福井鉄道の旧京浜


福井鉄道南越線モハ103 

乙訓ご老人の投稿があって、待てよ、確か須磨老人も福井で撮ってる筈と、限りなく薄れた記憶を搾り出すと、1958年7月30日南越線でモハ103を、翌年4月3日鯖浦線でモハ101を撮っていた。高松琴平同様、京浜電気鉄道の新車導入に対する代償=「供出」で、当然ながら最も古い車両を手放したのである。詳細は乙訓老人か、藤本哲男氏にお願いしたい。元来この老人がなんでこんな電車を撮っているんだといわれそうだが、話は簡単―木製車だからでありますよ。中央扉が真ん中にないのが福井での特徴みたいですね。


福井鉄道鯖浦線モハ101

他に例を見ないオデコ・京浜140型

DRFCが結成される前の1958年春休み、3度目の東京電車見物に出かけている。当時のメモによれば4月4日東武西新井工場、5日雨につき京成全線乗りまわし、6日交通博物館、7日小田急経堂工場、そして相模鉄道5000形乗車、8日京浜川崎車庫と金沢文庫車庫となっていた。140型は最初の東京電車見物、1952年の時に見ており、230型の中間車として使用されていた。今回、他に例を見ないオデコ(関西ではデボチン)と紹介され、このオデコ「高松で見たぞ」となり探してみた。①高琴電鉄モハ21号である。吉川さんの記述によれば、開業期の1号型を大正期1926年に車体更新したものだと紹介されている。デ14形14~17号のうち16号のようだ。東急合併時には5110形5113号、京浜分離後は113号となり、四国に渡ることになった。

このスタイルなら「もう1丁あったぞ!」と探し出したのが1959年夏、京都駅で貨物列車の最後尾に繋がれ高松へ回送される姿を見た②128号。この120形は1921年藤永田造船製造のデ40形がスタートで、デボチン拡大初代となる。しかもタマゴ型5窓、関西スタイルがプロトタイプとなった。他に例を見ないオデコになったのは、正面に行き先方向幕を移したことが拡大理由だそうだ。京浜電車は窓高が大きいことで評判を呼んだが、そのはしりが後に120型となったデ40形と言えよう。その発展型が140形で、制御車として先頭に出るようになったのは120形引退が引き金になった様だ。120形は1958年に5両、翌年6両の廃車、その6両のうち2両が回送されている姿を、老人は図らずも目撃したのであった。高松では後に鋼体化、10形2両、60形4両となった。

1958年4月車両基本編成表では川崎車庫に140形は153~160号の8両が配属されており、そのうち2両が293+159(+261)、296+160(+271)-()内は朝夕ラッシュ時の増結車-の2編成となり、閑散時に140形の運転台が風を切ることになった。残る6両は230形に挟まれ本線用となっていた。川崎車庫所属車に120形11両中6両が大師線用として残り、そのうち123、124、126、128が3扉車290形とカップルとなり、先の140形組み込み編成と共に3扉車6本、ラッシュ時は2扉車230形の増結を得て威力を発揮したのであった。131号は266と編成を組み大師線用、127号も262と組み予備車となっていた。これがDRFC発足当時のデボチン電車の実態と言えるであろう。

ついでに京浜電車から終戦直後、63供出車として高松へ送られた電車は21号以外に7両あった。老人が瓦町駅待合室での仮眠から目覚めた時、始めて撮影した元京浜電車2両を紹介しよう。③70形71号は大正初期に製造されたデハ29型に始まる正面が丸い3ツ窓木造車の後身である。中央窓の上部が丸く左右の窓もカーブがきつく印象深い。72号と2両あった。④60形61号は70形の電動車で、4両の内3両は原型の木造車体を簡易鋼体化の結果、正面の特長あるスタイルは失われた。残る1両は鋼体を新造した正面2ツ窓d2D6D2dの近代的なスタイル、2電圧対応型の今後の琴電の標準車になる筈であった62号であった。更に1両、琴平線用に61号と同スタイルの制御車15000形1510号があった。いつのまにか600V用になり73号になっていた。これで7両となる。

先の記述の中で141形は140形、仕事と孫の付き合いは7/1~3であったこと、訂正します。

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

②仏生山到着後8ケ月後、ボ繝・?繝・?姿となった。
②仏生山到着後8ケ月後、ボロボロの姿となった。
③譽・?荳・?窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

③正面中央窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

④原型の姿が失われた簡易鋼体化
④原型の姿が失われた簡易鋼体化

ユースで巡った鉄道旅 -12-

今回のユース巡りは、東北の被災地近くにあったユースに目を転じました。
大震災からの復旧の端緒が見えないJR線の中で、原発事故も重なった常磐線北部は、最大のダメージ区間でしょう。現在、久ノ浜~亘理間は、全く復旧の見込みが立っていません。この常磐線北部、45年前には、日本で唯一、C62の牽く特急が撮れる区間として、賑わっていた場所でした。
私も高校3年の時、一度だけ撮りに行きました。撮影で利用したのが平ユースホステルでした。ここは少しの記憶が残っており、平駅からバスに相当乗って、最寄バス停で下車、海岸へ向かって田んぼの中の一本道を行った先に、目指すユースはありました。訪れたのは、夏休みも残り少ない時期で、宿泊客もほとんどなく、食堂からは海岸風景が望めました。今も健在な公営のユースですが、震災の影響で当分の間、休館とのことでした。津波の影響があったのかもしれません。

「ゆうづる」のC62牽引区間は仙台~平、夜行列車なので、撮影地は限定される。平から二つ目の四ツ倉がもっとも行きやすいところだった。これを撮るためのアクセスは、上野22時24分発の常磐線経由の青森行き、夜行鈍行227レに乗り、四ツ倉4時12分着で行くのが、唯一最上の手段で、227レの編成前部は、カメラを持った人間にほぼ独占されていた。
四ツ倉に着いて撮影地へ向かうが、もう完全に電化が完成している。もう少し早く来ていたらと悔やまれるが、今から思うと、高校3年生の身で、京都からよくぞ行ったものと思う。「ゆうづる」が通過する前に何本かの蒸機列車の通過があり、テストが出来る。カーブの外側から、C6237の牽く普通列車を狙う。当時は、周囲を入れようという意識はなく、とにかく蒸機の迫力を表現するため、画面ギリギリに入れるのが好きだったが、予想より煙が出すぎてしまい、爆煙が切れてしまった。

本命の「ゆうづる」の四ツ倉通過時刻は、5時50分ごろ。まだ光量が十分でないことを考慮して、初めて高感度のトライX一本を購入し、うやうやしく詰めたカメラを構える。四ツ倉から久ノ浜方面に歩き、鞍掛山トンネルまでの間を探すも、編成全体を見通すことは架線柱に阻まれてかえって不利と考え、ここでもC62と20系数両だけを切り取ることにした。下からあおると、半逆光線にC62の動輪やボイラーが輝いた。牽引機は、ゆうづる専用機に近い23号機だった。

当時の常磐線の非電化区間の平以北では、旅客がC62、C61、C60、貨物がD51が使用されていた。ハドソン三兄弟が揃い踏みしていたのは常磐線だけだった。C62が余りにも有名で、C61、C60は影が薄かった。とくにC61は、平区に1両だけの配置だった。近頃のC6120の動態運転の記事を見ても、過去の写真は奥羽本線や日豊本線ばかりで、常磐線は見たことがない。仙台行き223レを牽くC6121、動態運転中のC6120とは1番違いのカマは、この年に廃車されてしまった。

常磐線は、東北本線より距離が少し長いが、線形が良いため、東北へ向かう優等列車が多く運転されていた。伝統の特急「はつかり」も設定当時から常磐線経由で、昭和35年12月から、それまでのC62牽引の客車編成から、キハ81系に替わった。運転当初は、事故や故障が続発したが、その後に誕生したキハ82と同様に改造してからは順調になり、キロ2両、キサシを組み込んだ、東北唯一の昼行特急に相応しい編成となっていた。もちろん初めての撮影であり、よくよく見ると何とも愛嬌のある顔をしている。翌年の東北本線完全電化により、「はつかり」は581系化されることになり、キハ81系は、昭和44年から「ひたち」「いなほ」に転用される。


四ツ倉駅に到着する226レ、一日の撮影を終え、この列車に乗って、平まで行ってユースへ向かった。浜通りと呼ばれる、福島県の常磐線沿線にはかつて多くの専用線が分岐し、古典蒸機が活躍していた。四ツ倉もそのひとつで、住友セメント四倉工場専用線が駅の裏側から八茎鉱山へ向かい、ナスミス・ウイルソンの600形が動いていた。昭和40年代が全盛時代で、蒸機に代わったDLが24時間運転していたようだが、昭和57年の工場閉鎖とともに専用線も廃止されたが、今でも廃線跡は残っているらしい。現在では福島原発の避難地域が久ノ浜以北となり、いわき~草野~四ツ倉~久ノ浜は、特別ダイヤで運転されている。

平駅。8月の終わり、残暑の厳しい時期だった。駅舎、自動車の姿を見ると、今昔の感がする。駅の所在する、いわき市は、訪れた前年に、平、勿来、磐城などの14市町村が合併して、当時日本一大きな面積を持つ、いわき市が誕生した。平駅も、平成6年に「いわき」に改称されてしまい、名実ともに「平」の名は消えてしまったが、ユースの名称だけは今も平を堅持している。その後、この駅を訪れる機会は無いが、ネットで現状を見ると、再開発の大型ビルが林立しているようだ。

井笠鉄道矢掛線1964年6月


乗客7人(含小生)でのんびり走るホジ8

西村雅幸氏の中国新聞連載特集紹介を見て、矢も盾もたまらなくなって47年前のネガを探すことに。井笠鉄道は高校生だった1954年以来、何回行ったか思い出せないぐらいだが、矢掛線に乗ったのは1964年6月11日の1回だけである。既に笠岡-井原の本線ではホジ1~3、101、102が主力になり、かつて矢掛線でも働いたジ14~16(旧神高鉄道=両備鉄道が国有化されて改軌、取り残された神辺-高屋間が神高鉄道になり、1940年1月1日井笠鉄道が買取)は、本来の神辺線に戻っていた。従って矢掛線は本線で出番が激減したホジ7~9のうち、1両が往復していた。


矢掛到着 バスの基地でもある この屋根の骨組が今も残る

矢掛到着のホジ8 右のホハ3はラッシュ時の増結用

折り返し列車はワを1両連結した混合列車に

ラッシュ時はそれなりの乗客がある筈だが、昼日中とあってホジ8単行の車内は閑散そのもの。折り返し北川行はワを1両連結した混合列車になり、北川のひとつ手前の備中小田でちょっとした椿事?が。男女3人が、びっくりするくらい大きなコモ包みの小荷物を荷台に積み込むべく、待ち構えていたのである。こんな小さな駅でも駅員が居り、小荷物の重量を測る秤も鎮座している。


備中小田での珍騒動 貨車に積めばよさそうなものだが 車掌の表情をご推定あれ

そのコモ包みがご覧の代物だから、ちょっとやそっとで積み込めない。おまけに列車を待たせたまま平然と荷札をつけたりしている。当然停車時間が長くなり、北川での本線との連絡に遅れないかと車掌はヤキモキ、イライラ。写真からもその憮然たる表情がありありと読み取れよう。


やっと北川到着 コモ包みの大きさをご確認あれ

まあ3~4分かかって何とか積み込んだが、北川ではそれを下ろすのに手すきの駅員を呼び集める騒ぎに。笠岡行きとの接続も約3分遅れで辛うじて維持され、めでたく井笠鉄道のこの日の平和は回復されたのであった。


手すきの駅員を動員して荷物を半分下ろした時 笠岡行本線列車が到着

左がやはり客車、貨車1両を連結した笠岡行混合列車 左が矢掛線ホジ8

この矢掛線の廃止は神辺線とも1967年4月1日、本線たる笠岡-井原間は4年後の1971年4月1日である。蛇足になるが、井笠鉄道の矢掛-備中小田-井原-高屋-湯野というコースは、国道486号線と並行するが、これはかつての「山陽道」なのである。井笠鉄道廃止前から井原線の建設が続けられ、長い中断があって第三セクター井原鉄道として、この旧山陽道ルートで開業したのが1999年1月11日。

また高屋のすこし西が岡山、広島の県境だから、かつての神高鉄道はたったの7.93kmのくせに、広島・岡山の2県にまたがる鉄道であった。これも蛇足だが、2県にまたがる軽便は、筑後軌道、両備鉄道(神高鉄道)、三井鉱山(神岡軌道→鉄道)、草津軽便鉄道(最終草軽電気鉄道)しかないことは、意外に知られていないのではないか。

井笠鉄道 連載その3

平成23年7月5日掲載分をご紹介します。

旧矢掛駅駅舎が北振バス本社となっているとあります。私が訪ねたのは平成11年1月30日で もう10年以上前ですから 今の様子はわかりませんが、10年前の様子もご紹介します。給水塔?の残骸もありました。駅舎のスレート屋根の骨材や給水塔の骨組みはすべてレールです。

 

新聞記事と同じアングル

改札口方向を望む

  給水塔?の残骸

早く起きた朝は

先輩方の投稿の流れを切るようで申し訳ありません。デカンショ祭り号さんや準特急先輩の関東での活躍を羨ましく思いながら、ここのところ土曜日に出勤が続き代休がたまってきたので思い切って平日に休むことにしました。いつ休むか考えましたが丁度今日に2つのイベント(?)があることを思い出し天気が良いことを願いつつ休みをとりました。そのイベントはひとつは関西で唯一のワム貨物列車6170レの撮影、もうひとつは鉄道には関係ありませんがボーイング787が伊丹空港に飛来するということで見てみたいということでした。昨日夕方から降り出した雨は夜半にはかなり強くなり雷まで鳴り出す始末で明朝は駄目かもと思いつつ天気予報をみると夜中には雨がやんで明け方には晴れるかもというありがたい予報だったので早めに就寝しました。朝4:30に起床すると雨は上がり雲も切れ日が当たりそうな空模様です。早速着替えて車で出発しました。向かうは山崎のカーブです。ワム貨物の6170レは以前から走行しているのは知っておりましたが、火・木・土の早朝5:30頃梅田貨物駅を出発し吹田信号所を5:52発で稲沢まで走行しています。このため撮影時期が限られており実は撮影したことがありませんでした。牽引機はEF66で数年前までは梅小路(現京都貨物駅)までもう1両回送のEF66がつくため重連だったようですがカメラの性能的に撮影が難しい列車だったのですがいつかは撮影したいと思っていました。昨年SRC(スーパーレーカーゴ)を撮影にこの山崎まで来たのですが、そのときは痛恨のエラーで帰ってしまい悔しい思いをしましたのでリベンジも兼ねておりました。高速の早朝割引を利用し山崎ICで降りて目的地に着いたのは5:30頃でしたが平日でしかも牽引機が130号機だったためか先客は1名のみ、好みのポジションを決めて待ちます。6:00頃には線路にも日が当たりはじめ光線を期待しますが雲も多く予断を許さない状態です。列車は6:13頃にワム独特のジョイント音を残し定刻で通過していきました。残念ながら日は当たりませんでした。余韻に浸る間もなく移動を開始します。次の目的は伊丹空港です。ボーイング787は次世代を担う中型機として開発され日本の川重や東レなどの企業も参加し35%の部品が国産というジェット機です。機体は従来のアルミ合金から炭素繊維合板になり軽量化がはかられ燃費が向上し航続距離も飛躍的に伸びています。全日空がローンチカスタマーとして最初に導入するため今回、お披露目とともに各空港の設備試験や訓練も兼ねてシアトルから7/3に羽田に飛来しました。日本では伊丹、関空、岡山、広島、中部の各空港で設備の試験をするのですが、伊丹には7/5の7:30に到着し11:30に羽田に向け出発の予定がANAのHPに公開されていましたのでかなりの人出になることは覚悟していました。7:00過ぎに伊丹空港の進入路に当たる千里川に到着しましたが流石に飛行機撮影の方々のベストポジションは超満員で少し離れたところに場所をとりましたが鉄道と違い上を向いて撮影するのと被写体が大きいのでポジションの自由は利きます。肝心の機体は7:30を過ぎても一向に来る気配がありません。30分ほど過ぎた8:04頃に着陸しました。伊丹スカイパークや展望デッキも大勢の方が待ち受けていたようでした。ちなみに千里川土手は多分150~200名程度の人出だったと思います。到着10分前には警察の方が違法駐車は至急移動するようにと廻っておりました。私は一旦家に帰り11:30の出発に合わせて伊丹スカイパークに行きましたがやはり200名位はいたのではないかと思います、出発も無事見送ることができました。その後散髪屋に行けば今日の予定は終了だったのですが火曜日定休でこちらは持ち越しになりました。

松本電鉄浅間線 その1

電車嫌いのヘソ曲がりだの、「新しいものについていけないだけの、単なる頑迷なジジイ」だのと云われているらしい。その幾分かは当っているのが忸怩たる思いだが、この老人とて、頭から電車が嫌いというわけではない。分野によっては好きなものもあるが、極めて限られる。例示すれば花巻軌道線、秋保電鉄、駿豆三島軌道線、静岡鉄道秋葉線、それに今回の松本電鉄浅間線など=のどかで時代離れした電車であることが共通する。花巻、秋保は既にご高覧賜ったので、今回は浅間軌道線を押し付けがましく、しつこく。

筑摩電気鉄道の軌道線として、1922年3月9日特許、軌間1067mm、5.2km。開業時は鉄道線の2軸単車デハ1~3を路面乗降改造して投入したが、2年で布引電気鉄道(小諸-島川原、7.5km)に売り飛ばす。後しばらく鉄道線の2軸車デハ11がはいったこともあるが、最後まで木製ボギー車で終始した。なお布引電気鉄道は経営不振で、ガソリンカーに変更を申請しながら、無手続でレールも撤去し、1936年認可当局が現認したら、橋桁も売り飛ばし、車両は影も形もなかったとある。1936年10月28日免許取消処分された。

本題の筑摩電気鉄道は1932年12月2日松本電気鉄道に改称したが、浅間軌道線は同年起点を約100m延伸して松本駅に近くなった。さらに敗戦後の1949年駅前北側に隣接した停留場を設け、我々が知っている起点の「松本」がこれである。ついでながら、「日本鉄道旅行地図帳6号」(新潮社)では「松本駅前」とするが、「地方鉄道軌道一覧」や「鉄道停車場一覧」、「帝国鉄道年鑑」等はことごとく「松本」だけである。電車の方向幕、サイドの行先札、乗車券も同様だから、「松本」が正しいのであろう。


恐ろしく素朴な「松本」出札口と出入口

その「松本」だが、実に素朴なものだったのは、写真をご覧頂ければ納得されよう。ちゃんと出札所があるが、改札口はなく、集札時の柵だけ。切符は半硬券だが、出札時パンチを入れて発売。車内で車掌から買うとパンチなしだったと記憶する。


本通から急カーブを2回繰り返して松本駅前(画面左)の「松本」へ

一応舗装されてはいるようだがご覧の有様

松本駅前で2回90度曲がって市内の目抜き?通りをゴロゴロと約1.4km行くと最初の離合地点である「学校前」。朝夕20分毎、日中10分毎の頻発だから、撮影するのに退屈することはなかった。運転席にはちゃんとタブレット(もどき)を積んでいるが、閉塞はこれ以上簡単にできないスタフ式だから、単に「通票」を交換するだけで、玉、キャリア共タブレット式と同じものを使っている。


流石に花巻軌道線などとは違って車内は充分広く膝が当ることはない

路面からは踏み段を2段上がって運転台 それからもう1段上がって客室となる 運転席には通票が

こっちは後部 いわゆるH棒はこんな狭い代物だが運転手の「もたれ」にはなる


松本駅前から約1.4kmの「学校前」に最初の離合設備がある このすぐ先に思わずエッという急カーブが待ち構えているが 次回のお楽しみに

布引電気鉄道デハ1~3竣功図 浅間線のデハ1~3を再び鉄道線用に改造している

井笠鉄道創立100周年

中国新聞井笠おかやま版に「井笠鉄道創立100周年 懐かしの24駅・停留所」という連載記事が掲載されたので これから順次ご紹介してゆきます。第1回は7月3日掲載分です。1回につき4駅のようですから 6回で24駅が紹介されるようです。

昭和40年頃大船から明石に転属した車両について

クハ76305の話題が出たので、その関連事項について書いてみたい。

横須賀線の113系化に伴い、余剰となった車両が明石に転属して京都~西明石間の大阪緩行線で使用されたが期間は非常に短かった。
昭和39年8月にモハ70077、078、089、090の4両が転属し、昭和41年5月(090のみ41年8月)中央西線用として大垣に再転属するまで在籍した。
昭和40年2月にモハ70038、039、040、059、060、061とサハ58000、011、020、021の10両が転属、更に7月にモハ70037、104、105、106とクハ76032、305の6両が転属、モハ70とクハ76は昭和41年4月(70038、039、040、059)と5月に大垣に、サハ58は昭和41年8月(58000、011)12月(020、021)に岡山に再転属するまで在籍した。サハ58は元流電一族の中間車で、クハ76305と共に情報が何も無い中で初めて見た時は卒倒寸前であった。(決してオーバーな表現ではない)
以下写真と共に解説する。

クハ76305
昭和32年汽車会社製、新製以来横須賀線で使用されていたが、昭和40年7月明石に転属、写真のように塗装を茶色に変更した。わずか10カ月後の41年5月大垣に転属して再びスカ色になった。一時期浜松~米原間でも使用されたが、昭和53年12月廃車になった。

 
41年2月14日  京都駅

 
再びスカ色となった中央西線時代  49年3月4日 名古屋駅 

クハ76032
昭和26年日立製、横須賀線から76305と共に昭和40年7月明石に転属して41年5月大垣に再転属した。塗装は76305と同様、茶色に塗られ、大垣転属時再度スカ色になった。関西時代のネガ紛失のため中央西線に転属後の写真を貼り付けた。写真のように正面窓は最後まで木枠であった。

 
49年3月4日 名古屋駅 

モハ70105
昭和26年川崎製、当初明石に配置されたが、昭和37年4月横須賀線用として大船に転属、昭和40年7月古巣の明石に転属して41年5月大垣に再転属した。当初スカ色のままで使用され、後日茶色に塗替えられたが僅かな期間に再度スカ色になった。

 

 
先頭車はクハ68050、3両目はモハ70106である。40年8月28日  京都駅

モハ70037
昭和26年川崎製、昭和40年7月大船から明石に転属、41年4月大垣に再転属した。

 
41年4月8日  京都駅

サハ58000
昭和11年川崎車輌で流電第1編成のサハ48029として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58000となった。40年2月明石に転属、41年8月岡山に再転属して山陽本線岡山周辺のローカル、宇野線、赤穂線で使用され、51年9月廃車になった。

 
41年7月31日  京都駅

サハ58011
昭和12年8月日本車輌で合いの子第2編成のサハ48033として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和38年11月大船工場で3扉化してサハ58011となった。40年2月明石に転属、41年8月岡山に再転属して、58000と同様に使用され51年6月廃車になった。トイレ付であったが明石時代は閉鎖されていた。

 


上/40年3月13日、下/40年8月28日 京都駅

サハ58020
昭和12年3月日本車輌で流電第2編成のサハ48030として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58020となり、40年2月明石に転属、41年12月岡山に再転属して52年3月廃車になった。

 
41年10月11日 京都駅

サハ58021
昭和12年3月日本車輌で流電第3編成のサハ48030として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年3月大船工場で3扉化してサハ58021となり、40年2月明石に転属、41年12月岡山に再転属して52年3月廃車になった。

 


上/41年10月11日 京都駅  下/49年11月23日 岡山駅

直接岡山に転属した車両
サハ58010、58050、クモハ51206、51208の4両は明石を経由せずに直接岡山に転属した。

サハ58010
昭和12年8月日本車輌で合いの子第1編成のサハ48032として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58010となった。39年8月6岡山に転属、山陽本線ローカル、宇野線、赤穂線で使用され51年10月廃車になった。

 
49年11月23日 岡山駅

サハ58050
昭和12年3月川崎車輛で流電第3編成のサロハ66017として誕生、昭和18年10月戦時改造でサハ48035となった。昭和31年12月横須賀線用として大船に転属した。昭和38年11月大船工場で3扉化してサハ58050となった。39年8月岡山に転属して51年9月廃車になった。

 


47年2月6日 岡山駅

クモハ51206
モハ43024として昭和9年2月川崎車輛で誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和38年10月大船工場で3扉化してクモハ51206となった。39年8月岡山に転属して51年9月廃車になった。

 


上/40年8月1日 笠岡駅  下/49年11月23日 岡山駅

クモハ51208
モハ43032として昭和9年8月川崎車輛で誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年3月大船工場で3扉化してクモハ51208となった。同年8月岡山に転属して51年8月廃車になった。昭和48年11月頃から翌年2月頃まで明石に貸し出され緩行線で使用されたが、この時期昼間はオール103系の運用となっており、旧形の運用は朝と夕方以降に限られていた。

 

 
上/47年2月6日 岡山駅  下/49年1月21日 京都駅

遜色急行 113系 急行 伊豆

昨日7月2日と本日7月3日、東京~伊東間で、幕張の113系4連×2本(116編成横須賀色+117編成湘南色)を使用した団体臨時列車「113系で行く 急行伊豆の旅」が運転されました。

手近に済まそうと、昨日、早起きして、田町駅東京方で撮影してきました。(蛇足ながら、準特急先輩は、景色の良いところに遠征されたようです。)列車出発二時間半前に、田町に到着しましたが、既に、先客が4名。最終的には、20名程度になりました。

列車は、東海道線のE231系・211系・185系。東海道新幹線の300系・700系・N700系。京浜東北線のE233系。山手線のE231系とひっきりなしに往来しますが、あまり面白味の無いものばかりです。

写欲が湧くのは、185系・211系・300系でしょうか?

300系は、1時間に一本程度しか走ってきません。

その中で、偶然、485系「NO・ DO・KA」が走ってきました。

さて、本題の113系急行伊豆の話です。

以前、鉄道ピクトリアル NO.768 2005年11月号で「遜色急行」という特集がありましたが、その中には、113系で運転された記録はありません。

まあ、人気の113系にあやかったものだと思いますが、急行らしいのは、前面幕と、横サボのみで、車内設備はもちろんのこと、運転時間も快速以外何者でもありませんでした。まさに「遜色急行」でした。ちょっと無理があったように思います。快速「中伊豆レジャー号」でもよかったのでは・・・

ただ、それだと急行料金取れませんが・・・

折角なら、正面を153系か165系の塗わけにして欲しかったのは、私だけでしょうか?

震災の影響で中止となりましたが、185系湘南色の「いでゆ」の方が、まだ、筋が通っている気がします。

実際に運用された、豊田の115系6連を使用した急行「かいじ」「かわぐち」。新前橋の115系を使用した急行「ゆけむり」「あかぎ」「なすの」。幕張の113系を使用した急行「うち房」も期待したいところです。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part14  阜新煤礦鉄路 その4  時刻表、路線図

第10日目 5月27日 乗り鉄と夕日撮影

① 太平10:04(111次)→11:06新邱13:09(114次)→14:03平安

ホテルで朝食を食べながらO氏と私は阜新煤礦鉄路の起点、新邱站に露天鉱があるので行ってみたいと意見が一致しました。Taxiにのって、ホテル近くの太平站を目指しました。太平站はこちらです。
▲ 阜新煤礦鉄路の客扱いをしている平安~新邱間の路線図です。中国鉄路の新義線とほぼ平行する路線で、平安~高徳間のみ複線となっております。営業距離につきましては、平行する中国鉄路では、平安~新邱間18キロ(所要時間37分、一日あたり3往復のみ)となっていますのでほぼ同じと思われます。東阜新站は現在、どの列車も停車しませんので、信号所扱いになっていると思われます。
続きを読む

藤本さんに答える

“ところで河様、昭和41年3月頃ピク誌の「読者短信」に京都駅の3番線と4番線の間の留置線で撮影されたクハ76305の写真を投稿されておられませんでしょう。古いピク誌は京都の実家にあり確認はできていませんが、多分同じ日に私も撮影しています。”

早速探しましたらこれが見つかりました。藤本さんの記憶の写真がこれなら多少違っています。茶坊主が写っているのは1966年2月号でした。前後の号ではこれしかありません。しかもご指摘のクハ76305ですからこれのことでしょう。

撮影場所は京都駅ではなく芦屋駅で、撮影者も河様ではなく山本克彦氏でした。でも周囲の写真は懐かしい物ばかりですね。

京沪高速鉄路 6月30日開通式!

ご報告申し上げておりましたとおり、京沪高速铁路(上海虹桥~北京南)が昨日6月30日に開通式が行われました。北京南站からの1番列車は15:00発のG1次列車で、温家宝出席が先頭車に乗車され式典をお祝いされました。開通式典は、中国全土に生中継されています。

1318キロを最短4時間48分、表定速度274.6km/hで結びます。中国の2大都市を結ぶ大動脈となるこの鉄路開業は、東海道新幹線が開業した時と似ております。中国のさらなる経済発展にとって大いなる貢献を果たすことになるのは間違えなく、今後予定されている各地への新幹線の開業が待たれています。

ちなみに1番列車の切符は、発売当日15分で全席とも売り切れたそうです。今回からインターネットでも切符が購入できるようになりました。しかし、インターネットでの購入をしようとした日本人には、ログインに必要な登録するためのサイトには中々つながらないようで、まだハードルが高いようです。
次回に訪中する際は、是非とも登録をしておきたいと思っております。

なお正式開業日は7月1日で、始発から全列車が運行されます。