地図を携えて線路端を歩いた日々 -12-

飯田線③   E地点 伊那福岡~田切

飯田線、しばらく続けます。一昨日行われた三条京阪イベントに参加すると、1900生さんや、どですかでんさんから、飯田線への思いをたっぷり聞かせてもらいました。車両だけでなく、飯田線独特の車窓風景や線形が魅力を持った線区であることを改めて思いました。
今回は5万分の1地形図「赤穂」の最南端、伊那福岡~田切の撮影地を見て行きます。この区間は、例のオメガカーブの線形で、飯田線北部では、いちばん有名な撮影地でした。鉄道ファンの撮影地ガイドにも初期の号に紹介済みで、私も初めて訪問の時は、ファン掲載の地図を自分で書き写して持参しました。
オメガカーブの頂点、中田切川を渡るED195の牽く貨物列車。建設費が安い短い鉄橋で済むよう、上流にさかのぼって川を渡り、また元に戻る。

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韓国の鉄道

去る8月、韓国に行く機会を得た。鉄道旅行ではなかったので、ソウル釜山のKTXくらいしか乗る機会はなかったが、このデジタル青信号でも韓国の鉄道は、あまり登場しないようだ。そこで、少しだけだが報告させていただきたい。

KTXⅠ ソウル駅

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半世紀前の神戸市電-併せて街の今昔対比(3)大橋9丁目-板宿

須磨駅前から出発し鷹取町までが前回の記事でした。次の本庄町を過ぎればトライアングル交差点、大橋九丁目です。ここから北方向に板宿線が分岐します。
下の地図は1967(昭和42)年人文社発行、京阪神市街詳細地図です。左(西)の須磨駅前から海岸に沿い、南東向きに進み、右端(東)下部に大橋9丁目が見えます。中央に国鉄鷹取工場がありました。余談ながら中央上部(北)に上細沢町がありますが、筆者が11歳から27歳まで過ごした所です。鷹取工場の操車で蒸機の音が昼夜を問わずによく聞こえたものです。ここは、神戸市の西部、須磨区です。
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サークルステーションIN三条開催

先日来ご案内していました京阪電車、同志社大学共催のサークルステーションIN三条が本日京阪三条駅で行われ、コンコースでグリークラブ、吹奏楽部などが出演、鉄道同好会は出口階段に近い一角で模型展示と運転体験を行いました。

↑ 現在会員数約70名とのこと過去最高ではないでしょうか。
台風接近の雨の中、10名のクローバー会会員が集まりました。しばし現役会員との交歓の後、近くで行われている京都大学鉄研の写真展を見学、この日の為にわざわざ昼食を抜いてはせ参じられた方を含め、何人かの方はアルコールを注入すべくどこかにお出かけになりました。 続きを読む

京成電鉄モハ300型

今年のホームカミングデーの講演が関三平先生に決定して嬉しい限りです。この掲載がご縁になって、いろいろと交流ができて一層楽しくなっております。先日の飲み会で先生から「このホームページで画の批評を見るのが楽しみです。知らないことが多々指摘されて大変参考になりますから、できるだけ皆さんが知っている知識を開陳して下さい」とのお話を頂きました。
会員の皆様、今回の「京成電鉄モハ300型」も知識を絞り出して“線香花火”を光らせて下さい。

ショウコンユについて

デジ青の楽しみのひとつは、コメントのやりとりが時として思いもよらない方向へ脱線して そこで停まるのかと思いきやそのまま話が進んでゆくところではないかと思っています。今回もEF52から「松根油」に飛び火していますが、湯口先輩のコメントを後押しするようなコラムが今朝の中国新聞に載っていて驚きました。

平成29年9月13日 中国新聞朝刊

デジ青管理者殿 EF52が松根油を介して北朝鮮へ飛び火しました。「脱線教唆罪」に問わないで下さいネ。

この老人も

EF52だ、やれ14だとかで、突然?国鉄電機で盛り上がったので、この老人も確か天王寺で何か1枚だけ撮っていたと、限りなく薄れゆく記憶をたどってネガを探すが、何時ごろかもわからず断念。プリントを探すと手札版があったので、枯れ木も山とばかりご笑覧に供する次第である。

北欧のたび6(ストックホルムの市内交通)

ヘルシンキからストックホルムへは間にボスニア湾があり、軌間も異なるため直接鉄道ではいけません。直線距離では400㎞あまり飛行機で行けば1時間の距離ですが、それでは面白くないので船の旅を選びました。先にエストニアに行くときに使ったのと同じタリンク・シリアラインがヘルシンキとストックホルムを約16時間で結んでいます。この船がまた豪華船で、レストラン、バー、免税店はもちろんカジノまであります。今回はC2タイプの船室で2ベッドのシングル使いですが€111と安く、ゆっくりと船旅を楽しむことができました。
 ↑ 船内のプロムナード、レストランやショップが並んでいる。

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教えて下さい!最近の鉄道を


会合があって松江へ行ってきました。ルートは、新幹線で岡山へ、「やくも」381系で松江。帰りは「スーパーおき」187系で鳥取へ、「スーパーはくと」HOT7000系で京都まで。
この途中のことです。
「スーパーはくと」は人気があるのか増結をしていました。2号車と3号車の間に「増2号車」を入れています。
車内の案内放送で聞き慣れない言葉が流れました。「本日は2号車と3号車の間に”増2号車”を繋いでおりますのでお乗り間違いの無いようにご注意下さい」という主旨です。問題は”増2号車”のいい方が「まし2号車」と言っていました。私は「ぞう2号車」だとばかり思っていましたがこう言うのですか?教えて下さい。


昨日の小田急線での車両火災事故ですが、テレビでは踏切で緊急停車ボタンが押されたので自動的にエマがかかってその場に停車した。エアが復旧するまで動けないので火が移ってしまった、との説明でした。
踏切の緊急停止ボタンと列車のエマは自動連動しているのでしょうか?
電車は約5分後に動いたらしいですがエアタンクが回復するのに5分もかかるのでしょうか?
北陸トンネル火災事故での教訓で、火災時は迅速にトンネルを出る事になりましたが今回も同じ事象では無かったのでしょうか?エマが連動していたらムリですが。

以上、教えて下さい!          ―新しいことは全く知らない年寄り―

阪和線EF52

先日、阪和線が諸先輩の間で話題となっていました。私にとっては遠い記憶となりますが思い出しつつ捜してみました。多少年代は新しくなりますが例によって「こんなんもありました」でご覧ください。1972年1月9日の日根野付近のEF527です。それと今になってあらためて気が付いたのですがEF524が補機(?)となっています。撮影当時全く意識していなくて今頃になって驚いています。当時は補機が付いていたのですね?それとも回送でしょうか? 続きを読む

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -11-

飯田線②   B・C地点:宮田~大田切  D地点:駒ケ根駅
五万分の一の地形図「赤穂」を見直して興味深いのは、三州街道(伊那街道)と飯田線がほぼ完全に並行していることです。旧街道沿いに鉄道が敷設されることはよくありますが、たとえば例のΩカーブでも、旧街道がちゃんと寄り添っていて、ここまで完全並行は珍しいことです。あくまで地形に忠実に敷設された、明治期の私鉄らしいところです。そもそも開通当時の伊那電気軌道の辰野~伊那松島は、三州街道上にレールを敷いてポール電車が走る、まるで路面電車だったとのことで、大正12年になって現在の専用軌道となったと言いいます。
先の沢渡から2つ目、宮田(みやだ)も三州街道沿いの宿場町でした。最初は宮田村で、町制施行で町となり、そのあと合併で駒ヶ根市となり、2年後には分離独立して村に戻るという珍しい変遷があります。読みも昭和31年に「みやた」から行政名と同じ「みやだ」に変更されています。
  宮田駅は、大正2年の開業当時のままの駅舎、駒ケ根の近くで乗降は多い。

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 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑦ 速報 ED38発見 

△ 送られてきた、ED38の旧称号1002号時代の写真、阪和電鉄時代のナンバーを付けたまま国鉄で使われている写真は大変珍しい(昭和27年撮影)。

つい先ほど、“た~ちゃん”から一通のスマートレターが届きました。開けると、またL判の写真の入ったアルバムが‥。表紙には「取り急ぎ河さんにED38の姿を頼みます」と書かれています。本シリーズの前回に、コメント回答としてED38は撮っていないと言っておられましたが、探してみると写真が出て来たとして、ED38の写真を所望された河さんに見せてほしいとのことでした。ED38については、米手さんからも救助の手が入り、鷹取工場で写された珍しい写真が掲載され、西村さんからは秩父鉄道時代のED38が報告されています。

アルバムを見てビックリです。なんとそれはED38ではなく、阪和旧番号の1002のままの姿です。ご承知のようにED38は、阪和電鉄のロコ1000形として昭和5年に製造された大型の箱型機関車です。1001~1004の4両が阪和電鉄内の貨物などを牽引していました。戦後、国鉄阪和線となりますが、称号は1001~1004のまま、阪和線内で活躍します。そして、昭和27年になって、国鉄称号のED38が与えられます。撮られた写真は、その直前の姿であり、区名板もよく見ますと「鳳」のようです。撮影場所は不明ですが、昭和27年と言えば、た~ちゃんが急電乗りたさに和歌山まで行ったと述懐されている年と符合します。この写真はその時に撮られたものでしょうか。いずれにしろ貴重な写真です。

大阪駅100式鉄道牽引車その2

どですかでん氏から鋭い突っ込みが。元来鉄道聯隊では、100式車は鉄路上で97式貨車を5輌牽引して時速30~40kmで走行できるとしていた。そのためピンリンク連結器が装着されていたが、大阪駅の100式は、保線区が使うため固定連結器が装着されている。これはあちこちに山ほどいた貨車移動機が装着していた、相手が自連でないと連結できない、肘が動かない代物である。なおトロッコ牽引の為、その下部に通常連結器を持たない路面電車が、故障や回送時牽引するための簡易なピンと両端を平たく潰して穴をあけた鋼棒=連結棒と同様なもので連結できるように改造していた。

 地図を携えて線路端を歩いた日々 -10-

飯田線(1)   A地点:沢渡駅

地図シリーズ、今回は趣向を変えて、蒸機区間をやめて、電車・電機の走っていた飯田線に移ります。飯田線が前身の四つの私鉄をつないで全通してから80周年を迎えたとのこと、鉄道雑誌の記事特集を見て初めて知りました。飯田線はかつて旧型電機・国電の宝庫として注目されましたが、それが終わると、あまり顧みられない線区となりました。改めてチェックしてみると、私も過去4回、飯田線に行っていますが、“撮りっぱなし”の典型で、ほとんど振り返ることもなくネガは眠ったままでした。今回、80周年を迎えて、自分なりに過去の思い出を掘り返してみたいと思った次第です。辰野から乗って12番目の駅、沢渡で待望のED19の牽く貨物列車と交換した。キロポストは190を示すが、実際の営業距離は173.4キロ、たび重なる渓谷区間の路線改良・短縮に対応していないようだ。

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たーちゃんの電車めぐりに寄せて

たーちゃんの電車めぐりシリーズは思わぬビッグヒットになりそうですが、阪和線の項で河昭一郎様より「電車はないのか?」「ED38は?」とのご質問がありました。また、大阪駅の西の端にEF52が捨て子されていた、などの書き込みがありましたが私にも少々写真があります。でも毎度のことでひどい物です。どなたかいい写真を出展されるまでのツナギ、時間稼ぎとして見て頂けたら幸いです。

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大阪駅の100式鉄道牽引車

乙訓ご老人が、大阪駅北西にEF52が常に1輌待機していたことを記しておられる。お待ちなされ、そのそばに旧鉄道聯隊の100式鉄道牽引車もいたのをご記憶であろう。それともそんな代物に興味はなかった?

この車輌は陸軍が将来対ソ聯戦に備え、1524mmから1435、1067、1000mm各軌間に対応する、今でいう「軌陸車」として、通常の軍用貨物自動車(陸軍では「貨車」と称した)をベースに設計したものである。路面を走行する時は荷台サイドのゴムタイヤを鉄輪の外側に装着し、鉄路上では路面用タイヤより直径の小さい鉄輪で走行する。その着脱時は車端4か所にあるジャッキで車体を持ち上げるのだが、それが油圧かと思いきや、何と手回しウォームギヤなので、陸路⇔鉄路の切り替え(「転路」という)は、踏切を利用しても優に30分以上要したとは、かつて鉄道聯隊に居られた故田中鎈市氏から教わった。蛇足だが現在自衛隊が保管している100式鉄道牽引車の説明板には、数分で転路可能とある由だが、とんでもない。

なおこの車輌はいすゞ空冷ディーゼル機関搭載で、陸軍では戦車が全部空冷だった。満州や北支では寒冷時の始動に苦労し、待機時オイルパンの下で練炭や木炭を焚き続けたそうだが、この100式の現実の活躍は、皮肉にも大方が1000mm軌間のマレーシアやタイで、逆に機関のオーバーヒートに悩まされたと聞いた。

敗戦後国鉄の保線区や機械軌道区に何輌かが再起し、大阪もその内である。敗戦時のドサクサに横領されたものも少なからずあり、西武農業鉄道や菊池電気軌道(変電所が空襲で焼失し、陸軍が放棄していた100式車を4~5輌?横領して緊急避難的に旅客輸送に充当。後上熊本線建設にも)などが知られているが、常磐線沿線の炭鉱でも要員輸送車に使っていて、ファン撮影の写真が残る。正式に譲り受けたわけでない「横領」だから、かような車輌は設計認可が受けられないのである。事のついでに記せば「100式」とは皇紀2600年(1940年)に制式化されたことの陸軍式表示で、同じ年でも海軍ならゼロ戦の如く「零式」となる。