【10162】追憶の九州 一人旅 (2)

早岐へ

土日2日間は九州内の新幹線・特急が乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を握り締めて、まず博多から向かったのは、早岐でした。「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」の3特急を併結した列車は、13両編成という最近では珍しい長編成です。
「はいき」という響きが、いかにも九州らしい好ましい駅です。長崎へは何度か行ったものの、脇にそれる早岐・佐世保は学生時代以来で、文字どおり思い出の駅を訪ねる旅でした。

駅舎は、40年前と変わっていなかった。中の待合室の様子もそのまま。もちろん細かくは改造もされているだろうが、40年前の思いが蘇ってきた。ただ、蒸機の時代は現業機関が集中し鉄道のまちとして賑った早岐も、単なる分岐駅となり、ずいぶん寂しくなってしまった。

0番ホームと1番ホームを見る。幅の狭いホームと、木組みの上屋が、いい味を出している。支柱の下部が補強してあるのは、九州の駅の共通のスタイル。早岐の駅名標をしみじみ眺めながら、過ぎし日を偲んでいた。

かつての早岐機関区は、とうの昔に姿を消したが、煉瓦造りの給水塔だけが、記念物のように置かれていた。左手に「早岐機関区発祥之地」の碑が見える。下掲の機関区とほぼ同位置からの撮影。

ハウステンボスから一駅だけの「ハウステンボス」が、先頭車改造された切妻のクハ783を先頭に入線する。ここで佐世保からの「みどり」と併結される。併結後は、両端が流線型のクハ783・クロハ782となるため、貫通面を見せたクハ783はこの佐世保~早岐~ハウステンボスでしか見られない。

早岐機関区の上路式ターンテーブルに乗るC57111。門鉄デフは、もっともポピュラーなタイプだが、C57にはいちばん似合っていたし、区名板の「早」が、いかにもC57のイメージに合っていた。1並びの番号もよく、言わば、もっともC57らしい、好きなカマだった。

早岐機関区は、佐世保・長崎本線用のC57、貨物用のD51、それに松浦線用のハチロク・C11が配置され、区には煙が絶えなかった。この年に初めて買ってもらった135ミリの望遠レンズを通して、区の賑わいを表現してみた。

駅の構内で佐世保方から来たD51の貨物をとらえる。中間に石炭車も見えるが、これは松浦線沿線に小さな炭鉱があり、そこから運び出されたものだ。この時期、駅の構内とはいえ、上空を遮る架線もなく、実に広々としている。

高校生の私を早岐へ向かわせた最大の理由は、このC11の牽く特急「さくら」であった(写真は佐世保での撮影)。C11が佐世保~早岐の末端区間で特急「さくら」を牽くことが「鉄道ファン」に大々的に報じられていた。
早岐では、佐世保方に対してはスイッチバックとなるため、DD51の機回しの手間を省くため、この区間のみC11が先頭に立つというもの。最後の蒸機特急と言われ(その後「ゆうづる」で復活することは判明していない)、しかもヘッドマーク付きである。
勇躍、佐世保へ駆けつけたのだ。ところが、早岐から回送されてきた「さくら」を見て落胆した。ヘッドマークがない…。これでは入替中と変わらない。機関士に聞くと、いつも付けていないと言う。
あとで聞くと、ヘッドマークを付けるのは、取材や撮影ツアーで区に依頼があった時だけ付けているのだった。本には、ひと言も触れていなく、のちにある鉄道雑誌の編集長になる、その書き手をずいぶん恨んだものだった。


【10144】関西の電車・巡察の旅 その3


【お詫び】前回、最西端「網干駅の姿」を入れ忘れとなった。三河田原へ旅立ちの日となんら変わっていない。網干線沿線は、日鉄の撤退で過去の賑わいは薄れてしまった。

▲最西端・網干は2001年当時と変化なし

3日目:8月28日(土)、最終日である。ひょっとしてとの思いから2日目より早く家を出た。西向日6:13発普通を高槻で9300系快急に乗換え、淡路から大市交堺筋線を動物園前で降りた。先を急ぐなら天下茶屋で高野線に乗り継ぐのが本流だが寄り道するために、御堂筋線で天王寺へ出た。WCに立ち寄り近鉄阿倍野橋・河内長野行準急7:14発に間に合った。3+4の7両編成である。近鉄は名鉄と一緒で多両数固定編成を作らない。ここ南大阪線も2~4両編成の組み合わせで5~8連を組成している。列車によっては凸凹、色違い編成が現れる。そのうちに富田林到着。汐ノ宮は近い。なぜ汐ノ宮かと言うと友人がいる。3年前に電話があり「沖さん、隣に田中鎈市さんがいらっしゃるよ。京都在勤時代、電車の好きな変人が居た、と言ったら”それ、沖中はんやろ”と一発で当てはった」。電話を代わってもらいしばらく話したが、二人の接点が分らず尋ねた。汐ノ宮カメラクラブでご一緒であった。2人の年賀状の住所は番地が近接している。15年ばかり前、高野線・美加の台の住宅改修工事に行った時、河内長野から汐ノ宮を経て帰宅したが、どんなところか忘れてしまい、車窓で確かめたかったのだ。
河内長野の近鉄側の構内は南海側と比べると狭い。高野鉄道は19世紀末の開通、20世紀初頭開通の河南鉄道より早い。蒸気動車が乗り入れていた姿を想像してみた。接続の南海高野線は林間田園都市行急行、6000系8連がやって来た。南海は高野線の自社沿線開発を進め、改良工事に多額の資本投下した結果、資金繰りに困り倒産噂話で賑わったこともあった。さしずめ関西京成電鉄版である。京阪中之島線は自社建設線でないから気楽だろうが、東京メトロ副都心線と異なり、乗り手のないシーソーの片方みたいなもので、今後の大阪市の都市計画の進捗次第が命運を握っている。
林間田園都市下車は初めて、谷底の駅につきエスカレーター利用で改札口を出る。小さなロータリーにバス、タクシー乗り場があるが共に待機車はない。はるか南東方向にみどりに囲まれた住宅街が見える。近鉄が桔梗が丘団地を売り出した時、上本町から70㎞もあり狸の巣になるぞと従兄は冷やかしていた。林間田園都市は難波から39㎞、これならと思ったがバブル崩壊で苦労していると報じられた。10分ぶらつき、次の6000系8連急行で橋本に向かった。
南側の斜面を削り造成された小原田車庫には「天空」編成が留置されている。この車庫新設で急行の大運転(山線直通運転)は数えるほどになった。8連急行は8:39橋本に到着。

▲大運転用2000系が待機する

留置線の2303+2353がホームに据えられので、その車内で林間田園都市で購入したサンドとヨーグルトを腹に収め、WCへ。これが失敗となった。用を達している間に2304+2354が山から下りてきて増結した。そこへ次の8連急行が到着した。空っぽだった2300系4連はあっと言う間に埋まってしまった。止む無く先頭2354号、転換クロスシート扉横の背もたれに立つことになった。座る筈であったシートには、中年のオッサンが背摺りを後ろ向きにして向かいのオバハンと声高に喋ってけつかる。くそったれ!大油断であった。
走り出して暫くして、扉に持たれていた妙齢の御婦人、「トイレに行きたい」と同行者に言っている。グループで高野山参詣のようで、「困ったわ」と言い合っている。高野下を前にして「次の駅なら確実にトイレがある。40分後の電車で追いかけ、極楽橋で落ち合ったら如何?」と声をかけてみるが、「ええ」と言ったまま。上古沢だったかな、到着前にWCが目に入った。「早く行ってらっしゃい!」と肩を押したら「極楽橋で待っててね」と言い残し降りて行った。
9:47、極楽橋到着。想定第1番目の南端で、3時間34分要した。汐の宮見物なければ確実に3時間以内で到着となったであろう。ケーブルをチラッと見て「こうやさん」。紙(髪)を落とすのではなく清水が洗い流してくれるWCへ。折返し、2番目の南端へ行くために留置中4連の先頭車に急いだ。今度は失敗しないぞ、2303号のかぶりつきだ。小走りで先頭車に行けば車内はガランとしており間に合った。2300系は全転換クロス車で、扉間は1人・2人掛け、扉妻間2人掛2列のロマンスカー、老人が眼の色変える理由がここにある。

▲米手作市氏はケーブルカーで下山する

▲極楽橋では特急は手前、急行なら向こうの電車に乗車する

▲高野線(山線)は本年開通80年を迎えた

高野線(山線)は本年開通80年を迎えたその昔1251系3連の上り急行の電制音はすごかった。それに比べると2300系の電制は静かなものだ。そして電制と空制切り替え時のショックがない。「次の高野下で”天空”と交換します」とアナウンスがある。何、これを知っていたら何処かで途中下車していたのに。席確保のため動かず”天空”の入構を待った。橋本着11:02着、8連急行と乗り換えとなり、11:11発で天下茶屋をめざす事にした。
天下茶屋では早く家を出たせいか腹が「グゥ」となり催促している。WCを出たらカレーショップが目に入った。そこで腹に収めて、3番線4号車乗り場に立ち和歌山港行き「サザン21号」を待つ。やって来た8連、後4連は満員、前4連はガラガラ。こんな事だと思い自由席車と指定席車の分かれ目に立っていた次第。すでに戒を犯しているから”迷わず指定席車”である。ガラガラの車内に6人目の乗客となった。追加料金¥500。そして和歌山市から港への気まぐれ客は唯1人だった。和歌山港13:13到着。想定第2番目の最南端には+206分、なんと西向日から7時間要したことになる。これが10年前だと「迷わず水軒」となるのだが、2002年5月26日廃線となった。昼間にも1往復あったから、行くに苦労はなかったが、高野線に行く楽しみはそがれた事になる。

▲和歌山港に間もなく到着

▲本日2本目にして最終列車到着の水軒

▲距離表の数値は難波が起点

和歌山港から難波へ直行しようと思い、折返しサザンの先頭車のカブリツキに行くと「鉄」らしき親子が先に頑張っている。そこで和歌山市で下車、WCとして14:00当駅始発特急で北に向かうことにした。難波、淀屋橋、出町柳と繋いで最北端、鞍馬到着17:02となった。和歌山港-鞍馬間は市駅で一服しなければ3時間15分位の所要時分で収まるだろう。鞍馬では孫との約束、天狗の面を撮るために折り返しを1本ずらしWCとした。

▲天狗の面がお出迎え、お見送り

鞍馬17:18発、出町柳、祇園四条、河原町、と繋ぎ東向日18:33着。改札口には総本家青信号特派員氏が待ち受けていた。もちろん生中で、関西の電車・巡察の旅を乾杯で終結するためであった。本日の行程12時間20分、運賃6,240円、3日間の運賃合計16,900円(座席指定券代は省く)の旅であった。今回の道中、WCが目立つが、歳を取ると1時間前後で催す前兆があり、失敗のないように早い目に処理していたからである。


【10127】佐竹さんからのご案内

①1980年ペルーの旅・鉄道と遺跡・写真展
*マチュピチェ・クスコ・サクサイワマン城塞跡・ナスカ・アマゾン
*クスコ~マチュピチェ間の鉄道
日時:2010年12月3日(金)~12月14日(火)10:00~21:00まで
  (日曜日と最終日は18:00まで)休館日は水曜日
会場:京都市山科青少年活動センターhttp://www.jade.dti.ne.jp/~yamasei/
イベント:12月12日(日)15:30~16:45
   ・講演「鉄道趣味について」 沖中忠順氏
   ・フォルクローレ演奏 セサル ラ トーレ(クスコ出身・ボーカル、ギター)
入場料:無料
在廊:なるべく会場にいるようにしますが、事前に連絡いただければありがたいです。

②打ち上げ懇親会
※打ち上げ懇親会はイベント会場(山科青少年活動センター)から歩いて
いきますので17時までにセンターへお集まり下さい。
日時:2010年12月12日(日)17:30~21:00
会場:手打ち蕎麦「蕎岳(きょうがく)」(075-600-8006)
会費:3000円(そば、酒肴、ワイン・ビール・焼酎飲み放題)
定員:17名
申込:田野城までお願いします。tanosiro@e-corona.co.jp

③第72回 朝粥食べておしゃべり会
日時:2010年12月19日(日)午前9時~10時30分
会場:集・酉・楽サカタニ(京阪七条東、南側コンビに2階)
内容:「走れ トレランス号」  佐竹保雄
会費:350円?
申込:直接サカタニまでお願いします。(075-561-7974 )

【10096】「昭和の神戸と市内電車」作品展


以前この掲示板に、神戸元町4丁目のこうべまちづくり会館地下ギャラリーで、神戸市電や和田岬線列車の詳細、かつ何ともいえない温かみのある絵画、三ノ宮付近の立体模型などの作品展の紹介があった。この老人も習慣としての須磨-三ノ宮までのウォーキング中にたまたま拝見し、そのすばらしさを伝えた記憶がある。鈴木 城氏の長年にわたる作品群の由。

今回どうして老人の住所をお知りになったのかは不詳だが、やはり同じ会場で、11月11日(木)~23日(火・祝)「昭和の神戸と市内電車」鈴木 城絵画立体作品展のご案内を頂戴した。これは必見である。鈴木氏とご面識はないが、今回は是非お目に掛かりたいものと念願している。

会場は神戸の元町本通、4丁目と5丁目の堺の4丁目側南角にある「こうべまちづくり会館」で、9時30分~18時。京都からわざわざお越しになったとしても、それだけの価値は充分あると確信する。最寄駅は神戸高速鉄道「高速花隈」、神戸地下鉄海岸線「みなと元町」だが、JR元町、阪神元町からでも徒歩10分とかからない。

蛇足を加えると、冒頭リーフレット上の絵は、元町6丁目の三越前。三越撤退後は結婚式主体のホテルになり、それも震災前から家督争いか何かで閉鎖されたまま、今日に至っている。元町通りの西の入り口である。市電が通っている道路(多門通=現在中央幹線)は神戸高速鉄道建設に際し、左(山)側が拡幅された。

電車のすぐ横に「太井肉店」の看板のある異人館が覗くが、この建物は神戸高速鉄道が補償・全額負担して明治村に移築。最初は大井が牛鍋を営業していたが、現在では別の業者がやっている。なお大井肉店はビルになり、絵とほぼ同じところ(道路拡幅分だけ引っ込んで)で営業中である。

下の絵は、国鉄和田岬線の三菱造船所通勤客満載列車。ヘッドライトの背後に神戸港線名物のエア作動の鐘が見える。背後の誇線鉄橋は神戸市電高松線。この一帯は低地(旧湊川の川口扇状地)で、台風ではすぐ水没し、老人も若かりし日、写真取材で腰まで水に浸かった記憶がある。

飲酒の運転手が、公用車に「偉いさん」を乗せたまま、この誇線鉄橋の標準軌レールの上を、脱線もせず渡り切ったという「武勇伝」?があった。当時宴会中待機している運転手に、酒食が供されるのは至極当たり前というより「当然」であった。

なお和田岬線は旧山陽鉄道時代から存在し、現在では幹線道路の手前で切られ、駅も無人に。利用者は全員定期券のため乗車券自販機もなく、フリの客は無札で乗車し、兵庫駅で精算するシステムである。かつては川崎車両、神戸市中央市場の貨物が相当にあり、鐘紡の工場もあった(その後に競輪場が出来、市電車庫や交通公園にもなり、現在ではサッカー場と公園)のだが、旅客オンリーになり、それも三菱の縮小で昔の超満員など、かけらもない。

神戸市は地下鉄海岸線の開通で、和田岬線の廃止を予想していたが、何と電化までして残存したため、完全にアテが外れた。山陽本線の一部のため単独の収支係数は公表されていないが、平日朝夕のみ17往復、土休日は4/2往復で、黒字のはずもない。三菱が通勤上必要ならタダで譲ってでも、三菱に運行させたらと思うが。世の中にはいろいろ不思議なことがある。


【10082】追憶の九州 一人旅 (1)

先週、九州へ旅してきました。
北九州へは最近も何度か行っているものの、南九州となると大学生以来、40数年ぶりの訪問となりました。
同好の士とともに行く旅も楽しいものですが、自分の思いのまま、気の向くままに行動できる一人旅もいいものです。
私も定年退職後一年が経過しましたが、記録・撮影だけではなく、より広い視野をもって旅に出たいと念願しています。
私として心掛けていることは、
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
といった趣旨のもと、旅を続けたいと思っています。
今回の九州行きも、第一の目的は消えつつある車両の撮影だったのですが、多少なりとも上記の趣旨を受けたものでした。今回は、かつての撮影地・駅の再訪問について、いくつか拾ってみました。
 

 改良工事で消える折尾駅を再訪問
九州上陸後、まず訪れたのは、折尾でした。
ここは、筑豊への入口駅に当たり、高校生の時から、もう何度乗り降りしたことでしょう。しかし、永く親しんだ駅周辺も、大掛かりな連続立体化事業が進展し、駅舎の解体も間近いとの報を受けての訪問でした。

折尾駅は、明治24年2月に鹿児島本線、当時の九州鉄道が開業、同年の8月には筑豊本線、当時の筑豊興業鉄道が開業、それぞれ別地点に駅が設けらた。その後、立体交差の現在地に共同の駅が設けられ、これが日本で最初の立体交差駅となる。寄棟屋根、木造2階建て、コロニアル様式を持つ現在の駅は、大正5年竣工の二代目の駅舎。
連続立体化計画では、筑豊本線の線路を西側に付け替えて、鹿児島本線に寄り添うように高架化し、新しい駅舎を建設しようというもの。折尾駅も周辺の住宅・学校への下車客が増加し、今や北九州市では、小倉に次ぐ第2位の乗降客数となっている。それだけに、明治のままの駅ではさすがに手狭になってきた。

鹿児島本線と筑豊本線が斜めに立体交差する折尾駅は、迷路のように複雑だ。高架下の通路は、煉瓦造りになっている。少し前に、筑豊本線若松駅ホーム側に西口が設けられ、人の流れがさらに複雑になった。また、構外には、鹿児島本線黒崎方と筑豊本線中間方を結ぶ短絡線があり、ここを通る鹿児島本線~筑豊本線の直通列車は折尾が通過扱いになっていたが、ここにも折尾駅が設けられている。構内の各所には、特製の駅案内図が貼ってある。

駅前広場に進入するのは北九州市営バス。西鉄バスが独壇場の北九州にあって、若松、折尾周辺で辛うじて路線を持っている市営バスだ。長らく、クリーム地に紺帯という、いかにも路線バスらしい、塗色で親しんできた同バスだが、黄緑色をベースにした新色に変更中で、見たところ、半数は新色に変わっていた。ちょうど、北九州市の地場企業である、バス車体製造会社の西日本車体工業も廃業してしまった。折尾駅前を特徴付けていたバスの車体・塗色が消える日も近いようだ。

▲鹿児島本線の下をくぐって若松へ向かうキハ47。筑豊本線は、折尾以南は電化され、篠栗線とともに「福北ゆたか線」を名乗っているが、取り残された折尾~若松間は、愛称「若松線」として、DCが行くだけの完全な別線扱いとなり、列車も朝の一部を除き、折尾折り返しになっている。

駅前には、西鉄北九州線の終点として、路面電車が高架の駅舎に乗り入れていたが、平成12年11月に廃止されている。駅舎のあったビル全体も解体中であった。もうひとつ、駅前には、筑豊の歴史を伝える川がある。この川は堀川と言い、江戸時代に遠賀川の氾濫を抑えるために、灌漑・水運用に掘られた運河である。川沿いの道路にびっしり立ち並ぶ、原色看板の飲み屋。これも筑豊が殷賑を極めた時代の遺産でもある。再開発事業が進めば、この光景もどうなるのだろうか。

初めて、折尾に降りたのは、昭和42年の高校2年生のときだった。高架の鹿児島本線ホームから迷路のような通路を通って、地上の筑豊本線ホームに行くと、真正面にC55のスポーク動輪が飛び込んできた。その時の印象が余りにも大きくて、それ以降、何度も筑豊へ行かせる結果となった。雨のホームに到着したのは、逆行C556の牽く若松発飯塚行きの列車。こんな列車が堂々と本線上を走っていた。

対向する若松方面ホームから眺めたC55の牽く列車。ホームがずいぶん低い。この頃、筑豊本線の旅客列車は、DCもかなり入っていたものの、客車列車はすべてC55だった。周りの家並みを見ると、さすがに今昔の感がある。


【10079】新しい瀋陽鉄道博物館 発見!

前回瀋陽訪問時に2日間をかけて探しても見つからなかった満鉄車両が多数眠る鉄道博物館をようやく見つけることができました。
だいたいの所は、瀋陽鉄道局の列車乗務員に調べてもらっていましたが、広い町です。地元タクシー運転手も近くでは聞きながら向かいますと、林の中に忽然と立派な建物が見えました。感激です。
正門を入ると、真新しいロビーに多数の鉄路員がおられ、最近開館したと思えました。聞くと、2010年10月18日にオープンしたばかりとの事で、未公表なのにどこで知ったか質問されました。日本人の訪問は、あなたが初めてですよと言われまして、また感激です。
館内には、あじあ号はじめ満鉄で活躍したSL等がきれいに磨かれ展示されていました。
詳細については帰国後にまとめますのでお待ちください。
すぐに行かれる方は、パスポートが必要なのと、入場拒否もありますのでお含みください。