【40115】60年前の宇治川の反乱

60年前1953年、中学3年であった。9月25日から10日間の出来事は今も覚えている。台風13号上陸、京都直撃の報に同志社は全校休校になった。何時のようにトースト・紅茶の朝食を摂った後、出雲路橋近くの生家から鴨川沿いに自転車を走らせ三条大橋に向った。京阪三条駅、電車の出入りウォッチングのためであった。ダイヤ改正で9月1日から7時代下り急行が4連化、9月25日奈良電乗り入れ列車の橿原神宮行急行を見るためであった。7時31分を少し廻った頃、近鉄車モ600+ク500の2連。到着後は川沿い降車ホームで折り返しまで一時の休息。宇治行普通、特急、急行、準急の後を追い7:51橿原急行は3番線から出発して行った。これが見たかったのである。この日はこれにて奈良電は不通となった。木津川鉄橋以南が強風域となったからであった。

この急行は戦後最初の式年遷宮が10月2日挙行されるに際し設定されたもので、大和八木で宇治山田行急行に連絡するが、この頃の急行は榛原通過であったので田舎へ行く便とはならなかった。何時も乗る京都駅発橿原急行は木造200系の運用であり、三条発橿原急行は格上のように思えた。この急行発車後、雲行きは怪しく風が強くなり急いで帰宅したが、ずぶ濡れになったのは言うまでもない。

昼前から風雨は一段と激しくなる。夕方自宅近くの鴨川出雲路橋の水量を見に行ったが、濁流はうねりを見せていた。翌26日朝、ラジオのニュースで宇治川南岸が観月橋下流で決壊した事を知り、奈良電が危ないと思った。それはこの時期、観月橋を渡ってからの車窓で見る稲穂満載の田圃はどうなっているのだろうか、との心配であった。27日朝刊は京阪本線でも異変があった事を報じていた。これらについては京阪電鉄50年史を転載する事にする。

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【40092】保存蒸機とその現役時代(14)

奈良県西部大阪府との県境に近いJR関西本線(大和路線)王寺には少し離れているが2台の蒸機が保存されている。ここは信貴山電車や台車の研究など最近メキメキ頭角をあらわしてきたどですかでんさんのお住まいの地と聞いている。

一つは王寺駅から大和川を渡った高台にある三郷小学校校庭に保存されているC57160である。大勢の学童がいる中を場違いの高齢者がトボトボ歩くのは恥ずかしい気がするが皆挨拶をしてくれるので余計に恥ずかしくなる。

2013.5.8 三郷小学校保存のC57160↓s-13.5.8C57160三郷小

説明板には主なと断って運転区間が紀勢線、和歌山線と地元を考慮しており、東海道本線も書かれている。交友社のSLNo3を見ると新製後宇都宮、千葉、新小岩と関東で活躍し晩年の1969年に和歌山に転属してその後紀伊田辺に移動しているようだ。東海道本線は走っていたのだろうか↓

s-13.5.8C57160説明 記事の続きを読む


【40087】能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2

能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2<img src="http://drfc-ob.com/wp/wp-content/uploads/2013/09/bfb406f440a9011eccf6c10cb7f4fcca-500×350.jpg" alt="能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2" width="500" height="350" class="ali能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2gnnone size-medium wp-image-40084″ />能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2能勢電鉄100周年記念塗装車/2013.09.26/Posted by 893-2


【40065】“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈4〉

山本覚馬邸

少し時代を遡るが、大河ドラマでも重要な舞台となっていた山本覚馬の邸宅について、市電がらみで探見してみたい。

覚馬は、言うまでもなく、同志社の創立時、襄の最大の協力者であり、同志社の名も彼の命名とされている(ただこれは、確かな史実はなく、伝聞に過ぎないようだ)。

明治3年、覚馬は京都府顧問となる。翌、明治4年、八重は京都へ来て、兄である覚馬の家に身を寄せる。京都府大参事であった槇村正直(のちの京都府知事)の邸宅近くに、覚馬は居を構えていた。

八重は、覚馬の家で暮らし、新島襄と結婚後も、寺町丸太町上ルの新居ができるまでは居候していた。ドラマでは、史実かどうか疑わしいが、覚馬の家に西郷隆盛も来訪している。

さて覚馬の邸宅だが、現在の河原町御池付近にあったと言われている。現在、東北角には京都ホテルオークラがあり、幕末にはここに長州藩の屋敷があった。当時の御池通の細い道を挟んで、南側には、加賀藩の前田屋敷があった。明治維新後は上地され官用地になっていた。京都府の重職に就こうとしていた覚馬に、府知事が与えた居宅と想像できる。

大河ドラマの後の“歴史紀行”でも、河原町御池付近にあったと紹介されていた。ただ、現在の河原町御池は、広い交差点であり、その場所を特定することは難しい。

河原町通は明治末期の市電敷設時、御池通は戦争中の強制疎開で、それぞれ拡幅されており、その前は、ごく狭い道幅だった。資料を調べると、河原町通は、通りの西側、御池通は、通りの南側を拡幅していることが分かった。そこからすると、現在の河原町御池交差点の南西角付近と類推される。

IMG_0001sy山本覚馬の居宅があった河原町御池を行く河原町線の市電。覚馬の居宅は画面右、交通指令塔の当たりになる。河原町線は昭和52年廃止、36年も前のことになる。

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【40044】老いて益々意気軒昂

【老いて益々意気軒昂】

日本の内燃動車湯口徹兄の新著「日本の内燃動車」が先日上梓された。これで何冊目なのだろうか?
発行者も古くはエリエイ社から始まり、今回は成山堂書店である。同書店は「陸海空の交通がよくわかるシリーズ・交通ブックス」を刊行しているが、その執筆者はその筋の玄人である。

今回、湯口兄は趣味者から「その筋の専門家」に認定されたことになる。
湯口徹それはそうだろう、
2005年大作「内燃動車発達史2006「戦後生まれの私鉄機械式気動車」に始まり、2008「日本の蒸気動車」2009「石油発動機関車」をネコ・パブリッシング社から上梓され、本全国に「湯口徹あり」と鉄道趣味界に銘記されるようになった。

彼は学生時代から気動車の研究家であった。私が気付いたのは京都鉄道趣味同好会会誌【急電】誌上で、高校2年の時であった。投稿内容からして彼は社会人だと思っていた。
1957年同志社進学の時、経済学部新入生として彼の名があり実は驚いたのである。当時、師事していた奥野利夫さんからも「湯口徹さんが君とおんなじとこへ入ったぞ」、と言われたのを今も覚えている。翌年5月、DRFC旗揚げに際し駆けつけてくれ、羽村兄から紹介され付き合いが始まった。

今回の著書を紐解いてみよう。彼ならではと思う箇所を幾つか探してみる。先ず1頁、第1章・黎明期のわが国内燃動車、「1内燃動車の定義」以下を熟読してみた。彼は若い頃から趣味者として追い求める内容を整理していたのである。趣味者は鉄道の一部分としての車両を対象とする事が多いが、その範囲を定義づけた上で調査活動に入る人は少ないようだ。
私が彼を知って、先ずこれに気付いた。一種の頑固者である。そして調査を始めると徹底的に追いかける。一次資料として鉄道事業者のものを入手するや、それを彼なりの観察記録に基づき裏づけを取っていく。その範囲を広げ、検証を
1点に絞ることなく多角的に展開して行くのである。交通博物館の倉庫に続き、国立公文書館での調査を今も続けているのはその証と言えるであろう。

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