夏の思い出 -1-

季節はすっかり秋、今日は雨が降って寒いぐらいです。少し前のことはすぐ忘れてしまいますが、今年の夏はホントに暑かった。この暑い中、今年もヒマに飽かして各地に出かけました。準特急さん言うところの「老春きっぷ」を使って行った撮影のご報告を。

JR東海117系
JR東海の117系が、廃車を迎えそうです。平成22~24年度に313系120両を新製し、国鉄時代から継承した117系、119系127両を廃車するとアナウンスされています。本家たるJR西日本117系はまだ残るようで、京都周辺では引き続き元気な姿が見られそうです。何も遠くへ行かなくてもと思いますが、それはそれ、JR東海117系ならではの魅力もあるのです。

JR東海117系は、現在、2M2T4両編成18本がある。運転区間は浜松~米原間だが、昼間の主な働き場所は大垣~米原間となった。この区間には、117系のほか、211系、313系も入り、現在では30分ヘッドで運転されており、1時間も待てば117系をとらえることができる。昔からの撮影地、柏原~近江長岡の伊吹山山麓で117系を迎えた。この日は快晴で、JR東海色の117系も美しく映えていた。

近江長岡から上記とは反対に米原方へ歩くと、午後から伊吹を順光で撮れるところがある。この日は、山には雲がかかっていたが、やや見上げるようにして117の柔和な顔立ちをとらえられる。ちょうどやってきたのは、関西急電のリバイバルカラーを纏ったS11編成だった。なお、この区間、日中は、貨物もたいへん多い。とくに上り貨物は、ほぼ30分ヘッドでやってくるほどの貨物街道だ。

東海117系のもうひとつの魅力は、JR西日本ではもう見られない、新快速の運用が朝晩に残っていること。と言っても、メインの豊橋~大垣間の新快速は313系が独占しており、岡崎を発着とする補完的な新快速運用に残っているに過ぎないが、一度は新快速の運用から離脱したものの、再び復活した。「新快速」という響き、しかも8両編成と、かつての117系華やかなりし頃の活躍が頭をよぎった。

質問

そろそろ終の棲家を探し出してる今日この頃、妻に誘われて高野山へ行くことになった。結婚以来旅行で妻の希望を聞くのは初めてのこと、ましてや南海電鉄の支配地域などまさに人外魔境と思っていただけに未知の地域。時間表と最近便利だと言われているHPを見たが分からないことばかり。当会には人外魔境の鉄道にやけに詳しい人がいると聞くので分かる方がおられたら教えてほしい。

①帰りのキップが極楽橋ではなく、高野山発になっているがケーブルも含めて発券するのか?

②特急が高野山発になっているがケーブル以外に本線の駅があるのか?

③「天空」という特急があったように思うが気の迷いか?

④京都へ一番早く帰れる経路を教えてほしい。

⑤「こうや」「りんかん」の併結らしいがどちらがお薦めか?(なんで難波行きなのに併結なのか?)

⑥キハ55やスハ43を連結した列車があるはずだが見あたらない。

おしえてちょうだい!

川重製のみぶ型

「京22か 402」昭和49年11月4日 四条大宮/市電20系統代替の202系統 

青信号特派員さん投稿の「【9605】山陰線四条踏切のこと」のコメントでK.H生さんが「川重製のみぶ型」という表現をされておられた。私自身は初めて耳にした単語であるが、非常に的を得た表現であると思う。

「川重製のみぶ型」とはコメントで少し触れたが、昭和47年1月22日千本・大宮・四条線の廃止により壬生車庫が廃止になった際に代替バス用として新製されたバスのことで、シャーシはいすず、車体は川崎重工製で型式はBU06Dと称し、当時最新鋭の都市型低床バスであった。窓の大きい車体は京都市交通局の特注である。同形式のバスは、近畿圏では他の都市での導入例は無いと思われるが、関東圏では東京都営バス、東武バス、東急バス、西東京バス、国際興業等で導入された。

登録番号「京22か382~441」の60両が導入され、市電の代替系統に使用された。438~441のラスト4両は側面の方向幕が前後に設置され、市電代替系統以外でも使用可能なようになっていた。

当時の市バスは、均一系統は「前乗り運賃先払い」、整理券方式の多区間系統は「後乗り運賃後払い」であったが、代替系統は均一系統であるにもかかわらず「後乗り後払い」としたため必然的に専用車となった。配置は市電時代の壬生車庫が廃止されたので五条車庫となった。

その後、均一、多区間を問わず「後乗り後払い」に統一されたため、均一区間用車両の側面方向幕の後部への移設工事が行われた。

京22か 429 55年4月10日

 

京22か 440 51年1月8日/市電代替系統以外でも使用するため方向幕が前後に設置されている。

 

その他の47年式車について

47年式車はBU06D以外に、前期13両、後期65両合わせて78両導入されたが、後期車から、いすゞ西工車、ふそう車と日野車の窓の2段サッシ化、後扉の引戸化が行われたためスタイルが大きく変化した。

参考までにメーカー別に画像を表示する。

いすゞ

後期車は「京22か616~638」の23両が作られ、型式はBU05である。車体は616~625が西日本車体工業(以下西工と略す)、626~638が川崎重工である。前期車がBU06Dのため比較ができないので46年式車を表示する。46年式車は「京22か204~210、314~346」(342欠)の39両が在籍し、前者が型式BA30、車体は川崎重工、後者が型式BU05D、車体は西工である。

京22か 210  46年式BA30(川崎重工) 50年1月19日/「210」は市電10系統の代替系統で、この時期起点が当初の九条車庫から京都駅八条口に変更されている。その後、起点を京都駅、終点を玄琢に、系統番号を「6」に変更して現在に至っている。

 

京22か 316 46年式BU05D(西工) 50年6月15日

 

京22か 617 47年式BU05(西工) 50年3月16日

 

京22か 637 47年式BU05(川崎重工) 55年9月7日

 

ふそう

前期車は「京22か443~451」(449欠)で型式MR410、車体はクレハで44年式から続くスタイルである。

後期車は「京22か608~615・672~674」の11両で型式MR470、車体は608、672、673の3両が西工、609~615、674の8両がクレハである。

西工、クレハともに基本的なスタイルは変わらないが、窓の2段サッシ化と後扉の引戸化により印象が大きく変化した。

京22か 443 47年式MR410(クレハ)55年1月5日

 

京22か 613 47年式(クレハ)MR410 50年1月19日

 

京22か 673 47年式MR410(西工)50年1月19日

 

日野

前期車は「京22か455~459」で型式RE100、車体は帝国車体である。「山陰線四条踏切」の上から2番目に「京22か313」が写っているので、同一グループの「311」(46年式RE100、帝国車体)を表示する。47年式前期車は低床車となったが44年式から続くスタイルである。

後期車は「京22か639~671」(642、649欠)の31両で形式RE100、車体は639~663の23両が帝国車体、664~671の8両が西工である。

京22か 310  46年式RE100(帝国車体) 55年11月8日

 

京22か 645  47年式RE100(帝国車体) 50年1月19日

 

京22か 671  47年式RE100(西工) 58年1月1日

 

日産ディーゼル

47年式車は在籍しない。参考までに46年式車を表示する。46年式車は「京22か288~293」の6両在籍し、型式4R95、車体は西工である。

京22か 293 46年式4R95(西工) 50年3月16日

 

日産ディーゼル車は京都市交通局では少数派である。ちなみに、昭和51年9月末現在の在籍車両数は976両(定期観光車15両を含む)でメーカー別の内訳は、いすゞ321両(定期観光車2両)、ふそう278両(定期観光車7両、内1両休車)、日野340両(定期観光車6両)、日産ディーゼル37両)であった。

47年式「川重のみぶ型」の関連で、同年式車のスタイルの変化について簡単に触れたが、あまりバスの話をすると「あいつは何者」と言うことになりかねないので、ここまでにする。

【参考1】市電千本・大宮・四条線廃止時の代替バスの系統

201 みぶ~千本今出川~百万編~祇園~みぶ(1の代替)

202 白梅町~千本今出川~みぶ~祇園~岡崎公園(20の代替)

205 烏丸車庫~千本北大路~四条大宮(5の代替)

207 九条車庫~九条大宮~四条大宮~祇園~東福寺~九条車庫(7の代替)

210 九条車庫~京都駅~七条大宮~千本今出川~白梅町(10の代替)

217 九条車庫~四条大宮~祇園~岡崎公園(1・7の代替)

217甲 九条車庫~西大路七条~七条大宮~四条大宮~四条烏丸(17の代替)

221 九条車庫~九条大宮~四条大宮~千本北大路~烏丸車庫(21の代替)

205と221は西賀茂、210は三哲で担当した以外はすべて五条で担当した。

【参考2】BU06、BUO6Dの使用例

東京都交通局 46年式BU06D  58年6月30日 御茶ノ水駅前

 

東武バス 46年式BU06D 59年1月15日 足立営業所

 

東武バス 46年式BU06D 60年2月11日 新座営業所

多区間用の前後扉車で、スタイルは京都市の「みぶ型」と類似している。前扉が2枚共内側に開くグライドスライドドアー、後扉が引戸でなく折戸である点が異なっている。

 

東急バス 45年式BU06D 59年3月20日 大森操車所

 

西東京バス 46年式BU06D 59年7月24日 八王子営業所

江若鉄道三井寺下再現(その4)

(その2)でハ11の更衣室を紹介しましたが、藤本先輩からのアドバイスもあって 塗装(と言ってもアクリル絵の具の筆塗りですが)してそれらしくなりました。ついでにニ1(ヤ4574)のなれの果てであるペンキ小屋も作ってしまいました。お飾りばかりが先に出来て、本体工事はちっとも進んでいません。これらのダルマさんを置ける日はいつになるやら・・・。デジカメ写真にすると 出来の悪さ アラが目立ちます。遠目には満足しているのですが・・・。
ハ11の更衣室
ハ11の更衣室

 

二代目ニ1のペン繧・?屋

二代目ニ1のペンキ小屋

関西の電車・巡察の旅 その1

スルッとKANSAI夏の3dayチケットをプレゼントされた。このところ動かない老人にカンフル剤のつもりで送ってくださったのかもしれない。どうしようか、一思案の結論は、3日乗車で東西南北端まで「乗り鉄」となった。挙行に際して、①特別料金がいらない列車に乗る。②車種は不選別、来た列車に乗り必ず着席する。③老人はWCが近いから、余裕を持って行動する。④障害者手帳はないが、腰、右膝に配慮する。⑤行路途中で生中の相手を呼び出さない。さて、乙訓の五戒はどうなるか?

1日目:8月7日(日)、西向日・普通749発→烏丸805着、810発→竹田821着。ここでWCへ、やって来た天理行急行・828発に乗車する。西大寺で入庫中の阪神1000系を初めてみた。平城京1300年の沿線風景をぼんやり見ているうちに「この急行、平端で橿原神宮行に同ホームの乗り換え不能に気付き、郡山で下車した。後続の普通を待つ間にWCへ。大和八木に940着、大阪線下りホーム改修中に付き蕎麦1杯が駄目になった。944発の榛原準急に乗車。

小学校5年の夏休み、父の故郷で過ごすため130015501300の準急に乗っていた。桜井手前の変電所あたりに黒煙が上がっている。火事だ。変電所手前で列車はストップ。駅員がホームから飛び降り走って来た。駅まで走れと言って乗務員室に入って来た。列車は無事に桜井に到着、乗降あって朝倉に向け発車した。榛原で下車してその後を聞けば不通になったそうだ。桜井は吉野杉の集散地で製材所や卸問屋が国鉄線を背にして軒を並べていた。今もその片鱗が残る。

その桜井で後続の急行乗り換えのために下車。理由は終着榛原5番線にエスカレーターがないからだ。乗り換えた急行2619号車、先の準急9206号と同じ内装であるのに気付いた。老骨もリニューアルされると気持ちが良い。阪急33005300系のまだら化粧板は酷いと思う。大和朝倉を通過してスピードダウン、前に榛原準急が居るのであろう。7年半前、仁蓮上人を先頭に準特急、総本家、老人の4人で長谷寺・榛原間の御立ち台にやって来た。それぞれの御立ち位置に分散したところで、老人は黄土色に焦茶の縞模様の細長い物体を見つけた。「蛇やぁー!」、「ひぇー!」と奇声を上げたお人がいらっしゃった。保護色で50cm位の可愛い蛇だった。

長谷寺~榛原

榛原発車後「そのうち来るさかい、ちょっと待っていてや」と心の中で呟いた。榛原から南へ2里、父母の眠る墓がある。毎年この頃、兄夫婦とやってくる。酒樽でかくれんぼした思い出を従兄の3回忌の時にして、幼馴染をびっくりさせた一幕がある田舎だ。電車がらみと言えば叔父が戦争中にお伊勢さん、橿原神宮に連れて行ってくれたこと。青山越えの2200型の電制の音にびっくり、5600代の飾り窓に見惚れたのもその時だった。

名張1026着で下車。腹が「グウーッ」と鳴ったからだ。改札を出て蕎麦屋を探すが何処も開いていない。やむなくホーム売店でサンドと飲むヨーグルトを購入、ベンチで早弁とする。済ませた時、目前に急行到着。特急退避の上1051出発。伊賀神戸を前に西名張への経路を追うが分からなくなった。桔梗が丘住宅地が出来るまでは線路跡はくっきり残っていた。今は神戸駅手前の川筋位となった。

その神戸駅には863763のユニットが、海老茶に銀色のバンド姿で乗り換え客を待っていた。800系登場時の色でもなく、パンダ塗分け色でもない不思議な色だ、思わず下車してしまった。

伊賀神戸1114発、1424VVVF車は快調に走り青山町に1117着。これで本日の目的地、最東端到着となった。所要時間3時間29分、でも名張や神戸でウロウロしなかったら3時間前後で来られたであろう。でも早回りではないから、これでいいのだ。

伊賀鉄道

青山町から峠を望む

帰路は田原本から王寺を経て生駒に出ようと思いパンフを見たら不適用区間となっている。何故だろう?5年ばかりに前に乗った事があるが、その時はスルッとkansaiが使えた筈だ。大軌200形は8300系3連、信貴生駒1形は1020系4連となり、ワンマン運転にはびっくりだった。適用外区間は乙訓の戒に反するから乗る気はない。WCに行って、青山町から鶴橋に直行することにした。乗った急行は特急遅延のあおりを受け良く走る。名張-赤目口-三本松間の平坦部では110/h前後を維持している。2200形時代はどうだったのか、仁蓮上人に問うてみたい。名張3分延発は八木で取り戻し、ところが再び八木3分延発となり五位堂からノロノロ運転となる。国分で準急を抜くや再び猛ダッシュとなり、鶴橋1312着。名張-鶴橋間66.1㎞:70分(途中停車8駅)であった。50年前は66.2㎞:56分(途中停車3駅)で、かっての急行の筋を引いているのは現在、快速急行と名を変えている。所要時分57分、途中停車は5駅で、特急退避ありだ。

三本松~赤目口

三本松~赤目口

思惑より1時間早く着いてしまった。うだる暑さの中で時間つぶしを考える。そうだ、生駒山上に行こう、適用区間ではないか。王将で冷やし中華に生中をすすっている間に思い付いた。鶴橋1355発で生駒1414着。ケーブルは1420発車と係員が叫んでいる。雑誌で見たケーブル・カーは微笑ましく思ったが、現物を見ると少々グロテスクである。ガラガラの車内で発車。本日は臨時便ありで所要時分は、鳥居前(6分)宝山寺(7分)生駒山上と案内している。往復したら1516着で御帰還であった。

さあどうするか、けいはんな線へは開業草々に行ったが、トンネル電車で面白くない。さあ帰ろうか、WCに行って生駒1516発、ガタの来たアルミカーで堺筋本町、淡路を経由して起点・西向日1646着。全行程8時間57分、運賃5,050円也の巡察の旅だった。

山上線

宝山寺線

とほほ… 馬路村の魚梁瀬森林鉄道行けず

話は、今年京王百貨店で開催された「第45回 目指せ!駅弁日本一」というTV番組を見たことから始まります。その中で注目したのは、「馬路村の村おこし弁当」です。なぜに鉄道もない高知県山奥の馬路村から駅弁が、それも由緒あるイベントの出展できたのかが不思議でした。早速インターネットで調べてみると、かつて「魚梁瀬森林鉄道」が走っていて、廃線後観光用のトロッコがあるのを知りました。駅弁はトロッコの「馬路温泉前駅」で、日曜日と祝日のみ、山の幸をふんだんに1000円で限定で販売しています。これは行ってみたい、食べてみたいと思い訪問リストにおいておきました。

http://keio-ekiben.cocolog-nifty.com/2010/2010/01/post-0c07.html

6~7月の北の旅路以降、家庭事情で長期の旅が出来ず、それではと短期でいける青春18切符や新幹線指定券等々を購入しズボンに入れていましたら、日頃から洗濯好きのかみさんの藻屑と消え、新たに購入せざるをえなかった不幸となりました。今までにもお札を洗濯され何度も体験しており注意していましたが、お札は結構丈夫で藻屑は免れていましたが今回は無理でした。

再度購入しての乗り鉄をしましたが、この程度では溜まったストレスは解消しません。ちょっと違って、近場でいけるトロッコはないだろうかと、先日、湯口大先輩と神戸でお会いできる機会を得て、四国高地の「魚梁瀬森林鉄道」をお聞きしました。私は行ったことがないが、友人が行った時は運休していて撮影出来なかったと聞いたと言われました。やはり、なぜに駅弁があるのかと不思議がっておられました。

これは是非に確かめたいとチャンスを待っていましたら、9月23日からの連休が高速1000円ディにもなっているので、家を出られると、最近話題の別子鉱山も含めての3泊4日車中泊の食料等の旅支度をして、「ぶんしゅう7号」の出発準備を整えました。
ナビもセットして道路公団にもTELをして坂出ICに0時以降に通過すれば1000円割引が適用されると確認して、準備万端、さて出発となりましたが、湯口大先輩とお話した折に友人が行ったが、運転していなく見ることが出来なかったとの言葉を思い出しました。

自宅から約400キロ余り約9時間をかけての訪問です。念のために馬路村観光協会に電話をしますと、「申し訳ありません。1週間前から機関車の故障で運行していません。夏休みは元気でしたのですが、過労です。運行開始の見込みはたっていません。インクラインは運行していますがどうでしょうか。」との返事です。今、運転席でエンジンキーを回そうかとしていた状態でしたので、言葉を失いました。
湯口大先輩に電話しますと、ご友人の方は、まだ森林鉄道が営業している数10年前に、船・鉄道とバスを乗り継いで山奥に行かれたそうです。それはさぞかし大変な旅だったと思います。そして、運行していなかっただけでなく機関車は車庫に入っていて見ることも出来なかったそうです。それと比べれば、まだ行く前に分って良かったね。お酒でも飲んで忘れましょうと、慰められました。ご友人の落胆とは比較も出来ない程度でしょうが、ショックです。

今年の秋は、湯口大先輩お薦めの紀州鉱山トロッコや天川村のモノレール訪問等を予定しております。乙訓の老人、総本家さんともご一緒します。ご希望の方がおられましたら、ご連絡ください。

1955/57年熊本電気鉄道


旧海軍荒尾工廠のEB2と3 1~3とあって15t 41.3kW×2 国有財産だがこれは横領ならず返却(解体)された

宇部電気鉄道デハ2→宇部鉄道→買収→14 熊本電気鉄道最後の2軸車である

モハ14改造二代目工作車 かつこの時点唯一の2軸車 上の写真から3年後 パンタがなければ屋根で相撲がとれる

久しぶりである。書き込みをサボって読むだけに回るのに慣れると、それはそれで至極気楽なものである。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も、どうやら同じらしいと踏んだが。そういえば健筆とどまることを知らない「ぶんしゅう」氏も最近ややお静かな。

で、懲りもせず55年半/53年半前のカビの生えた写真をゾロ並べ、諸兄の非難がましい冷たい視線を浴びながら、只管耐えることにする。1954年高校修学旅行の際、観光を一切拒否して熊延鉄道と熊本電気鉄道を撮ったものを以前「無理やり」ご覧に供した。今回はその翌年および3年後で、ポール姿は1955年3月19日/パンタ装備は1957年3月21日の撮影である。

熊本電気鉄道は1955年時点まだポール集電で、敗戦後に緊急導入した旧海軍荒尾工廠の凸型電機EB1~3も残存し、国鉄モハ90005が入っていたがまだ手付かずで標記もそのまま。1957年ではパンタに、架線もカテナリーになり、2軸車は二代目工作車(←14)以外ことごとく姿を消していた。「もはや戦後ではない」と誇らしげに経済白書が謳いあげたのが1958年だが、その1年前でも木製車両がまだまだバリバリの現役=主役というより、半鋼車は101、102と国鉄から購入しまだ未整備の70型(旧モハ90)しかなかったのである。


日立1944年(銘板は前年)製の実にダッサェー電車 時節柄木製2軸電車の改造名義による新製だから?かも


この時点まだモハ90003広ヨワのまま 右端は旧海軍工廠EB2と3
モハ72は旧モハ90003

モハ71は旧モハ90005

この熊本電気鉄道は、菊池軌道として、3フィート軌間蒸気軌道で1911年10月1日上熊本-広町を開業し、1923年サブロク改軌及び電化し、菊池電気軌道に改称。1942年5月1日鉄道に変更し菊池電気鉄道に、1948年2月20日熊本電気鉄道に改称。1987年2月16日御代志-菊池(旧隈府)を廃止。

旧3フィート時代の車両は蒸気機関車9、客車10(定員合計370人)、有蓋貨車10、無蓋14であった。やはり3フィートの蒸気軌道で、約3か月おくれて開業した西大寺軌道(→1915年鉄道に変更)が、機関車4両、客車7両、貨車3両を引き取っている。

敗戦間際、空襲で甚大な被害=変電設備もやられた。近辺の鹿児島本線鉄橋迂回線建設のため、陸軍が持ち込んでいた100式軌道牽引車や貨車が、敗戦で放置してあったものを、緊急避難は確かとしても、無手続きで燃料とも横領し、緊急運転に充当した由。社長の松野鶴平は政治家で鉄道大臣も歴任し、俗に松野「ズル平」と呼ばれていたぐらい、よく言えば敏腕・したたかな実業家で、彼の政治力には違いないが、国有財産横領も間違いない。

何しろ横領だから、設計申請など、正規の手続きが踏めるわけもなく、1949年4月1日開業の北熊本延長線工事に使った。業務用車両は認可不要なのである。かような例はあちこちで見られ、西武の鉄道聯隊車両一式(後日一部の台枠・台車が山口線の客車に化けた)や、島原鉄道の旧海軍工廠車両横領などがある。

世の中がやや納まった頃、車両の設計申請の際、国鉄の旧車であれば、必ず国鉄資材局長との譲渡契約書の写し添付が義務付けられていた時期がある。すなわち当局もある程度実態を知っており、非合法取得した車両に監督庁がお墨付きを与えるわけにはいかなかったことを示す。

ところで熊本電気鉄道でも、勿論日立製の田舎くさく泥臭い3扉車101、102(谷岡ヤスジのマンガなら「イナカー」と吹き出しそうだ)もいたが。

最も両数の多かったモハ51型、55型は戦時中旧京都市N電のお古!やオリジナルのボギー車を改造したと称して木製食パン型車体を田中車両で新製したもの。焼失したものもあり、55~57は電装を外しホハ58、59、57に。愛想もクソもない四角い半鋼製車=京津22~27などは「鉄のハコ」というが、これは「木箱」、「折箱」か。


モハ55+コハ32 藤崎宮前 55はのちホハ57に


モハ56 のち電装を外しホハ59に
ホハ58モハ55の電装解除 旧ボギー電車1の改造名義である

ホハ58+57+41+コハ31=全部木製車 藤崎宮前
モハ54+コハ32 後者は電化当時客車不足で有蓋貨車を改造 さらに戦時中西鹿児島工機部でデッキ、中妻撤去、多客化改造 粗悪応急車のままで30数年経過
モハ201←国鉄モハ1型 台車はD16か

モハ202←国鉄モハ1型 101とは窓配置が違う

モハ201型+ホハ+モハ101型 半世紀以上前だから今ではぎっしり家が立ち並んでいるだろう

ホハ41←モハ41 モハ63型割り当てによる名古屋鉄道の供出車 元来尾西鉄道

オリジナルの旧ボギー電車車体 宿直用布団が干してあり 未成年の技工見習いが寝小便をしたんだろうと 皆からからかわれていたのが可哀想だった 妻面幕板中央に方向窓あり

1966年房総夏

 「房総1周は始めてで、今日は乗り鉄に徹しますわ」。9月3日、内房線の車内での総本家元祖青信号特派員さんの言葉。撮り鉄の総本家さんは学生時代全国機関区巡りを行い、201番まであるC57を番号別に6割以上押さえたが、千葉方面が漏れたとのこと。一部に廃車も出ていた時期であるが、6割とは見事なもの。 話が進み、「あの頃は特に四国と千葉の人気が無かったのはディーゼル王国であり、蒸機好きには敬遠されたのではないか」と言うのが二人の結論であった。

 1966年7月24日、人気の無かった千葉が賑わっていた。関東の海水浴は小田急の江ノ島、京浜急行の三浦海岸が有名であるが、国鉄の房総西線(現内房線)も全国各地から応援の車両を増結した臨時列車で賑わっており、史上最低と言われたキハ17系の急行やC57、C58が長編成の客車「かもめ」号を牽引し、そこそこ面白い時間過ごすことができる時期があった。電化して72系などが進出する前のことである。

1966.07.24 房総西線竹岡 143レ C5777[新小岩]

143レは千葉発安房鴨川行き143Dを輸送力の大きい客車に列車に置き換えたものと思われる。1両目の客車は3軸のマユニ7827とメモにある。

 

1966.07.24  房総西線竹岡~浜金谷 9133レ 「かもめ」2号千葉発館山行き C578[新小岩]

C578は九州から転属したカマ。

「かもめ」2号の後部客車テイルマーク。 山陽特急の「かもめ」に少し似ている。

1966.07.24 房総西線竹岡~浜金谷 9119D両国発急行「汐風」5号千倉行き

オールキハ17系7連は最低ではあるが、編成美はお見事と言いたい。

 賑わいの一端を紹介したが、メモを見ると144Dの先頭水タイとか118D「内房」4号に四カマ、117D「内房」4号に長ナノあり等の記録があり、じっくり編成を調べればさぞ面白かったことであろうと思う。車社会がこれからと言う時期で千葉鉄道管理局も各地から応援車をかき集めてしのいだことと思われる。

2010.09.03久留里線東清川 926D キハ30100

 さて、ディーゼル王国であった千葉管内の現在は第3セクター化された旧木原線(現いすみ鉄道)を除きJR未電化は久留里線のみになってしまった。久留里線には未だキハ30が残っている。撮影はお早い目に。

イラストは楽しめても……チンプンカンプン

米手作市さんは英語でお手上げらしいが、老人はフランス語らしき文字で説明文入りの書物をパリ土産でプレゼントされた。とても楽しいイラストが溢れかえっている。イラストの順を追うとどうやら鉄道の歴史を語っているようだ。時々「絵」が出てくがどう見てもパリのようだ。終わりの方で我が新幹線も出てくる。開通区間は岡山まである。printed in spain とある。図はとても精巧で、ほれぼれする。「絵」には着色したものがあるが油絵ではない。

本体は幅27.5×高30×厚2.5糎。240頁まで打ってある。表紙は厚紙、ずっしりと重い。新婚旅行に出る前に餞別を渡したら、パリの露天ガラクタ市で見つけてきたと言って、チョコレート代わりに渡された。どなたか引き取っていただけないでしょうか。ただ一つ条件ありで、11月7日のホームカミングディか、鬼の笑う来年の第3回総会でお渡し出来る人である事です。乙訓の老人宅へお出ましになることが一番うれしい。早いもの勝ちです。素晴らしい本です。

フランス語チンプンカンプンの乙訓の老人

ご希望の方、先着順でお譲りします。


友人から近鉄に勤めていた人からもらったのであげると、受け取った運転手の運行表と時計のケースです。
近鉄の社章入りのバックに入っているのが貴重だと思いますが、私はコレクターでありませんので、それほど興味がありません。DRFCの方でもしご希望の方がおられれば無償で、お譲りします。 宅急便の場合は、着払いでお願いします。

The Steam Railroad in America

という写真集を手に入れました。でも私には手に負えません。英文だからです。写真はとてもきれい、カラーと白黒のすばらしい写真です。

どなたかほしいという方に差し上げます。内容は1920~40年代のアメリカの蒸機写真集です。

お申し込みはこの欄へのコメントでお願いします。

江若鉄道三井寺下再現(その3)

琵琶湖疎水鉄橋を渡る1118

琵琶湖疎水鉄橋を渡る1118

三井寺下の工事はボチボチですが、車輌の方に浮気をして オークションで入手したサンゴのB10キットを改造して 1118が完成しました。1118(国鉄1070形)とB10はよく似ていますが 動輪径がφ1400のB10に比べてφ1524と大きいという違いがあります。でも1/80にすれば1ミリ強の違いなので 気にしないことにしてサイドタンクやコンプレッサー、エアタンクの位置を変えて1118らしくなりました。これで当社のSLはC111、6号機に次いで3両となりました。こうなるといよいよ木造のホハ101~103を作らねばならないかと夢をふくらませています。実は今 オークションでバルカンアイアンのB1 サドルタンクを入札中で 落札して1B1の100号(元宇部鉄道100→国鉄205)に改造して 4両目のSLにと目論んでいます。と言うようなわけで 三井寺下の工事は足踏み状態です。

江若鉄道三井寺下再現(その2)

撤??鉄道ハ11

播但鉄道ハ11

連日の猛暑にうんざりしながら、工事が停滞していますが、ようやく朝晩が涼しくなってきて工事を再開する気分になってきました。まずは気分転換のために 三井寺下車庫に鎮座していた旧播但鉄道のハ11を一晩で作りました。ここでも湯口先輩の「丹波の煙 伊勢の径」の写真が大変役立っています。走らせるための模型は数多く作ってきましたが、廃車体を作ったのは初めてです。レイアウトが完成した暁には アクセントになってくれるでしょう。ところで またまたこの廃車体の色がわかりません。塗り分けではなさそうで、それもかなり薄い色のように見えるのですが、ご存知の方があれば 教えてください。実物の屋根にはキャンバスがダラリと掛けられているのをどのように表現しようかと 思い悩んでいるところです。

ところで 藤本氏の標茶、茶内 そして歌登の簡易軌道の写真と解説を興味深く拝見しました。湯口先輩の「簡易軌道見聞録」の話が出てきますが、以前から入手したいと思っていて いまだに手にすることができず どなたかにお借りして拝見したいと思っています。

持っている人いますか?

近くの老舗のご主人(商学部卒)が仲間だと最近知りました。

来年にある親鸞聖人750回忌に関して650回忌の時に作られたという梅小路仮駅についての資料を見せてほしいとのご依頼が当会にあったらしく、玉座から私に訪問してご説明せよと命令を受けました。

その方から「戦前にあった“鉄道”という雑誌を見たいのだが古本屋でも売っていない。だれか持っている人はいないか?見せてほしい」とのご依頼がありました。「我が会は何でも持っている人がいます。一度調べてみましょう」といって帰ってきました。

どなたか「鉄道」という雑誌をお持ちの方はいませんか?見せてくれる方はいませんか?お尋ねします。

歌登町営軌道

小頓別に到着した昭和39年泰和車両製の自走客車

幌延町営軌道を後に問寒別駅8時27分発324D(キハ22×2)に乗車した。稚内発旭川行で、宗谷本線全線を6時間40分かけて走破する列車である。約1時間で音威子府に到着、天北線経由稚内行725Dに乗換え、小頓別に10時26分に到着した。この時間帯は町営軌道の接続はなく、駅前から枝幸行の宗谷バスが接続した。女性車掌が乗務する中1扉のツーマン車で、乗客は思いのほか多く座席は7割方埋まっていた。「上毛登別」「下毛登別」「12線」と停車し、約30分で「歌登」に到着、降りたのは私の他3名であった。この先に大きな町はないので、殆どの乗客は終点の枝幸まで行くのであろう。

バス停から200m程歩くと線路があり、13時20分発小頓別行になる自走客車が停まっていた。寒冷地のためか立派な車庫があり、使用していない車両はその中に格納されており、外に出ていたのは、ロータリー車と廃車になった元十勝鉄道の客車だけであった。発車時間まで見学・撮影し、車内に入ると運転台横には運賃箱があり、歌登と小頓別からの運賃表が掲示されていた。途中駅間の運賃表示のないのが気になったが、そんな乗客は非常に少ないのであろう。歌登発車時は4人であったが、途中の停留所からボツボツ乗客があり、小頓別到着時は12名になっていた。小頓別から「急行天北」に乗車したが座席の8割位が塞がっていた。行きに乗った枝幸行の宗谷バスといい、まだ公共交通機関がアテにされていた時代であった。   

【沿 革】

宗谷本線は大正元年11月に音威子府まで延伸開業し、その後、小頓別、中頓別、浜頓別、浅芽野、鬼志別と小刻みに延伸開業を繰り返し、大正11年11月に稚内に達した。当初は咲来からオホーツク海沿岸の中心的な町であった枝幸を経由する予定であったが、音威子府から浜頓別に向かうルートに変更されたため、小頓別と枝幸を結ぶ簡易軌道が北海道廰により建設され、昭和4年12月小頓別~幌別六線(後の歌登)間、昭和5年9月枝幸まで全通し、枝幸線と呼ばれた。当初動力は馬力であったが、昭和8年にガソリン機関車が導入された。当初は運行組合に運営を委託していたが、昭和7年5月より北海道廰直営となった。翌8年11月幌別六線~志美宇丹間の幌別線が馬力により開業した。昭和19年11月興浜北線(浜頓別~北見枝幸)が不要不急路線として撤去されると、枝幸への唯一の足として乗客、貨物共に増加したため、難所の小頓別~毛登別間をトンネルでショートカットする工事が実施され昭和22年4月に完成した。しかし、戦後間もなく昭和20年12月に興浜北線の運転が再開されると、枝幸まで行く乗客はそちらに流れてしまい、昭和23年幌別六線~枝幸間が休止となり、昭和26年に正式に廃止になると共に、残りの区間の運営を歌登村に移管した。「幌別六線」はこの時に「歌登」に改称されたものと思われる。

話が前後するが、昭和14年9月枝幸村から分村して歌登村が誕生し、昭和37年1月歌登町発足により、村営から町営となった。

歌登~志美宇丹間は昭和37年から動力化工事が開始され、昭和40年6月15日に完成し、開業したが、国鉄美幸線の工事に伴い建設用地に充てるため昭和43年12月31日以降休止となり、翌年5月に廃止となった。美幸線自体は、美深~仁宇布間21.2キロを昭和39年10月5日に開業したが、大赤字のため昭和60年9月17日限りで廃止なった。未成区間の仁宇布~北見枝幸間57.6キロ間は、路盤工事が100%完成し、一部では軌道の敷設も行われており、完成目前で中止となった。

残る小頓別~歌登間も乗客の減少により昭和45年10月31日限りで運行を休止し、翌年の46年5月26日に廃線式が行われた。

【車 両】

昭和44年10月1日現在の在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車2両/昭和40年泰和車両製8t(機関/日野DA59)

自走客車3両、内訳/昭和38年、39年、40年各1両、いずれも泰和車両製(機関/日野DS60)

ロータリー車1両/昭和40年泰和車両製(機関/日野DA59)

ラッセル車1両/昭和40年泰和車両製(機関/日野DA59)

6t積鉄製有蓋貨車1両/昭和40年泰和車両製

6t木製無蓋貨車3両/昭和40年泰和車両製

材運台車46両

上記の他、歌登に元十勝鉄道コホハ44(大正13年藤田鉄工所製、昭和32年泰和車両で鋼体化改造/昭和35年購入)と小頓別に昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体があった。

 

昭和39年泰和車両製の自走客車

 

運転台と車内

 

昭和40年泰和車両製のロータリー車

 

元十勝鉄道の客車の廃車体

 

昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体/運転台が片側にしかない単端式の2軸車で、エンジンはダットサンを積んでいた。定員は15名となっているが、そんなに乗れば呼吸困難になると思われ、実際には8名も乗れば満員である。窓が開かないので夏は使用できないのと小さ過ぎて使い物にならないため、早々と小頓別で物置になった。「歌登のマイクロレールバス」として模型化されており、割に有名な車両であった。

【運 行】

昭和44年10月1日現在、旅客列車4往復、貨物列車1往復が運行され、時刻表は別添の通りである。貨物列車のダイヤは、歌登発8時30分→小頓別着9時20分、小頓別発11時→歌登着11時50分であった。

歌登~小頓別間に中央、秋川(仙)、秋川(定)、熊の沢、柴山、大島、毛登別、吉田の8カ所の停留所があり、中央、熊の沢、毛登別は交換可能であった。また、歌登~志美宇丹間には辺毛内、興生、北志美宇丹の3カ所の停留所があった。

簡易軌道廃止後は小頓別~枝幸間の宗谷バスで代替されたが、小頓別~歌登間は廃止され、歌登~枝幸間に短縮されてしまった。その代わりに札幌~枝幸間1往復と旭川~枝幸間2往復の高速バスが音威子府~小頓別~歌登~枝幸間の各停留所に停車し、ローカル輸送を担当している。枝幸7時発の札幌行は音威子府で鬼志別発旭川行と相互に乗換え可能である。枝幸町では住民の利便性の向上と観光客の誘致のため、バス会社に対し、高速バスの増発を要請しているが、採算との兼合いで実現には厳しい状況である。

 

小頓別駅の接続列車の欄には「省線接続時間」と書かれており、よほど年配の職員が作成したのであろう。国鉄の駅と歌登の町を結ぶ重要鉄道路線として認識されていたため、JTBの時刻表に掲載されていた。(れっきとした地方鉄道でも「尺別鉄道」は掲載されていなかった)

【その他】

歌登町は平成18年3月20日に枝幸町と対等合併して(新)枝幸町となった。昭和14年に枝幸村から分村して歌登村が誕生しているので、元の鞘に収まったということになる。歌登町はなくなっても「歌登」の地名はなくなっておらず、今でも冬になるとニュースや気象情報の「全国の最低気温」で時折「歌登」が登場する。(最低気温-37.9度を記録している)そんな時、自走客車の乗った時のこと、小頓別に超小型車の廃車体、元十勝鉄道の客車の廃車体等を撮影した時のことを懐かしく思い出している。町営の宿泊施設「うたのぼり健康回復村」に昭和40年釧路製作所製のディーゼル機関車が保存されており、リタイヤ後是非見に行きたいと思っている。

特派員さんの「茶内の今昔」の中の浜中町営軌道の写真、西村雅幸さんの「茶内の今昔のお返しに」を拝見して、思わず現役時代に訪れた「浜中町営軌道」のことを思い出し、つい書いてしまった。直ぐに西村雅幸さんから「茶内の思い出に添えて」のタイトルで貴重なカラー写真と共に書き込みがあったので、調子に乗ってしまい1度しか訪れていない標茶、幌延(問寒別)、歌登の各町営軌道についても思い出と共に書き込みした。歌登は片道のみ乗車したが、他の3カ所は撮影だけに終わってしまったのが残念である。理由は、時刻表に記載がなく、乗車計画が立てられなかったためで、今から思うと、事前に役場に問い合わせるべきだったと思う。但し、問い合わせたところで、問寒別線のように乗れば当日中には戻れないところもあった。

今回取り上げた各町営軌道は、昭和45年度で国からの補助金が打切られたため、46年度中には全部廃止されてしまい、最末期の記録の一端として見ていただければ幸いである。本来ならば湯口大先輩の「簡易軌道見聞録」を読み、参考にした上で書こうと思ったが、手元にないため、やむを得ず当時の写真と資料等を基にして書いた。「簡易軌道見聞録」は実家の物置に眠っている筈であるが、探しても見当たらなかった。

リタイヤ後は保存車両を訪ねると共に、簡易軌道廃止後の代替バスの運行状況等についても調査したいと思っている。

山陰線 四条踏切のこと

米手さまがお尋ねの高架前の山陰線四条踏切について、たまたま横が以前の勤務先の本社工場だったため、いくつかの記録を残していました。

▲写真1 四条踏切を行くDF50。 ちなみに四条大宮~西大路四条間に、市電ではなくトロリーバスが走ったのも、この踏切が原因

▲写真2 山陰線高架化の前日、同踏切を行く特急「あさしお」

まず踏切ですが、ウンと以前のことは知りませんが、私の知る限りでは、通常の第一種踏切で、特殊なものではなかったようです。写真1は高架工事が始まる前の昭和48年4月の同踏切で、腕木式の遮断桿が見えます。左に見える塔屋は、この地下を走る阪急京都線の排気塔で、ここを通ると、地下鉄特有の熱気を伴った匂いが漂っていたものでした。写真2は、山陰線高架完成の昭和51年3月16日の前日、最終日の四条踏切で、高架橋が頭上を覆います。その翌日、C11の牽く記念列車が京都~二条間を走りました。

▲写真3 地上の山陰線をオーバークロスする京福のポール電車

▲写真4 高架化前日の様子。この日、一晩で上下が入れ替わってしまう

いっぽうの山陰線高架化による京福嵐山線の処遇ですが、写真3は高架化前の様子。山陰線は地上、京福はその上を越えています。確かに、このまま高架化してしまうと、京福側のクリアランスがなくなってしまいます。そこで採ったのは、京福の盤下げ化でした。写真4は2と同じ高架化前日で、中央の複線の両脇に、路盤が下げられた仮線が見えます。翌日から、この仮線を電車が走り、平行して中央の現在線を盤下げする工事に掛かり、現在見られる関係になりました。

教えて下さい!

先日四条通を歩いていて、山陰線高架下でふと思いました。

地上にあった頃、この踏切はヨーロッパにあったようなレールの上を横にころがす式の遮断機だったような記憶があるのですが記憶違いでしょうか?

もう一つ、南側を見ると嵐電の高架が見えるがこの高さでは山陰線の高さをクリアできない。どうなっていたのか?

以上二点についてご存じの方にお答えいただきとうございます。

新緑の北海道 余話-6-

倶知安 今昔

酷暑が続く毎日ですが、今日から9月、今さら”新緑”とは時期遅れも甚だしいのですが、これで最終とします。
ぶんしゅうさんとの北海道の最終日は、日高本線鵡川を出発し、室蘭本線で寝台特急を撮り、フェリー出航の小樽へ向かうコースでした。多少遠回りになるものの、旧胆振線沿いのルートを走ります。長い裾野を広げる羊蹄山が、初夏の青空に美しい姿を見せると、車は倶知安駅前に到着しました。
40年前、山手にあるユースを拠点に、DRFCの仲間とともにC62を追った思い出の駅でもありました。

倶知安駅も、道内のほかの駅と同じく、きれいに整備はされているものの、乗降客はほとんどなく閑散としていた。駅の裏手にあった機関区はとうの昔になくなり、公園化されていて、駅は単純な2面3線式になっていた。発着する列車も優等列車は1本もなく、単行のキハ40が日中は2時間に1本程度の発着。ヤマ線と言われる函館本線小樽~長万部間の凋落ぶりを感じずにはいられなかった。

これは40年前の倶知安駅の賑わい。キハ22に乗り降りする客でホームはあふれている。貫通扉を開け、係員が待機して、これから増結作業が始まろうとしている。北海道名物の気動車の解併結は、以前ほど複雑なものはないものの、現在でも行われていた。

駅に隣接して機関区があった。アーチ状の門標がある北海道独特のスタイル、胆振・岩内線のキューロク、本線用のD51がいて、ホームからもよく眺められた。手前に見えるちっこいタンク車は、10トン積みのタ600形、当時の国鉄貨車の中では最小部類の貨車で、ほとんどが道内封じ込め用として使用されていた。

C62重連の「ていね」が夕刻の倶知安駅に停車している。「ていね」は、撮ってよし、乗ってよしの列車で、重連が吐き出すシンダーの洗礼を受け、音と匂いで五感を刺激されながら、今は亡き一年先輩のKさんとともに長万部から着いた。跨線橋を渡り、何気にホームを見ると、C62がブロアーを吹き上げ、まもなく発車しようとするところだった。

上り「ていね」は、12時9分に倶知安に到着する。4分間の停車時間を利用して機関車は、給水、火床の整理に忙しい。「ていね」は当時客車8両編成、機関車も入れると、ホームもハミ出してしまう。広い構内で発車を待つ姿をやや低い位置から眺めたC62は、王者の風格であった。ツバメマークのデフの向こうには羊蹄山も見えた。

倶知安を有名にしたのは何と言っても下り「ていね」の発車シーンだろう。18時27分、夏なら薄暮、冬ならとっぷり暮れた中、水銀灯に照らされ巨体が、煙と音が織り成す、すさまじい発車シーンを見せてくれる。夜間撮影の楽しさも教えてくれた。これが終わると、凍て付いた道を滑りそうになりながらユースへの道を急ぐのが常だった。