失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part1 旅立ち 

中国四川省の辺境の地でお会いしましたO氏とは、お互いに定年退職で失業者となりました身の上が同じです。日程を妨げるものがありませんので、ご一緒にSL撮影の旅をすることになりました。

第1回目は河南省建材廠と阜新・平庄、第2回目のエリトリア鉄道に次いで第3回目は、O氏から新彊ウイグル自治区の哈密近くあるという雅満蘇(Yamansu)に建設型SLが走っているらしい。欧米人は行っているようだが、まだ日本人が行ったというレポートを見たことがない。是非に行きたいと思っています。久しぶりに三道嶺やぶんしゅうさんがまだ行かれたことがない白銀もご案内したい。一緒に行きませんかとのお誘いを受けました。

三道嶺は、今年2月に準特急先輩に同行して参りましたが天山山脈が霞んで思っていた写真が撮れず、リベンジしたいと思っていました。 白銀 は上遊型が客車を牽引する有名な撮影地です。それに日本人がまだ行ったことがない雅満蘇と聞けば、行かないわけにはいきません。飛びつきました。

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阪神電鉄国道線(1)建設目的

   大御所、乙訓の老人からバトンタッチを受け、阪神電鉄国道線の一部を紹介します。悔いが残るのですが撮影しているのは、神戸市灘区八幡(やわた)から尼崎市西大島と、国道線の支線である甲子園線の上甲子園-甲子園間です。東神戸付近と西大島から東部野田方面を撮っていません。

 小生の幼少は国道線と共にあると言っても過言でないのに、それにチャンスもあったのに、撮影していなくて返す返すも残念です。悔いの多い人生、中でも最たるものの一つです。 

 そして小生、長じてから疑問であったのが、国道線建設の目的でした。関西における官設鉄道と私設鉄道、あるいは私設鉄道同士間の激烈な競争は敢えて言うまでもありません。阪神間はその最たるもの、皆様よくご存じの事柄です。大正年間、官設はまだ電化していないが、阪神電鉄、箕面有馬電気軌道の競争です。その中にスピード競争で勝ち目がない道路併用軌道線(阪神国道線)を何故に建設したのかです。

手許に三つの文献があります。これらに上記の疑問を解決してくれる記述がありました。

『輸送奉仕の五十年』(阪神電気鉄道、昭和30年) (文献1)と表記する。
『阪神電気鉄道八十年史』(阪神電気鉄道、昭和60年) (文献2)と表記。
『図説尼崎の歴史・下巻』(尼崎市、平成19年) (文献3)と表記。

文献1から引用します。

『国道線の開通 昭和のはじめに本線に並行して国道線が開通した。陸の大動脈阪神国道の完成に伴う副産物であった。それまでの阪神両都を結ぶ道路は昔「西の道」と言われた2間ほどの旧国道で、牛馬でさえ行き違いにひと苦労、そこへトラックなどの激増で全くの飽和状態になったため、大正8年大阪、兵庫の両政府が相協力して建設することに決定した。爾来七星霜、同151225日、あたかも昭和と改元されたその日から公用に供された。幅員15間(淀川以東は12間)、延長628町(約7キロ)、ほとんど直線的に阪神間の郊野を貫いた坦々たるアスファルトの新国道は、2,000万円の巨費を投じただけに、名実ともに東洋一の大道路として世人の目をみはらせたものである。

当社はその重要性に鑑み、いち早く大正92月にこの国道上に軌道施設を出願して122月に特許された。この為国道の幅員も急に3間広げることに変更された。(中略)軌道施設工事はわずか6ヶ月間の突貫工事をもって昭和2517日に完工した。翌5月18日新装の武庫大橋畔において国道と軌道の合同竣工式が挙げられ、運賃決定で当局と合意後の71日から開業したのである。 


                               
    
 
 野田阪神・東神戸間約26キロにわたり、国道の中央に施設された複線軌道には15mという日本で最も長い軌条を用い、鉄骨組立の側柱には煌煌と照明灯が輝きわたって大国道に美観をそえた。車庫は浜田の田んぼの中に設けられたが、路面電車のこととて30両の車両はすべて低床ボギー車で、これも日本最初のドアー・ステップ連動装置をするなど数々の新機軸が試みられた。しかし当時はまだ沿道に人家も少なく、神戸終点の連絡も悪く、阪神国道電軌の経営は危ぶまれた。
(以下略)』(文献1

  建設の様子が記載されていますが、疑問点の解消はできていません。                                                          

 

 相前後しますが、文献2に、明治43年初め頃からの電鉄株の急騰を背景に、出願ブームが起りつつあった当時の様子が記述されています。 

布引を起点として山手を通過し、西宮に達するという計画の灘循環電気軌道に、

『箕面有馬電軌は、大正元年819日、いち早く十三・門戸間の新線を出願し、灘電と接続することを企てた。電光石火の対応によって、阪神間の直通路線を入手しようと考えたのである。』(文献2 

その後、灘電が資金難となり、

『その買収・路線免許取得をめぐる係争のさなか、大正62月、箕電は灘電の軌道施設特許譲渡の認可を得、大正712月、箕電の勝訴が確定した。かくして、大正97月、灘循環線(現在の阪急神戸線)は開通し、当社の強力なライバルとして立ち現われることになった。』(文献2 

こうして、スピード競争はもとより多面的に、阪神・阪急のライバル活動が開始されて行きます。その後のことは読者ご存じの通りです。

 さらに文献2の、別の個所には

『併用軌道線の縮小と廃止 国道線は,昭和2当社子会社である阪神国道電軌㈱によって開通し、ほどなくして当社合併した。(中略)国道線は、阪神国道新設して、本線防衛という政策づき(註:下線は筆者挿入軌道敷当社費用負担によって,道路上建設された。(中略)併用軌道の輸送量は、戦中と終戦後20年代半ば頃にピークを記録して以後減少に転じていた(中略)30年代に始まったモータリーゼーションの進展によって、経営は困難の度合いを深めていった。』(以下略) 

と、新設国道に他社線が先に進出し、阪神本線に悪影響が及ぶ前の対抗処置だったことが明記されています。これが新設国道線に、阪神電鉄が道路併用軌道線を建設した真実であり、「建設目的は何か」という筆者の疑問への解答です。

国道線の経営が初めから楽ではなかったことも同時に伺えます。客が多かった時期はほんの一時期でした。
文献3に、

『鉄道と道路  現尼崎市域においては、(中略)明治38年には阪神電鉄が開業し、尼崎町中心部と大阪・西宮・神戸といった東西の市街地が結ばれます。大正期から昭和初年にかけては、これらに加えてさらに2本の重要な東西交通幹線である、阪急電鉄と阪神国道が開通することになります(中略)。 こうして開通した阪急神戸本線や阪神国道の沿線には、宅地開発や耕地整理がすすめられ、新たな市街地が形成されていきました。    

 開通当時、国道線の沿線は農村的雰囲気が漂っていましたが、大庄〔おおしょう〕村や小田村などで耕地整理が行なわれて急速に住宅化がすすんだこともあり、昭和10年代には利用者が大幅に増加していきます。戦争をはさんで、昭和20年代半ばにピークを記録しています。
 この時期、国道線の主力となったのは昭和12年製の阪神71型でした。屋根まで届くような縦長の窓が連なっているのが特徴で、流線型の開放的なガラス張りのデザインから「金魚鉢」との愛称で親しまれました。新時代の到来を予期させる、先進的な路面電車でした。

ところが、高度経済成長期に入るとともに、利用者数は減少に転じます。自動車の普及によって道路混雑が激しくなり、定時運行がままならなくなったのです。市内で一番利用者が多かったのは難波〔なにわ〕停留所でしたが、昭和27年に14,691人いた乗客数が、昭和37年には2,211人と半減。やがて、国道2号や周辺道路が渋滞する原因として、国道線がやり玉にあげられるようになります。累積赤字の負担に耐えかねていた阪神電鉄はもちろん、兵庫県や尼崎市も、廃止やむなしという方向へと流れていきました。 

昭和493月に上甲子園~東神戸間が廃止され、残っていた野田~上甲子園間も、昭和50年に営業を取りやめました。最終営業日の55日は、名残を惜しむ市民で終日ごった返しました。なお、金魚鉢こと71型電車は、市内の水明〔すいめい〕公園と蓬川〔よもがわ〕公園に保存されています。』(文献3)  

とあり、建設の過程、その後の状況、廃止前後の様子が記述されています。

 今回は国道線建設の目的や、その当時および戦後の様子と写真を文献から引用して紹介しました。次回は小生の写真で、
 第2回:八幡から西大島まで、カラー写真を交えて紹介します。
 第3回:甲子園線のカラーと7174の保存の様子を紹介します。

エリトリア鉄道 2011年総集編 

エリトリア鉄道は、イタリアの植民地化により建設された鉄道です。
当初は、塩生産のために港湾都市マッサワに敷設された600mmゲージの鉄道が始まりでしたが、1888年に750mmに改軌されてSa’atiまで延伸されました。
ドイツのヘンシェル製(Henschel)の蒸気機関車7両が投入され、1926年まで在籍しました。

海抜約2,400mの現在の首都アスマラまでは、イタリアからの物資を輸送するために950mmに再改軌されて1911年に延伸されています。
左は、1930年の時刻表です。マッサワ~アスマラ間は、1往復の蒸気機関車牽引の列車が運行されています。マッサワを6時30分に発車して、アスマラには12時半に到着しています。120キロを6時間をかけて登っていますので、表定速度は20km/hでした。

▲ 当時の1等車と2等車の結構豪華な車内です。3等車は現在の板張りボックスシートだったようです。

1935年にフィアット社製のディゼル車「リットリナ」が投入されてからは、10時半~11時頃に着いたとの記事がありますので、約4時間強(表定速度は30km/h)にスピードアップされていました。

その後も延伸は続き、1922年にはケルンまで建設されました。1932年には263.7キロ先のビシアまでつながりました。最盛期には、一日30本もの運用が行われました。
最終的には狭軌のスーダン鉄道と結ぶ計画でしたが、1975年からの戦争により中断され、敷設されていたレールや鋼枕木は戦争用のフェンスとして使用されました。

駅は解体され、車両も損害を受けましたが、20年続いた独立戦争が終った1994年には改修プロジェクトが開始されて、2003年2月にはマッサワ~アスマラ間が復旧されました。しかしマッサワからアスマラへの物資や客輸送は日本等のODAで建設された道路に移行しており、エリトリア鉄道の現在は、戦前に残された貴重な950mmゲージの蒸気機関車や内燃車をチャーターして走らす鉄道ファンの撮影地となっております。

【配属蒸気機関車】
蒸気機関車は、前記のように750mm時代の7両と、950mm時代のマレー機56台を含み79台が投入されています。重連での運行もあったようで、多くの物資を積んだ貨車を牽引して、標高差約2,450mもの勾配を登っていく姿は想像するだけでもすばらしかったとろう思われます。

【現在残る車両】

▲ 79台あった蒸気機関車は、リビア等に売却されたり第2次世界大戦、独立戦争で破壊され9台が残りましたが、下記の訪問記でもお分かりのように走行できるのは約半数でした。
内燃車ツアーもあり、DLやDCがフォトランに参加していますので、走行できる車両もあります。世界でも最も貧しい国と評価されていますので、SLや内燃車の観光ツアーは外貨収入を得られる貴重な財源です。路盤のバラストも新しく、これからもツアー受け入れには積極的に対応されると思われます。

【エリトリア鉄道へのアプローチ】
エリトリアは社会主義国家で、ビザなし渡航は認められていません。ビザは、東京にあるエリトリア大使館に個人申請をする必要があります。また現地につきましても移動には許可が必要です。
そのため、今回のエリトリア鉄道SL撮影については、ドイツの旅行代理店”TANAGO”のツアーに参加しました。エリトリア鉄道以外に、中国鉄路、アフリカ等のSL撮影ツアーを企画されています。HPは下記のとおりです。ご覧ください。
http://www.tanago.de/erlebnisreisen/de/eisenbahnreisen.php

今回のエリトリア鉄道訪問記の詳細は、下記をクリックしてご覧ください。

Part  1  旅立ち
Part  2  フランクフルト中央駅
Part  3  フランクフルト交通博物館へ
Part  4  フランクフルト交通博物館
Part  5  路面電車に乗ってフランクフルト市内観光
Part  6  ICEに乗って、フランクフルトからミュンヘンへ
Part  7  ミュンヘンは、オクトーバーフェブト
Part  8  ミュンヘンの路面電車に乗って
Part  9  ミュンヘンからエリトリアへ
Part 10 希望へのエリトリア鉄道の今は その1
Part 11 歴史が息づき、文明が交差する街、アスマラ
Part 12 希望へのエリトリア鉄道の今は その3
Part 13 希望へのエリトリア鉄道の今は その4
Part 14 希望へのエリトリア鉄道の今は その5
Part 15 希望へのエリトリア鉄道の今は その6
Part 16 希望へのエリトリア鉄道の今は その7
Part 17 希望へのエリトリア鉄道の今は その8
Part 18 希望へのエリトリア鉄道の今は その9
Part 19 エリトリアからドイツへ
Part 20
帰路

ご同行させていただいたO氏より私が参加できなかった後半のツアーでの撮影写真をいただいております。
O氏のご好意により、ハイライト写真の1部を掲載させていただきます。

 

ご紹介させていただきました写真以外にも秀作の数々があります。フォトランではありますが、私ごときでは写せないすばらしいカットでした。O氏ご自身がお撮りになった40数年間に及ぶ鉄道写真をホームページに掲載される準備をされておられますので、完成されましたらご紹介させていただきます。

帰国後、初めてお会いした中国鉄路に残る蒸気機関車を一緒に撮りにいこうとの話が出ました。11月30日から14泊15日をかけて

続いて『 失業者二人の旅日記 初冬の大地へ』を投稿します。ご覧いただけますようによろしくお願い申し上げます。

また地震体験!

 連日高尚な記事が続くデジタル元祖青信号に個人的な「すかたん旅行」を披露するのはいささか気が引けるがお許し願いたい。今年は3月11日の地震で大変な年であった。私も「地震体験」という題でデジ青に投稿した。横須賀田浦の梅林であの大地震に遭遇し、横浜まで20kmを歩いた話であったが、また、同じ様な体験をしたので馬鹿(あほ)な行動を報告する。

 朝、八王子から老春切符で塩尻経由で行くと12時48分に中津川に到着できる。今夏と同じルートで勝手を知ったコースである。今や貴重となった中央西線のEF641000重連が3本撮れる。13時13分始発の名古屋行きの快速まで広々としたホーム横の留置線の車両を撮影できるおまけつきで好都合である。その留置車両を1両、1両ゆっくりと撮影し終えてさぁー目的の列車に乗ろうとした時に何かざわざわとした音を感じた。最初は高速道路の車が隊列を組んで走行している音かなと思った。そのうちに架線がびゅんびゅんうなって一発ドカッと腹に響く様な揺れがきた。3月11日の長く続いた大揺れに比べて今回は一発だけであったがびっくりした。駅事務所に行くと倉本~釜戸間が線路点検で運休するという。点検により土砂崩れや架線切れを発見すると復旧に長時間がかかるとの説明があった。バスは1時間か2時間に1本くらい恵那まであるという。あとはタクシーであるが、貧乏旅行には使えない。今日の目的地はその釜戸で最近は名古屋近郊の手軽な撮影地としてよく紹介されている。釜戸は私の生誕地でもある。しかし、中津川~釜戸間は22.4kmある。線路に沿って歩いているうちに復旧するだろうと思い、どうせ歩くなら中仙道の宿場町見物をしようと歩き始めた。今日は豊中にホテルを予約してあるが、今日中に何とか着くだろうと心配であったが楽観的に考えた。途中バス停を見ると1時間に1本恵那まで行っていることが確認できたので美乃坂本から恵那まで360円で乗る。恵那からは瑞浪方向にバスがあることを期待したがない。恵那から武並にかけて峠があり、きつい坂を登ったのでD51時代は大変であったろうなと妙な感心をする。峠を越えたあたりで日没。釜戸手前では道を間違えて車の多い19号に出る。暗くて危ないので再び旧道に戻り、18時半頃に釜戸駅に到着。結局17.2km歩いたことになる。駅に着くや「ワイドビューしなの10号」が5時間遅れで通過。やっと復旧したのだ。そして名古屋行きは18時40分頃到着する。その後順調に走ったが最後の金山~名古屋間でまた30分かかってしまった。イライラしながら大阪には23時半に到着。23時48分発阪急宝塚行き最終急行にかろうじて間に合った。乙訓の老人様からよく「(お迎えが近いんやから)あまり無理すんなよ」といわれたことを思い出す。地震は13時1分の発生で震源地は恵那付近で震度4であったと人から聞いた。

11.12.14 中津川駅  右は乗る予定であった13時13分発快速名古屋行き2726Mクハ312ー404

 

翌日は福知山線生瀬~武田尾間6.4Kmの廃線跡探訪と草野~古市間での撮影をして京都七条の総本家さんの二人写真展をのぞいてきた。拙写併載する。

11.12.15     C54,C55,C57,C11等が走った廃線跡。懐中電灯忘れてえらい目にあう。トンネル内がカーブしており真暗闇でこわかった。右は武庫川渓谷。

11.12.15  草野~古市 2733M 丹波路快速篠山口行き223系

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part20  帰路

エリトリア鉄道訪問記最終編は、下書きをしたままほったらかしにして、また出かけてしまいました。ずぼらで申し訳ございません。このままでは、次の紀行記がスタートできませんので、勝手ながら再開させていただきます。

第10、11日目 10月3日、4日

① ミュンヘン13:25(ICE516)→17:06フランクフルト空港
② フランクフルト21:05(JL408)→翌日15:25成田16:50→18:15伊丹
③ 大阪空港 (モノレール)→南茨木(阪急)→長岡天神

今日は、昼過ぎにICEに乗車して、直接フランクフルト空港へと向かい、帰国の途につきます。そして、10月3日はドイツ再統一の記念日、またオクトーバーフェストの最終日でもあります。
朝食後、また路面電車に乗って市内遊覧に出ましたが、途中でビール樽を積んだ馬車が線路道を 横切りました。
往路で会場を訪れた時は、ミュンヘン駅から地下鉄で行きましたので、会場がどこにあったのか分かっていませんでした。近くにあるのなら、もう一度美味しいビールを飲んでみたい、家内もあの雰囲気を昼間に見たいと申しますので、降りて行って見ることにしました。
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昭和40年前後の浜大津界隈

西村雅幸氏が引き続き浜大津のジオラマを製作されるとのこと、完成を楽しみにしていると共に今度こそ見学に行きたい。

浜大津交差点では何度も撮影しているが、どうしても車両中心になり、お役に立てるかどうか判らないが、取りあえず周囲の風景が写っているものを撮影日順に貼り付けた。
私的には昭和39年の秋頃、京阪の行先板が終点表示から起終点に変わったことが印象に残っている。
石坂線】



13 (39-8-2)


41+43/30形は標準色に塗り替えられ、撮影時点で特急色で残っていたのはこの編成のみであった。(39-8-2)

221(39-8-2)

17/17と18は丸屋根に改造されていた。行先板は起終点表示に変わっている。(39-12-2)

303/近江神宮前行は従来からの終点表示であった。(39-12-2)

3022/中央にパンタがあり、時折本線の乗り入れていたのを学校帰りに実見している。(39-12-2)

 15+16 (40-1-2)

 17+18/2連の時は同じ丸屋根改造車の18と組んだ。
(40-3-18)

 204+205(40-4-2)

 201(41-1-23)

 206(42-5-13)

355/浜大津止りは終点表示 (44-4-10)

272+271/時代は昭和50年代後半まで飛ぶが坂本と石山寺は単独表示に戻った。(56-1-23)

359+360/現在の浜大津駅建設中 (56-1-23)

358+357/以前とは逆に浜大津~坂本間の折り返しが起終点表示となった。(56-1-23)

【京津線】

25 (38-12-25)

56/京阪バスのボンネットバスが写っている。(38-12-25)

22 (39-8-2)

72/寝屋川工場で牽引車として健在 (39-8-2)

273+274 (39-10-2)

22/錦織工場に回送のため渡り線を走行中 (39-12-2)

23 (40-3-18)

55 (40-8-13)

301+302/車体新製直後 (40-8-13)

275+276 (41-1-23)

82/80形はポール時代が最も美しい。(43-5-18)

270+271 (56-1-23)

269+268/浜大津折り返し準急は起終点表示 (56-1-23)

関東鉄道水海道車両基地公開イベント

11月3日、関東鉄道車両基地公開イベントが開催され、午前中時間があったので覗いてみた。
東京都内から水海道は遠いイメージがあるが、つくばエクスプレスの開業により吃驚するほど近くなった。しかし、茨城県、関東鉄道の沿線と聞いただけで遠いイメージを持ってしまうのはやむを得ないかもしれない。

自宅近くのバス停から京成バスに乗ると10分でつくばエクスプレスの八潮駅に到着するが30分間隔と本数が少ないため自転車で行った。程なく来た各駅停車は20分で守谷に到着、関東鉄道に乗り換えて15分で水海道に到着した。関東鉄道は本数が少ないというイメージがあるが取手~水海道間は昼間1時間に4~5本運行されており、守谷~水海道間は始発の下館行が加わるため非常に便利である。水海道には9時30分に到着し、自宅からの所要時間は50分であった。

会場の車両基地まで歩けば20分かかるが、無料シャトルバスが運行されており、10分で到着し、開場前であったが鉄道用品販売コーナーには行列ができていた。
 会場には、DD502、キハ002+キハ001、キハ2102+キハ2101、キハ5002が並べられ、キハ101が乗車会に使用、キハ5002の後ろに綱引き用としてキハ2302+キハ2301、会場の入口に10月10日のお別れ運転で営業を終了したキハ358+キハ3511がさよなら運転時のヘッドマークを付けて停められており、車内には活躍していた頃の写真とヘッドマークが展示されていた。
展示車両の紹介方々、常総線で活躍中の車両を紹介する。

【DD502】
昭和31年製というから車齢56年である。日本車輌で作られたセミセンターキャブのロッド式機関車である。昭和49年貨物営業廃止後は工事列車、新製車の下館からの搬入、イベント時の体験乗車等に使用されてきたが最近休車になった。貴重なディーゼル機関車初期の車両であり是非復活していただきたいものである。


【キハ002+キハ001/形式キハ0】
昭和57年から59年にかけて元国鉄キハ20のエンジン、台車等を流用して新潟鐵工所で車体を新製した。001~008の8両作られ、片運の2両固定編成である。平成9年から10年にかけて冷房改造、17年にはワンマン改造が実施されたが、最近はラッシュ時以外使用されることは少ない。


【キハ2102+キハ2101/形式キハ2100】
平成6年から8年にかけて新潟鉄工所で2101~2112の12両作られた。片運の2両固定編成で、この形式から新塗装になった。平成15年にワンマン改造が実施され主力として活躍中である。
画像は入区してきたキハ2110+2109


【キハ2302+キハ2301/形式キハ2300】
平成12年~14年にかけて新潟鉄工所で2301~2310の10両作られた。在来車との併結は考慮されずに作られ、電気指令式ブレーキを採用している。片運の2両固定編成で主力として活躍中である。

【キハ5002/形式キハ5000】
常総線では最も新しい車両で、平成21年に新潟トランシスで2両作られた両運車である。写真のように新塗装になり、在来車の一部も同様の塗装に変更されている。

 【キハ101/形式キハ100】
元国鉄キハ3055(昭和41年日本車両製)で平成3年2月JR九州より譲り受けた。最終配置は長崎機関区であった。当日は乗車会に使用され、車両基地内約100m間を往復していた。
もう1両のキハ102は元国鉄キハ3096(昭和41年新潟鐵工所製)で平成4年5月JR九州より譲り受けた。最終配置はキハ101と同じ長崎機関区であった。
2両が交代でほぼ毎日下記ダイヤで運行されている。基本的に月曜日と火曜日はキハ102、それ以外の日はキハ101で運行されている。
水海道10:34(土休日は10:33)→下館11:2411:42(土休日は11:44)→水海道12:36

 


【キハ358+キハ3511】
車両の解説は、11月16日【16043】「関東鉄道キハ350形(元国鉄キハ35)営業運転終了」に書かれているので省略するが、10月10日の「さよなら運転」時のヘッドマークを取付けて展示された。車内にはかつて使用されたヘッドマークや写真が展示されギャラリーになっていた。



 10月10日ラストランの時のサボ

車内に展示されていたヘッドマーク



車内に掲示されていた写真



 
  
特急「しもだて」のヘッドマークを付けたキハ3511

「特急しもだて」は実際に運転されていた列車で、昭和32年7月1日より約5年間運転されていた。当初は下館~取手間を途中黒子、下妻停車で60分で結んだ。(後に石下、水海道が追加)

下館、下妻地区から東京方面は、水戸線で小山に出て東北本線、下妻から茨城急行のバスで北越谷に出て東武鉄道のルートと競合関係にあったが、昭和34年宇都宮電化により小山経由のルートが優位に立った。一方下妻からのバスルートは交通量の増加により定時運転が困難になると乗客減となり、岩井で系統が分断されてしまい、遂に下妻~岩井間は廃止され、更に北越谷~岩井間も野田市で系統分断されてしまった。(運賃は直通客が不利にならないよう通しで計算される)
 
 平成17年8月24日「つくばエクスプレス」開業後は、守谷経由「つくばエクスプレス」ルートが優位に立ち、下館~水海道間の増発、下館~守谷間に快速列車の設定が実施された。それに引き替え、守谷~取手間とつくば~東京駅間の高速バスは大幅に乗客減となり、これが鹿島鉄道廃止の原因にもなった。
展示車両以外の各形式について
【キハ310形/キハ311~318】
昭和51年から54年にかけて元国鉄キハ16、17のエンジン、台車等を流用して大栄車輌(311、312)新潟鐵工所(313~318)で車体を新製した。キハ0形と異なり、改造車扱いで車籍を引き継いでいる。台車はラストのキハ318以外は種車のDT19、TR49を履いていたが、昭和58年にDT22、TR51に履き替えた。(キハ318は国鉄時代に履き替え済み)平成11年と14年に冷房改造と方向幕設置によるヘッドライトの移設、17年にはワンマン改造が実施されたが、最近はラッシュ時以外使用されることは少ない。キハ311と312は平成8年3月に廃車されている。
  

改造前のキハ313(58-5-5)/台車は履き替え前のDT19、TR49

【キハ2200形/キハ2201~2204】
平成9年と10年に各2両ずつ水海道~下館間のワンマン運転用に新製された両運車で、キハ2100形をベースにワンマン運転時の利便性の向上のため前後の扉を車端に設置している。キハ2202は最新のキハ5000形と同様の塗装に変更した。


【キハ2400形/キハ2201~2206】
平成16年~18年に各2両ずつ水海道~下館間のワンマン運転用に新製された両運車で、スタイルは前述のキハ2200形と大幅な変化はないが、ベースがキハ2300形のため、在来車との併結はできない。

 ★つくばエクスプレス★
当日はつくばエクスプレスの守谷総合基地の一般公開も実施されており、会場から無料シャトルバスが運行されていたので帰りに立ち寄った。こちらは物凄い人出で、関東大手私鉄のグッズや地元の食品販売のブースが立ち並びお祭り広場のような騒ぎのため、展示されていた電車を撮影して早々に退散した。

【TX-1000系】
秋葉原~守谷間の直流区間専用車で6両編成が14本在籍する。


【TX-2000系】
秋葉原~つくば間で使用される交直両用車で6両編成が20本在籍する。時間帯によりヘッドマークが取替えられていた。
 

大井川鉄道、新金谷駅に転車台新設

            千頭からのSL 列車 バック運転解消へ 

 大井川鉄道の新金谷駅構内に新しい転車台が、20119月末に完成し、107日からのSLフェスタにあわせ供用を開始しました。 

 静岡県島田市が、市の観光施策の一環として設置するとし、その工事業務を大井川鉄道に委託し、今回完成したものです。 

  完成した転車台は、
  全長 17.5メートル
  自重 22.8トン
  駆動方式 人力、電気式併用
  総工事費 9,000万円  
  
 転車台に使う橋げたは、既存の橋げた(
1988 年製)を改造。この橋げたは、製造からしばらくたっているが、使用期間は短く、新品に近い状態であった。また工事費の圧縮及び工期の短縮、並びにリユース等の観点から、新品で作り込むのではなく、既存の橋げたを改造使用しました。 

 また、千頭駅の転車台は、イギリス製のもので、1897(明治30)年に日本に輸入されたのち国鉄で使われ、1980(昭和55)年千頭駅にやって来たものです。
                       (以上、大井川鉄道公式アナウンスより)
 

 これで千頭駅からの帰り(上り列車)も、機関車のバック運転をすることがなくなりました。観光客にも喜ばれそうです。実は観光客にはバック運転の意味が判らずに、不評だったようです。鉄道愛好家にとっても、新しい撮影アングルが発見されそうです。 

 写真、転車台上の機関車は、10月のSLフェスタ期間中展示された日本ナショナルトラスト保有のC12164です。本務機の転車台使用に際しては、都度移動させた(筆者撮影)

 暗いニュースの多かった2011年、せめてもの明るいニュースの一つでした。
                                   

澤村さんのお導き!

12月9日夕方、京都市内の某所で討ち入りならぬ秘密の打ち合わせが開かれるとの情報を得て、押っ取り刀で駆けつけた。そこには初老の男が7名、なにやら酒を飲みながらヒソヒソではなく大声でわめきあっている。一番年長らしい男に聞くと、まず自分はここで一番年下だと断った上で「DRFCのOBで、澤村氏の葬儀で会えなかったか、行けなかった者達の再会」とのこと。

DRFCのOBといえば、我が国鉄道趣味界における奇人変人の集合体としてとみに有名である。その会員とあらば並大抵の人格とは思えない。予想通り、話題は鉄道などかすりもせず、もっぱら年金とかつての仕事の話、さすがは奇人変人狂人の仲間である。

呼びかけの労を執って下さったパール田淵氏の心配をよそに、飲み放題をいいことに飲むは飲むは、ビールと焼酎お湯割りのやま。初参加のナポレオン山室氏や先ほど顧問の教授に間違えた稲毛氏、一人現役のサラリーマン・P6久我氏、などの怪気炎が夜の東山にこだましていた。

昭和44年10月10日 「びわこ号」追っかけ撮影記


 浜大津交差点手前

12月5日【16406】米手作市様の「びわこ号がもう一度見られる?」の記事から、大津の86様が翌日の【16426】「びわこ号の思い出」を投稿されたが、その中で「びわこ号」が石坂線で定期運用に就いていたことを初めて知り、地元の方の情報の重要性を再認識した次第である。
多分、「びわこ号」の石坂線運用の話題は鉄道雑誌に取り上げられたことは無かったと思うがどうであろうか。
61が昭和42年12月、62が昭和43年12月に廃車された後、63が常時錦織に停められていたことは石坂線の車窓から確認していたが、石坂線で定期運用に入っているとは夢にも思っていなかった。

 昭和44年10月10日、鉄道友の会京都支部で「びわこ号」の乗車・撮影会が実施されることを、当時支部長をされていた大西顧問からお聞きした。詳しい時刻等もお教えいただいたので特派員さんはじめ何名かの方と撮影に出かけた。

最初に三条京阪で撮影後、多分走って東山三条に移動して撮影。「びわこ号」は一旦四宮車庫に入庫して撮影会が行われるため、電車で浜大津に先回りして到着を待った。四宮車庫での撮影会はパンタが上がったそうである。電車で錦織車庫に移動し、友の会が引き揚げた後まったり撮影した。当時は頼めば快く車庫内に入れてくれたよき時代であった。

 その後、江若鉄道の線路際まで歩き、走行中の列車やDC251牽引の貨物列車を撮影後、滋賀駅から江若に乗り三井寺下で降りて車庫で撮影後帰宅した。昼飯を食べた記憶がないので、多分「飯より鉄道」であったのであろう。

 大津の86様も書いておられるが、来年は京津線100周年の節目の年、可能であれば動かなくても構わないので、京阪特急色の「びわこ号」を四宮か錦織に里帰りさせて展示していただければと大いに盛り上がるのではないだろうか。我々の世代は「びわこ号」は京津線が似合うと思っている。

三条駅進入


東山三条通過

 浜大津交差点手前

 浜大津駅進入

 京津線から石坂線への渡り線

 錦織車庫

 中間台車


 車内

記念撮影(当時の錚々たるメンバーの揃い踏み)
 
 【以前に撮影したもので比較的マシな写真】

 浜大津を発車した三条行普通
(40-1-2)

 浜大津交差点
(40-1-2)

 東山三条
(41-2-12)

 東山三条
(41-2-12)/隣に三条行の63が見える。

 東山三条
(41-2-12)

 関 三平さんのイラストは「運転席正面の窓がおかしいでっせ」等とツッコミは入れないこと。
この時代、正面の運転席窓が本線の1000形と同じ構造になっている。44年の写真では、通風口が設置されたものに取り替えられていることが判る。(全車取り換えられたのか、63だけかは不明)

 

 

びわこ号の思い出

先日の江若鉄道に続き、今度はびわこ号と、地元民にとって懐かしい話題が続きます。私は大津駅の近くに住んでいますが、小さいころは京都に行くときは大抵の場合京津線を使っていました。昭和40年ころの時刻表を見ると、当時の国鉄は日中1時間に2~3本程度、これに対して京津線は急行、普通が1時間に3本ずつ、急行といっても所要時間は3分しか違いませんから、どちらに乗っても変わりません。また、京都駅周辺は丸物しかなく、買い物、遊びは河原町ですから、利便性からも京津線に軍配があがります。

小学校の遠足となると貸切電車で最寄の上関寺(昭和46年8月廃止)から乗車します。このときに乗ったのがびわこ号、当時はもう通常の運用からは外れていたのではないでしょうか。高校生時代には石坂線で通学していましたが、朝のラッシュ時は錦織車庫に転属になったびわこ号が走っており、ちょうど学校にぎりぎりに着く時間の電車がびわこ号でよく利用しました。石坂線沿線は高校が5つあり、通学時間帯は超満員、乗車駅の島ノ関で乗れずに遅刻したこともたびたびありました。

その当時はSLブームが起こった時代で、地元の旧型電車にはあまり興味がなく、残念ながら地元にいながら、ほとんど写真がなくて、古いネガを見ると錦織車庫で撮った数枚の写真があるだけで走行中の写真は見当たりませんでした。

びわこ号復活の話はうれしいことですが、地元民として残念なのは寝屋川市と京阪がタイアップしてやるとの事、今となっては大津線への乗り入れは不可能となっているものの、来年は大津線100周年でもあり、錦織車庫で復元して大津線で動かしたいところでした。

昭和43年8月錦織車庫にて

びわこ号がもう一度見られる?

朝のドラマで、主人公が岸和田と母方の出所の神戸を往復するシーンがたびたび出てきます。その移動に使う電車がその時代を上手く表しているのですが、どうもその電車は京阪の60・びわこ号らしいのですが誰か知りませんか?

この絵は、ちょうど今話題になっている江若の浜大津駅が後ろに見えています。ちょうど三条方向へ坂を登るところでしょう。

ところでここにも書かれていますが、本当にびわこ号はまた走るのでしょうか?澤村さんは無理だと言っていましたが、どなたか本当のところを教えてください。

今でも気になる江若鉄道(2)

最近の駅は、都市部を中心に橋上駅化や高架化により、駅舎がなくなる傾向にあるが、できるだけ意識をして撮影するようにしている。それでも撮影の中心が列車や車両になるため、つい忘れてしまうことが多い。
江若鉄道の末期、有人駅の入場券は全駅集めたが、駅の写真までは撮影しようと思わなかったのであろう。僅かであるが撮影した駅をご覧いただきたい。

浜大津

 国鉄から借物の駅舎/
39-11-29

 駅構内/
44-10-26

 入換え作業中のキハ51/
40-8-13

 膳所方面から望む/
44-10-26

踏切を通過して浜大津駅に到着。廃止間際のため、後ろは更地になっているが、以前はこの場所に江若バスのターミナルがあった。浜大津には京阪バス、近江バスが頻繁に発着していたが、当時専用のターミナルを持っていたのは江若バスだけである。/
44-10-10

踏切を挟み、左がバスターミナル、右が駅であった。/
40-3-18

三井寺下


 41-11-27

43-9-28
 
列車の最後部の窓からの撮影。44-10-14

 臨時列車と交換のためホームの無い所に停車した近江今津行。乗客は梯子を使って乗車している。/
44-10-10

滋賀

滋賀駅は何度も乗り降りしたが撮影したのは駅名板のみ。/44-10-10
 
 
叡山
 
 
 

 いずれも廃止間際に撮影/
44-10-26

 
タブレット交換/44-10-10

 満員のハフ3/
44-8-16


日吉


 元近江今津駅で駅長をされていた方が嘱託で勤務されており、ご自宅が直ぐ近くにあった。/
44-10-26

元は交換駅であったことが判る。/44-10-10

 
 雄琴温泉


 駅名板の表示は「をごとおんせん」となっていたが、両隣の駅名板は「おごとおんせん」であった。この駅名板は大西顧問のご自宅の庭に移設されたが、今はどうなっているだろうか。/
44-10-26

 ホームに停車中のキハ13+ハフ8の浜大津行/44-10-26
 
 堅田

 細川、途中、生津、上仰木、琵琶湖大橋方面行のバスの乗換駅で、バスの切符売り場が併設されていた。/
44-10-4

 水泳シーズン以外は、緑の客車オハ1957~1960が留置されていた。/
44-10-4

 連絡運輸の範囲表/
44-10-4

真野

 撮影したのは駅名板のみ。バックに琵琶湖大橋が見える。/
44-10-26

蓬莱

ここでお詫びと訂正。10月27日に大津の86氏が投稿された【15808】「江若鉄道の思い出」のコメント欄に「サンケイバレイ行のバスは近江木戸駅から出ていた」と書いたが、時刻表で確認したところ「蓬莱駅から出ていた」が正解であった。
 

 44-10-26

 キニ4+ハフ2の浜大津行/
44-10-26
 
 近江木戸

大正15年4月11日から8月15日まで4カ月間終着駅であった。/
44-10-10

比良号到着。給水塔、給水設備があったことが判る。
44-10-26

近江舞子


44-10-12
 
  
 北小松

肝心の駅舎は撮影していない。/
44-10-4

駅前に停められていたパトカーの廃車体。交通安全のツールとして使用され、交通違反の抑止力の役割を果たしていた。/
44-10-4

白髭

白髭はこの2枚のみ/
44-10-5
 
 高島町

入換え作業中のDD1352牽引の貨物列車/
44-10-4

近江今津


 44-10-12

 降雪地帯のため機関庫があった。/
44-10-12

始発列車があった和邇駅、朽木方面行バス乗換駅の安曇川駅は拠点駅らしい雰囲気を持っていたが撮影していない。新旭駅も貨物営業をしており、比較的大きな駅であった。
駅舎及び構内、関連施設等を撮影された方は是非発表をお願いしたい。

 

 

荒川線の日 2011


東京都交通局では10月1日を「荒川線の日」に制定し、毎年この日に近い休日に荒川車庫でイベントを実施している。
今年は10月1日(土曜日)に開催され、都営交通100周年記念の「花電車」撮影会と出発式が実施され、多くの人で賑わった。

 荒川車庫の賑わい


 Gゲージの模型
普段は荒川遊園地内の下町の都電ミニ資料館に展示されている都電の模型が特別に展示された。沿線にお住いの77歳の大工さんの作品で、車体はペーパーと一部ベニヤ板製で、車内も精巧にに作られている。「車号がちゃいまっせ」等とツッコミは入れないように。

花電車
都営交通100周年を記念して、7500形(7510)を改造して作られた。当初は6月5日、11日、12日、7月23日、8月27日に運行される予定であったが、東日本大震災の影響により、10月1日、10日、16日、23日、30日に延期された。

バースデーケーキをイメージして装飾されており「花電車」と言うより「デコレーション電車」の電車がふさわしいと思う。

 検査標記には「ケーキ」と表示されている。

本物のチョコレートと間違う位よく出来ている。

 6000形と8800形

 浅草線5000系と大江戸線12-000形

 ヨヘロ形と日暮里舎人ライナー

 円太郎バスと現在の都バス



 小台/
余談であるが小台で都バス「東43」系統/東京駅丸の内北口行に乗換えができる。

花電車の直前に来た9001

 町屋駅前/地元の人が多数カメラを向けている。


 花電車のポスター
 
 JR西日暮里駅のポスター/「都電荒川線は山手線大塚駅、京浜東北線王子駅の乗り換えが便利です」と書かれているが、千代田線に乗れば次の駅が町屋である。

夜も見に行ったが撮影していないので、撮影された方は是非発表をお願いしたい。

阪神電車の鋼製旧型車(その3)

阪神電車の急行運転192161日からである。この時の最新車両は301型で、藤井信夫さんは「2両連結で梅田-三宮間を56分で結ぶ急行運転を開始して」と、紹介している。301型はバンドン式連結器を装備し制御方式はGEMK総括制御器であった。急行運転開始に間に合った増備車は311321形の20両で、その後に33140両、鋼製車37120両が増備された。また、開業時の1号型の増備車10両を総括制御車に1915年に改造したことを、高間恒雄さんは阪神電車形式集・1で紹介している。後に4150号にまとめられ、1923年に連結運転可能な車体を新製して291形になった。車両構造上、連結運転に不向きであったようで、1号型時代は連結運転されていないようだ。まとめてみると、50ph車で連結運転可能な301390号と291300100両が急行にも運用された訳だ。

371形(後の601形)が登場した頃、国道拡幅がきまり、岩屋から三宮へは地下線化されることになった。それに合わせ急行用と名付けた40130両が製造された。車体寸法は先の371形同様であったがボギーセンター間距離が延長、乗降扉部床段差とホールディングステップが廃止された。これは急行停車駅の乗降設備が改良された事を物語る。そして何よりもグレードアップしたのは主電動機の出力アップで48.5kw×4となり、制動装置はAMMとなった。制御器と連結器がMKとバンドンのコンビになったのは、301330号のものを流用したのではないかと、高間さんは解説している。MKは後に東芝PC5自動進段式になった。この401形は1929年、801801830号に改番され、続いて83110両が1928年、翌年10両増備で831850号の20両となった。先の801形と車体寸法に変化はないが、「たまご」型は平凡な平妻になった。主要機器や性能は801形と同じである。

三宮地下線化開通は19336月であった。これを前に住吉-石屋川間の高架線化が完成、急行は阪神間を48分、普通58分となった。地下線対応の車両は鋼製(内装は木造でもOK)車が要求された。この時点での鋼製車60120両、80130両、83120両、鋼体化車901形が193210両、1001形は19311933年間の20両、計100両であった。残る木造車50両の鋼体化工事が完了したのは193612月、全て1101系となった。

急行用の増備851形は1936年の登場である。1933年から始まった1101系のスタイルとなり、両妻間寸法は13mから14m車体となり、窓配置は車掌台横に小窓を加えている。扉間幕板部に明り取り窓があり、貫通扉折戸のガラス窓が上下に延長され「喫茶室」とか「床屋」と言われた。そして巧みに運転台機器を覆った曲面仕切り板、おかしな運転姿勢となった601801形の運転機器配置と比べると、8517両、1937年製造の86117両は戦前製阪神の代表車と言われた。戦時体制下での増備車88130両の明り取り窓はなく、85186188154両の走行用機器は、共通化されていた。

神戸市内高架線、地下線化で線路条件は一段と向上した。それを期してスピードアップと増発が実現した。特急が設定され阪神間35分の韋駄天走りとなったのである。この時の急行は45分、普通55分の所要時分となった。特急、急行は12分毎、普通は6分毎となり、“待たずに乗れる阪神電車”はここに誕生したのである。そして19346月、特急、普通共に6分毎に、急行を廃止してしまった。この時の途中停車駅は野田、尼崎、西宮、甲子園、芦屋、御影で、元町延長は19363月であった。

この時期、車両がどのように運用されていたかは老人の年令では知る由もない。高間さんの形式図集・1では、851形が登場の頃までは1101シリーズが3連で走る特急が紹介されている。初期の急行では6013連の姿もある。これからみると急行系と普通系は混用されていたようだ。それが明確に分離したのは戦後になってからであろうと思われる。また、601801831形の新造時はブルー1色であったという話だ。酒井福三翁からは阪神電車の話なると、ブルー1色の話がよく出てくる。それほどに1924年生まれのポン友は魅了されたようだ。

レールロード社・“阪神電車形式図集”の助けを借りて、くどくど書いたものだ。高間恒雄さん有難う。DRFC現役時代には、京阪と共に拘ってきた。お後はthurkameさんにバトンタッチしよう。

25年前の特急編成が急行で最後のお努め!

25年前の特急編成が急行で最後のお努め!

高潮対逍・?工前の地平時代の尼崎駅
高潮対策施工前の地平時代の尼崎駅
今は川の築堤が高くなった伝法線との併走区間
今は川の築堤が高くなった伝法線との併走区間
甲蜷・?博覧会宣伝車は全て2扉で黄色だった
甲子園博覧会宣伝車は全て2扉で黄色だった
鳴尾西方、電車後方の家屋は震災でやられた
鳴尾西方、電車後方の家屋は震災でやられた
定番の甲蜷・?上り方は、午後にホームの端から
定番の甲子園上り方は、午後にホームの端から
折畳内開扉にはへばりついて 於 野田
折畳内開扉にはへばりついて 於 野田