【13126】ユースで巡った鉄道旅 -9-

しばらくシリーズを休んでいましたが、しつこく続けることにします。
新幹線全線開業で賑わう鹿児島、ここにも、ユースがありました。何軒かあったと記憶しますが、もっぱら利用したのは”鹿婦”の略称で呼ばれた鹿児島県婦人会館。婦人会館や青年会館がユースを併設する例は各地にありました。自治体の直営ユースではないため、民営のユースに区分され、設備・食事内容にはバラツキがあったように思います。
単なる寝場所としか考えていなかったのか、このユースには全く記憶が残っていません。ただ市電「交通局前」の近くにあったことだけ覚えています。交通局前へは、西鹿児島駅から市電に乗っても遠回りルートになるため、いつも駅から歩いて行ったものでした。
調べますと、館はあるものの、ユースは平成2年に閉鎖されていました。

西鹿児島駅前に停車する鹿児島市電300形304号。東京都電120形を昭和24年に購入した、鹿児島初のボギー車で、のちに半鋼製となったが、ワンマン化されず、訪れた昭和44年には、大阪から来た市電と代わりに廃車されている。行き先は、昭和60年廃止になった伊敷線の終点、伊敷町を指している。右側に西鹿児島駅がある。駅前の配線は何度も変更されており、この時代は、向こう側の郡元方面が一直線で見通せるが、昭和46年にクランク状カーブになり、平成16年には、新幹線の開業に伴い、さらに駅舎側に移設されている。

鹿児島を訪れる一番の目的は、やはり鹿児島機関区の訪問だった。小はB20から、大はC60・C61まで、昭和42年時点、配置両数は29両と中堅規模ながら、7形式もあり、バラエティに富んでいることでは随一だった。その小のB2010、北の小樽築港機関区のB201とともに、希少なB20である。区での仕事は、給炭用のセム車の入換ぐらいで、ほとんどラウンドハウス横の定位置で昼寝している。煙を吐いて活動する姿を数時間粘ってやっと捉えられた。

大のほうのC60・C61は、まだ非電化だった鹿児島本線の旅客牽引用だった。優等列車は、DD51化されていたが、それでも臨時急行はC60が牽いていた。給炭線で、顔を並べた両形式、出自の違いがよく理解できる。いま動態復元されて話題を集めるC61だが、この33号機は、ラストナンバーに当たる。

新幹線の終着・鹿児島中央となった西鹿児島。これはまだ鹿児島本線が電化前、新幹線など噂にすら上がらない時代の九州南端の夕方のホーム、多数の通勤客が待ち受ける中に、C60の牽く普通列車が入線する。当時の地方の中核駅からは、これほどの人が、長編成の列車に乗り込んでいた。

西鹿児島と鹿児島は、年々西鹿児島の比重が高くなり、新幹線の開業でその差は決定的になってしまったが、昭和40年代の前半でも、西鹿児島が当地の中心駅として機能していた。ただ、車両基地は鹿児島のため、西鹿児島~鹿児島間には、さまざまな組合せの回送列車が行き来した。これは、東京から到着したDF50+20系の「富士」、機回しをした後、アタマにC5765が連結され、回送で鹿児島へ向かう図である。

これは夜行列車「はやと」を待つ西鹿児島駅の待合室。盆・年末年始の長距離列車の始発駅では、客をホームに入れず、待合室で集合させて隊列を組んでホームに案内していたが、昭和45年8月末の西鹿児島駅でも、このような方法が採られていた。壁に掲げられた万博の誘致ポスター、「万博はあと12日」の幕があるように、万博閉幕が迫ったこの時でも、人気は絶大で、この日も、夕刻にDD51の牽く旧型客車を連ねた団体列車「さよなら万博」号が、大阪へ向かって行った。世の中、前へ前への時代、列車も満員の時代だった。


【13124】心を一つにして

何気なく見ていたテレビ番組、1年かかるであろうと言われていた東北新幹線の復旧が50日でなり、青森から鹿児島がつながったことが報じられていた。このためには全国から3000人の鉄道マンが集められ不眠不休の工事に当たったと言う。英国の鉄道関係者はこんなこと欧州では考えられないと、つぶやいたとか。心ないアナウンサーは「アメリカでは2年かかる」だろうと言った。これはさておき、日本の鉄道技術はこれで世界でまたもや一段と株が上がるであろう。別の番組では地震を感知する装置が東京・青森間で60か所近く設置されており、先震を感知するや全線にわたり非常ブレーキが作動するシステムになっていると報じていた。これで中越大震災の時の様な脱線事故が防げたと言う。そして、阪神淡路大震災の時は土木構築物の損傷が大きく、復旧に日数を要したと言う。日進月歩の例え通り、新幹線の復旧は早くできたが、その動力源となる【電気】の問題で常磐線の復旧工事に着手出来ないのは片腹痛い。常磐線沿線には日本の基幹産業の担い手である生産工場が多い。今わかったことは環境問題、地球規模での資源問題の事を考えても、鉄道の果たす役割が大きいことであろう。JR貨物の存在を忘れてはならない。そして「第3セクター鉄道」とJR線の関係だ。レイルがつながっているのは極わずかではないか。国土交通省にレイルの幅が一緒なら「いざ」と言う時のためつないでおけ係を設置したらどうだろうか。そして米手作市さんが言っていたDL、これも何らかの方法で保有が必要だ。日頃は遊覧線で運転してはどうだろうか。日本はとあるメーカーさんの「ジャスト イン タイム」に、政治を始め何もかも流されてしまった結果が、震災後の日本の姿を露呈しているようにも思える。いま日本国民に求められるのは「心を一つ」にして、震災復興に立ち向うことであろう。我々が愛する鉄道の役割は大きい。邪魔しないように心がけよう。


【13117】年金たいくつ男の戯言

 今回の総会は雨にも負けず大盛況であった。新会長からは「学生時代の友人で今でも付き合いのあるのは1~2名だが、同好会のOBは別で、このような気の置けない仲間との交流は今後も続けていきたい」と、この様な趣旨のご挨拶があった。全く同感である。鉄道趣味は一人でもやっていけるし、また、そのようにやっている人も沢山おられると思うが、DRFC-OB会クローバー会に入って活動する方がより楽しいし、老後の人生に大変有意義であると感じているのは私だけではないと思う。今回は神奈川、千葉、静岡、愛知、富山、広島と遠方各地からも大勢参加され親しく歓談させていただいた。改めて当会の層の厚さを感じた次第である。東京から京都での会合は新幹線利用の日帰りで十分可能であるが、いつも日帰りでは勿体無く感じ、今回もその前後は好きな撮り鉄を楽しんだので報告させていただく。

2011.4.22 千代川~八木 5006M「きのさき6号」183-701と231M221系

 

総会前日は乙訓一派のK、F両氏と紀勢線からやってきた振り子電車の姿を求めて山陰線、福知山線を訪問した。昭和47年に廃線となった篠山線の線路跡を探しながら、篠山口到着の頃には豪雨となってしまった。幸いなことにK氏が車から撮影できるように気をつかってくれぐうたら撮影ができた。しかし、一向に雨の止む気配がないのでお孫さんの相手で多忙な乙訓の老人様をお呼びして中国料理による情報交換会を行った。私も当時の乙訓郡神足に凡そ2年住んでいたので準一派として参加させてもらった。

 

2011.4.23 梅小路蒸気機関車館のC612

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  総会当日は役員さんの粋なはからいで阪急6300系の「京とれいん」に乗車。嵯峨野のジオラマ見学(一部はトロッコ列車乗車)、梅小路蒸気機関車館見学を行った。梅小路は卒業以来始めての訪問である。当日の運転はハンサムボーイのC612で45年前の見にくい写真であるが併せてのせたみた。この日も終日雨で特に嵐山の渡月橋、丹波口駅→蒸気機関車館→京都タワーはまるで雨中の行軍であった。

2011.4.24 三田~道場 3006M 「こうのとり6号」183-705

 

総会終了時に若くて活動的なN・Nコンビから「明日中山寺7時に来いへんか」と声がかかる。えらい早い時間に何すんのやと躊躇したが、呼ばれるうちが華やなと思い行くことにした。目的はどうやら振り子電車の記録のようだ。総会翌日は雨こそ止んだが曇天で時折太陽が顔を出す程度。太陽がのぞいた時の183系を披露する。いずれにしても天気は今一であったが、楽しい総会および撮り鉄であった。皆さん御世話になり有り難うございました。報告が遅くなりお詫び申し上げます。

追伸:またも振り子電車と1965.9.3撮影の一ノ関~有壁のC612の144レの説明のところがうまくいかず見苦しくてこれまたお詫び致します。


【13096】奈良電クハボ601など

先日のDRFC総会時、小生投稿#12892(2011.4.7)の奈良電気鉄道クハボ601撮影日(1952年12月14日)は確かか、とのお尋ねを受けた。改造前の姿なので、番号ごとの改造時期を知るためだそうである。ネガは古いのが幸いし、フジでもビネガー・シンドローム発生のかなり前の製品だから、事なきを得ている。この日は山科-草津線-関西線-奈良線という、学割での一周で、撮影日に間違いないと確言しておく。

で、事のついでに当日のネガをスキャンする気になり、またまた諸兄のご高覧を強要する羽目に。各コマ全て、すさまじい傷やらスクラッチだが、これは当時写真屋で売っていた、35mm極安パトローネ入りフイルムだからである。太秦の映画会社のカメラマンが、撮影中中途半端に残ったフイルム(残尺という)をくすね、ボスカメラマンの管理下新米の助手が写真屋に売りに行き、酒盛りの原資とする。写真屋では、何度使いまわしたかも知れぬ古パトローネに詰め、小生のような、カネのない手合いが買って、ヒトコマずつ大事に撮影する、という連鎖である。

かなりはデジタル修正したが、遂に根が尽きた。一部は修正が至らないままの見苦しい写真だが、58年以上前の、まだ敗戦後の混乱を若干は引き摺っていた時代として、ご寛容ありたい。なお当時純正の富士35mmパトローネ入り(日中装填と称した)は340円で、FPとSPとの2種類があり、感度は32と64。コダックXXだと500円以上した。10円で国鉄が8kmまで乗れた時代―現在なら8kmは190円である。この非純正フイルムは150円だったかと記憶するが、高校生には大変な出費である。現像代はブローニーが30円、35mmが50円で、自分で現像しだしたのも、少しでも安く上げるためであった。


草津線列車C51100 何やら25%方「お召し」仕様の様な そうでないような

フイルム自体は当然未使用だが、それを詰めたパトローネのテレンプが何回もの使用で劣化し、遮光にやっと耐えていたのと、詰めたのも写真屋の新米丁稚である。なお映画用のフイルムはパーフォレーションの形状が、我々が使うスチル写真用と若干違うことは遥か後年に知った。


関西線でのスロハ

伊賀上野での近鉄伊賀線 旧信貴山急行電鉄の電動車+吉野鉄道の制御車

オハ70 奈良

入換中の6847 型式6760

この日の撮影は草津線のC51100に始まり、伊賀上野で近鉄伊賀線の旧信貴山急行の電車、奈良では型式6760や、狭い窓ガラスがさらに左右に二分され、敗戦後の雰囲気をたっぷり残しているオハ70を。また近鉄奈良線と関西線との立体交差地点で、先般ご覧頂いた奈良電クハボ601やら、近鉄奈良線電車を。保線用無蓋電車の左に学生帽をかぶった高校生が写っているが、彼が一緒に東京まで行ったのに、上野駅で意気阻喪して帰ってしまった、上京中学時代の親友H君で、彼は鴨沂高校、小生は朱雀高校であった。佐竹先輩と小生に久しぶりに会うため、一度サカタニでの写真展打ち上げに顔を出してくれたことがある。


保線用の無蓋電動車951 保線に当るのもすべて正社員ばかり

近鉄奈良線631

これも懐かしい奈良電気鉄道1001

片町線のキハ41500形式

すべての写真の天部が詰まっており、パンタが切れたりしているのは、先回記したように、なまじファインダーにパララックス矯正装置があり、接写でそれを使った後、100%戻し忘れるためである。


【13090】「青信号」、ちょっといい話

「青信号」、と言ってもこの「デジタル元祖青信号」ではありません。
本家青信号たる、鉄道同好会創部以来、連綿と受け継がれている紙媒体の「青信号」、それも、特派員の現役時代、ガリ版と謄写版で格闘した手作りの青信号です。
もう何を書いたのか、当の本人ですら忘れてしまっている記事内容を、当会とは何の縁もない人が覚えていたことから話は始まります。
その人、某電鉄会社勤務のKさんは、当時の青信号に書かれた”おとぎ電車”の記事をはっきりと覚えていました。おとぎ電車とは、宇治川沿いをわずか10年の間だけ走った、発電所資材運搬用の軌道を使った遊覧用の鉄道です。
「青信号」に著したのは、いまは富山に幽閉されている、私の3年下のYさん、おとぎ電車の製造・運営に関わったYさんの伯父さんからの聞き書きを数ページに纏めたものでした。
EVE見学に来たKさんは、この記事が載った青信号を購入したものの、いつの間にやら行方不明。ただ、おとぎ電車の記事が載っていたことだけは、はっきりと覚えていたのです。
このたびKさんがおとぎ電車のことを季刊「レイル」に発表することになり、ぜひ青信号を参考にしたいと、出版社のMさんを通じて、私のところに依頼があったのです。
さっそくYさんに連絡し、転載の快諾をもらい、このたび発売された「レイル」78号に、記事の抜粋と地図が、青信号のクレジット入りで紹介されたのです。
改めて40年も前の青信号を見直すと、現在のものとは比べ物にならない、粗末な出来上がりですが、書かれた内容は埋もれてしまうどころか、ますますの輝きをもって、甦ってきたのです。Kさんが「初めて鉄道趣味紙に載った記念すべき記事」と称賛するように、とくに、おとぎ電車の場合、今まで発表された報告もほとんどなく、青信号の記事が端緒になったのです。
改めてこの記事を著したYさんに敬意を表するとともに、我々の著した紙・電子媒体の著作物が、広く鉄道趣味活動の向上に貢献していることを再認識した次第です。

▲いま発売の「レイル」78号と、貴重な参考文献となった「青信号」26号


【13086】嵐電が新京阪と互角の戦い!?

クローバー会総会でもこのシリーズが大人気でした! もちろん作者の関三平先生についてです。画家であるのは間違いないとして、「鉄道についてもただ者ではない」「生半可なことを書くのははばかれる」など賛辞と尊敬の言葉があふれていました。しかし、実像は誰も知らず、改めて出版されたとき買いたいというのが大勢の意見でした。出版が待ち遠しいですね。

さて、今回はポール電車シリーズの横綱、京福電車嵐山線、通称“嵐電”です。私など、市電の姉様ぐらいにしか思っていませんでしたが関先生は「新京阪嵐山線に対抗して善戦した」私鉄だといいます。と、なると市電の姉様ではなく、今で言う「阪急のライバル」ということではありませんか!

皆様のご意見はいかがでしょうか?

そうそう、総会の時に「最近、電車の大御所・河様のご意見がないが、お前がなにかしでかしたのではないか?」と疑われてしまいました。ご覧になっておられましたらご意見などお書き願えませんか?失礼なことでもありましたらその旨お申し付け下さい。すぐに謝ります。お待ちしております。