【9577】奇想天外「立体バス」! 交通渋滞解消方法

もうじき9月になりますが、まだまだ猛暑が続きます。熱中症にご注意ください。
予定では、満州をさまよって、将軍様の列車でも追いかけていたのでしょうが、都合で出られず引きこもり生活者です。仕方がないので中国鐡路の最新ニュースをインターネットを見ていると、奇想天外なニュースがありました。

「立体バス」、車道を跨いで走る鉄路と車両です。1階は車がすり抜けられるトンネル、2階は乗客用客室です。これなら市内の限られたスペースを有効に利用でき、大量輸送と走行中の車を邪魔することなく交通渋滞も緩和できます。日本では、法的に問題はあるのでしょうが、北京では来年にも建設されて来年末には試験運行されると、25日付で京華時報が伝えました。

道路だけでなく、既存の鉄路にも応用ができ、複々線も簡単に出来るのではと思いますが、皆様方いかがでしょうか?
外国からの技術のパクリばかりのコピー王国の中国ですが、これは独自の優れたアイデアとして、世界中から注目を浴びるでしょうね。出来たら直ぐに乗りに行きます。失礼ですが、こんな素晴らしい発想が中国で生まれたのは驚きです。
詳しくは、紹介されている下記HPをご覧ください。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=44895&type=1&p=1&s=no#t
http://www.excite.co.jp/News/photo_news/p-193381/
http://people.icubetec.jp/a/cea0b1abb70841c0961076b9d117c6a9
http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY201008260262.html


【9574】何時まで続く中央東線201系の運用

残暑お見舞い申し上げます。
 

 

既にH7編成のみとなり「さよなら運転」や「豊田での公開」など
のイベントも終りましたが未だ連日、定期運用に就いています。
何でもE233系の走行系ソフトウエアの調子がイマイチだからだと
ファンの間で囁かれています。
 
巷では「さよなら運転」とか最終列車を撮る人を葬式鉄と称し
更にその後を撮る人の事をハイエナ鉄と分類するのだそうです。
そうすると解体部品を漁るマニアは骨上げ鉄、廃線跡の調査は
さしずめ線歿舎慰霊鉄と言った所なのでしょうか? (苦笑)
 
閑話休題
今回の写真は201系の始発を狙った駅撮りです。これ迄に201系の
写真や多摩モノレールの写真を個々には撮っていますが、両者が
一緒に入った写真は持っていませんでした。
かつて掃き捨てる程に201系が走っていた頃には、見向きもしな
かった光景が、今となっては撮るのに苦労する訳であります。
幸いにも今日は立川~青梅間の往復運用に入りましたので、念願
の構図でゲットした次第です。
 
なお201系は10月末頃まで走るのではないかとの希望的観測です。
運用を調べられるなら「201系 運用」と検索されれば、YAHOO!
でも Google でも上位に該当サイトが出てきます。
しかし明日以降の運用は過去の動きから類推するしか無いです。
しかもダイヤの乱れ等によって運用がシフトしますので、撮影
できれば「幸運だった」と思う位の心持が必要です。


【9553】幌延町営軌道

泰和車両製5tDLの引く混合列車(問寒別市街~宗谷)

幌延町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月8日一度だけである。前日の夜、札幌21時発急行「利尻2号」で出発、確か何名かのDRFC会員の方と一緒であった。旭川には日付が変わらない内に到着するためか満員で立ち客も見られた。旭川で半数以上の乗客が降り、機関車がC5516と交替した。深夜の宗谷本線を走り、幌延に4時57分に到着。通過した問寒別に戻るため、5時40分発上りの一番列車(336D)に乗り、6時11分に到着した。簡易軌道のりばで時刻表を確認すると、20線発の列車が8時10分に到着することが判明し、それまでの間、構内の廃車体や、問寒別駅を発車する「59689」の引く下り貨物列車、キハ22×2の下り1番列車(335D)を撮影した。町の外れで、DL+無蓋車+有蓋車+客車を撮影後、事務所に挨拶に行き、お話を伺った後、次の目的地「歌登町営軌道」に向かうべく324Dに乗車した。

【沿 革】

前身は、問寒別駅を起点に上問寒別16線に至る13.8キロの馬力線で、昭和5年9月10日に使用開始した。昭和14年8月14日豪雨による水害のため全線で運休、翌15年には運行を休止した。同年9月終点付近で砂クロームを採取していた「日本白金クローム㈱」が路線の応急修理を行い、20線を経て採鉱現場までの間4.3キロを建設して鉱石輸送を実施した。昭和16年9月、運行組合、北海道廰、天塩鉱業㈱の3社で協議の結果、天塩鉱業㈱が全線を無償で借り受けて運行することになった。同社は日本白金クローム㈱の延長区間を買収し、路盤、線路の強化を行い、翌17年9月より蒸気機関車1両、ガソリン機関車2両を導入して動力化した。昭和20年8月、敗戦により砂クロームの採掘が中止となり、20線から先の採掘場までの線路が撤去された。昭和22年6月北方産業㈱による石炭採掘の開始に伴い、20線~炭鉱間約3キロを伸延して石炭輸送を開始。昭和27年9月1日、幌延村が天塩鉱業㈱の所有部分を買収して村営化した。この時の動力車は、ガソリン機関車で7t車1両、5t車3両、1t車1両の5両であった。翌28年には7tのディーゼル機関車を導入したが、昭和31年12月車庫火災により全動力車が罹災し、その復旧費が経営を圧迫することになった。加えて昭和33年11月10日経営不振により炭鉱が閉鎖され、閉山処理が終了した昭和35年11月28日をもって20線~炭鉱間の運行を休止した。その後は、地域住民の旅客輸送、雪印乳業問寒別工場への生乳輸送、北海道大学天塩演習林からの原木輸送等で役割を果たしていたが、昭和43年以降、並行する道路の路盤改良と冬季の除雪が開始された結果、存在意義を失ってしまい、昭和46年5月31日をもって運行を終了し、7月3日に廃線式が実施された。

【車 両】

昭和44年10月時点での在籍車両は、次の通りである。

ディーゼル機関車8両、内訳/昭和30年旭重工業製8t(昭和31年幌延炭鉱より購入)、昭和28年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和29年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和35年泰和車両製7t、昭和37年加藤製作所製7t、昭和38年泰和車両製7t、昭和38年泰和車両製6t(除雪装置付)昭和42年泰和車両製5t

牽引客車2両/昭和25年日本鉄道自動車製で昭和39年に車体更新し、木製車体に鋼板を張りニセスチール化した。(昭和31年11月当別線より転入)

6t鉄製有蓋貨車2両、内訳/昭和35年釧路製作所製、昭和36年泰和車両製

鉄製運材車50両

自走客車は最後まで入線しなかった。

 

昭和42年泰和車両製5tDL/廃止後、幌延町役場前の名林公園に牽引客車1両と共に保存されていたが、老朽化が激しく平成3年に惜しくも解体されてしまった。

 

牽引客車/上窓がHゴムになっており、鋼製車のように見えるが、実態は木製車体に鉄板を張っただけのニセスチール車。1両は5tDLに連結されて保存されていたが、惜しくも解体されてしまった。

 

6t鉄製有蓋貨車/昭和36年泰和車両製

 

昭和25年天塩鉱業自社工場製2軸客車の廃車体

 

ロータリー車と思われるが正体不明の廃車体

【運 行】

昭和44年10月時点での運行状況は、問寒別市街~20線間を混合列車2往復であった。別添の時刻表の通り、5月1日~10月31日と11月1日~4月30日とは運行時刻が異なっていた。問寒別市街~20線間16.3キロの所要時間が1時間というのは、あまりにも遅すぎであり、冬ダイヤでは20線の到着時刻と発車時刻が同じになっている。同じ列車が折り返すので、そのようなことはあり得ず、実際には10~15分前に到着していたものと思われる。

 

【その他】

問寒別~20線間に「宗谷」「4線」「8線」「16線」と4箇所停留所(すべて4の倍数である)が存在したが、「宗谷」=「第二問寒別」、「4線」=「中問寒第一」、「8線」=「中問寒第ニ、「16線」=「上問寒第一」、20線=「上問寒第ニ」と別の名称を持っていた。

三角表示の運賃表は括弧書きで「別名称」が書かれており、問寒別の駅名表示の次駅表示は画像のように「第二問寒別」と書かれていた。この辺りの関係は、聞きそびれてしまったが、今でも気になっている。

運賃は問寒別から「宗谷」まで20円、以下「4線」40円、「8線」50円、「16線」60円、「20線」70円であったが、11月1日~4月30日間は各区間10円割増となっていた。

【参 考】

 

幌延に到着したC5516の引く「利尻2号」

 

簡素な佇まいの問寒別駅

 

59689の引く下り貨物列車

 

59689のサイドビュー

下り335D(キハ22×2)


【9547】炎天下国鉄電機撮影

 酷暑が続き、65歳以上の高齢者は水と塩分の充分な補給をするように連日報道されている。最近は日射病と言う言葉はあまり使われなくなったが、寝ていても彼の世行きの可能性があるという。小生も紛れもなく高齢者となったが、青い空に白い雲がわいてくると猛暑でも鉄分補給に出かけたくなる。最近、常磐線に行ってきたばかりの1900生さんにわざわざED75の運行ダイヤをつくってもらい、また、見事なデジ青巻頭写真でお馴染みの893-2さんにEF64の撮影場所を教えてもらい、それらを参考にして消えそうな国鉄電機を撮影してきたので披露したい。

①常磐線ED75 

8月25日常磐線の木戸駅で下車、竜田方向に歩き、夕方やってくるED75を待つ。最近の天気予報では山沿いは午後雷雨の可能性があるとよく言われているが、海沿い(福島県では浜どおりと言う)のこのあたりも夕方曇ってきて今一の天気であった。こういう時は一発流し撮りで勝負に出てみた。しかし、ゴルフのバンカーショットと同じで一発でうまくはいかない。結局、ご覧のとおりの乱写状態。撮影後、近くのラーメン店で味噌ラーメンにニンニクたっぷり入れたがこれは最高。お目当てはラーメン店の氷水を何杯も飲んで生き返る。ここは再挑戦の予定。

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②中央西線EF64重連他

 翌26日は坂下駅下車。落合川方向に2~3Km歩く。ここは有名撮影地なのであろう、平日にもかかわらず、お目当ての重連の来る時間には3人同業者が現れる。893-2さんご愛用の公会堂無料(?)駐車場には京都ナンバー、群馬ナンバーが並ぶ。この日は昨日の福島と逆に夕方よく晴れてきた。スイスかオーストリアの風景にも似た感じがしないでもない。ローカル313系の写真がそれである。坂下の次から木曽路に入るが、これがまた、スイスの氷河急行路線のブリーク~ツェルマットに似ているようにも思われる。そういえば、車内には馬籠宿に行くスイスの学生が居た。

+EF6434[愛]”]

2010.08.26 JR中央西線坂下~落合川 313系 1859M

                                       


【9532】(旧)江若鉄道近江今津駅本屋

連日の酷暑でこのサイトへの投稿も(拙老を含め)諸兄夏バテと見え、すこぶるはかばかしくないが、老朋友から情報が。トシにもかかわらず125CCの原チャリで元気に走り回っていたつい先日、かつての江若鉄道終点駅、近江今津の本屋の建物が残っているのを見つけた、というのである。

独特の山小屋風トンガリ屋根と、勾配がゆるい片流れ庇を組み合わせた近江今津駅本屋は、諸兄の記憶に鮮明だろう。この老人も、他の(重要なものほど)記憶はかなり怪しく、一部は完全にスッコ抜ケしているが、この駅舎はまだ脳中のメモリーに残存している。

で、今どうなっているかは、彼氏撮影の写真をご覧じろ。最初に見た印象は、もっと大きかったんじゃないかという疑問であった。かつてのプラットホームやヤード、車両留置の建物類はことごとく姿を消し、道路と駐車スペースになっていて、大きさを比較すべきものが周囲にないせいか、意外に小さく見える。しかしこの屋根と勾配は、まぎれもない。

以前このサイトで、秋保電鉄秋保温泉駅舎(というもおこがましい、単なる物置の残骸の如きボロ小屋)が、今も酒屋の車庫で健在、と書いた記憶がある。(仙南交通)秋保電鉄の廃止は1961年5月8日だったから、廃止後現在で実に49年余である。

江若鉄道が三井寺(後の三井寺下)―叡山間初開業が1921年3月15日。浜大津に伸び国鉄線と接続したのがその4年後。近江今津に達したのが1931年1月1日である。湖西線建設に先立って廃止されたのが1969年11月1日だから、現在だと開業以来89年半、近江今津延長から80年近く。廃止後41年を経過する。即ちこの旧近江今津本屋は、80年を経過している次第。よく手が入って増築もされており、昔の姿を知らない人には、旧近江今津駅本屋といっても、信じがたいかも。

元気に次々と江若の車両やシーナリーの製作を継続中の西村雅幸氏は、遠隔地居住故、ちょっと見に行くわけには参らんだろうし、確か(老人の記憶が不確かだが)西村氏の近江今津駅舎はとっくに完工している筈だから、いまさら参考にもならんだろうが。



【9523】標茶町営軌道に添えて

 

藤本先輩の標茶訪問記を拝見し、廃止される前の最後の冬 昭和46年3月7日の写真をご紹介します。先の茶内浜中を訪れる約1週間前に開運町へ行ったときのものです。藤本氏の記事を読みながら、標茶駅から開運町まで1.7kmもあったのかとか、標茶川を渡ったのかなど全く記憶にありませんが、多分誰かに場所を聞いて、黙々と雪道を歩いたのでしょう。着いたところが 車輌は雪に埋もれ 運休していると聞いてガッカリした記憶だけが残っています。ニチユ製のDA57と 運輸工業の牽引客車、釧路製作所製6TonDL(No.3), 北炭夕張製の6TonDL, 車庫内で眠る泰和製?自走客車の5両が撮影したすべてです。

 

ニチユ DA57

ニチユ DA57

 運輸工楨??牽引客車