天然色写真で巡る40年前の九州 (5)

日豊本線の撮影を終え、また夜行に乗り大分に着いた。早朝の到着のため列車に乗って時間を潰したあと大分区で写し、午後には中津にやって来た。中津からは守実温泉まで大分交通耶馬渓線36.1kmの路線が伸びている。山国川に沿って、青の洞門などの名所もある耶馬溪へ向かう鉄道である。
大分交通にはほかにも、日豊本線杵築から国東まで国東線が、同じく宇佐からは豊後高田・宇佐八幡へ宇佐参宮線が伸びている。3線とも非電化で、緑とクリームに塗り分けられた気動車には、それぞれ愛称が付けられている。現在、紀州鉄道に残るキハ603は、耶馬溪線用として昭和35年に製造され、同線の廃止後、紀州鉄道へ転じたものである。
さらに大分と別府を結ぶ軌道の別大線も大分交通である。もちろん出自は様々だが、戦後の陸運統制で大分交通に一元化された。その後、大手バス会社に成長した大分交通は、鉄軌道部門の経営意欲を失い、昭和40年には宇佐参宮線、同41年には国東線が廃止となった。この2線の廃止で、在籍していた車両のほとんどがここ中津の車庫に集められ、写真で見られるような光景が出現した。DCあり、客車ありと、すごい数の車両が車庫を埋め尽くしている。建屋の中にはクラウス社製の蒸機1444号機も保存されていた。

手前はガソリンカーを客車化したハフ16 2・3両目は木造Wルーフのホハフ101・102

客車は宇佐参宮の団体列車など波動用として多くを保有していた。ボキーあり、二軸あり、片ボギーありで、そのほとんどが木造車である。この時代でも、木造車は地方のローカル私鉄に辛うじて残っている程度で、これほどのズラリ並んだ木造車は、たいへん珍しい光景だった。しかも、訪問するつい4年ぐらい前までは、これら二軸車が現役で走っていたというから驚きで、今も整備状態も良く留置されている。ほとんどの車籍はなかったが、男子更衣室、女子更衣室といった札が各車両に掲げられ、有効に活用されている様子だった。
その後、この耶馬溪線も昭和46年に山間部の野路~守実温泉が部分廃止され、残る中津~野路も昭和50年に廃止、軌道の別大線も昭和47年に廃止され、大分交通から鉄軌道はすべて消えてしまうのである。

オープンデッキ、木造、Wルーフ、二軸のハフ27 新宮鉄道の開業時に造られ、鉄道省に買収された後、耶馬溪線に転じた