【12682】長野電鉄から転入した上田交通の車両


千曲川の鉄橋を渡るモハ5261  上田~城下/昭和61年3月16日

tsurukame先輩が書き込みされた【12122】「雪景色・番外 長野電鉄2000、600形」の関連で長野電鉄から転入した上田交通の車両について紹介したい。撮影できなかった車両(モハ612→モハ5271)の写真は、犬伏孝司氏よりご提供いただいた。

 長野電鉄は、昭和56年3月1日長野~本郷間の地下化に伴い、不燃化基準により地下乗入が不可能な車両は、河東線(屋代~須坂)で使用する車両を除き、順次廃車となった。その中で、モハ102、モハ201、モハ604、モハ611、モハ612の5両は、上田交通に譲渡され、部品取りとなったモハ611以外の4両が別所線で再起した。
当時、別所線ではラッシュ時にモハにクハまたはサハを増結していたが、サハの場合は運転台が無いため、終着駅ではモハを先頭に付け替える必要があり、機回し線がある上田はともかく、別所温泉は留置線を利用して複雑な入換作業が必要であった。この4両の増備によりサハとクハの一部が廃車となり、これらの作業が不要となった。昭和61年10月1日の1500Ⅴ昇圧により廃車となったが、モハ604→クハ271は長野電鉄に里帰りして、モハ604に復元の上、小布施駅構内の「長電電車の広場」で保存されている。
旧番対照は下記の通りである。(左/長野電鉄・右/上田交通)
モハ102→クハ261・モハ201→モハ5261・モハ612→モハ5271・モハ604→クハ271

【車両の概要】
クハ261(旧長野電鉄モハ102
)
大正15年6月汽車会社で須坂~権堂間の開業に備えて作られた車両で、モハ101、102の2両在籍した。半鋼製車初期の製品で台枠にトラス棒が付いている。昭和53年9月に廃車となりモハ102のみ上田交通に譲渡されたが暫く手が付けられず、昭和55年3月になって電装解除の上、両運のクハとなった。


上田原/昭和61年3月16日

モハ5261(旧長野電鉄モハ201)
昭和8年4月汽車会社製で長野電鉄では1形式1両であった。前述のクハ261とはよく似たスタイルであるが、台枠にトラス棒が無い、リベットが少ない、扉間の窓の並びが均等の違いが見られる。長野電鉄の廃車時期はクハ261と同じであるが、こちらは直ぐに整備され、昭和53年12月に竣工した。

 
上田/昭和61年3月16日

 
上田/昭和61年8月24日(モハ5261+クハ291の2連)

モハ5271(旧長野電鉄モハ612←モハ602)
クハ271 (旧長野電鉄モハ604
)
昭和2年川崎造船所製の全鋼製車でモハ601~604の4両作られた。阪急600形、西武151形とは同形である。昭和41年に601と602のパンタ側(長野向き)の運転台の拡張工事が実施され、乗務員室扉の設置、客室扉の移設が行われた。昭和55年に4両共廃車となり、モハ603を除く3両が上田交通に譲渡された。
モハ612は昭和56年8月にモハ5271として竣工、モハ604は昭和58年7月になって電装解除の上クハ271として竣工した。モハ611は改造されることなく部品取りとして長電時代の塗装のままで上田原検車区に留置されていた。

 


モハ5271 上田/昭和58年7月8日 犬伏氏撮影
(上田側は原形、別所温泉側は長野電鉄時代に改造)

 
クハ271 上田/昭和61年3月16日

 


モハ611 上田原/上 昭和60年1月15日 下/昭和61年3月16日
(モハ611は改造されずに部品取り車になっていた)

【元東急の車両】
元長野電鉄の車両と前後して東急から譲渡された車両についても触れておきたい。

①デハ3310・クハ3661・クハ3772
昭和50年12月朝ラッシュ時の輸送力増強のために東急からデハ3310+クハ3661を借入れ、昭和54年4月正式に譲り受けた。

東急デハ3300形は目蒲電鉄から引継いだ車両で、元鉄道省の木製車を昭和11年から15年にかけて川崎車輛で鋼体化したもので、当初3301~3311の11両在籍していたが3302と3303の2両は戦災に会い9両が残った。晩年は3両×3本が池上線で使用されていた。
上田交通では平日朝ラッシュ時に上田原→中塩田→上田→上田原の限定運用で使用していたが、正式譲受け後連結面にも運転台を設置して単行で使用可能なように改造したが、使用実績は極めて少なかった。

 
上田原/昭和61年3月16日


[参考]東急デハ3307+3306+3308 旗の台/昭和47年12月17日

クハ3660形は2両在籍し、名義上は昭和22年に元京浜急行の木製車クハ5213、5222を更新したことになっているが、実際には車体新製車である。(台車は中古品)借入直前は田園都市線で使用されていた。昭和58年10月老朽化のため廃車となり、次に述べるクハ3772と交替した。

 
上田原/昭和60年1月15

クハ3770形は戦災で焼失した国電を購入して自社で復旧した車両で、クハ3772の前身はクハ65147とされている。昭和36年東横車輛で全金製の新製車体と乗せ換えた。昭和58年10月クハ3661の代替として入線したが、1500Vに昇圧のため僅か3年で廃車になった。

 
上田原/昭和60年1月15

②クハ291、クハ292
昭和58年10月東急5000系の中間車サハ5358(昭和31年/東急車両製)、サハ5371(昭和33年/東急車両製)の上田寄りに運転台を取り付け入線した。前述のクハ3772同様僅か3年で廃車になった。

 


上 クハ291  中 クハ291別所温泉側  下クハ291/昭和60年1月15日


【12660】芭石鉄道 2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part15 蜜蜂岩からの帰路

第13日目 3月6日
①蜜蜂岩11:31(芭石鉄道)→12:02石渓
②石渓站13:13(Taxi)→14:40楽山肖埧站
③楽山肖埧站15:10(バス)→17:22成都旅游客运中心
④華西埧17:48(成都地铁)→18:00鉄路北站


今日は、今回の芭石鉄道訪問最終日です。昼前の第2次で蜜蜂岩を去りますので遠くへはいけません。昨夜お会いした日本人の方は朝1番の列車で芭沟に向かわれていましたので、最後の撮影は蜜蜂岩站に近い定番撮影地でオーストラリア人一行と一緒に撮ることにしました。

▲ 10:07、第2次が上がってきましたが、期待の煙は今一でした。

オーストラリア人一行の通訳兼案内人は今年1月三道嶺に別のイギリス人を案内した時のデジカメ画像を見せてくれましたが、我々が行った時とは比べようがないほど天山山脈がハッキリと見えて、煙も大迫力でした。三道嶺は1月10日前後がベストのようです。

見せていただいた画像は、いずれもすばらしい超一流の腕前です。普通の方ではないなと思い、
話をしていましたら彼のHPアドレスを教えてくださいました。帰国後に見ていましたら、やはり中国鉄路のプロ写真家でした。写真集も出しておられます。初めて中国人として一流の鉄道写真家に出会いました。
彼のHPです。ご覧ください。

http://www.hasea.com/jun-railjourney/intro.php


▲ 10:44、少し菜子埧方面に上がった場所も一緒に撮影です。3日連続の撮影地でしたので今日は少し場所を移動して撮りました。暖かくなってきたのか煙はほとんど出てくれません。これが最終撮影でした。

3泊4日間の短い滞在でしたが、2、3カット気に入る写真は撮れました。もう少し晴れてくれたら、菜の花が満開だったなら、煙がもっとでてくれたらとの後悔はありましたが、それでも上手い人は状況を生かした写真を撮られます。自分の感性不足を嘆くべきでしょう。
陳さんと記念写真を撮って、また来年も来ますのでよろしくと滞在中のお礼を言って山里を後にしました。


▲ 山里を下る列車は、週末を実家で過ごした中高校生たちと一緒でした。家族と離れて集団生活の競争の中に戻る、彼ら彼女たちはどんな気持ちで車窓を見ているのでしょうか。


12:02、石渓駅到着。ホームはオープンカフェ状態です。
迎えのTaxi運転手との待ち合わせには十分な時間がありますので、食事をとろうとしていましたら、日本人O氏と出会いました。一緒に食事をとりながら聞きますと、O氏も同年齢で同じく定年延長はしなかったリタイア組で話が弾みました。W大鉄道研究会のOBとして前々回コメント欄でご紹介しましたのはこの方です。

迎えのTaxi運転手が探しに来てくれましたので、これから芭石鉄道を訪ねられるO氏とは今後ともよろしくと連絡をお約束して、ここでお別れしました。

楽山肖埧站まではゆっくりでいいからと、助手席に座って運転手の沿線ガイドを聞きながら(半分も中国語が分かりませんでしたが・・)、ゆっくりの約1時間半でした。


▲ 楽山の肖埧站。最近のバスターミナルはどこも同じような天井が高い体育館のような設計です。調兵山だといっても写真から見ると判別つきません。

バスは高速道路を快調に走り成都市内に近づきましたが、料金所前で大渋滞です。成都のバスターミナルには2時間以上もかかっての到着でした。地铁駅へはゆっくり街を見ながら徒歩で向かいました。駅は往路とは違って1つ先の駅を選びましたが少し近かったかなと思う距離でした。

18:00、無事に成都駅に到着しました。預けてあったスーツケースを取ってから汉都大酒店にチェックインしました。勿論、部屋は列車が見える1303号室をお願いしました。
まずは4日ぶりのお風呂です。蜜蜂岩站の民宿はそれなりに良いのですが、バスタブがないのと食事のバリエーションがないのが欠点です。3泊4日夕食を含めると185.5元(約2420円)の支払いは驚くべき安さですが、もう少し高くともグレードを上げて欲しいと願うのは私だけではありません。陳さん頑張って欲しいです。


夕食後に上海虹桥までの切符を買いに行きましたが、4日前に来た時とは違って窓口に並ぶ客はガラガラ、切符の残席は279席とこれもガラガラでした。


【12645】芭石鉄道 2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part14 菜子埧~躍進

第12日目 3月5日
①蜜蜂岩6:47(芭石鉄道)→7:07菜子埧
②菜子埧站(徒歩)→12:30蜜蜂岩站
③蜜蜂岩站(徒歩)→14:50躍進站
④躍進17:56(芭石鉄道)→18:12蜜蜂岩

昨日は芭沟~蜜蜂岩間を行ったりきたり、ふかん撮影のための山登りも含めると約20キロは歩きましたので、足の不安は消えました。今日もしっかりと歩こうと1番列車で芭沟を目指しましたが、車窓から見る天候は昨日以上の霧です。予定変更をせざるをえないと判断して菜子で降りることにしましたが、降りてすぐに石につまずいて転んでひざ下を強打してしまいました。

これはえらいことになったと緊急用の湿布をしてサポーターを巻いてから、しばらく様子を診ることにしました。最近は老いてきたのかこういったアクシデントが多くなってきました。先日も長浜で一緒に撮影に同行させていただいた総本家さんにもご迷惑をおかけしました。そのために一人で動く時には常に緊急用品を持ち歩いていましたので役にたちました。
場合によっては民宿の陳さんに連絡して迎えの要請をしなければと覚悟しましたが、痛みが治まってきたので芭沟方向に歩くのは諦めて、民宿方向の撮影地としました。

▲ 7:49、芭石鉄道では3本指に入る撮影地ですが、今年は棚田に菜の花はありません。これからのためでしょうか棚田は区画整理されて菜の花は植えられていませんでした。それでも運転手はドレインのサービスは続けてくれました。来年は絶景が広がることを期待しました。

▲ 9:53、山間にドラフトを響かせて最初の4両編成の観光列車が上がってきました。

▲ 10:17、今回菜の花が線路の両側にそこそこ満開だったのはここだけでした。観光列車を追うように5両編成の第2次列車がS字カーブを駆け抜けてきました。車両の窓からはたくさんの顔が見え手が振られていました。

▲ 11:21、昨日夕方と同じ撮影地ですが、今日は白煙をたなびかせての2番目の観光列車の到来です。

▲ 11:53、ここには、耕運機はありません。牛と人が田畑を耕します。沿線のあちこちで見受けられる光景でした。

今日は朝飯抜きです。一旦民宿に引き上げると、同年輩の白人2名が来られていました。通訳兼案内人と一緒でオーストラリアから来た。今日から10日間撮影予定だと言われました。昨年はイギリス人親子でした。皆さん中々来ることができない辺境の地ですので、滞在撮影日数は長く取っておられます。これなら天気の良い日もあたります。また花も咲きます。ゆっくりと腰を落ち着けて撮れます。見習うべきと思いました。

但しこの民宿に泊まられるのかと思っていましたら、この民宿のシャワーとトイレは馴染めない。特にバスタブがないのは受け入れられない。下の犍為にあるホテルから毎日1番列車に乗って来て、最終で帰ると言われていました。日本人でも馴染めることができない民宿の設備です。我慢できないのは分かります。

一緒に昼食をとった後、痛めた足を再治療しました。まあ5キロは歩けたので、大丈夫そうです。彼らと反対方向に分かれて下の躍進まで歩き、帰りは最終列車で上がって帰る方が楽だなと思い歩き始めましたが、楽を選択すると良い事はありません。予定していた撮影地に着く前に列車はやってきました。今日にかぎって列車がことごとく早点(早着)します。これには参りました。ご紹介できる写真は1枚もありません。


代わりに元気な子供たちの笑顔を紹介します。躍進駅に向かって歩いていると子犬を抱いた少女たちに私達も写真を撮って欲しいと呼び止められて撮りました1枚です。疲れている時の子供たちの笑顔ほど嬉しいものはありません。元気がでました。


▲ 16:02、気を取り戻して躍進駅からの電化区間で撮影をしました。この凸型ELの在籍台数は調べていませんが3号機と表示されていますので3台はあるのかも・・・。製造は2000年6月です。


▲ 16:27、躍進で交換して下りてきた第3次。最長の7両編成です。ここでは、成都から車を運転して来たという現地鉄ちゃんと一緒に話しながら撮影をしました。


▲ 18:12、躍進駅からは予定通りの最終第4次で蜜蜂岩駅に戻りました。
今日も石炭ガラ集めが行われていましたが、今日は子供たちが寄宿舎から実家に戻った日です。いつもよりたくさんの住民が燃料を集めておられました。

いよいよ明日は芭石鉄道とお別れの日です。今回は日本人には会えなかったなあと思っていましたら、駐在先の大连から来られたという同年輩に近い方が民宿に来られていました。昨日仕事が終わってから飛行機で成都空港に着いたがホテルがなかった。仕方なく客引きのおばさんについていったが、連れていかれた先のホテルでは0時を回っていて部屋はないと言われた。交渉してロビーのソファーに1泊40元(約520円)で寝ましたと言われました。こんな猛者もおられるとびっくりしました。

この方、茨城県の大手H社からの2度目の駐在で、そうすぐ転勤帰国するので最後の中国撮影旅行ですと言われておられました。住いの地は今回地震で被災されておられます。帰国後に連絡をしましたが連絡取れません。無事におられるのか心配しております。


【12600】芭石鉄道 2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part13 芭沟~蜜蜂岩

第11日目 3月4日
①蜜蜂岩6
:45(芭石鉄道)→7:25芭沟
芭沟 7:10(徒歩)→19:00蜜蜂岩站



昨夜は9時過ぎにバタンキューで寝てしまいましたので、朝5時半には起き上がれました。今日は1番列車に乗って芭沟に行き蜜蜂岩まで徒歩での撮影予定です。幸いにして、足の状態も良くなってきました。しかり無理は禁物ですので、様子を見ながらとしました。


7:25、15分遅れの1番列車で芭沟に到着しました。途中、定番撮影地の菜子埧~仙人脚の臨時駅では、まだ夜明け前だというのにカメラを向けている中国人鉄ちゃん4名の姿を車窓から見ました。多分昨夜は芭沟に泊まって徒歩で来られたと推測できます。これほど熱心な中国人鉄ちゃんを見たのは初めてですが、今回は数多くの中国人鉄ちゃんと遭遇しました。ただし撮影マナーは全くなく、平気で以前から待っている撮影者の前に突然来てアングルをぶち壊してしまうのには困ったものです。

7:37、終点黄村井で折り返した第1次が戻ってきました。ここで1両を増結して観光車1両を含んだ6両編成で7:42石渓へと向かって行きました。一応時刻表はあります。7:25発なのですが、結構アバウトです。

▲ 芭沟に来たらいつもの青空市場にある庶民食堂で朝の定食、肉マンとお粥です。これで3元(約40円)です。市場は野菜や鶏肉?等が並んで活況でした。

▲ 8:42、C2-14号機(機関車・炭水車共)牽引の石炭列車が第2トンネルを抜けてきました。この日の天気は終日、成都盆地特有の霧があって、天候には恵まれませんでした。

足の調子も良くなってきましたので第2トンネルを抜けて、焦埧~仙人脚間の大築堤へと歩きましたが、昨年は雑草に樹木が生い茂っていた撮影地は綺麗に刈り取られてすっきりと整備されています。しかし、バックの棚田の菜の花は霞で見えずガッカリですが、折角来たので折り返しの石炭列車を待ちました。

▲ 9:44、待った石炭列車がやってきましたが、これから煙を上げて上り坂を登っていくと思いきや途中で止まってしまいました。

▲ 運転手もお手上げです。発車する気配がないので行って見ますと、石炭が悪い、釜も悪いと言って圧力計を見せてくださいました。現在7気圧、13気圧に上げないと走行できないそうですが、当分かかると言います。この貨物列車、本来は蜜蜂岩站で定期の第2次と交換するはずですが止まっていてはできません。一足先に次の仙人脚駅まで行くことにしました。


▲ 10:20、石炭列車が仙人脚に到着。構内売店のお姉さんから差し入れが届きました。私もご相伴にあずかりましたが竹の葉に包んだお餅でした。この駅で列車交換することになったと言われたので、石渓方面に歩いて到着を待ちました。

▲ 10:54、第2次列車の到着。交換を終えた石炭列車が爆煙を吹き上げて発車しました。蒸気圧も十分上がったようです。

▲ 11:36、金曜日ですが土日に運転される3両の臨時観光列車が突然に上ってきました。右は11:46、仙人脚で交換した25分遅れの定期の第2次列車です。

▲ 14:44、山里にも桜でしょか、所々で咲いています。観光列車が下りてきました。

▲ 15:07、蜜蜂岩駅から終点の黄村井駅まで学校は、小学校1校だけが菜子埧駅近くにあるだけです。登校への10キロもの長い道のりは、芭石鉄道を利用します。C2が牽引する列車
が到着すると、子供たちは歓声をあげて乗り込んでいきました。第3次は子供たちが乗るスクール列車です。


▲ 16:07、欧米ファンが好む撮影地の第5トンネル前の岩壁付近も綺麗に整備されていました。
右、16:20、蜜蜂岩站に向かって降りていると、また2両の臨時観光列車が突然現れました。

▲  18:28、。最終の第4次列車も遅れて、夕闇が近づいてきた頃の上がってきました。

今日は一日中どんよりとした天候が続き、また煙も上がらずで期待した走行写真は撮れませんでした。民宿に帰ると陳さんの子供たち2人も週末で帰ってきていました。上のお姉ちゃんは、楽山近く羅城にある学校の寄宿舎住いで毎日7:00~10:10まで授業があるそうです。滞在中はお父さんの仕事を手伝っていましたが、ちょっと手が空くと教科書を広げて一生懸命に勉強していました。

19:40、暗闇の中、最終第4次が石渓へと下っていきました。後には、C2が残した石炭ガラがまだ赤々と燃えていました。


【12628】阪和モタ303

震災の影響でしばらく休載でしたが、再開されたようです。

さて、このモタ303、文中の「京阪電鉄スタッフが開発に関与した」とあるのはどういうことでしょうか?また、「アイスキャンデー塗装」とはなんでしょうか?京阪が阪和電鉄と関係があったのでしょうか?アイスキャンデー塗装というのは、文脈から想像するに窓部分を挟んで上下が同じ色のツートンカラーということでしょうが、こんな表現があったのでしょうか?

今回は、疑問がいくつも浮かんだ電車でした。長老の皆様、河様、ご教示ください。


【12605】ユースで巡った鉄道旅 -7-

蒸機の牙城、筑豊に泊まる

鉄道旅でユースホステルに泊まることのメリットとして、撮影地近くに立地するユースの多いことが挙げられます。ホテルや旅館は人口の集積地や観光地が中心ですが、ユースは観光地とはおよそ無縁なところに立地している場合があり、それは鉄道撮影地近くと一致する場合がありました。
その代表例として、よく利用したのが飯塚市にある八木山(やきやま)ユースです。蒸機の牙城たる筑豊にあり、ここを基地にして、2日、3日と連泊して筑豊各地で撮影を続けたものです。私は累計8泊して、ユース宿泊回数としては最大を記録しています。
飯塚市に所在と言っても、ここは飯塚と福岡の中間、八木山峠の近くにあります。通常は、新飯塚で下車、遠賀川を渡って川向こうの飯塚バスセンターへ向かい、天神行きの西鉄バスに乗ります。飯塚市街を走り抜けると、九十九折の坂道となり、峠を越えたところにユースは所在しています。筑豊のイメージからはほど遠いような、緑豊かな地でした。
今でこそ、飯塚と福岡は、福北ゆたか線(篠栗線)が直結し、電車に乗れば40分余りですが、当時の篠栗線は吉塚から篠栗までの盲腸線、以降、筑豊本線桂川までは未開通、そのため博多へ行くには、バスに乗るか、さもなくば、鉄道なら原田周りの遠回りを強いられました。そのため、この区間のバスは、本数も多く結構な賑わいを見せていましたが、現在では、バイパスができて、峠越えの必要もなくなりました。現在、同ユースは、飯塚八木山高原ユースホステルと改称して盛業中のようです。

ユース最寄駅の新飯塚は、明治35年に貨物専用の芳雄駅として開業、昭和10年に旅客駅となり、「新飯塚」と改称された。本家の飯塚よりも、市の中心市街地に近く、以前から飯塚よりも乗降客が多い。当時の駅舎は、車寄せを持ったいかついスタイルで、北九州によく見られたドイツスタイルを継承している。一昨年だったか、久しぶりに新飯塚駅に降り立った。駅舎は橋上駅になり新しくなったものの、駅前の閑散さは目を覆うばかりであった。

日曜日の朝、北九州方面へ向かう多くの乗客が待ち受ける新飯塚駅に、C55の牽く上り列車が滑り込む。鉄道にまつわる情景は、当時とは変わってしまったが、地方路線での旅客の多さ、これだけは今では全く見られなくなった光景だ。左に停車しているのは、急行「天草」。博多経由ではなく、筑豊本線を経由して熊本へ向かう。ロネ、ロザを連結した、典型的な夜行急行列車であった。

ユースに泊まると必ず行ったのが、筑豊本線筑前内野-筑前山家間の冷水峠だった。冷水トンネルをサミットに両側に25‰勾配が続く。旅客はC55の単機、貨物はD60重連が標準。D50、D51も走る。鹿児島本線のバイパス的な役割もあり、旅客、貨物ともそこそこの本数があった。優等列車も、前述のように客車急行、DC急行、それにDC特急までもが走っていた区間だった。