長野電鉄から転入した上田交通の車両


千曲川の鉄橋を渡るモハ5261  上田~城下/昭和61年3月16日

tsurukame先輩が書き込みされた【12122】「雪景色・番外 長野電鉄2000、600形」の関連で長野電鉄から転入した上田交通の車両について紹介したい。撮影できなかった車両(モハ612→モハ5271)の写真は、犬伏孝司氏よりご提供いただいた。

 長野電鉄は、昭和56年3月1日長野~本郷間の地下化に伴い、不燃化基準により地下乗入が不可能な車両は、河東線(屋代~須坂)で使用する車両を除き、順次廃車となった。その中で、モハ102、モハ201、モハ604、モハ611、モハ612の5両は、上田交通に譲渡され、部品取りとなったモハ611以外の4両が別所線で再起した。
当時、別所線ではラッシュ時にモハにクハまたはサハを増結していたが、サハの場合は運転台が無いため、終着駅ではモハを先頭に付け替える必要があり、機回し線がある上田はともかく、別所温泉は留置線を利用して複雑な入換作業が必要であった。この4両の増備によりサハとクハの一部が廃車となり、これらの作業が不要となった。昭和61年10月1日の1500Ⅴ昇圧により廃車となったが、モハ604→クハ271は長野電鉄に里帰りして、モハ604に復元の上、小布施駅構内の「長電電車の広場」で保存されている。
旧番対照は下記の通りである。(左/長野電鉄・右/上田交通)
モハ102→クハ261・モハ201→モハ5261・モハ612→モハ5271・モハ604→クハ271

【車両の概要】
クハ261(旧長野電鉄モハ102
)
大正15年6月汽車会社で須坂~権堂間の開業に備えて作られた車両で、モハ101、102の2両在籍した。半鋼製車初期の製品で台枠にトラス棒が付いている。昭和53年9月に廃車となりモハ102のみ上田交通に譲渡されたが暫く手が付けられず、昭和55年3月になって電装解除の上、両運のクハとなった。


上田原/昭和61年3月16日

モハ5261(旧長野電鉄モハ201)
昭和8年4月汽車会社製で長野電鉄では1形式1両であった。前述のクハ261とはよく似たスタイルであるが、台枠にトラス棒が無い、リベットが少ない、扉間の窓の並びが均等の違いが見られる。長野電鉄の廃車時期はクハ261と同じであるが、こちらは直ぐに整備され、昭和53年12月に竣工した。

 
上田/昭和61年3月16日

 
上田/昭和61年8月24日(モハ5261+クハ291の2連)

モハ5271(旧長野電鉄モハ612←モハ602)
クハ271 (旧長野電鉄モハ604
)
昭和2年川崎造船所製の全鋼製車でモハ601~604の4両作られた。阪急600形、西武151形とは同形である。昭和41年に601と602のパンタ側(長野向き)の運転台の拡張工事が実施され、乗務員室扉の設置、客室扉の移設が行われた。昭和55年に4両共廃車となり、モハ603を除く3両が上田交通に譲渡された。
モハ612は昭和56年8月にモハ5271として竣工、モハ604は昭和58年7月になって電装解除の上クハ271として竣工した。モハ611は改造されることなく部品取りとして長電時代の塗装のままで上田原検車区に留置されていた。

 


モハ5271 上田/昭和58年7月8日 犬伏氏撮影
(上田側は原形、別所温泉側は長野電鉄時代に改造)

 
クハ271 上田/昭和61年3月16日

 


モハ611 上田原/上 昭和60年1月15日 下/昭和61年3月16日
(モハ611は改造されずに部品取り車になっていた)

【元東急の車両】
元長野電鉄の車両と前後して東急から譲渡された車両についても触れておきたい。

①デハ3310・クハ3661・クハ3772
昭和50年12月朝ラッシュ時の輸送力増強のために東急からデハ3310+クハ3661を借入れ、昭和54年4月正式に譲り受けた。

東急デハ3300形は目蒲電鉄から引継いだ車両で、元鉄道省の木製車を昭和11年から15年にかけて川崎車輛で鋼体化したもので、当初3301~3311の11両在籍していたが3302と3303の2両は戦災に会い9両が残った。晩年は3両×3本が池上線で使用されていた。
上田交通では平日朝ラッシュ時に上田原→中塩田→上田→上田原の限定運用で使用していたが、正式譲受け後連結面にも運転台を設置して単行で使用可能なように改造したが、使用実績は極めて少なかった。

 
上田原/昭和61年3月16日


[参考]東急デハ3307+3306+3308 旗の台/昭和47年12月17日

クハ3660形は2両在籍し、名義上は昭和22年に元京浜急行の木製車クハ5213、5222を更新したことになっているが、実際には車体新製車である。(台車は中古品)借入直前は田園都市線で使用されていた。昭和58年10月老朽化のため廃車となり、次に述べるクハ3772と交替した。

 
上田原/昭和60年1月15

クハ3770形は戦災で焼失した国電を購入して自社で復旧した車両で、クハ3772の前身はクハ65147とされている。昭和36年東横車輛で全金製の新製車体と乗せ換えた。昭和58年10月クハ3661の代替として入線したが、1500Vに昇圧のため僅か3年で廃車になった。

 
上田原/昭和60年1月15

②クハ291、クハ292
昭和58年10月東急5000系の中間車サハ5358(昭和31年/東急車両製)、サハ5371(昭和33年/東急車両製)の上田寄りに運転台を取り付け入線した。前述のクハ3772同様僅か3年で廃車になった。

 


上 クハ291  中 クハ291別所温泉側  下クハ291/昭和60年1月15日

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part15 芭石鉄道 蜜蜂岩からの帰路

第13日目 3月6日

①蜜蜂岩11:31(芭石鉄道)→12:02石渓
②石渓站13:13(Taxi)→14:40楽山肖埧站
③楽山肖埧站15:10(バス)→17:22成都旅游客运中心
④華西埧17:48(成都地铁)→18:00鉄路北站


今日は、今回の芭石鉄道訪問最終日です。昼前の第2次で蜜蜂岩を去りますので遠くへはいけません。昨夜お会いした日本人の方は朝1番の列車で芭沟に向かわれていましたので、最後の撮影は蜜蜂岩站に近い定番撮影地でオーストラリア人一行と一緒に撮ることにしました。
▲ 10:07、第2次が上がってきましたが、期待の煙は今一でした。
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part14 芭石鉄道 菜子埧~躍進

第12日目 3月5日

①蜜蜂岩6:47(芭石鉄道)→7:07菜子埧
②菜子埧站(徒歩)→12:30蜜蜂岩站
③蜜蜂岩站(徒歩)→14:50躍進站
④躍進17:56(芭石鉄道)→18:12蜜蜂岩

昨日は芭沟~蜜蜂岩間を行ったりきたり、ふかん撮影のための山登りも含めると約20キロは歩きましたので、足の不安は消えました。今日もしっかりと歩こうと1番列車で芭沟を目指しましたが、車窓から見る天候は昨日以上の霧です。予定変更をせざるをえないと判断して菜子で降りることにしましたが、降りてすぐに石につまずいて転んでひざ下を強打してしまいました。

これはえらいことになったと緊急用の湿布をしてサポーターを巻いてから、しばらく様子を診ることにしました。最近は老いてきたのかこういったアクシデントが多くなってきました。先日も長浜で一緒に撮影に同行させていただいた総本家さんにもご迷惑をおかけしました。そのために一人で動く時には常に緊急用品を持ち歩いていましたので役にたちました。
場合によっては民宿の陳さんに連絡して迎えの要請をしなければと覚悟しましたが、痛みが治まってきたので芭沟方向に歩くのは諦めて、民宿方向の撮影地としました。

▲ 7:49、芭石鉄道では3本指に入る撮影地ですが、今年は棚田に菜の花はありません。これからのためでしょうか棚田は区画整理されて菜の花は植えられていませんでした。それでも運転手はドレインのサービスは続けてくれました。来年は絶景が広がることを期待しました。
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part13 芭石鉄道 芭沟~蜜蜂岩

第11日目 3月4日

①蜜蜂岩6
:45(芭石鉄道)→7:25芭沟
②芭沟站 7:10(徒歩)→19:00蜜蜂岩站



昨夜は9時過ぎにバタンキューで寝てしまいましたので、朝5時半には起き上がれました。今日は1番列車に乗って芭沟に行き蜜蜂岩まで徒歩での撮影予定です。幸いにして、足の状態も良くなってきました。しかり無理は禁物ですので、様子を見ながらとしました。
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阪和モタ303

震災の影響でしばらく休載でしたが、再開されたようです。

さて、このモタ303、文中の「京阪電鉄スタッフが開発に関与した」とあるのはどういうことでしょうか?また、「アイスキャンデー塗装」とはなんでしょうか?京阪が阪和電鉄と関係があったのでしょうか?アイスキャンデー塗装というのは、文脈から想像するに窓部分を挟んで上下が同じ色のツートンカラーということでしょうが、こんな表現があったのでしょうか?

今回は、疑問がいくつも浮かんだ電車でした。長老の皆様、河様、ご教示ください。

ユースで巡った鉄道旅 -7-

蒸機の牙城、筑豊に泊まる

鉄道旅でユースホステルに泊まることのメリットとして、撮影地近くに立地するユースの多いことが挙げられます。ホテルや旅館は人口の集積地や観光地が中心ですが、ユースは観光地とはおよそ無縁なところに立地している場合があり、それは鉄道撮影地近くと一致する場合がありました。
その代表例として、よく利用したのが飯塚市にある八木山(やきやま)ユースです。蒸機の牙城たる筑豊にあり、ここを基地にして、2日、3日と連泊して筑豊各地で撮影を続けたものです。私は累計8泊して、ユース宿泊回数としては最大を記録しています。
飯塚市に所在と言っても、ここは飯塚と福岡の中間、八木山峠の近くにあります。通常は、新飯塚で下車、遠賀川を渡って川向こうの飯塚バスセンターへ向かい、天神行きの西鉄バスに乗ります。飯塚市街を走り抜けると、九十九折の坂道となり、峠を越えたところにユースは所在しています。筑豊のイメージからはほど遠いような、緑豊かな地でした。
今でこそ、飯塚と福岡は、福北ゆたか線(篠栗線)が直結し、電車に乗れば40分余りですが、当時の篠栗線は吉塚から篠栗までの盲腸線、以降、筑豊本線桂川までは未開通、そのため博多へ行くには、バスに乗るか、さもなくば、鉄道なら原田周りの遠回りを強いられました。そのため、この区間のバスは、本数も多く結構な賑わいを見せていましたが、現在では、バイパスができて、峠越えの必要もなくなりました。現在、同ユースは、飯塚八木山高原ユースホステルと改称して盛業中のようです。

ユース最寄駅の新飯塚は、明治35年に貨物専用の芳雄駅として開業、昭和10年に旅客駅となり、「新飯塚」と改称された。本家の飯塚よりも、市の中心市街地に近く、以前から飯塚よりも乗降客が多い。当時の駅舎は、車寄せを持ったいかついスタイルで、北九州によく見られたドイツスタイルを継承している。一昨年だったか、久しぶりに新飯塚駅に降り立った。駅舎は橋上駅になり新しくなったものの、駅前の閑散さは目を覆うばかりであった。

日曜日の朝、北九州方面へ向かう多くの乗客が待ち受ける新飯塚駅に、C55の牽く上り列車が滑り込む。鉄道にまつわる情景は、当時とは変わってしまったが、地方路線での旅客の多さ、これだけは今では全く見られなくなった光景だ。左に停車しているのは、急行「天草」。博多経由ではなく、筑豊本線を経由して熊本へ向かう。ロネ、ロザを連結した、典型的な夜行急行列車であった。

ユースに泊まると必ず行ったのが、筑豊本線筑前内野-筑前山家間の冷水峠だった。冷水トンネルをサミットに両側に25‰勾配が続く。旅客はC55の単機、貨物はD60重連が標準。D50、D51も走る。鹿児島本線のバイパス的な役割もあり、旅客、貨物ともそこそこの本数があった。優等列車も、前述のように客車急行、DC急行、それにDC特急までもが走っていた区間だった。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part12 芭石鉄道 蜜蜂岩站へ

第10日目 3月3日

①鉄路北駅9:35(成都地铁)→錦江賓館(Taxi)→成都旅游客运中心駅
②成都旅游客运中心 10:30(バス)→12:22楽山肖埧站
③楽山肖埧站12:35(Taxi)→13:42芭石鉄道石渓駅
④石渓14:00(芭石鉄道)→15:06蜜蜂岩

7:30、昨夜はお風呂にゆったりつかってからベットに入りましたので、さわやかな朝を迎えられました。
▲ 朝霞の中に太陽が昇って来ました。CRH1の16両編成が白蛇のごとく発車していきます。
▲ 朝の成都駅。成都地铁の車内では新聞を読んでいる乗客がたくさんいます。今まで中国で全地铁には乗車していますが上海地铁ぐらいしかこのような光景を見ることはありませんでした。地铁駅では、自動販売機・ATMも設置されています。

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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part11 芭石鉄道行き決定

第9日目 3月2日

①乌鲁木齐13:34(K454次)→15:04成都
②鉄路北駅18:56(成都地铁)→19:08 錦江賓館

成都旅游客运中心駅(Taxi)→19:52汉都大酒店

49時間30分の乗り鉄旅を終えて15:04成都駅に降り立ちました。これから先はホテル予約はしていません。列車の切符もありません。切符が取れればすぐに昆明こ向かうか、あるいは芭石鉄道へと向かうかの選択肢がありましたが、その前に体調維持が優先されます。今日は成都で宿泊して休養を取ったほうが良いと判断しました。
準特急先輩がおられたらどうするのかと不安がられるでしょうが、成都は3回目の訪問で若干ですが土地勘はあります。以前に使ったことのある旅行社に頼むこともできますし、最悪の場合は前回宿泊したバックパッカー向けの日本人経営の「Sim’s Cozy Guesthouse」に飛び込みもできるかと楽観的に考えていました。


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JR貨物、不屈の鉄道魂 壁乗り越え被災地へ燃料

我らの仲間が復旧に善戦しているJR貨物、今日のネットニュース、ビジネス1に出ていたので転載します。末尾の記者さんの署名記事です。JR貨物、がんばれ!S君、がんばれ!

(以下転載)

 被災地の燃料不足が深刻化する中、ガソリンと軽油を積み込んだ「石油列車」が19日夜、盛岡貨物ターミナル駅(盛岡市)に滑り込んだ。震災後初めてとなる列車による燃料の大量輸送。輸送を担ったJR貨物には、被災によるルート変更、迅速なタンク貨車の手配などさまざまな課題がのしかかった。

◆正規ルートは壊滅

 新宿駅近くにあるJR貨物本社。1カ月前に移転したばかりの真新しいオフィスは、震災以来、沈痛な空気に包まれていた。首都圏と東北を結ぶ東北線、迂回路(うかいろ)の常磐線が深刻なダメージを受け、東日本がほぼ機能不全の状態に陥っていたのだ。

 テレビに映る被災地の惨状に社員は声を失った。さらにガソリンスタンドは長蛇の列、ストーブの燃料もない避難所には雪が積もっていた。燃料を早期に大量輸送できるルートが求められているのは明らかだった。

 14日夕、4階の会議室に各部署の主要メンバー30人が集まった。狭い室内に沈黙が続く中、誰かが声を上げた。「石油を運ぶぞ。日本海側から」。応じる声がすぐに上がった。社員の“鉄道魂”に火がついた瞬間だった。

 ◆「思いは同じだ」

 盛岡貨物ターミナル駅には、タンク貨車からタンクローリーに石油を移す施設がある。かろうじて“生きている”日本海側の線路を使い盛岡まで運ぶ。そこからタンクローリーで、被害の少ない内陸部の道路を南下、東に方向転換し、ピンポイントで最大の被災地、三陸沿岸集落に輸送する案が持ち上がった。

 昼夜を問わずに断続的に開かれた対策会議で、いくつもの課題が浮き彫りになった。運行管理の担当者は「日本海ルートで石油を運んだ実績がない」と天を仰いだ。

 重いタンク貨車に、レールや橋脚が耐えられないかもしれない。技術担当者がすぐに線路の管理者であるJR東日本に電話を入れた。「タンク貨車が通れるか、至急シミュレーションしてほしい」

 こうした試算は通常、長期間かかるが、JR東から返事が来たのは翌日だった。「大丈夫だ。いける」。答えを聞いたJR貨物の担当者はJR東の迅速な対応に「輸送にかける思いは同じだ」と胸が熱くなった。

 ■発送前倒し 応えたJX

 次は積み荷の手配だ。15日、営業担当者は、恐る恐る連絡を入れた。相手は元売り最大手のJX日鉱日石エネルギー。どの元売りも製油所が停止するなど、大打撃を受けていた。「輸送できます。いつから(石油を)出せますか」。相手は待っていたかのように応えた。「19日に出せる」

 その夜のJR貨物の会議で、ある幹部が思わぬことを口にした。「18日に出せないか」。その場に居合わせたある営業担当の男性社員は「政府の意向だ」と感じ取った。JXもあらゆる手を打ち、18日に間に合わせた。

 横浜市の根岸製油所で燃料を積み、丸1日かけて盛岡に運ぶ。青写真はできた。しかし、技術担当者は「できるだけ軽いタンク貨車を使うべきだ」と主張した。線路の耐性への疑念が消えなかったのだ。

 コンテナリース会社、日本石油輸送には40年以上前から使われ、退役間近のタンク貨車「タキ38000型」が36両残っていた。積載量は少ないが、一番軽い。「できるだけかき集めてほしい」。JR貨物の要請で、17日までに18両が集まった。

 18日午後7時44分、電気機関車「EF210型」に牽引(けんいん)され、ガソリン、軽油合計792キロリットル、タンクローリー40台分を積んだタンク貨車18両が、根岸駅を出発した。列車には8人のベテラン乗務員が交代で乗り込んだ。「乗務員は担当区間では踏切や信号はもとより、レールの状況も正確に記憶している」(同社広報)。不測の事態に備え、短い距離で運転を代わる万全の体制を敷いた。

 タンク貨車が盛岡駅に到着したのは19日午後10時過ぎ。待ちわびた多くのタンクローリーに石油が次々に充填(じゅうてん)され被災地へ向け走り出す。バトンは確かに引き継がれた。21日からは1日2便に増便しており、25日からは根岸→郡山(福島県郡山市)への輸送も始める。

 収益悪化や設備の老朽化などをたびたび指摘されてきたJR貨物だが、日本の非常時に鉄道輸送の存在感を見せつけている。(高山豊司)(以上、転載終わり)

JR西で運行削減?

新聞報道によると、今般の大震災の影響でJRーWでも列車運行本数を5~30%削減すると言うことです。

節電か?と思いきや、なんとモーターのブラシが不足だとか!記事によるとなんでも直流モーターのブラシを作っているのが浪江にある日立化成の工場で、原発に近く被害も大きいため製造が中断しているそうです。でも、これほどの大量の電車を運休にしなければならないほど消耗するものでしょうか?

カツミや天賞堂のモーターに詳しいぷるぷるさん、説明をお願いします。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part10 49時間30分乗り鉄旅 K454乗車 

第8・9日目 3月1・2日
①乌鲁木齐13:34(K454)→15:04成都

翌朝起きて車窓を見ると、K454次はまだ赤土の広がるシルクロードの世界を走行中です。やがて列車は甘粛省地級市の「武威」に到着しました。

【客車列車の種類】 中国鉄路を走行する客車列車には、

Z列車=直達特快;最高速度160km/h対応の最新寝台車両を多くしてサービスを充実し、大都市間を途中停車を少なくして最短時間で結びます。軟座寝台のみといった編成も12本あり、全部で48本が運行されています。今回、北京西→兰州で利用しました。

T列車=特快;全土の大都市~地方都市漢をを結びます。寝台の他に硬座車(2等指定席車)も連結しています。272本が運行されています。今回、兰州→哈密間で利用しました。

K列車=快速;T列車よりも途中停車が多く、区間乗客も利用します。1080本が運行されています。今回、哈密→乌鲁木齐で利用しました。そして現在乗車中の列車です。

Y列車=旅游列車;以前は結構ありましたが、現在は、北京北~延庆に8本が運行されるのみです。北京から万里の長城に行く際に利用されています。

 

その他は普通車ですが、少し早い列車は普通快車(直訳すれば普通急行、車次1001~5816)と遅い列車は普通慢車(直訳は普通鈍行=6001~7582) に分けられています。

⑥また春節には、多くの臨時列車が運行されています。時刻表に掲載されていない短い区間列車、通勤列車もあります。
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part9 乌鲁木齐から成都へ一人旅の始まり K454乗車

第7日目 2月28日

①美麗華酒店12:00(Taxi)→12:18乌鲁木齐駅
②乌鲁木齐13:34(K454)→15:00成都(車中2泊)

準特急先輩と朝食後、先輩は予約しておいたTaxiで空港に向かわれました。北京空港でのCZからCAへの乗継時間は、3時間20分ありますが到着と出発ターミナルが違っていて初めての方には移動時間は十分とはいえません。もし国内線が多発する霧等の天候で遅れないか心配されておられましたが、予測は不可能です。何かあっても準特急先輩は英語が堪能ですので対応は可能かと、祈ってお送りました。

さて、これからはいつもの一人旅ですが、今まで皆様方とのワイワイ楽しい旅でしたので、寂しさと不安が噴き出してきました。 こんな時は慌ててはいけません。部屋の戻ってゆっくりと荷物を整理して、十分な時間をもって乌鲁木齐駅にTaxiで向かいました。

12:18、乌鲁木齐駅。駅前広場には氷のモニュメントが設置されています。

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さようなら 都電7500形

この度の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。鉄道はじめ公共交通機関の一日も早い復旧と被災地の復興を祈念し、投稿を再開させていただきます。

都電荒川線で最後まで残っていた7511と7512の2両が3月13日を最後に営業運転を休止し、当日はお別れ式が実施される予定になっていた。

最終日2日前の3月11日(金曜日)、撮り納めと乗り納めをしようと思い、フレックスで10時出社にした。いつもの時間(6時40分)に家を出て町屋で都電に乗換え荒川車庫前で下車。三ノ輪橋方面行が順光になるが、この時間帯は正面に電柱の影が写ってしまうが贅沢は言っておられない。ラッシュのピークのため電車は3~4分間隔で次々に来るので効率がよい。町屋駅前行で来た7511を撮影したところで、横の道路から車庫内を覗くと、廃車済みの7520に「さよなら」のヘッドマークが取り付けられているのが見えた。恐らく13日のお別れ式に7511、7512と共に展示されるのであろう。三ノ輪橋行で来た7512を撮影後、町屋駅前で折り返してきた7511が大塚駅前行で来たので乗車、飛鳥山で降りて折り返してくるのを待とうとも思ったが、乗り納めで大塚駅前まで乗車して、荒川車庫前行で折り返して行くところを撮影した。次の電車で新庚申塚まで戻り、徒歩連絡の都営地下鉄三田線西巣鴨駅から芝公園駅近くの勤務先に向かい、予定通り10時に到着した。7511、7512の撮影、7511の乗り納めと予定通りの結果であったが、何か寂しいものがあり、あわよくばもう一度乗ってみたいと思った。 

いつも通り慌しく仕事を進めているうちに、14時46分やや大きな横揺れを感じた。揺れはどんどん大きくなり、立っていられない状態になり、マジでヤバイと思った。揺れが収まり、テレビをつけてみると東北地方を震源地とする大地震が発生し、東京は震度5強とのことであった。自宅に電話をするが繋がらない。やっと繋がったと思ったら誰も電話に出ない。暫く経って再度電話をすると、嫁さんと子供は亀有の大手スーパーに併設されている映画館で鑑賞中に地震に遭遇し、余震が続く中を2時間かけて歩いて帰ってきたとのこと。自宅は建物の損傷はないが、家の中は書棚が転倒し、棚や箪笥の上のものは全部落下、食器棚の中のガラス製品が多数破損している。はよ帰ってアンタの本を片付けてちょうだいとのこと。鉄道の運転再開まで時間がかかるので、約20キロの道程を歩いて帰ろうと思い、外に出たところで「ビル管」から津波警報が出たので3階以上に避難したほしい。また警報が解除になっても余震が収まるまで外には出ないで欲しいと言われ、仕方なく4階の事務所に逆戻り。事務所から海岸までは500m程である。

16時30分頃都電と都バスの運転再開が伝えられた。都バスが動けば、さほど遠くない新橋まで歩き、業平橋行に乗り途中の言問橋で金町行に乗り換えれば帰ることができる。暫くすると都バスで帰ろうとして事務所を出た人が戻ってきた。ひどい渋滞と長蛇の行列を見て諦めたとのこと。事務所前の渋谷行のバスも渋滞のため全然動かない。この時点で都バスルートは諦めた。招集がかかり、大阪の本社からの指示で食料を確保せよとのことであった。事務所周辺のコンビニは既に売り切れとの情報で、少し離れた住宅街に行くと、パン、おにぎり類はすべて売り切れ。辛うじて残っていた弁当、カップ麺を必要数購入した。21時を過ぎた頃が都営地下鉄、東京メトロを中心に運転再開のニュースが入り、半数以上の人が帰宅したが、混雑のため電車に乗れず事務所に逆戻りした人、超満員の電車で行けるところまで行き、深夜の道を歩いて帰った人、途中で帰宅難民になった人等まともに帰れた人は殆どいなかった。余震の度にロッカー類が揺れる音と、携帯電話のエリアメールの音で眠れなかったが、暖房が効き食料が充分にあるのは有難かった。

 

翌12日、ニュースではJR各線は7時頃から、山手線は8時頃から運転再開と報じていた。都営地下鉄は昨夜の段階でほぼ全線で運転再開、私に関係する東京メトロ千代田線は代々木上原~霞が関間のみ開通していた。9時30分に事務所を出て混雑を避けるため都営三田線芝公園駅から昨日の逆ルートで帰ることにした。三田線は昨夜のうちに開通しているので乗客はさほど多くなくほぼ平常通り運転されていた。都電荒川線は山手線の高田馬場~巣鴨間の代替交通機関として超満員であったが、5~6分間隔でほぼ平常通り運転されていたが、「町屋駅前~大塚駅前間の区間運用」(土休日に三ノ輪橋~早稲田間の通し運用2~3本間に運転される)の運休と明日の「7500形さよならイベントは中止となり、グッズのみ販売」とのアナウンスがあった。ちなみに山手線外回りが運転再開したのはこの日の午後であった。この時点では、千代田線は代々木上原~霞ヶ関間の折り返し運転のため飛鳥山で途中下車して撮影しながら時間調整することにした。大地震の翌日にもかかわらず何人かの撮影者がいたのには驚いたが、自身も同類のため人のことは言えない。撮影していた人に7500形の運行状況を聞いたところ、間もなく7511が貸切で来るとのこと。撮影後荒川車庫前に移動して戻りを待ったがここで入庫した。乗客は10人程で2家族の貸し切りであった。運行状況のアナウンスがあり、千代田線は綾瀬まで全線再開したとのことであった。町屋駅に到着すると、綾瀬駅混雑による運転見合わせのため京成への振替乗車が行われていた。普通八千代台行(6両編成)が直ぐ来たが成田空港から海外に行く人も結構乗っており超満員であった。高砂で乗り換えた金町行は通常15分間隔のところ1本間引きで30分間隔となっていたのとメトロからの振替乗車の乗客で満員で、金町に到着したのは13時であった。
当日の京成電鉄の運転状況は、本線上野~八千代台間と押上線がオール各駅停車で約20分間隔、金町線30分間隔、八千代台~成田空港間と千葉・千原台線は終日運休、北総鉄道は高砂~印西牧の原間、成田スカイアクセスは印西牧の原~成田空港間それぞれ約40分間隔で折返し運転され、東京~成田空港間の足は辛うじて確保されていた。

 


7511の貸切運行

 
イベント中止を告げるポスター

 
「都電おもいで広場」もお休み

 最終日の13日、イベントは中止されたが、この日のみ発売の「記念1日乗車券」を購入するため荒川車庫に行った。入口のところにヘッドマークが取り付けられた7520が綺麗な姿で停められていた。一方本日限りで引退する7511と7512は終日町屋駅前~大塚駅前間の運用に入り最後の雄姿を見せてくれた。13時過ぎ、一昨日乗り納めをした7511が来たので、町屋駅前まで本当に最後の乗り納めをした。そして7500形の昭和37年から半世紀に亘る活躍の歴史が静かに終了した。

当日イベントは中止になったが、この日のために美しく整備された7520を入口近くの撮影可能な位置に停車、7511、7512を大塚駅前~町屋駅前間を終日運行させて多くの人が乗車、撮影可能なように配慮された関係者の皆様に敬意を表したい。

 
この日のために整備された7520

 


最終日の表情(上/町屋駅前で折り返し 中/荒川車庫前発車 下/町屋駅前発車)

7511車内のポスター

 

在りし日の7500形
原形時代
昭和37年に7501~7510が日本車両、7511~7520が新潟鐵工所で新製され青山車庫に配置された。昭和43年9月青山車庫廃止により7501~7510が荒川車庫、7511~7520が柳島車庫に転属、昭和47年柳島車庫廃止により7517と7519が廃車になり、残り8両が荒川車庫に転属した。

 


昭和52年2月12日 荒川車庫前/事務所の建物は「都電おもいで広場」の位置にある。

ワンマン改造後
昭和52年10月からワンマン運転開始に伴い改造されることになった。(完全ワンマン化は昭和53年4月)7000形は車体を新製したが、ワンマン機器設置とホーム嵩上げによる車体改造に留まった。7509と7514は改造されずに廃車された。

 


上/昭和58年7月12日 下/同年6月18日 荒川車庫前

車体更新後
昭和59年から冷房装置搭載に伴い車体更新が実施され新製車体に乗替えられた。7502、7504、7508の3両は対象外となり、7502と7508は廃車、7504は朝のラッシュ時のみ使用されたが平成13年に廃車後「都電おもいで広場」で保存されている。集電装置は当初ビューゲルであったが、程なくパンタグラフに換装された。


ビューゲル時代の7503/昭和60年5月10日 荒川車庫前

思い出の風景

 
荒川2丁目~荒川区役所前/平成21年3月27日


王子駅前~飛鳥山/平成21年5月15日


飛鳥山/平成21年6月8日

荒川遊園地の送迎バス
沿線の荒川遊園地に7500形をモデルにして作られた送迎バスが存在した。こちらは一足早く姿を消したようである。


荒川遊園地/平成11年6月24日

北陸本線419系を送る

3月12日のJRダイヤ改正では、車両面の変動もありましたが、中でも印象的なのは、北陸本線で働いてきた419系電車の撤退です。
419系電車は、余剰となった交直両用の寝台・座席特急車両581・583系を、近郊化改造して登場したものです。改造コストを抑えるために、最小限の改造に留められ、寝台設備がそのまま残った室内や、特異な前面スタイルなど、国鉄末期の窮乏時代を象徴するような車両でした。画一化の進むJRにあって、唯一”ゲテモノ”と呼ぶにふさわしいスタイルです。ただ、乗ってみると、ゆったりした乗り心地や広々した座席に、特急時代の面影を十分に感じたもので、北陸へ行くと、好んで乗車したものでした。
419系は、金沢総合車両所に3両編成13本があり、敦賀以東の北陸本線で運用されていましたが、老朽化は否めず、2扉、狭い扉幅、定員の少なさも災いして、521系の増備によって、ダイヤ改正を機に定期運用からは撤退することになりました。

かつては、9連編成の運用も存在した419系だが、改正前は2編成の6連が最高だった。しかも、平日朝の金沢~富山間の423M、422Mしかない。先日、最後のキハ28・58撮影で富山を訪れた際、6連をようやくとらえることができた。さすがに迫力はある。切妻のクモハ419とクハ418が顔を合わす併結部もなかなかの味わいであった。

3両という短編成化のため先頭車が不足、中間車のモハネ581、サハネ581を先頭車化改造した”食パン”と呼ばれる切妻顔のクモハ419、クハ418が生まれている。同様の改造は、東北、九州でも行われ、交流専用715系として使われていたが、以前に廃車となっており、419系のみが、581・583系として製造され40年以上経った今まで使用され続け、寝台・座席特急の時代より、はるかに長い間、北陸本線で使われた。

419系の前部には以前「タウントレイン」という愛称板が取り付けられていたが、2001年ごろに取り外された。短編成化した419系は、愛称どおり北陸本線のフリークェンシー化に大きな貢献をした。写真は田村付近の419系で、当時は米原までの運用もあり、京阪神からの新快速などとも顔を合わせていた。

少し前まで、北陸本線の419系が湖西線近江今津まで乗り入れていた。クハネ581改造のクハ419は、ほとんどが貫通扉も埋められたが、右のクハ419-13には貫通扉が残り、愛称表示器もそのまま残っていた。このD13編成は、一足先に2006年10月の敦賀直流化時に廃車されている。左の117系の福知山線色と呼ばれる、グリーン帯の117系もいつの間にか姿を消してしまった。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part8 初めての新疆ウィグル自治区

第5・6日目 2月26・27日

①哈密23:35(K9781次)→8:20乌鲁木齐(ウルムチ)
②乌鲁木齐駅8:50(チャーター車)→国際バザール→美麗華酒店

K9781次は、始発駅だけあって1時間前の改札でした。この列車は、2階建て硬座車5両(SYZ25B①不明+②346241+③339311+④339350+⑤346245)+食堂車(⑥CA25G893183)+2階建て軟座寝台車(⑦SRW25B552623)+2階建て硬座寝台車8両(SYW25B⑧674463+⑨671294+⑩674469+⑪671308+⑫671314+⑬671310+⑭675696+⑮997939)の合計15両編成です。



▲ S氏が乌鲁木齐から哈密まで乗車予定だったのは、この列車と同じ編成です。行先板は、久しぶりに見るホーロー製です。乌鲁木齐までの553キロを8時間45分をかけて走行します。その後、喀什(カシュガル)までの1588キロを24時間54分をかけて向かいます。まさに快速「シルクロード号」ですね。この運用ですと哈密を出発して、哈密まで帰ってくるのには5日間かかりますので、少なくとも10本の同一編成が必要となります。駅名板はウイグル語でも記載されていました。

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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part7 蒸気機関車の現状

三道嶺 撮影地ガイド
初めての三道嶺でしたが、案内人のおかげで効率良く撮影ができました。
ただ反省点としては、2月中旬でマイナス20℃と寒く煙も十分と思っていましたが、昼間は温度が上がってきたのか、やや不満足でした。期待した天山山脈が霞んで、今一見えにくかったのも原因です。
後で、三道嶺へ行かれた方にお会いする機会があり、写真を見せてもらいましたが、天山山脈がはっきりと見えて、順光無風の抜群の状態でした。撮影日は1月12日で、前後の10日間を現地で粘っての成果だったそうです。
私のように、最初ですぐに成果を出そうなんて甘かったようです。機会があれば是非に再挑戦したいものです。

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気仙沼在住、ネットの友人が被災されました

 東日本大震災で被害にあわれた方々に心からお見舞い申し上げます。大変な状況です。平穏なこちら我々が、被災地に対して申し訳なく思うほどです。

 拙著HPを通じて交流のある気仙沼在住の方が被害に遭われましたがネットで無事が確認できました。震災当日夕刻に、NTTドコモに発信登録されていましたのをgoogle の検索で見つけました。そしてNTTドコモで携帯番号を入力し登録内容を読みました。自宅は破壊、祖父母の行方が不明とのことです。自宅はホントに海岸近くでした。

 たった3分ほどで検索できたgoogle のスピード、力に改めて感心しました。しかしHP掲載に際し許可を戴いた釜石の岩手東海新聞社、本の著者元釜石市長菊池様の安否も心配です。

 気仙沼の友人は、拙著HP大船渡線を見られ、自身の大船渡線HPに、小生の蒸機写真の提供を依頼され、送付して以来の交流でした。そして、50年前の写真と同じ地点で、現在の鉄道風景を撮影比較し、アップされていました。デジ青『雪景色』の続きで、次回大船渡線に50年前と近年の、今昔定点対比写真を投稿の予定でした。この方にデジ青への掲載許可を快く戴いた直後の震災でした。
 従って、投稿は延期しました。しかも春が近づいて来ましたので『雪景色』の続きは来冬です。大船渡・釜石・山田・米坂・飯山・宮津線などが残りました。東北地方の各線、そして飯山線の被害も甚大です。

 また近年、私が撮影に出かけている4つの鉄道の内、3つが被害を受けて運転休止となりました。真岡鉄道、ひたちなか海浜鉄道、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線です。殊に海岸近くを走る、後者2つの鉄道はどうなっているのでしょうか。一日も早く復旧して再び撮影できることを期待して止みません。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part6 厳寒の三道嶺 2の2

第5日目 2月26日

①三和酒店(チャーター車・撮影)8:00→ 19:20三和酒店
②三和酒店 19:25(チャーター車)→21:10哈密駅
③哈密23:35(K9781)→8:20乌鲁木齐(ウルムチ)

昨夜は話し込んでしまったので起床時間はまだ夢の中でした。ご迷惑をおかけしました。
朝1番の撮影は、ずらりとズリ捨て列車が並ぶ西駅です。外温はマイナス20℃。撮影場所⑩

▲ 8:40、ズリ捨て列車が出発したくを始める西駅。左からJS8194号機、おいてJS8080・6261・8225号機です
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JRの輸送体制

千年に一度とかの大災害が東北地方を襲いました。毎日テレビは惨状を報告しますが、正直、つらすぎて見てはいられません。ニュース大好きの小生もテレビを消しております。こんな事は今までの人生で始めてのことです。そんなときにこんな話を聞きました。

東北本線や奥羽本線は使えるが、電力を止めるのと電圧の低下で電機が使えず支援物資の貨物列車が動かないという話です。実際テレビ画面で見るとEH200の牽くコンテナ列車が止まっていました。

そこでこんな妄想が頭に浮かびました。DD51重連の貨物が十三本木峠を越えていく姿、復活したD51やC61の牽く貨物列車が復旧物資を満載して東北の山野を走る姿を。

不謹慎と怒らないでください。節電を、というなら鉄道の節電が効果的で、それでいて輸送量を保つには過去の遺物とバカにされ捨て去られたDLやSLの再登場があればいいのに・・と夢を見たのでした。

いわき市に住む友人から早朝鶴見に住む息子のところへ疎開すると連絡がありました。黒磯か那須塩原までタクシーで出て行列に並んで列車に乗るとのことでした。「疎開」「並んで汽車に乗る」・・・これもずっと昔に聞いた言葉でした。

「雷鳥」を送る

このたびの震災で被災されました皆様に心からお見舞い申し上げ、投稿を再開させていただきます。

3月12日から九州新幹線の開業などに伴うJRのダイヤ改正が実施されました。関西でもかなりの変動があり、改正前日は最後となる列車の撮影に追われていました。なかでも、雷鳥」がついに消えることになり、昭和39年のデビュー以来、永年親しんだ愛称についに別れることになりました。

3月11日夕方、最終の金沢行き「雷鳥33号」を、私は京都駅0番ホームで迎えました。思い返せば、昭和39年12月25日、「雷鳥」運転開始のその日も、中学校3年生の私は、同じく京都駅1番ホーム(当時)で「雷鳥」を迎えたのでした。大阪駅で発車式があり、そのテープをボンネットに巻いたまま、京都駅に到着しました。ホーム端ギリギリに停車したため、いい写真を撮るために、事もあろうか、線路に降りて編成を写しました。少年が取った大胆な行動もまだ許された時代でした。撮影者もほんの2、3人だったと記憶しています。

ところが後日、悲惨な結末が訪れます。フィルムが入ったままのカメラが、電車の中で置き引きに遭ってしまったのです。そのフィルムには、梅小路のC51も写っており、返す返すも残念な出来事となりました。

その後に発売された「鉄道ピクトリアル」に、その日の同列車を、虎姫~河毛間でとらえたカラー口絵が載っているではありませんか。なんと、その撮影者が山科の人間国宝だったのです。その並外れた行動力には、改めて脱帽した次第です。 

最後の金沢行き「雷鳥33号」は、A1編成と呼ばれる、クハ481-323を先頭にした9両編成だった。多くの鉄男・鉄子の待ち受ける中、懐かしい国鉄色を夕陽に輝かせて入線してきた。京都駅から乗り込む乗客も多い。昭和39年、初日の「雷鳥」を写したのも、最終「雷鳥」を写したのも同じ京都駅のこのホームだった。鉄道趣味に捧げた47年の歳月の長さを思い返せずにはいられなかった。 

上記のように初日の写真は幻となってしまったが、その後、デビューまもない「雷鳥」を山科の大築堤でとらえた。481系は、大阪~富山間の「雷鳥」、名古屋~富山間の「しらさぎ」各1往復、スカートが赤のままで、交直車を示すヒゲも入れられていない元祖481系の姿。この時代はごく僅かで、のちに山陽本線へ481系が進出する際に、直流181系との識別のため、ヒゲが入れられる。 

その後、雪の北陸本線田村付近で珍しいカラーも写していた。スカートには60Hzを示すクリーム帯が入り、ヒゲも入れられている。同じシーンでモノクロで撮ったものを、「鉄道ピクトリアル」の写真コンクールに初めて応募したところ、佳作に入選したのも、今では懐かしい思い出だ。嬉しくて、掲載誌を高校でみんなに見せて回った。そのため、この号だけが今もボロボロの状態で在る。 

最終日の3月11日には、唯一残る489系ボンネット編成による修学旅行の集約臨が昼間に走った。最近は臨時で走ったとしても、前部愛称板が蛍光灯剥き出しのままで、サマにならないこと甚だしいが、今回は「臨時」がちゃんと入れられていた。何気に、京都駅2番ホームから、0番ホームへの入線をとらえたが、ほぼ同じ位置から、初期の「雷鳥」を撮っていたことが判った。京都駅は新駅舎建設の際、2本あった通過線を1本にして、1番ホームを張り出し拡幅し、同時に線路番線と一致させるため、1番ホームを0番ホームに改称している。京都駅の変わりようには驚かざるを得ないが、電車のスタイルはほとんど変わっていないことにも改めて再認識させられる。