【31904】“なにわ”の赤バス、消える 〈1〉

「なんでバスやねん」の声が聞こえてそうだが、いま載せないと意味がない。

大阪市交通局のコミュニティバス、通称“赤バス”が、本日をもって廃止となった。大阪24区のすべて(一部は先行して廃止)に張り巡らされた膨大な路線網で、各区内の病院、区役所、駅などを結ぶ地域密着型のバス。それを一挙に廃止するとは、いかにも大阪市らしい荒療治だ。

3月31日廃止となれば、桜との組合せは微妙と思っていたが、急に暖かくなって例年より早い開花となった。そこで、最後の姿を収めに、昨日、一昨日と大阪市内を駆け巡った。御託は次回に回して、取り急ぎ桜のシーンをどうぞ。

130330_024sy昨日は、自宅から行きやすい阪急京都線の相川・上新庄をテリトリーとする、東淀川区の赤バスを狙ってみた。地下鉄井高野駅近くの神崎川沿いの桜は三分咲きと言ったところだが、車に邪魔もされず、まずは一発で収めることができた。130330_046sy今度は、神崎川南側の集合住宅に上ってみると、桜、川、バス、街並みと、きれいに収めることができた。真っ赤な車体が恰好のアクセントになっている。130330_049sy大阪には小さな公園が各所にあり、ほとんど桜がある。地下鉄だいどう豊里駅近くの公園も同様だった。フロントグリルのエンブレムをよく見て欲しい。なんと、スリーポインテッドスターのベンツ製バスである。130329_24sy同じ東淀川区でも、阪急淡路・崇禅寺、新大阪駅を経由するルートにも、ベンツ製の赤バスが使用されている。桜の名所、柴島浄水場の横を通り、淡路方面へ向かう。130329_15sy阪急崇禅寺駅横の踏切を渡り、淀川キリスト教病院へ向かう赤バス。同病院の新築移転に伴い、赤バスのルートも変更された。

 


【31888】下津井電鉄モハ50

98-33.Shimotuidentetu.moha50.65.8.18                           モハ50/ (40-8-18) 下津井

関 三平氏の「下津井電鉄モハ50型」に対し、3月13日【31472】で湯口先輩、【31472】で西村雅幸氏、3月16日【31662】でtsurukame先輩、3月29日【31863】で乙訓の長老が投稿されておられるが、その中でクハ6が良好な状態で保存されているのは嬉しい限りである。また、tsurukame先輩の写真は、撮影された場所が昭和47年3月末で廃止された区間で、モハ50形の牽く貨物列車と共に非常に貴重である。乙訓の長老の「思い出」は、路線短縮後のカラー写真と共に貴重な記録である。

湯口先輩と重複する部分があるが少し補足すると、モハ50形(モハ50~55)の前身はカハ50~55であるが、50、51は昭和9年4月、52は11年3月、53は鮮魚台が拡大され同年9月、54、55は12年4月に、いずれも加藤車輌製作所で新製されている。モハ53は事故が多かったため33年2月、モハ65に改番され、その後事故は無くなったそうである。

カハ50より以前に製作された車両は、カハ5(昭和6年4月日本車輌)がクハ5に、カハ6、7(昭和6年12月日本車輌)がクハ6、7に、カハ8(昭和8年6月加藤車輌製作所)がクハ8に、単端式のカハ1、3(昭和3年日本車輌)を背中合わせに接合したクハ9に改造された。

モハ52/(44-3-18) 下津井
モハ52

モハ55/(44-3-18) 下津井 鮮魚台が広くなった。
モハ55

クハ5/(44-3-18) 下津井  窓が下降式である。
クハ5-2

クハ6/(44-3-18) 下津井  西村雅幸氏の投稿の通り長船で保存されている。
クハ6

クハ9/(44-3-18) 下津井 昭和29年7月自社工場で単端式ガソリンカーを背中合せに接合して作られた。
クハ9
クハ9-2

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【31875】京阪(旧)3000系を思う (5)

IMG_0004_edited-1IMG_0003▲▲ ▲五条~七条間、鴨川の対岸から眺めた3000系特急。その塗色が、鴨川沿いの景観によくマッチしていた。

鴨川沿いを走る七条~三条間も、昭和62年5月24日に地下化され、その景観が消えてしまう。

地上から地下への切替工事は、昨今の東急渋谷駅では、終電から始発までの数時間だったが、さすが20数年前では、このような離れ業はできず、地下線開業は24日午前8時となった。始発から午前8時まで伏見稲荷~三条間は運休となり、同区間は、京阪バス28台による代行運転に拠った。日曜日の早朝のため、代行予測は3300人で、バスで十分に運び切れる量だった。バスは師団街道、河原町通を経由した。

三条駅では7時55分発の祝賀列車で開業式・テープカットが行われた。使用されたのは、もちろん3000系で、しかも滅多に先頭に出ることのないファーストナンバー3001号車がデコレーション付きの先頭車となった。しかも、3001を含むユニットは3連だが、わざわざ別のユニットから1両を編入した4連に組み替えられた。

この編成は、早朝から東福寺駅で待機、地下線への切替完了後、上り一番の回送電車として、三条に7時48分着、折り返し7時55分発の下り一番の祝賀電車となった。

平成元年には出町柳まで延伸されるが、この時に8000系が登場することになり、3000系が特急を独占するのも、あと2年半だった。

3000系のいちばん晴れやかなシーンだったに違いない。

IMG_0001地下線への切替工事の完了まで、東福寺駅に待機する3000系4連の祝賀電車。大阪方の3001に、記念のデコレーションが取り付けられた。開業前後のダイヤ・運用を故・澤村さんから電話で教えてもらったのも思い出だ。IMG_0002三条駅2番ホームで行われた、京都地下線のテープカット。関係者のみが乗車できる祝賀電車で、七条で全員が下車後、回送となった。なお、営業一番電車は三条8時発の淀屋橋行き普通の6000系で、私はこれに乗って初の地下線乗車を行った。

 


【31863】下津井電鉄の思い出

1955年3月末、初めて下津井電鉄を訪れている。前年8月、姉が四国善通寺で世帯を持ったことで、四国へ電車を訪ねる旅が始まった。最初の宇野線への踏み入れは京都21時発、四国連絡の夜行普通列車であった。東海道、山陽本線はC59牽引であったが、宇野線に入るとD50となった。途中交換の貨物列車もD50で、今から考えると乙線であったのだろう。茶屋町停車で夜目に気付いたのが荷物台付きの四角い電車、始めてみる軽便電車であった。だがこの年の乗車券は京都-高知間往復学割で、行き帰りに途中下車で善通寺に立ち寄っている。次は茶屋町下車で、軽便電車に乗って下津井から関西汽船で丸亀へ、そして琴参電車で善通寺入りしようと思った。

そして翌年春休み、茶屋町到着は深夜であった。下車した16才の少年以外は籠を担いだ行商人、岡山からの新聞であった。夜行列車到着時の駅ホームは賑やかになる。ホームの電灯は全て点灯され、荷扱い車掌と新聞配達人の大声の応酬がある。行商人は跨線橋を渡り、新聞屋は包みを担ぎ線路敷を歩き駅本屋側で待つリヤカーや自転車に運搬する。上り夜行普通列車は茶屋町交換のため、上下列車が出発した後のホームは消灯となり、夜のしじまは戻った。少年は待合室で転寝となり、駅の喧躁と共に目覚めたのだが、一番電車は出た後であった。二番電車の発車前に到着した下津井発一番は、前部の荷物台に魚のトロ箱を乗せた3両編成であった。先のthurukame君紹介の編成がその姿である。ホームに魚の匂いが立ち込める中、少年を乗せた新車2両編成は出発した。と共に睡魔が襲い気付いた時は山沿いを走っていた。窓外に下津井の甍を眺めつつ終点となった。ホーム端から見えた木造車庫には木造客車がぎっしり詰め込まれていた。車庫事務所の扉を開けたが無人で、ウロウロして怒られるのが嫌だから一旦改札を出た。港はすぐ傍で食堂も開店していた。この年カメラ持たずで、朝食後は下津井の街並みを拝見して丸亀への便船に乗った。その後来る筈が、DRFCで須磨の大人と出会い、ニブロクは彼の領域として近づかなかった。それが1961年3月thurukame君が訪問した事を知り、NEOPAN SSを借り名刺版プリントで訪問の時を探っていた。

1963年9月、富山から大阪に転勤、その翌年から四国、中国地区担当となった年の秋、午前中に丸亀で用務を果たし午後、関西汽船のフェリーボートで下津井を目指した。車庫には9年半前に見た木造客車の幾らかが残っていた。元気動車の一部は台枠足回り流用でナニワ工機タイプのMTc編成に更新改造されていた。その編成で茶屋町を目指し21km50分の快適な旅を万喫することが出来た。鷲羽山麓に取り付き、琴海から転がるように下るが、児島湾が見え隠れするうちに川沿いを児島の町に走り込んだ。児島からは田圃の中を淡々と走るが、元は児島湾であった干拓地のせいか水路をまたぐ築堤箇所が多いのに気付いた。

下津井電鉄の愛称は“しもでん”というが、仕事でも付き合いがあった。岡山市内の設計事務所から地区代理店に「電車の好きな大阪の営業マンが来たら立ち寄るように……」との伝言があった。何事ならん、と出向いたら「下電の宿舎で採用するから現場の建築屋に挨拶に行くように……」とのことであった。喜び勇んで天満屋隣のバスセンターから建築地・児島に向かった。下電のバスは当時定評があり、路線バスでもリアエンジンで快適さを売り物にしていた。四国に向かうときは岡山に立ち寄り1泊、早朝のバスで宇野へ、国道フェリーで高松上陸すれば午前中に一仕事出来た。何より連絡船の行列とは無縁であるから快適であった。岡山から高知に向かう時は下電バス→児島→下電→下津井→関西汽船→丸亀→国鉄のコースを辿ることもあった。こうした四国担当は大阪万博を前に終わった。

1966年京都転職後、四国の元得意先から呼び出しがあり出向くことがあった。その中には下電の診療所工事もあった。そして1972年4月児島-茶屋町間が廃線になった。世はバス時代で、電車の役割は鷲羽山の裾野、道路整備が遅れている地区のみとされた。それが瀬戸大橋開通を機に鷲羽山を中心に一大観光地として再開発する事業に下電は打って出た。

1988年4月10日JRの本州と四国のレイルがつながった。乙訓の老人は5月1日、下電を久しぶりに訪問した。橋の開通祝いは善通寺でやるべく、すき焼き肉と九条ねぎを背負っての出で立ちであった。この頃8ミリ撮影をしており、東下津井から始まる大カーブを畑の中から撮影することを目論んでいた。JR児島で下車したのは初めてで、西に歩くこと10分ばかりで下電児島に到着、けばけばしい装飾にびっくりした。改札内外共にも田舎の電車乗り場とは言えない装飾で、その中に1001号“赤いクレパス号”こと落書き電車が止まっていた。ほぼ満員の客を乗せ発車した。かぶりつきは先客の子供と鉄ちゃんに占拠されており、老人(この時は満50歳1日)は入り口近くで立ちん坊であった。展望電車“メリーベル号とは琴海駅で交換した。そして大カーブを辿り、ほぼ15年ぶりで下津井到着となった。

まず目についたものをOM10で撮った。今回プリントしてみたらご披露申し上げた「ざま」である。

富士カメラ店の店主はびっくり仰天、コンピュター技術駆使してやっとこさ黄色を弱く出来た、と言っている。モノクロはそれなりに見られるが、カラーは全くダメと言わねばならない。フィルムはFUJIネガカラー100で625の数字が入っている。1958年はNEOPAN SSで、30年後にまたしてもFUJIにやられた。その後、めでたく8ミリ撮影をしているが、これもFUJI COLORである。映写機が壊れたから廃棄済みである。どなたかシングル8対応の映写機お持ちでしょうか、声掛け願います。

丸亀へのフェリーは大型の新造船で、これに合わせて丸亀港も移転していた。

姉は2011年暮れに神に召されたが、今も善通寺との往来は継続中である。

投稿に並行して準特急氏から頂戴した、ナローゲージ鉄道・下電の戦後五十年“イーグルよ翔べ”を読んでいた。鉄道部門撤退、バス事業後退の中、生き残りをかけての企業の姿が画かれている。都市圏で何とか生き残っている日本の鉄道だが、百年後はどうなっているのだろうか。エネルギー効率の良い電鉄だと言っても世の中の潮流に乗れなくなると見放されるは必須である。その時のあがきが本書には説き起こされているようだ。筆者は同志社大学法学部出身である。何年度入学なのか知りたい。

これが名物落書き電車

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掃かない車生だったメリーベル号

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富士フィルムは宣伝は上手、品質は一体どうなのか?

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べんけい号と名付けられていたが、どこを走ったのか不明

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西村君が紹介した他所で保存されたクハ6らしい

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廃線の井傘鉄道から入選したものらしい

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