昔々のことー京都市電②

「家人からの終活圧力」にお悩みの須磨の大兄にもおとらず、小生も「訪問介護士」の執拗な圧力に苦しんでいます。
最初は親切ごかしに「いかがですか?  最初は少し詰めて投稿して慣れないと、やり方を忘れてしまいます。 どんな話題でも練習だと割り切って投稿して下さい。」と優しいメールでしたが、黙殺していると段々口調が厳しくなり、「わざわざ教えに行ったんたやから、サッサとやらんかい!」的な脅迫口調になってきました。
(奨学金の返済をサボっていたころ、最初は手紙で「次代の後輩のためにちゃんと返しましょうね」的なものが、それでもサボっていると段々エスカレートして、最後の最後は「法的手段に訴えるぞ」になっていったのとそっくりです。最終的に私は全部返済しましたよ!為念)

その圧力をかわすため、不本意ながら(あまりにも小生の写真のレベルが低すぎるのに気づいて投稿を躊躇していました)京都市電の②をご笑覧ください。

京都駅前(烏丸線、河原町線、東山線のターミナル)、西を向いて。
左手奥は中央郵便局、真ん中奥は下京区役所 続きを読む

犬見鉱山での加悦C160

限りなく薄れゆく記憶だが、高校1年の時、3人で京都-舞鶴-敦賀-米原-京都と一周したことがある。1953年1月7日=天気が極めて悪く、おまけに当時写真で売っている得体のしれない35mmフイルム(太秦の映画会社カメラマンが半端に残った「残尺」を写真屋に売って飲み代にする)だったので、散々だが、1人はセミ版カメラで、彼がこの写真を撮っていたのを想い出した。紛れもなく加悦鉄道C160である。ここは高井薫平『小型蒸気機関車全記録』にも掲載がない。今回の総本家青信号特派員氏の投稿で、俄かに64年前の記憶が蘇った次第である。一昨日の夕食のオカズ(というより晩酌のアテ)は思い出せないが。

 夏の思い出 2017-4  ある駅を訪ねる

8月もあと1日で終わります。私も、夏の思い出づくりに、ささやかな旅をして来ました。
以前、デジ青で海水浴の話題がありました。米手さんのコメント「満員の列車に揺られて、若狭・丹後へ海水浴に行ったもんや」で、思い出したことがありました。小学生の3、4年、昭和33、34年です。家族で海水浴へ行きました。米手さんのように乗った列車は超満員でした。小学校高学年になると臨海学校が開かれますが、その学年に達する前の齢で、初めての泊りがけの海水浴でした。泳ぎ疲れた夕方、民宿の開け放した窓の向こうを、DC列車が紫煙を上げて通り過ぎるのを、ぼんやり見ていました。
米手さんのコメントで、なぜか“その場所へ行ってみたい”と言う思いに駆られました。 そう思う理由は、もうひとつありました。その近くに、鉱山へ向かう専用線があって今も廃線跡が残っていると聞きます。二つの理由から、ある日、ある駅に降り立ちました。

          ▲ある駅に近づいて来た。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ③和歌山電気軌道

本シリーズ、前回は和歌山電気軌道の和歌山市内線をご覧いただきました。た~ちゃんが訪れた当時、和歌山電気軌道には、もうひとつ東和歌山(当時)~貴志の鉄道線がありました。昭和36年には、南海貴志川線となり、いまの“たま駅長”、“いちご電車”の和歌山電鐵です。
た~ちゃんの述懐を続けますと、最初に和歌山へ行ったのは、昭和27年、14歳の時で、関西急電の華モハ52に乗りたい一心で、一人でカメラも持たずに東和歌山へ日帰りで行ったそうです、構内にいた4輪車が琴参電鉄から来た電車とは全く知らず、次いで昭和32年には、今回発表する訪問となりました。その時には琴参電車は解体後で、あとで高橋弘さんから、もと琴参車の写真をいただいた感動が忘れられないとのこと、それを使って「関西の鉄道」で貴志川線の琴参電車を紹介したところ、編集長に召し上げられたと思い出しておられます。
△ 東和歌山から和歌山電気軌道の鉄道線に乗り、伊太祁曾の車庫を訪問しての帰りに、岡崎前で801+202と交換した。801は、もとガソリンカーで、ほかにも阪急・東急から来た中古車両ばかりで、新造した電車が1両もないことは、いまも変わらない。

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今朝の「瑞風」

「瑞風」には3コースありますが、「山陽上りコース」が呉線に寄り道します。下関から山陽本線を上り、糸崎まで来て午前3:46に折り返して、三原駅で小休止して4:06に呉線に入ります。深夜の呉線を広まで進みます。今来た道をまた三原に向けて午前6:00に広を出発します。夏場であれば充分撮れる明るさです。今朝は少し早起きして 呉線を尾道に向かう「瑞風」を撮りに行きました。呉線の「瑞風」を撮るならやはり海を入れて撮りたくなります。今朝は安芸幸崎・須波間に行ってみました。

平成29年8月29日7:20頃 呉線安芸幸崎・須波間を行く瑞風

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1958年2月神戸

まさか神戸に就職し、はては神戸の住人になるなど露想像もしていなかった学生時代―59年前に、何思ったか神戸に撮影に来たことがあった。綺麗に忘却の彼方であったネガが、家人からの「終活」圧力が原因で見つかり、今回ご披露申し上げる。ネガが傷だらけで、従前プリントしようという気も起こさなかったが、デジタルのお蔭で、まあデジアオでご笑覧戴けるぐらいにはなった。撮影は1958年2月27日である。

現在の山陽本線は複々線で、この写真でなら防波堤の海側を埋め立てて上下複線を貼り付けたものである。写真でD6214牽引上り貨物が走る線と、その左側は現在列車線で、新快速とコンテナ貨物列車、特急が走っている。なおこの当時台風等で海が荒れると、しぶきが防波堤を越し電車は須磨で打ち切りになり、以西明石(地平駅だった)までは加古川線からC11と客車が応援に入って往復していた。 続きを読む

北方見聞録 北の大地、シベリア鉄道をちょっと見の旅 Part22 ウラジオストク駅、朝の流電、帰路

第10日目 7月18日

8:40  今回の旅に出て10日目、ロシアに入ってからは8日目、ロシア訪問最後の日を迎えました。当初はユジノサハリンスクから成田経由で帰国でしたが搭乗する飛行機便が休止となってウラジオストク乗継となりました。そして、これを利用してプラス2日間のロシア本土視察の機会を得ました。
最後に訪問したウラジオストク駅は日頃よく訪れている同じ大地の中国鉄路の駅と比較しますと小さく、約9,000㌔以上もの長い旅路の駅とは思えないスケールでした。昔からそれほど多くの鉄道利用者はいなかったのだろうと推測します。

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こんなモンもありまっせ!【中学修学旅行編】最終回

中学の修学旅行は映画「三丁目の夕日」の時代でした。昭和33年に出来た東京タワーが首都東京を誇らしげに宣言しているように思えました。
問題は皆様から色々と解読いただいていますが、確認の為のご質問に答えられません。覚えていないのです。実は私には秘密兵器があります。私が会長をしている時の会計・K君です。彼は子供の時代から日記を付けているので彼に聞けば大抵の事は分かります。今回も静岡鉄道デワ1を撮ったのはどこか?で西村氏とSN氏の見立てが微妙に違うのです。下車したのが草薙かどうかが分かれ道らしいのですがK君の記憶では草薙となっています。いまK君を追求中です。SNさん、お問い合わせ頂いた事への追加回答です。小田急の車両は「2232号」で急行の円盤を付けています。

さて、東京への旅も今回で終わりです。

①横浜市電 1系統 526号 扇田町附近?(SN氏解説)

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半世紀前の神戸市電-併せて街の今昔対比(1)須磨

2017年は神戸開港150年です。それとはあまり関係が無いのですが、半世紀前の神戸市電と街の風景を対比してみたいと思いました。初めは市電の西端、須磨駅前です。

筆者が子どもの頃、須磨区の若宮から須磨浦までおよそ3.5kmの海沿いはみんな、魚釣りができたり遠浅の海水浴場がある白砂青松の素晴らしい地域でした。東須磨の自宅から若宮海岸なら歩いて20分。山陽電車に乗れば須磨駅の隣り、須磨浦まで15分。海水浴や釣りで須磨駅前もよく通りました。

安全地帯のある停留場、須磨駅前を画面右・東方向に向け発車する3系統935号。市電の背後に赤地に白文字で『須磨』と書かれた停留場標識が見えます。その右に焦げ茶色の瓦葺の屋根がありますが、山陽電車・須磨駅入り口です。ホームは階上で画面左上に架線と鉄支柱が見えます。画面中央右寄りにある箱型の建物は現在も残っています(後述)。

3系統は須磨-東尻池-中之島-神戸駅前-三宮駅前-県庁前-長田-東尻池-須磨に至る循環線でその逆コースが4系統でした。1965.2.28 撮影 C0802 続きを読む

陸蒸気から

オハ30の投稿のコメントでINUBUSE氏が「鉄道模型趣味」誌の「陸蒸気からこだままで」の紹介をされていましたので捜してみました。押入れにあった同誌をひっくり返していたところ連載開始当時のの記事を見つけました。画:片野正巳 文:赤井哲朗 氏の「岡蒸気からこだままで」で1961年9月号から連載が始まっています、いまから56年前です、定価130円です。記事にもありますように、写真からは得られないペン画の味があります。ご覧ください!

 カラーで振り返る 昭和の気動車 -5-

キハ58系

キハ58系は昭和36年から造られた急行形気動車です。われわれの現役世代、前回に紹介したキハ55系は、すでに準急・急行用の座から降りて、普通列車に混結されているのが大部分でしたが、今回のキハ58はバリバリの急行用で、派生形式も含めて、日本全国津々浦々の線区で急行用として走っていました。事実、キハ58の急行に乗ると、今までのDCとは明らかに違う客室設備であり、急行に乗った優越感に浸ったものでした。
宮津線由良川鉄橋を行く下り「丹後1号」、海水浴客で車内は混んでいるようだが、普通車はすべて非冷房で窓が開け放たれている。以前紹介の冷房付き寝台車の「はしだてビーチ」の人気ぶりが分かる(昭和44年7月)。

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北方見聞録 北の大地、シベリア鉄道をちょっと見の旅 Part21 シベリア鉄道を撮る

▲ 飛行機で到着後に乗車した空港駅からウラジオストク駅までのルートです。54分間の乗車中にロケハンした結果、邪魔物がない直線が続くサナトルナヤCaнаторная)駅付近と決定しました。今日は今から走行中の列車撮影をするために向かいます。
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オハ30の話

当会には客車ファンも多いが、このオハ30なる形式を見た人は少ないだろう。1937年12月27日、鹿児島発門司行準急12レが小倉付近で3両目から出火し、3両の客車が全焼する事故があった。乗客が車内に持ち込んでいたセルロイドの玩具材料に、タバコの火が引火したのが原因という。

このとき焼失したのはナハ22985、23049、ナハフ25029で、1940年7月小倉工場で旧台枠、台車を再用し、半鋼車体を新製。各オハ31980、38981、オハフ34180を経て、オハ301、302、オハフ311となったものである。

窓配置は旧木製車時代を彷彿させる3個セットで、どうせなら台湾のように広窓にすりゃよさそうなものだが、窓高はスハ32並。特筆すべきはノーシル・ノーヘッダーで、オハ35にもノーシル・ヘッダー車が、しかも長柱(張り上げ屋根)車もあったが。

国鉄オハ302 1955.3.18吉塚 高校卒業直後(2浪開始)の撮影である。

国鉄は17m級木製省電を鋼体化した電車を大量に送り出していたから、恐らくは木製客車の半鋼化テストだったと思われる。現実に客車の半鋼化(20m化)は敗戦後のご存じオハ60、61系であり、当初はやはり窓が3個セットだった。

この17mノーシル・ヘッダー車は終始北九州を出なかったはずである。序に記せば、やはり半鋼製17mのオハフ361なる、一形式一両の客車が田川線にいた。これは産業セメント鉄道が1932年12月田中車輌で新製したホハフ1で、1943年7月1日買収により、買収客車では唯一制式車の仲間入りして、オハフ361となったもの。この車輌については、小生が鉄道友の会会誌「RAILFAN」にシコシコ―その余りといえば余りの長い連載に顰蹙を買っている「私鉄のボギー客車」でいずれ紹介に及ぶ。

なお本稿は先人(渡辺俊夫氏)が、関西鉄道同好会会誌「CLUB CAR」6号(1947年4月)に書いておられるものを参考にしている。

 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ②和歌山電気軌道

和歌山市内線は、和歌山市と海南市を結ぶ都市間連絡の使命も持つものの、国鉄紀勢本線と並行しているため、直通客は少なく、地域の生活路線的な色彩が強かったようです。また和歌山市の鉄道の成立から、和歌山市と東和歌山(当時)と二つのターミナルを持ち、両駅間の移動や、その中間に位置する官庁街・繁華街への往来と言った短距離輸送もかなりあったようです。それと和歌浦、紀三井寺へ向けて観光客輸送も特徴と言えます。とくに和歌浦は、万葉集にも歌われた古来からの名所でした。
老人が写された昭和30年代の半ばは、輸送の最盛期で、系統の重なる公園口~車庫前は本数が多く、ラッシュ時などは数珠繋ぎになって走っていたと言います。実は私は、この軌道線は見たことも乗ったこともありません。廃止が昭和46年ですので、行こうと思えば行けた年代でしたが、路面電車の撮影優先度は低かったのです。廃止の10年以上前の軌道線がいちばん充実していた時代に、2回に渡って貴重な記録を残された当時の老人の進取性には改めて敬服します。

△ 30形と60形が交換する。出自はどちらも創業時の1形だが、改造時期が違い、面相も異なる。撮影地は「車庫前」と判明。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ①和歌山電気軌道

「デジ青」誌上では、米手さんによる“介護”が相次いでいます。東にデジタル難民がいれば、湖畔のマンション13階まで行って訪問介護し、西に投稿をさぼっている会員がいれば、尻を叩きに押しかけて叱咤激励し、暑さで体力・気力の落ちた老人会員に向けて、東奔西走の介護活動をされています。
おっと、私の住む乙訓地方にも難民がいました。以前はしょっちゅう投稿されて、デジ青の常連でしたが、最近は、とんと投稿がありません。聞いてみますと、周囲の環境が変わって、手足をもがれた状態になっていることが分かりました。こんな時こそ救援の手を差し出すべきと、先日、私も“訪問介護”して打ち合わせして来ました。
老人は電車少年として、小学校の時から京都市電、京阪に親しみ、DRFCの頃には全国の電車巡りに出掛けます。その中から、今まで未発表のものについて、代理投稿で報告するように指示がありました。なお、タイトルの「た~ちゃん」は老人の幼名です。今回は、昭和32年12月と、翌33年5月の2回に渡って訪れた和歌山地方の私鉄、第1回目として和歌山電気軌道をご覧ください。その後、中小私鉄の研究を始める契機となった、思い出に残る訪問だと述懐されています。

△ 終点の東和歌山駅前(現・和歌山)ではポール回しの光景も見られた。

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今年も参加「サークルステーションIN三条」

毎年恒例となりました京阪三条駅で行われる「サークルステーションIN三条」が今年も行われ、DRFC現役生が参加します。この催しは2010年から始まり、今年で8回目、人が多く集まる駅を舞台にパフオーマンスを行うことによって「地域の活性化」や「学生の社会参画」を目指すもので、昨年は同志社大学と龍谷大学が参加しています。同志社大学からはグリークラブの合唱など各サークルが参加してパフォーマンスを披露し、鉄道同好会は模型展示と運転体験を行う予定です。
詳細については9月10日ごろ京阪ホールディングのHPで発表されるプレスリリースをご覧ください。
日時:9月16日(土)12:30~15:30
場所:京阪三条駅改札外コンコース

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皆様のご好意におすがりする件

自らの無知を顧みず、皆様の知識に頼ることをお許し下さい。

先頃投稿した「中学修学旅行そのⅢ」の写真に関してどなたからもご教示がありません。EF10以外の車両に関しまして、何鉄道なのか、車両の形式、そして可能ならば撮影場所をご指摘願えませんか?写真の終活をするためにもお教えいただきたいのです。
老い先短い老人が哀れと思し召されたなら(だんだん須磨の大老みたいになってきた!)お知恵をお貸し下さい。七重の腰を八重に折り、伏してお願い申し上げます。