【22198】関東だより(暑気払いの巻)

関東支部員のロギング太郎です。
佐竹先輩が東京へ来られたのを口実にして、暑気払いの飲み会を開催しました。
例によって「鉄な話」で盛り上がり、あっと言う間に時間が過ぎました。
再会を約して散会したのですが、「もっとユックリ話したい」てな感想が参加者諸氏から出るほどでした。
今回は仕事の都合などで参加できない人も多かったのですが、関東支部員相互の連絡はキッチリ出来ていますので、関東へ来られる際には事前に関東支部員へ連絡ください。


【22172】広島電鉄の改造連接車

「昭和の電車」に広電宮島線の改造連接車が登場した。イラストは西広島行の電車が広電廿日市~宮内間の宮内トンネルに進入するところを後追いで描かれていると思われる。
ラッシュ時や多客時を中心に活躍したが、昭和55年12月に廃車になった。

1041+1042/(52-1-2) 荒手車庫

広電にはもう1形式改造連接車が2編成在籍した。大阪市電1600形改造の2511+2512と2513+2514で、旧車号は順に1617、1630、1636、1640である。昭和41年3月大阪車輌で改造され、車体内外ともに大阪市電時代の面影をよく残していた。市内線から宮島線の直通運用に使用されたが、2511+2512は55年12月、2513+2514は54年12月に廃車になった。

2511+2512/(52-1-2) 荒手車庫

2513+2514/(44-3-24) 広島駅前~猿猴橋町


【22157】広電連接車1040型

しばらく新聞休刊日や休稿日のためお休みが続きましたが、久しぶりの掲載です。

今回は広電の郊外型連接車4010型です。解説に「京都市電と大阪市電をモデルに・・」とありますが、なるほど京都市電600型にそっくりですね。


【22114】車石 それから

あの溝のある石(車石?)は何か?

あの溝のある石が気になり、気分的にもやもやしていたので再び訪れることにした。通りがかりに偶然見つけたものだからどのあたりかよくわからず、適当に歩いていると、気がついたら問題のところに来ていた。

左の写真でわかるように古い旧家の門の前にある階段に設置されているものである。とにかく、この家の人に聞いてみることにしたが、この家には人が住んでいなかった。近くに人がいないかと周辺を歩いていると80歳ぐらいのおばあさんがいたので聞いてみることにした。 

 「ちょっとお尋ねしますが、この先にある家の門の前にある階段に溝が付いた石はなんのためにあるのですか。」と聞くと、その場所まで一緒に行ってくださり「ああ、これは人力車を通すためのものですわ。ここの家はお医者さんでした。」と言われた。どうやら家から出かける時に人力車を使っていたため、玄関先まで人力車が行くのに階段部分を車が通りやすくしたものとわかった。

最初に考えていた荷車でなく人力車であったが、車を通りやすくするためのものであったことには間違いなかった。「いつ頃に出来たものですか。」と聞くと「よう、わかりませんわ。」ということだった。また、別の人が通りかかったので、尋ねてみると、同じように人力車を通すためで、ここで使っていた人力車は文化センターの民俗資料として寄贈されて展示していると言われた。これは大変参考になる情報であった。とにかく、主要部の寸法測定と詳しく写真を撮っておくことにした。

写真の数字はそれぞれの溝石の長さで、左右をずらして設置されている。適当な長さの石がないためなのか、わざとずらしているのか本当のところはわからない。しかし、継ぎ目をずらすことで車輪がうまく通るようにしたのかも知れない。なお、これから記入されている数字の単位はmmである。

溝の間隔は全体の写真から見ると870mmと850mmと違っているが、最上段には車が登り易いように切り欠きがある。その間隔が850mmであることから、本来は850mmで870mmは施工時か使用中にずれたものではなかろうか。

 

最上段は右の写真にあるように切り欠きがあり、その中心線での間隔は850mmであった。文化センターに展示されている人力車の車輪中心線間隔を測定すると850mmで同じであった。これよりこの溝にある石は人力車が登り易いようにしたものという聞き取りの情報は十分に理解できる。

 左の写真は道につながる部分でこれも登り易いように傾斜がつけてある。展示してある人力車は1人乗車用で車輪の幅は70mmで、車輪直径は1020mmであった。この様に車輪径が大きいので通るには問題はなかったのであろう。

 

 

あの溝のある石は人力車を通し易くするためのものだった!

この一連の調査で偶然見つけた溝ある石造品は人力車を通し易いように設置されたものとわかった。ただし、設置された時期についてはわからなかった。そして、人力車について調べてみた。最近は観光地でよく見られるのであまり気にしていなかったが、調べてみると以下のことがわかった。

1. 人力車のはじまりはいろいろな説がある。一般的には1869年(明治2年)泉要助、鈴木徳三郎、高山幸助の3名が考案し、翌年の1870年(明治3年)東京府から製造と営業の許可を得て、人力車の営業を開始したと言われている。

2. 全盛の頃は1896年(明治29年)で、全国で21万台があったといわれている。そして、都市交通だけでなく、組織化され乗り継ぎにより東海道、奥州街道などの長距離営業も行われていた。

3. 人力車の輸出もされており、明治後期では中国、インド、東南アジアなどに輸出していた。数は少ないがヨーロッパ、北アメリカなどにも輸出していた。

                 参考文献 日本史小百科 交通 東京堂出版

同志社のホームページにある「新島襄ディスコグラフィー」によると同志社の創立者である新島先生が1874年に帰国され、東京から故郷の安中へ帰る時に人力車を3台借り切って向かい、そして、安中に着いたのは深夜であったという。また、新島先生が全国を伝道のために旅行をされているが、鉄道網が整備されていない頃であるので、航路を利用し陸路は人力車、馬そして徒歩で移動されたとある。この様に当時は人力車が重要な移動手段の一つであったのであろう。そして、鉄道網の整備などによりしだいに衰退し、地方で自家用などとして残ったという。今回見た溝のある石はその自家用人力車を通すため作られたものであると思う。そして、寄贈された人力車を調べるために文化センターに行った時、教育委員会でこの民家を調査した報告書があると言われたので資料をコピーしていただいた。そこには「道路に至る階段には、診察に使用した人力車のための溝を切った石が残っており興味深い。」とあった。

 ということで大津と京都間で見られる「車石」と同じものではないが、軌間850mmに敷設した「石のレール」といえるのではないだろうか?しかし、「車石」が気になるのでさらに調べてみると京津間の交通事情が・・・ ではまたいずれ!


【22107】お宝、発掘!

大学時代の恩師のお宅を訪問したとき、奥様から「あなたは鉄道に興味をお持ちだからこれを差し上げます」と思いがけないプレゼントを頂きました。恩師の教授はすでに亡く、奥様は私が「同志社大学鉄道同好会」のOBだとはご存じないようです。

さて、このお宝はプラスティック製のコースターらしきものですが、私には覚えがありません。多分展望車を走らせたときの記念品だと思いますが思い出しません。

こんな事に長けた方が多いと思いますので、これがどんなことで作られたのか、誰が考えたのか、だれの画なのか、など教えてください。


【22074】静岡鉄道秋葉線の思い出

この付随車3(丸屋根化改造)を除き1955年3月の撮影

小生が好きな電車のうちでも、特に好きなのが田舎電気軌道で、具体的に名を挙げれば、北から花巻電鉄鉛線、秋保電鉄、駿豆鉄道三島軌道線、松本電鉄浅間線、それに今回の静岡鉄道秋葉線である。しばらく投稿ブランクが続いたが、秋葉線のクラシックな車両をご覧頂きたい。車歴云々は小生の出る幕ではなく、当然に乙訓老人の役割であろう。遅滞なく義務を果たされんことを。静岡市内線からの転属車もある。

歴史は古く、1902年12月28日秋葉馬車鉄道として、森町-袋井駅間7哩41鎖開業。軌間は2尺5寸ともされるが、2フィート6インチであろう。1909年12月31日現在では客車10、貨車7、馬匹17頭、御者10、車掌6人と、第19回(内務省)「土木局統計年報」(1911年刊行)にある。1911年12月28日には可睡口-可睡間1哩余の支線も開業。1923年6月23日駿遠電気に併合され、1925年1067mm改軌及び電化。

サブロクになっても国鉄線と全く繋がっておらず、当然貨車が直通しなかったのは、秋保電鉄とも共通する。線路が規格とも著しく貧弱で、到底国鉄側の貨車は入れないし、静鉄側の貨車は国鉄線に直通できる代物ではない。だから最後まで連結器は連環式(螺旋による緊締装置を欠く3連環)で遊間は広く、当然バッファーを備えていた。

それらの車体から何までが、まあ時代がかっていたこと。末期こそポールもYゲル化に、電動車は秋保同様車体をそのままボギー化もされ、付随車では屋根がダブルから丸屋根化されたものもあったとはいえ、それ以上の近代化投資はなく、1962年9月20日廃止された。可睡支線は1945年1月1日以来休止し続け、そのまま同日付廃止。

初めて見参に及んだのは、高校を卒業し即浪人と化した1955年3月、九州から東北を駆け足で一回りした、行程では最終に近い3月31日。駿遠線は悪天候でロクに写真が撮れなかったが、秋葉線では皮肉にも天気が回復し、何枚かを撮影した。

その後2回ほど行き、奥まで乗車して尋常ならざる見聞をした。一つは雨上がりだったが、線路班の爺さまが一人添乗してきた。お定まりの巻脚絆(ゲートル)姿だが、通常の地下足袋ではなく、ゴム長を穿ち、ビーター(線路バラス搗固め専用鶴嘴)ならぬ、竹箒を逆手に持っているのは謡曲「高砂」の翁なみ?。それも「昔は確かに竹箒だった」という、とことんちびて、あたかもササラに柄をつけたような超古い代物である。


このあたりも新設軌道ではあるが狭いこと

2軸単車をボギー化したモハ7 秋保電鉄と同様である 橋はコンクリート製

電車はのんびりと奥へ向う。とある停留場で、運転手がノッチを入れても、電車はビクとも動かない。と、件の爺さまに声がかかり、オウッと箒を持って近くの水路に行き、ざぶんと竹箒の先端を突っ込み、電車に戻り、やおら車輪とレールの間に突っ込んでゴソゴソと。

さて読者諸兄、ここでクエスチョンです。この線路班の爺さまは、一体何をしたのでしょうか。

実は道路の片側に併用した線路なのだが、舗装してない路面は穴ぼこだらけ。そこに先ほど降った雨でいたるところ泥水溜まりだらけ。時折通るバスやトラックがたっぷりと泥水を撥ね、それがレールの上で乾き―が重なってレール踏面に泥が積もり、いわば絶縁状態になってエレキテルが通じなかったのである。

止まる前は惰行だから停留場にまでは到達できる。ところが発進ができないため、かの爺さまが添乗していた次第であった。こんな事情が飲み込めるのには、正直しばらく時間を要した。ちびた=ささら同然の箒の方が泥を払うのに都合がよく、また濡らしているから、ともかくは通電し、目出度く電車は発進できた。動き出してしまうと電車の重みで、何とかエレキは通うらしいことも、線路班員が場違いなゴム長だった事情も理解に到達できた。ただこの一件をカメラに収めていないのが心残りである。

続行運行列車との離合 先頭電車妻の向って左側窓下部の円盤は「続行車あり」の標識 スタフは後尾の電車が保持 


これは単行同士の離合

ここだけでしか経験しなかった話をもう一つ。
離合場所に先着した小生乗車の電車の運転手は、停車し降車客扱いが終わると、やおらスタフを手にして下車。交換する電車はまだ現れていないのに、と訝しく思っていると、線路脇にある、あたかも米国郊外住宅の郵便受けをスパルタンにしたような鉄箱を鍵で開け、スタフを納めてまた施錠。この時には到着していた離合電車の運転手からスタフを受け取って、そのまま発車。反対側の運転手は、やはり鍵で鉄箱を開け、スタフを取り出して施錠し、乗務に戻った。

要は先着した電車が交換すべきスタフを鉄箱に納め、遅れて到着した方の運転手はスタフを前者に手渡したのち、自分が携帯すべきスタフを鉄箱から取り出すという、他線では見たことのないシステムであった。わざと手間をかけることで安全を確保していた次第で、恐らくは以前に事故―不都合があって、かように改めたものと思われる。

スタフは単線での最も簡単な保安方式で、この線では陸上競技リレーでのバトンを少し太くしたような木棒の先端に、真鍮の丸や三角などの、閉塞区間を示す標識がついたオーソドックスなもの。先般アップした松本電鉄浅間線では、通常のタブレット玉をキャリアと共にスタフとして使っていたが。


終点遠州森町に近く ここは新設軌道である

遠州森町 付随客車の付け替えは南に向っての下り勾配を利用してブレーキを緩め自然移動(降下)させる

袋井市街だけは流石に舗装されているが片側に寄せた敷設なのは、道幅が中央敷設に不足するからで、本来かような市街地=「家屋連たん地域」では道路を拡幅て中央に敷設すべきなのだが。この時点目抜き通りには、地方都市としての活気が満ちていた。


電柱には日本中いたるところに見られた「銀座通」のサインが

なお和久田康雄『私鉄史ハンドブック』114頁を見ると、この線の掲載誌として「急電101号」とあるではないか。すっかり忘却の彼方と化していたが、これは故奥野利夫氏主宰京都鉄道同好会誌「急電」の1960年夏季別冊で、DRFCメンバーが執筆し、若かりし日の乙訓老人と小生がほとんど全部筆耕(ガリ版=謄写印刷)した「私鉄リポート集」である。

その中で「地方軌道短信」として、北海道簡易軌道(歌登、浜中、鶴居の各村営軌道)と、この秋葉線をちょっぴり触れたもの。秋葉線に関してはモハ7、8のボギー化日付(1958年2月/6月、山梨工場施工)、Yゲル化は1958年10月、ハの丸屋根化が進行中と記している。半世紀以上昔の話であった。