【20874】山陽電鉄-標準軌間のモハ63型-(続)

再び山陽電鉄のロクサンです。『鉄道ピクトリアル』誌を購読の方も多いとは思いますが、今回は同誌掲載の山陽ロクサンに関する記事を紹介してみましょう。同誌327号(1976.11臨時増刊号)、528号(1990.5臨時増刊号)の2冊、主に528号からです。最後に筆者の写真も少し紹介します。

始めに、渡辺寿男・山陽電気鉄道㈱取締役会長(1990年当時)の『広軌63形の導入と820型製作当時の思い出』(528号)から。広軌への改良工事や車両導入の興味深い話です。

(前略)2.モハ63形受け入れのころ
山陽電鉄が、モハ63形電車を受け入れて、運転するようになったことによって、当社の輸送施設は、革命的な変革を遂げた。 そのことをご説明するためには、それ以前の施設の状況と、戦争の被害という、山陽モハ63の前史に、若干触れなければならぬ。(中略)

b)
戦争中の状況と空襲被害など
戦争末期の山陽沿線には、軍需産業の大工場が多数建設されて、輸送需要が急速に増大したため、車両数が極端に不足して、酷使を重ねることとなった。その最中の昭和2069, 77日の二回にわたり、当社明石工場は空襲による甚大な被害を受けた。(中略)加えて、敗戦直後の昭和20918日の台風と同年109日の集中豪雨によって、残存車両のうち多数が、床下浸水のため運転不能に陥り、さらに同じ頃、西代工場の巻線工場が失火によって焼失するなどのため、空襲よる明石工場の機能停止とあわせて、故障修理も思うように進まず、車両事情は極度に悪化して、ついには、全線を通じて可動車数両に過ぎぬ状況にまで低下し、運転は麻痺状態に陥った。

このため、兵庫須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。このため兵庫一須磨寺間の区間運転には、神戸市電K3両を借り入れて充当するなど、ずいぶん無理な対策も実施したが、昭和20年末にはようやく、軌道線約10両、鉄道線約7両の可動車を確保する程度にまで回復した。けれども、当時緊急に必要とする可動車両数は、最低約50両と見つもられた状況のなかでは、輸送需要に応ずるには、程遠いものがあった。   

c)全国的車両復興対策の状況
空襲による被害と、戦争中の人員資材の欠乏したなかでの酷使と合わせて、著しい車両不足に陥っていたのは、当社だけでなく、運輸省はもちろん、各私鉄会社共通の問題であった。したがって、当時の全国的な多数の新造車両の要求を充足するためには、同一形式の車両を大量生産的に新造するほかないとの判断によって、運輸省と、当時の各私鉄の統制団体であった日本鉄道会とは、昭和20年下期および21年度における、路面電車以外の新造電車の形式を、運輸省モハ63形・一形式に統一して、運輸省で一括して新造し、 とくに緊急増車を必要とする私鉄には、これを払い下げて使用させることとした。当社が、前記のような当時の線路条件に対しては、全く奇想天外とも言うべき、モハ63形の導入を決断せざるを得なかったのは、 このような事情によるものであった。 

3. 山陽向き広軌モハ63形の概要
山陽電鉄に割り当てられた20両の内訳は、電動車10両と、そのぎ装を制御車設計に変更したもの10両とであって、(中略)竣功したときの車両番号はモハ6380063819で、偶数番号車が電動車、奇数番号車が制御車であった。現車の側面中央には、省電と同じ様式で、この番号が標記されていたが、社内では簡単のため800形と呼び、入線後車体正面には800番代のみの番号標記がなされていた。台車は、MT共に電動車用のT R25A(後のD T13)であるが、輪軸を、各部直径はそのまま、軌間1,435mm用に単純に延長し、これに合わせて台車枠の幅が拡げられていて、MT40形主電動機が歯車側に寄せて吊りかけられた。従って車軸強度が狭軌用原設計に比べて、著しく低下しており、後に材質レベルの高いものと交換して、その設計の弱点を補った。  

車体については、元来モハ63は、車体の構造やアコモデーションが、戦時の最低仕様とも言うべきものであったから、製造過程で川崎車輛の協力を得て、たとえば台枠構体の組み方や、天丼の張り方などにおいて、番号の若い車両から高い車両に向かって、少しずつ改善を加えていった。このため、わずか20両ながらその中のヴァリエーションが、当時の急速な技術復興の歴史を物語っていた。

4.  63形の受け入れ
川崎車輛から当社線への輸送については、車体は1067mm軌間の仮台車に乗せ、台車は省有の長物車に積み、この2両を編成して山陽本線経由で回送した。前半12両の受け取りは、省線飾磨線と当社線とが並行する当社手柄駅付近に、当社側で側線を設け、飾磨線の本線路上から当社側線へ横取りをした。(中略)現在では考えられないような荷役作業であった。 

後半8両の受け取りは、下記の線路改良が進んで、明石以西にモハ63形が運転可能になったので、省社の側線の並行していた明石駅構内で行った。さて、前記のような状況の線路へ、いきなり車長20m、車休幅2.8m、軸重最大15tという大形車両を持ち込み、これを運転しようというのであるから、当然全線にわたって、線路施設の大改良が必要であった。その工事は、主として軌道中心とホームとの間隔の拡大、 ホーム延長、線路中心間隔の拡大、および橋梁、橋桁の補強などであって、 これらを、条件の良い姫路方から東に向かって着工し、その進捗に応じて、逐次運転区間を延長した。

22510日姫路網子間の運転を開始し、次いで八家貨物駅(営業は白浜の宮まで) 大塩、という段階を経て、2331日ようやく姫路―明石間の運転開始に漕ぎつけた。明石姫路間に63形を、兵庫姫路間の急行には従来の小形車両を使用した。明石以東の軌道線は、電車線電圧600Vであったため、この機会に1500Vに昇圧して全線の電圧を統一することとし、その工事は昭和2310月に完成した。同時に、軌道線所属600V専用車は、12両を昇圧改造したほかすべて廃車または譲渡した。そして231225日ダイヤ改正を行い、63形は全線に運転されることとなった。

 しかし、線路施設の改良は、63形運転の最低条件を辛うじて充たして、無理やりに運転を強行した感を免れず、そのため全線にわたり直列ノッチでのノロノロ運転を行った。それを若干改善するため、昭和24年には一時的に、直列最終段で弱界磁の入るよう電気回路に手を加えて、変則的ながら最高速度60km/h程度の運転ができるようになり、さらに線路改良の進捗に伴って、昭和28年には、本来の設計に戻って並列運転となった。

5.昭和20年代前半の山陽63
戦時形最低仕様、粗製乱造と悪名高い63形のイメージを少しでも薄めたい、というのが当時の担当者の願いであった。そこで昭和24年には、貫通路に幌の取付けと扉の撤去、運転室仕切り壁にガラス窓を開設、三段窓を二段窓に改造、座席の奥行き寸法の拡大、外部色の変更などを行うと共に、 天井板のなかった若い番号の車両には これを取付けた。また同じ時期に前者の番号の整理変更を実施したので、その機会に形式を700形と改め、番号を700719に変更した。全線で運転が可能になった後は、主として兵庫―姫路間の急行と、網干線で使用されたが、当社従来の車長15m、幅2.4mの小型車両に比べて格段に大きい収容力は、昭和20年代初期の輸送力逼迫の窮状を救い、主力車としてその責務を果たした。また、無理にもこの63形を導入したことが、当社の線路施設を向上させる契機となったわけで、山陽電鉄の歴史の上での63形の役割の意義は深い。
(引用終わり)

と、
63型導入の経緯に始まり、車両の運び込み、改良、運転そして最後に導入の意義を述べられている。
また、528号誌には、DRFCに多大のご理解を下さったと伺っている、故吉川文夫さんも『山陽700系の変遷と共に-63形電車が私鉄輸送に果たした役割』の文を寄稿されている。曰く、「広軌ロクサン」、「大きすぎて」など面白い話が、「私鉄へ入った63系その後」と共に掲載されています。

さて、関 三平先生のイラストですが、702+709は、1964(昭和39)年に車体を補強、内装の不燃化、窓の大改造などで再出発したものです。四扉車である以外、大きな変貌です。ベンチレータは交換され、63型、山陽700型の特徴であった前面通風器はシールドビームの前灯に変わりました。残念ながら筆者にこの写真はありませんでした。三平先生に本当は、702以外の700型のカラーイラストを掲載して欲しかったと残念がっています。 山陽に来た6320両の内、712+7131951(昭和26)年9月西代車庫で全焼しましたが、台車機器を利用して19572700+2701として復活しました。車体長は元の20mから18.67mに縮められました。しかし、大型車の印象以、63型の面影はもはやありません。2701の台車は川崎車両試作のOKA-20空気バネ台車で、2700はモハ63時代からのDT-13Sでした。
写真は、塩谷付近で洋館をバックに快走する特急です。
 

 

こちらは、長田での市電とのデッドセクションを行く2701+2700です。いかにも大きな車体で、デッドセクションを通過しました。 

 最後は、東垂水-滝の茶屋間、カメラは茅渟湾を東北東に大阪市の方向を眺めています。車両は705+704です。705の屋根前寄りにはベンチレータがありません。電装してパンタ設置予定の空間でした。

右端信号機に重なり、円柱形木製の架線支柱のあるところ、線路は隠れていますが、複線当時の国鉄山陽本線です。海と山の極めて狭い場所の一番下段です。中段が完成まじかの山陽本線の新しい線路で、真新しい鉄製の支柱。複々線完成後は、下段が山陽線下り線で西行。中段が上り線で東行。上段が山陽電鉄線です。

 仮定の話ですが、もしかしてモハ6380081920両が山陽に来ずに、国鉄で、しかも関西地区配属で山陽線電車区間を走ったとしたら、西明石まではこの下段を走り、京都まで復路は中段を走ることとなったかも知れませんでした。現実は上段を走り、山陽に多大の貢献を果たして長く活躍し、廃車もしくは改造され、最後の車両も1985年に姿を消しました。


【20847】2012年春の中国鉄路の旅       Part23  长春(満州国首都 新京)その1

第26日目 5月14日
図们22:02(2168次)→7:18长春  528キロ 9時間16分

新緑拡がる車窓を見ながらのすがすがしい朝を迎えました。列車は、満州の大地を长春に向かっています。

长春駅に着きましたが、臨時ホームです。現在、哈尔滨~大連の哈大旅客専用線の建設工事が行われていますので、濱州線ホームは手前に変更されていました。

▲ 臨時駅ホームは広く階段もなくそのまま出口に出られました。本駅は彼方に改築中です。
駅前は狭く、Taxiはメーターを倒しては行ってくれません。こんな時は、そんなぼったくりTaxiを相手にしてはいけません。ここで降りる客を乗せたTaxiを待って、強引に乗り込みました。

【 哈大旅客専用線
哈尔滨(ハルピン)と大连(大連)とを結ぶ延長約904キロの高速鉄道、設計速度は350km/hです。開業しますと所要時間は3~4時間(複数の報道有り)と、現在最速9時間18分を大幅に短縮される予定です。
2007年8月に着工され、現在急ピッチでの建設が行われています。両端駅は、新たに哈尔滨西站(在来駅より8キロ東)と大连北站(在来駅より13キロ北東)が新設されています。両駅とも市内からは離れていますので、在来線との連絡線を使用して在来駅にも乗り入れられる予定ですが、実際に開業してみないと分かりません。交通アクセスとして将来的に地下鉄が計画されています。

現在、軌道敷設工事は完了し、電気・信号設備他の工事に入っています。在来線と平行する区間で見た限りでは、架線が張られている所も多くなっていました。瀋陽瀋陽北长春の駅の改築工事は、目下盛んに行われていますが、進捗具合が進んでいるとは見えません。 開業日については、今年7月(共産党記念日)あるいは10月(国慶節=建国記念日)という複数報道がありますが、まだ試運転さえ始まっていません。当局からの正式発表はまだです。しかしここでは試運転期間は、今までの例からしてもわずか1ケ月と、日本の東北新幹線八戸~新青森の約8ヶ月間と比べますと驚嘆すべき安全無視の期間です。2008年8月に高速鉄道として、中国で初めて開業した京津高速鉄道では、営業開始後に先頭部車両では計測機器を入れてのデータ調査が行われていました。また、突然の開業発表もありかもしれません。

この 哈大旅客専用線の特徴は、なんと言っても中国でも極寒の地を高速で走る事にあります。当然に耐寒対応が必要です。零下30℃以下となる地では、零下50℃対応が必要ですが、超高速の300km/hを超える高速鉄道での耐寒技術は持っていません。世界中を見渡しても皆無です。計画当初には日本側へ技術供与の申し出がありましたが、日本の新幹線では零下25℃を想定した技術です、態度保留(体よく断った)した経緯がありました。その後ロシアへの技術協力をしているドイツへの打診を余儀なくされたそうですが、報道はありません。

極寒地での高速鉄道走行で最も問題となるのは、台車まわりと特にブレーキの制動力です。軌道上の列車を高速で走らせようとすれば、500km/hまでなら直線レールに高速大容量のモーターを取り付けた車を走らせれば可能でしょうが、規定の距離で止めるのは簡単なことではありません。これに 極寒が加わればなおさらです。

中国鉄路の高速化は、時速100、120、140、160km/hと段階的に速度を上げて着実に行われてきました。ところが、国家総力を上げて200km/hに挑戦した列車の 「中華の星」 は、技術不足で大失敗となり、高速化に先行する諸外国の先端技術にたよざらるをえなくなりました。
国際入札を実施して、ドイツ、フランス、カナダと最も先行実績のある日本の技術供与を受けることに成功しましたが、元々基礎力がなかった上に混在する寄せ集めの技術を十分に吸収、習得するためには、先進国が長年かけて積み重ねた以上の経験と実績が必要です。これを分からずに単なる高速化へと走ってしまった結果が、40名もの尊い犠牲者を出した温州での列車事故でした。

今尚、事故解明発表されていない技術的要因としては、列車管理システムが上げられていますが、その元となる高速列車の制動力の違いが大きく事故に影響しました。日本の洗練された技術では、直ぐに高速に達して定速走行をして停車手前で減速して停める制動距離の短い楔鍵型(くさびかぎ形)制動」ですが、諸外国は、ブレーキの効きが悪く、かなり手前の問題の起こらない制動ポイント」までスピードを落とさなければならない「山形制動」です。制動力は、「技術力の差」と言われ、日本は突出して進んでいます。

問題の起こらない制動ポイント」とは、 「摩擦熱が400度」のところを限界としています。 、金属にとっては、性質が変る400度は非常にやっかいな温度域だそうです。ブレーキにはパッドを使用しますが、摩擦熱により高温となります。400度を超えると「臨界的温度域」に達して、ブレーキが破壊されます。これからの詳しい説明は工学部出身の先輩方の説明を必要とするところです。

厳寒地では、400度に零下30℃以上と最高速度300km/h以上の風速が加算されますので、温度差はもっと広がります。500℃を超えると金属自体の変化が現れ、技術的には解決できなくなります。金属が高温で柔らかくなったり、低温で硬くなったりを繰り返しますと、金属疲労が生じます。これは、台車まわり以外にも影響を及ぼしますので、日頃の検査が必需ですが、出来ているのでしょうか? また分かっているのか、技術者には分かっていても国家権威のもとで消されているかも・・・。

温州事故後も、北京~上海の京滬高速鉄道に使用されるドイツシーメンスから技術供与を受けたCRH3の改良型CRH380BLの台車車軸に亀裂が見つかり、全車製造元に戻され検査取替えを行いました。部品そのものに問題がありました。
建国後の大躍進時代以降、目標達成が重んじられ、質より量が染み付いて検査・検品など行われず、最初に作った物と違った物が出来てしまう国です。人民も中国製には疑心暗鬼で見ます。短期間でまともな物を作り続けられるか分かりません。案じられます。

中国鉄路の高速鉄道の問題点につきましては、「青木氏と神明社」 の関連レポートに詳細が記載されていますので、ご覧ください。こちらです。

話が長くなりましたが、投稿を続けさせていただきます。

無事にモーテル 168 長春 ストリート インにチェックインして、早速王さんに到着の連絡をしましたが、連れていきたいと言われていた発電所の蒸気機関車は、残念ながら休止して動いていない。夕方に狗鍋をご馳走しますので待っていてくださいと申されました。仕方ありませんが、丁度良かったです。実は昨夕に散歩後にホテルのベットで、突然に左足が痙攣を起こして動けずとなりました。何とか這ってシャワー室まで行き、温かいお湯をかけて筋肉を揉み解して痙攣を止めましたが、長い旅の疲れが最高潮に達していたのです。しばらく休んでから、薬局で強烈な湿布葯を求め、これを貼っての歩行を続けていました。今日は、ゆっくりと身体を休めなければと思っていましたので、幸いでした。


▲ お奨めの狗鍋です。昔出張の際に知らずに食べさせられましたので、これがそうだと言われては初めてです。外観は確かに見たことのない肉です。疲れが取れますよと言われ食べてみましたが、脂肪がなくてさっぱりとした柔らかい肉です。樺南林鉄でのお話をしながら美味しくいただきました。ビールは遼西省四平市の金士百啤酒 「千啤=ドライビール」 です。冷たく冷やしてありました。

王さんは、「樺南林鉄で事故が起こった。単機で回送中だった蒸気機関車が、下樺付近で脱線転覆して、横転のため運転手も負傷をしました。原因は速度超過らしい。事故のために作業は中断されて、当初予定されていた撤去作業完了日は遅れて、19日以降になる見込みです。」 と、言われました。

満州里訪問後に樺南林鉄に再訪問する計画もありました。行けば新緑の中の作業を撮れたのですが、17日帰国のチケットを持っていますのと、変更しても30日ビザの壁がありました。19日以降となると、撤去完了の最後を見届けるには難しかったでしょうね。

▲ 韓国料理屋は、満席になっていました。毎日こんな風で評判の店だそうです。宴もたけなわとなると、チマチョゴリで着飾った従業員の皆さん総出演で、韓国舞踊を踊って盛り上げられました。

王さんは、根っからの鉄ちゃんではなく小竹先生に感化されたそうです。旅行社もやっておられますが、大学の日本語と観光学科の先生でもあります。いろいろとお話を聞かせていただき、雑学を仕入れました。ご馳走を以外にもお話をいただきましてありがとうございました。


【20818】2012年春の中国鉄路の旅       Part22  北朝鮮国境の町 图们(도문=図们)から长春へ

前回に引き続いての長い旅も終盤になりました。後4日間と思うと、無性に我が家が恋しくなり始めました。今日は、夜行列車で长春まで戻ります。1歩我が家に近づく思いで、朝を迎えました。
約67年前になりますが、満蒙開拓団の皆さん方が苦労を重ねて荒野を開墾して、ようやく豊かになってきたかと思ったら敗戦によって大地を追われて、帰国しなければならなくなった無念さは計り知れません。望郷への思いは、この数百倍、いや数万倍以上だったろうと、満州をまわり、この地にいますと感じずにおられません。

第25日目 5月13日  図们2日目
図们22:02(2168次)→7:18长春  528キロ 9時間16分

今日の朝は、昨日とうって変わって雨がふっています。昨日ロケハンを怠りましたが、地図上で撮ってみたい撮影地がありました。小雨に変るのを待ってから、出かける事にしました。雨を避けてTaxi(5元=約80円)で向かいました。

▲ 7;24、途中で寄った道口から何気なく撮った图们の機務段ですが、帰国後に見ると、1番左の車両に興味がわきました。

線路に枕木が置かれているので、普段は使用されないのだろうと推測しますが、正面の顔が面白すぎます。運転席窓ガラス位置に目の玉のようなライトを装着しています。アニメのキャラのようにも見えます。その時にもっと早くに気づいて近くから撮っていれば、もっと詳細に分かったでしょうが、まか不思議な車両です。


▲ 地図上では、図们に来る列車が撮れるかなと思って来ました地方路線に良くある道口です。踏切番のおじさんに挨拶すると、「そうかい、日本から来たのかい。東北の震災は大変な出来事だったね。さあ、中に入って。」 と、フレンドリーに迎えてくださいました。やはり、親日的な朝鮮族の方です。この踏切は4人体制でやっていると、仕事の段取りを説明してくれます。ベットのようなものは、オンドルになっていて外から石炭を入れて暖めていました。注目したのは、日めくり式の通過時刻表で、日本で見たのと同じ様式です。列車が来るまでは踏切番小屋で、お話を聞きながら雨宿りさせていただきました。
中々返答を聞けなかった国境の鉄道橋の件ですが、1ヶ月に1回ぐらい北朝鮮への列車が往来するそうです。どんな物を運ぶのか、日程は分かるのかも聞いてみましたが、その時でないと分からないと申されていました。

記事の続きを読む


【20822】山陽電鉄のロクサン

tsurukameさんの投稿を追いかけるようにが山陽電鉄のロクサン、700型登場!

以前に掲載されたtsurukameさんの投稿記事を参照しながらご覧下さい。それにしても阪急京都線にも投入計画があったとの記載には驚きました。皆さん、ご存じでしたか?P6と63がすれ違う、63をP6が追い抜く、なんてことがあれば見たかったなぁ!


【20783】2012年春の中国鉄路の旅       Part21  北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们))

第24日目 5月12日  図们

2007年に韓国側の北朝鮮国境駅である都羅山駅に行きました。厳戒態勢の中、特別な雰囲気を感じましたが、ここ図们は中国鉄路ではどこにでもあるような、ごく普通の駅でした。まあ丹東のように国境を越える、国際客車列車があるわけでないので当然かもしれませんが、緊張感を求めてホテルのチェックインが終ってから町に出てみました。

かつて国境から見た北朝鮮の鉄道を追いかけた鉄ちゃんのプログを日本で見ましたら、警戒は厳しくカメラを向けているのが見つかると公安から質問され、引っ張られて撮影したフイルムを没収されたりする事があったとの記事がありました。最近はどうかなと、王さんに電話をしますと、「全然大丈夫ですよ。でも時々状況は一転しますからホテルのフロントで確認だけはしておいてください。」 と、申されましたので出かける前に聞いてみました。すると、「あんたダメだよ、そんな大きなカメラをぶら下げていたら、途中でマークされるよ。北朝鮮を撮ったら公安が来て、外国人で日本人と分かったら直ぐに逮捕されるよ。」 と、物騒な事を申されます。
仰せに従い一眼レフはリックにしまって、撮影用にはコンデジ2台をショルダーバックと衣服のポケットに分け入れて出かけました。

▲ 国境の町「図们」の地図を求めましたら、独自はない、延吉市内図にくっ付いてあると言われました。左の地図です。
向かいたいのは、国境の鉄道橋です。徒歩でどのくらいかかるのかとききましたら、「真っ直ぐに行くと、20分くらいかね。」です。そんなに近いのかと、見学がてらに歩いて向かいました


▲ 友誼街から解放路を歩きました。交差点には、東北解放記念塔があります。路上では雑貨を広げて売る人民、リヤカー屋台等々、中国でよく見かける風景です。

▲ 寄り道をしながら、約20分で図们江公園に着きました。図们江対岸には北朝鮮の山々が見えます。警戒厳重と思いましたが、入口に公安の車が止まっているだけで、警備員がうろうろしている様子はありません。土曜日とあって家族連れで散歩されている方々が多く、緊張感よりもほのぼのとした光景です。

▲ 図们江遊覧の船も出ていました。丹東の鴨緑江と同じですね。しかし川幅はこちらの方が狭く、見つからなければ容易に泳いでも渡れます。冬季には凍りつき歩けますのでなおさらです。脱北者が多いのも分かりますが、双方に警備塔らしき物はありません。そんな事は関係ないと、すがすがしい春の日のデイトを楽しむ恋人たちがいました。

記事の続きを読む


【20779】2012年春の中国鉄路の旅       Part20  哈尔滨から、北朝鮮との国境の町 图们(도문=図们)へ

第23日目 5月11日  ハルピン→吉林→図们
ハルピン16:40(D114次)→19:30吉林  357キロ  2時間50分
② 吉林22:58(K7323次)→8:17図们      529キロ  11時間8分

ハルピンから乗車したD114次は、京濱線を150km/h前後で快走し长春駅に到着しました。殆どの乗客は降りましたが、また同じくらいの乗客が乗ってきます。定刻にスイッチバックで発車しました。2010年12月に正式開業した长吉高速鉄路を200km/h弱で駆け抜けます。本来は、250km/h走行可能ですが、痛ましい温州での事故によりスピードダウンされています。



▲ 着きました吉林駅は、見事にリニューアルされていました。今まで新築・改築された中国鉄路駅には数多く降り立ちましたが、これ程の完成度の高い駅はありません。人工大理石で包まれたコンコースは光り輝き、清掃が行き届いてチリ一つ落ちていません。照明も見事です。殺風景な駅前広場はパスして、図们行きの列車が来る3時間後までビールを飲みながら気持ち良い待合室で待ちました。

記事の続きを読む