【11969】奈良電クハボ600

前回の神戸電鉄デニ11は人気がなかったのか、どなたも書き込みがなかったが今回は私でも知っている電車。

奈良電は、京都に住んでいる市民にとっては「田舎電車」の雰囲気が未だに消せない思い出の電車。子供の頃、久津川に住んでいた同級生の家に行くのに乗ったり奈良へ行くのに乗ったりしたが、阪急とは比べものにならないし、京阪と比べても古色蒼然とした車両で奈良にふさわしい電車と子供心に納得していました。最近久津川の同級生とその話をしていて「奈良電は扉を手で開ける」といったら「それは京阪の車両で、奈良電は自動やった!」と反論されました。どうもイメージで言っていたようで、デハボ1000は自動扉で京阪の乗り入れ車両(200系?300系?)が手動だったらしい。このクハボ600は1200型とつながって特急として走っていたのに乗った記憶があります。でも、こんな通風口があったかな?


【11948】飯山線1962.3.4その2

先回が2月6日だったから、3週間近く開が抜けてしまった。その間山陽200、300型なんぞの夾雑物?(失礼)があって、ピントも外れてしまったが、思い出して「その2」を続ける。

十日町を過ぎると、やがて越後鹿渡、越後外丸、越後国を越え信濃国に入ったところが森宮野原と、いずれも豪雪地帯が続く。我々は8時51分越後鹿渡で214レから下車。下り列車は10時08分だから、時間はたっぷりある。ともかくモーニングコーヒーと朝飯の支度を。腹が減っては戦は出来ぬ。




291レを待っている間に野うさぎが1匹我々の視野を横切っていった


4人ほどが雪壁に段をつけていたのは どうやら人道確保=線路を歩かれないように らしい

292レで越後外丸に移動

太陽が出て雪がまばゆく 露出にとまどう

飯山線はいわずもがなだが、戦時中の1944年6月1日飯山鉄道の買収で、線路規格は低くC56が活躍している。何分ともこんな山中を延々と走りぬけ、日本有数の豪雪地帯だから、採算がいいはずはなく、戦前は地方鉄道補助の大口常連=毎年度20~30万円程度を受領していた。

機関車は日車製27tCタンク機1~3、日立製42t1C1の11~15で、後者は国有化で形式2950、2950~2954に。ガソリンカーはボギー車7両全部が上田丸子鉄道で付随車で再起したのは先に記した。他に2軸車が1両(←南総鉄道キハ103)いたが、買収されず、日立航空機立川工場で工員輸送に当たり、敗戦後も残存していた由だが、見損ねたのが残念である。

客車はボギー車は木製と半鋼車で、前者は国鉄制式車より窓が一つ少ない=便所はあるのに、通常便所になるデッキ寄りの独立した1個の窓がないのである。なぜか国鉄に編入されず、高知鉄道や三井鉱山に再起したが、高知には遂に行かず仕舞い、三井は半鋼車体に改造後しか見ていないのが何とも残念至極、口惜しい。

半鋼ボギー客車はは独特のスタイルで冴えたデザインではないが、国鉄半鋼雑形に編入。2軸木製車もオリジナルは屋根のやや深い個性のあるもので、これは松尾鉱山鉄道で見ることができた。


【11870】山陽電車 200型の再生300型

 

 

 前回、山陽電車の社報掲載文で200型を紹介しました通り、愛嬌のある車でしたが、如何せん輸送力増強には不適合な車でした。しかしながら作りが良く、廃車するには惜しいので、車体を広幅に更新し、台車や制御機器も再利用するということで、1962年夏から秋にかけて、300型に生まれ変わりました。第1次車300~305の6両は、川崎車両で更新した車体を運び込み、自社西新町工場で完成させました。これには大分時間が掛かったと聞いたことがあります。製造銘板も山陽電鉄でした。附番は200→300、201→301とはならず、200、201、208、209、210、211の6両で300~305の6両を製造したようでした。

▼下は、生まれて間もない303+304です。 行き先表示板には神戸・明石(西新町)とあります。神戸市内の終点駅名を『兵庫』と書かず、『神戸』と標記していました。『明石』も( )つきです。『明石』にはもうひとつ(東二見)行もありました。
▼やはり真新しい301他の網干行が、高架の姫路駅を発車したところです。オールMの3連です。

▼上の写真から2年後、第2次車306から315まで10両が揃いました。電鉄須磨駅です。

▼須磨から明石まで海岸べりに沿って、国鉄と並走します。奥に見えるコンクリート造りは、写真の2ケ月後に開通した、国鉄鷹取-西明石間複々線化の新しい列車線です。既存線は山陽電車線に接して向こう側の平地上です。道路の左はすぐ海岸です。

▼のどかで穏やかな海に漁船を見つつ、海岸沿いを走る300型です。複々線化工事中の場所に立ち、上から見下ろしました。パンタが3個、勇ましく見えます。

▼こちらは、道路併用軌道の長田-兵庫間、大開通りです。左側で神戸高速鉄道への地下工事が始まっています。砂ぼこりの多い、だだっ広い道路でした。車の通行が少なく、遠くに兵庫駅を出発した200型が見えます。

▼上の写真と同じ号車の折り返し。今度は姫路行になっています。場所は先ほどよりだいぶん兵庫駅寄りです。

▼第2次以降、製造組立の全てを川崎車両で実施。第4次まで合計28両が生まれました。その内、6両は中間電動車330型です。筆者の当時の記録では曖昧な所が沢山でした。

 大手術を受けたその割にはピンピンと元気な乙訓の老人が、自宅に戻るやいなや鉄道ピクトリアル誌327号と528号を送り届けて下さいました。その中に、やはり亀井一男さんが記述の200、300のデータがあり、移り変わりの様子がはっきりしました。整理したのが次の図です。鉄道ピクトリアル誌 No.327 1976.11 を主として参考にしました。

▼200型の台車、BW-1。

▼200型のおしまいは、流線型車両が海風を切りカーブを駆け抜けて行く姿です。下は第1次の203+202です。残念ながら第1次車両のカラー写真はありませんでした。

▼風光明媚な場所は関西一でしょう。高台を走る場所は一等地。南海にも紀勢線にも負けないくらいです。 

次回は、京都の方々には遠くて、神戸の西片隅の様子など疎い方のために、西代から神戸・兵庫までの道路併用軌道区間、神戸市電との交差無電区間、兵庫駅などをカラーで紹介しましょう。


【11906】阪神電車112型

阪急202号に続くは阪神だろうと思いながら、総本家宅裏庭の離れ屋に1月26日隔離され、配管サイセイ工事を受けていた。無事2月14日竣工検査合格となり乙訓の陋屋に戻ることが出来た。予想通り「気分は鯉の吹き流し」の素晴らしいタイトルで紹介された事が、枕元にthurukame氏からお見舞いメールで2月2日に届いた。老人撮影の写真も2月19日に到着、やっと紹介できるようになった。

日本最初の都市間急行電車として1905年に開業した阪神電鉄は1911年4月、自社事業用ボギー電動無蓋貨車1両101型101号を竣工させた。これも日本最初であった。その独創的なスタイルが迷図作家の手によって紹介されたのであった。設計目的は電柱や建設資材運搬用で、貨物台寸法は長さが約10.3m、運転台は中央に1ケ所、しかも運転台下が空白といったものであった。工事区間で見通しが効き前後の小運転に便利なように、運転台の位置を高くしたものと考えられる。

同型の増備は1912年8月112型112、113号、1931年?月112型114、115号、1956年9月121型121号の3回、5両に及んだ。101号は1929年1月30日付で111型111号に車両番号は変更された。1933年3月全線パンタグラフ統一でパンタ化された。廃車は111号(1953年)、112、121号(1958年)、113~115(1967年:昇圧)の順である。1938年1月許可で、ポールと救助器取付で国道線や甲子園線など軌道併用線でも使用された。

老人が112型の存在を知ったのは1958年初夏である。先日(2010.12.07)急逝された奥野利夫氏から阪神電鉄の小型車全廃計画を聞かされ、車両調査と撮影をしておこうと思い立ち尼崎車庫を訪ねることにした。氏に車両課の方を紹介して頂き、創業以来の車両調査を始めた。当時、奥野氏の名は私鉄関係でも轟渡っており、最初の訪問で現有車両の型式図を閲覧させていただき、2度目の時には開業時の客車のみならず貨車関係も見せて頂いた。絹布のトレーシングペーパーに烏口による1/30の原図などが保存されていた事が今も頭に残っている。第1号車は111型111号に改番された後に廃車となったが、後身が112型として3両残っていることを教えられた。その日は生憎全車、工場建屋内にあり見るだけであった。しかし、1年待てば屋外で撮影可能になると教えられ、その日を待つことにした。

その日は1959年10月24日に実現した。須磨の爺やも同行してくれたように記憶している。1年待った理由は当時、尼崎車庫は高潮対策として工場、検修施設の嵩上げ工事をしており、その後は伝法線沿いに留置される予定だと聞かされた。急行系3301、3501型に続きジェットカー量産型の搬入があり、試運転開始の報を得て出向いたら、教えられた位置に113~115号の3両が留置されていた。

113号:車体は日本車両で新製され、台車や機器類は手持ち品が再用された。当初ブリル-27G1であった台車は電気機器類などと共に1955年にブリルMCB型に変更された。この時の大きな出来事は運転台出入口が出来たことで、それまでは妻面窓から出入りしていたそうだ。新設された出入口の高さも1550粍程度で、連結器も緩衝器もない。後にレィル運搬車牽引用簡易連結器を取り付けた(緩衝器共)と言うが、見たことなしである。

114号:車体は藤永田造船所の新製、台車や電気機器類も113号同様の経過を辿るが、改造は1年早い。理由は1954年の特急用大型車300型導入に伴ない、車両限界測定車に改造された事による。更に2年後、盆踊りの櫓まがいのものが組み立てられ、架線作業兼用車に変身した。タンクが取り付けられたが用途は聞き忘れた。車庫用地嵩上げ地区最北端線に救援車709号と共に留置されていた。

115号:車体製造は114号同様である。その他は113号同様であった。

高松琴平電鉄デカ1号:1957年9月、仏生山工場で出会った。運転台は自家製。台車はペックハム製で珍しい。鯉のぼりの為には竿が必要。このデカは今も生き残っている筈。いずれまた……。

レイルロード社の阪神電車形式集は高間恒雄氏の大変な努力で刊行された。老人のDRFC時代の思い出話も役立ったかもしれない。素晴らしい書籍を作ってくれた高間さん有難う、万歳!

113号

113号

113号・運転台扉に注目
113号・運転台扉に注目
114号
114号
114号伝法方から見る
114号伝法方から見る
115号
115号
高琴電鉄デカ1
高琴電鉄デカ1

【11903】乙訓の長老様、生還記念・神戸電鉄デニ11

放熱管の交換修理で入庫していた乙訓の長老が無事交換が済んで新製同様になって再配置されました。今後は“乙訓の兄ちゃん”と呼んではほしいとか・・・

それを祝して(先週は休刊日でした)久々に名画をご覧に入れましょう。

須磨の大老とご一緒に薀蓄をお願いいたします。


【11856】雪景色・花輪線に想う

turukame先輩の投稿「雪景色・花輪線」の素晴らしい列車寫真に混じってヒュッテの室内画像がありました。ヒュッテはダブルルーフのオハ31系客車4輛ほどを、台車代わりに積み上げた枕木のうえに線路横にならべたものです。やまぶき色車体に窓周り青色に塗ってあり、遠目には側線に列車が停まっているように見えます。一輛は食堂、他は宿舎としてスキーや八幡平の観光に供されていたのです。竜が森は1960年代に数回同好会合宿が行われています。
1967年正月休みを利用し、一年先輩のローズ山下氏とともに大阪から米坂線・八郎潟を撮影し竜が森へとたどり着いたのです。スパッツを着けカンジキを履いた雪装備で線路脇をとぼとぼと歩いていると、ドケーと大きな声が聞こえました。雑誌鉄道ファンの撮影地ガイドにも載った好適地なので正月の雪のなかにも先客があったのです。掃き溜めではなく、雪の中にturu一羽というところです。雪深い東北の片田舎でバッタリお会いするとは思いもしませんでした。ヒュッテに戻り、縄張りを荒らしたことを詫び、一献をかたむけ手打ちを期して記念に撮った写真です。網棚からはローズさん愛用の望遠付ザンザブロニカが吊され、卓上には通信員愛用のペンタックスSV・SPが見え、コニパンSS・サクラカラーが装填されています。「彼らは雪に消えていった」と腹立ちが44年後もまだおさまらないように愛想無く記述いただいていますが、竜が森を後にしたふたりはその後常磐線の平と四ツ倉の間で大型蒸機大好きのローズ氏とC62を撮影しました。ローズ氏は全国各地で蒸機を沢山撮り溜めされてるので発表いただきたいものです。
なお、投稿のなかに総天然色画像で到着した気動車(キハユニ26他)に乗り込むスキー客を撮ったものがありますが、そのとき通信員は先頭車を正面線路上から撮影していました。その一枚が2006年10月のクローバー会写真展「鉄路輝く・記憶に残る昭和の鉄道風景」に「全員乗せてくださいね」の題名で展示いただきました。マイカーや宅配便の無かった時代に、スキー場で過ごした人々がスキーを抱えて14:27発の列車に殺到しているところです。次の盛岡行きは16:51分で積み残されると大変です。日帰りの人は随分早い列車で来たのでしょう。
また写真展が開催されるそうですが、準備いただく方々はもとより力作をお持ちの方々よろしくお願いいたします。