【14418】須磨老人も撮っていた

京王帝都電鉄の、半鋼製のくせにダブルルーフのださい電車は、この電車あんまり好きでない老人もなぜか撮っていた。場所は新宿甲州街道併用軌道。扉はプレスドアになっているが、トルペードベンチレーターがしっかり残っている。先頭車の番号は2153である。こうしてみると、ダブルルーフの方が格段に格好いいですな。


【14402】元京王電車2110

本日工場入りして検査終了。米手作市様より迷図作家関三平様のシリーズで京王電車2110型がとりあげられた。私が関東に住むようになった時には京王線は既に1500Vに昇圧しており、昇圧前の戦前製の車両はサハ化された車両と元2400型の221型くらいであった。今回とりあげられた2110型の特に後の「たこ坊主」と言われた戦災復旧車は庄内交通鶴岡で撮っている。雨宮製作所製京王電軌119→東急・京王デハ2119→庄内交通モハ7で、ご覧のとおりパンタを降ろした粗悪写真で恐縮であるが、どなたも写真投稿がなかったので敢えて掲載してみた。米手様ご期待の「たこ坊主」にしては平凡な復旧車に見える。京王には他にもっと凄いと言おうか屋根の深い不細工な復旧車が居た。

                 1972.03.21鶴岡 2枚とも

 

 


【14408】ユースで巡った鉄道旅 -15-

前回紹介の奥中山ユース、こんな不便極まりないユースに泊まったのは、特派員以外には絶対にいないと確信していたところへ、米手作市さんが泊まったとコメントを寄せられたのには驚きました。同じような体験をされ、しかも数回に渡って宿泊されたとは、恐れ入った次第です。さて、蛾が乱舞する汚いバンガローで泥のように眠った翌日は、絶好の天気。体力、気力とも十分に回復して、高原頂上のユースを出発します。途中、止まってくれた耕運機の荷台に便乗して駅近くまで行き、本日の狂化合宿地、龍ケ森へと向かいました。

奥中山から146レに乗り、好摩へ。途中、御堂で下り臨時急行「第2おいらせ」と交換する。東北本線はほとんどが複線化されていたが、沼宮内~御堂間のように単線のまま残っている区間もあり、このような上下列車の交換がまだ残っていた。電化開業を前にしたこの時期、優等列車はほぼEL・DL牽引だったが、「第2おいらせ」だけは蒸機牽引で残っていた。牽引はD511113〔尻〕+C6013〔盛〕と、盛岡以北の客車牽引の標準的な組合せであった。続く客車は臨時ながらも10系客車で編成されていた。本務の機関助士がキャブから乗り出すようにして、誇らしげに通過して行った。左は乗車の146レ

狂化合宿は龍ケ森を舞台に2日間に渡って行われ、その後、再びDRFCのメンバー4人とともに、奥中山へ戻ってきた。最後を見届けたかったのと、本日は特別な列車が走るためであった。三重連は今日も何本か見られた。あいにく天気は下り坂で、もう吉谷地カーブへ行く意欲はなく、駅の周辺を行ったり来たりしている。ナメクジD51を先頭にした上り三重連貨物は、下り勾配を軽快に下ってきた。ドラフトも煙もないが、ドレンをわずかに吐きながら、安堵の表情を見せて駅構内に入ってくる蒸機の姿もまたいいものだ。

本日の特別な列車とは、お召編成9109レだ。と言っても本番ではなく、回送で1号御料車編成が通過するのだ。この時、北海道で開道百周年に伴う行幸があり、お召し列車が北海道で運転される。もちろん天皇は空路北海道入りのため、お召編成は、遠路はるばる北海道まで運ばれるという次第。DRFCの面々と駅北側の踏切で待つことしばし、やって来た9109レ、牽引はDD51あたりかとの予測が外れ、現れたのはC6128〔青〕、蒸機であることは貴重なのだが、肝心のお召編成はドレーンに包まれてしまい、ほとんど見えない。1号御料車には、すっぽりと白布が覆われていたのには驚いた。

奥中山駅の駅舎は、二重となった仕切り、勾配屋根、雪止めと、すっかり雪国の仕様になっている。これ以降、昼間に奥中山を通ることはなくなったが、付近は「奥中山高原」の名でリゾート開発が進められ、自然休養村、スパ、キャンプ場、天文台、スキー場などが散在しているという。かつての鄙びた高原は、すっかり姿を変えているようだ。駅も、IGRいわて銀河鉄道の奥中山高原駅と名を改めている。あの強烈な思い出を残したユースはネットによると昭和56年には閉鎖されている。

薄暗くなりかけた頃、45レに乗って奥中山を去った。朝は一緒だったDRFCメンバーも次の目的地へ向かい、自分ひとりだけが残って、しつこく撮っていた。45レは、C6020+D51という通常とは逆パターンの牽引、尻内(現:八戸)でホームの先頭へ行ってみると、さらに前にD51が付いている。一戸で増結したらしいが、夜間ながら旅客列車の三重連が実現している。途中からさらに雨は激しくなってきた。窓ガラスに水滴をまとわり着かせながら、列車は北上を続ける。旅はまだ始まったばかり、これから、青函連絡船に乗り、初めての北海道に向かう、大学一年生の夏であった。


【14398】京王電車デハ2110型

東京にいた頃、縁もゆかりもなく見たこともなかった電車だが、今見るとなかなかの物ですね。オハ31にパンタとモーターをつけたような標準型より、関先生が言うところの「タコ坊主」の方に興味がわきます。どなたか写真をお持ちではないでしょうか?

※しばらく前から記事がタテ組みからヨコ組みになったため、いちいち切って貼り合わせていましたが、今回からは新聞を切らず画像処理で組み合わせました。


【14378】青蛙と赤蛙(その2)

6月20日「【13758】東急のアバンギャルドな5000型」に対し、乙訓の長老より23日「【13805】青蛙と赤蛙」で、熊本電鉄と岳南鉄道に転出した車両の解説があった。
東急5000形は、上記2社の他、長野電鉄、上田交通(現上田電鉄)、松本電鉄、福島交通に転出している。
今回は長野電鉄と上田交通に転出した車両について解説する。

(1)   長野電鉄
長野~善光寺下間の地下化(昭和56年3月1日開通)に伴い、不燃化基準の関係から半鋼製の在来車が使用できなくなるため、昭和52年1月から55年10月にかけて26両入線した。Mc+Tcの2両編成10本とMc+T+Mcの3両編成2本を組み、在来車に代わり普通列車の主力として運行されたが、平成10年の長野オリンピックに向け、平成5年から10年にかけて営団地下鉄日比谷線の3000形との置換えが行われ、平成10年までに廃車となった。
モハ2510+クハ2560が須坂市の「トレインギャラリーNAGANO」の駐車場に保存されている。

 


モハ2611(元東急デハ5036)+クハ2551(同クハ5155)/昭和52年5月5日 須坂 (最初に入線した車両で、モハ2611はサハ2651+モハ2601と3両編成、クハ2552はモハ2501と2両編成を組んだ)

 


モハ2501(元東急デハ5035)+クハ2551/平成8年8月24日 屋代

(2)上田交通
昭和61年10月1日別所線1500V昇圧に際し、東急5000形8両(Mc+Tc4編成)と5200形2両(Mc+Tc)の10両が入線し、在来車を置換えた。
平成5年5月28日に元東急7200形のモハ7251+クハ7551~モハ7255+クハ7555の5編成と置換えで廃車となり、僅か6年半の活躍であった。
モハ5001は元東急デハ5001で、廃車後東急に返還され、登場時の姿に復元され保存されていたが、平成18年車体をカットされ、無残な姿で渋谷ハチ公前広場に置かれている。歴史的にも重要な車両が、何故このような結果になってしまったのか、残念を通り越し憤りを感じる。

 
クハ5053(元東急クハ5163)+モハ5003(同デハ5017)/昭和61年8月24日 上田 (昇圧前で待機中)

 
モハ5002(元東急デハ5005)+クハ5052(同クハ5162)/昭和62年1月15日 上田 (扉の窓ガラスが原形)

 
モハ5004(元東急デハ5030)+クハ5054(同クハ5164)/昭和62年1
月15日 上田

日本初のセミステンレスカーであるモハ5201(元東急デハ5201)+クハ5251(同デハ5202)は何度が撮影に行ったが振られっぱなしであった。こちらも廃車後モハ5201が東急に返還され現在は東急車両で保存、クハ5251は自社下之郷電車区で保存され、イベント時に一般公開されている。

(3)岳南鉄道補足
昭和56年5月から6月にかけて在来車置換えのため、東急5000形8両(Mc+Tc4編成)入線した。平成8年元京王電鉄3000系改造の7000形に置換えられ廃車されたが、岳南富士岡駅や貨物ヤードに留置され、平成20年夏頃解体された。

 
モハ5004(元東急デハ5049)/昭和61年8月15日 吉原

 
クハ5104(元東急サハ5364)/昭和61年8月15日 吉原

 
クハ5102(元東急サハ5363)+モハ5002(元東急デハ5028)/昭和61年8月15日 岳南富士岡

(4)その他
福島交通に昭和55年12月と57年10月各2両(Mc+Mc)入線しているが撮影していないまま廃車になった。
松本電鉄は昭和61年12月24日1500V昇圧に際し、東急5000形8両(Mc+Tc3編成、Mc+Mc1編成)が入線し、在来車を置換えた。こちらは登山で上高地から入下山の時、何度も乗っているがまともな写真がない。登山と鉄道撮影の両立は極めて難しい。

[番外]東急時代

 
デハ5030/昭和47年12月17日 多摩川園(上田交通モハ5004で再起)

 
デハ5042/昭和52年2月12日 田園調布(長野電鉄モハ2613で再起)

 
クハ5153/昭和52年2月12日 旗の台(長野電鉄クハ2552で再起)

 
デハ5201/昭和52年2月12日 旗の台(上田交通モハ5201で再起)


【14367】中国版新幹線 追突転落事故発生!

7月23日現地時間20時34分(日本時間;21時34分)に浙江省温州付近にて中国版新幹線の追突衝突事故が発生し、多数の死傷者がでました。中国鉄路をこよなく愛する私としては真に残念な事故発生に深い悲しみを持って受けとめております。
不幸にして事故に遭遇され亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りするとともに、負傷されました方々のご回復を願っております。

事故の様子につきましては、昨日「鉄道展 東北を旅して」のイベントに参加帰宅してすぐに知りました。昨夜は現地サイトのニュースをインターネットで見ながら、釘付けでした。日本で報道された内容には誤報もありますので改めて整理させていただきます。

現地の最新情報についてはこちらへ。

【事故発生の状況】
事故発生時現場(杭深線永嘉と温州南)は豪雨で雷が響き、落雷停電となって約1300人満員の乗客を乗せたD3115次(杭州→福州南、CRH1Bの16両編成)が緊急停車中でした。そこに、約700人を乗せたD301次(北京南→福州、CRH2Eの16両編成)が追突しました。衝突後、D301次の先頭車16号車から13号車が高架線の側壁を飛び越えて地上に転落、13号車は地面に直角に激突しました。
事故現場はこちらです。

【安全設備】
高速専用線にはATP自動列車制御装置が採用されていますので、 先行列車が停車した場合は、停止させる機能を持っていますが、なぜか機能は発揮されず後続列車がそのまま激突しています。これからの調査により事故原因は解明されると思いますが、これまで言われてきた中国版新幹線の安全性への問題点が現実となった起こるべきして起こった人災事故ではないかとの推測がインターネット上には掲載されています。

【事故車両】

▲ D3115次に使用されているCRH1B(16両編成)、写真はCRH1(8両編成)。ボンバルディアから技術供与を受けた200km/h対応車で、全鋼製。寝台電車仕様のCRH1Eもあり、現在増産されています。今回046B編成が追突されました。


▲ D301次に使用されているCRH2E(16両編成)。「はやて」を寝台電車に設計変更して、京滬高速が開業する前は、北京南~上海虹橋の夜行として使用されていましたが、現在は、昼間運行となり軟座寝台は、6人コンパートメント普通車として運行されています。今回139編成が追突した側の加害車両です。

追突後、加害車両は空を舞って地面にたたきつけられたとの目撃者証言があります。尼崎の事故のように先頭車はぐしゃぐしゃに破壊されていて、事故の大きさが甚大だったことが分かります。
起こってはならない事故が発生し多くの人命が失われた事は、安全への軽視以外に考えられようがなく、これからどのような原因究明と対応策を講じられるかが問題です。