山陽電鉄-標準軌間のモハ63型-(続)

再び山陽電鉄のロクサンです。『鉄道ピクトリアル』誌を購読の方も多いとは思いますが、今回は同誌掲載の山陽ロクサンに関する記事を紹介してみましょう。同誌327号(1976.11臨時増刊号)、528号(1990.5臨時増刊号)の2冊、主に528号からです。最後に筆者の写真も少し紹介します。

始めに、渡辺寿男・山陽電気鉄道㈱取締役会長(1990年当時)の『広軌63形の導入と820型製作当時の思い出』(528号)から。広軌への改良工事や車両導入の興味深い話です。

(前略)2.モハ63形受け入れのころ
山陽電鉄が、モハ63形電車を受け入れて、運転するようになったことによって、当社の輸送施設は、革命的な変革を遂げた。 そのことをご説明するためには、それ以前の施設の状況と、戦争の被害という、山陽モハ63の前史に、若干触れなければならぬ。(中略)

b)
戦争中の状況と空襲被害など
戦争末期の山陽沿線には、軍需産業の大工場が多数建設されて、輸送需要が急速に増大したため、車両数が極端に不足して、酷使を重ねることとなった。その最中の昭和2069, 77日の二回にわたり、当社明石工場は空襲による甚大な被害を受けた。(中略)加えて、敗戦直後の昭和20918日の台風と同年109日の集中豪雨によって、残存車両のうち多数が、床下浸水のため運転不能に陥り、さらに同じ頃、西代工場の巻線工場が失火によって焼失するなどのため、空襲よる明石工場の機能停止とあわせて、故障修理も思うように進まず、車両事情は極度に悪化して、ついには、全線を通じて可動車数両に過ぎぬ状況にまで低下し、運転は麻痺状態に陥った。

このため、兵庫須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。このため兵庫一須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。けれども、当時緊急に必要とする可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。   

c)全国的車両復興対策の状況
空襲による被害と、戦争中の人員資材の欠乏したなかでの酷使と合わせて、著しい車両不足に陥っていたのは、当社だけでなく、運輸省はもちろん、各私鉄会社共通の問題であった。したがって、当時の全国的な多数の新造車両の要求を充足するためには、同一形式の車両を大量生産的に新造するほかないとの判断によって、運輸省と、当時の各私鉄の統制団体であった日本鉄道会とは、昭和20年下期および21年度における、路面電車以外の新造電車の形式を、運輸省モハ63形・一形式に統一して、運輸省で一括して新造し、 とくに緊急増車を必要とする私鉄には、これを払い下げて使用させることとした。当社が、前記のような当時の線路条件に対しては、全く奇想天外とも言うべき、モハ63形の導入を決断せざるを得なかったのは、 このような事情によるものであった。 

3. 山陽向き広軌モハ63形の概要
山陽電鉄に割り当てられた20両の内訳は、電動車10両と、そのぎ装を制御車設計に変更したもの10両とであって、(中略)竣功したときの車両番号はモハ6380063819で、偶数番号車が電動車、奇数番号車が制御車であった。現車の側面中央には、省電と同じ様式で、この番号が標記されていたが、社内では簡単のため800形と呼び、入線後車体正面には800番代のみの番号標記がなされていた。台車は、MT共に電動車用のT R25A(後のD T13)であるが、輪軸を、各部直径はそのまま、軌間1,435mm用に単純に延長し、これに合わせて台車枠の幅が拡げられていて、MT40形主電動機が歯車側に寄せて吊りかけられた。従って車軸強度が狭軌用原設計に比べて、著しく低下しており、後に材質レベルの高いものと交換して、その設計の弱点を補った。  

車体については、元来モハ63は、車体の構造やアコモデーションが、戦時の最低仕様とも言うべきものであったから、製造過程で川崎車輛の協力を得て、たとえば台枠構体の組み方や、天丼の張り方などにおいて、番号の若い車両から高い車両に向かって、少しずつ改善を加えていった。このため、わずか20両ながらその中のヴァリエーションが、当時の急速な技術復興の歴史を物語っていた。

4.  63形の受け入れ
川崎車輛から当社線への輸送については、車体は1067mm軌間の仮台車に乗せ、台車は省有の長物車に積み、この2両を編成して山陽本線経由で回送した。前半12両の受け取りは、省線飾磨線と当社線とが並行する当社手柄駅付近に、当社側で側線を設け、飾磨線の本線路上から当社側線へ横取りをした。(中略)現在では考えられないような荷役作業であった。 

後半8両の受け取りは、下記の線路改良が進んで、明石以西にモハ63形が運転可能になったので、省社の側線の並行していた明石駅構内で行った。さて、前記のような状況の線路へ、いきなり車長20m、車休幅2.8m、軸重最大15tという大形車両を持ち込み、これを運転しようというのであるから、当然全線にわたって、線路施設の大改良が必要であった。その工事は、主として軌道中心とホームとの間隔の拡大、 ホーム延長、線路中心間隔の拡大、および橋梁、橋桁の補強などであって、 これらを、条件の良い姫路方から東に向かって着工し、その進捗に応じて、逐次運転区間を延長した。

22510日姫路網子間の運転を開始し、次いで八家貨物駅(営業は白浜の宮まで) 大塩、という段階を経て、2331日ようやく姫路―明石間の運転開始に漕ぎつけた。明石姫路間に63形を、兵庫姫路間の急行には従来の小形車両を使用した。明石以東の軌道線は、電車線電圧600Vであったため、この機会に1500Vに昇圧して全線の電圧を統一することとし、その工事は昭和2310月に完成した。同時に、軌道線所属600V専用車は、12両を昇圧改造したほかすべて廃車または譲渡した。そして231225日ダイヤ改正を行い、63形は全線に運転されることとなった。

 しかし、線路施設の改良は、63形運転の最低条件を辛うじて充たして、無理やりに運転を強行した感を免れず、そのため全線にわたり直列ノッチでのノロノロ運転を行った。それを若干改善するため、昭和24年には一時的に、直列最終段で弱界磁の入るよう電気回路に手を加えて、変則的ながら最高速度60km/h程度の運転ができるようになり、さらに線路改良の進捗に伴って、昭和28年には、本来の設計に戻って並列運転となった。

5.昭和20年代前半の山陽63
戦時形最低仕様、粗製乱造と悪名高い63形のイメージを少しでも薄めたい、というのが当時の担当者の願いであった。そこで昭和24年には、貫通路に幌の取付けと扉の撤去、運転室仕切り壁にガラス窓を開設、三段窓を二段窓に改造、座席の奥行き寸法の拡大、外部色の変更などを行うと共に、 天井板のなかった若い番号の車両には これを取付けた。また同じ時期に前者の番号の整理変更を実施したので、その機会に形式を700形と改め、番号を700719に変更した。全線で運転が可能になった後は、主として兵庫―姫路間の急行と、網干線で使用されたが、当社従来の車長15m、幅2.4mの小型車両に比べて格段に大きい収容力は、昭和20年代初期の輸送力逼迫の窮状を救い、主力車としてその責務を果たした。また、無理にもこの63形を導入したことが、当社の線路施設を向上させる契機となったわけで、山陽電鉄の歴史の上での63形の役割の意義は深い。
(引用終わり)

と、
63型導入の経緯に始まり、車両の運び込み、改良、運転そして最後に導入の意義を述べられている。
また、528号誌には、DRFCに多大のご理解を下さったと伺っている、故吉川文夫さんも『山陽700系の変遷と共に-63形電車が私鉄輸送に果たした役割』の文を寄稿されている。曰く、「広軌ロクサン」、「大きすぎて」など面白い話が、「私鉄へ入った63系その後」と共に掲載されています。

さて、関 三平先生のイラストですが、702+709は、1964(昭和39)年に車体を補強、内装の不燃化、窓の大改造などで再出発したものです。四扉車である以外、大きな変貌です。ベンチレータは交換され、63型、山陽700型の特徴であった前面通風器はシールドビームの前灯に変わりました。残念ながら筆者にこの写真はありませんでした。三平先生に本当は、702以外の700型のカラーイラストを掲載して欲しかったと残念がっています。 山陽に来た6320両の内、712+7131951(昭和26)年9月西代車庫で全焼しましたが、台車機器を利用して19572700+2701として復活しました。車体長は元の20mから18.67mに縮められました。しかし、大型車の印象以、63型の面影はもはやありません。2701の台車は川崎車両試作のOKA-20空気バネ台車で、2700はモハ63時代からのDT-13Sでした。
写真は、塩谷付近で洋館をバックに快走する特急です。
 

 

こちらは、長田での市電とのデッドセクションを行く2701+2700です。いかにも大きな車体で、デッドセクションを通過しました。 

 最後は、東垂水-滝の茶屋間、カメラは茅渟湾を東北東に大阪市の方向を眺めています。車両は705+704です。705の屋根前寄りにはベンチレータがありません。電装してパンタ設置予定の空間でした。

右端信号機に重なり、円柱形木製の架線支柱のあるところ、線路は隠れていますが、複線当時の国鉄山陽本線です。海と山の極めて狭い場所の一番下段です。中段が完成まじかの山陽本線の新しい線路で、真新しい鉄製の支柱。複々線完成後は、下段が山陽線下り線で西行。中段が上り線で東行。上段が山陽電鉄線です。

 仮定の話ですが、もしかしてモハ6380081920両が山陽に来ずに、国鉄で、しかも関西地区配属で山陽線電車区間を走ったとしたら、西明石まではこの下段を走り、京都まで復路は中段を走ることとなったかも知れませんでした。現実は上段を走り、山陽に多大の貢献を果たして長く活躍し、廃車もしくは改造され、最後の車両も1985年に姿を消しました。

2012年 春の中国鉄路の旅 Part23  长春(満州国首都 新京)その1

第26日目 5月14日

図们22:02(2168次)→7:18长春  528キロ 9時間16分

新緑拡がる車窓を見ながらのすがすがしい朝を迎えました。列車は、満州の大地を长春に向かっています。

7:18 长春駅に着きましたが、臨時ホームです。現在、哈尔滨~大連の哈大旅客専用線の建設工事が行われていますので、濱州線ホームは手前に変更されていました。

▲ 臨時駅ホームは広く階段もなくそのまま出口に出られました。本駅は彼方に改築中です。
駅前は狭く、Taxiはメーターを倒しては行ってくれません。こんな時は、そんなぼったくりTaxiを相手にしてはいけません。ここで降りる客を乗せたTaxiを待って、強引に乗り込みました。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part22  北朝鮮国境の町 图们(도문=図们)から长春へ

前回に引き続いての長い旅も終盤になりました。後4日間と思うと、無性に我が家が恋しくなり始めました。今日は、夜行列車で长春まで戻ります。1歩我が家に近づく思いで、朝を迎えました。
約67年前になりますが、満蒙開拓団の皆さん方が苦労を重ねて荒野を開墾して、ようやく豊かになってきたかと思ったら敗戦によって大地を追われて、帰国しなければならなくなった無念さは計り知れません。望郷への思いは、この数百倍、いや数万倍以上だったろうと、満州をまわり、この地にいますと感じずにおられません。

第25日目 5月13日  図们2日目

図们22:02(2168次)→7:18长春  528キロ 9時間16分

今日の朝は、昨日とうって変わって雨がふっています。昨日ロケハンを怠りましたが、地図上で撮ってみたい撮影地がありました。小雨に変るのを待ってから、出かける事にしました。雨を避けてTaxi(5元=約80円)で向かいました。

▲ 7;24、途中で寄った道口から何気なく撮った图们の機務段ですが、帰国後に見ると、1番左の車両に興味がわきました。

線路に枕木が置かれているので、普段は使用されないのだろうと推測しますが、正面の顔が面白すぎます。運転席窓ガラス位置に目の玉のようなライトを装着しています。アニメのキャラのようにも見えます。その時にもっと早くに気づいて近くから撮っていれば、もっと詳細に分かったでしょうが、まか不思議な車両です。

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山陽電鉄のロクサン

tsurukameさんの投稿を追いかけるようにが山陽電鉄のロクサン、700型登場!

以前に掲載されたtsurukameさんの投稿記事を参照しながらご覧下さい。それにしても阪急京都線にも投入計画があったとの記載には驚きました。皆さん、ご存じでしたか?P6と63がすれ違う、63をP6が追い抜く、なんてことがあれば見たかったなぁ!

2012年 春の中国鉄路の旅 Part21  北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们))

第24日目 5月12日  図们

2007年に韓国側の北朝鮮国境駅である都羅山駅に行きました。厳戒態勢の中、特別な雰囲気を感じましたが、ここ図们は中国鉄路ではどこにでもあるような、ごく普通の駅でした。まあ丹東のように国境を越える、国際客車列車があるわけでないので当然かもしれませんが、緊張感を求めてホテルのチェックインが終ってから町に出てみました。

かつて国境から見た北朝鮮の鉄道を追いかけた鉄ちゃんのプログを日本で見ましたら、警戒は厳しくカメラを向けているのが見つかると公安から質問され、引っ張られて撮影したフイルムを没収されたりする事があったとの記事がありました。最近はどうかなと、王さんに電話をしますと、「全然大丈夫ですよ。でも時々状況は一転しますからホテルのフロントで確認だけはしておいてください。」 と、申されましたので出かける前に聞いてみました。すると、「あんたダメだよ、そんな大きなカメラをぶら下げていたら、途中でマークされるよ。北朝鮮を撮ったら公安が来て、外国人で日本人と分かったら直ぐに逮捕されるよ。」 と、物騒な事を申されます。
仰せに従い一眼レフはリックにしまって、撮影用にはコンデジ2台をショルダーバックと衣服のポケットに分け入れて出かけました。

▲ 国境の町「図们」の地図を求めましたら、独自はない、延吉市内図にくっ付いてあると言われました。左の地図です。
向かいたいのは、国境の鉄道橋です。徒歩でどのくらいかかるのかとききましたら、「真っ直ぐに行くと、20分くらいかね。」です。そんなに近いのかと、見学がてらに歩いて向かいました

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2012年春の中国鉄路の旅 Part20  哈尔滨から、北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们)へ

第23日目 5月11日  ハルピン→吉林→図们

① 
ハルピン1 6:40(D114次)→19:30 吉林  357キロ  2時間50分
② 吉林 22:58(K7323次)→8:17 図们      529キロ  11時間8分

ハルピンから乗車したD114次は、京濱線を150km/h前後で快走し长春駅に到着しました。殆どの乗客は降りましたが、また同じくらいの乗客が乗ってきます。定刻にスイッチバックで発車しました。2010年12月に正式開業した长吉高速鉄路を200km/h弱で駆け抜けます。本来は、250km/h走行可能ですが、痛ましい温州での事故によりスピードダウンされています。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part19  满洲里(満州里)から哈尔滨(ハルピン)へ

第22日目 5月10日  满洲里4日目

① 满洲里 19:09(2626次)→9:3 2ハルピン  919キロ 14時間23分
② ハルピン 16:40(D114次)→吉林 22:58(K7323次)→図们

今日は、夕方遅くの列車で「ハルピン」に向かい、翌日夕方は吉林圣由で、翌々日北朝鮮国境の町「図们」に着く予定です。車中泊は連泊となります。

朝からHP投稿作業にまい進していると 、ドアがトントンされます。朝からマッサージお姉さんの到来かと思ったら、お茶目な支配人が立っていました。今日は何時の列車に乗るのか聞いてきます。19時と言うと、「チェックアウトの延長が必要でしょう。18時にホテルを出れば間に合います。延長料金は80元(約1,100円)で良いですよ。それまで部屋でゆっくりしてください。」 と、最後は中々気のきいた格安サービスでした。

▲ 毎日食べても飽きないジューシーなスープ入りの水餃子。ビールを入れても、わずか9元(約120円)の駅前食堂で食べて、25分前には待合室に参りました。

 

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part18  ロシア国境の町、满洲里(満州里)その4

第21日目 5月9日  满洲里3日目

昨夕、運転手君から明日はどうしますか?との問いかけがありましたが、蒸気機関車が走っているのを撮らなければ满洲里に来た目的の一つが果たせないので、明日も再度ジャライノールへと言おうとして止めました。满洲里に来た目的の3番目は、休息です。ホテルでゆっくりと休んで、画像編集やHPへの投稿原稿作成したりで、くつろぎの時間を持ちたかったからです。

しかし、宿泊しています 秀山国際商務休閑会館 は、客室160室もあるというのにひと気がありません。毎日朝食を食べに行くのですが、ショボイもので、ゆで卵の数は宿泊者と多分同じ数しかありません。1日目は6個、2日目は4個、そして今日は2個です。それだけしか泊まってはいないのは、町の繁華街から離れているからでしょう。飛び込みの客は全く期待できないロケーションです。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part17  ロシア国境の町、满洲里(満州里)その3と、扎赉诺尔(ジャライノール)

第20日目 5月8日  满洲里2日目 ジャライノール(扎赉诺尔)へ

2009年9月に露天掘り炭鉱が閉鎖されて1904年からの歴史を閉じたジャライノール露天掘り炭鉱には、数10両もの蒸気機関車が活躍しました。樺南林鉄訪問後に满洲里に向かうとO氏に言いますと、まだ 地上部分には走っているはずですと、詳しい地図を描いてくださいました。今日はこれを持って、蒸気機関車を追いかけるつもりです。


▲ 8:30、運転手君ホテルのロビーでお待ちでした。满洲里から ジャライノールまでは約30キロです。街中を通過、一直線に向かいます。
9:07 ジャライノール西駅に到着、始めて見ましたがローカルにしては大きな駅です。售票処は2つの窓口が開いていましたが、営業時間は決まっているようです。丁度、海拉尔行きの4188次の改札が始まりました。

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2012年 春の中国鉄路の旅 Part16  ロシア国境の町、满洲里(満州里) その2

第19日目 5月7日 国境へ

Taxiに乗って、ホテル前の道を西へ約8キロ進みますと国境が見えてきました。

▲ 一直線に伸びる道を走ります。①はバスターミナル、②は、内蒙古大学满洲里学院、③は体育館です。ロシア風の建築が多く、否応にもロシアに近いと感じさせてくれます。



▲ 解放型JF1861号機(元満鉄のミカイ形)が展示されています。これだけが撮りたくてやってきましたが、折角来たので、周りを散歩しました


▲ 中国とロシアとの国境には緩衝地帯があり、これを挟んで双方の国境門が設置されています。ここには、鉄道を跨いでの門がありました。どう見ても中国の方が数倍も大きくて立派です。是非とも行きたいのですが、外国人は入場禁止です。上手く通れる方法はないかと思案していましたら、切符販売窓口に運転手君は自分の身分証を出してしまいました。そうなると私も出さなければなりません。これでアウトです。黙って、お金だけ出して2枚といえばいいものを・・・。
左下は、北国第一門です。

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南海のロクサン

モハ63は諸先輩の思い出の中で生き続けていたことがわかりました。たしかに人生と重なる電車でした。今回はtsurukameさんの山陽のロクサンと同じように南海へ売られていったロクサンの話です。ただ読んでみると貧しかった戦後の子供達とおなじようなロクサンの中でちょっと裕福感のあるロクサンです。

2012年 春の中国鉄路の旅 Part15  ロシア国境の町、满洲里(満州里) その1

第18日目 5月6日 K7091次に乗って满洲里へ

ハルピン東20:15(K7091次)→10:00满洲里   954キロ 13時間45分

小竹先生はじめNSさん、MIさん、STさんは早朝にハルピン空港に向かわれました。朝食をご一緒に出来たのは、明日の瀋陽から帰国されるO氏と、大連でゆっくりしてから帰国されるTHさんの二人でした。

今日からいつもの一人旅がまた始まります。最初に向かうは、ロシア国境の町「满洲里」です。前回の44日間の旅では、あじあ号の展望車を求めて「黒河」に参りました。同じ国境の町ですが、黒河では鉄路が切れていましたが、满洲里では中国側1,435mmに対して、ロシア側は1,524mmとゲージ幅が違っていますが、国際列車では台車交換をすることで車両は相互乗入をしていますので、一応つながってはいます。

乗車は、夜で十分な時間があります。樺南ではホテルの部屋にインターネット接続がありませんでしたので、投稿及びハルピンに戻って以降の行程が決められませんでした。(出来ていても、連日飲み続けていましたので、部屋入り即爆睡でしたので無理でした。)
朝から部屋で、鉄路の残席情報を見ながら、今からでも購入できる切符を探します。出来れば、满洲里と反対東側の国境へ行ってみたいです。绥芬河図们をノミネートしましたが、両方を行くとなると接続が難しく、日程オーバーとなりましたので諦め、北朝鮮国境の図们にしました。O氏とTHさんを見送った後一人部屋で、滞っているHP投稿のための画像処理に専念していますと、コンコンとドアをノックする音が聞こえます。開けますと、王さんが空港までの見送りを終えて戻ってこられていました。
ハルピン駅外の票処(切符売場) を確認させていただきました。帰路にはお住いのある長春に立ち寄りますと申しますと、発電所に蒸気機関車が走っているので案内できます。是非名物の犬鍋もご馳走したいと嬉しいお話もいただきました。チェックアウト時間も午後2時までに延長してくださいました。

今日は小雨がぱらつくあいにくの天気です。ルピン駅発着を撮りたかったのですが、諦めて投稿準備に専念しましたが、ノートPCでは処理作業が遅く午後2時近くになっても進みません。
仕方ありません、際丰假日酒店をチェックアウトして教えてもらった票処のある駅前の天竹賓館に行きました。切符を買って昼食後には、4時間の休憩チュックインをして続けました。中国のホテルでは、昼間の部屋利用が一泊の半額程度で可能ですので便利です。

▲ 切符は、ハルピンから吉林、乗り継いで図们へ、帰路は長春までの3枚購入です。どうして乗り継ぐのかといいますと、パルピンから図们へ直通の2636次の切符が売切れだったからです。1本しかないので、繁忙期でなくとも難しいようです。
切符を買った天竹賓館の1階には餃子専門店が入っています。ハルピンの餃子は、上海の小籠包のようにジュウシーなスープが入っていますので、大好きです。
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63によせて

三井三池にはかないませんが、秩父の63のなれの果ての写真がありますのでご紹介します。撮影は平成11年4月3日 当時は群馬郡群馬町、今は高崎市群馬町保渡田というところにある自動車整備工場の一角にあるデハ801の廃車体です。秩父に来る前は 小田急の1800系だったそうで、昭和54年10月に秩父に来て平成2年3月に引退したようです。従って廃車後9年経過後の姿になります。自動車整備工場なので、色あせてはいるもののかなり手入れはよく、倉庫ではなく日常生活用に使われていたようです。パンタはありませんが、台車はそのままでした。今でもまだあるのかどうかは不明です。秩父鉄道沿線でもない榛名山のふもとになぜやってきたのかわかりません。運び込むのも大変だったと思われます。何しろ狭い場所に鎮座していてこんな写真しか撮れませんでした。車歴などは諸先輩の解説をよろしくお願いします。

無電装63型によせて

電車ではなく客車として製造されたのが三井三池(大牟田)の車両です。コメントに写真が入らないので、新たな投稿とさせていただきます。廃車に至るまで製造時の形態を残しておりました。画像はホハ203で、コハ106と連結されて走っていました。1972年撮影。

モハ63形 → クモハ73形


  仙石線 陸前大塚~陸前富山間を走行する特別快速石巻行
  クモハ73003+サハ78008+モハ70124+クハ79230 の4両編成 (49-4-29)

関 三平さんの「昭和の電車」は、四国の電車が続いたので次は九州かと思っていたところ、63回に因んでモハ63→クモハ73であった。次回64回目は「クモハユニ64」ということはないだろう。

今回のイラストは電車の行先が「上野」になっているので常磐線のとある駅の風景と思われるが一寸見当がつかない。お判りの方はご教示願いたい。隣にはクモハ73の近代化改造車が描かれているので時期は昭和37年以降であることが判る。 

クモハ73形とそのグループは、戦後の国鉄を代表する通勤型電車で、東は仙石線から西は山陽本線の小郡まで活躍した。車体の老朽化や使用線区に応じて手を加えられ、施工時期や工場により差異のため、細かく観察すると1両として同一スタイルの車両が存在せず興味が尽きない。これらを全部解説すると500ページの本になってしまうので、クモハ73形の一部を紹介させていただきたいと思う。

クモハ73010/昭和23年近畿車輌でモハ63526として新製。27年3月吹田工場で改造。49年6月淀川区(片町線)で廃車。(47-12-1 住道)
モハ63形は、大阪向け車両と東京向け車両では仕様が異なっていた。外観上は運行窓が大阪向けが2桁に対し東京向けは3桁であった。
73010の経歴は、淀川区から36年11月に環状線101系化により東十条に転属、41年3月淀川区に戻ってきた。

クモハ73041/昭和22年日本車輌でモハ63593として新製。27年10月吹田工場で改造。59年8月広島区(可部線)で廃車。(50-2-2 広島)
広島区では当初呉線で使用し、後に可部線で使用した。窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。

 クモハ73052/24年汽車会社でモハ63823として新製。28年3月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)

 クモハ73053/昭和23年汽車会社でモハ63769として新製。27年12月吹田工場で改造。51年10月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)

クモハ73059/21年日本車輌でモハ63393として新製。27年6月日本車輌で改造。54年8月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30下馬)
仙石線配置車両は防寒対策のため、暖房の強化、ベンチレータの取り替え、窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。

クモハ73061/21年汽車会社でモハ63214として新製。27年6月日本車輌で改造。60年6月広島運転所(可部線)で廃車。(42-3-26武蔵中原区)

クモハ73062/23年汽車会社でモハ63746として新製。28年4月日本車輌で改造。49年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)

クモハ73073/22年川崎車輌でモハ63632として新製。27年7月日本車輌で改造。47年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT15。(47-2-16 京橋)

クモハ73075/22年日本車輌でモハ63419として新製。27年8月日本車輌で改造。51年12月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)
 

クモハ73081/22年汽車会社でモハ63215として新製。27年8月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)

クモハ73083/22年日本車輌でモハ63395として新製。27年8月日本車輌で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-6-17 住道)
 

クモハ73091/昭和21年日本車輌でモハ63297として新製。27年9月日本車輌で改造。51年11月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)


クモハ73098/23年川崎車輌でモハ63848として新製。28年4月汽車会社で改造。51年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はウイングバネのDT14。(48-4-30上:東塩釜 下:下馬 臨時快速「コバルト金華山号」)

クモハ73108/23年川崎車輌でモハ63802として新製。28年5月汽車会社で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-25 住道)
 

クモハ73129/23年汽車会社でモハ63755として新製。27年12月日本車輌で改造。47年2月沼津区(御殿場線)で廃車。(41-2-14 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。

クモハ73134/22年近畿車輌でモハ63544として新製。28年8月東急車輌で改造。51年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)
 

クモハ73159/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年9月汽車会社で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(49-2-1 大阪)


クモハ73189/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年12月汽車会社で改造。51年11月淀川区(片町線)で廃車。(45-11-15 京橋)
経歴は41年3月下十条から明石に転属、45年2月淀川に転属。暫く茶色のままで使用。

 クモハ73193/23年汽車会社でモハ63787として新製。27年12月汽車会社で改造。 47年4月沼津区(御殿場線)で廃車。台車はDT15。(41-1-23 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。

クモハ73205/23年汽車会社でモハ63779として新製。28年1月汽車会社で改造。 50年3月西明石区(大阪緩行線)で廃車。台車はDT15。(47-3-12 大阪)
 

クモハ73247/22年汽車会社でモハ63667として新製。27年10月東急車両で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(47-12-1 )

クモハ73273/23年汽車会社でモハ63771として新製。27年12月東急車両で改造。 52年3月武蔵中原区(南武線)で廃車。台車はDT15。(50-3-23 稲城長沼)
「稲田堤」の行先板は珍しい。

クモハ73287/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年1月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 下馬)


クモハ73295/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 49年12月鳳区(阪和線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 )
 

 クモハ73297/23年日本車輌でモハ63776として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年7月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 東塩釜)


 
クモハ73301/21年日本車輌でモハ63267として新製。28年5月日本車輌で改造。 52年8月鳳区(阪和線)で廃車。(47-12-10 天王寺)

クモハ73331/24年汽車会社でモハ63825として新製。28年6月汽車会社で改造。55年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はDT15。(48-4-30 下馬)
 

 クモハ73337/24年汽車会社でモハ63801として新製。28年7月汽車会社で改造。53年8月弁天橋区(鶴見線)で廃車。(47-2-20 大阪)
 
 クモハ73403/25年川崎車輌でモハ63857として新製。当時新製されていた80系(湘南形)70系(スカ形)と同レベルで製作されたため、特に改造されることなく、28年6月改番。モハ63形出身の73形のラストナンバーであった。50年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 住道)


【近代化改造車】
モハ63形出身のクモハ73形、モハ72形が老朽化してきたため、昭和37年から大規模な改造が行われることになり、クモハ73形、モハ72形各44両と、ローカル線転用に伴うクモハ不足に対応するため、モハ72形に運転台を取付けクモハ73形500番台に改造する工事が20両実施された。外板の張替え、車内化粧板のメラニンプラスチック化、窓の2段化とアルミサッシ化等が実施され、見違える程になった。こちらについてもクモハ73形の一部のみ紹介する。
また、これらの改造以前に、昭和35年吹田工場で試験的に改造された車両についても紹介する。

クモハ73001/昭和35年12月吹田工場で実施された試作整備改造車。経歴は21年日本車輌でモハ63143として新製。27年3月吹田工場で改造。60年6月広島区(可部線)で廃車。(41-8-25 京都)

   クモハ73233/昭和36年4月吹田工場で実施された整備改造車。経歴は22年日本車輌でモハ63579として新製。27年9月東急車両で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-11-3 京都)
 
 クモハ73020/22年近畿車輌でモハ63506として新製。27年3月吹田工場で改造。40年2月鷹取工場で近代化改造。52年2月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)
 

クモハ73024/22年日本車輌でモハ63515として新製。27年11月吹田工場で改造。38年6月吹田工場で近代化改造。55年10月沼津区(御殿場線)で廃車。(47-3-1大阪) 

クモハ73028/22年川崎車輌でモハ63562として新製。28年3月吹田工場で改造。38年10月吹田工場で近代化改造。54年11月沼津区(御殿場線)で廃車。(49-4-27  沼津)
 

クモハ73045/22年汽車会社でモハ63711として新製。27年10月吹田工場で改造。40年2月浜松工場で近代化改造。51年10月淀川区(片町線)で廃車。(48-7-15  住道)
 
 クモハ73114/23年近畿車輌でモハ63845として新製。28年6月汽車会社で改造。40年11月鷹取工場で近代化改造。55年5月沼津区(御殿場線)で廃車。(49-4-27  沼津)

  クモハ73359/23年汽車会社でモハ63759として新製。28年5月汽車会社で改造。38年2月吹田工場で近代化改造。54年9月沼津区(御殿場線)で廃車。(42-6-8  京都)
 
 クモハ73517/22年汽車会社でモハ63759として新製。28年3月豊川分工場で改造してモハ72231となる。42年3月大井工場で近代化改造と運転台復活。53年2月武蔵中原区(南武線)で廃車。(50-3-23稲城長沼)


ジュラルミン電車から全金属車に改造された車両と事故復旧時に全金属車に改造された車両、103系と同様の車体に乗せ換えた車両等については、機会があれば紹介したい。

2012年 春の中国鉄路の旅 Part14  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その3

今日は、まだ樺南林鉄撮影の3日目ですが、最終日です。昼前には、ハルピンに向けての帰路となります。小竹先生から、そしてO氏からも、まだこれからの旅の予定を決めておられないようであれば、我々の代表として残って、樺南林鉄の最後を見届けることも、選択肢の1つに加えて欲しいとのお話がありました。今回は、前回の44日間とは違って東北地区に絞って、国境沿いを回る乗り鉄旅をゆっくり楽しもうと思っていました。既に6日の满洲里行き、11日帰路のハルピン着までの切符は購入済ですので、11日以降に樺南林鉄への再訪問は、可能です。

多くの訪れる鉄ちゃん達を魅了した樺南林業鉄路です。ウヤが日常的でまた長期間に及び、中々運行に巡り合えなかった林鉄でしたが、今回は撤去完了日までの運行は確実です。どうしようかなと思案が続いていました。そろそろ結論を出さねばなりません。迷った挙句は、撤去最終日に何らかのイベントが実施されるようであれば再訪問、なければ皆さんと一緒に撤去途中ではありますが、見送った思い出を大切にしようと思いました。
王さんに林業局の偉いさんか、現地で運行に携わられた方々参加のイベントがあるかどうかの問い合わせをお願いしました。この返答次第で、今後を決めることにしました。

 

第17日目 5月5日 樺南林業鉄道撮影 3日目

今日も朝6時にロビー集合です。今日は昼までということで、 陀腰子までの区間で撮影で、バイクに乗っての山入りはありません。真っ直ぐに、樺南駅機務段に向かいました。
6:15、今日の1番列車の牽引は、3日間連続の168号機です。
ここで、柏崎からお越しのTHさん、町を歩いて郵便局や国鉄樺南駅に行ってみたいと、皆さんと別れて行かれました。THさんは、中国語を全く話せません。ちょっと心配な小竹先生は、携帯電話を渡されていました。でも鉄ちゃんは、このくらいの好奇心がなければいけませんね。私も中国語は少ししか話せませんが、いつもこんな調子でぶらりと大地の町々を歩いています。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part13  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その2

16日、最後の訪問地長春から、夜行寝台列車Z62次で北京へ、翌17日朝、北京からは昨年開通した京滬高速鉄道の商務車(グランクラス)に優雅に初乗車して、上海まで南下しました。上海から直ぐにJAL便に搭乗し、一昨日深夜の0時前に無事帰還いたしました。珍しく寝ずに待っていた家内の第一声は、「お帰りなさい。あらまあ、随分と引き締まった身体になったねえ! ぶよぶよ老人だったのに、お尻も上がって、足の筋肉はバリバリに硬くなってるよ! 凄いね。でもお腹は、元のままだねぇ。」 でした。毎日欠かさず、水代わりに何本も飲んでいたビールのせいですね。前回の44日間に続いて、今回も29日間に及ぶ長い旅でした。当分は、撮影写真の整理と投稿を続けながら、身体を休めます。

 

第16日目 5月4日 樺南林業鉄道撮影 2日目

今日は、ロビーに6時集合して、直ぐに樺南林鉄の起点の樺南駅へと向かいます。

▲ 今日の6:30の始発作業列車は、昨日同様に168号機が務めますが、機務段(機関区)から044号機も出てきて、デルタ線での方向転換に向かいました。両方とも動くようです。

▲ 6:38、市内の道路併用軌道には、作業員の乗る停車場がありました。ここで作業員数人を拾って、離合が出来る大金缸駅で途中停車してから、12.5キロ先の下樺駅へと向かって行きます。私達も後を追って、追い抜き、適当な場所での撮影ですが、今日は朝から厚い雲が覆っていて、芳ししカットは撮れません。

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本日の185系(157系色+湘南色)

本日のあかぎ4号の新前橋から上野9:41着と あかぎ1号上野19:00発の新前橋までと 関連の回送列車はOM08(157系色)とOM03(湘南色)の14連でした。185系の14連の運用はこれしかありませんので なかなかこの編成の組み合わせはお目にかかれません。運用をたどり今日こそと東十条で写してきました。18:40にやってきました。19:00上野発のあかぎ1号を写したいのですがは暗くてきびしいのでその前の回送列車です。雰囲気だけでもお楽しみください。


上野に向け快走(回送)中

左 OM03( クハ185-306)  右OM08(クハ185-214)です。

本日吾妻線で651系7連(K104)の試運転が行われたようです。近いうちに大宮の185系は655系に置き換わるようです。

山陽電鉄、標準軌間のモハ63型

モハ63、筆者にとって何とも懐かしい電車です。省線立花駅から三宮までの往復で何度も乗車しました。それから0番のキットを買い、初めて作ったのも、全長50cm近くのモハ63型模型電車でした。

尼崎から神戸に移住した1951年以後は、山陽電鉄700型としょっちゅう出会うことになりました。小学校校舎に接して北側が山陽電鉄東須磨駅です。5,6年生の時、我々は南側の教室でして、電車の見える北側教室がうらやましくて仕方がありません。よく北側教室に忍び込み、窓から駅を見下ろし、通過する700型などを見に行ったものです。

終戦後、国鉄同様私鉄も多くの車両を失い、輸送がままならぬ状況は諸兄ご存じの通りでした。国鉄で設計製造した63型を国鉄が一括発注し、私鉄に振り向けられた総数116両の内の20両(モハ63800-819)が山陽電鉄向けでした。その内の奇数番号車はクハでなく、モハの無電装車だそうです。製造は全車川崎車両。車両様式はモハ63型に準じているが、座席、天井、配線工事などの細部は、電鉄の注文に応じて改善されていたそうです。

山陽に入線当時、番号の内モハを取り、800-819をそのまま使用していたようですが、1949年700型700-719に改番されたので、筆者はその番号車を見ていません。また、入線時の窓は三段でしたが、のち二段に改造され、下側の窓には他の形式車両同様、保護棒が取り付けられています。また、下の写真717号車は未電装車ですので、屋根の先頭部にはパンタの設置予定スペースがそのままです。パンタ台はさすがに取り払われていますが。

初めて写真に撮ったのは、1960年9月モノクロでした。カラーは下の画像1962年1月が最初です。
この兵庫駅は1963年4月7日、神戸高速鉄道の開通にともない消滅しました。ここから西代駅までの約2km近くが道路併用軌道です。国鉄様式の大型車両が、電圧も軌間も異なる山陽電鉄に入線。その翌年に昇圧や駅ホームの延長など、幾多の困難を解消したとはいえ、道路併用軌道を走り、その上に長田では神戸市電と平面交差するのですから、それはそれは大変な事柄だったのです。

こちらは、姫路市の女鹿-白浜の宮間。筆者が正月に山陽電車を撮影する時はカラースライドでした。直線の多いこの区間は静かな播州米の産地でもありました。この辺りではさすがの大型車両でも様になります。

翌年の正月、須磨浦公園を過ぎて塩谷に向かう途中です。昔、右手石段組の坂道を上ると、藤田ガーデンがありました。今は失くなりましたが跡地に大きなマンションが建ち、当会の有名なお方が住んでおられます。

山陽に来た20両の内、2両を西代車庫の火災で失いましたが、18両が健在で撮影時にも頻繁に出会いました。
戦後の混乱期の電鉄に、大いなる貢献を果たしたモハ63型700形式ではありましたが、他形式へ転換車などを除き、老朽化が進み、20数年の活躍の後に、1969年までに廃車されました。

山陽電鉄とは無関係ですが、モハ63の話題のついでに、ジュラルミン電車のことを少し。

1946年川崎車両においてジュラルミン電車6両が誕生しました。モハ63400-402(電装して蒲田電車区に配属時は、モハ63900-902と附番された)、サハ78200-202です。下の写真は川崎車両の完成時の公式写真です。
(『蒸気機関車から超高速車両まで-写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史-』、川崎重工車両事業本部、平成8年、交友社)より。 材料は終戦で不要となった航空機用ジュラルミン10万トン活用の一端として車両製造に向けられたものです。ただ、無塗装であったため、腐食が進み、のちに塗装されたり、全金属車に改造されています。(『国鉄電車の歩み』、交友社、『電車のアルバム』、交友社を参照)

アルミニウム金属を主体に、第二成分として銅を混ぜた金属アロイ(合金)がジュラルミンです。新幹線車両をはじめ、最近の車両に使用されるアルミ合金はアルミニウムに、第ニ成分にマンガンを、第三成分にシリカを(6N01)、もしくは亜鉛を(7N01)のアロイです。こうしたジュラルミンは立派なアルミニウム合金ですし、『ジュラ電』はアルミ合金製車両の先駆車でもあると筆者は考えます。勿論台枠は鉄、内装材に一部木材も使用され、オールアルミカーではありませんでした。オールアルミカーが誕生するのはジュラ電から16年後、山陽電車の2012+2505+2013です。やはり川崎車両製でした。これはオールアルミカーの第一世代車と呼ばれています。そして現代の新幹線車両などは第四世代のオールアルミカーと呼ばれています。調査事項も含め、この辺のことは、別の機会に稿を改めます。

コメント投稿機能の不具合について

こちら管理人の小西です。
先月末より、特定のユーザからコメントが投稿できないという不具合が報告されています。当初はよくあるスパムフィルタの検閲によるコメントブロックを疑いましたが、検閲リストに該当コメントが残っていないため、原因は異なるようです。

他にも調べてみたのですが、残念ながら現在原因不明です。drfc-ob.com開設からかなり時間が経過しており、掲示板のバージョンも古くなっているため、現状改善を願って最新版にアップグレードしてみる予定です。
アップグレードに伴い、掲示板の投稿画面の仕様(見た目など)が微妙にかわる可能性がありますが・・・悪しからず。