43年前の美祢線・大嶺線(2)

南大嶺から123レに乗車、大嶺駅に着きました。

ここ大嶺線は、古くは海軍省が無煙炭を採掘、徳山まで輸送した。日清・日露海戦の頃、無煙炭は艦船の燃料として重要だったそうな。また一方、小野田セメントは大嶺産の石灰石を自社工場まで輸送するなど、重要な石炭輸送・石灰石運搬線である。

同上、オールセキの発車。

南大嶺から乗車してきた633レは、折り返し636レとなる。大嶺駅唯一つのホームに停車。

大嶺駅舎、背後はボタ山。てっぺんにコンベア施設が見える。この時は1966年で、次の1963年写真ではまだ低かったボタ山がかなり高くなっている。

1963年、大嶺付近の航空写真(国土地理院撮影、MCG633X-C3-3、無断での掲載をお許しください)
ボタ山とコンベア施設が高空からも見える。現在このボタ山はすっかり無くなったそうだが、google の地図/航空写真では、ボタ山のあったところだけがいまでも黒く見える。樹木がいまだに生えていないようです。

徳山方面から空のセラ群が到着。

南大嶺行きの客扱い発車。客車とワフ各一輌。

ホキ・セラの貨573列車発車。

北側の線路は一段高くなっており、その先の西寄りに、ホッパーや種々の施設がある。今も貨車がホッパーの下に入り積み込みの最中。

構内の東側。

構内の北西部。

大嶺駅構内を出発、徒歩で南大嶺に向かった。
一編成で往復している客扱いが、逆向きC58で戻ってきた。

大嶺-南大嶺間、青田の中を行くホキ・セラの姿は、比較的珍しい光景である。
背後にボタ山とコンベア施設が見える。

ここは、もう南大嶺に近い。

前回掲載のダイアは小さくて見難かったかもしれないので、再度掲載します。

 

早朝から、蒸機が曳く多くの石炭、石灰列車に満足し、南大嶺から長門市に向かった。翌日は山陰線の飯井-三見間などで山陰線を、翌々日には山口線を撮影した。まだ蒸機が各地で活躍していた、1966(昭和41)年の夏のことでした。

43年前の美祢線と大嶺線(1)

 デジタル青信号読者のみなさん、お久しぶりです。
 893-2さん、美祢線の写真をありがとうございます。お陰さまで刺激を受け、43年前を思い出し、投稿しました。小生のホームページに美祢線も掲載予定で、枠を設定しているのですが、現在は東北地方を作成中、それも最近は進捗ままならずの状態、中国地方にとどくのは一体いつ頃か皆目見当もつかない状況です。
 でも、タイムリーなことも必要かと、先にデジタル青信号に投稿することにしました。ご覧ください。

 撮影は、1966(昭和41)年 8月14日、43年前でした。フィルムは TRI-X と AGFA です。

  夏の朝6時前に厚保(あつ)駅から、松ヶ瀬信号所方向に徒歩で南下。線路と厚狭川と細い道路が一体で、奥畑地区まで約1km続く。奥畑に到着した頃、川面の霧がようやく晴れ、早速オール・セキの石灰石輸送列車が通過して行きました。
 先の貨物と、松ヶ瀬信号所で交換した、空車のやはりオール・セキ車、美祢行きが通過。早朝ゆえに蒸気が白い。D51のバック運転です。 
空車の轟音が耳をつんざくばかり。線路脇の狭い空間から風圧で飛ばされそう。       

 約30分後、やはりセキの一辺倒。空は曇り空、熱くなくて助かるがやはり青色でないと。   

 先の貨物と厚保駅で交換した、上り客車。長門市発です。美祢線の客車列車はたったの1往復しかありません。下り列車は夕方6時以降の運行、夏でも撮影は困難でしょう。

 間髪をいれずに、セキと無蓋・有蓋車の混合編成が通過。

ここで、厚保駅方向に戻る。見下ろせる高台を登ったり降りたり。厚狭川と山に挟まれた狭い空間に線路があり、なかなか広く見渡せるところが無い。二つのトンネルに挟まれた鉄橋で撮る。

 厚保駅手前、左のトンネルを越えるとすぐに駅。

駅手前で下り貨物を。  

厚保駅に戻る。藁ぶきの大きな屋根の民家が右に見える。

 戻ったのが丁度13時。この間の7時間で撮影した貨物は上下16本でした。なにしろ6時から18時までの12時間で30数本のセキ・ホキ貨物が通過する幹線です。少し見難いのですが、中国支社昭和41年10月1日改正、41年3月25日補訂のダイヤを掲載します。上下二段に編集ししています。拡大してご覧ください。 

 厚保から、729Dで南大嶺へ、さらに633レで大嶺に向かいました。次回は大嶺駅構内や、ボタ山の写真などをご覧ください。