京阪電車、ノンストップを走らせる!

さる10月3日、京阪電鉄は来る10月22日~12月4日までの全土、日、祝日において京橋~七条間において上り2臨時列車でノンストップ特急を走らせると発表した。1950年9月1日に開始した戦後のノンストップ運転は2000年6月30日を最後に終わりを迎えたが、改めて観光シーズンの旗手として復活するとは誠にめでたいことである。淀屋橋(9:36、10:06発)を出ると北浜、天満橋、京橋、七条、祇園四条、三条に停車、終着・出町柳まで58分の所要時間で走る。

さて注目のノンストップ区間のの所要時分だが、1956年3月ダイヤ改正では43.9㎞を34分30秒で走った。区間平均速度はなんと76.3㎞/hであった。以後の特急の所要時分、速度はこの数値を僅かに上下するにとどまった。今回、44㎞、43分となっている。平均速度は61.4㎞と大幅に及ばないのは残念。来年も行楽シーズンには運転し、列車名を公募するとしている。果たしてどんなネーミングとなるだろうか。鳩特急が亀特急とならぬように祈っている。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part2    フランクフルト中央駅

9月24日 第1日目 その2

① 成田12:15(JL407)→17:20フランクフルト
② フランクフルト空港(Sバーン)→フランクフルト中央駅

シベリア上空を約12時間飛び到着したフランクフルトは、日本との時間差マイナス7時間。現地時間では17:20ですが、日本時間では翌日の0:20です。

機内食は搭乗2時間後の14:00と9時間半後の到着前の2回ありました。
エコノミークラスとしてはまずまずです。

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流された鉄橋の下の廃線跡 (1)

前回のシリーズで大震災のことに触れ、そのつながりで、思い出したことがあります。
奈良・和歌山県を襲った台風12号の被害から一ヵ月が経過しました。紀勢本線紀伊天満駅に近い那智川橋梁が増水で流失したことは、よくテレビでも報道されています。このため、今も紀伊勝浦~新宮間が不通のままです。
一人で気をもんでいるのは、この鉄橋のすぐ近くにある、新宮鉄道の橋脚、橋台の跡です。その跡がどうなっているのか、現場を写したテレビに目を凝らしても、確認することは出来ませんでした。

流失した那智川鉄橋(ネットより転載)

もう3年近く前の話になるが、出版社からの依頼を受け、新宮鉄道の廃線跡の調査に向かった。新宮鉄道とは、大正2年に開業した、現在の紀勢本線紀伊勝浦~新宮間の前身となる鉄道である。詳しい経緯は後述するとして、昭和9年に国有化され、昭和13年に線路付け替えなどの改良工事が完成している。旧線は廃棄されたため廃線跡が何ヵ所か残っている。
それらを求めて、紀伊勝浦から新宮へ向かっていた時のことだ。電車から何気に窓の外を見ると、川の中に橋脚らしきものが一瞬見えた。その日は、トンネル調査が主眼で、時間もなく戻ってきたが、どうも気になる。調べてみても、橋脚跡のことはどこにも書かれていない。見間違ったのかもしれないが、意を決し、その確認のために特急で往復してみた。

その場所は、紀伊天満駅から、新宮よりへ1kmほど歩いたところ、確かにそれは鉄道跡に違いなかった。川の中から橋脚の基部が顔を出している。片側には橋台も残っていることも判明、おそらく昭和13年の改良工事の際に廃棄されたものだろう。新宮鉄道の遺跡は、トンネル群は何度か発表されているが、那智川の橋脚・橋台については、私の知る限りでは発表は無かった。車窓からの偶然の発見を喜ぶとともに、フィールドワークの大切さを痛感したものだ。

那智川に顔を出した新宮鉄道の橋脚、水面下にもう一基見える。

左が流失した紀勢本線那智川橋梁、石造りの橋台跡も見える。

伊香保の電車について

乙訓の先輩へ

私が高崎で4年間の単身生活をしていた時、休日の楽しみはとにかくクルマであちこちを走り回り、現役車両はもとより、廃車体を探したりすることでした。そんな中で渋川街道は何度も走り、大きな医院の塀の中に電車があるのに気付き、 御断りを言って写真を撮らせてもらおうと ある日門内に入ったのですが 誰も出てこられず やむなく無断で撮影し 早々に立ち去りました。そのときの写真を添付します。下回りはなく、医院の待合室になっていました。戸を開けて車内に入りたかったのですが、さすがにためらわれてそそくさと退散しました。1999年5月23日の撮影です。

ユースで巡った鉄道旅 -17-

昭和46年2月の東北乗り鉄の旅は続きます。山田線では急行「陸中」を盛岡まで乗り通し、「たざわ2号」に乗り換え、初乗車となる田沢湖線経由で秋田へ。さらに「しらゆき」に乗り換えて深夜の青森に到着。乗り鉄に徹した、この日の乗車距離は、横手から始まって青森まで約630kmに達しました。この晩は、青森駅の連絡船待合室で一泊、ユースには結局世話になりませんでした。

大槌を出た「陸中」は、二つ目の停車駅、陸中山田で636Dと交換する。この636D、山田線・釜石両線を通しで運転する列車で、250kmを7時間掛けて運転されていた。今なら、何本の列車にも分割されてしまう距離である。先頭キハ22292ほかの6連。北海道向けの寒冷地仕様のキハ22は、一部東北にも配置されていたが、この盛岡区が南限のキハ22だった。この陸中山田駅も地震による被害がすごかった。駅は、津波で破壊されたあと、火災が起こり、全焼してしまったという。二重の打撃を受けたわけで、再開の糸口さえ見えないようだ。

震災後の陸中山田駅(新潮社「日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録」より転載)

田沢湖線経由で秋田に到着したのが、日も暮れた19時08分、ちょうど羽越線ホームに、直江津発秋田行き821レが遅れて到着したところだった。牽引機を見に行くと、C571であった。煙突には何も付けず、スノープロウを付けた雪国のC571であった。動態保存中の現在の同機とは違う、逞しさを感じた。

高校生から、社会人までの約10年、全国各地を旅行できたのも、ユースホステルという、安価で健全な宿泊設備が全国に張り巡らされていたからこそと思います。それだけに、環境が変わったとはいえ、ユースホステルの衰退は残念なことです。全部で115泊したユースには、ここでは書ききれなかった、さまざまな思い出が今も甦ってきます。(終)

阪神ジェットカー5201型

本来なら乗る機会もない阪神電車だが、この電車には思い出があります。

それは中学に入って間もない頃、叔父が阪神鳴尾に住んでいたため休みになると遊びに行っていました。大阪駅まで国鉄で行って阪神電車に乗り換えると遙か彼方だった神戸が急に身近に感じられ、大冒険に出かけたような高揚感に満たされたのです。そんなある時、茶色い古い電車に混じって明るい赤や青の帯もまぶしい新車が入ってきました。乗ってびっくり、発車すると一気に加速して身体が吹っ飛びそうになりました。次の駅に止まる各停に乗ったつもりが通過するのかと焦りかけたそのとき、駅の中間まで過ぎたあたりで急ブレーキ!(そう思えるほど驚いた)無事停止位置に止まりました。このときの驚きは今でも忘れません。その後、国鉄環状線にも90系(後の101系)が入ったので早速乗りましたが、ジェットカーほどの加減速感はなく、国鉄ファンの私はがっかりしたのを思い出しました。