【17170】年末 大慌ての決算報告(3)

今年は遠方へは行けなかった代わりに、近郊の撮影はよく行きました。住まい近くの東海道本線山崎~長岡京、また嵐電、叡電など、季節ごとに訪れるようにしました。天候や時間帯に応じて、即行動に移せます。地元でお気に入りの撮影地を持つことは、撮影の原点への回帰でもあり、写真のクォリティを高める大きな要素になるとも感じました。
そして、もうひとつ見つけた原点がありました。
自分が楽しければ、それでいいのが趣味活動です。しかし趣味活動の過程で得られた生成物(写真でも、模型でも、調査でも)が、人々の心に何らかの語りかけができれば、それはそれで趣味活動の醍醐味だとも感じました。
それを感じたのは、浜大津での江若復元模型運転会でした。西村さんの緻密な再現力・製作力や、誠実で真摯な対応が、来場者に大きな感動を呼びました。これぞ、趣味活動の着地点であると痛切に感じました。
僭越ながら、昨日までの私の写真展でも、”懐かしい””楽しませてもらいました”のメッセージをいただきました。ただ古いだけの写真が、人の心を癒したとすれば、こんな嬉しいことはありません。大震災でも、泥まみれの写真を復元することが話題になりました。”写真の力”なのですね。
加齢を重ねると、撮っただけでは勿体ない。やはり人様に感じ取っていただく活動も、趣味の大きなテーマだと感じた一年でした。
しかし、過日、王将で餃子を食べながら、準特急さんが思わず述懐された”ワシは外へ出るのが好きなんや。歩くのも大好きなんや”の言葉に、やっぱり写真を撮ることも楽しい、要はインとアウト、そのバランスをよく保ちながら、これから趣味活動を進めたいと思うのでありました(ふぅー、除夜の鐘に間に合った)。

▲屋代線晩秋 ここへ来て私鉄の廃止が各地で取り沙汰されるようになった。長野電鉄屋代線も、来年3月に廃止されることになった。屋代~須坂間の24.4キロ、かつて首都圏から信越本線経由で急行が乗り入れいたのも遠い思い出、いまや単に千曲川右岸の集落を結ぶ使命しかない。乗ってみると、想定外に乗客がいない。90分ヘッドで3500系2連はガラガラだ。最盛期の6分の1以下に減少しているらしい。起死回生の増発などの社会実験も不発に終わったようだ。
人が押し寄せないうちにと、晩秋の信州入りとなった。屋代線の中間にある松代駅は、隣り合う松代城跡が秋色に染まり、木造駅舎とあいまって、実にいい味を出している。ただ、駅前からは、長野駅前へ向かう他社バスが頻発する。長野まで超大回りする電車では全く勝ち目が無い。屋代線は、ほかにも木造駅舎が多い。今まではさして気にも留めなかった木造駅舎だが、とみに気になる存在になった。

▲消えた京福原色 叡電のデオ700系から、京福電鉄時代のデュー時に塗られた、当時の京福福井支社や京都バスと同じ塗色のマルーンとクリームの原色車が消え、新色に塗り替えられた。新色は洛北の自然をイメージしたという、訳ありのカラーのようだが、明るすぎて弱々しい。その点、原色車は電車に相応しい色に思う。八瀬比叡山口、三宅八幡と、私の好きな駅で、最後の1両となった原色車724号は、紅葉の背景によく映えていた。


【17134】昭和40年前後の浜大津界隈(Ⅱ)


交差点を通過する三条行急行。右端に京阪バスのボンネットバスが見える。
(39-8-2)

今回は、前回に続いて電車と難問のバスの画像をお目にかける。バスについては、昭和40年前後は少しは興味があったが、撮影は全くしていないので、昭和50年頃撮影した中から昭和45年頃までに製作された車両を紹介する。

【電車】

 浜大津折り返しの穴太行の352/西村雅幸氏がコメント欄に書かれた「渡り線の位置」の件、この写真でお判りいただけると思われる。当時は引き上げ線がなく本線上で折り返していた。浜大津駅統合後、京津線の浜大津止まりの準急は到着後、一旦坂本方面の線路に転線して石山寺行を通した後、石山寺方面の線路に転線、坂本行通過後、再度転線するという面倒なことをしていた。
(43-9-25)

 356+357の坂本行/この時点ではバックの商工中金ビルは4階建
(43-9-28)

 262+261の浜大津折返しの坂本行 (49-12-8)

 交差点を通過する308+307の三条行準急
(55-1-6)

上栄町から浜大津方面を望む/306+305の三条行準急
(51-2-11)

【バス】
当時、浜大津に発着していたバスは、江若の他、京阪バス、近江バス、滋賀交通、国鉄バスの4社で、主力は江若、京阪、近江の3社であった。国鉄バスは江若と相互乗り入れで小浜~浜大津間を2往復運行していた。江若は京阪三条~小浜間を2往復運行し、4時間弱で結んでいた。

バスの写真の前に登録番号(ライセンスナンバー)について少し解説する。
現在の「京都200か2012」のプレートを例に取ると、上段の陸運事務所略号の後の3桁の登録番号は平成11年に制定されたもので、それ以前は「京22か2011」のように2桁で、陸運事務所にコンピュータが導入された昭和45年9月~46年4月頃(全国一斉に導入されたのではなく、都道府県により差がある)から付番されたものである。更にそれ以前は「京2か1011」のように1桁であった。
2桁の時代は下2桁の42と49を欠番にして登録順にナンバーを交付していたが、1桁時代はナンバーを特定のバス会社に割当てしていた地域があった。

滋賀県では昭和37年12月から橙色の「滋2あ」ナンバーは廃止されて、緑色の「滋2い」ナンバーへの付け替えが行われ、江若には「滋2い1001~」割り当てられた。ちなみに「滋2い1~」は近江、「滋2い801~」は京阪バスに割当てられている。余談であるが昭和44年に京阪バスの「滋2い846/38年式BXD30」を譲り受けているが、使用の本拠地が滋賀県内と変わらないため登録番号はそのままで、見る人が見れば、京阪中古であることは一目瞭然であった。
昭和42年12月に割当てナンバーは廃止になり、「滋2い2501~」の届け出順に付番されることになった。

〔江若バス〕
滋2い1035廃車体/いすゞBB751(37年式新日国工業)

 昭和47年4月に廃車されたが、安曇川営業所に残っていた。昭和46年勤務先のキャンプの下見でサンケイバレイに行った時、京阪三条から乗車した小浜行がこのタイプであった。
(54-3-3 安曇川営業所)

滋2い1038廃車体/いすゞBB751(37年式日産車体)

BB751のラスト3両(10
37~1039)は社名変更により日産車体製となった。廃車は昭和47年4月である。(54-3-16 堅田)

滋2い1079/日野RB10(41年式金産)

54年2月廃車
(50-5-18 安曇川駅)

滋2い1077廃車体/日野RB10(41年式富士重工)

 52年7月廃車
(54-3-3 安曇川営業所)

滋2い2715/いすゞBU05D(44年式川崎重工)

鉄道廃止時に代行輸送用として大量に作られたワンマン車である。滋2い27
01~2705、2708~2719、2721~2723の20両在籍し、代行輸送終了後も主力として活躍した。(55-1-6 浜大津)

滋2い2739/いすゞBU05(44年式川崎重工)

鉄道廃止時に代行輸送用として作られたツーマン車である。滋2い27
06、2707、2720、2733~2740の11両在籍した。代行輸送終了後、前後扉のワンマン車に改造して引き続き使用される予定であったが、実際に改造されたのは「滋2い2737」1両のみで、他の車両は譲渡された。(49-12-19 堅田駅)

滋2い2737/いすゞBU05(44年式川崎重工)

上のグループ改造車である。改造が中止となったのは、費用が掛かりすぎるためと言われている。
(55-1-6 浜大津)

〔京阪バス〕
滋2い 858/ふそうMR480(38年式三菱重工)

中1扉のツーマン車で、石山駅~上千町・岩間寺間で昭和51年頃まで使用されていた。
(51-3-23 浜大津)


バックビュー

滋2い 884/ふそうMR620(40年式クレハ)

ふそうの中型車の元祖。ボンネットと共通運用で長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅等で使用されていた。当時としては斬新なスタイルであった。
江若にも同型車が1両(滋2い1065)在籍して、和邇~途中線等で使用されていたが、スプリングの破損事故があり早々に姿を消した。悪路の走行には不向きであったのかも知れない。(50-3-2 浜大津)

滋2い 888/いすゞBXD30(40年式帝国)
 
昭和51年頃まで長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅、石山駅~大石~曽束間で使用されていた。
(49-12-15 浜大津)

滋2い2589/いすゞBU10(43年式川崎重工)

京阪バスではリヤエンジン車のいすゞは珍しかった。
(50-3-2 浜大津)

滋2い2762/ふそうMR470(42年式クレハ)

後部の窓が独立窓から連続窓に替わって間もない頃の車両で、後部の形状から「クレハの丸型」と呼ばれていた。
(51-3-23 浜大津)

滋22か 379/ふそうMR480(40年式クレハ)

前述の38年式の代替のため門真支所から転属してきた車長の短い車両。元の登録番号は「大阪2あ 126」である。
(50-1-1 浜大津)

滋22か 381/ふそうMR470(40年式三菱)

中1扉のツーマン車で比叡山線で使用されていた。座席は定期観光車と同じであったため、春、秋の休日には定期観光で使用されることもあった。「滋22」の登録番号は京都営業所からの転属車のためで、元は「京2い1268」であった。
(50-1-1 浜大津)

〔近江バス〕
滋2い 358/ふそうMAR470(39年式クレハ)

元貸切車に中央に扉を取付け路線車に改造した。エアサスで座席は貸切時代のままのリクライニングシートのため乗り心地は良かった。名神大津より大津駅、浜大津、堅田を経由して琵琶湖大橋を渡り守山駅行で、現在は堅田駅~守山駅間の運行となっている。
(49-12-15 浜大津)

滋2い 427/ふそうMAR470(42年式クレハ)

前中扉のワンマン車で、エアサスであった。
(49-12-15 浜大津)

滋2い2693/ふそうMR470(44年式クレハ)

前後扉のワンマン車で後部扉が引戸である。
(50-3-2 浜大津)

滋2い2864/ふそうMR470(45年式クレハ)

前後扉のワンマン車で後部扉が折り戸である。
(54-11-18 浜大津)

〔滋賀交通〕
水口から栗東インター~大津インター間名神高速道路を走行して浜大津までと、一部の便は自社の自動車教習所まで運行していた。また、水口~京都駅八条口間の運行もあり、大津市内や京都に向かう人にとっては乗換えが無いため便利な存在であったが、マイカーの普及による乗客減により廃止された。

滋2い2838/ふそうMR520(45年式三菱)

滋賀交通は車長の短いMR520が主力であった。
(51-3-23 浜大津)

 滋22か 631/ふそうB805L(43年式三菱)

昭和52年に貸切車に後部扉を設置して路線車に改造した。座席は貸切時代のリクライニングシートのままであった。
(54-11-18 浜大津)


【17016】都電荒川線のクリスマス

12月22日と23日の16時~18時まで、荒川車庫に於いて正面にリースを取付けた花電車がクリスマスツリーと共に展示された。22日に会社帰りにコンデジで撮影したので報告方々ご覧いただきたい。運転されなかったのは残念であるが、今後もこのような形で活用されることを期待したい。


16時30分、現地到着直後の撮影。


到着1時間後17時30分頃撮影

8809との並び


【17054】失業者二人の旅日記  初冬の大地へ      Part8 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu) その2

第7日目 12月6日 雅満蘇

蒸気機関車が撮れないなら、せめてレールバスを入れて撮りたいと発車時間の確認をお願いしていましたが、 朝食中に出発してしまいました。関係者と連絡を取っていたアイグリさんでしたが、上手くいかなかったようです。仕方ありません、お奨めの撮影地に案内をお願いしました。


▲ グーグルから作成しました地図のとおり、路線は道路と離れています。アイグリさんの一押しは、かつて站があった雅山です。途中までは舗装された道路がありましたが、直角に右折して砂漠に入り、道なき道を適当に走ります。約30分で到着しましたが、列車交換が出来るようになっていました。周りに人家などありませんので、站というより信号所です。

雅山站から雅満蘇方向の小高い丘に登って、山口方面から折り返すであろうレールバスを待つことにしました。アイグリさんは、何度も電話して列車が来る確認をします。
待つ間にここに来た日本人はおられたのですかと聞きますと、旅行社のオオタニさんという方が2度、他に4人1組の日本人が来られています。欧米人も1組来られています。私達の訪問は5番目の案内ですと言われました。
さすが三道嶺のようにたくさんの列車が走行する事がなく、不定期で走っても一日1往復では、訪れる方はわずかのようです。



▲ 待つこと約40分、11:45、ようやくレールバスがやって来ました。雅山站をバックにしたのが上の写真、雅満蘇方向に走り去るのが下です。一面の砂漠ですが鉄分が多いのか黒く輝いていました。撮影場所②

そして、地図からチェックしていた唯一の橋まで行ってもらうようにお願いして、乾いた川底を走りました。
約30分で到着後、線路際の小高い丘に登ると拡がる絶景が見渡せました。撮影場所①
今回は、蒸気機関車の運転手にフォトランを依頼する手はずを整えております。これだけ見渡せたら撮影は自由に出来ます。ただ、通過するのが日の出前後で微妙な時間なのが問題ですが、上手くいけば朝日と一緒に撮れます。期待が高まりました。

他にも数箇所をチェックして、準備は万端です。

14:45、時計では遅い時間ですが、ここでは丁度の昼食タイムです。ビールを飲みながら、ゆっくりと美味しいウィグル料理を味あいました。


▲ それでは、宿泊のチェックインとなりましたが、 案内されたのは、これでもかとボロボロの招待所です。室内にTVとは5台のベットがありますが、暖房は石炭ストーブ、床は土です。シャワー、トイレはなし。共同トイレはどこかと聞くと、はるか先の荒地を指差されました。中国も含めあちこちに宿泊しましたが、これ程の所はありませんでした。O氏も唸っていましたが、安全検査院の偉いさんが来ているので、ましな宿泊所は関係者が使うので部屋がないとのことで仕方ありません。3泊を過ごすことになりました。


▲ もう1台レールバスがありましたが、朝見たのとは整備状態が違っています。車体には、新疆雅満蘇礦との表示がありました。これがこの鉄鉱山の正式名称なのですね。 朝のレールバスは、施錠した書庫に入れてありました。
▲ 車庫には、まだ2台いるようだとO氏が言われますので、入らせていただくと、8152号機8028号機が修理中でした。合計4台が在籍していることになります。

検査会議の終る18時には、明日のダイヤが決まると何度も関係者に連絡を取っておられたアイグリさんでしたが、我々が眠る時間までは吉報は聞かれませんでした。


【17103】梅小路機関車舘での「蛍の光」

梅小路機関車間の開館は1972年と記憶するが、1975年の大晦日、民放TV共同での「行く年来る年」の極めつけは梅小路機関車舘での、蒸機汽笛による「蛍の光」だった。この曲は8音階でできているから、8両の蒸機の汽笛共鳴室の容量を加減して1両1音とし、山本直純が指揮して、オーケストラをからませ「蛍の光」を演奏したのである。つまりは8両の蒸機に同時に火を入れたことであり、当然組合も、機関士や助手のOBたちも、全力を挙げ協力したのは間違いない。

これをM君が録音し、そのテープを貰っていた。最近はアナログテープを聴くこともほとんどなく、先だってテープデッキを使おうとすると、中に入れたままのテープ再生は出来るが、取出しが不能。当然交換もできない。修理に出すと直るかどうかといわれ、1万円ぼったくられたが、目出度く再生は復活。

で、本日何十年ぶりかで、M君のテープを再生してみた。後期高齢者の身体各部は老朽疲弊甚だしく、パッキンがことごとく劣化し、尾篭な話だがありとあらゆる排泄部がよろしくない。要は「締り」が悪い。当然涙腺(これも排泄部に違いなかろう)も著しく脆くなっており、すぐ泪が出るのは「生来」感受性が高いからだと強弁しているが、老齢劣化には違いない。

36年ぶりのテープは幸い健在だった。蒸気機関車の汽笛で音楽を演奏するというアイディアも良かったが、「蛍の光」の何ともいえない哀愁と蒸機の汽笛とのマッチが言葉に尽せない。

そういえばM君はDRFC-OB会に顔を見せなくなって久しいが、元気で商売に励んでいるんだろうなぁ。


【17097】連接車2

 年末の駆け込み投稿で賑わっております。大変結構なことですが、おかげで先日の連接車1もはるか彼方に追いやられてしまいました。私も駆け込みで連接車2を登場させます。前回は名古屋市電で終わりましたので今回は同じ名古屋の名鉄を採り上げました。

           1973.3.4 谷汲線更地2151+連接車401

           単車を改造して連接車にしたもの

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 岐阜行き880形 

          880形は美濃町線廃止後福井鉄道に譲渡 

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 関行き875+876 

          元札幌市A841+A842