【16302】南海モハ1

先回の阪急751を「お化け電車」といいましたが、それ以上のお化けが居たそうです。南海モハ1(この番号すら南海らしくない)は木造ボディーに最新型の駆動装置をつけて上下アンバランス!高速で高野山を上り下りする姿は一度見たかったですね。南海ファンの村尾君は知っていたのでしょうか?

 


【16268】「今でも気になる江若鉄道」に

藤本哲男氏の何時もながらのファイトとエネルギーは凄い。9月に後期高齢者になってしまったこの老人には羨ましい限りである。

ところで♯16203の「今でも気になる江若鉄道」で当方が「気になった」ことを。長門鉄道から江若にやってきた小型の旧ガソリンカーだが、長門の記号番号でならキコハ1/ハフ2→コハ6を混同されてはいないか。どちらも加藤車輛製作所製のマイナーな小型で幅も狭いガソリンカーなのだが、キコハ1は両端荷台つきのボギー車で端面はややきつい目のカーブ3枚窓(中央は狭い)、窓は下段上昇式。元キコハ2のハフ2→コハ6は片ボギー車で、ガソリンカー時代はボギー側に片荷台があったが、ハフ化で撤去した。端面がフラットで2枚窓、下降窓。


長門鉄道キコハ1 1955.3.18小月 湯口 徹撮影

江若鉄道ハフ2 入籍手続きをしないまま水泳客輸送にも使っていた 1957.2.15 三井寺下 湯口 徹撮影

江若がキハ42017→キハ11と共に購入したのは、コハ6ではなくキコハ1の方で、これが荷台つきのままハフ2と付番されたが、車籍に編入手続をしないまま。そのくせ夏の書入れ時にはちゃっかり使っていた。荷台に若者が乗るのを防ぐため、嵩上げしており、ちゃんと車体の塗り分けに合わせていた。


長門鉄道コハ6 北條秀一所蔵(上) 山本定佑1955.8.24撮影(下)


【16264】澤村達也さんを偲んで

26日の偲ぶ会の席上、澤村さんが叡電デオ300形が大変お気に入りだったと言う話を聞いた。1970年生まれの息子も同じくデオがお気に入りであった。旦那が上高野沢渕町に引越しした頃、息子と2人で訪れた時に出町柳で当該車両を見るや目を見張っていた。帰宅するや「叡電買って!」となったのは当然で、当時リマのガラレールでエンドレスを始めていたが、よし久しぶりにやるかとなり、同中3年夏休みまでやっていたペーパーモデルに挑戦となった。この時2両作ったのだが、モーターカーは1両、近車のKD26だったかな、台車枠に天賞堂のパワートラックションをかませた。台車が軽快なためかよく走った。トレーラーはピボットにするためTR50だったかな、いずれにせよ中書島まで延長されることを願っていたから、2両連結でパンタ姿が必要だった。その後、ポール姿をと思いマッハで2本買ったが、取り替えることなく当家の「向陽鉄道」は息子の成長→野球青年、となり消滅した。澤村さんが模型に本腰を入れたと聞き、当時の部品取りをして全部引き取ってもらった。今回のデオは、入線した1959年4月上旬、恒例の春の東京電車巡りから帰宅したところへ、同中での同級生、茂良樹君から「新車入ったぞ!」と電話があり、慌てて修学院へ駆けつけたときのもである。茂君の父親は同志社教会の牧師で、
同志社高校の校長を兼務していたから、知る人も多いと思う。
ポールを上げた方の写真はどなたかにプレゼント

ポールを上げた方の写真はどなたかにプレゼント

試運転から帰ってきてデナ1号と並びました
試運転から帰ってきてデナ1号と並びました
入線後の初夏、三宅八幡駅の近くでの一景
入線後の初夏、三宅八幡駅の近くでの一景

【16203】今でも気になる江若鉄道

先日、浜大津で開催された「江若鉄道再現模型運転会」が大盛況理に終わり、西村さん、特派員さんはじめ関係者の皆様大変お疲れ様でした。
私は新幹線の切符まで購入しておきながら、直前になって断念せざるを得ない状況になってしまい、返す返すも残念な思いで一杯である。

 江若鉄道廃止時、特派員さんと一緒に北小松学舎での合宿、三井寺下機関区の見学会、贈呈用アルバムの作成、北小松駅でのイベント、最終日11月1日の切符の手配等を行ったことが10年位前のことのように思い出されるが40年以上も経っているのである。
特派員さんも書かれているが、当時は全学封鎖中で撮影に行くのには好都合であったが、就活中のため9月下旬に今の勤務先の入社試験があったりして落着かない一面もあった。内定通知が来たのは廃止日間近の10月20日頃であったと記憶している。

 江若鉄道の幾多の思い出の中から、今でも気になっていることを中心に思いつくまま書いてみた。

お座敷気動車キハ17
お座敷気動車のことはご存知の方も多いが、団体専用ではなく通常運用にも入っていた。使いにくかったことも事実で廃止を待たずに廃車となった。車歴は元国鉄キハ41105で、昭和28年に譲り受け、お座敷車への改造は41年10月である。

  
三井寺下 (43-9-28)
 
 ぎんれい号で使用中、2両目はハフ3/三井寺下 
(41-2-16)


 

 一足先の廃車になり解体中/三井寺下
(44-10-10)

 

キハ23
元国鉄キハ072(キハ42221→42501)で、昭和38年2月9日付遠江二俣区で廃車になり同年中に譲り受けている。
昭和39年12月2日とほぼ1年後の40年11月29日に撮影しているが、エンジンはもとより運転台機器、ヘッドライトがなくキサハ状態であった。譲り受け時よりこのような状態であったのか、入線後間もなく何かの事情で取り外したのか、今でも疑問に思っている。

 三井寺下 
(39-12-2)

 この時点でもキサハ状態/浜大津 
(40-11-29)

 三井寺下 
(43-10-28)

 3両編成の先頭に立つキハ23/後にキニ5、ハフ3と続く  叡山 
(44-8-16)

キハ24→キハ5124
元国鉄キハ0724(キハ42023→42523)で、昭和37年6月13日付け大垣電車区で廃車になった。廃車後暫く保管され、昭和39年に譲り受けている。
初めて撮影したのは昭和41年2月19日で、貫通扉付に改造された状態で撮影している。この手の改造は時間がかかるため、譲受け後間もなく改造に着手していると思われ、原形で営業したことがあるとすれば、非常に短い期間である。
昭和41年5月にキハ5124に改番され、廃止後加越能鉄道に譲渡され、江若時代の塗装のままで使用されたが、ここも3年後の47年9月16日に廃止され、関東鉄道に譲渡された。
国鉄→江若鉄道→加越能鉄道→関東鉄道と会社を4回変わっているが、4回も変わった例は珍しい。

 キハ24/浜大津 
(41-2-19)

 後はキハ30改めキハ5120/浜大津 
(43-9-28)

【加越能鉄道譲渡後】 
石動~福野~庄川町で営業していた加越線に配置されキハ162となった。廃止まで江若時代の塗装のままで使用された。

 東山見 
(47-10-10)

【関東鉄道時代】
常総線に配置されキハ551となった。片運化、ロングシート化、中央扉の両開化、ヘッドライトの位置の変更等が実施された。

 ヘッドライトが離れ目から寄り目になり感じが変わった。/水海道 
(50-1-2 )

キハ18→キハ5121
江若のキハ42000(キハ07)グループの中では最も早く入線した。昭和23年3月5日付けで事故により廃車になったキハ42054の車体を購入して自社で整備の上昭和28年に竣工した。昭和41年4月近江今津側の運転台を撤去の上、総括制御編成用に改造して同時に車号をキハ5121に改めた。国鉄時代に見られなかったトラス棒が特徴であった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。

 浜大津
(39-12-2)

 キハ5121+ハ5010+キハ5122+キニ13の4連で浜大津に到着
(44-10-4)

 関東鉄道に発送される日
/三井寺下 (44-10-30)

【関東鉄道譲渡後】
関東鉄道にはキハ5121、5122、5210、5123、ハ5010の4両が譲渡された。江若時代の車号のままで、5210が常総線、それ以外の車両は竜ケ崎線に配置され、竜ヶ崎線では従来の車両は予備車1両を残して一掃した。朝夕ラッシュ時は(←竜ヶ崎)キハ5121+ハ5010+キハ5122(→佐貫)の3両編成、閑散時はキハ5123で運行され、竜ヶ崎駅に佇むと浜大津駅にいるような感覚に陥った。
昭和46年ワンマン改造時にハ5010が外され2連になり、座席のロングシート化と運転台の右側移設(竜ヶ崎行の場合すべて右側ホームのため)が実施された。
昭和47年1月キハ521に改番、昭和50年新製車体に載せ替え、平成9年3月廃車になった。

 佐貫
(45-3-15)

 佐貫~入地
(45-3-15)

 ワンマン改造後/佐貫
(48-9-26)

キハ19→キハ5122
昭和24年9月30日付けで、佐賀機関区で廃車になったキハ42017を山陽本線小月~西市間を営業していた長門鉄道が譲り受けてキハ11となった。昭和31年5月1日に同鉄道廃止により江若鉄道が譲り受けた。長門鉄道時代にロングシート化、窓に保護棒の取付けが行われており入線後もそのままであったが、キハ18同様トラス棒が取り付けられた。昭和40年12月に浜大津側の運転台を撤去の上、総括制御編成用に改造して車号をキハ5122に改めた。この時点ではキハ18改造のキハ5121が完成していないため、総括制御編成に改造されたキニ6と組んだ。
この車も国鉄→長門鉄道→江若鉄道→関東鉄道と会社を4回変わっている。

 全くの余談であるが長門鉄道から購入時に片ボギーデッキ付のコハ6が一緒に付いてきた。(オマケで付いてきたという説がある)昭和32年の夏、高島町の萩の浜にキャンプに行った時、途中で交換した3両編成の最後尾に両端デッキ付の小型車両が連結されていたことを覚えており、これがコハ6であったと思う。
三井寺下機関区で物置として使用されていたのを見ているが、ダルマ(台車は付いていた)には興味なかったのか撮影していないことが悔やまれる。

 キハ19時代「こだま」色の時、後はハフ3/浜大津
(39-12-25)

 浜大津 (41-2-19)

 高島町
(44-10-4)

【関東鉄道譲渡後】
前述のキハ5121と同じ足跡を辿り、昭和47年の改番でキハ522となった。
 竜ヶ崎
(45-3-15)

 予備車キハ40402との並び/竜ヶ崎
(45-3-15)
キハ40402は昭和6年日本車輌製で牟岐線の前身阿南鉄道キハ201が前身、鉄道省買収によりキハ40510→キハ40307となり、23年7月鉾田線にホハフ402として入線、27年気動車に復帰して竜ヶ崎線に転属した。

 検査標記/江若時代の形式を活かしており、L-29SMの
Lはロングシート、数字(29)は自重、SMは片側貫通路を表す。検査日の標記は三井寺下機関区を竜ヶ崎機関区に書き直しただけで、こんなんありかと思った。(クロスシート車はC、両側貫通車はM、非貫通車はSで、キハ5121はクロスシートのためC-29SM)

ワンマン改造、改番後/佐貫
(48-9-26)

キハ20
昭和34年4月25日付け大垣電車区で廃車になったキハ079(キハ42047→42508)が前身、扉がプレス製のものに取り換えられている。

 三井寺下
(44-10-24)

キハ21
昭和35年8月30日付け岡山機関区で廃車になったキハ0738(キハ42050→42537)が前身。

 三井寺下
(44-10-5)

キハ22
昭和36年10月14日付け遠江二俣機関区で廃車になったキハ071(キハ42200→42500)が前身。

 三井寺下
(43-9-28)

 ハニフ10→ハ5010
昭和12年川崎車輌でキニ10として新製された。同一グループのキニ9、10~13は日本車輌製であった。昭和38年にエンジンを降ろしてハニフ10となり、昭和40年に総括編成の中間車として使用するための改造が実施されハ5010となった。通常はキハ5122と5121の中間に連結されたが固定編成ではなく、いずれかが検査、故障の時は両運のキハ5123等に変わることがあった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。

 浜大津
(39-12-25)

 三井寺下
(44-10-5)


 関東鉄道に発送される日 /三井寺下 (44-10-30)

【関東鉄道譲渡後】
竜ケ崎線に配置され、江若時代と同様5121と5122の中間車として3連で江若時代の塗装のままで使用さていたが、昭和46年竜ケ崎線ワンマン化の際編成から外され常総線に転属してキサハ71に改番された。幅の狭い扉とクロスシートは乗客の多い常総線では使い勝手が悪く、僅か1年で筑波線に転属して昭和49年3月廃車になった。

 竜ヶ崎
(45-3-15)

 筑波線に転属後/真鍋
(48-9-26)

キニ6→キハ5123
初めて撮影したのは昭和41年2月15日で貫通扉が設置され総括編成改造後で、キハ19改造のキハ5121と編成を組んでいた。同年4月にキハ5123に改番されている。←浜大津 キハ5124(24)+5120(30)+5123(6)の3連で使用されることが多かったが、固定編成ではないため、5121、5122の代わりにDTD編成に入ることもあった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。

 キニ6/浜大津
(41-2-16)

 三井寺下
(44-10-5)

【関東鉄道譲渡後】
竜ヶ崎線で使用され、閑散時に単行で使用されたが、両端貫通幌付のため、江若時代同様5121、5122の代わりにDTD編成に入ることもあった。昭和46年ワンマン化の際竜ヶ崎寄りの運転台を右側に移設した。昭和47年1月の改番でキハ531となり、昭和52年3月に車体を新製して載せ替えたが、昭和6年川崎車輌の銘板が新製車体に取り付けられていたのが嬉しかった。

 竜ヶ崎
(45-3-15)

 ワンマン改造、改番後/佐貫
(48-9-26)
隣は予備車のキハ40302で元国鉄キハ0436(昭和9年川崎車輌製)である。

キハ30→キハ5120
昭和38年大鉄車両で新製した。台車は中古品である。両端に貫通扉が有り、トルコン付きであったが総括制御は不能であった。当時他に総括制御が可能な車両がなかったので、特に必要性はなかったのかも知れない。塗装は赤とクリームの「こだま色」で、在来車の一部(キハ11、19、ハフ2、8)も塗り替えたが、471系色が標準色となったため長続きはしなかった。
昭和40年1月総括制御車に改造、同年4月にキハ5120に改番された。廃止後は関東鉄道に譲渡された。

  浜大津
(40-3-28)

 浜大津 
(43-9-28)

 三井寺下
(44-10-5)

【関東鉄道譲渡後】
常総線に配置された。竜ケ崎線に配置された車両は江若色のままであったが、さすがに常総線ではそうもいかず関鉄色に塗り替えた上で使用された。乗客の多い常総線では、2扉クロスシート車は使い勝手が悪く、昭和46年筑波線に転属して、47年の改番でキハ511となった。昭和54年4月筑波鉄道に分社の時、ワンマン化の上竜ヶ崎線に転属させる計画があったため移籍されなかったが、竜ヶ崎線に元国鉄キハ20の台車、主要機器を流用して車体を新製したキハ532が投入されたため、引き続き筑波鉄道で使用されることになり、昭和62年4月1日の廃止まで在籍した。

余談になるが、筑波鉄道には元雄別鉄道の車両が5両在籍して主力として活躍していた。江若のC111が昭和33年雄別鉄道に譲渡され、同鉄道廃止まで活躍したことを思うと、江若と雄別の因縁めいたものを感じる。

 後は元小田急キハ753/水海道
(45-3-15)

 筑波線転属後/真鍋
(48-9-26)

 江若鉄道に話題になるとつい熱くなってしまうが、今回はお座敷気動車と総括制御編成に改造された車両、それに関連して前身が元国鉄キハ07の車両について書いた。次回は客車とその関連で快速列車について書いてみたいと思っている。資料の大部分が京都の実家の物置にあるため、手許の僅かな資料と写真を基に記憶の世界で書いたため、誤りや思い違いがあればご指摘いただきたい。


【16184】ツィッタウ狭軌鉄道訪問記その1

前回投稿したムスカウ森林鉄道の前日にここを訪れました。ここは1890年に開業した750mmゲージの狭軌鉄道で1996SOEG(Sachsisch-Oberlausizer Eisenbahngesellschaft)

ザクセンのオーバーラウジッツアー地域鉄道協会とでもいうのでしょうか、民間団体によって運行されています。ツィッタウ狭軌鉄道というのは通称で、もらったパンフレットの表紙にはこの名前が入っています。この鉄道の訪問記は2005年から2006年にかけて旧掲示板の「おじん2人ヨーロッパ軽便4」に書かれています。訪問されたのは1993年とのこと、当時はドイツ統一から間がない時なので、いろんな面で不便、御苦労あったことと思います。

7月1日フィフテルベルグ鉄道を訪問後ケムニッツからドレスデンを素通りしてツィッタウまで行きました。この時期日が長く、到着した19時ではまだ日は高かったのですが、あたりには歩いている人はおらず、はるばる国境まで来たという感じがします。(この町はチェコとポーランドに国境を接しており、チェコ行きの国際列車が1時間に1本程度運行している。)翌朝駅に荷物を預け、837発の始発でベルツドルフに向かうことにしました。早めに行ったので車庫から駅前広場を横切るシーンを撮ろうとしていたのですが、肝心のSLが見当たりません。同じようにカメラを持っていたおっさんに聞くと、SLの調子が悪く、修理工場のあるベルツドルフで修理中だとのことでした。代わりにDCが客車を引っ張って発車しました。

SOEGの目玉はヨンドルフとオイビンの分岐駅であるベルツドルフでのSL同時発車です。この始発のヨンドルフ行きがベルツドルフで20分余り停車し、二番列車のオイビン行きが追い付いてベルツドルフで2方向に同時に出発するのです。夏ダイヤでは一日に4回この光景が見られます。ところが始発列車がDCに代ったため、朝一番の931の同時発車はDCとSLの組み合わせという全く締まらないものになってしまいました。

ヨンドルフ、オイビンから戻ってくる列車は下り坂で、逆向きのため、あまり面白くありません。次のオイビン行きで終点まで行き、ロケハンしましたが、歩いていけるところで撮影できそうなところは見当たりませんでした。

終点のオイビンはあたりに何もない殺風景なところ、そのまま折り返してベルツドルフで11:31発の同時発車をねらうことにしました。この駅の構内は分岐する線路の間に信号所があり、写真の向かって右側に三脚を立てました。先にこの駅始発のヨンドルフ行きが待っており、ツィッタウから来たオイビン行きがホームに入ってきます。SLの頭が揃うのかと思っていたところオイビン行きはずっと進んで信号所の近くまで来てしまいます。これでは発車しても並走のシーンは撮れそうにありません。あわてて信号所の反対側に移動しました。

発車はまず少し後ろに停まっていたヨンドルフ行きが出発してオイビン行きと並ぶ手前でオイビン行きが発車します。このタイミングは注意して合わしているらしく、信号所付近で機関車の頭が揃うところが撮れました。

雨が降ってきたため撮影は一時中断、駅近くのレストラン兼ホテルで昼食を取ることにしました。ここはカウンターの周りに線路が敷かれており、注文した料理が貨車に乗って運ばれてきます。余談ですが先日ツィッタウ狭軌鉄道のウェブサイトを見ているとこのホテルがリンクされているのを発見、オンラインでの予約も可能なようです。ホテルの部屋からはベルツドルフの駅が見渡せるはずで、次回行く機会あればぜひ泊まりたいと思っています。

次の同時発車は13:31分、今度は信号所の中から撮れないか頼んでみることにしました。実は11:31の発車を取った後、信号所のおっさんが窓から顔を出して「ここから撮れるぞ」みたいなことを言っていたのです。2階に上がってみると先客が1人既にいてカメラを構えていました。信号所の駅側の窓際には机が並べられており、一番端の窓から1人分だけの撮影スペースがあります。私が押し掛けて行ったのでわざわざ机をどけてスペースを確保してくれました。さすがにこの位置からはさえぎるものなく、同時に左右に分かれて走っていくのを写すことができました。但し残念ながら三脚を立てる場所がなく、ビデオと一眼レフを両方操作していたのでシャッター押すタイミングがずれ、ヨンドルフ行きの先頭が切れてしまいました。   礼を言って撤収しかけるとチケットらしきものを出してどうも金を払えと言っているようです。おっさんが小づかい稼ぎに金を取るのかと思っていましたが、チケットにはベルツドルフ駅信号所見学と書いてあり、会社が認めた正式なものだったようです。撮影料は€2.5十分値打ちのあるチケットでした。

 

 

 

 


【16175】阪神電車の鋼製旧型車(その2)

その1で旧型車は2分類されるとした。新造当初から分類されたのではなく、阪神電車の歩みに関係している。阪神電車は1905412日、大阪市西梅田町-神戸市雲井町間を開業した。当時の国道2号(摂津街道-西国街道)を部分的に掬うように軌道敷を建設し、軌道条例を満たしたことで知られている。そのため随所に道路併用軌道や急曲線が混在し、運転条件向上に弊害があった。開業期の車両は併用軌道でも乗降に便宜を図るため固定ステップを設けた。運転環境を向上させるには、併用区間を廃し停留所の乗降施設を車両の床高に近づける事が要求された。同条件にあった京阪電車は急行停車駅を高床乗降ホームに改修、専用車100号型を1917年に新造した。その後、全駅をこの方式への改修工事に着手、開業以来の1号型は運転台を兼ねた乗降台下に可動式ステップの増設工事をした。これは高床ホームでステップを引き出し対応するものであり、19226月に工事施工車37両の竣成届けを大阪府警に提出している。また急行用100号型の新造は23両で打ち切られ、1号型の走行装置を再用し、急行型車体を新造した設計変更名義車が46両投入された。これからみれば京阪は、1922年に全駅で高床ホームによる乗降が可能になったと思われる。「思われる」としたのは京阪50年史を始め100年史でも記載がないからで、運輸面から言えば重要事項であると思っている。

さて阪神の場合はどうであったか、京阪が高床車を導入した頃の日本は日露戦争不況から立ち直り、第一次世界大戦の渦中にあり、重工業地帯が関西では阪神沿線を中心に形成された。そのため阪神の乗客増は1913年と比較すると1919年には3倍になっていた。当然、車両増備は図られたが、車体製造は出来ても走行装置は日本の技術が未熟のため欧米からの輸入に頼り、車両増備はままならない状況にあった。増発が出来ない阪神は、19196月に千鳥式運転を編み出し、急場を凌いだ事が知られている。京阪並みの両端デッキなしで中央扉がある最初の車両、301301310号は192079月製造であった。その後は311321311320号、32133020両は192110月、331331370号の40両は19211012月に製造され、一私鉄が年間60両も量産したのは注目される。そして2年後の192315月に29129130010両が増備され、更に翌1924年には高速電車では日本最初の鋼製車37137139020両が製造された。こうした車両増備が相次ぎ開業以来の1号型50両は姿を消し、51号型16両は北大阪線に移った。

1920年から1924年の5年間で100両の新造車(291型は総括制御器を14150号から転用)を取り揃えた阪神の勢いには圧倒される。これら100両に共通するものは全車両端扉部にホールデンステップがあり、車体両妻が半円形で、後に「たまご」型と言われた。301形のみ正面3ツ窓ダブルルーフで、他はシングルルーフ5ツ窓であった。主電動機は37.3kw600V)×4個、制御器はGEMK又はPC、東芝RPCであったが、後に291形のMKを除き自動進段型に統一された。連結器はトムリンソンとなっている。制動装置は不明だが、直通方式に非常弁を追加したもので、4連化の時にSMEAMMとあるからWH方式を採用していたのではなかろうか。

大量の新造車が揃い千鳥式運転は中止となり、192161日から急行列車が設定された。道路併用区間は住吉以西に残ったが、一部区間では時速35哩(56km)運転、2両連結も認められた。そして住吉-石屋川間の高架線は19297月に完成、続いて岩屋―三宮間の地下線工事も着手され、19336月開通となった。これでホールデングステップ使用区間は解消された。地下線開通に合わせ、本線系統で使用される木造「たまご」型291370号の80両は、全て鋼製車体に取り替えられる事になった。こうして出力50hp×4の車両群は、後に普通系と呼ばれることになった。それらは、1931年:1001101010両、1932年:901910(後に700形と改番)、101310141017102016両、1933年:10111012101510161101111014両、193411111137114028両、1935年:113811392両、1936年:1141115010両、6年に亘り80両の鋼体化名義車両を生み出したのである。これらは1001形、901型、1101形、1111形、1121形、1141形と分類されている。1001形は2両連結を建前とした広幅貫通路、901形は支線用の両運転台車、1101形以降は汎用車として両運両貫通車、1111形以降は扉間幕板部明り取り窓を設置した。(つづく)

601形原型4連は他社では見られぬ急行編成

601形原型4連は他社では見られぬ急行編成

復旧型601形は急行系831形復旧型と同マスク
復旧型601形は急行系831形復旧型と同マスク
時には残っていた1001形が先鬆・?で
時には残っていた1001形が先頭車で
本線普通の主流は1101シリーズ
本線普通の主流は1101シリーズ
淀川を渡っていた601形は瀬戸内を渡って淡路島へ
淀川を渡っていた601形は瀬戸内を渡って淡路島へ
伝法線の701形は1958年で終わった。
伝法線の701形は1958年で終わった。
伝法線の601形の身代わりは1001形で
伝法線の601形の身代わりは1001形で