吉野鉄道モハ201形→近鉄モ5201形について

関 三平さんの「昭和の電車」は、元高野山電気鉄道の南海電鉄モハ561形の次は元吉野鉄道のモハ201形→近鉄モ5201形であった。

近鉄の中では、2200系の影に隠れてあまり目立たない存在であったが、名古屋線から南大阪線に戻った車両が最末期は別として比較的末期まで大阪(阿部野橋)~吉野間の急行で活躍していたことは特筆される。

長老より解説頂いているが、少しだけ補足を試みた。しかし、基本的な部分で不明点があり、ご存知の方はぜひご教示をお願いしたい。

(1)モ5201形の制御器がHLからALに変更された時期。昭和32年に名古屋線から南大阪線(含吉野線)に戻った時と思われるが確証が取れていない。

(2)ク6503を名乗る車両が2両存在した。初代ク6503が廃車後、別の車両がク6503に改番された結果と思われるが、2代目のク6503の旧車号が不明。私個人的には初代ク6503とク6501車号を振替えたのではないかと思うが、車号を振替える理由が見当たらない。あえて考えられる理由は、ク6501形7両を養老線に転属させる際に車体状態の良いク6503を名古屋線に残すため、ク6501と相互に改番して、転属車をク6502~6508に番号を揃えた。

いずれもピク誌のバックナンバーを丹念に調べると答えが簡単に見つかるかも知れないが、あいにく実家の物置に眠ったままである。 

名古屋線に転属後は、サハ301~310(改番後ク6501~6510)は制御器をABFに取換え、片運化、トイレ設置の改造が実施されて急行用となった。
モハ201~206(改番後モ5201~5206)とサハ311~314(改番後ク5511~5514)はHLのまま、普通列車や伊勢線で使用されたが、後にク5511~5514は制御器のABF化と片運改造の上、ク6511~6514に改番された。

長老が記されている通り、昭和32年に南大阪線の大型車モ6801形(6801~6804)とク6701形(6701・6702)とのトレードでモ5201~5206が南大阪線に戻り3連×2本を組んだ。モ5203と5206は電装解除され制御車として使用された。名古屋線改軌によりク6511~6514が南大阪線に戻り、制御車代用であったモ5203と5206はモ6601形の予備電装品で再度電装され、モ5211・5212となった。また、モ5205が5203に改番された。

名古屋線に残ったク6501~6510のその後の経過は、名古屋線改軌時にクハ6501~6509は標準軌に改造されたD-16に履き替え引続き名古屋線で、クハ6510は養老線に転属した。昭和38年にクハ6509、昭和45年にクハ6502~6508が台車を狭軌用のD-18に交換の上養老線に転属し、先に養老線入りしていたクハ6509、6510が廃車になった。

外板を全面的に張り替えたク6503(初代)以外は、全鋼製の頑丈な車体の故、新製時のスタイルを大きく崩すことなく使用されていたが、南大阪線は昭和49年、養老線は昭和52年までに廃車になった。

〔モ5201形〕
モ5201(46-6-6) 古市

 モ5202(42-8-20) 古市
 

モ5203(2代目)(46-6-6) 古市
電装解除して制御車として使用されていた、初代モ5203が電装の上モ5211となったため、モ5205がモ5203に改番された。

モ5204(46-6-6) 古市

〔モ5211形〕
モ5212(49-5-20) 道明寺
元モ5206で制御車として使用されていたが、モ6601形の予備の電装品で電動車化された。
 

〔ク6501形〕
ク6501(40-5-23) 四日市
2代目ク6503に改番されたと推定。

 ク6502(46-7-25) 西大垣

 ク6503(初代)(43-2-13) 白塚
事故復旧時に外板を張り替えノーシル、ノーヘッダーとなった。2代目ク6501に改番されたと推定。

 ク6503(2代目)(46-7-25) 西大垣
元ク6501と推定。

 ク6505(46-7-25) 西大垣

 ク6507(46-7-25) 西大垣

 ク6508(46-7-25) 西大垣

 ク6510(45-10-4) 西大垣
先に養老線入りしたク6509と6510は運転台が大垣向きであったが、ク6502~6508は中川の3角線で方転の上入線したため、運転台は桑名向きであった。

〔ク6511形〕
ク6511(43-12-25) 古市

 ク6512(42-8-20) 古市

 ク6514(42-8-20) 古市
この時点ではパンタが付いていた。

 ク6514(46-6-6) 古市

上記の不明点、推定部分については、ピク誌通巻219号、313号に記載されている可能性があり、お持ちの方は是非ご確認をお願いしたい。

琴電と琴参 あれこれ話

JR予讃線坂出・高松間に国分駅があるが、このあたりを境界に東を東讃(とうさん)、西を讃西(せいさん)と言っている。倒産して清算とは事業者にとっては良くない「語呂」だが、なぜか昔から両地域は対抗心が強い。その東讃の方に19111118日、私設鉄道法による東讃電気軌道が開業した。現在、高松琴平電鉄志度線を名乗っている。次いで1912430日、軌道条例による高松電気軌道が開業した。高松琴平電鉄長尾線である。真打は取りを勤めるもので19261221日、琴平電鉄が地方鉄道法により栗林公園-滝宮間を部分開業した。高松(瓦町)-琴平間が全通したのは1927422日である。この3社は戦時統合で琴平電鉄を核として1943年に合併、晴れて高松琴平電鉄を名乗ることになった。昨年、100周年を迎えJTB Can Books100年史が上梓されたが、クローバー会有志も協力している。読んで頂くと「琴電」は東讃の電車であることがよく分る。

西讃の電車だが、ここは四国の鉄道の“魁”と言える地で、1889年に丸亀-琴平間で讃岐鉄道が前年開業の伊予鉄道の後を追った。1897年に丸亀から高松に延長されたが、客足は伸びず経営不振となり1904年、対岸の宇野へ延長された山陽鉄道に買収され、1906年には官設鉄道の一員となった。西讃の中核都市は丸亀で、この地から琴平へ、電車を国道沿いに走らせる構想は早くからあった。しかし官設鉄道に平行しているとの理由で敷設は認められなかった。軌道条例による丸亀―善通寺間は讃岐電気軌道として1910年、やっと特許を取得することは出来た。ところが建設資金に齟齬をきたし、大阪方面をうろついた結果、1918年にやっと丸亀に本社を置くことが出来た。

開業できたのは1922年で、琴平参宮電鉄として丸亀―善通寺駅前間であった。その後、先ず琴平へ延長が認められ、更に善通寺から多度津へは地方鉄道法により延長された。これが大当たりとなり、以前「琴参電車あれこれ話」で紹介した。西讃は坂出にも港があり、大河の流入なく大型船の出入りが可能であるので拡張されることになった。琴参電鉄は丸亀から坂出へ地方鉄道法により延長、開通は1928年であった。西讃では更に琴平急行電鉄が設立され、琴参電鉄坂出駅前面道路を挟み斜め向かいから、琴参電鉄琴平駅前面道路真東向かいを終着点として1930年に開業した。苦しい経営を余儀なくさせられたのは自明のことで、琴参共々国から補助金の支給を受け営業していたが、1944年には不要不急鉄道として営業休止となった。戦後1948年、琴参電鉄に合併されたが、復旧されることなく1954年に廃線となっている。

琴電と琴参について述べよとの米手作市の指示応えたつもりである。その後だが東讃の電車は紆余曲折した上で現存しているが、西讃の方は時代の流れについて行けず、1963915日で営業を終えた。琴参電鉄は1965年近鉄の資本参加もあり多角事業に乗り出したが、本業であるバス事業が不振となり、近鉄は2006年に撤退した。2008年、ついに会社整理事業者となり、清算する嵌めになり、ここに琴平参宮電鉄は終わりを遂げた。その7年前、琴電も「そごう倒産」のあおりを食らったが、いまや再建の道を順調に歩んでいるのはご同慶の至りである。

悲しいかな、倒産、清算の語呂合わせが讃岐では存在したのであった。

琴電無蓋貨車は国鉄貨車2両分の台枠流用で自社仏生山工場製

琴電無蓋貨車は国鉄貨車2両分の台枠流用で自社仏生山工場製

 

琴電有蓋車は高松電軌引継ぎ車。終戦直後は客車代用車。
琴電有蓋車は高松電軌引継ぎ車。終戦直後は客車代用車。
琴参の無蓋貨車は日本商会と称するメーカー製
琴参の無蓋貨車は日本商会と称するメーカー製
琴参の��体不明の有蓋貨車の達磨さん
琴参の正体不明の有蓋貨車の達磨さん

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part6  阜新炭鉱(阜新煤礦鉄路)その1

第5日目(訪中37日目) 3月26日


▲ 6:08
平安駅ヤードに到着しました。日の出前には撮影を始めたかったのですが、既に上がっていました。朝6時にホテルを出発しましたが、元宝山から東へ300キロ近くは来ていますので、日の出は13分早くなります。蒸気機関車は、SY1396号機

▲ 6:22、蒸気機関車が集まり始めました。左は1818号機


▲ 7:05、朝の目玉は、2両ですが唯一の蒸気機関車が牽引する通勤列車です。今日は、1012号機です。皆でそろって、折り返し回送まで撮影しました。踏切から近いこの場所は、最近訪問された方が追い出されたとネットでレポートが載っていました。日本人には躊躇するところですが、ドイツ人には関係ありません。一緒に付いてしっかりと、撮影できました。

▲ 7:50、一仕事終ったので、踏切近くの食堂で朝職です。さっぱりしたスープの麺で、美味しかったです。

▲ 朝食後は、近くの五龙炭鉱に上がりました。8:571378号機の空の石炭列車、9:01には1818号機ズリ捨て列車が発着しました。右側正向きで待機するは、1396号機です

 


▲ さて次は、五龙炭鉱上のズリ捨て山に向かうかと思っていましたら、撮影ガイドの谷満春(Gu Manchunさんは、今ズリ捨ては3ヶ所の分割されています。次の列車は、別の場所に行くかも・・・。山に向かうスイッチバック地点なら両方が狙えますと案内くださりました。

9:56、言葉通り1396号機の牽引する次のズリ捨て列車は、山に向かわずに直進していきました。


▲ 10:33、新しくできたズリ捨てを案内されましたが、元の海州露天鉱へのルートでした。広大な露天鉱の穴を埋めるためのようです。

10:57、次に案内されたのは昨日夕刻に行った機関区。左から1319、1378、988、1210号機の4両が待機中でした。
機関区には約40分も4両の機関車周りを歩いていました。その間、案内人の谷さんは、携帯電話で走行情報を聞いています。専用線には決まった列車ダイヤがないので、案内する方も大変です。


▲ 12:03、昼飯を食べに行くのかと思っていましたら、高徳駅に立ち寄りました。ドイツ人は、高い所からの撮影が大好きです。どこへ行ってもよじ登っていました。
12:19、ズリ捨て列車の予想が外れ、1378号機単機がやって来ました。
13:32、ついでにDL客車列車も撮って去ろうとしたら、踏切番からもう直ぐに石炭列車が来るから待つようにとの声がかかりました。谷さん、さすが地元です。コミュニケーションも十分です。
13:50、先ほどの1378号機がヤードから空の石炭列車を牽引して戻って来ました。そしてスイッチバックをして、画面右へと推進運転で去っていきました。谷さんは、3番目のズリ捨て場があると言われます。
こんな可愛いレールバスが昼間の職員輸送用に走っていました。

▲ 14:44、五龙炭鉱上のズリ捨て山に蒸気機関車が走るとの情報があったようで上がりましたが、ガセネタです。
谷さんも困ったらしく、蒸気機関車がいる機関区に戻って、特別ショーです。


▲ 15:26、3両並んでの機関区ショーですが、こんな事で承知するドイツ人ではありません。4両並んで一緒に向かってくるようにとの要求です。ちょっとな事では納得できない頑固なドイツ人気質が出ました。
左から988、1319、1210、941号機です。
ちなみに、特別ショー代ですが、200元(約2,500円)と聞きました。今夜の白酒代程度ですね。


▲ 16:39、朝に来ました平安駅踏切に戻って今日最後の撮影ですが、踏切番から離れろとの注意を受けました。しかし、少しすると警備局員が来て強制退去を命じられます。仕方ありません、今日の撮影は終了です。


▲ 移動回数が多かっただけに長~い1日だったように思えました。今夜も食欲が進むドイツ人です。中国は初めてだった人もすっかりと慣れた様子でした。
 Part7  へ続く

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ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part5  平庄炭鉱から阜新炭鉱へ

今日は、337キロ先の阜新炭鉱へと向かいます。平庄駅からは9:29発昼行と、19:08発夜行の2本の列車があります。夜行は、阜新に02:02着ですが、一旦ホテルに入ってから早朝撮影に向かえば良いかなと勝手に思っていました。どちらになるのか史超さんに聞いてみましたら、列車は7時間もかかって遅いので乗りません。瀋陽から大型バスを呼んでいます。高速道路を走れば4時間以内で着きますので、昼食後に出発しますと言われました。

第4日目(訪中36日目) 3月25日
①  ホテル6:00(チャーターBus)→元宝山鉱_西駅→風水溝駅
② 風水溝駅7:40→8:58平庄装煤駅→五峰付近10:10→10:45西露天鉱
③ 
装煤駅12:40→市内13:30→13:45ホテル14:20→17:55阜新機務段
④ 阜新機務段18:15→夕食→20:00ホテル


▲ 西駅で数人を降ろしてから、橋まで連れて行かれましたが、風が強く気温も上がって来ていたので、狙ったカットにはならずでした。
7:37、通勤列車が
風水溝駅に到着しました。今日は、ヤードにセキの姿はなく、降りた大勢の職工達は迂回せずに炭鉱に直行して行きました


▲ 8:58、今日は、直ぐに平庄炭鉱装煤駅に参りましたが、機関車は1425と1017号機の2台だけです。毎日運用が違っています・
9:27五峰駅方面に移動しますと、1083号機が空車を回送して装煤駅へと向かってきました。


10:07、いつもの五峰~平庄南間の橋での撮影です。橋手前まで行きたかったのですが、皆さんのカメラ視界に入ってしまいます。多人数での撮影のデメリットです。風が強い日でした。この前後のカットは、全部風が前に吹いていて機関車を隠していました。牽引機は、1425号機です。


▲ 10:45、今日は、直ぐに西露天鉱行きです。またEL撮影かなとウンザリしていましたが、1764号機が作業車を牽引して上がってきました。これなら好し好しです。
▲ 空車のセキを牽引してELが降りていきます。ドイツ人には感激シーンなのでしょうね。

▲ 未舗装路を石炭を満載したトラックが通過するたびに、半端でない粉塵が舞います。通訳の史超さんもこれには参っていました。
踏切には、多くの注意看板が立っています。左から「火车小心=列車に注意」、左下は「紅灯停车・灭 灯停车=赤灯停車・点滅停車」、右上は「铁路道口・一停・二看・三通过=鉄道踏切・1に停車・2に確認・3に通る」、右下はZ型の変形道の様子です。真ん中下3つの看板はお分かりと思いますが、問題は「☓ ∧ 」。この標識が分かりません。どなたか教えてください


▲ 皆さんは、EL撮影に励んでおられましたが、O氏と私は一足先に露天掘を離れました。12:00、午前中の運行が終って休む1025と1764号機。この2両がズリ捨て専用でした。


▲ 平庄での最後の昼食は刀削麺でした。スープが美味しく結構いけました。ただ調理のスピードが追いつきません。
外国人が珍しいと近所からも人民が集まってきて記念撮影の連続でした。


▲ ホテルに戻って、シャワーで汚れを落としてから、大型バスに乗換えて、阜新へと向かいました。国鉄の新線建設が始まっています。沿線は、赤土のハゲ山、丘陵がおおく植林が進められていますが、数10年以上は必要ですね。


▲ 17:55、平庄から高速道路を約3時間半で夕日の阜新炭鉱機関区に到着しました。列車の半分の所要時間です。前回見つけられなかった機関区です。SY上遊型0941、0988、1210、1319号機の4両が休んでいました。12両が在籍のはずですが、みんなに会えるでしょうか・


▲ 夕食時には、明日から阜新と北台を引率していただく案内人の紹介がありました。阜新の住民だそうです。どんな撮影地を案内いただけるか楽しみです。
今日も皆さんの食欲は衰えることなく旺盛でした。  Part6  へ続く

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ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part4  平庄炭鉱(元宝山の建設型と、平庄の上遊型) その2

第3日目(訪中35日目) 3月24日

① ホテル 6:00(チャーターBus)→6:50 元宝山鉱_西駅→風水溝
②  風水溝 →9:40 平庄

夜明け前に、ロビー集合に遅れることなく全員集合。元宝山鉱の通勤列車が出発する西駅に向かいました。夜が明けだすと雲一つない青空が広がっていきます。 ただ風は、昨日同様に強そうです。
▲ 7:00、建設型8249号機が牽引する通勤混合列車が、青空の下、西駅を発車しました

▲ 7:14、直ぐにバスに乗って追っかけです。途中の駅に止まっている間に追い抜かして、昨日、回送を撮った橋に着きました。
直ぐに木材を積んだ貨車は、炭鉱内に持っていかれました.坑内で支柱等に使用されるんでしょうね。どの炭鉱でも山積みにされた木材がありました。
朝のショーが終ったので、昨日同様に平庄へと向かうのかと思っていましたら、バスは途中で止まり線路沿いを歩いて行くように指示されました。どうやらヤードに止まっていた石炭列車を国鉄駅に牽引して向かうそうです。


▲ 8:15風水溝を発車して、国鉄との連絡駅、京通線の安慶溝に向かう長編成の石炭列車。元宝山で貨物を蒸気機関車が牽引するシーンは、通常見ることはありません。ラッキーでした。


▲ 9:45平庄に戻りました。1083号機は、ドック入りです。 ヤードでは、1425号機が満載された石炭列車を連結して発車待ちでした。

▲ 11:02、五峰~平庄南の橋梁に移動して待ち受けましたが、強風が吹き荒れ寒くて待つのはみなさん大変でした。


▲ 12:04、今日は朝から正向きで客車あり、石炭列車ありで、午前中だけで4連発でした。みなさんご満悦での昼食です。バス内でなく、落ち着いての食堂です。10数種類の餃子に皿まで平らげる勢いで食べておられました。

 


▲ 13:04、昼食後は、古山二井(左上と下)と 古山三井(右上)に行きました。前回は、遠くて行けませんでしたので、どうなっているのか分かりませんでしたが、二井はズリ捨て列車が待機していましたので、それなりに活発なのかなと分かりました。一井は既に閉鎖されていました


▲ 14:25二井から三井には動きがないことが分かりましたので、装煤ヤードに戻ると、再び1425号機が石炭列車を牽引して、平庄南へと向かいました。てっきり追っかけをすると思っていましたが、彼らの関心はELです。

▲ もう、どうしようもありません。ELの運転席に乗ったり、好き放題です。午前中は満足しましたが、午後はドイツ風が強く、受け入れられません。


17:00、ズリ捨て路線が撮りたいのに、再び装煤駅ヤードで今日最後の撮影です。左は、今回のツアーの英語通訳の史超ShiChaiさん、26歳。吉林省吉林市の舒蘭で育ち、今はご両親と新京でお住いの生粋の東北っ子。留学して英語を勉強したとか、明るくハキハキしたお嬢さんでした。


▲ 早めにホテルに戻って、シャワーを浴びて汚れた身体を洗ってからの夕食タイムです。このパターンは、守って欲しいと全員の望みでした。1日過ぎるよ、マスクはいつも真っ黒になります。シャワーをすると、タオルが黒くなります。頭から黒い水が流れてきます。この地に住む人民は毎日こんなに最悪の空気を吸っています。よく我慢できると思わずにおられませんでした。   Part5  へ続く

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リバイバル急行「志賀」と長野電鉄屋代線 撮影記

早いもので、長野電鉄屋代線が廃止されてから10日がたちました。

3月24日にしなの鉄道で、169系のリバイバル急行「志賀」が運転されるのと長野電鉄屋代線に2000系が入線するということで、「一石二鳥」ということで青春18きっぷを使って出かけてきました。

3月のダイヤ改正で、碓氷峠を越えるJRバスの時刻が変更となり、自宅から一番早く乗れるバスが10時横川発となってしまいました。このバスですと、軽井沢着が10時34分で、既に屋代発のリバイバル急行「志賀2号」は、軽井沢に到着済みです。折り返しのリバイバル急行「志賀1号」の発車は、10時56分ですので、ほとんど時間がありません。軽井沢駅脇の駐車場より出発を撮影しました。軽井沢での169系三両編成は、少々物足りませんが贅沢は言えません。

いっそうの事、このまま、屋代線に入線してくれれば、本当に様になったと思います。

その後、軽井沢駅の旧駅舎を利用した資料館で、草軽電鉄のL型電気機関車やEF632を見学したのち、しなの鉄道で、屋代へ。

屋代では、停車中のリバイバル急行「志賀」を撮影。

そのあと、徒歩で、長野電鉄東屋代駅へ移動。この駅周辺で、定期列車を撮影の後、いよいよ、2000系の団体臨時列車「ありがとう!長野電鉄屋代線SBCろくちゃん号」がやってきました。

屋代駅での折り返し時間があったので、帰りのアルコールの調達も兼ねて、周辺を散策。長野県立屋代高校には、「ありがとう屋代線」と電車から見えるように貼ってありました。

折り返しの2000系を撮影の後、徒歩で、しなの鉄道屋代高校前駅へ。

ここからしなの鉄道で、テクノ坂城というハイカラかどうかわからないような駅名の駅まで行き、駅付近で、黄昏時の時間を走るリバイバル急行「志賀3号」を撮影しました。

軽井沢発18時10分の最終のJRバスに乗り、峠を下りて、帰途に着きました。

また、ひとつ撮りたい鉄道・車両がなくなってしまいました。

KAWANAKAです。

報告が1日遅れましたが、4月7日、ぶんしゅう氏の地元である長岡京駅前のアジトで長期取材の報告、裏報告がありました。参加は地元のメンバーというのも止むを得ませんが、乙訓の老人、福田、ぶんしゅう氏と小生でありました。

詳細は紀行に詳細に記されているので書きませんが、一堂ぶんしゅう氏のエネルギーに改めて感嘆するとともに、氏から「あんたらもいきまへんか?」の誘いがありました。みなケツの穴が小さいのでモゾモゾしておりますが、会員の皆様は如何でしょうか。

老人から高尚な薀蓄がありましたが、皆さんDLになって、詳細は記憶していません。

燃料補給の状況をUPしておきます。なお、時々、この穴倉に集まろうということが決まったのだけ覚えています。

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part3  平庄炭鉱(元宝山の建設型と、平庄の上遊型)

瀋陽鉄道博物館は、広大な蘇家屯機関区内にあります。敷地内に食堂車を使った食堂がありましたので、みんなでバスを降りて撮りました。


▲  蒸気機関車は、博物館にも展示してあった工建型1018号機でした。1958年製造、軸配置;0-C-0、動輪直径;1,000mm、最高速度:35km/h。1959年に撫順化学工場に配属、1989年に 蘇家屯機関区に転属され、2009年9月に引退しました。、食堂車はCA23-890666+CA23-890888の2両でした。門の前の保線のモニュメントも立派です。機関車も客車も磨かれてピカピカでしたが、案内表示は日焼けして年月が経っているように見えます。食堂車は、1両定員は48人ですから全部で96人。使用されている様子がなく、単に展示してあるだけか分かりません

瀋陽鉄道博物館の場所はこちらです。列車食堂こちらです

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ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part2 瀋陽鉄道博物館(沈阳鐡路陳列館) その2 展示車両

第1日目(訪中33日目) 3月22日

ドイツのツアーですが、我々日本人2名も入場拒否にあわず入れました。前回の時は、私とTaxiの運転手に館内案内人がピッタリと付きましたが、今回は総勢16人の団体に案内人1名です。監視が行き届かない事は明白です。できるだけ案内人に近づかず撮影に専念しました。前回途中から撮影を拒否された車両からご紹介します。

前回の訪問記はこちらをご覧ください


▲ GJ(工建型)、鉱線や入換用として、1957~1961年までに122両が製造されました。GJ型は、工建(GuoJian)の略です。


▲ SY(上遊型)満鉄のミカロ(JF6)のコピーで性能も同じです。1960~1996年まで1,769両が製造され、今も現役で数10両が地方鉄道で活躍中です。軸配置1D1、全長21,168mm、動輪直径1,370mm、1,500PS。韓国や米国にも輸出されました。韓国では901型として今なお休車扱いで店村駅に展示されています。


▲ JS(建設型)、 満鉄のミカイをベースに1957年から総数1,558台が製造され、上遊型と同様に今も現役で数10両が地方鉄道で活躍中です。軸配置1D1、全長23,053mm、動輪直径1,370mm、2,270PS。

▲ 正面にも置いてあった蒸気機関車と同じ、OJ(前進型)。今や数台がイベント用や工場専用線で働いているのみです。


EX9800(維修車)997310とあるが、種車が分かりませんが、間違いなく「大陸」号用の客車でしょう。ドアは、半円形のガラスが入っていて原型を留めていますが、改造されて、台車も換えられて、定員9名、自重42t、全長24.5mとなっています。製造は、1933年(昭和8年)満鉄鉄道工場です。

▲ GW997310(公務車)とあるが、前身は展望1等寝台車「テンイネ2」です。1936年(昭和11年)に満鉄工場で3両(?)が製造され、初めは奉天~北京間の急行列車に使われましたが、後に釜山~北京間の急行「大陸」として使われていました。豪華なダブルベットとバスタブまでついた客車で、黒河で見たあじあ号の展望1等車「テンイ8」と比べると内容的には豪華だったかも・・・。現在、北京に2両(G
W97347・GW97349)と合わせて3両が保存されています。この車両とよく似た特別車「トク2」が製造されていますが、詳しい資料がありません。鄭州世紀歓楽園に保存展示されているGW97351がそうではないかと言われています。


▲ YZ5-22436(硬座車)とあるが、前身は
鋼製三等車「ハ5」と思われます。2010年に天津地方鉄道を訪問した紀行記に掲載した客車と類似しています。

客車は他にも、YW22硬座寝台車、YZ5硬座車、 CA23(891113)食堂RW24(551436)軟座寝台車、YW25G(661613)硬座寝台車、YW25K(000001)硬座寝台車、最新のYW25T-000002硬座寝台車が展示されていました。


▲ 満鉄の貨車群です。

【ディーゼル機関車】


▲ 東方紅1型は、中国初の量産型液体式ディーゼル機関車として1966~1972年までに107両が製造されました。軸配置B-B+B-B、全長16,550mm、1,820PS、重連運用を前提とした型運転台です。1998年に退役しています。


▲ 北京3型は、1975~1991年までに358両が製造された液体式ディーゼル機関車で、1部永久重連型もありました。軸配置B-B、全長15,045mm、2,670PS、最高速度120km/h。2000年に退役しています。

▲ 東方紅3型は、東方紅1型の後継機として、1976~1988年までに268両が製造された液体式ディーゼル機関車です。1,350PSを2機装備しており、牽引両数に応じて、片方のみを使用できる特徴を持っていました。軸配置B-B、全長11,855mm、2,700PS、後期型は3,000PS、最高速度120km/h。2000年に退役しています。

ディーゼル機関車は、この他に東方紅5型、ND5型、東風4B型(DF4B)、東風5型(DF5)、東風4C型(DF4C)、東風6型(DF6)、東風7型(DF7)、最新の和階3型(HXN3)も展示されいました

【電気機関車】

▲ 電気機関車は、交流式の国産最初の韶山1型(SS1)が1両だけ展示されていました。ソ連と蜜月時代の1959年にソ連製のVL60型電気機関車をベースに製造しましたが上手くいかず、途中からソ連との対立関係に入りました。仕方なくフランスの技術を仰いで、1967年までに7台の試作車の製造を重ねました。ようやく、製造技術が確立して、1968年から量産体制に入り、1988年までに819両が製造されました。軸配置C+C、全長19,400mm、4,200kw、最高速度90km/hで、1961年に中国で初めて電化(交流25,000V、50ヘルツ)された、四川省と甘粛省を結ぶ山岳路線の宝成線宝鶏~鳳州間で使用されました
宝成線のこの区間は、敗戦国となった日本の満鉄職員が戦後徴収されて、調査設計をして建設した路線でもありました。


▲ かつて満鉄で活躍した貨車群です。


▲ 信号設備の歴史も展示されていました。

▲ レールや橋梁も今昔が展示されていました。

▲ 最新のCRH3(ICE3)も惜しげもなく展示されています。これを見たドイツ人は一言です。「コピー!」、卑下した表現でした。


▲ 前回、撮るなと言われたパネルもじっくり見てみれば、抗日戦線を表現するものではありません。目くじら立てて撮影を拒むようなものではなく、理解に苦しむところです。

撮影途中に、どこからか現れた前回の案内人が、カメラ前で阻止する姿を表現しましたが、今回はドイツ人が多数一緒です。黙って無視すると、そちらの方へ行ってしまいました。ドイツ人は、多少の阻止にもめげず、撮影を大胆なアングルからでも堂々と撮り続けます。案内人の監視はそちらに向いていきました。

ドイツ人を案内する中国人男性は、日本語の通訳でもありました。ここを案内したことはあるのか。手続きは簡単なのかと聞きますと、以前に2名と3名の2組を案内したことがある。しかし、ここは入場許可を取るのは難しい。30人以上の団体でなければ受け付けていない。
博物館の場合は入場料をとると、政府からの給料はそこでストップする。入場料収入だけでは、給与が出ないし安定しない。そのために。ここの職員は、入場料収入を求めない。だから入場者もさせないし、制限もすると言いますが、中国を知っている私としては、それだけの原因とも思えません。2~3人を案内したと言うのも、団体ならOKと矛盾する返答です。もっと違った真実があると思いますので、この通訳の発言は信憑性を欠くものと、無視してください。

▲ 夕食は久しぶりの中国料理のフルコースでしたが、やはり欧州人にとって、箸の持ち方は難しそうです。ちょっと可哀想でしたので、スプーンを取ってきて渡してやりましたが、中国人の案内人は、そんな気を使ったりせずに自分たちで、ワイワイと会食中です。日本なら即、クビですね。
まあ、この国の人民に、気配りを求めること自体無理なのも分かってはいますが・・・。

夕食後、夜行列車に乗車するために瀋陽駅に向かいました。   Part3  へ続く

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最後の113系阪和色

4月に入って桜も咲き出したというのに、雑務に追われて、外出もままならない状態が続いています。ただ唯一は、先日行われた113系阪和色ラストランの撮影に、山科・乙訓の両老人から賜った18きっぷを使って行ったぐらい。そんな折、準特急さんからは、ぜひ発表せよとの拝命を受けました。背中を押されないと、なかなか行動へ移せない身だけに、ありがたい好機ととらえ報告することにします。
日根野電車区の113系は、永らく阪和線・紀勢本線に充当されていましたが、223系、近年は225系の増備で活躍の場が狭まり、昨年12月に定期運用からは離脱しています。他区への転属を機に、日本旅行主催のツアー専用貸切列車「ありがとう113系阪和色」が3月31日、4月1日の両日、天王寺~周参見間に運転されました。昭和47年の阪和線の新快速設定時に制定された阪和色と言われる、ブルーとアイボリーの塗色車両が記念のラストランを飾りました。
   ▲「ありがとう113系阪和色」は、2日間とも朝に天王寺を出て周参見へ行き、晩に天王寺に戻る1往復のスジで運転された。3月31日はドシャ降りの雨、4月1日も寝過ごして朝は行けず、夕方の戻りだけの撮影となった。できるだけ陽の高い時間帯に撮りたいので、117系の紀勢本線列車に乗って南下を続ける。駅間を歩く気力はなく、結局、乗った電車の終点、御坊まで来てしまった。駅員に聞くと、まもなく列車が来ると言う。選択肢もないまま、ホームの先端へ小走りに移動する。幸い、陽が山側から射して”バリ順”だ。わずかに咲いた桜をかすめるように、クハ111-5262を先頭にする阪和色が入線してきた。   ▲今回の改正で、阪和線・紀勢本線に多くの225系が進出してきた。御坊でも225系の精悍なマスクが見られるとは時代も進化したものだ。ちょうど、左の先頭クハ225-5023は、今回の増備車のようで車内はピカピカ、車内の仕切りには、グッドデザインのプレートが掲げられていた。いっぽうの113系の停車時間は1分30秒、反対のホーム先端まで走り、発車をとらえた。ちょうど、紀州鉄道のキテツ-1も並び、3列車の顔が揃った。

   ▲阪和線は、長く電気機関車がいたこともあって、私としては珍しく定期的に訪れている路線だ。前記のように、阪和線に新快速が登場したのは昭和47年3月改正のこと、東海道・山陽本線の新快速は、この改正で153系”ブルーライナー”に代わった。同じブルーライナー塗色となった阪和線113系の新快速も衝撃的だった。なにせ、旧型国電ばかりの阪和線に、唯一の冷房車、セミクロスシート車は、実にまぶしい存在だった。当時、鳳のみ停車、天王寺~和歌山間を最短45分で結び、かつての阪和電鉄の超特急を思わせる俊足だった。
前部には、羽根形のヘッドマークも掲げられ国鉄時代の天鉄局の意気込みを感じたものだったが、京阪神間と違って、和歌山への直通客も少なく、後年停車駅を増やしたもののパッとせず、結局、昭和53年3月改正で、阪和線の新快速は姿を消し、快速に統合されている。

1987年の北条鉄道

西村雅幸氏「北条鉄道に行ってきました」を見て、須磨老人もレールバスにカンカンになっていた時期、まだモノクロフイルムで撮っていたのを思い出した。1987年4月18日だったから、四半世紀経過したことになる。


法華口に到達したフラワー1985-1+2
北条町駅
北条町駅 機回り線以外の側線が撤去されているが右側には土蔵様の長い倉庫が健在だった

のどかな北条町駅を発車

カーテンが風でなびくのは窓が開けられるからだが それすら無くなってしまった

粟生に到着 加古川線のディーゼルカーも今となっては懐かしい

その後北条町駅だけでなく、周辺全部が再開発で何から何まですっかり姿を変えてしまった。かつての駅と周辺は、播丹鉄道時代のままだったのは、三木鉄道三木駅と共通していた。法華口(勿論無人)は何とか面影を残すが。

富士重工業の2軸レールバス3両―フラワー1985-1~3での、1985年4月1日開業だった。三木鉄道はミキ180-1、2の2両だった。この年はユニバーシアード神戸大会開催年であり、総務担当だった小生は到底撮影になんぞ出られない。やっと暇になった11月、一人樽見鉄道、名古屋鉄道、鹿島臨海鉄道、三陸鉄道、下北交通、由利高原鉄道をめぐった。秋田で自宅に電話を入れたら、吉谷先輩が亡くなってその日が葬儀だという。間に合うはずもなく、居酒屋で冥福を祈り、銚子を追加したことであった。

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part1  瀋陽鉄道博物館(沈阳鐡路陳列館) その1

2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part26ですが、今日からは一人旅ではなくO氏とドイツTANAGO中国蒸気機関車の撮影ツアに参加します。TANAGOは、現在世界中に残る蒸気機関車や歴史ある内燃車の撮影ツアーを企画されています。昨年、東アフリカに行きましたのも彼らのツアーでした。今回は、元宝山・平庄・阜新・北台とまわりますが、北台では製鉄所内に3日間撮影する事ができます。
中国鉄路撮影に慣れている我々が、単独ではなく費用のかかるツアーに参加したのは、単独では行くことが不可能で特別なルートを通さねば許可が得られない、北台製鉄所撮影が含まれているのが、大きな理由です。勿論、日本のツアーにはありません。加えて、ドイツ人から見た中国鉄路撮影は一体どのような視野を持った内容なのか、好奇心がありました。
よってタイトルは、ドイツ風的 中国蒸気機関車 の旅として発表させていただきます。
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北条鉄道へ行ってきました

クルマで京都・大津に出向いた帰りに北条鉄道を訪ねてきました。JR加古川線粟生から北条町まで13.6Km、かつての国鉄北条線です。車庫は終点北条町にあります。車両はたった3両しかありません。北条町駅は予想に反して近代的な駅でした。

北条町駅

北条町駅

車庫の中に1両(フラワ2000-2)が休んでいました。外に留置されているピンクのDCは1999年富士重工製のフラワ2000-1です。運行は1列車が片道22分で行ったり帰ったりしています。途中に交換設備はありません。

粟生へ向けてクルマを走らせました。次の駅は播磨横田駅です。ホームの桜はまだつぼみでしたが 咲けばきれいだろうなと思います。フラワ2000-3の615レが来ました。

��磨横田駅

播磨横田駅

このフラワ2000-3は平成20年3月末で廃止された三木鉄道のミキ300-104が平成20年12月に北条鉄道に移ってきたものです。当初は三木鉄道時代のままの塗色でしたが今は塗り替えられています。満開の桜に映える色です。平成13年12月30日に三木駅で写していました。

ミ��300-104 ⇒ フラワ2000-3

ミキ300-104 ⇒ フラワ2000-3

次の駅は長(おさ)駅です。大正時代に建てられた木造駅舎です。元は交換可能駅でここにも立派な桜がありました。

長(おさ)駅

長(おさ)駅

 線路は集落を結ぶように伸びていて、次は播磨下里駅です。ここもに交換設備があったようです。播州鉄道の王子駅として開業したそうです。

��磨下里駅

播磨下里駅

 北条町から7.5Km、4番目の駅が法華口駅です。法華口とは何だか抹香臭い駅名ですが、この駅から西方に西国二十六番札所天台宗法華山一乗寺があります。列車の来る時間待ちを兼ねてお参りしてきました。国宝の三重の塔などを有する立派な古刹でした。丁度前日に台風まがいの強風が吹き荒れたため 境内の桜の古木があちこちで折れて片づけに追われていました。

法華口駅

法華口駅の616レ   この運転士は若い女性だった

法華口駅も交換できる駅だったようで、向かいのホームの桜が咲いていないのが残念でした。

ところでこの駅から北東方向に陸上自衛隊の青野ヶ原演習場があり、ヘリが離着陸していました。実はこの演習場とは別に法華口駅のすぐ北側には姫路海軍航空隊の鶉野飛行場と川西航空機姫路製作所があったのです。敗色濃い昭和20年5月に完成した飛行場は 本土決戦を覚悟して急造され、川西航空機で作られた特攻機「紫電」「紫電改」が配備されていたそうです。その飛行場の滑走路跡や地下防空壕(地下指令所)が今も残っているのです。終戦後 広大な土地は民間に払い下げられて この防空壕も民家の敷地内にありますが、中を見学できます。

防空壕入口

防空壕入口  扉を開けて 照明を点けて階段をおりる。

今でこそ整備されて見学できますが、戦後66年間は水が溜まったまま放置されていて 中がどうなっているのかわからなかったそうです。2011年8月に地元の人たちが消防ポンプで水を汲み出し、入れるようになり 照明設備を付けたり、各種展示をして戦争遺跡として今日の姿になったようです。写真右手に写っているコンクリートが半地下構造の防空壕の屋根の部分です。ここからほど近いところに広々とした滑走路跡があり 一応自衛隊の演習場となっていますが出入り自由です。その一角に この飛行場から特攻機で飛び立った若き飛行兵を悼む慰霊碑もあり、 自衛隊旗が掲揚され 花も飾られていました。鉄道の引込線はなかったようです。

 

鶉野飛行場と川西航空機工場

鶉野飛行場と川西航空機工場

滑走路跡

滑走路跡

 

慰霊碑

慰霊碑

 さて 北条鉄道に戻って次の駅は田原駅ですが、写真は省略します。次の網引(あびき)駅に向かいます。ここは駅舎や交換設備もない小駅ですが、ここにも悲劇の記録がありました。

網引駅

網引駅

 

事故の概要

事故の概要

昭和20年3月31日 上記飛行場に着陸しようとした紫電改がエンジントラブルで滑走路手前の北条線線路に後尾輪を引っ掛けて田んぼの中に墜落。その直後、引っ掛けられたレールが大きく変形していることに気付かず C12189が牽く満員の列車が通りかかり C12や客車が転覆し 死者12名、重軽傷者104名を出す大惨事になったそうです。まだ戦時中のことゆえ報道されなかったようですが、大変な事故だったようです。
現場見取り図、紫電改、C12189

現場見取り図、紫電改、C12189

踏切の向こうが事故現場です。

事故現場  飛行機は左手から右手の田んぼに不時着

事故現場  飛行機は左手から右手の田んぼに不時着

C12189は事故直後ではなく、昭和35年10月15日に加古川区で廃車されています。客車の形式、番号、両数などはわかりません。

地元ではよく知られた史実かも知れませんが、私は戦跡や列車転覆事故のことを知らなかったので、あえてご紹介しました。北条鉄道に行かれたときには 訪ねてみてください。

網引、田原間を行く617レ フラワ2000-1

網引、田原間を行く617レ フラワ2000-1

終着 粟生駅は神戸電鉄も乗り入れている近代的な駅なので今回はパスして 三原へと帰りました。古い木造駅舎、今頃では珍しくなった木の枕木、のどかな田園風景の中をゆっくりと走る単行DCなど 懐かしさ漂う北条鉄道でした。このミニ鉄道がいつまでも走り続けてくれることを念じつつ。

江若 比叡山を登る

昨年秋に浜大津で江若のジオラマ展示をしたとき、これをご覧頂いた坂本ケーブル(正式には比叡山鉄道)の常務さんから ジオラマを貸してほしいと依頼があり、お役に立つならどうぞとお返事していました。この度 具体的なイベントの日程が決まりました。すでにポスターやチラシが出来ていて 近々京阪全駅にも貼りだされるそうです。4月10日以降に新聞に出るかもしれません。

ポスターにもあるように 会期は4月25日から5月6日の間、場所は坂本ケーブルの延暦寺駅2階のホールです。メインは坂本ケーブルの建設当時の多くの貴重な写真の展示で、江若ジオラマは 同じ京阪グループの兄弟会社としての江若鉄道というつながりで 賑やかし的に三井寺下駅のジオラマと車両たちを展示します。運転はしません。晴れがましくもポスターに私の名前まで刷り込まれていて汗顔の至りです。建設当時の写真は同社が平成15年に開業75周年記念で発行された「坂本ケーブル75年のあゆみ」に掲載されているものですが、あまり広くは知られていないようで、初代の木造車、戦時中に軍用に改造された姿、戦後の鋼製車の搬入記録など見応えのあるものです。常務さんによるとこれらのネガは自社では長期保存の自信がないので 大津の歴史博物館でディジタル化して保存してもらうようにしたそうです。比叡山のふもとではなく 山頂側の駅での展示ですから わざわざケーブルに乗って見に行く人は少なく集客効果は疑問で、たまたま登山した観光客が通りすがりに、時間待ちで見る程度だと思っています。当会メンバーで 時間をもてあましているご仁は 春の一日、八瀬側から登って坂本側に降りるなりその逆コースで叡山越えをして 京阪グループに浄財を投じられてはいかがですか。ちなみに私は準備と撤収のときにお山に登る予定です。

連接車8

電車少年こと乙訓の老人様から私の撮っていない車両やカラー写真を送っていただいたので今回はそれを並べてみる。

仙台市交通局ダブルルーフ木造車改造の300形連接車。これは撮っておきたかった電車。超クラッシックスタイルと改造時の台車のアンバランスが魅力。 長町駅前での走行と中間台車↓

               名古屋市交通局3003と中間台車 ↓

広島電鉄5000形グリーンムーバーとその台車。ヨーロッパスタイル5車体連接の超低床車。台車がどこにあるのかさっぱりわからないが、それを撮影されているので大変参考になる台車の写真。

 

 南国鹿児島の連接車。鹿児島市交通局700形には大阪市交通局3001形を改造したものもあるという。 ↓

             筑豊電鉄旧カラーの車両。 ↓

岡崎公園に保存中の名鉄400形とそ中間台車。谷汲線走行中の姿はは連接車2[17097]参照。 ↓

福井鉄道200形の乗車の様子と鉄道線走行の姿。 福井駅前の路面停留所から荷物を三つも抱えてどっこいしょと乗り込むご婦人。これも貴重な写真。まだ、バリアフリーなどの言葉もない時代に路面線、鉄道線の両刀使いの苦肉の策の電車。鉄道線は上鯖江~家久間で福井駅前乗車風景ともに1992年10月18日の撮影。

電車少年さん有難うございました。撮影記録やこんな話、あんな話、補足説明等お願いいたします。

2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part25  大連市電(大连軌道交通)

第31日目 3月20日

大連駅前(路面電車)~ 华乐广场

今日で1ヶ月を経過しました。北の黒竜江省の黒河や鸡西から雲南省の昆明までの、南北5,000キロを横断往復して戻ってきました。マイナス7℃から30℃と温度差37℃を2度も体験しましたので、還暦を過ぎた身体には応えないわけがありません。これからウィグル自治区へ向かいますので、身体を慣らすための大連入りです。部屋でアップロードに努めて、あまり動かずお散歩程度にしようと思っておりましたが、鉄ちゃん魂はじっとしていられません。

▲ 昨日、大連駅前電停には市電の姿がありませんでした。それもそのはず、電停には何らかの原因で故障が発生したので昨日(19日)と今日(20日)は、兴工街~大連駅前の間は運休してバス代行にします。华乐广场方面へは、100m東に臨時の乗降所がありますのでご利用くださいと掲示してありました。

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2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part24  一旦出国、再入国で大連へ

昨夜、ようやく中国鉄路への44日間の長い旅を終えて、無事帰国しました。途中で中国鉄路通で有名な小竹直人さんが、東北奥地で2000年に廃止された阿里河森林鉄道C2型蒸気機関車を復活チャーターされるので参加しないかとの連絡がO氏より入りました。勤め人の方を対象にされているので5月の連休予定です。中々こんなチャンスはありませんので、即決で参加申込をしました。
問題は往復の航空券代です。結構しますので、このままどこか田舎の安いホテルでゆっくりと休んだ方が安くつきます。家内にもしばらく中国にいるかもと了解を取りましたが、現在ノービザ(15日間)で滞在中です。30日ビザなら公安に延長申請できるそうですが、ノービザでは申請不可と分かりました。また出国しなければなりません。ベトナム、ロシア韓国北朝鮮のどちらかにしようかと迷いましたが、持病持ちですので日本で車体検査にも行かなければなりません。不本意ですが選択肢が消えました。

今回、宿泊したホテルでは、香港を除いては全て無料でインターネットが使用できましたが、接続安定性が確保できなかったり、疲れて就寝する方を選んでしまったり、夜行列車も多かったので、即日の投稿ができませんでした。申し訳ございません。随分と遅れていますが、紀行記を続けさせていただきます。

第29日目 3月18日

① 淘金12:00→12:25广州東駅13:52(T809次)→15:57紅磡(九龍)
② 紅磡16:20(MTR)→16:36油麻地


▲ 鄭州鉄道日記さんとは一緒に广州の5つ星ホテルに宿泊しました。60㎡以上はある広い部屋で、バスルームだけでも6畳以上はあります。久しぶりにゆったりとしました。
彼は、若いですが、鄭州にある大学の日本語先生です。 明日は授業があるので帰られます。私も30日ビザの失効日まであと1日です。ノービザで行けるベトナムへ列車に乗って、出国と入国という選択肢もあったのですが、どうも風邪が完治していなくて、くしゃみが止まりません。微熱もありますので、慣れている香港にしました。

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連接車(ミラノにて)

準特急様の連接車の連載、さすが見事な写真を毎回楽しませていただきました。「個人的には車両と車両の間に台車が丸見えの古いタイプが好きです」とのコメントで思い出したのがイタリアのミラノの路面電車でした。2009年6月の撮影です。ツアーの間のわずかな時間で写した写真ですがご覧ください。

2車体連接車です。こちらは扉の無い側面になります。

先ほどの写真のほぼ同じ車両の扉のある側面です。ドゥオモの屋上展望台からの写真です。

色違いの2車体連接車です。

これはみごとな3車体連接車です。進行方向は右です。
左の奥に新型車が見えます。
ミラノ市内には連接車や新型車のほかに「ベントット」とよばれる1928年から製造された古典的な電車が多く走っています。

ミラノの街並みを行く「ベントット」

右側通行ですのでこちら側に扉がありません。ミラノのスカラ座の前にて。

扉のある側面です。こちらの色はリバイバルカラーだそうです。ミラノ中央駅近くにて

標準色です。一番上の写真と同じ場所です。緑がきれいでした。

以上 イタリアのミラノの連接車と古風な路面電車の紹介でした。

長老様、出番です!高松琴平62号

ぶんしゅうさんそこのけの連投ですが風邪をひいて寝ておりましたのでお許し下さい。15mの湘南型とは、初心者用のOゲージ模型のようでおもしろいですね。長老様は見ただけではなくもちろん乗っておられるのでしょうね。素人並みの質問で申し訳ありませんが、高松琴平電鉄と琴平参宮電鉄の関係を教えて下さい。