を辿ってみました。郊外へと出ると、約42年を過ぎた今も、築堤跡やアーチ橋がそのまま残っていました。 続きを読む

パクリとニセ情報

ファイト、馬力、酒量いささかも衰えぬぶんしゅう氏が「新緑の赤沢森林鉄道」をアップされた。その中のF4型ボギー式機関車に添え、「上松停車場で出発寸前の『みどり号』を連結したF4型ボギー式機関車」とのキャプションが付された写真がある。

実はこの写真、「おじん2人+1人 ヨーロッパ軽便」トリオの「+1人」氏の作品で、どこかでパクラれ、堂々と展示されている訳である。かような公共展示であっても、撮影者の了解を取るのは当然だし、それが叶わぬなら、せめて出所(複写元)を明示するべきであろう。パクリが数々指摘されている上海「パク博」のことをあんまり言えないのが情けない。

パクリと言えば、すさまじいのがウイキペディアである。勿論真面目なものも多いのだが、執筆者の名前が出ないからか、パクリが大手を振って白昼堂々と横行し、全く恥ずるところがない。拙著「内燃動車発達史」等からも丸写しが山ほどあってうんざりするくらい。せめて出典を記す最低限度のマナーなんぞ、糞でも喰らえ、ないしは引用してやったのだから有難いと思え、といわんばかりである。

反面、まことしやかな記事で、うっかり信用して引用しようものならとんでもないことになるものも少なくない。最近必要があって「皇室用客車」から「軽便用御料車」を検索して驚いた。ちゃんと形式図まで入っているのに、それがまるで関係ない=違う図なのである。エイプリルフールじゃあるまいし、この執筆者は、まるっきりのガセネタ=ニセ情報で、読者を騙して喜ぶ愉快犯なのかもしれない。

両備鉄道は762mm軌間ながら1927年電化し、日立製凸型B-B電機11~16が就役。客貨車は日車製ばかりで、2・3等合造車の記号がトナ(特等・並等)、3等車がナであった。1930年の陸軍大演習で天皇が臨席されるとあって、両備鉄道は日車で「四輪ボギー貴賓車」1両「キ1」を新製。この時期木製車体で、それ以前の密閉車体並等車と実質同型だが、中央2個の窓を1個の広窓とした。これは用済後2個に割り、通常客車に格下げできる設計であった。


両備鉄道キ1組立図 『日車の車両史 図面集-戦前私鉄編下』より

現実には改造はなされず1933年現在キ1のまま、1940年1月1日買収され、福塩南線に。国鉄でも始末に困ってたった一度使っただけの客車だが、解体してしまったようである。

日車には数種の図面が残っているが、売上台帳には「木製御料車 1両 代価6,571円 製作費5,005円40銭」とある。即ちこの時期、しかも木製車体なのに、著しく高価であった。ガラスがすべて「磨硝子」だったが、それだけでこんな値段にはならないだろう。

ウイキペディアを即信用してはいけないとは、かねがね聞かされていたが、諸兄、上記のウソツキ図面(最大寸法7,170×7フィート×10フィート6インチ=なんでメートル法とフィート・インチ法が混ざっているんだろう)を検索し、日車組立図と比較してみてはいかが。

こんなことってあるんやなぁ!

普通電車のブレーキレバー折れる 滋賀の東海道線、急停車

 19日午後2時ごろ、滋賀県近江八幡市のJR東海道線篠原駅を発車した米原発網干行きの普通電車で、運転席のブレーキレバーが根元近くで折れ取っ手が外れた。運転士が残ったレバーの付け根を指先で操作し電車は急停車した。乗客約150人にけがはなかった。

 JR西日本によると、ブレーキレバーは鉄製で丁字形をしている。根元の直径は約2センチで、付け根から取っ手までは約15センチ。車両は223系で1997年に製造されて以来、レバーの交換はしていないという。運転士が発車させるためブレーキを緩めた際に折れたとみられ、同社が原因を調べている。

 JR西日本によると、電車は篠原駅を出発後、約140メートル先で急停車した。乗客は後続の電車に乗り換えた。

(47NEWS 5/19より)

記事には運転台におれたブレーキハンドルを置いた写真がでていた。見たところ金属疲労でポッキリ折れたようで、JR-Wはまたたたかれるのか?

新緑の赤沢森林鉄道 2010年

新緑のすがすがしい日々が続いていますと、家事ばかりしているのは耐えられません。数ヶ月前に小学校の同窓会旅行の案内状が来ていた事を思い出しましたが、どこに置いたかこの年になれば記憶はありません。
探すより、近くにいる同級生を訪ねた方が早いと行って見ると、来週の土日に木曽の妻籠・馬籠宿に行くが、女性8名に対し、男性は3名で、参加者が少ない。あんたも一緒に来るように言われましたが、即答は避けて帰りました。

同窓会旅行先には、木曽森林鉄道があって、確かごく一部ですが、観光用として復活しています。芦生でのトロッコ道を歩いた好印象が残っています。急いで、インターネットで検索してみると、赤沢自然休養林内に森林鉄道があり、訪問記事を読んでいると、一挙に行きたい気持ちになりました。
しかし、行くために走る名神高速は、丁度5月10日~22日まで集中工事をしていて、渋滞が予想されます。天候も心配です。迷いましたが、天候が良さそうになってきました。幹事に参加したいが、前日は個人行動を取っても良いか打診しましたら、問題ない宿まで来てくれればと了解されました。

それでは、当日朝1番に赤沢自然休養林に着こうと、5月14日夕食後仮眠をとってから出発しました。向かうは、京都南ICですが、着けば何と20時から通行止めです。Uターンして、京滋バイパス久御山淀ICに変更しましたが、本線に入ると、長距離トラック集団が続く大渋滞です。
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豊肥本線と高森線



立野をバックで発車する717レC58424

国内、国外を駆け回っておられるぶんしゅう氏の、1970年の豊肥本線、高森線が出た。拙老も豊肥本線は何度か足を運んでいるので、ゴソゴソとブローニーのネガを取り出して、ご笑覧いただく。

時は1958年3月31日、目出度くドーヤン生になって1年から2年になる春休み。3月11日山科の自宅を出発し、山陽線電化試運転[臨試電2858T]を撮り、両備バス西大寺鉄道を皮切りに倉敷市交通局、井笠鉄道、尾道電鉄等山陽路私鉄をめぐって九州入り。均一周遊券をフルに使い、夜になると門司港、長崎、西鹿児島のどこかに行き、夜行各停に乗車して宿賃を節約。ステホは三田尻と大分だけだった。

その九州最終日、早朝熊本に着き、5時40分初発717レで立野へ。このとき豊肥本線は熊本-大分間直通列車は6本、熊本-宮路間が3本、宮路以東のローカルが3本。直通の内2本のみが2等車を連結で、その1本は快速「火の山」だった。これは翌年ディーゼル準急「ひかり」になる。


高森線初発113レ

立野着6時48分。高森からの初発列車は2分前に到着しており、機周りを済ませ7時12分発113レが初発で、C12逆行を白川鉄橋で待つ。多分にオハナシめくが、この鉄橋のペンキ塗りだけで飯が食える塗装業者がいたとか。


スイッチバックを下ってきた716レC58115

前後3コマ719レ69686


119レC58427、補機69699

立野のスイッチバックは大畑とともに雄大である。なにしろ景色が広く、おまけに天気がいいから撮影していても実に気持ちがいい。ただ翌年には、一番いい景色のど真ん中にナショナルのどでかい広告塔が建ち、ぶち壊しになった。


宮地止まりのローカル721レ 69657

これは鉄道ピクトリアル第4回写真コンクールで推薦5点中に入り、賞金3000円也をゲット。87号に掲載された。その時の特選は佐竹保雄氏の「準急ひだ号」で5000円、小生は宮崎交通でのコッペル機牽引「軽便列車」も入賞し1500円也。

この頃はネガ提出がなく推薦にも何度か入ったが、その後ネガ召し上げが条件になり、それにしては賞金が「薄謝」に過ぎると判断し、以後応募はご辞退申し上げている。

撮り鉄雑感

先日、東西の老友と撮影に出かけた。k氏とは湖西線志賀へ、Y氏、T氏とは高尾へ出かけた。大変楽しかったが、それぞれ、①好天に恵まれ、②同業者に会わず、③何より気心の知れた老友が同行したことで健康的なカメラハイキングができた。下のは「人がいないとやっぱしええわ」と思った写真。撮影の名所志賀~蓬莱間を行く117系で我々二人以外誰もおらず、のんびりと撮影ができた。

2010.4.24 JR湖西線志賀~蓬莱 2842M京都発近江舞子行き117系6連

最近、撮り鉄のマナーがマスコミに取り上げられ、撮影に行くと何となく肩身の狭い気がしてうっとうしい。特にJRの有名列車の廃止、車両の廃止による最終運行、イベント列車の運行等で混乱が予想されるものについては極力行かないようにしている。鉄道写真は楽しくないといけないので罵声が飛ぶようなところは、それだけで気分が悪くなる。しかし、どうしても記録したい場合も出てくるので、その場合は、東京や上野のようなパニックステーションをやめて、他の駅のホームの中間で撮るなどやや盲点的な場所を探す。ホームの端や列車を前がちに撮ろうとすると写角が限定され、どうしても定員がオーバーするので問題が起き易い。老若男女、カメラの良し悪しなど全く関係なく、先に来ている人が優先なのは最低限のマナー。前で撮る時は先に来ている後の人に邪魔にならないか必ず訊く様にしている。しかし、どうしてもいい場所は限定されるので大型脚立を駆使して高い所から狙ったり、人と人との間から撮ったり、はたまた、股の下から覗き込んだり大変である。実際、後に人が居ると落ち着かないものである。そんなことまでする必要があるのかと思う。しかし、適当な数の同業者なら情報をもらったり、共通の話題で盛り上がったりすることもあり悪いことではない。声をかけると嫌がる人もいるし、こちらも声をかけられたくない時もあるので、このあたりはタイミングとか読みと言おうかなにがしの判断が必要である。話が合ったり、仲が良くなり易いのは「共通」と言うことがキーワードのような気がする。すなわち、時代が同じ、地域が同じ、学校が同じと言うことは話が纏まり易い様である。線路際でEF64全機撮った人に、その昔のEF13の話をしても興味がないし、嫌がられる。小生は古い人間なので昭和30年前後が好きであるが、さらに古い明治や大正の鉄道にはもう一つ興味がない。海外の鉄道など行かない人にはなかなか興味がわかないはずだ。関東人と関西人が合わないのもよくわかる。自慢話ばかりでは嫌われるし、人の話に耳を傾けることも必要である。脱線したが、なくなりそうな車両は早い目に撮っておくと言おうか普段から撮っておけば大慌てしなくてもよい。その意味では平日動けるのは有難い。前述のパニックステーションやホームの端はやめて、横一列の撮影は比較的無難であるし、隣の人とも声をかけ易い。そんな例が次の写真。

2009.12.12 IR東海道新幹線三島~新富士の超定番スポット

プロを目差すならいざ知らず、鉄道写真は楽しく行きたい。撮影条件が日々悪くなっており、それだけに無理せずに自分なりに好きな場所をあちこちに用意しておき、なるべく普段着の鉄道を撮るようにしたいものだ。

桜前線追っかけ2010年 Part5 高森線1970年時代

南阿蘇鉄道は、40年前にDRFCの竹中君と玉城君の3名で、国鉄高森線時代に訪問しました。1970年(昭和45年)、時期もほぼ同じ4月7日でした。5泊6日で、行程は下記のとおりです。

①4月6日 新大阪20:43-(急行天草)→7:02門司

②4月7日 門司7:16-(1137M)→7:51折尾8:00-(725レ・C55)→8:11筑前垣生11:37-(733D)→11:48直方13:02-(733レ・C55)→14:31原田14:34-(131M)→14:45鳥栖15:06-(急行くまがわ・1117D)→16:26熊本17:35-(1727レ・129レ)→19:56高森(泊)

③4月8日 高森9:43-(2732D)→10:02長陽…(撮影徒歩)…阿蘇下田17:26-(17:26)→17:44高森(泊)

④4月9日 高森6:00-(122レ・C12)6:08阿蘇中川…(撮影徒歩)…中松9:53-(2732D)→11:02熊本13:04→14:11久留米14:40-(639D)→15:56光岡16:43→16:47日田(泊)

⑤4月10日 日田17:40-(738レ・C11)20:35小倉22:23-(248M)→0:14小郡

⑥4月11日 小郡1:32-(急行雲仙2号・212レ)4:06広島5:13-(622レ・C62)→8:18糸崎8:23-(5436M)→10:09岡山13:09-(1446M)14:35相生14:36→15:44三ノ宮15:56-(822M)→16:24

大阪夜行列車で九州に入り、筑豊本線を走るSLを撮影後熊本駅に到着しました。九州は、まだSL全盛時代でC55、C60、D51、D60、9600、8620、C11、C12が、客車・貨物列車を牽引していました。今から思えば、よだれが出そうな美味しいSL天国でした。

熊本機関区でのショットです。
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やっぱり将軍様は仲間だった!

K.Hさんのご教示で国分隼人氏が書いた「将軍様の特別列車」が出ているSAPIOを買ってきました。

中には“お召し列車”の編成がイラストで出ています。たぶんK.Hさんが言っていた同氏の著書「将軍様の鉄道」に出ているものと同じかと思われます。記事には“将軍様は相当な鉄道ファンでもあるようだ。・・・平壌市内には鉄道関係の博物館が三カ所もある。・・・その保存・保管の充実ぶりは、マニアだからこそと思わせる”と書かれています。編成中に特別随行員専用執務車と電源車だけが短く、K.Hさんによると20mだそうです。

速度は在来特急並み?

昨日の河北新報にちょっと気になる記事が掲載されていました。
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速度は在来特急並み? 北海道新幹線新青森-新函館間


2015年度に開業を予定する北海道新幹線新青森-新函館間の半分以上の区間で、開業直後は新幹線が在来線特急並みの速度でしか走行できない可能性が高まっている

時速200キロ以上の新幹線と在来の貨物列車が線路を共用する区間ですれ違う際、風圧などで貨物列車が脱線する恐れがあるからだ。国土交通省はいくつか対応策を示すが、結局は新幹線の速度を抑える以外に有効策はなく、青森県などからは「在来特急と同じスピードなのに新幹線?」と疑問の声が上がっている。

国交省によると、新幹線と貨物列車が線路を共用するのは新青森-新函館間の149キロのうち、青函トンネルの54キロを含む82キロ。最速260キロの新幹線が貨物列車とすれ違った場合、貨物列車が風圧などで脱線したり、横転したりする可能性を否定できないという。

国交省は2月上旬、青森県や北海道などが参加する会議で「新青森-新函館間の着工が決まった04年度以降、対策を検討しているが、結論に至っていない」と説明した。

その上で、検討段階の対策として
(1)別のトンネルの建設や上下線間の隔壁の設置
(2)新幹線と貨物の運行時間の区分
(3)すれ違う時のみ新幹線が減速
(4)貨物車両が乗り込める新幹線用貨物列車(トレイン・オン・トレイン)の導入
(5)新幹線が線路共用区間で在来線特急並み(最速140キロ)で走行-の5案を提示した

1)の別トンネルの建設には5000億円超、障壁設置には1600億円超が必要とされ、工期が大幅に延びることも予想される。
(2)は新幹線か貨物のいずれかがほとんど運行できなくなる。
(3)は技術的に困難だという。
(4)のトレイン・オン・トレインは本格的な実用化までに10年以上はかかるとされ、開業には間に合わない見通し。このため、開業直後は(5)が実施される可能性が高い。その場合、同区間の所要時間は18分程度増え、約58分となる見込みだ。 

青森県は「開業が迫りつつある中、結論が決まっていないことだけを示されても」と困惑気味。「いつどうやって、新幹線らしく200キロ以上で走行できるのかを具体的に、早期に示してほしい」と求めている。
国交省は「開業の期日に間に合うよう結論を出したい」としている。
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関西では、九州新幹線のことが報じられることが多く、北海道新幹線のことには、余り関心がなかったのですが、青函トンネル内で、初めて在来線と併用される区間ができると、こんな問題が生じるのですね。

私は、技術的な事はさっぱり分りませんが、専門的知識をたくさん持っていらっしゃいますクローバー会員の皆様、もっと良いアイデアを出してあげてはどうでしょうか。

私がよく乗る、中国鉄路では、北京~上海間の在来線に昼間、最高速度220km/hの高速列車が1往復、走ります。実は、貨物列車とのすれ違いがあります。向こうは、約80~120km/hの走行です。しかし、貨物車両は、積載量60トン級なので、風圧を受けても大丈夫みたいです。旅客列車ともすれ違いはありますが、普通に行われています。
さすが350km/hで走行するのは、高速専用新幹線のみで、貨物列車の走行も、低速列車もありませんので、こちらは問題ありませんが、在来線では、160km/hでのすれ違いは、幹線では結構遭遇します。

世間の見る目は・・・

最近は世間から厳しい目で見られている我ら「鉄道趣味人」であるが、今日の新聞におもしろい記事が出ていたので転載してご覧いただく。

著者は作家の赤瀬川原平氏。小生は作家としての氏は知らないが、テレビなどで「路上観察者」としてたびたび出演されているのを見ている。なんでも路上にある普通すぎて誰も気にもしないものに注意してその存在意義を議論するのを趣味にしておられる様子である。大阪特派員氏と共通しているようでもあり、我々とも目の付け所が似ているようでもあり同好の臭いを感じていた方である。

この掲示板でも最近の「テッちゃん」と言われる連中の態度に厳しい見方が書き込まれることが多くなってきたが、鉄道趣味は持たない世間の方から見た意見としてお読み願いたい。

同じ朝刊に昨日も関西線の線路内に三脚を立てていた尼崎の50才のテッちゃんが通報され(近所の人に!)怒られたとか。

趣味を持つことは人生にとってすばらしいことである。しかし趣味とは他人に迷惑を掛けないことが最低条件であろう。でも自分のことには寛容で、他人には厳しいのが凡人の常である。小生は以下のように考えているが諸先輩のご意見はいかがであろうか。

たとえば暴走族とツーリングの違い。車で走っているとき大型バイクに迫られると「ドキッ」とすることがある。しかし近づいてよく見ると凝った装飾は似ているがこだわりを感じるデコレーションと、手入れの行き届いたバイク、ゆったりとした走り具合、なによりライダーにゆとりと品格が漂っているのに安心する。一方の暴走族は騒音が趣味なのかバイクが趣味なのか分からない。人相風体を見ても教養やゆとりは感じられない。どちらも聞けばバイクを愛していると言うだろう。では違いはなにか、小生なりの結論は「好き」だけでは趣味とは言えないと考える。知識を基礎にした教養と廻りに対する感謝と遠慮、なにより鉄道を生活の糧にしている鉄道員に対する配慮がなければ暴走族と同じであると自制している。

いまや鉄道沿線の住民にまで通報されるようになった趣味活動は今後世間をも敵として戦いながら続けて行かなければならないのだろうか。

江若鉄道白鬚駅復元工事(その5)

白鬚駅本屋
白鬚駅本屋

白鬚駅本屋がようやく出来上がりました。数少ない写真はプラットホーム側からのアングルばかりで、道路側や裏側がどうなっていたかわからず、適当に作りました。白鬚駅の特徴は何と言っても唐破風屋根の入り口で 結局加工しやすい桐の厚板から削り出して なんとか格好になりました。

白鬚神社の社務所の写真が大変参考になりました。

白鬚神社社務所

白鬚神社社務所

プラットホーム上にある小さな待合室もついでに作り、残る建物は便所だけです。

白鬚駅に到着するィ??15

まだバラストを撒いたり、砂浜を作ったり配線工事など工事は多く残っていますが、水泳シーズンまでには開業できるのではとボチボチやっています。
「その4」で書きましたが、キハ5121,5122、ハ5010の3連も製作中で当駅の開業列車に使う予定です。
 ところで 水中鳥居はどうも大きすぎたようですが 作り直す元気もないので できるだけ遠くに置いて 小さく見せるしかありません。あとは松林をどうするかが難問です。
道路をはさんで向かい側に食堂?のような建物があるようなのでこれもにぎやかしに作ろうかと
適当な建物キットを物色中です。              以上

 

気まぐれ工房レポート~ED17のリハビリ~

本来、今回の書込はD50(4)となるはずだったのですが、お約束の主台枠後部の工作構想が充分練れていなかったため、その後工事がストップしていました。工作に行き詰まると別の工作をしながら解決策を練って行くのを常とするのが当工房の運営方針である。と言えばかっこよく聞こえますが、なんだか現役時代の会社の仕事ぶりを反映しているようで我ながら少し恥ずかしいような気分です。そういうわけでこの空白はED17をリハビリすることに費やしてしまいました。言い訳を前置きにして、今回は気まぐれレポートです。

さて事の起こりは以前、乙訓の大老から下付された、模型のジャンクBOXから出てきたED17の車体を、工房のパソコンモニターの前に置いたことです。それ以来ずーっと気になって仕方がなかったのですがD50の行き詰まりで決心が付いたという訳です。

この車体はED1722のナンバーが車体に直接エッチングされているところから、1964年頃に発売されたつぼみ堂の製品と思われます。上の写真のような塗装済みの状態でしたので、工作に備えて市販のリムーバー(塗料剥離剤)を用いて塗装を剥がしました。

車体はリハビリするとして、それ以外の台車をはじめとする各部品は市販品を調達するか自作するしかありません。しかし幸運なことに手持ちが枯渇しかけていた15.5φのスポーク車輪がエンドウから発売されているのを見つけ、10軸分購入しました。絶縁車輪、非絶縁車輪、車軸合わせて¥6,000程でしたから4軸分で¥2,400と言うわけです。同時に見切り品コーナーにカツミ製の35mmインサイドギヤーがあり(但し一つだけ)、使えそうなので買って帰りました。この車輪とインサイドギヤーの購入がこのリハビリの方針を決定づけたと言って良いでしょう。前作ED18ではスパーギヤーとユニバーサルジョイントでモーター軸をギヤーボックスに降ろす方式でしたが、今回は簡単な2個モーター/インサイドギヤー方式、そして台車は自作しやすい板台枠です。

まず、片方のインサイドギヤーを自作することにしました。同一スペックのスパーギヤーが手持ちにあるため、カツミのコピーが可能となりました。

完成したインサイドギヤー(右)。左はカツミの製品。モーターは手持ちの縦型(DV18C)を使用、減速比は1/20とする計画です。

次に台車の新製に移ります。お馴染みのインサイドギヤー方式ですが、連結器力が台車の端梁に伝わる構造で、台車枠をロの字型に組み上げる必要があります。しかし、若干のねじれにも対応できる必要もあるため、端梁と側梁は各1本の小ねじで組み立てる構造としました。まずは側梁を.08mmの真鍮版から切り出します。次の写真はケガキが終わり、1台車分の外周と軸穴などの加工が終わったところ。左右の側梁を上下逆さに、これを2組ケガキました。図の出典は機芸出版社の「日本の車両スタイルブック」です。

下回りと並行して車体の細部を仕上げて行きます。今回はリハビリとは言うものの、壊れている場所があるわけではなく、細密化/高忠実度化が中心となります。目立っていた曲げ手すりを実物のようにハンドレールノブ構造に変更、省略されていた各窓の内サッシの追加、屋上ランボードの足の取り替え、パンタグラフの取付寸法変更、ヘッドランプの取り替え、車体裾のチャンネル取り替えと尾灯の変更、乗降用ステップの新設、ナンバープレートの取り付け等が主な作業で比較的簡単でした。

機番はED171としました。元機番のED1722は元ED52で、ED171の元ED50とは室内機器の並びが違う以外、外観の相違はほとんどないと言うことなので手持ちのナンバープレートから選びました。貼り付けてみると横寸法が短くて元のエッチングがはみ出してしまいます。そこで見えるところだけをルーターで削り落としました。

乗降ステップの外枠はED18で作っておいた曲げ治具を使いました。そして中段ステップはご覧のようにチャンネルをスライスしたものです。

当初、台車周りも簡単かと思っていたのですが、台車周りがこの機関車の外観上のポイントなので、結構リキが入ってしまいました。ポイントのは軸箱、担いバネ、砂箱、台車枠の補強、前後台車を結ぶリンクでしょう。

軸箱と担いバネ。古いドロップ製のこの製品は恐らくテンダー台車用のものだったのでしょう。綺麗な仕上がりで8個数が揃っていたので、今回のようなチャンスがあるかと温存していました。私たちが学生の頃はこのようなバラパーツがマツモト模型で良く手に入ったものです。今回は担いバネと軸箱の間に距離があるため、両者を切り離して使いました。

組み上がった台車。挽き物のブレーキシリンダー以外は全て自作です。

機関車を裏返しにして前作ED18との違いを比較。上がED182、台車間に推進軸のユニバーサルジョイントが渡っている。下が今回のED171、2個モーターで構造が簡単。台車間に牽引力を伝えるリンクが見える。絶縁の必要上ダミイの構造で、1mm厚のダミイリンクが相手側の端梁に差し込まれている。牽引力を伝えるのは台車中心ピン。ED18は中間軸を挿入したため、ホイルベースが長く、先頭軸との距離が小さいため、連結器の絶縁取り付けが出来ませんでしたが、今回は最も短い#16のポケットが使用出来、#8カプラーの首に透明粘着テープを巻いて絶縁処理し、重連運転に備えています。

最後までよく分からなかった高圧引き込みと避雷器の取付を終え、完成です。なお、パンタグラフは天賞堂の旧製品PS13を使用しました。

ED182と並んだED171。避雷器と高圧の引き込みが違うことにご注目下さい。ここまでやるんだったら通風口の取付まで修正するべきでしたね。反省点です。それから、この写真を見て側出入口上部の庇と、ドアノブを忘れていることに気がつきました。塗装までに製作、取り付けましょう。

さて、いよいよ次はいやでもD50を登場させなければなりませんね。首尾良く工事が進捗しますように、少々時間を頂きます。

金正日は仲間?

北の独裁者・金正日将軍様が宗主国の王様にご機嫌伺いに行ったニュースはご覧になったでしょう。

あのオッサンの乗っていた列車のすごさに驚きました。

手入れの行き届いたC+C片運転台のDLが背中合わせに二両つながった、DF+DFの固定編成と思われる機関車に牽かれた17両編成の特別列車でした。客車はおそらく22mくらいあるのではないでしょうか。中には窓配置から食堂車と思われるものや寝台車ではと思えるものなどじっくりと見てみたい限りです。独裁者というものは疑い深いので飛行機より鉄道を利用すると新聞に書いてありましたが、それならあの悪名高い将軍様も趣味としては我らの仲間といえるのではないでしょうか?

どなたかあの列車の情報をお持ちでしたら教えてください。かつて北鮮に潜入して調査をした「準特急」さん、いかがでしょうか?