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【1580】Re:長岡京駅付近の煉瓦アーチ
 米手作市  - 08/9/9(火) 23:09 -
  
話題が少し古くなりましたが追加資料を提示いたします。
先日長老にお目にかかったところ、鉄路閣の25連橋ほどではないが桂川の京都よりにも避溢きょうがあったはずだ、調べろとのご命令を頂きました。
そこで暑い間は現地調査はせず、手持ち資料を探してみました。
昭和三十年代前半、まだ新幹線はなくEH10やEF58が新型として走り出した頃です。西大路駅から桂川までの間は単なる土手で登るのも簡単、東海道線を横断しながら写真を撮っていたのですね。
いまの葛野大路とその東にある小川にコンクリート製ではあるがそれらしいものが写っています。
@西大路駅西方北側(湯浅電池側から)
A同位置南側(現ワコール本社側から)
B葛野大路道路橋(現在は4車線の幹線道路)

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【1579】仙台市電V
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/9/9(火) 23:03 -
  
引続き第3回目のモハ130形を紹介する。

昭和38年に琴平参宮電鉄より譲り受けたモハ180形に続き、昭和40年茨城交通より譲り受けた車両で、モハ131〜140の10両が在籍した。

上水戸〜水戸駅前〜大洗間を営業していた茨城交通水浜線が昭和40年6月11日水戸駅前〜上水戸間の営業廃止した時に余剰車を譲り受けたものである。尚、水浜線は翌年の41年6月1日全線の営業を廃止している。

モハ130形と1形式にまとめられているが、製造年が昭和26年から35年まで長期に亘っているため形態的には2両ずつ5種類に分かれている。初期の車両は、形態的にはモハ100形と類似しており、製造所も新潟鐵工所と共通部分が多く、ワンマン改造の上、長く使用されると思っていたが昭和49年にあっさり廃車されてしまった。

(写真1)モハ131     昭和43年9月4日
昭和26年製で131、132の2両在籍した。茨城交通時代の車号は129、130であった。モハ100形と比較してサイズ的には車体長は100形が11,400oに対し、12,200oと800o長く、車体幅は100形が2,174oに対し、2,160oと14o狭かった。

(写真2)モハ134     昭和43年9月7日
昭和28年製で133、134の2両在籍した。茨城交通時代の車号は131、132であった。屋根が木製帆布張りから鋼板張り上げ構造となった他は、131、132と大差はない。

(写真3)モハ136     昭和43年9月7日
昭和29年製で135、136の2両在籍した。茨城交通時代の車号は133、134で
あった。モハ133、134との相違は上窓がHゴム支持となった。

(写真4)モハ137     昭和43年9月4日
昭和32年製で137、138の2両在籍した。茨城交通時代の車号は135、136で
あった。スタイルは、正面が大型2枚窓、扉の下部がガラス入りとなり、大きく変化した。

(写真5)モハ139     昭和43年9月4日
昭和35年製で139、140の2両在籍した。茨城交通時代の車号は137、138で水浜線最後の新車であった。スタイルは、正面が再び3枚窓に戻り、扉は従来の2枚引き戸から1枚引き戸となった。また、台車は従来のBrill76Eから新型のNP-101となった。
新製後わずか5年で路線廃止により売却され、更に10年足らずで廃車となった。

添付画像
【モハ131.jpg : 142.2KB】

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【モハ134.jpg : 113.6KB】

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【モハ136.jpg : 104.1KB】

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【モハ137.jpg : 84.4KB】

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【モハ139.jpg : 75.3KB】
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【1578】仙台市電U
 藤本哲男 E-MAIL  - 08/9/9(火) 22:53 -
  
第2回目はモハ100形ワンマン改造後とモハ200形を紹介する。

1.モハ100形(ワンマン改造後)
モハ100形は【1541】でも述べた通り、昭和23年から27年まで24両製作されたが、それ以前、戦時中に新潟鉄工所に発注していた5両は財政難のため引取ることが出来ず、注文流れとなり名古屋市に引取られた。名古屋市では形式を仙台市の注文流れから1070形(1071〜1075)と付けられ、昭和43年まで使用された。僅か5両の少数派のため目立った存在ではなかったが、クローバー会会員で撮影された方がおられたと思ったので、画像の公開を期待したい。

昭和23年製のモハ101〜105はワンマン改造されることなく昭和49年廃車。106〜124の19両が改造され廃止まで活躍した。この時、正面3枚窓の左右非対称の2段窓化、前後扉の前中扉化等が実施された。

廃止後、モハ123は平成3年4月、地下鉄富沢車両基地に隣接して作られた「仙台市電保存館」にモハ1、モハ416と共に保存され一般公開されている。

また、モハ117〜119、121、124の5両は長崎電軌に譲渡され、台車を西鉄から購入したものと取り替え、番号順に1050形(1051〜1055)となった。形式の「1050形」は仙台から来たという意味で付けられた。主力として使用されていたが、冷房改造の対象とならず、動態保存的に残されている1051以外は廃車となった。廃車された車両の内、1053は仙台市の個人の方に引取られ、旧秋保電鉄の秋保温泉駅跡に保存、1054はオーストラリアのシドニー・トラムウェイ・ミュージアムに動態保存、1055は佐賀県鹿島市の保育園で保存されている。

(写真1)モハ119      昭和43年9月7日     仙台駅前
モハ119は廃止後、長崎電軌に譲渡され、同社の1053となり、平成18年廃車後、前述の通り、里帰りを果たし、秋保温泉駅跡に保存されている。

2.モハ200形
昭和29年から32年にかけて11両作られた全鋼製車で、流線型、正面2枚窓のスタイルは都電5500形をモデルにしたと云われている。昭和29年に201〜205、翌30年に206〜208がナニワ工機(現アルナ工機)、昭和32年に209〜211が日車で作られた。車内照明は蛍光灯となり、リコ式(反転式)の吊り手と共に新車であることをアピールした。昭和43年ワンマン改造時に正面2枚窓の内、運転台側を大型化し、左右非対称となった。

(写真2)モハ204      昭和40年3月22日    仙台駅前
昭和29年製の1次車、当初はビューゲルであったが、後日Zパンタに取り替えられた。
ワンマン改造前のオリジナルスタイル。

(写真3)モハ202      昭和43年9月7日     仙台駅前
昭和29年製の1次車でワンマン改造後

(写真4)モハ206      昭和43年9月4日     仙台駅前
昭和30年製の2次車はパンタグラフであった。

(写真5)[参考 都電5506] 昭和42年3月26日   品川駅前
都電5500形は、まず5502が国産の防音台車とWN駆動の高性能車として昭和28年に誕生、翌29年にアメリカのPCCのパテントを買って5501が作られた。翌30年に国産の機器で5503〜5507が増備された。5500形を2回り位小さくすると仙台市のモハ200形のスタイルになるのだろう。本来はパンタグラフであったが、後日ビューゲルに取り替えられた。
都電のスタイルが地方都市の路面電車に与える影響は大きく、6000、7000、8000の各形式でもよく似た車両が存在する。

添付画像
【モハ119ワンマン.jpg : 122.2KB】

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【モハ204.jpg : 77.8KB】

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【モハ206ワンマン.jpg : 113.3KB】

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【5506.jpg : 108.1KB】
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【1577】Re:作並機関区の今
 乙訓の老人 E-MAIL  - 08/9/9(火) 7:07 -
  
▼乙訓の老人さん:
>▼K.H.生さん:有難う

またしてもスカタン

機関区事務室は2枚目写真の左側、斜面の上です。機関区長自慢のGEのプレートはどうなったのでしょうか。次は、これでまたまた年賀状、です。もう一つ、仙山線全線電化後の です。書籍の名は「もっともっと仙山線」です。平成6年9月刊で、内容は素晴らしいものです。以上、訂正と追加です。
>
>49年後の光景に感激しています。機関区事務室は石段を上った高台にありました。その位置は最初の写真右側であった様に思います。作並温泉は青葉区に所在するのだそうで、仙台市域は西に深いことを知らして下さったのは1994年盆休みに、栗電沢辺駅で声掛した親子つれ3人の父親でありました。幼児の写真を送らせて頂いた後、数回年賀状が往復しましたが、その時に作並が仙台市に組み込まれている事を知りました。あの時の幼児は当時2歳、もう高校生になっているはず。女子と思っていたら周(あまね)君、つまり男子だったのです。
>その父親から3年前、友人の作った仙山線についての書籍を送って下さいました。
>仙山線電化ごの詳細が紹介されているものです。これでた年賀状が復活しましが、お仕事がIT関係だそうで、たまたま公開されているホームページを見ていたらデジタル元祖青信号が目に入り、老人の事を思い出し書籍を送って下さったのです。
>鉄道趣味者ではないそうですが、ときおり掲示板を開いて下さっているようです。
>作並機関区のことが話題となり、気付いておられたら年賀状に反応があるかもしれません。それはそれとして頂戴した仙山線の書籍、国鉄ファンの方にお譲りしたいと思います。老人まで連絡願います。希望者複数の場合は掲示板上でジャンケンでもしてもらいましょうか。
>
>乙訓の老人氏、藤本氏、tsurukame氏皆様の仙山線試験電化時代の
>>作品を見て、交流電化の黎明期の雰囲気に感動していた九州育ちの私。
>>
>>4〜7と遅い夏休みが採れたので、これは一度「聖地訪問」して
>>おいても良いだろうと、青春18が4日分残っていたので
>>夜行バスと合わせて北海道まで学生顔負けの鈍行旅行を敢行する
>>途中、作並に寄ってきました。
>>ここからはモノクロ画像に往時を偲ぶから一転、いまの記録です。
>>
>>1、現在の作並駅。仙山線の主要駅ですが無人、また仙台近郊は
>>東北福祉大など通学、通勤の客で混みますが、この駅まで来ると
>>乗降客も少なく、跨線橋の設備もなく未だにホームの端から
>>本屋、改札に向かいます。
>>
>>2、旧作並機関庫。上屋は遠目から健在と分かりました。
>>現在は保線用車両などの車庫となっていました。外観は綺麗なので
>>後年の手が加わっています。
>>
>>3、車庫内の天井部分。アスベストもたっぷり残っていそうですが
>>鉄骨などに昔を偲べそうです。架線等は外され電気機関車用の機関庫
>>だったことは、今の姿からは想像しにくいでしょう。
>>
>>4、この扉には見覚えのある人もおられそうな。原型の留める一部。
>>
>>5、下回り点検用のピット。昔の機関車は水銀整流器だったので
>>底に溜まった水などから有害物質がいっぱい出て来そうな雰囲気です。
>>
>>庫内をうろうろするのは気が咎めたので写真はこのくらいに。
>>でもここで試作車たちを整備し得た技術データが北陸線、東北線、九州の
>>交流電化につながりひいては世界に飛躍する技術となった東海道新幹線まで、
>>わずか10年ちょっとの革新の時代。それを思うと何とも感無量でした。
>>駅のホームにはひっそりと「交流電化発祥の碑」が建っていました。
>>
>>交流機ED44や45たちの運転や整備、技術の習得に活躍した人たちも過去に近く
>>なり、英国製ED17との比較や直流との性能の違い、ここで古人らは
>>何を考え、将来を思ったのでしょう。
>>一句浮かびました。
>>
>>作並やEDたちが夢の跡
>>
>>芭蕉に憧れどうしても一句出てくる東北の旅ですが、きょう日
>>EDというと、違う意味にとられるので声に出せませんでした。
>> おあとが宜しいようで。。。
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【1576】事故速報
 米手作市  - 08/9/8(月) 23:45 -
  
一畑電鉄・デハニ50が軽トラと衝突。
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【1575】おじん2人ヨーロッパ軽便 番外追記
 湯口 徹  - 08/9/8(月) 14:48 -
  
「おじん2人ヨーロッパ軽便」は一体どこまで続くのか、これではまるで旧軍歌「どこまで続くぬかるみぞ」ではないかとの声があるやに漏れ聞くが、幸か不幸か(後者?)小生は耳が遠い。

ところで先回[1571]で訂正が。7文節目、ヌオロでの夕食で「夫婦で経営している小さな云々」で「チェントロ」と記したのは当然「ビストロ」の誤り。これはまさしく加齢・耄碌故のミスに他ならない。

また最後から3文節目、「6車体6軸」の超低床車とは、これも当然「5車体6軸」の誤り。大体が6車体に6軸など配しようがあるまい、とは開き直り。スンマヘン。

ところでサルディーニャの新路面低床電車に関し、本掲示板の「隠れ読者」である服部重敬氏が、本夏駆け足でサッサリ、カリアリの両線を訪問された由。小生宛メールで送付頂いた写真を、ご本人のお許しを得て転載添付する。

なおサッサリではアルゲッロへの線は運行中、ソルソおよびヌルヴィへの線はバス代行だそうで、前者はLRT化工事のため、後者は恐らく復活はないのであろう。現在サッサリ市内にはブレダ(イタリア)製電車が走行中。サッサリ駅前の写真は、[1518](8月7日)拙稿挿入「新設中の線路」と対比されたい。


本年3月LRT化運行開始したカリアリ−モンセラット(実際はその手前で左に折れたゴッダルドで従来のDC、DL列車に接続)間の電車はシュコダ(チェコ)製、との由。従前のカリアリ終点を綺麗に改修してそのまま起点として使っており、これも[1378](5月25日)拙稿挿入「情けない起点」の反対側(駅側)からの撮影である。服部氏に厚くお礼申し上げる。

添付画像
【サッサリ駅前.jpg : 332.4KB】

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【サッサリ.jpg : 214.4KB】

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【カリアリ駅.jpg : 344.2KB】

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【1574】Re:作並機関区の今
 乙訓の老人  - 08/9/8(月) 14:30 -
  
▼K.H.生さん:有難う

49年後の光景に感激しています。機関区事務室は石段を上った高台にありました。その位置は最初の写真右側であった様に思います。作並温泉は青葉区に所在するのだそうで、仙台市域は西に深いことを知らして下さったのは1994年盆休みに、栗電沢辺駅で声掛した親子つれ3人の父親でありました。幼児の写真を送らせて頂いた後、数回年賀状が往復しましたが、その時に作並が仙台市に組み込まれている事を知りました。あの時の幼児は当時2歳、もう高校生になっているはず。女子と思っていたら周(あまね)君、つまり男子だったのです。
その父親から3年前、友人の作った仙山線についての書籍を送って下さいました。
仙山線電化ごの詳細が紹介されているものです。これでた年賀状が復活しましが、お仕事がIT関係だそうで、たまたま公開されているホームページを見ていたらデジタル元祖青信号が目に入り、老人の事を思い出し書籍を送って下さったのです。
鉄道趣味者ではないそうですが、ときおり掲示板を開いて下さっているようです。
作並機関区のことが話題となり、気付いておられたら年賀状に反応があるかもしれません。それはそれとして頂戴した仙山線の書籍、国鉄ファンの方にお譲りしたいと思います。老人まで連絡願います。希望者複数の場合は掲示板上でジャンケンでもしてもらいましょうか。

乙訓の老人氏、藤本氏、tsurukame氏皆様の仙山線試験電化時代の
>作品を見て、交流電化の黎明期の雰囲気に感動していた九州育ちの私。
>
>4〜7と遅い夏休みが採れたので、これは一度「聖地訪問」して
>おいても良いだろうと、青春18が4日分残っていたので
>夜行バスと合わせて北海道まで学生顔負けの鈍行旅行を敢行する
>途中、作並に寄ってきました。
>ここからはモノクロ画像に往時を偲ぶから一転、いまの記録です。
>
>1、現在の作並駅。仙山線の主要駅ですが無人、また仙台近郊は
>東北福祉大など通学、通勤の客で混みますが、この駅まで来ると
>乗降客も少なく、跨線橋の設備もなく未だにホームの端から
>本屋、改札に向かいます。
>
>2、旧作並機関庫。上屋は遠目から健在と分かりました。
>現在は保線用車両などの車庫となっていました。外観は綺麗なので
>後年の手が加わっています。
>
>3、車庫内の天井部分。アスベストもたっぷり残っていそうですが
>鉄骨などに昔を偲べそうです。架線等は外され電気機関車用の機関庫
>だったことは、今の姿からは想像しにくいでしょう。
>
>4、この扉には見覚えのある人もおられそうな。原型の留める一部。
>
>5、下回り点検用のピット。昔の機関車は水銀整流器だったので
>底に溜まった水などから有害物質がいっぱい出て来そうな雰囲気です。
>
>庫内をうろうろするのは気が咎めたので写真はこのくらいに。
>でもここで試作車たちを整備し得た技術データが北陸線、東北線、九州の
>交流電化につながりひいては世界に飛躍する技術となった東海道新幹線まで、
>わずか10年ちょっとの革新の時代。それを思うと何とも感無量でした。
>駅のホームにはひっそりと「交流電化発祥の碑」が建っていました。
>
>交流機ED44や45たちの運転や整備、技術の習得に活躍した人たちも過去に近く
>なり、英国製ED17との比較や直流との性能の違い、ここで古人らは
>何を考え、将来を思ったのでしょう。
>一句浮かびました。
>
>作並やEDたちが夢の跡
>
>芭蕉に憧れどうしても一句出てくる東北の旅ですが、きょう日
>EDというと、違う意味にとられるので声に出せませんでした。
> おあとが宜しいようで。。。
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【1573】Re:こんなもんも安置しています!
 tsurukame E-MAILWEB  - 08/9/8(月) 9:15 -
  
大阪通信員様。安置してあるヘッドマークが写っていました。
No.1〜3、及びNo.5は1965年3月14日撮影、
No.4は、1961年6月11日、まだ奈良電鉄時代です。

 1.奈良線モ8500型、油坂−奈良
 2.奈良線モ800型、同上
 3.京都線モ820型、奈良駅
 4.奈良電鉄時代の同所、デハボ1200型と1000型
 5.京都線モ430型(これは旧奈良電鉄時代のデハボ1000ですよね)
 

話は変わって、米手作市さんを始め、『暖房車』関連記事と写真を投稿の方々へ。
この猛暑の中、暖房車の詳細を教えていただきありがとうございました。お陰で汗がさらに噴き出してきました。小生年甲斐もなく汗かきでして、使用したタオル枚数は、昨日の日曜日も10枚以上でした。

添付画像
【06513h4.jpg : 92.8KB】

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【06516h4.jpg : 68.6KB】

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【06514h4.jpg : 89.0KB】

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【1572】作並機関区の今
 K.H.生  - 08/9/8(月) 4:19 -
  
一連の乙訓の老人氏、藤本氏、tsurukame氏皆様の仙山線試験電化時代の
作品を見て、交流電化の黎明期の雰囲気に感動していた九州育ちの私。

4〜7と遅い夏休みが採れたので、これは一度「聖地訪問」して
おいても良いだろうと、青春18が4日分残っていたので
夜行バスと合わせて北海道まで学生顔負けの鈍行旅行を敢行する
途中、作並に寄ってきました。
ここからはモノクロ画像に往時を偲ぶから一転、いまの記録です。

1、現在の作並駅。仙山線の主要駅ですが無人、また仙台近郊は
東北福祉大など通学、通勤の客で混みますが、この駅まで来ると
乗降客も少なく、跨線橋の設備もなく未だにホームの端から
本屋、改札に向かいます。

2、旧作並機関庫。上屋は遠目から健在と分かりました。
現在は保線用車両などの車庫となっていました。外観は綺麗なので
後年の手が加わっています。

3、車庫内の天井部分。アスベストもたっぷり残っていそうですが
鉄骨などに昔を偲べそうです。架線等は外され電気機関車用の機関庫
だったことは、今の姿からは想像しにくいでしょう。

4、この扉には見覚えのある人もおられそうな。原型の留める一部。

5、下回り点検用のピット。昔の機関車は水銀整流器だったので
底に溜まった水などから有害物質がいっぱい出て来そうな雰囲気です。

庫内をうろうろするのは気が咎めたので写真はこのくらいに。
でもここで試作車たちを整備し得た技術データが北陸線、東北線、九州の
交流電化につながりひいては世界に飛躍する技術となった東海道新幹線まで、
わずか10年ちょっとの革新の時代。それを思うと何とも感無量でした。
駅のホームにはひっそりと「交流電化発祥の碑」が建っていました。

交流機ED44や45たちの運転や整備、技術の習得に活躍した人たちも過去に近く
なり、英国製ED17との比較や直流との性能の違い、ここで古人らは
何を考え、将来を思ったのでしょう。
一句浮かびました。

作並やEDたちが夢の跡

芭蕉に憧れどうしても一句出てくる東北の旅ですが、きょう日
EDというと、違う意味にとられるので声に出せませんでした。
 おあとが宜しいようで。。。

添付画像
【DSC04250.JPG : 153.0KB】

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【DSC04259.JPG : 147.9KB】

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【1571】おじん2人ヨーロッパ軽便 その22-13
 湯口 徹  - 08/9/6(土) 21:46 -
  
IL TRENINO VERDE サルディーニャ島緑の列車 ヌオロ−アルバタックス−カリアーリ

またもや順序が入れ替わり恐縮(これすべて小生の軽率+加齢現象なり)だが、テンピオ・パウサニア−パラウ・マリーナ間に夏季1日2往復のみ運行する専用客車の室内をご覧頂きたい。「まるでサウナ」のオール木質である。

今は知らないが、冷房など無かったかつての東南アジアやインドの3等客室は、座席もすべて木材で、なまじテレンプなどが無いためかえって涼しかった。およそ半世紀前の江若鉄道で夏季しか使わないホハ102〜104の座席も同様であった。

我々は午前の列車を撮って国道125号線を経由し、東海岸の港町オリビアへ。ここには標準軌間の国鉄線が、さら東北のゴルフォ・アランシィまで伸びている。安く上げる積りの駅バールがシェスタで閉まり、町のリストランテ(チップ必要)でまともな昼食を。

さらに国道125号線(ハイウエイ)でヌオロへ。5日前予約しておいた小奇麗なホテルに入ったが、予想に違わずいい宿だった。一服し明日のロケハンに出かけ、3か所程をチエック。その帰路ヌオロ郊外で旧街道に入り込み、複雑な地形で道に迷った。

方角が分からなくなり、歩行中の親父に聞くと、後部ドアを開け、乗り込んでくるではないか。英語は解さないが道案内をしてくれるらしい。ところがとあるスーパーマーケットの前で降り、右を差す。何とこの親父、自分の目的地までヒッチハイクを決め込んだのだった。

この島ののんびりさ、安全さを示すものだろうが、当方にとって最初で恐らく最後の経験でもあった。

その晩はヌオロのチェントロ(旧市街)を歩き回り、先ずは本屋で下の娘から下命されていたハリー・ポッターの伊語版を、手帳に書いたメモを見せ購入。ついで町人に聞き、夫婦で経営する小さなチェントロを探し当てた。この島で最も旨かった夕食で、ブォーノといったら女将が喜び、菓子のようなデザートをどっさりサービスしてくれた。初の日本人客だったそうな。

翌早朝国道129号を西へ、一番列車を迎え撃つ。実は前日ヌオロ駅でディーゼルカーか、DL牽引客車列車か、駅員に食い下がって聞いたのだが、英語は通じず、結局分からず仕舞い。結果は後者だったが、乗客は皆無だった。

敵の速度が予想以上に速く、道路が自動車専用道路だからどこでも止められ、あるいはUターンできるわけでもなく、結局「大欲は無欲に似たり」で2回撮影がやっとで、ホテルに戻り朝食。ヌオロは海抜650m程度、途中1,000m以上の山脈を越え、13mのトルトリへ。

地平なのに地形が複雑で、トルトリ駅を探してとんでもなく狭く急勾配の道にはまり込んだ。しかもその先は民家の行き止まり。運転手兼先達の相棒が10回以上ハンドルを切り直し、やっと向きを変えたが、舗装はされていても勾配がきつく、車はむなしくスリップし、エンストを繰返す。

小生が背後から押したが歯が立たない。かくなれば最後の手段は、また向きを変え、バックで上るしかない。ローよりも、バックの方がギヤ比が大きいからで、かつてのTフォードは2速で、バックがスペアーローでもあり、上れない坂はバックで上れ、というマニュアルだった(由)。

折角向きを変えたのだが、そこでふと気付き「エアコンを切ってみろ」と相棒に。とすると、あら不思議やな。車は嫌々ながら前進して急場は乗り切れた。このワンボックスカーは、日本なら2,000は下るまいが、ヨーロッパだから多分1,500cc未満だったようだ。

帰国して自動車に詳しい仲間に聞くと、エアコンは20%ぐらいエンジンの力を消費することがあるそうな。

結局トルトリ駅は見付からず仕舞いで、アルバタックスを経、快適な125号線を飛ばしてカリアリへ。その手前には塩田が広がり、山岳と平地が組み合わされたこの島の旅は日本人に一度も会わずに終わりに近づいた。

その途中、道端に小さな小さなヌラーゲを見付け、車を路肩に止めて記念撮影をした。ヌラーゲとは、この島に残る、7,000とも8,000基ともいわれる先住民族の石積遺跡で、その最大のものは島で唯一世界遺産になっている。用途は不明。

その間我々はつい日本の習慣で、ハザードランプを点灯していたが、パトカーがやってきたではないか。どうやら対向車が見付け、外国人が立往生?と通報したらしい。警官は事故でもないのに、ハザードランプを点けるな、と警告(伊語なので、あくまで「らしい」)して去っていった。

カリアリで予約済ホテル(これは結構なホテルだった)に入り、空港で車を返却。知らぬ間に1ヵ所軽いスクラッチが付けられていたが、我々の申告には肩をすくめ「ノー・プロブレム」で無罪放免。これがイタリアのいいところであろう。

その日は街中のスーパーで日本に比し激安のからすみなどを買い、翌日は朝からカリアリ旧市街を歩き回り、ローマ時代の遺跡(円形劇場もあり)や教会を見学。タクシーで空港へ。

蛇足だが、このカリアリにサッサリに次ぎ今年3月、6車体6軸のシュコーダ(チェコ)製超低床電車が運行開始したそうな。ピアッツア・リパブリカから車両基地のあるモンセラットのすぐ北、ヴィアサン・ゴッタルドまで、単線のまま、7停留所間を電化したのである。ユーチューブでも複数の動画が見られる。因みに電車撤廃は1973年だった。

時間が余り、予定より早い便でレオナルド・ダビンチ空港へ。ところがここで最後の事件が発生した。乗客100人余りが待てど暮らせど荷物が1個も出てこず、ターンテーブルが空しく回転するのみ。皆の衆辛抱強く待つこと1時間余り。流石にキレた御仁が掛け合いに行くと、途端に堰を切って荷物がドカドカと。

何のことはない、荷物の投入口で閊えたまま、1時間余を経過したのであった。こっちは時間がありすぎて平気だったが、乗り継ぎが迫っていたら大変だった。ドイツやスイス、勿論日本でもあり得ない、ごく日常的なトラブル=まさしくイタリアだったのである。

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【1570】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 田野城 喬  - 08/9/6(土) 15:47 -
  
連投お許し下さい。
昨日はカメラを持たずに行ったので、改めて写真を撮りました。
一部に勘違いもありそうなのでご検討下さい。
@駐車場を油小路から東を望む。正面奥が京都駅。車の後ろに擁壁が見える。
A擁壁の南側。石垣が残っていた。
B猪熊通りの民家。
C粟嶋堂のレンガ。どうも工事したときの残りをおいているようだ。古いようには見えなかった。
D特派員氏のいう中学校の塀。

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【1569】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 総本家・青信号特派員  - 08/9/5(金) 23:51 -
  
▼田野城 喬さん:
ご愛読、ありがとうございます。私の不確実な記述を、思い出とともに補足していただきました。
オムロンのところは、現状を再確認してからと思いながら、記憶だけで書いてしまいました。石積みの擁壁はまだ残っているのですね。粟嶋堂は以前に行って、堂前の煉瓦敷きがなくなっているのは確認しているのですが、まだ裏手に残っているのですか。これが旧線時代の廃棄煉瓦とすれば、大発見だと思います。貴重な情報、ありがとうございました。

地図も3点掲載されていますが、とくに興味を引いたのは、真ん中の地図、大正11年のものです。旧線から現在線に移ったのが大正3年ですからその直後に編集されたことになります。駅前広場を見ると中央を点線が東西に横切っています。この点線は地番を区切るための線だと想像され、おそらく旧線の北端とも一致するのではと思います。その根拠として、その線をそのまま西へ延長してみると、ちょうど問題の国鉄バス裏の石垣のある場所へ行き着きます。

ご質問の猪熊通が線路と交差する北側の煉瓦土台の家、列車からもよく見えます。おそらく大雨でガード下が浸水したときに、家屋が浸水するのを避けるために、あのような土台になったと思いますが、京都ではまず見られない非常に珍しい工法だと思います。煉瓦が鉄道廃材からの転用かどうかとのご質問ですが、これはよく分かりませんが、鉄道廃材ではないような気がします。
鉄道廃材の転用は、公共施設かそれに近い施設に限られ、民間の家屋には及んでいないのではと推察されるのと、明治期の煉瓦は現在に比べてサイズが小さかったそうです。電車から見る限り、現在のサイズのようにも見えます。

このシリーズ、もう少し持ちネタがありますので、次回もお楽しみください。
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【1568】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 田野城 喬  - 08/9/5(金) 17:09 -
  
▼総本家・青信号特派員さん:
国鉄バス車庫に残っていた旧線の擁壁
>その国鉄バス京都営業所の南側に沿って細い道があり(現在でもあるが)、西側の油小路通へ抜けていた。>道路側の一部は石積みの擁壁となって国鉄バス用地に続いていた(写真4)。かなり古色蒼然とした石積みで、開業時と断定はできないものの、旧線時代に築かれたものであると大西顧問は推測されている。

少し思い当たる節があったので、いま行ってみた。
この石垣はやはり残っていた。この“細い道と油小路通りの出会うところ”の南側にコインパーキングがある。入り口から東を見るとJR西日本の駅舎の西端が見えるが、ここが一段高くなっている。以前はこの段差部分に石垣があったが今はコンクリートの擁壁になっている。そこまで行ってみると右の端(南端)が以前の石垣であった。ビルにはさまれて車の陰にもなっているので見えにくく、駐車場にはみ出ているのは数メートルだけだがのぞき込むと更に南へ二十メートルほど残っていた。

粟嶋堂のレンガ
これも帰りに寄ってみた。確かに駐車場としてつかう関係か、アスファルト舗装になってはいたが北側の人形の棚の裏に古いレンガが十枚ほど積んであった。これが大西顧問のレンガかどうかは聞いてみないと分からないがもしそうなら嬉しい限りだ。

ついでに質問
猪熊通りが東海道線をくぐるためのトンネル(通称マンプ)の周辺にある家は道が下がるためお城のように高いところに建ててある。その足下がレンガなのだ。これは私が小学校に行っていた頃の友人宅もそうなっていたし今も同じだ。
ご高察をお聞かせ願いたい。
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【1567】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ
 田野城 喬  - 08/9/5(金) 15:40 -
  
このシリーズは大変興味深い、というより懐かしい。
というのはこの場所こそわが小学校区で、中心に安寧小学校と梅逕中学校があった。安寧小学校は堀川通りの拡張まで今の堀川塩小路交差点の真ん中にあり、拡張で西側に移転した後廃校となった。梅逕中学校も大宮陸橋と山陰線の交わる北東角にあったが統廃合で廃校となっている。
さて、乙訓の長老風に言うと小学校に通っている頃東海道線が電化され、蒸機の汽笛が鋭いホイッスルの響きに替わりEF15やEH10、EF58の牽く列車が通る度に見とれて先生に立たされたものであった。でも立たされた方がよく眺められるので一向に苦にならず、やがて先生も懲罰の効果がないことに気がついたか立たせなくなった。

手許に長老よりお預かりしている古地図がある。暇ができたらこれを眺めて妄想に耽るのが何よりの楽しみになっている。
明治期からの地図が系統だってファイルされてるので比較的見やすく、このシリーズでも地図と記憶を合わせながら楽しんでいる。
先の鉄路閣でも地図があるので推察や想像は簡単であった。以下に添付する地図は、上から
@明治42年(1909)作製の地図
A大正11年(1922)作製の地図
B現在の地図だが梅小路機関車館の表記がすでにあり、梅小路貨物駅も同時に存在しているので機関車館ができた昭和47年(1972)10月10日以降で、梅小路公園ができる平成6年(1994)までの地図である。

小学校の南側が道祖神社で不動堂町の名が残る。神社も敷地が削られて三分の一になった。その堺の道は塩小路通りで西洞院から西は狭い砂利道だったが@の地図にある通り南へ振っていた。しかし地図のように線路までは行かず今のロイヤルホテルの北側を西へ直進していたと記憶している。途中に粟嶋堂がある。地図には「おおみや」駅があるが、ここが梅逕中学校の位置であろう。

国鉄バスの車庫は塩小路西洞院を西へ行った南側、オムロン本社の位置にあった。最近までコインパーキングとして広場が残っていたのでこれは知っている方が多いと思う。ハトヤホテルの南隣でもある。石垣は塩小路通りからでもよく見えていた。

余談であるが七条大宮交差点は市電の分岐点だったが、昭和三十年代までは牛馬車が行き交うのどかな交差点でもあった。交差点内は花崗岩をブロック状にしたもので敷き詰められ、西洋の映画に出てくる広場のように思えたが、いまも一部が残っていた。大宮陸橋に沿って側道を南へ下がると東海道線の下へはいるがその直前の右側、陸橋の下にはいまも当時のままに扇形に敷き詰められているのが見られる。陸橋の上に残る市電の架線柱とともにいつまでも残しておきたい文化財である。

添付画像
【s-明治42京都駅.jpg : 0.6MB】

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【s-大正11京都駅.jpg : 442.2KB】

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【1566】京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 総本家・青信号特派員  - 08/9/4(木) 22:57 -
  
明治10年に開業した初代の京都駅は、よく知られているように、現在の駅前広場の東側付近にありました。それが、二代目駅舎の完成に伴い、大正3年に現在の位置に移転しています。初代の京都駅は、開業時の写真としてよく紹介されているホーム一面だけのごく小規模なもので、その後、東海道線の複線化で構内も拡張されたものの、2面3線に側線がある程度のもので、ローカル線の小駅と変わらない規模だったようです。現在では、初代の京都駅や旧線跡を偲ぶような遺構はいっさい残っていませんが、少し前までは“らしい”ものがいくつか残っていました。

(2)国鉄バス車庫に残っていた旧線の擁壁
現京都駅を西へ、塩小路通を行くと、オムロンの本社ビルが建っている。ここはかつて国鉄バス京都営業所があった場所で、その後の西日本JRバスが吉祥院に移転し、その跡地に同社本社が移転してきた。当時の国鉄バスの用地のほぼ南側半分が旧線部に相当する。
その国鉄バス京都営業所の南側に沿って細い道があり(現在でもあるが)、西側の油小路通へ抜けていた。その当時、道路に沿って仕舞屋が続き、駅前とは思えないような町並みがあった。
国鉄バスの用地は、その道路よりやや高い微高地になっていた。これは、かつての旧線時代に嵩上げされた盛り土部とみることができる。
道路側の一部は石積みの擁壁となって国鉄バス用地に続いていた(写真4)。かなり古色蒼然とした石積みで、開業時と断定はできないものの、旧線時代に築かれたものであると大西顧問は推測されている。
ここからさらに西へ油小路通まで行くと、煉瓦塀(前号のような鉄道廃材の利用か)、「工」マークの入った境界石柱、「ケ」と刻印された石柱など、小品ながらも旧線を偲ぶ遺構が連なっていた。

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