【82514】伊那電気鉄道サハユニフ

関センセお書きの伊那電気鉄道サロハユニフだが、この電鉄は元来軌道でスタートし、辰野-伊那町間、伊那電車軌道と称していた。一方伊那町以南は鉄道で1913年以降に開業し、軌道区間も1923年鉄道に変更。社名は1919年に伊那電気鉄道に改称している。

2等は1937年に廃止していてサロハユニフの図はないが、その後のサハユニフをご覧に供する。監督局技術課件名簿には次のようにある。1924年3月10日設計認可、1925年9月4日自連取付認可、1926年4月23日空気制動機取付認可、1932年9月7日郵。便室入口引戸改造認可、1937年9月1日郵便積載量増加認可。中央扉右の仕切が、旧2、3等仕切であろう。なおサロハユニフ→サハユニフは100~102、最初から2等がないサハフ312→サハユニフ110もあった。

 


【82316】北海道寒中見聞録-2号車

今回は大沼から「ニセコ」に乗って倶知安に至るまでです。少し短いのですが冬なので乗客が少なく短編成になっています。

コメントに西村氏は変わらんけど、他の2人は経年劣化というか、補修を受けてか要するに前の形式が分からんようになっているやないけ、と先輩から頂きました。確かにそうかもしれません。車齢もこのくらいになると原型を留めることは難しいですからね。ま、とにかく2号車に乗車いただきありがとうございました。発車します。写真をみて3人(否2人)は今でもこんなにイケメンとは思わないでいただきたい。発車前のご注意です)。書いている内容はうそではありませんが相変わらずオリジナル文章を時代に合わせ個人に合わせ適当に追加しています。北海道でも股覗きもしたことにいたしましょう。

函館から大沼公園へ

16:05に十和田丸は無事函館港に到着しました。宿泊予定は大沼であるから一刻も早く大沼公園に着きたいところでありますが17:20発の急行「せたな」まで列車がない。連絡船では16:30に急行「すずらん4号」に連絡いたします、とか放送していたはずであるが、実際には季節列車で運転されておりません。冬の北海道にはこの手の列車が多く、中には定期列車が運休するのや、時刻変更などで結構ややこしい。17:20ということは発車まで1時間ほどあるので待合室に荷物を置いて駅前をぶらつくことになりました。ところが風が冷たく手が千切れそうで市電を数枚撮っただけで這う這うの体で退散と相成ったのであります。先が思いやられる。

これ、寒そうではありませんが実際は凄く寒かったのです。時間は16:45です。撮影を諦めて駅に戻るときのようです。

  • の準備もしていなかったので単に撮っただけ。今にして思えば撮りまくるべき題材なのであるが、ついでに駅を降りたのでということで、これはこれで由としたいと思います。

 

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【82470】関三平先生から皆様へお知らせ

関先生からお手紙を頂いたことは前稿に書きましたが、同封でお知らせが入っておりました。
二百二十回を越える「昭和の電車」、101回から200回までを二冊目の単行本として近日上梓される予定だそうです。発売日は決まっていないようですが決まればご連絡があると思いますのでお楽しみにお待ち下さい。

もう一つ、3月25日(土)ですが、午前9:15から9:30までNHK BSプレミアムで「カメラアイ・迷いの時間」として関先生の製作風景が放送されます。本業の迷路だけではなく鉄道も取り上げてもらえるようで、P6のアルバムなどご披露されたそうです。ぜひご覧下さい。

また、昨年の南方での会合は大変楽しかったとの事で、また機会を作りたいと思っておりますのでその節はご参加下さい。


【82464】関先生、ごめんなさい!伊那電鉄サロハユニフ100型

関先生から久しぶりにお便りを頂きましたが、なんと!今年最初の記事を掲載し忘れているぞ!とのお叱りでした。そんなことない、と確認したところ、確かにスキャンしたまでは確かなのですが掲載を忘れていたようです。遅ればせながら投稿いたします。お許しを!

こんな車両が実際にあったのですね。大阪通信員さんの往年の傑作模型・ケコキハを思い出しました。


【82358】2016年 西方見聞録 Part37 ウイーン市内から空港へ、帰国

第18・19日目 10月5・6日

フィンランドのヘルシンキ、スイスのチューリッヒとゴッタルゴ峠周辺、ウクライナの西ウクライナ地方、オーストリアのウイーンと4ケ国を訪問した西方見聞録の旅も帰路を残すだけとなりました。
今日のウイーン国際空港からのフライトは11:15発とゆっくりめですが、国際線ですので8時半までには空港に到着してラウンジに早めに入って休みたいところです。5時半には起き上がりました。

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【82419】東海道の電車を楽しむ-その7-

宮(熱田神宮)宿に着いた旅人は、次は船で海越えとなる事に胸をときめかせていたであろう。那古野(なごや)と言われていた地域の西方(美濃)は大河が集積しており、海に繋がる地であることは今に至るも変化がない。幕府が川越ではなく、船で伊勢湾を乗り越える経路を東海道としたのは賢明であった。その渡船の事を七里の渡しと言っていた。七里とは乗船地から下船場所までの距離で、ウィキペデアでは27.5Kmとしている。このコースは上手く設定されており、東海道最大の宿場と言われた宮宿で神社参拝を済ませ、僅かな陸路を辿れば渡船場に到着、又は下船場となっていた。後は船の揺れにわが身を任せば何時の間にか対岸に到着、一丁上りとなる。到着地点は現在の鉄道各社が集積している桑名駅東側の浜であった。所要時間は日替わりメニュウで、分からない。

桑名から京都までの宿場は13ヶ所となっており、電車と関係ない宿場には*印をつけ分類すれば42宿桑名、43宿四日市、*44宿石薬師、*45宿庄野、46宿亀山、*47宿関、*48宿坂下、*49宿土山、50宿水口、51宿石部、52宿草津、53宿大津、54宿京都三条となる。電車と関係ある元宿場には今も電車が出入りしているが、ここ10年余りの間に経営主体、電鉄名が変わるだけでなく車両の外部塗装が変更されることもあり、頭の整理が必要となった。

1956年6月、田舎(父の生誕地)から中川経由で四日市を経て桑名駅に降り立った。四日市では三重交通湯の山線、内部線の訪問が目的で、そのため養老線、北勢線はホームで観察するだけとなってしまった。帰宅後、奥野利夫さんから桑名には路面電車が走っていた時期があり、営業距離は1Kmだったと知らされ驚いた。京都市電河原町通では、四条河原町~河原町二条ぐらいになる。この話を野崎さんに持ちかけたら、掲載の写真を頂いた。

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