忘れ物ですよー!

yomiuri onlineより

 5日午前8時半頃、名古屋市中区栄の服飾雑貨卸「センゾー」のビル1階に不審なアタッシェケース2個が置かれているのを清掃員の女性が発見、同社役員を通じ愛知県警に通報した。

 アタッシェケースからリード線が出ていたことから、愛知県警は爆発物の恐れもあるとして爆発物処理班を出動させ、約3時間後に回収した。

 発表によると、アタッシェケースは、縦40センチ、横50センチ、厚さ15センチのものなど2個。ビル1階の通用口付近に置かれていたという。県警がエックス線で調べたところ、ケースの中は、鉄道模型のジオラマだった。線路やトンネル、橋、山、川が精巧に作られており、県警は忘れ物とみて持ち主を探している。

 現場は、同市内を南北に走る幹線道路「本町通」に面しており、現場付近は100メートルにわたって、一時通行止めとなった。

2010年10月5日16時17分  読売新聞)
お心当たりの方、お申し出下さい。もしかしたら江若鉄道のレイアウトだったりして・・・

関西の電車・巡察の旅 その2

2日目:8月16日(月)。14日は“日本の客車・再版”祝賀会であった。鉄道ピクトリアル・今津編集長をお迎えして佐竹さんの功労を称える集いであった。須磨の大人の裏話、新規入会の通園さん紹介、美作の国で療養中の滝本君から見事な西瓜の差し入れがあり、酷暑の最中でも稔りの多いクローバー会であった。

さて2回目は西の果てへ。京都駅から新快速でぶっ飛ばせば2時間少々で行ける地であるが、5時間あればなんとかなるであろうと、1回目より1時間早く西向日640発とした。運賃と時間の節約を考えれば十三・三宮・高速神戸経由が正規のルートとなるが、後のことを考えると淡路・阪神なんば線経由にすれば変化が見込めそうだ。日本橋745に着くなり先ずWC。奈良からやって来た快急は10両編成で、鶴橋、上六ではどれだけ下車したか分らないが、先頭9726号の4扉から30人ばかりが下車した。残念ながら座れない。難波も同様。西九条からメガホン片手族が乗ってきた。虎狂ではないから静かなものだ。本日は地元校が2校出場する事になっている。伝法を出ると100km/h運転となる。10両ですぞ、50年前は2両だった。尼崎814着。高架留置線に55514Fが休んでいる。舞州へ移転した大阪車両工業が鋼体を造り、正雀のアルナ工機が艤装した、と言われている。この駅の蕎麦屋も何処へ行ったのか見当たらない。サンドウィッチとヨーグルトを購入した。

 

青胴車が伝法大橋を渡る姿は見られなくなった

青胴車が伝法大橋を渡る姿は見られなくなった

赤胴車も橋に向け福駅から力走

赤胴車も橋に向け福駅から力走

 目前に阪神なんば線からの普通が到着、全員降ろして折り返し線に。そこへ直通特急が到着するが1/3残して西へ向う。ガラガラの普通に先乗りしていたら、あぶれた1/3が乗ってきた。こちらも静かな車内。甲子園で降りて三宮行の快急を待つ。満員の近鉄1028号は、高校野球応援団を弾き出すと身軽になって走り出す。近鉄車で神戸入りが出来るとは夢にも思わなんだ。特急が停まる「御影」、外側線を最徐行で通過する快急6連は苦肉の策の一つだ。震災の日の週末から6週連続で神戸へやって来た。阪神復旧の日、625日まで何度も通った。戦災を知らない京都人には見るもの全てが勉強であった。

震災10日後は青木まで開通

震災10日後は青木まで開通

震災で壊滅した石屋川(新在家)車庫-酒井福三さん提供-

震災で壊滅した石屋川(新在家)車庫-酒井福三さん提供-

 三宮からしばらく乗りっ放しとなる。先ずWC。ホームに直通特急が到着した。それなりに乗っていた車内はガランとしてしまった。三宮914発。神戸高速鉄道は阪急阪神HDに統合されたのだから、運賃の一元化を先ずやって、それからスッルト関西を有効利用したら、客を増やせないかと思う。遅い遅いと言われるが、直通特急は明石・飾磨間3駅停車で35.2km28分走行である。新快速は明石・姫路間2駅停車で35.4km26分走行だ。昔、車庫のあった西新町を出ると110の目盛を維持するためにノッチのONOFFの繰り返しとなる。飾磨1013着。網干線乗り換え1020発。車庫を横目に高架線に上がり、降りて少し行って2ツ目の鉄橋、渡るのは夢前(ゆめさき)川、10年ばかり前、木村昌晴さん以下7人、河原でHO運転会をやった。動力源はバイクのバッテリー12Vだ。子供は勿論、大人も取り囲んでくれた。ポン友・木村さんは吉川文夫さんより一ケ月早く亡くなった。僅か15年の付き合いだった。「また来たよ」、黙祷。最西端・網干1038到着、所要時分3時間58分。思惑より1時間早く到着した。

姫路ライナーが加古川を渡る

姫路ライナーが加古川を渡る

 1998221日朝、木村さんと2人、網干駅ベンチで仲間の到着を待っていた。3人がやって来たところで腰を上げ835発で東へ向け出発した。飾磨で215日から走り出した大阪ライナーに乗り換え民鉄による電車最長区間、旅の始まりであった。インタァーバンの好きな木村・沖中コンビはその昔の電車王国アメリカで、2000哩のトロリィーカ-の旅が1910510日スタートしたことを知った。日本ではどうなるか、アメリカでは軌間が同一であったことで実現したのだが、日本ではそれが出来ないのが残念である。乗り換えを繰り返せば何処まで行けるか、西は網干から三河田原迄が最長となる。一度乗ってみよう、その日を姫路・梅田間の直通特急運転開始後としたのだった。

思い出の網干から姫路へ出た。姫路駅の山陽との上下切り替え後に通った事がないからである。これからどうするか、まっ出たとこ勝負で行こうと思う。神戸市内に入り板宿で神市交と接続している。名谷迄は行ったことがあるが、終点・西神中央は未だである。トンネル電車は谷底だけに明かり取り部分があり農村風景が見え、ホッコリする。終点の駅前ロータリィーが広いのにびっくりだ。折返し三宮に直行、ガード下で海鮮丼と生中1杯で満タンになったところで能勢電に行くことにした。

眼を見張った広い西神��央駅前に”そごう”健在

眼を見張った広い西神中央駅前に”そごう”健在

 準特急氏2度目の来阪の時は能勢電と神戸電鉄へ行った。紅葉シーズンなのに暖秋のため晩秋の装いはなく、案内役としては「ごめん」の気持ちが今もある。そして日生NTへは行った事がない。35年前、ニュータウン造成に向け沿線のそこかしこで線路規格向上、複線化工事が始まった。丹波へ仕事に行った帰途、時折り国道173号を南下して工事の進捗を観察した。日生線の開通直後、息子に「阪急の昔の電車に乗りたい」とせがまれた。一も二もなく能勢電にやって来た。320,380,500形がまだ残っていた。日生線は山下始発の320380形の2連で折り返し運転であった。本線は610系、500形の4連で川や崖沿いの線路をきしみながら走った。変わったと言えば大きな複線トンネルが出来たことで、能勢カーブ式電鉄であることには今も変わりはない。せがんだ息子は成人を前に野球一筋となり、今年は不惑を迎えている。その親父は膝小僧を抱いて欠伸をしているうちに日生NTに到着した。

広い構内は将来のため?
広い構内は将来のため?

ホーム端から線路端末まで42本が押し込めそうな留置線がある。延長計画のある北千里に良く似た構内線形だが、行方には山ががんばっている。バブルが何度も飛んでこないと山の向こうを引き寄せるのは無理だろう。駅前広場は西神中央と比べるとひっそりしていた。

これで本日の目的達成。日生中央1529発で帰宅の途についた。蛍が池からモノレールで南茨木へ、西向日1716着。全行程10時間26分、運賃5,610円也の巡察の旅だった。

 

 

 

 

 

教えて下さい!

 ネコ・パブリッシング発行の雑誌「国鉄時代23」-2010年11月号108頁、久保敏さんの常磐線1957~1960年準急「ときわ」・C62「はつかり」の時代で次のような写真説明があります。

 「水戸駅で給水するC6220。当時の拠点駅の典型的な情景で給水塔、荷物運搬用のテルハ、貨物ホームが見える。1959.9.22(原文のまま)」

 この荷物運搬用のテルハとはどういうものなのか、知っている方がおられましたら、教えて下さい。写真を見てもよくわかりません。なお、この雑誌は大きな書店では今月20日頃までは店頭にあります。宜しくお願いします。

175系??

DRFC関東連絡網で話題になっている185系湘南色の特急「あかぎ」の写真をお送りいたします。

本日、田端運転所で開催されましたJR東日本の旅行商品「びゅう」主催の「寝台特急 北斗星・カシオペア」牽引機関車撮影会の旅に参加しましたが、その都区内フリー乗車券を使って、撮影会前に東十条に出かけ、4004M特急「あかぎ4号」で運用中の写真です。

7連+7連の14両編成で、上野寄りに湘南色となった185系が連結され、前橋寄りは、従来の185系です。サロには、懐かしいグリーン帯が描かれています。

賛否両論ありますが、ここまで来たら、いっそのこと、登場時、153系の急行「伊豆」と併結していましたので、後ろも旧踊り子色にするとか、157系の特急「あまぎ」や「白根」をイメージしたものもあってもよいのではと思ってしまいます。

私的には、165系塗色(私にとって、80系より身近な存在でした。)の185系ですので、中をとって、175系と命名しました。

肝心の撮影会は、EF81の星カマとカシオペア色、EF510の北斗星色とカシオペア色 合計4両を並べた撮影会です。都区内パスと弁当、弁当の掛け紙(何ゆえか、弁当にかかっておらずご丁寧に封筒入りでした。)、市価1000円と書かれた北斗星携帯ストラップつきで3300円でした。高いか安いかこれも判断が分かれるところです。

 

夏の思い出 -2-

岡山へ バスと国鉄型を求めて

7月の末には、岡山・倉敷方面に向かいました。
掲示板には藤本さんやKH生さんからバスの報告がされています。私も以前、藤本さんとバスの同好会に加入し、鉄道そっちのけでバスを追い掛けた時期があります。さすがにその情熱は失せましたが、今でも、旅行中にわずかな待ち時間があれば、駅前でバスを写します。今回は、バスを主目的に、ついでに国鉄車輌も求めてのの旅でした。

 

新幹線に乗ってまず向かったのは水島臨海鉄道だった。平日の朝夕には元国鉄のキハ20が動いている。水島というところは近くて遠いところで、朝のキハ20を写すためには、前泊が必要とばかりに思い込んでいた。よくよく調べると、朝一番の新幹線で行けば、何本か写せることが分かった。
これはもう行くしかないと、倉敷に7時14分に降り立った。平日朝は、3編成
が運転されており、うち1本がキハ20の2両編成になる。水臨にはキハ20が4両あるが、2両が国鉄色、2両が水臨カラー。どのカラーかは運次第だが、最近は国鉄色2両が多いようだ。
倉敷駅からひと駅目の球場前駅を目指して歩く。この球場というのは、プロ野球の公式戦が時々行われているマスカット球場のことで、ちょうどこの日も高校野球岡山大会の決勝戦が行われるところだった。水臨はその球場を半周するように、築堤上にきれいなカーブを描いていて、撮影好適地となっている。緑に包まれるようにして、やってきたキハ20の国鉄色は、細かいところを言えば違うものの、国鉄時代を偲ぶに十分だった。単行でもない、3、4両でもない、ちょうど2両編成というところが、もっともキハ20らしい。

 

 

福山市内に福山自動車時計博物館がある。この地で財を成したオーナーが、無類のアンティーク好きで、私財を投げ打って博物館を作った次第。自動車時計博物館と言うものの、名物は何と言っても、各地からカキ集めてきたボンネットバス、近くのレストア技術者の協力もあって、自力走行できるにまで何台も再生した。
“昭和の町”として人気を集める大分県の豊後高田市内で周遊運転している「昭和ロマン」号も、元は自動車時計博物館が取得、修復したもの。豊後高田市で昨年7月から運行していたが、このたび広島市で行われた観光イベントで、一年ぶりに里帰りし、本日は、近くの鞆鉄道でも使われているボンネットバス、それに博物館所有のボンネットも加え、計5台が福山市内を里帰り記念のパレードを行った。駅前などで走行中を撮影して、博物館前で行われた記念のセレモニーに駆けつけた。カラフルに塗装された5台のボンネットが頭を揃えたのを見て、30年以上前に各地へボンネットバスを追い掛けた日々を思い出していた。

 

 

吉備線に乗車して、夕方に伯備線の豪渓に着いた。当ホームページのトップページに載っているEF64に刺激されて、伯備線でも貨物を牽引しているJR貨物岡山機関区のEF64を撮りに来たのだ。地味ではあるが、西日本エリアでは唯一の同機の働き場所だ。豪渓から倉敷寄りに歩くと、逆光ながら、連なる空コキもいただけないが、カーブを行く同機の写真を撮ることができた。考えれば、EF64の走行写真は、これが初めてだった。
帰りに乗った列車は、新見発姫路行き、時刻表を見ると、岡山周辺では、岡山駅をスルーするローカル列車が多く設定されるようになった。これに乗ると、姫路で1分で新快速に乗り継げる。新見~大阪が1回だけの乗り継ぎだけで4時間余りで結ばれる。18きっぷ族には嫌がらせのように、普通列車の乗り継ぎが年々悪くなっているが、逆にこのようなケースもあるものだ。