ユースで巡った鉄道旅 -9-

しばらくシリーズを休んでいましたが、しつこく続けることにします。
新幹線全線開業で賑わう鹿児島、ここにも、ユースがありました。何軒かあったと記憶しますが、もっぱら利用したのは”鹿婦”の略称で呼ばれた鹿児島県婦人会館。婦人会館や青年会館がユースを併設する例は各地にありました。自治体の直営ユースではないため、民営のユースに区分され、設備・食事内容にはバラツキがあったように思います。
単なる寝場所としか考えていなかったのか、このユースには全く記憶が残っていません。ただ市電「交通局前」の近くにあったことだけ覚えています。交通局前へは、西鹿児島駅から市電に乗っても遠回りルートになるため、いつも駅から歩いて行ったものでした。
調べますと、館はあるものの、ユースは平成2年に閉鎖されていました。

西鹿児島駅前に停車する鹿児島市電300形304号。東京都電120形を昭和24年に購入した、鹿児島初のボギー車で、のちに半鋼製となったが、ワンマン化されず、訪れた昭和44年には、大阪から来た市電と代わりに廃車されている。行き先は、昭和60年廃止になった伊敷線の終点、伊敷町を指している。右側に西鹿児島駅がある。駅前の配線は何度も変更されており、この時代は、向こう側の郡元方面が一直線で見通せるが、昭和46年にクランク状カーブになり、平成16年には、新幹線の開業に伴い、さらに駅舎側に移設されている。

鹿児島を訪れる一番の目的は、やはり鹿児島機関区の訪問だった。小はB20から、大はC60・C61まで、昭和42年時点、配置両数は29両と中堅規模ながら、7形式もあり、バラエティに富んでいることでは随一だった。その小のB2010、北の小樽築港機関区のB201とともに、希少なB20である。区での仕事は、給炭用のセム車の入換ぐらいで、ほとんどラウンドハウス横の定位置で昼寝している。煙を吐いて活動する姿を数時間粘ってやっと捉えられた。

大のほうのC60・C61は、まだ非電化だった鹿児島本線の旅客牽引用だった。優等列車は、DD51化されていたが、それでも臨時急行はC60が牽いていた。給炭線で、顔を並べた両形式、出自の違いがよく理解できる。いま動態復元されて話題を集めるC61だが、この33号機は、ラストナンバーに当たる。

新幹線の終着・鹿児島中央となった西鹿児島。これはまだ鹿児島本線が電化前、新幹線など噂にすら上がらない時代の九州南端の夕方のホーム、多数の通勤客が待ち受ける中に、C60の牽く普通列車が入線する。当時の地方の中核駅からは、これほどの人が、長編成の列車に乗り込んでいた。

西鹿児島と鹿児島は、年々西鹿児島の比重が高くなり、新幹線の開業でその差は決定的になってしまったが、昭和40年代の前半でも、西鹿児島が当地の中心駅として機能していた。ただ、車両基地は鹿児島のため、西鹿児島~鹿児島間には、さまざまな組合せの回送列車が行き来した。これは、東京から到着したDF50+20系の「富士」、機回しをした後、アタマにC5765が連結され、回送で鹿児島へ向かう図である。

これは夜行列車「はやと」を待つ西鹿児島駅の待合室。盆・年末年始の長距離列車の始発駅では、客をホームに入れず、待合室で集合させて隊列を組んでホームに案内していたが、昭和45年8月末の西鹿児島駅でも、このような方法が採られていた。壁に掲げられた万博の誘致ポスター、「万博はあと12日」の幕があるように、万博閉幕が迫ったこの時でも、人気は絶大で、この日も、夕刻にDD51の牽く旧型客車を連ねた団体列車「さよなら万博」号が、大阪へ向かって行った。世の中、前へ前への時代、列車も満員の時代だった。

心を一つにして

何気なく見ていたテレビ番組、1年かかるであろうと言われていた東北新幹線の復旧が50日でなり、青森から鹿児島がつながったことが報じられていた。このためには全国から3000人の鉄道マンが集められ不眠不休の工事に当たったと言う。英国の鉄道関係者はこんなこと欧州では考えられないと、つぶやいたとか。心ないアナウンサーは「アメリカでは2年かかる」だろうと言った。これはさておき、日本の鉄道技術はこれで世界でまたもや一段と株が上がるであろう。別の番組では地震を感知する装置が東京・青森間で60か所近く設置されており、先震を感知するや全線にわたり非常ブレーキが作動するシステムになっていると報じていた。これで中越大震災の時の様な脱線事故が防げたと言う。そして、阪神淡路大震災の時は土木構築物の損傷が大きく、復旧に日数を要したと言う。日進月歩の例え通り、新幹線の復旧は早くできたが、その動力源となる【電気】の問題で常磐線の復旧工事に着手出来ないのは片腹痛い。常磐線沿線には日本の基幹産業の担い手である生産工場が多い。今わかったことは環境問題、地球規模での資源問題の事を考えても、鉄道の果たす役割が大きいことであろう。JR貨物の存在を忘れてはならない。そして「第3セクター鉄道」とJR線の関係だ。レイルがつながっているのは極わずかではないか。国土交通省にレイルの幅が一緒なら「いざ」と言う時のためつないでおけ係を設置したらどうだろうか。そして米手作市さんが言っていたDL、これも何らかの方法で保有が必要だ。日頃は遊覧線で運転してはどうだろうか。日本はとあるメーカーさんの「ジャスト イン タイム」に、政治を始め何もかも流されてしまった結果が、震災後の日本の姿を露呈しているようにも思える。いま日本国民に求められるのは「心を一つ」にして、震災復興に立ち向うことであろう。我々が愛する鉄道の役割は大きい。邪魔しないように心がけよう。

年金たいくつ男の戯言

 今回の総会は雨にも負けず大盛況であった。新会長からは「学生時代の友人で今でも付き合いのあるのは1~2名だが、同好会のOBは別で、このような気の置けない仲間との交流は今後も続けていきたい」と、この様な趣旨のご挨拶があった。全く同感である。鉄道趣味は一人でもやっていけるし、また、そのようにやっている人も沢山おられると思うが、DRFC-OB会クローバー会に入って活動する方がより楽しいし、老後の人生に大変有意義であると感じているのは私だけではないと思う。今回は神奈川、千葉、静岡、愛知、富山、広島と遠方各地からも大勢参加され親しく歓談させていただいた。改めて当会の層の厚さを感じた次第である。東京から京都での会合は新幹線利用の日帰りで十分可能であるが、いつも日帰りでは勿体無く感じ、今回もその前後は好きな撮り鉄を楽しんだので報告させていただく。

2011.4.22 千代川~八木 5006M「きのさき6号」183-701と231M221系

 

総会前日は乙訓一派のK、F両氏と紀勢線からやってきた振り子電車の姿を求めて山陰線、福知山線を訪問した。昭和47年に廃線となった篠山線の線路跡を探しながら、篠山口到着の頃には豪雨となってしまった。幸いなことにK氏が車から撮影できるように気をつかってくれぐうたら撮影ができた。しかし、一向に雨の止む気配がないのでお孫さんの相手で多忙な乙訓の老人様をお呼びして中国料理による情報交換会を行った。私も当時の乙訓郡神足に凡そ2年住んでいたので準一派として参加させてもらった。

 

2011.4.23 梅小路蒸気機関車館のC612

”]

  総会当日は役員さんの粋なはからいで阪急6300系の「京とれいん」に乗車。嵯峨野のジオラマ見学(一部はトロッコ列車乗車)、梅小路蒸気機関車館見学を行った。梅小路は卒業以来始めての訪問である。当日の運転はハンサムボーイのC612で45年前の見にくい写真であるが併せてのせたみた。この日も終日雨で特に嵐山の渡月橋、丹波口駅→蒸気機関車館→京都タワーはまるで雨中の行軍であった。

2011.4.24 三田~道場 3006M 「こうのとり6号」183-705

 

総会終了時に若くて活動的なN・Nコンビから「明日中山寺7時に来いへんか」と声がかかる。えらい早い時間に何すんのやと躊躇したが、呼ばれるうちが華やなと思い行くことにした。目的はどうやら振り子電車の記録のようだ。総会翌日は雨こそ止んだが曇天で時折太陽が顔を出す程度。太陽がのぞいた時の183系を披露する。いずれにしても天気は今一であったが、楽しい総会および撮り鉄であった。皆さん御世話になり有り難うございました。報告が遅くなりお詫び申し上げます。

追伸:またも振り子電車と1965.9.3撮影の一ノ関~有壁のC612の144レの説明のところがうまくいかず見苦しくてこれまたお詫び致します。

奈良電クハボ601など

先日のDRFC総会時、小生投稿#12892(2011.4.7)の奈良電気鉄道クハボ601撮影日(1952年12月14日)は確かか、とのお尋ねを受けた。改造前の姿なので、番号ごとの改造時期を知るためだそうである。ネガは古いのが幸いし、フジでもビネガー・シンドローム発生のかなり前の製品だから、事なきを得ている。この日は山科-草津線-関西線-奈良線という、学割での一周で、撮影日に間違いないと確言しておく。

で、事のついでに当日のネガをスキャンする気になり、またまた諸兄のご高覧を強要する羽目に。各コマ全て、すさまじい傷やらスクラッチだが、これは当時写真屋で売っていた、35mm極安パトローネ入りフイルムだからである。太秦の映画会社のカメラマンが、撮影中中途半端に残ったフイルム(残尺という)をくすね、ボスカメラマンの管理下新米の助手が写真屋に売りに行き、酒盛りの原資とする。写真屋では、何度使いまわしたかも知れぬ古パトローネに詰め、小生のような、カネのない手合いが買って、ヒトコマずつ大事に撮影する、という連鎖である。

かなりはデジタル修正したが、遂に根が尽きた。一部は修正が至らないままの見苦しい写真だが、58年以上前の、まだ敗戦後の混乱を若干は引き摺っていた時代として、ご寛容ありたい。なお当時純正の富士35mmパトローネ入り(日中装填と称した)は340円で、FPとSPとの2種類があり、感度は32と64。コダックXXだと500円以上した。10円で国鉄が8kmまで乗れた時代―現在なら8kmは190円である。この非純正フイルムは150円だったかと記憶するが、高校生には大変な出費である。現像代はブローニーが30円、35mmが50円で、自分で現像しだしたのも、少しでも安く上げるためであった。


草津線列車C51100 何やら25%方「お召し」仕様の様な そうでないような

フイルム自体は当然未使用だが、それを詰めたパトローネのテレンプが何回もの使用で劣化し、遮光にやっと耐えていたのと、詰めたのも写真屋の新米丁稚である。なお映画用のフイルムはパーフォレーションの形状が、我々が使うスチル写真用と若干違うことは遥か後年に知った。


関西線でのスロハ

伊賀上野での近鉄伊賀線 旧信貴山急行電鉄の電動車+吉野鉄道の制御車

オハ70 奈良

入換中の6847 型式6760

この日の撮影は草津線のC51100に始まり、伊賀上野で近鉄伊賀線の旧信貴山急行の電車、奈良では型式6760や、狭い窓ガラスがさらに左右に二分され、敗戦後の雰囲気をたっぷり残しているオハ70を。また近鉄奈良線と関西線との立体交差地点で、先般ご覧頂いた奈良電クハボ601やら、近鉄奈良線電車を。保線用無蓋電車の左に学生帽をかぶった高校生が写っているが、彼が一緒に東京まで行ったのに、上野駅で意気阻喪して帰ってしまった、上京中学時代の親友H君で、彼は鴨沂高校、小生は朱雀高校であった。佐竹先輩と小生に久しぶりに会うため、一度サカタニでの写真展打ち上げに顔を出してくれたことがある。


保線用の無蓋電動車951 保線に当るのもすべて正社員ばかり

近鉄奈良線631

これも懐かしい奈良電気鉄道1001

片町線のキハ41500形式

すべての写真の天部が詰まっており、パンタが切れたりしているのは、先回記したように、なまじファインダーにパララックス矯正装置があり、接写でそれを使った後、100%戻し忘れるためである。

「青信号」、ちょっといい話

「青信号」、と言ってもこの「デジタル元祖青信号」ではありません。
本家青信号たる、鉄道同好会創部以来、連綿と受け継がれている紙媒体の「青信号」、それも、特派員の現役時代、ガリ版と謄写版で格闘した手作りの青信号です。
もう何を書いたのか、当の本人ですら忘れてしまっている記事内容を、当会とは何の縁もない人が覚えていたことから話は始まります。
その人、某電鉄会社勤務のKさんは、当時の青信号に書かれた”おとぎ電車”の記事をはっきりと覚えていました。おとぎ電車とは、宇治川沿いをわずか10年の間だけ走った、発電所資材運搬用の軌道を使った遊覧用の鉄道です。
「青信号」に著したのは、いまは富山に幽閉されている、私の3年下のYさん、おとぎ電車の製造・運営に関わったYさんの伯父さんからの聞き書きを数ページに纏めたものでした。
EVE見学に来たKさんは、この記事が載った青信号を購入したものの、いつの間にやら行方不明。ただ、おとぎ電車の記事が載っていたことだけは、はっきりと覚えていたのです。
このたびKさんがおとぎ電車のことを季刊「レイル」に発表することになり、ぜひ青信号を参考にしたいと、出版社のMさんを通じて、私のところに依頼があったのです。
さっそくYさんに連絡し、転載の快諾をもらい、このたび発売された「レイル」78号に、記事の抜粋と地図が、青信号のクレジット入りで紹介されたのです。
改めて40年も前の青信号を見直すと、現在のものとは比べ物にならない、粗末な出来上がりですが、書かれた内容は埋もれてしまうどころか、ますますの輝きをもって、甦ってきたのです。Kさんが「初めて鉄道趣味紙に載った記念すべき記事」と称賛するように、とくに、おとぎ電車の場合、今まで発表された報告もほとんどなく、青信号の記事が端緒になったのです。
改めてこの記事を著したYさんに敬意を表するとともに、我々の著した紙・電子媒体の著作物が、広く鉄道趣味活動の向上に貢献していることを再認識した次第です。

▲いま発売の「レイル」78号と、貴重な参考文献となった「青信号」26号

嵐電が新京阪と互角の戦い!?

クローバー会総会でもこのシリーズが大人気でした! もちろん作者の関三平先生についてです。画家であるのは間違いないとして、「鉄道についてもただ者ではない」「生半可なことを書くのははばかれる」など賛辞と尊敬の言葉があふれていました。しかし、実像は誰も知らず、改めて出版されたとき買いたいというのが大勢の意見でした。出版が待ち遠しいですね。

さて、今回はポール電車シリーズの横綱、京福電車嵐山線、通称“嵐電”です。私など、市電の姉様ぐらいにしか思っていませんでしたが関先生は「新京阪嵐山線に対抗して善戦した」私鉄だといいます。と、なると市電の姉様ではなく、今で言う「阪急のライバル」ということではありませんか!

皆様のご意見はいかがでしょうか?

そうそう、総会の時に「最近、電車の大御所・河様のご意見がないが、お前がなにかしでかしたのではないか?」と疑われてしまいました。ご覧になっておられましたらご意見などお書き願えませんか?失礼なことでもありましたらその旨お申し付け下さい。すぐに謝ります。お待ちしております。

<写真速報> クローバー会総会行われる!

3年に一度行われる、クローバー会の総会が、4月23日、京都タワーホテル6階会場において、おごそかに、かつ賑々しく開催されました。当日の雨をものともせず、全国から駆けつけた会員、その数約50名。
総会での決定・承認事項は、追って会員個別に連絡するとして、まずは当日の様子を、午前中に行われた乗車会・見学会とあわせて速報版で写真紹介しましょう(多数の閲覧があることを踏まえ、写真の選定に配慮しました)。
新しく広報担当を任命された、ぶんしゅうさんからの依頼を受け、代わってお知らせします。
▲午前中は阪急「京とれいん」で嵐山へ。トロッコ嵯峨駅で日本最大級のジオラマ見学、続いて梅小路蒸気機関車館ではC61の牽くスチーム号に乗り大満足。
▲京都タワーホテル会議室で行われた総会。新役員、会計報告、活動報告、事業計画などの報告が行われ、参加者で承認され、滞りなく終了した。
▲続いて同ホテル宴会場で懇親会が開かれた。新広報担当の司会のもと、新会長の挨拶、自己紹介・近況報告が行われ、和やかに始まった。
▲時が進むほど、酔うほどに、会場は騒乱状態に陥った。てんでバラバラに、語り、騒ぎ、久しぶりの会員同士の邂逅を心ゆくまで楽しんだのであった。
▲宴会のお開きは、恒例の三々七拍子、続いて東京支部長の万歳絶叫。ただ、祇園の石段下ではなかったため、支部長もやや不満足な様子だった。
▲遠く東京、名古屋、富山、広島から集まった会員も含めOB44名、プラス現役1名。全員大きな満足感を持って夜の街に消えたのであった。

KTM

 

みなさま RG50でございます。 お久しぶりでございます。やっと戻ってまいりました。よろしくお願いします。

間もなくなくなるタンジョンパガール駅を惜しんでKTMに乗った時のものです。

  

京滬(北京~上海)高速鉄道 スピードダウン!

今年6月中旬開業予定の京滬高速鉄道について、昨日の現地報道原文はこちらによると、大幅な変更があリました。

① 最高速度380km/hで走行して北京~上海1318キロを4時間で結ぶ予定であったが、最高速度は300km/hに減速し、5時間運転とする。

② 編成車両で目玉だった飛行機の国際線ビジネスシート並みシェル式のVIPフラットシート車は、連結予定を今回取りやめにする。

といったショッキングなニュースです。理由としては、

① 走行スピードが320km/hをオーバーすると10km/h速度が上がるたびにエネルギーは倍増されてコスト高となるので、経済性を優先する。

② 飛行機と比べても高額運賃となり、庶民が利用できないので誰もが乗れるように庶民性を重視する。

こんなことは、初めから分かっていたのに開業直前で修正するとは何よりもメンツを重んじ、世界最高が大好きな国民性からはとても信じがたい報道ですが、どうやら本当のようです。
折角、380km/h走行の乗車を楽しみにしていましたが、 興味が激減しました。

最近まで500km/hを目指すと試運転を繰り返していましたのに、なぜに健全な運行への方向転換をしたのか不思議でなりません。一説によると最高幹部が更迭されたからとの推測が当たっているかも・・・・。

これからの中国鉄路の方向性に大きな変化がでてくるのは容易に想像できます。 今年は中国鉄路各地で高速鉄道の開業が相次ぎます。片っ端から乗車してのレポートを投稿させていただきます。よろしくお願いします。

和歌山鉄道クハ803など


片上鉄道キハニ120 1937年10月14日和気 牧野俊介撮影

片上鉄道キハニ120組立図 

米手作市氏、畏れ多くも乙訓ご老人までが露払いして下さったからには、黙っているわけに参らず、須磨老人から一言を。この流線形クハ803は加藤車輛製作所1936年8月製、片上鉄道キハニ120が前身である。加藤製としては1か月後の能登鉄道キホハニ2と共に、個性の強い流線形で、運転席窓の庇が特徴だが、車体実幅が2,200mmと狭いのに幕板が広く、屋根も深く、鈍重―スマートとは申しかねる。扉下、荷台にも踏み板を盛大に張り出し、最大幅は2,640mm。50人乗り、機関は戦前私鉄中型車標準のウォーケシャ6SRL、エアブレーキを装着し、手動ワイパーがある。塗装も木部がニス塗り。

1942年に代燃ガス炉設置、1946年には多度津工場で機関を下ろし、台枠を補強して客車化、1948年3月12日手荷物室を撤去しフハ120に。1955年2月ナニワ工機で制御装置を付し和歌山鉄道クハ803に。


これは乙訓ご老人ご撮影のクハ803

和歌山電軌クハ801 ←国鉄キハ5020←芸備鉄道キハ3 日車1929年12月製 本来両ボギー2個機関で製造 一旦口之津鉄道に納品されたがキャンセルされ 日車に出戻って1個機関片ボギーに改造し 新車と称して芸備に納品された代物

和歌山電軌クハ802 ←片上鉄道キハニ102 日車1931年製

なお和歌山鉄道は乙訓のご老人お書きの通り、1941年12月東和歌山-伊太祈曾間を600V電化、1年後大池、さらに1年後貴志と2年かかって全線の電化を果たした。当初はオリジナルのガソリンカーを電車にしたが、淡路鉄道方式ではなく、マトモな電車用の台車(南海のお古)と交換している。半鋼ボギー車ばかりでなく、木製鋼板張り(俗に謂う「偽スチール」あるいは「鉄面皮」)の丸山車輛製2軸車キ101~103のうち、キ103を加藤車輛製作所でボギー化、片側扉を広げたモハニ103なんて代物もあった。芸備鉄道買収の片ボギー車キハ5020にポールとコントローラーを付したクハ801もでっち上げ、これはかなりあとまで健在だった。


和歌山電軌モハ201 ←和歌山鉄道オリジナルのキハニ201 小島栄次郎工業所製とされるのは メーカーたる松井車両製作所が当時手形不渡りを出して銀行取引停止中だったため 

敗戦後は江若鉄道が、国鉄キハ41000形式を獲得した代償供出によるキニ1、2(川車)をモハ205、206にし、片上キハニ102をクハ802に、など。これらの旧ガソリンカーの一群は乙訓ご老人が以前この欄に写真を出して御座る。他には旧京浜やら阪急やら阪神やら南海やらのボロ電車をかき集め(いずれも供出だから状態は推して知るべし)るなどしたが、そっちは須磨老人の受持外である。

ともかく東の雄上田丸子電鉄には及ばないまでも、百鬼夜行の旧ガソリンカー天国=西の雄だったのは確かである。小生の撮影は和歌山電気軌道となってからの1959年7月16日で、紀勢本線全通初日を撮影、御坊臨港鉄道、有田鉄道、野上電鉄を撮っての帰路で、和歌山電軌軌道線の2軸単車は終点でまだポール回しをやっていた。

その前日、自宅から山科駅までの間に大雨に遭遇し、傘がなく川にはまった状態で猿股までぬれたまま亀山でステホ、幸い風邪も引かず翌朝は体温で衣服は乾いていた。しかし靴はチャップリンが「黄金狂時代」で、ナプキンをして大真面目な顔で食べ、腹を抱えさせられた靴同様、水を含んでブカブカ・チャプチャプ、軟らかくなり何やら白い粉を吹いていた。確か新宮だったかの機関区構内の靴屋で応急処置をしてもらった記憶がある。

なおモハ205のみは1952年12月28日で、得体の知れない映画用(当然安いが感度も判らない)35mmフィルムだったので、傷だらけである。


モハ205 ←江若鉄道キニ1 川崎車両1931年製 撮影時点和歌山電軌に合併され1か月が経過しているが 社紋は和歌山鉄道のまま 

和歌山電軌モハ601 車体は旧阪急

モハ601+クハ802

和歌山鉄道モハ300車体 南海軌道線57を高床化したもの

桜前線追っかけ2011年 Part2 えちぜん鉄道、福井鉄道

第2日目 4月15日

①三国港 6:33(えちぜん鉄道)→7:21 福井
②福井駅前 8:16(福井鉄道)→9:01越前武生9:08→10:09 田原町
③ 田原町 10:18(えちぜん鉄道)→10:58 三国港

昨夜は、芦原温泉にあるセントピアあわらでゆっくり身体の疲れを癒してから「道の駅 みくに」で泊まりました。夜明けとともに起きて周囲を見ますと、隣の秋田ナンバーをはじめ5台の宿泊車がいました。多分例年と比べると少ないようです。
すぐに約10分ほどにある越前鉄道三国港駅へと向かいました。



▲ 6:13、えちぜん鉄道三国港駅に到着。1番電車は出た後でした。以前にDRFC-OB会の旅でご同行させて以来の訪問です。駅前のパーク&ライドに車を置いてゆっくりと駅周辺を散歩した後、6:33発の632Mに乗車して今日撮影する鉄路のロケハンに向かいました。

続きを読む

“須磨の大老”の出番ですよー!

一週間のお休みの次に来たのは、和歌山鉄道クハ803です。

関三平先生は、なにやら我々の実力を試しておられるようにも見えます。今回は、須磨の大老様をご指名ようです。

説明を読めば「他社で走っていたガソリンカーを電装解除してクハ化し」「801は片ボギーで」絵に描かれているのは803号車でボギーです。

なお、タイトルにある「和歌山電鉄クハ803号」は、文面を読むと当時は「和歌山鉄道クハ803号」の間違いではないでしょうか?乙訓の長老様。

桜前線追っかけ2011年 Part1 越美北線

毎年桜の時期は雨が多いのに、今年は不思議と晴天が続いてくれますが、東日本大震災以降各地の桜祭りは自粛ムードで寂しそうです。
何でもかんでも自粛、自粛と続くとみんなの元気がなくなり、被災に遭われた方々への「元気をだして頑張ろう」とのメッセージも届かないのでは、またこれでは復興を支えるべき日本経済そのものが活性化を失ってしまうと、ようやく気づきました。

年金生活者としてのできるだけの義援金には協力しました。時間はたっぷりとあるのでボランティアに出たいのですが、この老体と健康状態ではすぐにボランティアされる方になるのは明らかです。それでは経済活性化しか協力はないだろうと、 割り切っての行動にでました。
今回は、3日後にDRFCクローバー会総会の打ち合わせがあるので、出られるのは2日間 のみです。昨年桜前線を追いかけましたが、すでに葉桜となってしまった越美北線、越前鉄道、福井鉄道を目指しました。相棒は久しぶりのぶんしゅう7号です。

4月14日朝の天候を確認し、大山崎ICから京滋バイパス、名神高速を圣由して北陸道に乗りました。右手に見える伊吹山は残雪が残り湖北は遅い春を迎えています。日本海の見える北陸路に入ってからの山々も残雪がたっぷりと残っています。福井ICで降り、真っ先に向かったのは、越美北線一乗谷駅です。


続きを読む

三川合流部での四線併走

ご無沙汰しております。先日病院から逃げ帰ったばかりのぷるぷるです。

併走・競争が話題になっていますが、準特急様がコメントでおっしゃっているのはここのことでしょうね。現場は京阪橋本駅から徒歩約10分、狩尾(とがのお)神社という小さな神社の社殿の裏です。 撮影日は2009年5月30日まだ元気だった頃で、数時間の粘りが出来ました。一枚目の写真、丁度旧3000系がやってきましたが、川向こうには何も走っていません。

 

二枚目、京阪機関車トーマス号(上り)と新幹線。

 

三枚目、京阪旧塗色2200系(上り)と新幹線。

 

四枚目、川向こうで新幹線(下り)と在来線雷鳥のすれ違い。と言うわけで阪急の絡みはありません。悪しからず。

なお、この場所から拙宅、すなわち橋本工房まで直線距離100m余りですので撮影のあとにでも是非お立ち寄り下さい。但し、通院のため午前中留守にすること多々ありますので事前のご予約を。

 

 

並走1件

準特急さんの並走写真を拝見して 思い出したのが上毛電鉄と東武の並走シーンです。高崎での4年間の単身生活の楽しみは 上毛、上信、秩父、わたらせなどの私鉄めぐりで 上毛にも足しげく通いました。上毛は天王宿-赤城間、東武桐生線は相生-赤城間ということになります。いずれも単線区間で列車本数も少なく、たまたま並走(に近い)シーンを撮影できました。

まず 中央前橋行きのクハ721+デハ711が通り過ぎます。後ろから東武5652・・・が追ってきます。

東武が通り過ぎるのを待って 線路内に入って後追いで撮ったのが下の写真です。

 

撮影日時は平成11年8月29日です。

被災後一部区間を走らせていた三陸鉄道

週明けの新聞広告で「被災鉄路再生の行方」のタイトルが眼についた。以前、掲示板で紹介された「週刊東洋経済」誌である。あれ以来交通関係誌が特集された号は愛読している。先のタイトルは40頁、その44頁には「被災者の足に」に大奮闘の三陸鉄道。震災で大打撃を受けたにもかかわらず5日後に一部運転再開。赤字会社なのに運賃無料。三陸鉄道の矜持がここにある。との小見出しが踊っていた。知らなかった。三陸海岸べりの鉄路は津波の猛威の前に壊滅したものと思っていた。NHKの報道番組ではJRに関する報道が中心で、こと三陸鉄道についてはコンクリート橋の崩壊の姿が大きく取り上げられていたのが印象に残っていただけである。ところが北リアス線は久慈-陸中野田間(11.1km)を3月16日に運転再開させたと言う。次いで宮古-田老間(12.7km)を3月20日、田老ー小本間(12.4km)3月28日に開通させた。車両基地は久慈にあり、宮古側には1両しか残って居らず、それでもって1日3往復の運転しかできないとか。南リアス線はいまだに不通のままのようだが、いずれ朗報が聞かれるであろう。運転再開に当り三陸鉄道は3月一杯、運賃無料とした。分断区間、不通区間の運転再開については触れられていないが、第三セクタ-では、転換当初は好成績を上げていたのが、いつの間にか赤字となり、横浜未来博からの払い下げ車を活用するなど話題を振りまいていたが、今回の災害復旧で、国がどのような条件で手を差し伸べるのか、見守って生きたいと思っている。

併走、競走、激走!

 東京では7日に大きな余震があったが、昨日、今日とまた余震が頻発しており、落ち着かない日が続いている。加えて福島原発の見通しが立たず、最悪の状態である。放射能の影響度がよくわからず、何を食ったり飲んだりしたらいいのか、夏場の電力不足は大丈夫なのか、毎日心配の連続である。こんな時はパーと表題のような内容を報告してみたい。

①京王、小田急の永山から新宿寄りに二つのトンネルがある。その二つのトンネルの間が京王、小田急両社の電車が併走してくるのを俯瞰撮影できる場所で、その名も「電車見橋」と言う。散歩がてらに時々行ってみるが、なかなか難しい。トンネルから両車が並んでくれば「よっしゃー」で、気合が入るが、先頭車の顔に架線柱が邪魔しないようにするのが大変で、結局、デジカメを乱写して運に任せるしかない。

09.12.10 永山~若葉台・はるひ野 小田急1000新百合ヶ丘行き、京王8000若葉台行き

②有名撮影地浜名湖鉄橋で117系を撮影中、突然、新幹線が並んだ。これも「よっしゃー」の気合。「併走」ではあるが、「競走」にならず、「激走」とでもしたい。残暑厳しく熱中症に注意した。

10.9.1新居町~弁天島 300系「ひかり513号」新大阪行き、945M豊橋行き116-26

③列車本数が多い所では併走をキャッチするのはそれ程難しくはない。この写真は後追いのため、もう一つ面白くない。JR西の東海道、近鉄、京阪、東武、小田急等同一方向に2列車がピタリと並んでくるのは面白い。どなたか発表願いたい。

10.5.25 東神奈川~横浜 東京行きE231系、快速八王子行き205系

 ④併走の極め付け阪急十三。私鉄王国の一端をうかがわせるシーンで、他国人はこれを見てうなる。ここも毎回同時刻に梅田を出発するので1時間も居れば、一つくらいはましなのが撮れる。

10.8.14 京都行き特急9401、宝塚行き急行5145、新開地行き特急8103

 ⑤看板特急の併走を狙った。平日なので難波10時発を狙うしかない。ところが、この日は「こうや3号」はもたついて出遅れる。「ラピート29号」鉄仮面が新今宮に到着する頃、「こうや3号」は未だ隣の今宮戎を通過中。このホームは非常に狭くて危険で撮り難く、その上、105ミリレンズでは苦しくて手前の電線をカットできなかった失敗作。

10.10.1 新今宮 「ラピート」50706、「新こうや」30004

 ⑥王子駅近接の高層ビル北トピアからの撮影でここも鉄道を見る名所となっている。新幹線と在来線が並んで走るので飽きないが、ここも特に新幹線の顔に架線柱がかからないようにしたい。「併走」と言うよりも「乱走」である。

10.9.11 「Maxやまびこ116号」+「つばさ116号」、「とき331号」

 ⑦この撮影の2日後に乙訓の老人、逗子の旦那とこの蒲田駅を1往復半する。何でも目的は以前撮り損なった7000系を捕獲するとのことであった。蒲田駅を池上線と多摩川線が毎回同時に出発するので、成功確率は高い。しかし、阪急十三の様な充実感はない。

11.4.6 蒲田 池上線1023、多摩川線7910

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part19 三道嶺、芭石鉄道、成都地下鉄、上海路面電車のまとめ

マイナス20度の新疆ウィグル自治区からプラス20度の四川省芭石鉄道へ、温度差40度の冬から春への14泊15日、うち車中6泊におよぶ旅が終わりました。中国鉄路に乗車した距離は過去最長の8,636キロ、乗車時間は100時間を超え105時間11分と日本国内では経験したこともない最長時間でした。これに撮影時間を加えると、鉄道三昧の撮り鉄、乗り鉄と鉄道好きにはこたえきれない至福の時間を持てました。

糖尿、頚椎ヘルニア、狭心症と持病が多くなり、かかりつけ医も呆れかえっておりますが、これからも美味しい酒が飲め、身体が動けるうちは老体に鞭打ってでも続けて参りたいと思っております。よろしくお願いします。

今後、訪問される方の手助けになればと思い中国鉄路に乗車した走行路線、行程表、乗車した列車表、費用、そして各紀行記のリンク表をを作成しました。ご参考にしていただければ幸いです。

続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part18 上海の路面電車 上海トランスロール(現代有軌電車)

第15日目 3月8日

①成都17:15(D358次)→8:50上海虹橋
②火車虹橋駅9:53(上海地铁10号線)→10:33豫園
③豫園11:55→南京東路(2号線)→12:25張江高科
④張江地铁駅12:55(路面電車)→13:25張東路金春路
⑤張東路金春路駅(原動自転車タクシー)→14:10張江地铁駅
⑥張江高科14:28(2号線)→15:11浦東国際空港
⑦上海浦東空港17:50(JL898)→20:55関西空港

上海は昨年11月以来、4ヶ月ぶりです。トランスロール撮影前に豫園で小籠包を食べたいと前回は未開通だった10号線に乗車して向かいました。やはり長蛇の列でしたが、美味しいものを食べるのには苦になりません。デイト中の若者と話しながら順番を待ちました。


▲ 蟹肉小籠包16個で20元(約390円)、朝兼昼食です。
続きを読む

奈良電クハボ601


高校1年生の時、クハボ601を撮っていたことを思い出しました。近鉄奈良線は元来が600V軌道で、奈良の街中へは、ゴロゴロと道路中央の併用軌道で進入していました。国鉄奈良線を立体交差する跨線橋手前での撮影(1952年12月14日)で、画面天部がやたらと息苦しいのは、なまじファインダーに手動パララックス矯正装置があり、台車などを至近距離で撮影した後、ほぼ100%それを戻し忘れることによるものです。