【15780】江若あれこれ話 (2)

江若鉄道、思い返せば、鉄道趣味活動の原点でもあったと思います。
廃止されたのは昭和44年11月1日、私は現役の2年生でした。眼にするもの、すべてを吸収したい世代、しかも大学は紛争で6月からずっと封鎖中、これ幸いにと毎日のように江若へ通ったものでした。中でも、営業最終の10月31日から、さよなら運転の行われた11月1日にかけて、沿線の同志社北小松学舎で、DRFCメンバーとともに合宿を行い、メンバーとともに最後を見届けたことが、ひときわ心に残ります。何回かに分けて、江若の最後の2日間を写真とともに振り返ってみました。

営業最終日10月31日の朝一番列車は21+51+52+8の4両編成。最終日を待たずに、譲渡車輌は転属してしまい、廃車予定の車輌だけでのやり繰りだった

話は江若営業最終の前日、10月30日の晩から始まる。
家で明日からことを何気に思案していた時だった。ふと思いついたのが「江若にDRFCのヘッドマークを着けてみたい」だった。と言っても、時間も金もないから、有り物で作るしかない。
ベースは写真の木製パネルを流用、これに画用紙を貼り、マジックインクでレタリング、周囲をクリスマスツリーのモールで飾ると、何とか見られるヘッドマークが出来上がった。締めて費用はゼロ、もちろん江若の許可も何も無いが、ぶっつけ本番、何とかなるだろう。徹夜の作業になってしまい、出来上がったときは夜が明けきっていた。
叡山駅で交換した52列車は、キハ11+ハフ、この列車はただ一本の和邇始発の列車

霧の堅田駅で。時計を気にする駅長がタブレットを持って、交換列車に備える

近江今津に着くと、大勢の高校生が下車し、集札口を埋め尽くす
さて、10月31日、京津線の一番電車に乗って、浜大津を目指した。
10月27日から、昼間の列車はすべて運休して代行バスになっていた。列車は朝夕にしか運転されていないから、最後の日に、朝の列車で近江今津まで往復したい。数回は近江今津まで行ったことはあるが、クルマに同乗して行ったもので、北小松以北、終点まではまだ乗車した経験がない。何としても朝の列車で近江今津まで往復し、最初で最後の終点往復を果たしたかった。
浜大津から6時15発の第一列車に乗った。車輌にはすでにモールで飾りつけがされていた。車窓から見る光景は、淡い霧に包まれていたが、陽が昇るに従って、霧も晴れてきて青空が広がってきた。キラキラ輝く湖面の反射が、徹夜した眼にはまぶしい。各駅には、廃止を伝える看板が置かれ、モールで飾られたメッセージボードもある。いよいよその現実を実感する。
交換する列車は、いつもどおり通学生を中心に満員。各駅に停車するたびに、駅名標を中心にして写真を撮り続ける。列車は、7時50分近江今津に着いた。浜大津から所要1時間35分、現在なら同区間を湖西線新快速で半分以下の40分で走ってしまう。折り返しの8列車までの30分、終点の光景を撮り続ける。朝の最終がこの列車で、それを逃すと15時30分までない。

40年後の今もまだ残る近江今津の駅舎、廃止の看板が立てかけられている

各駅に掲げられた廃止のメッセージボード。当時、流行り出した”タイポス”という書体を使ったボードで、少し江若のセンスを感じた

広い近江今津駅、長いホームの先端に乗ってきた1列車の編成が見える

名残を惜しんでいた女子高校生が、駅員とともに記念写真に収まっていた

折り返しの8列車にも近江今津から乗客が乗り込んだ
ホームでは、いかにも最終日らしい光景が展開されている。すがすがしい、というか、ちょっと胸が締め付けられるようなシーンだ。その後、最終日を好んで撮りに出かけるようになったのも、この近江今津駅の体験が原点になっているようにも思う。
折り返しの8時20分発8列車で去るが、編成は行きと同じ4両編成、最初は空いていたが、各駅で乗車が続いた。途中で徹夜の疲れでいつしか寝入ってしまい、終点の浜大津で我に返ると、車内は超満員になっていた。

近江今津を発車した8列車の先頭車両、超ロングシートに客はまばら

先頭はキハ52、半室の運転室の横は、格好の展望室だった

新旭~安曇川間で江若最長の安曇川鉄橋を渡る

安曇川に到着する。上下列車の交換があり、多くの乗客が待ち受ける。構内には明日からの代行バスが待機している

北小松で5列車キハ11と交換する。この時間帯になると、カメラを提げた乗客も増えてきた


【15655】エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part15  希望へのエリトリア鉄道の今は その6

第6日目 9月29日 その2
アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

昼食後は午前中に撮ったシーンが順光でなかったのでもう一度撮ろうと引換して、再度ホテルの屋上に上がっての撮影会です。ドイツ人鉄ちゃんのこだわりは続きました。

▲ ポートアイランドからタウルド島へと向かう列車です。右のバスが走っている後方が港の駅です。

この後は、列車に乗っていくか、そのままバスで移動するのかの選択を求められましたので、ためらうことなく列車にしましたが、ご覧のとおり客車はつないでいません。2軸の貨車に積込まれて、ガタンゴトンと、ゆっくりアスマラ方面に向かいました。ここであまりの暑さに、こだわりのドイツ人が一人脱落しました。貨車内でも熱中症でダウンするスタッフも出てきたりで、過酷な環境でした。



▲ マッサワの街を出ると、あたりは荒涼たるアフリカの荒地が広がっていきます。そしてそこには、戦争で落ち延びてきた難民の部落が点在する、光景がありました。



▲ 難民部落も住めない過酷な大地が広がっていく未開の大地です。撮影地点は、こちらです。



▲ 大雨の時に現れる河川にかかる、エリトリア鉄道最長のアーチ橋。羊の放牧は子供の仕事です。木陰で休みながら、疲れているのか、虚ろな視線を投げかけていました。撮影地点はこちらです。

▲ この橋は、エリトリア紙幣10ナクファの裏面デザインに使われています。Fiat Ural製のトラックを1994年に改造したレールトラックが貨物列車を牽引しています。機関区では見かけませんでしたが、まだ現役で動かせるそうです。須磨の大老様、必見です。

▲ エリトリアの紙幣には、人々が力を合わせて独立を勝ち取った歴史から、
この国の9つの民族、庶民の姿が描かれています。歴史上の有名人や政治家などが描かれた紙幣が多い中、とても珍しいと言われています。(注;20ナクファ紙幣もありましたが、うっかり現地で使ってしまいました。)


▲ フォトラン列車が止まる度にたくさんの子供たちが集まってきます。辺りに農作物の耕作地は見当たりません。水が流れている川もありません。どうやって生活しているのでしょうか。しかし、子供たちは元気そうで、笑顔も見えました。


▲ 17:50、乾いた大地に日が沈んでいきます。乾燥していますので、空があまり赤くにはなりません。”ヌキ”をするには沈む方向が難しい位置です。もう少し待てば、もう少し何とかなるのですが、機関車が水切れになったそうで、今日はこれで打ち切りでした。皆さんも暑さに参っていましたので、執拗にもう1回走らせてと嘆願することは、ありませんでした。


▲  19:30から波止場での夜間撮影となりましたが、着いた瞬間に街中停電です。仕方なく乗ってきたバスの前照灯で照らしての撮影でしたのでもう1つでした。上は、ようやく電気が点いた20時過ぎの撮影です。

今夜の夕食もクーラーなしのレストランでした。おまけに楽しみにしていた、冷えたビールは売り切れです。配給制のようですぐになくなるらしいです。体力は消耗するばかり、回復できません。マッサワの熱帯の暑さは、以前に7月の台湾で、37度湿度80%を経験しましたが、それよりもこたえます。アスマラの快適さとのあまりのギャップ差に苦しんだ1日でした。


【15745】関西 新快速 物語 発刊のお知らせ

1冊の本が届いていました。開けると、’68年生福田静二君から、先輩は神足駅(現;長岡京近くでよく在来線の写真を撮っておられたので、新快速が走り出した頃の写真があれば使わして欲しいと依頼のあった、” 関西 新快速 物語 ” が入っていました。
幼少期より、そして通学時代には父親が国鉄マンでありましたので、大幅家族割引のある国鉄に乗っておりました。当時の神足駅は普通しか止まらない駅で、80系が高速で通過するのを見送っていました。見送る電車はその後113・115系、153系、117系、221系と変っていきましたが、この本を読んでいくと、その頃の自分自信を思い起こしてくれました。
この本は、福田君が編集協力されました。掲載写真は福田君以外に、DRFC-OBの佐竹保雄、鶴絋明両先輩、井原実氏も写真提供をされておられます。是非、本屋に立ち寄りの際はご覧ください。良ければ、お買い求めください。


【15737】江若 あれこれ話 (1)

江若鉄道再現模型運転会もいよいよ近づいて来ましたね。製作者の西村さんの高まる気持ち、如何ばかりでしょうか。遅まきながら、応援シリーズとして、自分勝手な”江若あれこれ話”を載せることにしました。皆さんもぜひ江若の思い出をお寄せください。
今回は、先般、運転会会場のスカイプラザ浜大津へ打合せに行った際に、館の方から聞いた”ちょっといい話”。

滋賀駅を通過しようとする「ひら」回送。機関助士が身を乗り出し授受の用意をしている

5122+5010+5121の総括編成にキハ52、キハ15を連結した5両編成。江若の最大編成だ
ここに写っているシーン、実は昨年から同館の廊下に展示されている写真だが、ある日のこと、古老がお見えになり、この写真をぜひ譲ってほしいとおっしゃったそうな。
この写真は滋賀駅での通過シーンで、タブレットの授受が行われている。江若では、朝ラッシュ時に快速列車が運転され、通過駅もあった。しかし、日中はすべて各駅停車だから、このようなシーンは見られない。唯一通過シーンが日中に見られたのは、春秋の登山シーズンに、帰途に就く登山客のために運転された北小松発浜大津行き臨時「ひら」号の運転時だった。天候などに左右されたが、夕方に浜大津行きが3本程度設定され、編成も単行から、総括編成と呼ばれた3両編成まで、さまざまであった。
この写真は、滋賀駅における回送列車の通過シーンで、三井寺下で仕立てられた編成は、何本かの「ひら」を併結しているため、最大の5両編成であった。
さて、くだんの一件、正解は、お見えになった方は、右側でタブレットを渡している駅員氏だったのである。自分の姿が入った写真を館で偶然に見られたという次第。館の方は、もう一枚焼き増して、その方に渡されたそうだ。何気に写した写真が、40年ぶりで写った本人へ蘇ったのである。

「ひら」回送の後部。DRFCのメンバーが見える。昭和44年10月10日のこの日は、京阪「びわこ」号の臨時電車が走り、みんなで錦織車庫まで追い掛けてきて、その後にすぐ近くの滋賀駅を訪れた


【15631】昭和45年3月の小湊鉄道

10月10日【15353】「デジ青で外回り鉄」でkawanaka_t氏より出張時業務終了後に海土有木で撮影された画像を紹介があったが、用務先が千葉県市原市方面の場合は小湊鉄道に行かれる方が多いようである。前回の私の場合は業務終了予定時刻を15時頃と予想して、上総山田~光風台間の養老川鉄橋か、上総牛久~上総川間間で撮影しようと思っていたところ、午前中に終わったため大原まで横断することができた。

 小湊鉄道を初めて訪れたのは昭和45年3月のことで、キハ200形は201~206の6両のみで、それ以前に製作された車両も日常的に運用に就いており、特に元国鉄キハ41000形はキハ200形と共に主力として活躍していた。撮影した画像から当時を振り返ってみた。

 キハ100形(100、101)
昭和8年に2両新製された16m級車で、同じ年に新製された鉄道省のキハ36900形(→キハ41000形)と同サイズであった。当初の呼称は「ジハ」であった。ジハ100が川崎車輌、ジハ101が日本車輌で作られた。当初はガソリンエンジン(コンチネンタル16H)であったが、昭和16年に天然ガス動車となり、昭和25年に日野DMF54Iに換装されディーゼル化、昭和31年にDMF13に換装された。
湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP90にジハ101の新製時の写真、P91に昭和34年に撮影されたジハ100の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。運転席窓の庇は、戦後の車体更新、ヘッドライトの移設時も撤去されず、この車のトレードマークになっていた。キハ200形の増備により、昭和47年2月廃車になった。

 キハ41000形(41001~41004)
昭和24年、国鉄で廃車になったキハ41000形を4両譲受け、25年に富士産業で機関を日野DA55に換装の上使用した。昭和30年にはDMF13に換装した。主力として活躍したが、キハ200形の増備により41003、41004が昭和48年7月に、41001、41002が50年5月に廃車になった。

 キハ6100形(6100、6101)
国鉄で廃車になったクハ6100形の6100と6101を昭和31年3月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ6100形は元青梅電鐡のモハ100形で、101、102が大正15年日本車輌、103~106が昭和3年川崎造船所で作られた。青梅電鐡は昭和19年4月1日鉄道省に買収されたが、電気機器の相違から同年11月に電装解除されクハとなった。戦後も早い時期に整理の対象になり、昭和28年6月1日の改番まで残ったのは元モハ102のクハ6100とモハ104のクハ6101の2両のみで昭和30年1月廃車になった。佐竹先輩の「私鉄買収国電」のP27にクハ6100、P28にクハ6101の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。
気動車への改造は6100が日本車輌、6101は帝国車両で行われ、正面窓は当時流行の2枚窓になった。他車がツートンカラーに変更後も茶色のままで、晩年は貨物列車の牽引に使用されていた。廃車は6100が昭和49年10月、6101が昭和52年12月である。

  キハ5800形(5800、5801)
国鉄で廃車になったクハ5800形の5800、5801を昭和35年2月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ5800形(5800~5804)は元三信鉄道のデ301形(301~305)であるが、車歴を辿ると大正3年まで遡る。飯田線天竜峡~三河川合間の三信鉄道は、昭和7年10月天竜峡~門島間の開業を皮切りに部分開業を重ね昭和12年8月大嵐~小和田間の開通により全通した。この開通により現在の飯田線の豊橋~辰野間が結ばれた。
クハ5800、5801の前身は鉄道省の大正3年日本車輌製のモニ3009、3010で、昭和9年9月廃車後、三信鉄道に譲渡され、昭和11年4月日本車輌で鋼体化の上、デ301、302となった。扉間には窓に合わせたゆったりしたクロスシートが並ぶ車内は長距離運転に相応しいものであった。昭和18年8月1日辰野~天竜峡間の伊那電鉄、三河川合~大海間の鳳来寺鉄道、大海~豊橋間の豊川鉄道と共に買収され飯田線となった。
301は昭和26年12月、302は27年1月に電装解除の上、片運化されクモハ(クハ代用のモハ)301、302となり、昭和28年6月1日の改番でクハ5800、5801となった。クハ化の際に連結器が密連になり、伊那松島区の配置となりモハ14等の国鉄型モハとMT編成を組み、中部天竜~名古屋間の臨時快速「天竜号」に使用されることもあった。昭和34年2月全車廃車され、5800、5801が小湊鉄道、5802が伊豆箱根鉄道、5803、5804が大井川鉄道で再起した。
飯田線時代のクハ5800、580iの写真は「私鉄買収国電」のP103に掲載されているのでご覧いただきたい。
キハ5800は平成9年6月30日付けで廃車され、現在も五井機関区で保管されているが、私鉄時代の飯田線の生き証人として電車に復元の上、然るべき場所(例えば佐久間レールパーク跡地に飯田線所縁の車両を集めて博物館を作る等)で保存できないものかと思う。
キハ5801は昭和52年12月に廃車されている。

 キハ200形(201~214)
昭和45年3月時点では201~206の6両在籍していたが、その後の増備車も含めて解説する。
キハ20と同系であるが最大の違いは、窓配置もさることながら、ロングシートと自動扉ではないだろうか。余談になるが8月30日に乗車時、上総中野を発車後のアナウンスの前に元国鉄で使用していたものと同じメロディー(♪パパパパパーン・♪パパパパーン・♪パパパパパパパパーン)が流れ思わず感激した。
201、202が昭和36年12月、203、204が38年4月、205、206が38年12月、207~210が45年12月、211、212が50年3月、213、214が52年10月に作られ、メーカーはすべて日本車輌である。45年製の207以降は扉の形状が変わり、211以降は窓がユニットサッシになっている。209と210以外は冷房改造されており、209は休車となっている。

 

電車改造の気動車
気動車改造の電車は、戦後電化したローカル私鉄を中心によく見られたが、その逆は非常に少ない。車体構造が電車と気動車とでは全く異なり、車体が重く無理をしてエンジンを取り付けても出力不足となるからである。国鉄でも北海道でオハ62とオハフ62にエンジンを取付けてキハ40(→キハ08)、キハ45(→キハ09)を製作したが、重すぎて狩勝峠が越せない等の運用上の支障があり早くに姿を消した。キハ6100、6101、キハ5800、5801の4両は数少ない改造例として貴重な存在である。

 他の改造例は、南武線の前身の南武鉄道のクハ210形の213、214(昭和15年木南車輌製)が、23年に関東鉄道の前身の常総筑波鉄道に貸し渡され、25年に正式に譲渡後、客車(ホハフ201、202)として使用、28年自社で気動車化してキハ40084、40085となった。常総線で使用されていたがキハ40084は44年筑波線に転属、47年に2両とも廃車となった。いずれも元買収国電というのが興味深い。

 入線しなかったDL
非電化の私鉄では大抵貨物列車の牽引用に蒸気機関車を保有し、時代の流れと共にDLと交替した。小湊鉄道はDLを購入せずキハ6100、6101を貨物列車の牽引に使用した。貨物の量もさほど多くなく、重量の重いキハ6100は機関車代わりに丁度よかったのかもしれない。

 蒸気機関車は1号機、2号機(大正13年ボールドウィン製)B104(明治27年ベイヤーピーコック製)の3両が千葉県の文化財に指定され、五井機関区の敷地内に屋根付で保存されている。

交換駅について
五井~上総中野間は39.1㎞あるが、五井~上総牛久間16.4㎞間の途中駅6駅の内交換ができないのは上総三又のみで、これも近々交換駅に改良される予定になっている。一方、上総牛久~上総中野間22.7㎞間の交換可能駅はゼロでこの間は1列車しか入れない。かつては上総鶴舞(上総牛久から2つ目)、高滝(同4つ目)、里見(同5つ目)、月﨑(同7つ目)、養老渓谷(同9つ目)とほぼ1駅毎に交換可能であった。養老渓谷以外は分岐器をロックしてあるだけであり、近々里見駅の交換復活工事が予定されているが、さほど難しい話ではないと思われる。


【15664】続・阪神電車の追加

10月3日の【15073】「阪神ジェットカー5211型」の記事からtsurukame先輩投稿の「阪神電車3011および5200系」「阪神ジェットカー、御影-石屋川間高架上」、乙訓の長老投稿の「阪神電車の追加」、河 昭一郎様、準特急様のコメント等を興味深く拝読させていただいた。

私も僅かであるが撮影した記憶がありネガ探しをした。京都から阪神電車までは遠かったのと、我々世代が撮影した頃は魅力の小型車は第一線を退き、ラッシュ時と武庫川線で細々と運行されていた程度で、本線はオール新性能車となっていたことも足が遠のく原因であったと思われる。一方国道線は、運行回数が極端に少なかった上甲子園以西は別にして、北大阪線、甲子園線を含めて割に訪れているのは、元々路面系が好きであったのと、金魚鉢の魅力に惹かれたからであろう。

5108+5201+5202 (昭和40年11月6日/野田)



 当時本線普通は早朝、深夜2連、それ以外の時間帯は3連であった。

  5236他3連(昭和39年11月3日/野田)
 
 5231形は5201形の増備車として昭和36年~38年にかけて1500Ⅴ昇圧即応車として24両作られ、昇圧後は2両固定編成になった。

5151他4連(昭和52年4月17日/西宮)

 昭和39年に1500Ⅴ昇圧即応車として、昇圧後も奇数編成時の単独走行可能車両としてわずか2両作られた。

3512+3511の西大阪線特急(昭和40年11月6日/甲子園)
 昭和40年9月から49年11月まで運転され、途中停車駅は尼崎、西宮、三宮であった。現在の近鉄奈良線直通快速急行の元祖とも言うべき列車であったが、乗客が少なく9年で廃止された。

3501形(3501~3520)は両運の3301形(3301~3304)と共に昭和33年から34年にかけて新製された優等列車用の車両である。

7810-7910+7909-7809の特急(昭和40年11月6日/甲子園)

7801形と7901形はラッシュ時の準急、急行に運用されていた小型車の代替として昭和38年から46年に作られ、
Mc車の7801形とT車の7901形がユニットを組み、Mc-T-T-Mcの4連で使用されていた。
初期に作られた車両はラッシュ用として割切りから、車体は簡素な作りで、乗務員扉の後ろの窓部分に座席がなく、車内の蛍光灯はカバーがなく間隔が空いており、T車の台車は小型車のものを流用した。完成後はラッシュ時のみならず、昼間の特急、急行にも日常的に使用されていた。画像の7810-7910+7909-7809は昭和38年川崎車輌製である。

7812-7912+7911-7811の急行(昭和40年11月6日/野田)
 
7812-7912は昭和39年汽車会社製、7911-7811は昭和39年川崎車輌製である。
 

853単行の武庫川線(昭和39年11月4日)
851形(851~857)は昭和11年日本車輌製で、その後作られた861形(861~867)、881形(881~910)と共に戦後3011形が登場するまでの間、阪神を代表する車両であった。
左側の線路は、戦時中西ノ宮~洲崎間に建設された貨物線の名残で3線式である。