北欧の旅(カートレイン)

少し日が経ってしまいましたが、3月初めより2週間北欧に行ってまいりました。日本から一番近いヨーロッパと言われるヘルシンキから北欧3か国とエストニアを訪れ、ドイツ経由で帰国、主に乗ることを楽しむ旅でした。この中で今までデジ青に載ったことがない話題についていくつか報告させていただきます。1回目はカートレインという車と乗客を一緒に運ぶ列車についてです。
私は見たことがありませんが、1980年代から90年代にかけて日本でもカートレインが運行されていました。当初は人気があったものの、10年余りで廃止され短命に終わったようです。日本のものは自動車を運ぶク5000形とは異なり、ワキ10000形を改造し1両につき3台の車が運べるというものでした。積み込みの方法は自走してまずパレットに載せ、このパレットをフォークリフトでワキ10000に積み込むというものです。これに対しフィンランドのものは2種類の専用車があって、私の見たものは二階建てで1両に12台が運べる本格的なものです。妻面が開くと隣の車両とは踏面がつながって、内部を車が自走することができます。スロープから自走して奥から順番に収納されるため積載にかかる時間は短くて済みます。ヘルシンキを中心に南部地方からからラップランド地方を結ぶ路線でおおむね3往復、週末は加えて2往復運行されており、寝台列車に併結されます。

↑ 1両の長さは31.6m、中央部が蛇腹状になっていてカーブに対応しているようです。 続きを読む

三重・岐阜の旅(2)

名松線の乗り鉄を楽しんだあとは、松阪から近鉄で塩浜に向かいました。西日本では見ることができなくなった石油類輸送のタンク列車とそのタンカーを受け渡す小型ディーゼル機関車とDD51を見るためです。近鉄塩浜駅はJR貨物塩浜駅に隣接しています。この塩浜貨物駅の先に日本石油の製油所があり、小型のDLがタンク車を牽いて塩浜貨物駅まで出てきます。

引込線に何か所かある踏切に警戒員が出てきた

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デハボ1201様に答える

私の無責任投稿をご覧になった”デハボ1201”様から「白鳥上りが下り線を走っているのでは?」とのご質問を頂きました。現在は緩行線と列車線が平行して上下に分かれています。当時の写真を見ると上下別に二組走っていたようです。私は設備に詳しくありませんので誰か線路配置に詳しい方が代わって説明して下さい。

下り緩行電車

下り貨物列車

またまた山科

また山科でっかいな、ええ加減にしなはらんかいな、との「うんざり」声が少なからず?聞こえそうだが、今回はひと味違った山科である、と最初に言い訳しておこう。東海道本線は1956年11月19日全線電化が成り、当然に蒸機の姿が消えた。しばらくは特急やらモハ80系、貨物のEH10なども珍しかったが、そのうち見飽き?て大築堤にも上らなくなった。

しかし待てよ、ここに住んでいる以上、誰にも撮れない写真が撮れないか。折角カメラのレンズがf2なのだから、夕景あるいは未明の写真が撮ってみようじゃないの、と考えたのである。

今のデジタルカメラなら、感度がいくらでも挙げられ、多少画面は荒れたとしても知れているだけでなく、感度を上げることによって画面コントラストが上がらない。既に京都駅未明に足を運ばれ、ご苦労なさった写真も紹介されている。

アナログ写真では、当時ネオパンSSSが感度200で、現像により800ぐらい。無理すれば1600までは上げられても、粒子の荒れとコントラストのきつさが不可避。つまり列車写真では空が完全に飛んでしまうのである。それを感度はさほど上げずに、普段滅多に使うことのない開放絞り=f2で撮ってみようという訳だ。

以上が前置きで、早速やってみた。先ずは夕刻ヘッドライト点燈後を狙う。焦点深度が浅いし、シャッター速度もせいぜい1/125ぐらい、貨物なら1/60でもいけるか。あんまり寄れないのが残念だが、先ずは撮ってみるしかない。

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三重・岐阜の旅(1)

写真展の最終日に祇園を訪ねたあと、近鉄特急で伊勢方面に向かいました。主目的は三重県下の私鉄・専用線訪問です。まずは訪ねたことのないJR名松線の乗り鉄から開始です。

平成21年の台風18号による被災によって 家城駅から伊勢奥津駅まではバスによる代行運転が続けられ、鉄道の存続も危ぶまれた名松線ですが 平成28年3月26日に不通区間は復旧し、何とか運行が続けられています。松阪発9:38の411Cで名松線初乗りです。

平成29年5月11日 松阪・六軒間の名松線分岐点

松阪駅を出てすぐに紀勢本線から分岐するのかと思いきや、かなり本線上を走ったところでようやく分岐点があり、またそこから本線とかなり並走してからようやく本線と離れてゆきました。

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特急ひびきの先頭クロ

ある友人から写真を頼まれ、限りなく忘却の彼方とあって空しく探し回っていたら、肝心のものは見つからず、こんなどうでもいい写真があった。本来なら一顧だにしないところだが、偶々「ひびき」だの「クロ」だのと、タイミングが合致したのでご高覧に供する。モハ63系と70系ならバッチリ?見分けられる小生は、かような電車に全く興味がなく、先頭車がもし「クロ」なら、その旨ご教示を賜りたい。ネガは憎っくきヴィネガー・シンドロームにコテンパンにやられ、見る気もしないが、幸いキャビネにプリントしていた。撮影は確かでないが1959年頃か。

特急「ひびき」


山科での「特急ひびき」1959年1月?

山科の住人であったから、こんな写真も撮ってはいる。ただそれだけで思い入れ等はない。確か田口のキューさん(本名は啓己だが、余りにも趣味?の幅が広く、当時TVドラマの「何でも屋の久助」というキャラクターに倣って「キュースケ」と呼んでいた)は「特急いびき」と称していた。のちの「特急こだま」の代用時は「にせだま」と呼んでいた。

国鉄クハ157系

皆様、写真展ご苦労様でした。大変楽しい催し物でした。

今回のテーマはクハ157系「日光」型です。私は「ひびき」として知っています。
画に描かれているクロ157は、お召し列車として見た記憶がありますが写真はありません。今も保存されているとは知りませんでした。京都鉄道博物館に展示してほしいものです。

京都駅で撮ったクハ157「ひびき」をいっしょに掲載します。
どなたか、クロ157の写真があれば「こんなモンあるで!」と見せて下さい。

こんなもんが

「こんなもんありまっせ」というより、「こんなとこにも行ってましたで」という古い写真をいくつか。先ずはこの名刺をご覧あれ。

甲斐大泉駅前とあるからには、小海線甲斐大泉駅前、それもどんな誇大広告でもせいぜい10分以内であろうとは、だれしも思うだろう。処がそうじゃないから世の中は難解である。大泉駅前なら必ず電話番号が書かれているはず。話は1962年にさかのぼり、この年1月重澤旦那と小生のコンビが真冬の小海線で野宿し、凍死こそしなかったが零下30度以下でひどい目にあった?話は以前にした。
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 写真展「鉄路輝く」 滞りなく終了

5月3日から開かれていた第7回クローバー会写真展「鉄路輝く」は、86さんから報告のように、5月9日、千秋楽を迎えました。この日も朝から熱心な来場客があり、会員とともに、あの話この話に盛り上がりを見せていました。そして午後4時、この日はこれで終了、即撤収で、つぎの設営が待ち受けているため、許された時間は30分、そこは結束力で鳴らしたクローバー会、某責任者の号令一下のもと、逆らう者もなく、てきぱきと作業をすすめ、30分後にぴったり作業を完了、“立鳥跡を濁さず”のごとく、10分後には写真展会場を出て現役生の新町ボックスへ額を戻し、ゲストの写真・額は私宅へ運び込み、午後6時には、撤収作業を完了しました。お世話になりました会員の皆さんに厚く御礼申し上げます。

黙々と、しかし効率的に作業を進める会員たち。静岡県や三重県から遠路駆け付けた会員もいて、一糸乱れぬ作業ぶりで、予定どおりに終了した。

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写真展を楽しませていただきました。

第7回写真展が本日幕を閉じました。期間中何度か受付をさせて頂きましたが、いろんな方が来られて、話も弾み、楽しませていただきました。その中での話題です。

6日に来られた方、名刺と共に一枚の写真を取り出されました。昭和38年学鉄連でカメラバスツアーが行われた時の記念写真でした。学鉄連は昭和38年4月に発足したそうで、この年の10月この年の当番校となった甲南大学が計画したツアーです。持参されたメモ書きには25名が参加、その中に同志社の方も3人おられたのだが、どなたかご存知の方はおられるでしょうかとのことでした。何せ50年以上前のこと、とりあえず写真をいただいて、聞いてみますと言ったものの全くあてはありませんでした。しばらくしてこられた大阪通信員様にこんな写真がありますが、とお見せしたところ一目見てこの右端は僕やとのこと、他の二人の方もお名前が判明し、50年以上の時空を隔てて時間がつながりました。↑ 大阪通信員様の了解を得て掲載させていただきました。

今日の最終日に来られた方、しばらくしゃべった後、カバンから本とアルバムを取り出されました。本は、交通公社昭和52年発行の時刻表復刻版、当時5000円もしたものです。アルバムはN電、蒸機の写真が満載、断捨離したいのでどなたかもらっていただきたいとのことでした。いずれも貴重なものでありがたくいただきましたが、ちょっと複雑な気持ちでした。

この他、乙訓のご老人が常々「僕の師匠や」と話されていたKさんがこられました。80代半ばと言われていましたが、お元気で、伝説の方かと思っていた方からありがたく名刺をいただきました。みなさんご熱心でゆっくり写真を見られ、長い方は3,4時間も滞在して話し込んでいかれました。私の参加した中ではいろんな意味で一番面白かった写真展ではなかったでしょうか。写真集めからプリント、額装などの事前準備、また連日会場に詰められた総本家青信号特派員様ありがとうございました。

三江線駅物語 その2 三次駅 

4月15日[83825]で所木駅の記事をご紹介しました。えらく間延びした連載記事で その2の三次駅は5月3日の掲載でした。スキャンしていたのにアップするのを失念していました。

平成29年5月3日 中国新聞朝刊

「寒中北海道見聞録10号車」のKAWANAKA氏のコメントにもあるように、「公共性」を投げ出して「経済性」しか考えなくなったこの国が 本当に住みやすい国になってゆくのかと 地方で生活していると肌で感じます。「地方創生」などと耳ざわりの良い言葉がむなしく聞こえます。

「こんなモンありまっせ!」に寄せて(2)

米手作市様より、クハ86で、流線形との合いの子の車両を見たことがあるとのことで、河 昭一郎様よりクハ86021、022ではないかとのご回答をいただきました。
当件に関して「鉄道ピクトリアル2011年7月号」に河様がお書きになっておられますが、お持ちでない方、探すのに時間がかかる方がおられると思いますので少し書いてみたいと思います。
80系は編成単位で新製されましたが、クハ86のみを取り上げると、昭和24年に001~020の20両が正面3枚窓で新製されました。
翌25年早期に東急横浜製作所で新製された021と022は、試作車として正面2枚窓で新製されました。

昭和39年8月10日、京都駅のクハ86021です。
38年10月、新前橋から高槻に転属、40年2月広島に転属して53年6月下関で廃車になりました。

昭和48年1月28日、広島駅のクハ86022です。
関東から一旦大垣に転属して47年3月広島に転属しています。53年2月下関で廃車になりました。

【参考】昭和49年1月2日、京都駅のクハ86074で、昭和30年7月近畿車両製です。
クハ86021、022との正面のスタイルの違いがお判りいただけると思います。

寒中北海道見聞録 10号車(最後尾)

京都を出て18日目、小林氏と私は青森駅から米坂線に向かいます。

 ・雪の米坂線を行く

4:38米沢着。米坂線一番列車は5:10発121レである。

59663[坂]+オハフ61521(坂町行)+オハユニ6145(今泉行)+オハフ61360(今泉行)+オハ61302(坂町行)+オハ61413(坂町行)+スハニ642082(坂町行)(全車秋ヨネ)

今泉までは平坦線で田園風景(と言っても夜明け前でよくわからない)の中を行く。やがて空が白み始める。夜明けはいつ見ても良いものである。今泉では30分余り停車する。大きい荷物をかついだ行商人が多く乗り込んでくる。おばさんたちはひとまず荷物を置いてホームでソバをすすっている。ホームの外れでは96が石炭と水の補給を受けている。今泉の駅はおもしろい駅で、赤湯から来た長井線が今泉で米坂線と接し再び別れて荒砥まで伸びている。

6:27今泉を発車した列車は次第に山間部に入って行く。車内には高校生が多く乗っている。あちこちで見たのであるが 人口密度の低い地方では学校も大きな町にしかなく 遠くから一番列車で通学する生徒を見るといつも感心せずにはいられない。

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 クローバー会写真展 あと2日!

クローバー会第7回写真展「鉄路輝く」、5月3日(水)から開催し、連休期間も終わり、展示も一区切りを迎えました。連日、多くの皆さんに来場いただいて、会員との対話の輪があちこちで生まれています。ネットの世界では味わうことはできない、双方向の交流が続いています。連休も終わって展示も残すところ、あと2日、まだの方、もう一度、その感動を味わいたい方、ぜひこの2日間にお越しいただき、二度と見られない珠玉の写真をじっくりご覧ください。
  5月3日(水)~9日(火)11~19時(最終日9日は16時で終了)
  京都・祇園「ぎゃらりぃ西利」(京つけもの「西利」祇園店3階)

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こんなモンも有りまっせ! 特注編2

マイドの題目で申し訳ありませんがお許し下さい。
先ほど終わりました打ち上げ会(京都では伝統的に”足洗い”という)で、あの写真展担当大幹部のF田さんの作品(京都駅東方の本町跨線橋から京都駅方向を撮した夕方の写真)と同じところから撮ったものを持っている、と言うやいなや、遙か前方の議長席から「同じやないやろ?見たるから掲載してみ」とF田さんの罵声が飛んできたのでやむを得ず続けての投稿となることをお許し下さい。苦情がある方は大幹部の福Dさんへ直接お願いします。

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寒中北海道見聞録 9号車

運転停車が非常に長くなり、乗客の皆様には「あるいは途中運休か?」とご心配をおかけしましたが、ようやく発車致します。8号車では北の果ての日曹炭鉱専用線をご紹介したところまででしたが、9号車は昭和44年3月9日 稚内からのスタートです。

 ・羽幌線を南下

さて興奮さめやらぬなか豊富から326Dで幌延へ向かう。幌延から羽幌線、留萌本線経由で深川、岩見沢へ出て 再び大雪6号で常紋を訪れるという計画であった。大雪6号は岩見沢から乗るので もし空席がなければ翌日の行動に差し支えるので 幌延での乗り換え時間を利用して 大雪6号の座席指定券を買うことにする。乗車当日ではあったが、幸いにも2枚指定券がとれた。これで明日は張り切って常紋で活動できる。

幌延駅で買った「大雪6号」の指定席券

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