長万部駅では乗り換え時間が2時間近くあります。撮るような列車もない時は、街歩きに限りますが、外を見渡してもシャッター通りが続くばかりで、期待した成果も見込まれないようなので、駅にある、みやげ販売を兼ねた観光案内所で聞き込みをします。ここで、思いもしなかった情報が入りました。つぎのダイヤ改正で、長万部町にある7つの駅のうち、北豊津、蕨岱の2駅が廃止になるということでした。聞いたときは衝撃が走りましたが、先週発表されたJR北海道の2017年3月14日のダイヤ改正のプレスリリースで、「ご利用の少ない駅を廃止します」と明示されており、今となってはスクープでも何でもありませんが、過去に撮影もしたことのある2つの駅が廃止になるのは、驚きのニュースでした。
▲大沼~森の前後にある、東山・姫川・桂川も廃止される。写真は、車内から見た姫川駅
月別アーカイブ: 2016年12月
糸崎以東に山陽鉄道の痕跡を探して
先に79394、79421で「糸崎に山陽鉄道の痕跡を探して」と題して 臨港線跡に残るレンガ積み橋台を中心に120年前の遺構をご紹介しました。引き続き 非常にローカルなレポートで恐縮ですが、糸崎から東に向かって尾道方面の山陽鉄道の遺構と思われるレンガ積み橋台を見て歩いた結果と そこから見えてきたこの区間の歴史に思いをはせてみました。なお大半が海岸近くですので橋台の観察は干潮時を狙わないと見れません。この日は天気の良い干潮時間帯でした。糸崎(いとざき)を出発した上り列車は山裾を左にカーブしながら糸碕(いとさき)神社の裏を抜けて海岸に出ます。この日私は糸碕神社に参拝したあと 神社の裏手にある短い糸崎川橋梁から観察を始めました。
広島のクリスマス電車
12月16日から18日の3日間 広電白島線「縮景園前」電停前で「ひろしまドイツクリスマスマ-ケット2016inア-バンビュ-グランドタワ-」が開催されました。
その白島線でトランジュール768号が14時から3回運行、クリスマス電車238号が18時から3回運行されました。
広電白島線「縮景園前」電停で乗車し「白島」で折り返し「八町堀」行きとなりそこで折り返し「縮景園前」で下車という行程のようです。768号は有料、238号は無料 いずれも当日予約の方のみの乗車のようでした。(2016年12月16日撮影)
↓ クリスマーケット前のツリーを横目に「八町堀」へ向かう768号「TRAIN ROUGE」です。
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秋の北海道 鉄道ひとり旅 【5】
東海道の電車を楽しむ-その4-
旅の思い出を投稿した後で体調不良(寒波襲来)となり、テレビの番人となっていた。タトラはソ連が広大な地域を支配していた時の産物で、日本が敗戦後各地にばら撒いた規格型(間に合わせ品)とは異なる。メーターゲージ採用都市も多く、そのため別設計による2軸車の量産も活発であった。タトラはPCCの特許を使ったせいか静かで、乗り心地良いのが印象に残っている。話しを日本に戻すとその3では宿場15番目が蒲原(かんばら)宿だと紹介するのを忘れていた。東海道線開通時、蒲原宿を囲むように14宿(吉原)に16宿(由比)があり、駅の建設では設置位置でいざこざがあったようだ。そして興津17宿(おきつ)、江尻18宿(えじり)に続いで府中19宿で(静岡)となる。府中の静岡への改名は明治維新によるものであった。
環状線の真田丸
上田の「真田丸」号
3月4日 JRダイヤ改正
相も変わらずローカルな話題で恐縮ですが、JRの春のダイヤ改正は全国一斉に3月4日なのでしょうか?広島地区の目玉が新聞報道されましたのでご紹介します。
読者の方々へ(4)、山陽電鉄2000型
63型車輌20両の投入(1947年)で戦後の車輌不足を凌いだ山陽電鉄はその後、820、850型18両のロマンスカーを登場させ(1948年から)戦後復興をようやく果たした(以上既説)。
その矢先、1951年9月西代車庫の火災で14両もの車輌を焼失したが、小型車の車体新造による250型を誕生(既説)させるなど、再復興と車体の大型化に対応して来ました。
曲がりなりにも安定して来た1955(昭和30)年頃、神戸高速鉄道の構想が生まれ、ほぼ同時期にWN駆動の軽量高性能車2000系が登場しました。
第一次2000型2両、MM2両編成、車体長18m、ロングシートとして誕生。1960年に中間車2508を加え3連化、2001にもパンタがついた。3両共にまだ2扉の時代です。
▼2000+2508+2001 上り特急 須磨浦公園-塩屋 1965.1.31 C0808
海岸べり(右手)の国道2号線はまだ車が少ない時代です。
▼2001+2508+2000 下り特急 大蔵谷-西舞子 1965.1.31 C0811
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パソコン更新
これまで写真の投稿が出来なかったのですが、パソコンを更新し先日投稿できることを確認しました。パソコン不通の間、載せたい写真もありましたので時期遅れとはなりますがまずは富山旅行の前後です。富山へ行くなら「富山ライトレール」と思いINUBUSE氏の案内で北アルプスの見える岩瀬浜まで行きました。観光写真でよく見かけるものですが、この日は幸運にも立山(雄山)や剱岳が見渡せました。手前にマーメイドの後ろ姿もあります6/3です。黒部の後は、万葉線ということで「ドラえもんトラム」です。小さな子供が降車する時は運転手が人形をかざして挨拶してくれます。なかなか人気のようです。
可部線延伸 許認可手続き終了
中国運輸局もデジ青の沿線レポートを見てくれたのかもしれませんが、可部線延伸区間の諸設備が基準を満たしていると合格書をJR西に交付したそうです。これで23日から試運転が始められます。
糸崎に山陽鉄道の痕跡を探して(2)
岡山県下の鉄道遺産については小西伸彦氏著「鉄道遺産を歩く 岡山の国有鉄道」という名著があり、山陽本線をはじめ津山線、宇野線、吉備線などのトンネル、橋梁、駅などの詳細な調査結果が解説されています。レンガに関しても詳しい説明があって、多くのヒントを得ています。まず松濱臨港線で発見して驚いた弧状レンガのことですが、時代の最先端であった鉄道建設には、意欲に満ちた技術者が橋台のような目立たない部分の外観や意匠にも意を払い デザイン重視で弧状レンガを使ったそうです。弧状レンガは通常レンガと違って特注品であり、当然高価なレンガでした。しかし時代が進み、路線の延伸が進むにつれて意匠よりコストが優先されて弧状レンガは使われなくなり、やがてレンガから石材に移行し 次に石材からコンクリートへと進化してゆきます。そんな技術的な流れから考えて 松濱臨港線で最も古い橋台をA1の弧状レンガだと推定しました。しかし弧状レンガが使われたのはA1の1ヶ所だけです。そこで明治30年測図の地図と考えあわせて導いたのが次の図です。
糸崎に山陽鉄道の痕跡を探して(1)
山陽鉄道が神戸から西進し、糸崎まで開通したのが1892年(明治25年)7月20日でした。もう124年も前のことになります。糸崎から広島へ伸びたのが2年後の明治27年6月10日ですから、糸崎は短期間ながら山陽鉄道の終着駅だったわけです。なぜ急にこんな古い話を取り上げるかと言いますと、私は三原市の市民学芸員活動もしていまして、三原市の近代化遺産なるものを調査していて 山陽鉄道のことを調べることになったわけです。手元に大日本帝國陸地測量部 明治30年測図の1/20000「松濱」という地図があります。山陽鉄道開業から5年後のものです。「糸」の字も「絲」が使われています。当時は貢郡東野村で瀬戸内海を往き来する船が立ち寄る松濱港を中心とした港町でした。
可部線延伸区間を歩く
来年春に可部・あき亀山間1.6Kmが延伸開業予定で、今月23日からは試運転も始まることになっています。可部・三段峡間が廃止されたのは13年前の2003年(平成15年)12月1日。一旦廃止された区間が一部とは言え再び開業するのはJRになってから初めてということで話題になっています。今回延伸される区間は廃止後そのままの姿で残されていましたので、様子を見に平成23年の夏に廃線跡の一部を歩いたことがありました。それから5年が経ち、再起も近いということで再び訪ねてみました。廃線跡歩きは各地で何度も経験していますが、開業前歩きは初めてです。なお廃線跡歩きは通常路盤内を歩くことが多いのですが、今回はもちろん線路内ではなく 線路につかず離れずの道路歩きです。
まずは可部駅の風景の比較から。
三次のハチロク
以前にも紹介したかもしれませんが、三次に保存されている48650についての記事が載りましたので、ご紹介します。
旧福知山線廃線跡一般開放
1986年福知山線の複線電化に伴い、生瀬―道場間4.7kmが付け替えられ廃線となり、廃線後は立ち入りが禁止されているものの、近年は年間64000人が訪れる人気のハイキングコースとなっています。2000年に宝塚側の武田尾から南の宝塚市側1.5kmが整備されましたが、西宮市側はそのまま放置されていたものをこのたび西宮市とJR西が合意して安全対策工事を行って整備、一般公開にこぎつけました。
旧福知山線廃線跡については今年1月tsurukame様の詳細にわたるレポート(撮影地今昔旧福知山線生瀬-道場間1)~6)「撮影地今昔」で検索ください。)がデジ青に投稿されていましたので、整備後の様子を簡単にご報告させていただきます。
↑ 生瀬駅から国道176号線を西に進み、中国道の高架が交わるあたりが今回整備された部分のスタート地点です。
読者の方々へ(3)、山陽電鉄820型
今回の山陽電鉄紹介は、820、850型です。
大戦後日本の多くの両鉄道同様、山陽電鉄でも稼動車が限られ、日々の運行さえままならぬ状況が続きました。これを補い、その後の山陽電鉄を文字通り軌道に乗せ始めたのは、広軌モハ63型20両(山陽では800型、後の700型)と、そして今回紹介の820型18両です。
大型過ぎて中小私鉄で少し持て余し気味の63型に比べ、もう少し小型で使いやすい標準車体をとの意向で生まれたのがこの820型です。車体長17m、転換クロスシート、2両固定編成のロマンスカーによる特急運転として、1949(昭和24)年に登場しました。クリームイエローとネイビーブルーのツートンカラーでした。
1951(昭和26)年頃、東須磨小学校の教室から見える車輌は、前回までに紹介した100・1000型と200型の茶褐色一色の車輌に交じって、この820型でした。近づいてくる様子はそれほどのスピードでもなく、線路事情が良くないのか、車体を左右に振りながら、大きな音と共に通過して行きました。
▼長田、神戸市電との平面交差点を通過する下り各停 822+823 1963.1.3 C0216
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三江線、可部線小ネタ
三江線は平成30年春の廃止へ向けて、可部線は来春の延伸に向けてそれぞれ歩を進めているようです。まずは三江線2題から。
私鉄の御料車
関センセの名古屋鉄道御料車が出たが、蒸気動力私鉄でも、天皇行幸の際御料車を作った例が幾つかあり、京阪16号など関西大手電鉄のものは照会済である。今回はひとつ、芸備鉄道のトク1をご披露申し上げる。
これは元来が南満州鉄道での一般客車(1904年新橋工場製)だったが、標準軌間改軌で日本に戻り、芸備鉄道が1914年1月9日購入認可を得た。1915年4月19日認可で車体のみ梅鉢工場で新製し、特別車としたのである。上の組立図は改造時点の姿で、こんな短い車輌にランプが5個(内1個は便所用)もある。下の竣功図は1918年6月6日設計変更認可=電燈化、さらに1924年8月30日設計変更認可により、自連換装の姿である。扉が外開きである。
芸備に限らず、かような車輌は一度使った後の始末にはホトホト困るもので、そう簡単に一般に格下げ、或いは廃車にしにくい。使うアテもないのについつい残存する、というのがこれまた一般的である。小生は別段かような貴賓客車の類に興味を持つわけでなく(どちらかというと、全く庶民用通常客車―例えばホハ12000とか、ナハ12500とか)の方が好きなのだが、偶々図があるので、お目にかける、というだけである。なおお召列車を詳述した本も複数あるが、大抵は国鉄の御料車や供奉車しか資料がないから、かような私鉄車までは筆が及んでい居ないのも通常である。両備鉄道(762mm軌間)が日車で製造した木製ボギー御料車は以前に紹介している。