八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Partr14 タクシマド(PG.Tasikumadu)製糖工場

第8日目 8月3日 その2 タクシマド製糖工場

ソロ市内線撮影後は、昨夜行ったタクシマド製糖工場へと再び向かいました。
10;25、Purwosari 駅から約40分で到着です。今日も雲一つなく晴れあがっています。夕暮れの『ギラリ』が期待できます。

01_ヤード1[googlemap lat=”-7.57809″ lng=”110.931893″ align=”left” width=”300px” height=”200px” zoom=”17″ type=”G_SATELLITE_MAP”]Tasikmadu, Karanganyar, Jawa Tengah 57721 インドネシア[/googlemap]▲ 左側後方に見えるのは積替え場のクレーンです。ここでトラックからローリーへと積替えて、右側の工場ヤードへと牽引します。
タクシマド製糖工場では、積替えと工場へのヤードが平行して隣り合わせになっていますので、満載ローリー編成を一旦ヤード外に出してからスイッチバックで押し込みます。
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“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈2〉

その後の女紅場

女性への教育・教養の場として、明治5年、京都・河原町丸太町東入るに設けられ女紅場で、八重は女子教育に携わるが、キリスト教徒の新島襄と婚約したことにより、明治8年に女紅場を解雇されてしまう(次回の大河でこのシーンが紹介されるようだ)。

女紅場は何回かの改称ののち、明治28年に、京都府立第一高等女学校となり、明治33年には、寺町通荒神口下ルの新学舎に移転する。新島旧邸からは200メートルほど北になる。学舎は新築されたが、門は女紅場のから移築された。戦後の学制改革により、昭和23年には京都府立鴨沂高校となる。

121119_080のコピー現在の鴨沂高校。九条家屋敷の門が、女紅場でも使われ、現在も同高校の正門として寺町通に面して建つ。門は、三代に渡る百数十年の歴史がある。背後は、最近、取り壊しで話題になっている、昭和初期建築の校舎。和風の千鳥破風の屋根が特徴。

京都市電とのこじつけ、となると、鴨沂高校の前の寺町通には、京都電気鉄道の出町線が走っていた。寺町丸太町~出町間が、明治34年に開業するが、平行して市営河原町線が敷設されることになり、大正13年に廃止される。

営業期間が、23年間だっただけに、残された写真は少ない。知られているのは寺町今出川下ルで撮影と言われている、右書きで「でまちばしゆき」と行き先が掲げられた写真、それに、京his2_20_01極小学校の門前を行く写真、これぐらいしかなかったと思っていた。ところが、ネットで検索していると、上京区役所のホームページで右のような写真を見つけた。たいへん粗い画像で、出典も不明だが、「寺町通荒神口付近を行く電車」とあり、左側の土手は、ちょうど現在の鴨沂高校前付近と同じだ。

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保存車両とその現役時代(協賛編)その4

岡山臨港鉄道をもう1両ご紹介します。先のDL102号機から歩いて5分ほどのところにキハ7003がきれいな状態で保存、かつ利用されています。岡山市南区千鳥町7-7 ちどり保育園の園庭にあります。

キハ7003 平成25年9月9日 ちどり保育園にて

キハ7003 平成25年9月9日 ちどり保育園にて

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八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part13 ソロ(Solo)市内線

第8日目 8月3日 その1 ソロ市内線

08_住民の皆さん6▲ 我々がチャーターした列車がSoloKota 駅に到着すると、付近の住民の皆さんが一斉に集まってこられます。子供たちにとっては、絶好の動く遊び場です。列車は、たちまち子供たちに占領されてしまいました。

今日は午前中、ソロ市内を走るチャーター列車撮影、その後は再びタクシマド製糖工場へと向かいます。
01_地図3ソロ市内線は、本線の、Purwosari から分岐して、約33キロ南にあるWonogiri(ウォノギリ)へと向かう支線です。

Purwosari 駅を発車すると、右へ大きくカーブして本線から離れていきます。
そして市内のメインロードを横切り、道路端を行く併用軌道です。
約5キロを自動車やバイク等と一緒に走ります。

少し行きますと、SoloKota 駅へと進入します。
昨年はここから河を超える鉄橋の向こうまで行きましたが、今年はこの支線自体が運休しており、SoloKota 駅までとのことです。

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三岐鉄道その後で

先日【しまかぜ】次の日Part2で三岐鉄道を紹介しましたが、そのコメントに三岐鉄道の貨物鉄道博物館の南野様から書き込みを頂きました。

ご案内によると10/6にイベントがあり、先日修理されていたワフ21000の内部も公開されるようです。さらに三岐線でもイベント列車が運転されるようで詳細はHP http://frm.kans.jp/ をご覧くださいとありました。私は残念ながら自治会の文化祭があり(今年は役員をしています)行けませんが興味のある方はぜひ訪問してあげてください。今回に限らず記事にも書きましたが次回は晴れたジャガイモの花の咲くときに訪れたいものです。博物館の横の道からは鉄橋を渡る列車も撮れます、写真は故S氏の車で連れってもらった時のものです(2008.12.12)午後で逆光ですが、もう少し近づけば電柱等も避けられるかなと思います。三岐旧

保存車両とその現役時代(協賛編)その3

国鉄蒸機だけでは息切れしますので、私鉄に手を伸ばしました。今回は岡山臨港鉄道のディーゼル機関車102号機です。終戦間近の昭和19年に軍需工場の専用線として11月に着工したものの、終戦を迎え結局昭和22年2月に汽車会社の専用線として開通したのが岡山臨港鉄道のルーツです。昭和59年12月30日に廃止されました。廃止時点で5両のディーゼル機関車が在籍、江若から来たDD1352もその中の1両です。その5両のうち102号機が現在も良好な状態で保存されています。場所は岡山市南区海岸通2丁目の岡山臨港倉庫運輸の玄関先です。同社は車庫のあった南岡山で現在も盛業中の岡山臨港鉄道の後継会社です。

102号機 平成25年9月9日 岡山市南区にて

102号機 平成25年9月9日 岡山市南区にて

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保存車両とその現役時代(協賛編)その2

今回は皆様おなじみのC575です。姫路市御立(みたち)交通公園に保存されています。姫路城の北西約4Km 夢前川畔にあり、子供たちが自転車などで走るコースになっていて 交差点や立体交差がある自動車教習所のミニ版のような公園でした。その公園の片隅にあるのですが、なぜか周辺の大木がすべて伐採されていて、撮影にはもってこいでしたが、公園の光景としては異様でした。

C575 平成25年9月7日 姫路市御立交通公園にて

C575 平成25年9月7日 姫路市御立交通公園にて

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保存車両とその現役時代(協賛編)その1

準特急殿の「保存蒸機とその現役時代」を毎回楽しく拝見している一人です。保存の様子とその現役時代の両方を自ら撮影した車両は蒸機に限らず思いのほか無いもので、準特急殿の情報量に圧倒されております。今回クルマで京都まで走る機会があり、高速道路を走り続ける単調さがイヤなので、沿線の保存車両を調べておいて 立ち寄りながら往復しました。その結果 私にも準特急殿のマネができるネタができましたので ご紹介したいと思います。なお蒸機と限定してしまうと苦しいので あえて「保存車両」としました。まずはC11200です。場所は兵庫県たつの市中川原公園です。山陽道龍野インターを降りてすぐの便利な場所です。屋根の無い状態ながら非常に良い保存状態でした。C11200-3

C11200-1

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八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part13 タクシマド(PG.Tasikumadu)製糖工場

第7日目 8月2日 その4 タクシマド製糖工場

01_地図17時過ぎにタクシマド製糖工場へと向かいます。途中の通り道は、眼下に町が見渡せる山岳を行くスカイラインに決まりましたが、買い物に出かけたアリフさんが中々戻ってきません。陽が沈んでしまう夕闇前には行きたいのですが・・・・。
ようやく戻ってきましたが、体調のすぐれない方のためにと忘れずにと頼んだ、ポカリスエットを買い忘れる始末にリーダーのO氏もしっかりしてくれと呆れ顔です。

O氏は何度もこの地を訪れておられた先輩から 『 インドネシアには、ゴム時間がある。気を付けるように。』と、教えられたそうですが、次の行動のための時間を考えていません。肝心な事が抜けてしまうのは本人の性格だと思いますが、時間の管理ができないのは、トラベルエージェントとしては問題です。

製造管理の総責任者でもあったリーダーのO氏は、その都度に厳格な時間管理を要求されます。我々同行者にとっては頼もしい限りで、これまでの行動にはその度にチェックを入れられて、アリフさんのミスを未然に防ぎ、救われました。経緯がどうであろうとも常に結果のみを追い求められる営業畑を歩いてきた私にとっては、経緯の時間の大切さも改めて知る機会でもありました。ただ顧客に接した時の集中力だけは磨きぬきましたので、鉄道写真撮影の際には大いに役立ちました。唯一誇れる社会生活での収穫だったのかも・・・。

チャーター車は夕暮れの中を走り出しました。タクシマド製糖工場へは2,000m超の山が立ちふさぎます。気温もぐんぐん冷えてきて車の窓をオープンにしていられません。急坂の続く曲がりくねったスカイウェーを登り切った所で降りました。標高は約1900mです。眼下に遠くの町の明かりを見ましたが、100万ドルの夜景には程遠く、これはジャワ島中央ですから仕方がないですね。
その代り、夜空に輝く星は素晴らしく、よく見えました。

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広電 650型の話題

華やかな超低床車が続々投入される一方、旧型車が徐々に姿を消してゆく新旧交代は自然な流れです。ただ広電には「被爆電車」という特別な存在があり 650型は現在では数少ない被爆電車、歴史の生き証人として 大切に扱われている電車です。昭和17年木南車輛製の半鋼車で651から655の5両がいましたが、3両は廃車となり 現在では651,652の2両が71歳ながら現役で活躍しています。653は千田車庫内に留置、654は広島市交通科学館に保存、655の最期は存じません。654について中国新聞に記事が載ったので ご紹介します。平成25年9月8日朝刊です。

平成25年9月8日 中国新聞朝刊 

平成25年9月8日 中国新聞朝刊 

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八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part12 パゴッタン(PG.Pagottan)製糖工場 訂正と追加

第7日目 8月2日 その4 パゴッタン(PG.Pagottan)製糖工場 ※追加

Part12で投稿させていただきましたパゴッタン製糖工場のE型無火機関車につきまして、 「7号車の動輪部分です。ロッドは4軸のみに連結されていますが、5軸目は内部の歯車で伝達されています。」 と掲載しました。
しかしながら団長様より、『 ロッドがかかっているのは中央3軸だけではないでしょうか? 』とのご指摘のコメントを受けました。
確認しますと確かにご指摘のとおりです。メカについてよく分かっておらず、間違いがありましたこと申し訳なく、失礼をしました。ここに訂正させていただきます。

10_ロッド▲ 7号車の動輪部分です。ロッドにかかっているのは確かに中央3軸だけで、前後の2軸は内部で歯車によって伝達されています。小さな身体で重いローリーを牽引する製糖工場の機関車です。動輪は多くなります。そして急カーブの多い路線を走りますので、曲がりやすくするために、このような複雑な機能を持っているそうです。

間違いは、もう1つありました。
「 8号機を横から見たカットです。帰国後にTJさんからお聞きしましたが、この機関車たちはすべて無火機関車に改造されています。・・・・・・」と掲載しましたが、O氏より 『 ファイアレス(無火機関車)を指摘したのは、TJさんでなく、小生の先輩のKC氏です。彼は、小型ロコのマニアで昭和30年代に北海道の甜菜糖工場南大東島のさとうきび工場にも行っておられます。
JAWAには30年以上も前から20回以上行かれています。その彼から、ファイアレスだよと指摘されたのです。それを、今回の参加者に伝えたのです。・・・・』 とのメールが参りました。又聞きだったようで、KC様TJ様にも失礼いたしました。申し訳ございません。訂正させていただきます。

O氏からは、2009年に訪問された時に撮られた、まだ蒸気機関車だった頃の写真を送っていただいております。掲載了解もいただいておりますので、ご覧ください。

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八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part11 パゴッタン(PG.Pagottan)製糖工場

第7日目 8月2日 その3 パゴッタン(PG.Pagottan)製糖工場

01_カニゴロ→パゴッタン_地図01_パゴッタン製糖工場_地図[googlemap lat=”-7.704421139480215″ lng=”111.53778433799744″ align=”left” width=”300px” height=”250px” zoom=”17″ type=”G_SATELLITE_MAP”]インドネシア[/googlemap]
▲ カニゴロ製糖工場撮影後は、近くにあるパゴッタン製糖工場へと向かいました。
16:25、約15分で到着しました。

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【しまかぜ】次の日 Part2

先の稿では、四日市に戻って来たところでしたがここでは桑名まで移動し、三岐鉄道に乗車した内容になります。西桑名から阿下喜まで行き、長老の情報では阿下喜から三岐線までは連絡バスがあるとのことで、帰りは近鉄富田まで一周してこよう、ということになりました。

西桑名①

「一日乗り放題パス」(1000円)を求め、10:35発楚原行きに乗ります、先頭車は非冷房でしたが「かぶりつき」です。西桑名②

楚原の駅からは約20分程度で「めがね橋」に着きます。ただ残念なことに木々がおおい茂り三つ眼は一つ眼になっていました。ただ一面のジャガイモ畑があり花の咲く時期を期待します。そろそろお腹も空いてきたのですが回りにはなにもなく長老が自販機で売っていた!というポッキーをいただきました。楚原からは12:51発で阿下喜に向かいます。保存車を眺めた後駅前のうどん・そば屋さんに入りました。阿下喜

実はF氏が駅のチラシで見た「一日乗り放題パス持参の方、みたらし無料!」に釣られて入ったのですが「おたくらどこから来やはったん?」「この前来た人写真おいていかはった」と会話がはずみ、お姉さま方との記念撮影も実現しました。食事後は「いなべ市」の無料バス(BONGOタイプ)で伊勢治田まで移動です、当市は自動車関係の企業が多くあり色々と恵まれているようです。

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“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈1〉

準特急さんからバトンを受けて、“八重の桜”京都編に入ります。大河ドラマ“八重の桜”も京都編が始まり、同志社人として、京都人として、目が離せません。

いまも関連する史跡が残っているのが、京都らしいところです。と言っても、単なる史跡訪問では、デジ青のテーマから外れてしまいます。

そこで、関連史跡が、かつての京都市電沿いにあることに着目し、無理やり京都市電とこじつけて、“八重の桜”ゆかりの史跡めぐりとしました。

女紅場跡

準特急さんも書かれているが、八重が京都で初めて仕事をしたのが「女紅場」だ。

その跡地は、現住所で言うと、京都市上京区河原町丸太町東入る駒之町にあり、この駒之町は、まさに私の生まれ育った町であり、小さい時から、それを示した石碑は日常風景の中にあった。

img_987044_30650573_3会津戦争を生き抜いた山本八重は、明治4年、兄・山本覚馬を頼って京都へ来て、女紅場で教官として働き始める。

女紅場とは、女子に英語や手芸を教える場であり、日本最初の高等女学校である。現在の鴨川に架かる丸太町橋の西畔に「女紅場址 本邦高等女学校之濫觴」の石碑が建っている。

もともと、この付近、御所に近いところから、幕末には、鴨川に沿って、九条、鷹司、近衛、有栖川と、公家の屋敷が連なっていた。女紅場は、東京遷都で空き家になった九条家の屋敷を利用して開設され、女紅場の門も、九条家の門がそのまま流用されたと言う。

丸太町橋のたもとに建つ「女紅場址」碑

IMG_0007sy女紅場跡の前を行く京都市電丸太町線、電車の右の架線柱の下に石碑があ。背後の建物は、もとの京都上電話局で、大正13年の建築。登録有形文化財に指定されている。電話事業を昭和30年代に終えてからは、通信技術資料館、電々公社の厚生施設となり、NTTになってからは、シーフードレストラン、スポーツクラブとなり、現在は地場のスーパーマーケットとなっている。時折、“文化財のスーパーマーケット”として、テレビでも紹介されている。

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八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part10 カニゴロ(PG KANIGORO)製糖工場

第7日目 8月2日 その2 カニゴロ(PG KANIGORO)製糖工場

01_カニゴロへの地図

02_昼食飲茶1チェプー森林鉄道訪問後は南へと向かいました。
午後からは、カニゴロ製糖工場、次にパゴタン(PG.Pagottan)製糖工場を訪問してタクシマド製糖工場にて夜撮となります。

14:00、途中、お腹が減ってきましたので中華料理屋を探してもらって入りましたが、何とインドネシアでは珍しく、飲茶があります。
これは感激です。

お給仕していただいたのは、インドネシア美女のお二人。
いっそう美味しく、いろいろと注文して、たらふく食しました。

15:07、昼食後は、チェプーから約80キロにあるカニゴロ製糖工場に着きました。

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【しまかぜ】次の日

しまかぜ乗車はその豪華さ、乗り心地の良さに感動し素晴らしい体験ができました。世話役の皆様お疲れ様でした、本当にありがとうございました。さて【しまかぜ】次の日ですが、長老を筆頭にシルバー世代4名(長老、I氏、F氏、W)の乗車・撮影会となり、せっかく伊勢まで来たので「ナロー」に乗ろうということで近鉄内部・八王子線と三岐鉄道を選びました。朝8時にホテルを出発し近鉄四日市から出発です。四日市乗車

四日市8:25発で西日野に向かいます。西日野ではすぐに折り返し日永で撮影します。

日永①

この線の車両はカラフルで一両毎に色が違うかなと思えます。この後日永8:54の四日市行きを写していましたがちょうど幼稚園の通園時間らしく先生を先頭に「カルガモ」の親子が電車の前を横切って行く姿が撮影できましたが、私は手ブレでピンボケとなってしまいました。※幼稚園児でありWeb上で公開するのはこの理由も含めて遠慮します。この日は朝から雨で傘をさして電車(262)の前を横切る姿は本当に可愛かったです。ここでATSの車上子と地上子をみてください。地上子は線路の外側にあります。日永②

この後は内部まで乗車し、近鉄のオリジナル車(I氏間違ってたら修正願います)を写して四日市へと戻りました。四日市からは近鉄5200で桑名に向かいます。しまかぜ当日も松阪から四日市までは5200でしたが名古屋線は5200が多いですね、今年の3月から大阪線でも多くなったように思います、全部で何編成なのか要確認です。ちなみに松阪から乗った急行の中で「車内検察」がありました。ICカードをどうするのか?と思っていましたが端末にかざすと乗車駅等が判るようです。IT技術は大したものですね。内部・八王子線はどんな目的で建設されたのかという話も出ていましたがナローでよく残っていると思います。近鉄も伊賀線や養老線は手放しましたがこの線はよく残していると思います。さて、この後の三岐は別稿とさせてください。

山陰線・山口線の復旧について

「しまかぜ」イベントは大盛況だったようで何よりです。今後一層現役生との交流が活発になることを期待します。ところで 毎度の新聞切り抜きで失礼します。平成25年9月7日の中国新聞朝刊からです。

平成25年9月7日 中国新聞朝刊

平成25年9月7日 中国新聞朝刊

両線あわせて150ケ所にのぼる被害からの復旧は容易ではないでしょうから 年内復旧を目標というのは無理からぬことでしょう。SLやまぐち号の部分運行はこれから検討のようですが、仮に新山口-地福間の運転としても、津和野以外にはターンテーブルはなかったと思いますから、片道はバック運転となります。しかしながら当節 連結解放、機回しはもとより長距離のバック運転なぞするはずはなく、後部にDD51をつないだプッシュプル運転での復活となることが予想されます。ともあれSL山口号はあとまわしにしても 生活路線としての1日でも早い復旧が望まれます。なお三江線のことに言及されていないのは気になるところです。

写真展「鉄路輝く」 公開中!

クローバー会が過去に行いました第1回から第4回までの写真展の全作品が、ホームページ上にアップされています。

トップページ「クローバー会」「リンク」「クローバー会写真展鉄路輝く」で見ることが出来ます。Tsurukameさんの寝食を忘れた作業のお蔭で、このたび、すべての写真をアップできました。ぜひご覧になって、写真展の感動に浸っていただければと思います。

こうしてみますと“壮観”の一語です。よくぞ、これだけ撮ったものと感心します。

われわれが“しまかぜ”で楽しんでいる間にも、作業を進めていただいたTsurukameさんには、改めて御礼を申し上げる次第です。

103_0492P1020156写真展の感動をぜひホームページで。 2006年第1回(上)と2009年第2回写真展

マルーンさん乗車の「伊勢志摩ライナー」

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大阪難波行き「伊勢志摩ライナー」、6編成すべてが、18年ぶりのリニーアルを行い、うち3編成は、写真の“赤”塗装になった。

“しまかぜ”関連の話題をもうひとつ。

私のところに来たメールによると、かのマルーンさんは、伊勢神宮に参られたあと、宇治山田15時41分の「伊勢志摩ライナー」に乗って帰還されたと言います。列車が宮川鉄橋を渡るとき、撮影する鉄道同好会の一群を発見、手を振って、エールを送ったとのコメントがありました。

これがその、マルーンさんの乗られた「伊勢志摩ライナー」です。残念ながら、仔細に見ても、手を振るお顔は認めることができませんが、撮影の一群は、現役、OBともども、鉄道写真の話題で盛り上がりながら、楽しく撮影を終えました。

なお、宮川鉄橋は、小俣駅下車、徒歩5分で到着できます。午後は、バリ順となり、手すりが多少目障りですが、背景もよい撮影好適地です。