京沪(北京~上海)中国版新幹線開業決定!

上海(上海虹桥)と北京(北京南)を結ぶ京沪高速鉄道のダイヤと運賃が発表なりました。

① 開業日;2011年6月末(具体的な日は記載がない) 多分20~30日だろう。
② 最高速度300km/hと250km/hの両方が運行され運賃が違っています。
③ 最短列車は1,318キロを4時間48分で走り、表定速度274.6km/hです。
④ 注目の運賃は、300km/h列車では、ビジネス・展望車が1,750元(約22,500円)、1等車935元(約12,000円)、2等車555元(約7,200円)となっています。250km/h列車がそれぞれ1,220元、650元、410元と30%ほど安くなっています。
⑤ 使用される車両は、CRH380A(8両編成)、CRH380AL(16両編成)、CRH380BL(16両編成)ですが、250km/h対応は他の路線からの乗り入れもあってCRH各種のオンパレードになるようです。

19日から22日まで上海に行ってきますので切符が売っていたら買っておきたいと思っております。なければ夏の楽しみにとっておきます。

現地情報はこちらです。

電鉄の節電

先日来、関西電力が鉄道各社に節電を要請している事が報道されている。お得意先であり、株主である先に要請をしているが、政府がお触れを出した東京電力の場合と異なり、少し遠慮がちであるように見受けられる。15%の時は戸惑い、5%なら何とかなるとも報じられた。今朝の新聞では10%となった。さて、【13585】で須磨の大人が28年前、カナダ・エドモントン市に長期出張した話を披露してくれた。老人もその頃(1980年1月)、ドイツ・フランクフルト等に業界視察と交流と言う名目で10日間出張したことを思い出した。彼が出張先で、自動車から電車撮影したことを知り敬服している。あの電車はドイツ製で、今や世界で話題となっているLRT のLRV、その”さきがけ”となったものである。彼が28年前に撮影した連接車は、1968年に試作車が出現した。車体はデュワーグ社の製造によるもので、形式はU2、1単位の車体長は23m(連結面間は約24.8m)、巾2.65m、自重29.5t、座席定員64人、出力150kw×2となっている。

老人はフランクフルト4日目に自由行動が許され、吉谷先輩から聞かされていた路下電車探訪をする事にした。前日、市内地図を中央駅の書店で仕入れ、ホテルマンに地下鉄の乗り場を地図にマークしてもらったら、中央駅地下から北の方向目がけてのルートがそうであった。西駅を出てしばらくすると地上に出て国鉄線と合流し専用軌道となった。住宅街の一部は併用軌道、そのうち地下に潜り終点。地上に出てみると市の中心部であった。この時乗ったのがU2であった。真っ赤をベースに腰部をアイボリ-とした、派手な外部塗色はとても印象的であった。そして街並み拝見を始めたのだが、ゲーテ大学近くの交差点でU2が1単位で停車しているのを見つけバカチョンで撮った。今回探して見たけれどもフィルムは出てきたが、写真は見付からない。そこで1990年5月、サンディエゴでのU2をお目にかける。赤1色である。南へはメキシコ国境へ向うが、市街地を外れると貨物線を利用したところもあった。後に東へ延びたルートには行っていないが、大陸横断鉄道の最南端ルートになっているとかで、今もDL牽引の貨物列車との併用区間が随所にあるとか……。U2が登場した頃はまだ超低床車、ステップレスなんて話題になっていなかった。

ここで本題。U2形は2車体連接車で非貫通両運型である。閑散時は1単位でも走れる。今回、関電に節電を要請された電鉄各社は、最も電気を消費するのは列車運行に関わる鉄道部門であろう。間引き運転、ダイヤ変更、減車と、いろんな方法が考えられているが結論はまだのようだ。阪急京阪線の昼間時、「空気を運ぶ車内に見慣れている」老人は、8両固定編成で本線上を走っている普通や準急は果たして減車出来るのかと、ピクトリアル誌の「阪急特集号」を取り出してみた。神宝線共に、以外に生きている運転台付の中間車があることが分った。南海も大丈夫。近鉄は増結用の2連が多い。深刻なのは京阪と阪神だ。京阪は輸送力大増強時代、2600系を除き7、8連固定に編成替えをした結果、中間運転台を客室に改造してしまった。阪神も同様で、大阪なんば線用の1000系が登場する迄は、武庫川線用を除き4、6両編成しかなかった。山陽も神戸電鉄も然り。となると減車可能は阪急、近鉄、南海ぐらいのもので、他は相変わらず「空気を運ぶ」電車が残るようだ。JRは?

ドイツでは地下線でも運転される車両は、貫通式であることが義務付けられていないようだ。そこでU2はラッシュ時3単位で地下線運用されている。路下のため急カーブもある。連結部は長いリーチを生かし急カーブにも対応している。とてもじゃないけれど貫通幌など装備できない。でもこれが効を奏して、簡単に増解結可能となり、効率良い運用が可能となる。節電電車の一つであろう。話題がこじつけとなり申し訳ない。

3単位連結すると65.4mになる

3単位連結すると65.4mになる

陽気な女性運転手の投げ繧・?スを頂戴する
陽気な女性運転手の投げキッスを頂戴する
路面から車内の床まで4段ある
路面から車内の床まで4段ある

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part8  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その2

第6日目 5月23日 続編
五峰駅の周辺は住宅になっていて、中に食堂が1軒ありました。冷たいビールを頼みましたがありません。仕方ないのでホットビールで一息つけました。

▲ 人影もないヤードになぜに鉄条柵があるのかと不思議に思っていましたら、羊の集団がやって来ました。放牧の進入防止のためだったのですね。

昼ごはんを食べ終わる頃に汽笛が聞こえてきました。O氏の狙いは当たったたなあと思いましたが、蒸気が走るのは確認出来ましたので安心です。
たっぷりと食べれましたので行動開始です。F先生はヤード向うの築堤で午後はゆっくりと撮ってみたいと向かわれました。 一方私は、逆方向がどうなっているのかが気になりましたので、こちらを選択しました。12:50、分かれてすぐにおり返しの上遊1425号機が単機回送で戻ってきました。
Taxiで来る時に踏切手前を回って側道を行きましたが、その踏切に着きました。有人踏切で踏切番がおられましたので小屋に入らせていただいて列車情報を聞きました。ここでも信号所と同様に列車司令室からの指示が無線で入ると言われ、通過記録簿を見せていただきました。踏切の場所はこちらです。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part7  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その1

第6日目 5月23日

① 北京北20:59(2559次)→6:38赤峰
② 赤峰7:33(K7384次)→8:38平庄

2559次は寝台のみの編成でした。丁度乗車日は日曜日、北京に買い物や遊びに行ってきた若者が多く、私の乗った硬座寝台の3段寝台6席のコーナーは私以外は全員若い女性でした。座席が取り難かったわけです。
▲ 5時過ぎにはもう明るくなって、車窓には小高い山々が広がっています。今日は快晴です。終着1時間前には列車乗務員が「換票」(寝台券と切符の交換)に来ました。
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とっておきの写真

撮影会では皆様にお世話になりました。電車まつりには鉄道アイドルの斉藤雪乃さんが来ており、丁度撮影会の終わりかけで「最後ですよ~。」の声につられて思わず行ってしまいました。そこをみなさんに見られていたようで写真を出すことになってしまいました。取り敢えず、3枚アップします。ご笑覧ください。 

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part6  河南省建材廠を走るC2型 その5

第5日目 5月22日

①  
榮陽(Bus・Taxi)→11:40郑州站
② 郑州12:19(D136次)→17:22北京西(Taxi)→12:56北京北站
③ 北京北20:59(2559次)→6:38赤峰

昨夜は部屋に戻ってからも郑州鉄道日記さんと夜遅くまで話し込みましたので爆睡、朝6時にお二人にノックされた音も夢の中でした。ゆっくりと目覚めましたので、7時半ごろに通ったC2型単機回送も部屋の窓から見ました。車庫ヤードでの作業がなかったのでいつもより早い通過でした。
今日は12:19発の列車に乗車しますので、11時半には郑州站には着かなければなりません。遠くには行けないのでレンガ橋付近での撮影としました。
▲ 左は2番列車の復路(撮影場所はこちらへ)、右は1番列車の復路(撮影場所はこちらへ)です。森林鉄道の感じで撮りましたが、曇り空では新緑がもう一つでした。

▲ 2番列車の往路です。今日は水鏡になりましたが暖かかったので煙はでません。鉄道写真はこれだから難しい。(撮影場所はこちらへ)
レンガ橋での撮影は同じ場所だけでしたが、煙が出る冬場でしたら朝の撮影場所は反対側が最適です。朝焼けをバックに理想的な写真が撮れるでしょう。ただ朝焼けになるかどうかは運しだいです。 続きを読む

28年前のエドモントン その2

連日日中(緯度が高いから3時から夜10時ごろまで明るい)は調査に走り回り、夜は夜で延々と喧嘩腰の議論(皆過労と睡眠不足で気が立っている)が重なって雰囲気ギスギス・チームワーク良好ならず。これではいかん、休息も必要と、2交代で32時間ずつの息抜きを提案し、満場一致で可決。半数ずつ、日をずらし正午以降エドモントンを出発し、翌日20時までに帰って来て会議に参加せよ、という次第。

第1班5人は2台のレンタカーに分乗し、国道2号線を一路南へカルガリー目指す。特段に広い片側3車線のモーターウェイだが、中央の分離帯?の幅が100mぐらいあり、のんびり牛が草を食んでいる。カルガリーまで約250km、3時間程だが、一直線に半時間以上走っても、景色は殆ど変わらない。


速度は遅い貨物列車 機関車は総括制御で車掌も前頭機関車に乗っている

並行してカナダ国鉄の線路があるのに、タダでもらった50万1道路地図には記載がない。これは後年ヨーロッパでも同じ体験をした。幸いデイゼル機関車3重連の貨物列車とすれ違ったが、話には聞いていた列車の速度は遅い。貨車はタンカーばかりで、そう長くもなかったが、この時点ではまだコンテナーはまだ普及していなかった。現在なら長いコンテナー列車が走っていることだろう。

このときはかなり遅くバンフーに到着し、バンフー・スプリングスホテルに投宿。超有名だが、全木造の、ドラキュラかお化けが出ても不思議のない古い古い、ミシミシする大きな建物で、カナディアン・ロッキー観光客誘致のため、鉄道会社が開設したものである。扉も蹴破れそうな代物で、宿泊料だけが実に立派であった。

因みに予約は応援に来ていたシアトル駐在員が電話でしてくれたが、その際身分保障にクレジットカードの番号を要求され、唯一所持していた駐在員(彼は泊まらないが)の番号を申告してOK。この当時すでに米国圏では個人小切手からカードの時代になっていたわけで、日本は約20年遅れている。

バンフーの町で遅い夕食をとったが、同行者1名の「たっての希望」で日本人経営レストランへ。ところがメニュー記載価格が日本語と英語とでかなりの格差があるではないか。日本人は値段に頓着なく、涙を流して日本食を食うからだというが、経営者の根性が心底情けない。

時間を惜しみ、高い宿泊料は勿体無いが早朝から出立し、睡眠不足のままカナディアン・ロッキーの早駆けツアーに。ジャスパーを経て、何とか全走行350km以上、刻限までにエドモントンの安ホテルに戻った。生れて初めて氷河も実体験したが、現実はそう綺麗な「富士の白雪」でもなく、案外汚れているものと得心した。これははるか後年見た北欧でも同じだった。


巨大な職用車(だろう) こんなサイドキューポラーで何ほどの視野が確保できるのか

エドモントン駅構内


これも巨大で重い手荷物車 魚腹台枠で恐らく床にはコンクリートが敷いてあるはず

そのほか寸暇を盗んで、本来用事のないエドモントン駅も秘かにひと覗き。巨大な客車が僅かにいた。3軸台車が放り出してあり、ギヤボックスがついている。気動車の駆動軸(古い3軸ボギー客車にエンジンを搭載した例がある)にしてはやたら脆弱だと思ったが、これは車軸発電機だった。サンパチ豪雪の際、ベルト駆動の車軸発電機が凍結して充電できず、バッテリーが消耗して電気が消えた経験があるが、やはり豪雪地帯では、それなりの設備がなされていることを痛感する。


手前に伸びる軸は車軸発電機用

話は前後する(要は小生の興味の順である)が、エドモントン市ではEdomonton Transit と称する、2車体3台車の高床式トラムが一部開通したばかりで、メイン競技場へのアクセスであり、バス同様関係者はIDカードがあれば無料で乗れる。北国だから冷房はなく窓は嵌め殺し、上部のみ内側に少し開く。これを3編成つないで運行していたが、大会が終われば恐らく2両か4両になるのだろう。




2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part5  河南省建材廠を走るC2型 その4

撮影機材はNIKON300Sを使用しています。オプションのGPSを装着していますので、撮影場所をGoogleマップで見ることが出来ますが、今まで投稿原稿にリンクする方法が分かりませんでした。我が家のパソコン先生が帰宅しましたので頼み込んで教えてもらいました。今回よりリンクさせていただきますので、(場所地図はこちらをクリックしてください。ご覧いただけます。緑の矢印が撮影場所です。

第4日目 5月21日
今日は頼りになるゲストをお迎えします。地元で働いておられる鄭州鉄道日記さんです。彼とは昨年芭石鉄道の帰りの郑州から乗車した广州行きの夜行寝台列車で、同じコンパーメントで一緒になるという中々ない出会いで知り会って以降、中国鉄路についての現地情報を教えてもらっています。前もってご連絡を入れておきましたら、土日曜日なら仕事はお休みなので行きますとのお返事をいただきました。

来られるのは昼頃なので、まず列車が今日は走るのかの確認をするため車庫に向かいました。(場所地図はこちら

しかし、残念ながら車庫はシーンと静まりかえっていて、2台ともおいてありました。
仕方がないので近くの中国鉄路榮陽駅に行ってみる事にしました。車庫前の人民に聞きますと、真っ直ぐ行って線路手前を右に行くと分かるです。真っ直ぐ歩くと鉄路と立体交差していましたので、地上部分を進み撮影できる場所を捜しました。
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阪堺電車撮影会開催!

6月12日DRFC-OB クローバー会では、阪堺電車(阪堺電気軌道株式会社)の撮影会を開催いたしました。
当初参加者は3名のみで少し寂しいかなと思っていましたが、当日になって3名が飛び入り参加され、また丁度「第13回電車祭り」も開催されていまして、賑やかな撮影会となりました。


鉄ちゃんよりも親子連れが多く、いかにも大阪下町の庶民に根付いた路面電車です。

雨が降り出しましたので、浜寺公園駅まで乗車、沿線3ヶ所で撮影を楽しんだ後は皆そろっての懇親会を開催しました。
次回は、利用客が減ってきている「北タンゴ鉄道を応援する」撮影会を開催いたします。時期は、紅葉の秋を考えておりますので、今回参加されなかった皆様方も振るってのご参加をよろしくお願い申し上げます。

後ほど、デジタル青信号の表紙を飾っていただいております893-2さんから、飛びきりのお写真をご披露していただけるそうですのでお楽しみに!

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part4 河南省建材廠を走るC2型 その3

総本家様、朝方まですごい雨でしたがあかってきて青空が見え出しました。絶好の撮影日和となるといいですね。皆様方も雨上がりの路面電車撮影に飛び込みご参加してはいかがですか。6月12日(日)13時、 阪堺線恵美須町駅に集合(地下鉄堺筋線恵美須町下車4番出口すぐ)にてお待ちしております。途中参加も歓迎します!

第3日目 5月20日
ホテルの近くに食堂はあっても朝食時は営業していません。仕方がないので3人とも1F売店でカップラーメンを毎朝用意してもらうことにしました。
昨夜の打ち合わせで撮影場所は各自で決めることにしました。朝食後はそれぞれの望む撮影地へ、F先生とO氏は車庫方面に向かわれました。一方私はレンガ橋で昨日撮りそこねた上り列車を撮ることです。
ところが始発列車が出発する8時以降に汽笛が何回か聞こえたのですが、その後待てどくらせどやってきません。どうなったのだろうと心配しますが、確かめようがなく、じっと待つしか方法はありませんでした。
やきもきしているとお2人が戻ってこられました。昨日の最終列車は私の視界から遠ざかった後にトロッコ1台が脱線したそうです。その日は切り離してそのままに、残った前方の編成を牽引して荷降ろし場に向かって運転終了。今日朝はこの残されたトロッコを線路上に戻す作業をして車庫へ回送していたので、手間取ったと聞かされました。この作業を見てみたかったです。

▲ 8:55、ようやく上り列車が来ましたが、期待していた煙はほんの少し、池もさざなみがたって水鏡になりません。夕方の上りに期待して先に積出場に向かわれたF先生の後を追いました。ロケハンと、昨日新幹線とナローゲージを一緒に撮ろうと約束した張ご夫妻とお会いするためでもありました。 続きを読む

お待たせしました!秋保電鉄

一ヶ月あまりパソコンが使えない環境へ出張していました。この間のシリーズを順次掲載します。

帰ってきて投稿欄を見たら長老様方が寂しそうに海外型の話などで無聊を紛らわせておられるのを見て思わず落とすひとしずく!

秋保電鉄に関しては、昔ピクトリアルに廃止した車両をトレーラーに乗せて運んでいる写真が出ていたのを覚えております。

それでは須磨の大老様、乙訓の長老様、よろしくお願いいたします。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part3  河南省建材廠を走るC2型 その2

第2日目 5月19日 続編
中国人老夫妻に呼び止められたおかげで、橋で来ない列車を待つという無駄な時間を過ごす事は回避できました。しかし車庫でC2型蒸気機関車を撮りだしますと、撮った画像を見てアングルが悪い、もっとこういう位置で撮りなさいとご自分のショットを見せながらの指導を受けました。

▲ ご指導を受けて撮りましたC2型の正面写真。207号機は前照灯が良いですね。芭石鉄道は今年からシールドビームに替わってしまいましたし、ここにあるもう1台のC2型機は2灯になっていますので、正面から撮るにはこちらです。
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旅は道連れ世はクルマ

 若い頃は一人旅がほとんどで、須磨の大人と淡路島に渡った事など稀有の事だった。社会人となり、DRFC仲間と「鉄旅行」をする機会があった。1977年1月に津軽鉄道、南部縦貫鉄道を訪ねた時は斜陽館に泊り、ストーブ列車運休の腹いせは芦野公園での雪合戦となった。こうした旅は「鉄」が欠けても後世に語り継がれるものとなっている。

今回の主役は「ぶんしゅう」氏で、老人は突然「先日の企画乗った」と言って、道連れにして欲しいと頼んだ。あつかましくも3ケ所に行きたいと注文をつけた。①琴電仏生山車庫の「松下さん」に一枚の写真を届けたい。②高架駅となった高知駅が見たい。③善通寺の姉夫婦と会いたい。いずれも1954年8月(高1)の一人旅に関係することであり、そして琴電、琴参、土電、伊予鉄の車庫めぐりが始まった。伊予鉄は先に須磨の大人の写真で車両説明をしたので、今後触れない。残る3線、琴参は富山勤務時代の1963(三八豪雪)年9月15日が最終日となった。その翌年秋に高知出張のおり早朝に善通寺で下車し車庫へ赴き、留置車1両毎に別れを告げた。この話は「関西の鉄道」で紹介したが、いずれ琴参の思い出話は書き残しておこうと思う。

さて今回の注文①だが、2005年秋に高知へ行った帰途に仏生山車庫に立ち寄った。検車庫(西側)内に120号車が整備を終え留置されていた。最初の四国行は京都21時発、夜行普通列車四国連絡宇野行きで早朝高松駅に到着した。仮駅であった高松桟橋駅で車庫の所在駅を聞き出し、ひとまず瓦町駅待合室で仮眠をしている。目覚めて構内で志度線、長尾線、留置線で車両撮影の後、仏生山車庫に行った。車庫長さんに車両のあらましを聞き、最初に撮ったのが120号。陽は西に回り足回りもバッチリで、老人お気に入りの1景である。この時の話を「松下さん」にしたところ、くしくも検車庫内にあった120号を庫外に、それも撮影した位置に異動してもらった。そのお礼に半世紀前の姿をプリントして持って来ると約束をした。2007年GWに行く筈が果せず、晩秋に体調不良となり一人旅にドクターストップがかかった。それが今回、ぶんしゅう氏に道連れとしていただき実現したのである。また松下さんから120号が動態保存対象車になっている事も伺っていた。

次いで②、TMS38号を今も所持している方、池田さんの四国めぐりの稿をご一読いただきたい。四国山脈越えの土讃線では蒸気機関車のトンネル内煙害防止のため後押し運転しており、そのため先頭車となるオハフ61はタイフォンを装備している、との話が出てくる。老人はこれに興味をもち、善通寺から早朝1番列車で高知に向った。途中C58が後部に回ることなしで高知着となり、機関士に質問してみた。「前年、土佐山田→新改間でやっていたが、重油併焼装置をつけることで中止になった。」との答が返ってきた。何度も降り立った高知駅が高架化されると聞き、「土電(とでんではなくとさでんと発音する)の乗降場を引き入れエスカレーターでホームと直結する。」との情報がもたらされた。ホンマかいな?と思っていたら、憶測によるものだと土電の方に知らされた。でも2005年は未だ躯体工事中の真っ盛りで全体像が掴めなかった。それを今回、土電乗降場と天井の高いコンコースを見届けて高知駅見学は終わった。1954年8月の駅前には都電スタイルの205号(蛍橋行)が停車していた。後部に控えている7型は蛍橋行の後を追い桟橋行となる。

そして③、琴参54号は1927年製の路面電車スタイルだが、床高1,000粍の高床車である。扉を開けると3段ステップで客室床面となる。車輪径は858粍、50馬力×2、自重17.5屯。路面区間はシリーズ運転。郊外に出て専用軌道になるとパラレル運転となり、轟音と共に疾走していた。

今回ぶんしゅう氏は、おしゃべりを道連れにしてへきへきしていたに違いない。その昔、老人を道連れにした旦那は「何でも良いから喋ってくれ、横で居眠りされたら今畜生!となる。」と言っていた。世はクルマ時代、有料高速道路1,000円の恩恵に浴し、燃料費込みで5日間1人当たり11,281円の交通費となった。これではクルマ族は鉄道離れして、利用者が減少する筈だ。

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-2 3000型は台車以外に窓上R無し迚・?1000型と異なる
①-2 3000型は台車以外に窓上R無し等が1000型と異なる
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-4 閑散期の急行は500号1両
①-4 閑散期の急行は500号1両
②都電そっくりの土電が高知駅前に
②都電そっくりの土電が高知駅前に
③四国螯・?の南側の街路を走る50型
③四国学院の南側の街路を走る50型

28年前のエドモントン



Baldwin1919年製107号  1C1 元Oakdale & Gulf R.R.

先般クアラルンプール(マレーシア)の、それも37年も前の写真を並べ立て、多分に諸兄の顰蹙を買ったばかりだが、それに懲りずめげず、今度は28年前のエドモントンでの写真を無理やりご覧頂く。エドモントンと聞いてすぐ位置が分る人は少なかろう。カナダには10の州と3の準州があり、総人口は3,300万人程度。

ところがアルバータ州には108万人のカルガリー、104万人のエドモントンの2大都市がある。前者はカナディアン・ロッキー観光=バンフーへの入り口やスキー等で世界的に著名だが、州都はその約300km北のエドモントンで、日本領事館もある。後年ウエスト・エドモントンなる、世界最大のショッピング・モールが出現したが、観光地とはいえない。ただしカナダ北限の大都市ではある。

時は1983年6月、カナダでは最高の季節(のはず)だったが、少し寒い日もあり、若者が上半身裸で走り回ったり、日光浴の一方、結構ぶ厚い防寒衣の老人や、中には毛皮を着た婆さまもいた。広大な町を斜めにノース・サスカチワン河が蛇行しながら横切り、その部分は深い峡谷状を呈し、両岸は超高級住宅地で、日本領事公邸もそこにあった。

小生ともう1人が先遣隊で半月早く現地入りし、ホテルや車、日本人居住者のボランティア通訳を確保。後から来る本隊=2年後神戸で開催するユニバーシアード神戸大会のための、エドモントン大会調査団(事務局及び各競技団体役員)の受け入れと運営に当った。

その間ほぼ睡眠も3~5時間程度。若かったから何とか保ったが、安ホテルに1か月滞在しながら、町の見物をする暇すらなかった。それでも3時間ほど寸暇を盗み、当時開園間もないフォート・エドモントン・パークにだけは行くことができた。

ノース・サスカチワン河に面した広大な地に、1846、1885、1905、1920年の開拓砦や町並みを復元した、素朴で健全、結構見ごたえのあるテーマ・パークで、エンドレスの線路を敷き、本物の蒸気機関車や馬車が園内の交通を担っている。確か当時は週末だけだったかと記憶するが、現在は夏場が毎日、冬場は週末のみ開園のはず。売店の売り子に至るまで、ことごとくボランティアだと聞いたが、皆それなりの時代にふさわしい衣装であったのも印象深い。


入園するとすぐ蒸機列車に乗り園内に向かう 乗車は入園料に含まれる

キャブ略号はEdomonton Yukon & Pacific 蒸機に限らずすべてボランティアによる運営


右の代用客車は無蓋車の改造らしい


手前の建物代わりのカブースは旧カナダ国鉄

コンビネーションコーチは1913年 デイコーチは1914年製

園内交通の駅馬車や荷馬車も無料で乗れる

公園全体がまだまだ建設途上だったが、驚いたことにトラムラインが敷設中で、架線も一部張られていた。その後Edomonton Radial Ry. の路面電車が数両復元されて走行していると聞く。現在では公園外でも、ノース・サスカチワン河にかかる高い鉄橋を含めた線路に世界中から大量のトラムが集められて動態保存。阪堺電車も健在のはずで、このあたりは電車屋さんの解説が欲しい。

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part2  河南省建材廠を走るC2型 その1

第2日目 5月19日
昨夜はK179次の快適な乗り心地で熟睡できました。 北京から689キロ、所要時間8時間28分、表定速度81.4km/hで走り、7;06郑州駅に定時に到着しました。この区間をよく乗られる郑州鉄道日記さんによると、この区間は勾配やカーブが少なく路盤もよく整備されていているので、中国鉄路では最も乗り心地が良いそうです。
▲ 朝の郑州站1番ホームに到着。どっと乗客が降りますが、大きなズタ袋を持った出稼ぎ民工はいなく、落ち着いた光景でした。

郑州站に降り立つのは、2度目です。前回は、芭石鉄道へ行った帰りにでした。予約していたホテルの場所が分からずTaxiで向かう事にしましたが、並んでもTaxiが来ないので仕方なく白タクと交渉した苦い経験があります。今日はたくさんのTaxiが来ていますが、乗る前に白タク運転手に捕まりましたので、料金を聞くと200元の返答、交渉をすると140元まで下がりました。目的地まで30キロはあるとの事でしたので、そんなもんかとこれで手を打ちました。
走ること30分余りでO氏一行との合流場所の伊鴻賓館に着きました。Taxi運転手に伊鴻賓館の電話番号を伝えて向かいましたが迷うこともなく意外と近かったです。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part1 旅立ち

【旅立ちはいつも直前決定】
ご老公様との四国路の旅を終えて帰宅しますと、3月に芭石鉄道でお会いした早稲田大学鉄道研究会OBのO氏からお誘いメールが届いていました。以前から行って見たいと思っていたC2号機が走る樺南と榮陽市の河南省建材廠、そして上遊型が走る炭鉱専用鉄道の平庄と阜新へのSL撮影旅行でした。しかも写真家F先生との同行と聞いては・・・、絶好の写真上達のチャンスです。

O氏一行は既に新潟~哈尔滨の航空券を 購入済みで、出発も5月18日と確定しておられます。しかし、クローバー会の郵送物作成と郵送を完了しないと出発は許されません。どうしたらいいのかと迷っている内に時間が過ぎていきます。14日にOさんから樺南は運行に支障があって走行確認が取れないので諦め他の路線を回ろうと日程表が送られてきました。
取りあえず航空券確保が必要ですが、搭乗日や航路変更が出来ないガチガチ格安航空券は買えません。JALのマイレージの特典航空券を用意しようとしましたが、予約を入れられるのは搭乗の7日前です。15日に22日発の伊丹から成田圣由の北京行きを予約しました。後は作業完了出来次第にどこかで合流できればと全力投入です。最後は事務局のF君を自宅に招いて共同作業で16日に作業を終えました。

作業完了の目処が出来た時点で、搭乗予約済みの22日から18日への変更をJALに申し出ますが、あいにく18日は満席で予約待ちです。こんな時にグローバル会員の特権が生かせます。他の予約待ち客をゴボー抜きして予約1番に立ち、郵便局に出しに行く夕刻には「お席が用意できました。」との連絡を受けました。
すぐにO氏に連絡して参加を伝え、合流場所は18日榮陽市の河南省建材廠で宿泊予定の伊鴻賓館としました。田舎の民宿に毛の生えたようなホテルですので、勿論予約なしでの飛込みです。

翌日は、いつにも増しての旅準備です。前回は荷物が20㎏と重すぎて準特急先輩に多大なご迷惑をおかけしました。今回はビデオカメラ、三脚等の重量物は入れず、衣類も最小対応としました。結果、10㎏と軽量化に成功しました。

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建設型蒸気機関車、RZ24・RW24型客車 上海、中国鉄道発祥地に静態保存展示される!

5月18日から6月1日まで、14泊15日にて中国蒸気を訪ねて撮影旅行を楽しんできました、まだ旅行記を編集中ですので、その中で早くお伝えしたいホットなニュースをもう1つ投稿させていただきます。

このほど展示公開されます建設型蒸気機関車、RZ24・RW24型客車を先乗りで見て参りました。


▲ 江灣站を復元した構内に展示された建設型と旧車両2両。展示されてから間もないので、塗り立てでピカピカです。入口前には淞滬鉄路について何やら書いてありました。

第15日目 6月1日
この日は、最終日でした。地下鉄3号線江湾鎮駅近くに建設型が展示されていることを聞き、搭乗する前の帰りがけの駄賃に見に行ってみることにしました。下車後展示場所が不明でしたので、駅員に聞いてみましたが誰も知りません。駅前売店の店員に聞いても知りません。困ったなと思っていると、親切な店員は駅前に止まっている客待ちのバイクタクー運転手達を捕まえて聞いてくれています。そして、その中の一人が、地下鉄路線に平行して残っている廃線跡に沿って走って捜してみようと言ってくれました。
バイクにスーツケースとリックを積んで後部シートに乗って走り出しました。左右どちらに行くかカケでしたが、来る途中の3号線大柏樹駅近くで見つかりました。しかし、喜んで入場しようとすると、入口にいた3人の係員から制止させられました。外からは丸見えでも、まだ未公開だったのです。

引退したとはいえ現役中の仕事は広告代理店の営業マンです。仕事は断られてからが始まりで、この程度ではめげません。「私の趣味は鉄道写真を撮ることです。すばらしい蒸気機関車が展示されているのを聞き、日本から見に来ました。入場をさせてください。」と、手をあわせてにっこり笑顔で嘆願しますと、「わざわざ日本から来たのか!それなら仕方ない。」と許可が出ました。

▲ 展示場内には、いくつものモニュメントが設置されていました。

▲ 展示されている蒸気機関車は1988年大同機車廠製造の建設型8260号機。建設型は1957年から総数1558台が製造されましたが、この8260号機はその中でも一旦製造中止され、1980~1988年に改良されて423台製造された「建設B型」で、製造最終年の比較的新しい機関車です。
2両の客車は、1980年代に372両が輸入された東ドイツDWA社製。密閉式固定窓ですが、冷房電源は車軸ベルト式発電機から取っていて、停車中は冷房が効かなかったとか、真夏の長い停車はサウナだったでしょうね。

【中国で初めての鉄道】
中国で、初めて鉄路が開業されたのは、上海でした。上海~呉松間14.5キロ、762mmナローゲージ、1876年12月1日全線開通しましたが、西方列強による不当な建設だった為に、1877年10月清政府により、廃線させられました。

その後、この鉄路の旧路線3分の1を利用して、淞沪鉄路が、上海~炮台湾間16.09キロ、1898年8月5日に開業しました。この鉄路跡は、1997年4月に開通した上海地鉄明珠線(3号線)として今も利用されています。


▲ 左;呉淞鉄路、 右;淞沪鉄路

ユースで巡った鉄道旅 -10-

久しぶりの本シリーズ、九州を切り上げ、つぎは中国地方へ行くこととしましょう。
中国地方の中でも、山陰西部は、関西から近いものの、なかなか行きにくいところです。本掲示板でもこの地方の報告は見たことがありません。陰陽連絡線が恐ろしく不便になったことも原因なのでしょうか。
40年前は、山陽本線には夜行が多く走り、山陰へのアクセスも、どの線区からでも容易に入ることができました。いまや不便極まりない木次線にも、広島から夜行急行が走っていたとは、現状と照らすと信じられないことです。
ユースの立地条件から見ると著名な観光地が少なかった故か、ユース自体が少なく、泊まったと言えば、大社と浜田だけでした。今回の浜田ユースは、商人宿のような古びた建物を改装した典型的な民営ユースでした。浜田駅から歩いて数分、市内を流れる川に沿ったところにありました。9月の残暑厳しい時で、部屋に西日がガンガン入り込んだのだけをなぜか覚えています。今は閉鎖されたようで、検索しても、この名は出てきませんでした。

ユースへ向かう前に、浜田機関区に立ち寄る。夕陽を受けたC57の前面と、煉瓦庫が鈍く輝く。浜田機関区には、最後のC54がいたことで有名だった。私は京都駅でC54を目撃したことはあるが、写すことはできなかった。製造わずか17両、福知山から浜田へ流れ、山陰を根城にした目立たないカマだったが、独特のスタイルは好ましかった。C51の後継機にもかかわらず、C51よりも早く昭和38年に全廃されている。それは、遠方へ撮影に行ける環境の整った、わずか3、4年前のことで、今なら瞬きするような時間差だが、その当時は、取り返しのつかない遥か昔の出来事のように感じた。

浜田に泊まった目的は、三江北線のC56の牽く貨物を撮ること。当時、三江線として全通しておらず、三江北線は浜原までだった。貨物は早朝に浜原へ向かい、小憩ののち、浜田へ戻るダイヤ。一番列車で終点の浜原に着いたものの、転車台もなく、期待のC56はワフ1両とともに、尻を向けて、静かに息をしているだけだった。

終点の手前、浜原~粕淵間で、三江北線は江の川を渡る。河原へ降りて、その頃でも数の少ないDC列車を写す。キハ25+キハ25+キハユニ26という、当時のローカル線の典型的な編成だった。訪れた年の翌年、昭和47年に三江北線は集中豪雨に見舞われ、この橋脚も崩壊してしまい、以後2年余り不通のままの状態が続いた。

目を山陰本線の西部(米子以西)に転じると、特急列車は「まつかぜ」「やくも」、急行は東京からの「出雲」など、数多くの優等列車が運転され、今では死語のような”亜幹線”がピッタリする線区だった。キハ82は全国区の特急用車両であり、人によって思い出は様々だろうが、私にとってキハ82と言えば、まず「まつかぜ」だ。デビュー間もない時期に、家族で鳥取へ旅行した時に「まつかぜ」に乗ったことがある。暗く陰鬱な山陰に舞い降りた、それは華々しい特急だと子供心にも感じたものだ。

一方、普通列車は、大まかに言って、米子~浜田はC57、浜田以西はD51だった。C57は集煙装置付きが多く、見栄えの点ではもうひとつだが、時として、このように重連も設定されていた。米子~浜田は、海岸沿いを走る区間はあるものの、なかなか撮影に適したところが少なく、これは地上時代の出雲市駅での撮影。手前の架線は一畑電鉄のもの。米子付近の普通列車には、荷物車代用のワキが連結されていたのが、大きな特色だった。この写真でも、C57の次位にワキが見える。

いっぽう、浜田以西になると、旅客はD51牽引が多くなるものの、海沿いの撮影適地が多くなる。撮影地ガイトも無い時代、五万分の一地図を見ながら車内からロケハンしたものだ。これは、朝の三見~飯井間を行くD51の牽く貨物列車。この区間で朝から撮ろうと思っても、浜田のユース泊では時間が掛かる。そこで利用したのが、米子~博多間の夜行急行「さんべ」、北九州と山陰という、それほど需要がありそうにも無い区間にも夜行が設定されていた。山陰均一周遊券の場合、自由周遊地域への入り込みは、山陰本線幡生経由も認められていたから好都合だった。

中国版新幹線の最新情報

お読みになられた方も多いかと思いますが、今日朝の朝日新聞に「最速鉄道 中国ブレーキ」の掲載がありました。これはすでに4月21日にデジ青に掲載させていただいた中国版新幹線のスピードダウンとVIP個室(コンパーメントの誤り記事)取りやめについてですが、大朝日新聞がこれほど遅いニュースを取り上げたのか不思議でなりません。

北京南~上海虹橋間を結ぶ1,318キロの京滬高速鉄道についての最新情報は、

①開業日は、更迭なった劉鉄道大臣が昨年12月に発表した6月中旬予定が、南京南駅工事遅延のため未発表状態になっています。

②しかし、7月1日に時刻大改正があるため 中国鉄道局としては何としても6月末での開業に持ちこみたいようです。

③豪華で高額運賃(1500元=約18,750円)が予想されているVIP車はコンパーメントを外して、フルフラットシートはそのままに1+2列で配置され運用になるようです。既に現地情報があります。また実際に見てきました。

④運用される車両は、16両編成のCRH380AとCRH380BLの2種です。最高速度300km/hで、約5時間で結ばれる予定です。

最速350km/h高速鉄道について、北京南~天津間の京津城際鉄道と杭州~上海虹桥間の滬杭高速鉄道は、そのまま高速走行を継続する予定です。

▲ 6月1日、上海虹桥駅で発車を待つCRH380BL。既に滬杭高速鉄道で運用についています。但しVIPフルフラットシート車(商務車)は、カーテンを下ろしたままで乗客を乗せていません。左上は、運転席真後ろにある展望車。5席のみの鉄ちゃん専用席です。開業時は両方とも是非に乗車したいものです。

また6月1日より切符を購入する際は、飛行機と同様に人民は身分証明書、 外国人はパスポートが必要となりました。これにより外国人は切符自動販売機では購入できず、窓口に並ばなければならなくなっています。
これは、横行するダフ屋撲滅を目的にしておりますが、反政府分子の鉄路乗車移動を規制する目的にもなっているといわれています。

じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part6  馬路から別子へ 別子鉱山鉄道

Part5を投稿してより1ケ月近く経過してしまいました。Part6の下書きは用意していましたが、クローバー会の皆様へのお知らせ郵送があって、こちらに全力を向けました。
ようやく16日に作業が終わりましたので、3月に芭石鉄道で出会った早稲田大学鉄道研究会OBのO氏よりお誘いがあった中国地方線に現役で残るSL撮影旅行に出かけることにしました。
いつもでしたら中国からでも投稿していましたが、今回は愛用ノートパソコンが直前に物理的に壊されて持っていけません。(たまたま床に置いてあったのを掃除人に踏んづけられて、液晶画面がバリッと割れました。)
そんな訳で、こんなに遅れてしまいました。ご老公様、申しわけありません。続編を投稿させていただきます。

第3日目 5月6日 馬路→高知駅→善通寺
魚梁瀬森林鉄道は現地に来て、生い立ちから廃止への歴史を学びました。馬路からの帰路は、対岸に見た1・2号トンネルを真近に見るために途中から一般道を離れ、廃線跡を奈半利まで向かいました。今では狭いながらも農道に使用されています。


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