奈良電クハボ600形の通風口

2月28日米手作市様が紹介された「【11969】奈良電クハボ600型」の中で「こんな通風口あったかな?」と書込みされておられる件について、私の知る範囲で書いてみたい。

「クハボ600形」については、関 三平氏の解説文の通りであるが、少し補足させていただくと、昭和29年特急運転開始に際して新製されたデハボ1200形(1201、1202)と組む制御車としてクハポ602、603を扉間の戸袋窓部分を除き転換クロス化した。昭和38年10月1日近鉄と合併時の改番で、クハボ601→ク583、602→581、603→582となった。

昭和39年10月京都~橿原神宮駅間の有料特急運転時(6往復)にデハボ1201、1202→モ681、682、デハボ1352、1353→モ692、693を窓の固定化、座席の転換クロス化、冷房の取り付け等の改造を行い、一応大阪線の有料特急車レベルに改装した。 

この時、モ692、693は電装解除されてク581、582となった。個人的には「冷房とおしぼりサービス位で誰が乗るねん」と思っていたところ走り出すと意外に好評で、12月1日には京都~奈良間の特急5往復増発された。この時予備車を確保するためにモ691、ク581、ク582を特急用として整備されたが、あくまで予備車という割切りのため改造は最小限に留められた。

ク581は元モ692の電装品で電動車化してモ684に、モ691はモ683に、ク582はク583改番され、モ684+ク583+モ683の3連を組み「予備特」と呼ばれた。更に増発されると「予備特」を含めて3編成がフルに運転され、「予備特」が「予備特」でなくなってしまったため、扉間転換クロスのモ671+モ672(元奈良電鉄デハボ1102+1103)がマルーンのまま特急マークをつけて「予備予備特」として待機した。

車体を新製してモ600形の電装品を流用して作られた18000系、京都~伊勢間の直通特急用に新製された18200系、18400系が登場すると、定期運用から外れて本来の「予備特」に戻り、団臨にも使用されるようになった。

昭和44年9月21日奈良線、京都線、橿原線が支線も含めて1500Ⅴ昇圧時にこの編成も昇圧改造され、モ683の橋原寄りの運転台撤去、モ684の京都寄り運転台撤去による中間車化、ク582の方向転換が実施され、モ683+モ684+ク583となった。昭和47年に一般車に格下げされ、塗装がマルーンになり主に団臨に使用されていたが、昭和51年3月に廃車になった。(車齢が新しいモ683は大阪線に転属して電装解除の上、ク1322となり「鮮魚列車」に使用された) 

一般車として残ったク583 (元クハボ601)は、前述のク582→ク583に改番時にク595に改番して引続き急行以下の列車に使用され、昭和44年9月1500V昇圧時ク308に改番され、元奈良線のモ653改造のモ408と2連を組み生駒、田原本線用になった。

以上、近鉄に超詳しい方を差し置いてごちゃごちゃ説明したが、通風口の結論は「予備特」となったクハボ602とクハボ603は改造時に撤去、一般車として残ったクハボ601は廃車時まで存在した。

 
モ684(元ク581←クハボ602) 西大寺/昭和44年5月18日

 
ク583(元ク582←クハボ602)西大寺/昭和44年5月18日

 
1500Ⅴ昇圧時に方向転換、一般車に格下げされマルーン一色となったク583  玉川工場/昭和50年1月15日

 
【参考】モ683(元モ691←デハボ1351)+ク583+モ684  西大寺/昭和44年5月18日

 
【参考】モ692+モ691(元デハボ1352+元1351) 丹波橋/昭和39年5月15日  モ692は有料特急に格上げ改造されク581となった。

 
最後まで一般車であったク595(元ク583←クハボ601) 西大寺/昭和44年5月18日  通風口はしっかり残っていた。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part17 CRH1EのD358次初乗車

第14・15日目 3月7・8日


①成都17:15(D358)→8:50上海虹桥

小腹も満たしました。四川のパン、果物も買いましたので、荷物を受け取って少し早いが成都駅の軟座待合室でゆっくりとすることにしました。

鄭州鉄道日記さんのプログを拝見して知っていたのですが、今まで見たこともない立派な軟座待合室です。北京西站の貴賓室は勤務時代に何回も入りましたが、広さでは勝ります。座っていますとお嬢さんがお茶を運んでくれます。
但し改札時刻になりますと、この待合室からホームに案内してもらいますが、立ちはだかるのは長い階段です。重いスーツケースを持っての上りは苦痛でした

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ユースで巡った鉄道旅 -8-

もうひとつ、九州の撮影地近くのユースの紹介を-。
久大本線日田駅から杖立温泉行きの日田バスに乗ること約30分、ダム湖の近くに日田ユースホステルがありました。廃止された宮原線の終点、肥後小国の方向で、自然が豊かなところです。安くて設備の良い、公営のユースのひとつで、泊まった時は出来たばかり、宿泊客も少なく快適なユースでした。ユース一泊二食430円、バス往復320円とメモ帳には記してありました。
ここを拠点にして、撮影に行ったのが久大本線でした。昭和40年代前半の久大本線は、D60、ハチロクが配置され、貨物はもちろん、旅客もほとんど蒸機でした。今でこそ、沿線の由布院などは第一級の観光地となりましたが、当時は、まだまだローカル色豊かな路線で、一人で撮影しながら鉄道の旅も堪能したものでした。なお、このユースは、日田おおやまユースホステルと改名して現在も在るものの、長期休業中とありました。

日田駅は久大本線のほぼ中間にある。夜明から分岐する日田彦山線も、ほとんどの列車が日田を始終発としていた。久大本線の結節点を成す駅でもある。2面3線の典型的な国鉄式配線を持つが、広い構内には駐泊所もあって、いつも何両かの蒸機が休んでいた。乗客が待ち受けるなか、タブレットの授受をしたD60の牽く上り列車が到着する。左手はハチロクの牽く下り貨物列車。

夏の朝、日田駅では、陽射しを浴びたハチロクがガンガンに輝いている。久大本線では、D60だけではなく、豊後森機関区のハチロクも客貨の区間列車を牽いている。九州の蒸機ならではの輝きだ。これからの暑さを予感させる。陽炎の立つ構内に、門鉄デフ越しにD60の牽く交換列車が見えた。腕木信号機がコトリと落ちて、ハチロクは細いボイラーを震わせて、発車して行った。

西鹿児島から夜行に乗って鳥栖に着き、一番列車に乗って久大本線に入った。どこで降りる当てもなかったが、対向列車とまもなく交換することから、何の予備知識もなく田主丸で降りることになった。久大本線が山間部に入る前、筑後平野の真っ只中にある平凡な駅である。乗ったときから空模様が怪しかったが、駅に着くと、とうとう雪が舞ってきた。北九州は、意外と雪が降る。すっかり戦意を失くし、駅構内で日和ることにするが、雪をかぶった木々とハチロクの猛煙が、いい味を出してくれた。

久大本線の撮影地と言えば、由布岳山麓の湯布院付近、玖珠川の渓谷沿いの豊後中川付近が有名だ。私も下車して写したことはあるが、むしろ日田から久留米方面にかけての区間が好みだった。ことさら優れた風景はないが、その分、穏やかな田園風景が続く。それに、日田以西は鳥栖行きの区間列車があり、朝のラッシュ時は、多くの蒸機列車を稼ぐことができる。この風景には、D60より、ハチロクが客車数両を牽く姿が似つかわしい。

 

 

関三平氏がいう、“超弩級”の一角を占める重量級の登場です。子供の頃、八尾に住む伯父の家に行くときに上六でよく見ました。といっても、片眼の2200が印象に残っているだけですが・・・。京阪や阪急では見られない20m級の緑色の車体はとてつもなくカッコイイ電車でありました。

京阪電車と和歌山

老人は学者ではなく一介の鉄道趣味者であり、沿線住民でもないのに幼児から京阪電車に拘ってきた。米手作市さんから京阪と和歌山の関係を解説せよとの希望があった。幸いなことに京阪電車のご厚意により「京阪100年のあゆみ」が送られてきた。50年史「鉄路五十年」と比べると、和歌山との関わりがコンパクトに、分かり易く紹介されている。

和歌山との関わりについて50年史では、毎期12%の配当を続けている和歌山水力電気(株)が業容拡大のために資本増強を図るため大阪電燈(株)との合併の斡旋を、京阪の重役に依頼してきたことに始まると記している。京阪は開業時、営業成績が振るわない時があったが、それを救ったのが配電事業であった。和歌山水力電気からの話が耳に入った当時の社長は和歌山出身であり、他所に紹介するより京阪が資本調達に応じようではないかとなり、19227月に合併(買収)してしまった。そして和歌山支店を設置、県下で発電、配電事業に加え電気鉄道(軌道)経営をする事になった。2010年(京阪開業100年)年賀状に、新造35年後の姿(1960年撮影)の、和歌山軌道線100号を、京阪本線100号代用車として使った。

和歌山支店の経営は順調であったが、京阪は新京阪鉄道建設による借金地獄解消のため三重合同電気に和歌山での事業を売却することになった。この時の社長は三重合同電気の社長を兼ねており「和歌山支店を切り離して金に替えることが、京阪自体の財政を整理する第一歩」と考えていたそうだ。和歌山支店の事業譲渡は19305月に行われ、8年余に及ぶ京阪マークは紀州から消えた。

これにより京阪本体は救われた。そして新京阪鉄道は本家京阪に加えられたのであった。そこで阪和電鉄について言及したいのだが、50年史、100年史では余り触れられていない。阪和と言えば竹田辰男さんの研究が知られており、老人の出る幕ではない。僅かに頭に残っているものを中心に綴ってみる。

阪和電鉄(株)は和歌山県下の企業家に加え大阪財界人の手で設立されたのは19264月であった。設立時の資本金は2,000万円で、京阪は40万株(15円)の内1万株(2.5%)引き受けたとされている。会社設立の翌年、金融危機があり、払い込みは順調でなかった様だ。会社設立時の筆頭株主は南紀方面に航路を持つ大阪商船で、払い込み失権株分を大阪商船と京阪が引き受け、京阪及びそのグループの株式保有量は15%であったと言う話を何処かで聞いた。そのためか、京阪からは当時の社長が取締役として名を連ねていた。

和歌山で配電事業を展開していた京阪は、営業戦略として出資者となったのであろうが、経営にどれだけ関与したのかは50年、100年史共に触れられていない。ただ車両の電気機器について、京阪と同じメーカー東洋電機(株)であった。これを介して何らかの関係があったのではないかと思われる。東洋電機設立時の社長は、京阪開業時の専務取締役を務めた渡辺嘉一氏である。京阪は開業時、代表取締役社長を置いていない。東京財界と大阪財界の関係を勘案して社長を置なかった様だ。その渡辺氏は開業を見届けるや会長となり東京に戻ってしまった。その後、渡辺氏は東洋電機(株)を19186月に設立し、英国デッカー社の電鉄電気用品製造と独自に開発した製品で今日の地歩を固めた。

東洋電機(株)の最初の製品、DK9C形の納入先は京阪であり、今も密接な関係にある。この東洋電機は鉄道省への製品納入について大変な苦労を重ねた事が東洋電機50年史では紹介されている。大容量電動機や電動カム制御器を始め、自動扉開閉器などユニークな製品が開発され、実用化された。当時の最大の需要先は鉄道省であったが、先発メーカーの高いハードルに阻害され、その成果を鉄道省への納入で発揮できなかった悔しさは、民有鉄道で花が咲いたように思える。その先兵隊となったのが京阪であり、新京阪での採用であった。そのグループに阪和電鉄も入っていたのは、京阪-渡辺ライン上にあると思う。渡辺氏の来歴は今回100年史で初めて知った。

和謖・?100号:1958.12.25 撮影

和歌山100号:1958.12.25 撮影

和謖・?100号:1960.05.15 撮影
和歌山100号:1960.05.15 撮影

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part16 成都地鉄1号線全線乗車

第14日目 3月7日

①鉄路北駅11:09(地铁)→11:12升仙湖11:23→12:00世紀城
②世紀城12:17(地铁)→12:29鉄路南駅12:54→13:07天府广場
③天府广場(地铁)→13:55鉄路北駅
④成都17:15(D358)→8:50上海虹桥

今日は、CRH1Eに乗車して成都を去り上海へと向かいます。発車は17:15と十分時間がありましたので、ゆっくりと帰り仕度をして、まだ全線乗車をしていない成都地铁に乗ろうと出かけました。地上走行区間があれば撮影するつもりです。

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アイキャン電車とは

変【12628】関西急電アイキャン色

アイスキャンデー色が話題になっていたそうだが、老人は退院後ボランティアに追いまくられ、その前のP-6の時もさぼってしまった。期変わりと共にまたまた多忙な日を送る事になるので一気に昔話を展開することにしよう。

アイスキャンデーのことを京の童は「アイキャン」と言っていた。アイキャン省電が出現したのは昭和24年9月15日のダイヤ改正の時だと、我が奧野利夫師匠は書き残してくれている。鉄道省から公社になった頃だから国電とするのが本当だろうが、こげ茶色の省電の中にあって4両1編成、流線型モハ52003+サハ48035+サハ48033+モハ52004の鮮やかな色の急電が京都-神戸間を走り出した時は、省電ファンならずとも大騒ぎとなった。老人はこの時小学校5年であった。

アイキャン屋と名付けられ、紙芝居屋と同じくジャランジャランと鐘を鳴らしつつ自転車でやってくる物売りのオッサンの商品・アイスキャンデーを収納したアイスボックスは水色であった。この色が急電の色に似ているとした名付け親がいたようだ。この年はよほど残暑が酷かったのか、印象深く語りつがれた。翌年8月から急電は関西急電色、モハ80系の湘南型に変わっている。僅か1年の命であった塗り分けであったが京都人にも強烈な印象を残して阪和線に落ちていった。

落ちた先に同じアイキャン色モタ303+クタ501+モタ302が頑張っていた。こちらの登場は流線型より3ケ月早かったとか。阪和線の山手からは青い海がこの頃は見えたのであろうか。少なくとも青の濃淡の塗り分けは大阪湾や紀伊水道の青い海を象徴しているように思われる。それが京阪神間の餓えた都会人からすれば、アイキャン屋の箱に写ってしまったのかも知れない。

さて、昭和25年前後、アイキャン屋全盛期であった。老人の縁類になる下鴨神社の「みたらし茶屋」を名乗る京菓子舗・亀屋粟義も、京菓子の原料は統制品であり入手ままならず、夏にはアイキャン製造機と言っても簡単なものだが、同じ町内の肉屋の冷凍機製造と修理を手掛ける業者に作らせ、初夏から初秋にかけて京菓子など目もくれず空と温度計を睨みつつ、アイキャン製造に励んでいた。おじさんが自慢することが一つあった。「うちのアイキャンは京菓子の色粉使ってから色と香りが良い!」であった。薄い水色とピンクの2色とほのかな香り。これが自慢であった。ただし甘味料の方は砂糖を使うわけにいかず、サッカリンでなかったと思っている。

アイキャン箱は近所の指物大工が作り、すのこの下に氷2角置いてアイキャンを30本ばかり重ねて、売り子のおっちゃんが下鴨を廻っていた。今は昔の話、大変な脱線となってしまった。