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【1566】京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2) 総本家・青信号特派員 08/9/4(木) 22:57 [添付]
【1567】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ 田野城 喬 08/9/5(金) 15:40 [添付][添付][添付]
【1568】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2) 田野城 喬 08/9/5(金) 17:09
【1569】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2) 総本家・青信号特派員 08/9/5(金) 23:51
【1570】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2) 田野城 喬 08/9/6(土) 15:47 [添付][添付][添付][添付][添付]
【1583】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2) 田野城 喬 08/9/10(水) 12:22 [添付]
【1585】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2) 総本家・青信号特派員 08/9/10(水) 23:33 [添付]

【1566】京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 総本家・青信号特派員  - 08/9/4(木) 22:57 -
  
明治10年に開業した初代の京都駅は、よく知られているように、現在の駅前広場の東側付近にありました。それが、二代目駅舎の完成に伴い、大正3年に現在の位置に移転しています。初代の京都駅は、開業時の写真としてよく紹介されているホーム一面だけのごく小規模なもので、その後、東海道線の複線化で構内も拡張されたものの、2面3線に側線がある程度のもので、ローカル線の小駅と変わらない規模だったようです。現在では、初代の京都駅や旧線跡を偲ぶような遺構はいっさい残っていませんが、少し前までは“らしい”ものがいくつか残っていました。

(2)国鉄バス車庫に残っていた旧線の擁壁
現京都駅を西へ、塩小路通を行くと、オムロンの本社ビルが建っている。ここはかつて国鉄バス京都営業所があった場所で、その後の西日本JRバスが吉祥院に移転し、その跡地に同社本社が移転してきた。当時の国鉄バスの用地のほぼ南側半分が旧線部に相当する。
その国鉄バス京都営業所の南側に沿って細い道があり(現在でもあるが)、西側の油小路通へ抜けていた。その当時、道路に沿って仕舞屋が続き、駅前とは思えないような町並みがあった。
国鉄バスの用地は、その道路よりやや高い微高地になっていた。これは、かつての旧線時代に嵩上げされた盛り土部とみることができる。
道路側の一部は石積みの擁壁となって国鉄バス用地に続いていた(写真4)。かなり古色蒼然とした石積みで、開業時と断定はできないものの、旧線時代に築かれたものであると大西顧問は推測されている。
ここからさらに西へ油小路通まで行くと、煉瓦塀(前号のような鉄道廃材の利用か)、「工」マークの入った境界石柱、「ケ」と刻印された石柱など、小品ながらも旧線を偲ぶ遺構が連なっていた。

添付画像
【写真4 国鉄バス裏の石積み.jpg : 213.4KB】
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 写真4 国鉄バス裏の石積み.jpg
・サイズ : 213.4KB
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【1567】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ
 田野城 喬  - 08/9/5(金) 15:40 -
  
このシリーズは大変興味深い、というより懐かしい。
というのはこの場所こそわが小学校区で、中心に安寧小学校と梅逕中学校があった。安寧小学校は堀川通りの拡張まで今の堀川塩小路交差点の真ん中にあり、拡張で西側に移転した後廃校となった。梅逕中学校も大宮陸橋と山陰線の交わる北東角にあったが統廃合で廃校となっている。
さて、乙訓の長老風に言うと小学校に通っている頃東海道線が電化され、蒸機の汽笛が鋭いホイッスルの響きに替わりEF15やEH10、EF58の牽く列車が通る度に見とれて先生に立たされたものであった。でも立たされた方がよく眺められるので一向に苦にならず、やがて先生も懲罰の効果がないことに気がついたか立たせなくなった。

手許に長老よりお預かりしている古地図がある。暇ができたらこれを眺めて妄想に耽るのが何よりの楽しみになっている。
明治期からの地図が系統だってファイルされてるので比較的見やすく、このシリーズでも地図と記憶を合わせながら楽しんでいる。
先の鉄路閣でも地図があるので推察や想像は簡単であった。以下に添付する地図は、上から
@明治42年(1909)作製の地図
A大正11年(1922)作製の地図
B現在の地図だが梅小路機関車館の表記がすでにあり、梅小路貨物駅も同時に存在しているので機関車館ができた昭和47年(1972)10月10日以降で、梅小路公園ができる平成6年(1994)までの地図である。

小学校の南側が道祖神社で不動堂町の名が残る。神社も敷地が削られて三分の一になった。その堺の道は塩小路通りで西洞院から西は狭い砂利道だったが@の地図にある通り南へ振っていた。しかし地図のように線路までは行かず今のロイヤルホテルの北側を西へ直進していたと記憶している。途中に粟嶋堂がある。地図には「おおみや」駅があるが、ここが梅逕中学校の位置であろう。

国鉄バスの車庫は塩小路西洞院を西へ行った南側、オムロン本社の位置にあった。最近までコインパーキングとして広場が残っていたのでこれは知っている方が多いと思う。ハトヤホテルの南隣でもある。石垣は塩小路通りからでもよく見えていた。

余談であるが七条大宮交差点は市電の分岐点だったが、昭和三十年代までは牛馬車が行き交うのどかな交差点でもあった。交差点内は花崗岩をブロック状にしたもので敷き詰められ、西洋の映画に出てくる広場のように思えたが、いまも一部が残っていた。大宮陸橋に沿って側道を南へ下がると東海道線の下へはいるがその直前の右側、陸橋の下にはいまも当時のままに扇形に敷き詰められているのが見られる。陸橋の上に残る市電の架線柱とともにいつまでも残しておきたい文化財である。

添付画像
【s-明治42京都駅.jpg : 0.6MB】

添付画像
【s-大正11京都駅.jpg : 442.2KB】

添付画像
【s-昭和47以降京都駅.jpg : 413.6KB】
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : s-明治42京都駅.jpg
・サイズ : 0.6MB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : s-大正11京都駅.jpg
・サイズ : 442.2KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : s-昭和47以降京都駅.jpg
・サイズ : 413.6KB
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【1568】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 田野城 喬  - 08/9/5(金) 17:09 -
  
▼総本家・青信号特派員さん:
国鉄バス車庫に残っていた旧線の擁壁
>その国鉄バス京都営業所の南側に沿って細い道があり(現在でもあるが)、西側の油小路通へ抜けていた。>道路側の一部は石積みの擁壁となって国鉄バス用地に続いていた(写真4)。かなり古色蒼然とした石積みで、開業時と断定はできないものの、旧線時代に築かれたものであると大西顧問は推測されている。

少し思い当たる節があったので、いま行ってみた。
この石垣はやはり残っていた。この“細い道と油小路通りの出会うところ”の南側にコインパーキングがある。入り口から東を見るとJR西日本の駅舎の西端が見えるが、ここが一段高くなっている。以前はこの段差部分に石垣があったが今はコンクリートの擁壁になっている。そこまで行ってみると右の端(南端)が以前の石垣であった。ビルにはさまれて車の陰にもなっているので見えにくく、駐車場にはみ出ているのは数メートルだけだがのぞき込むと更に南へ二十メートルほど残っていた。

粟嶋堂のレンガ
これも帰りに寄ってみた。確かに駐車場としてつかう関係か、アスファルト舗装になってはいたが北側の人形の棚の裏に古いレンガが十枚ほど積んであった。これが大西顧問のレンガかどうかは聞いてみないと分からないがもしそうなら嬉しい限りだ。

ついでに質問
猪熊通りが東海道線をくぐるためのトンネル(通称マンプ)の周辺にある家は道が下がるためお城のように高いところに建ててある。その足下がレンガなのだ。これは私が小学校に行っていた頃の友人宅もそうなっていたし今も同じだ。
ご高察をお聞かせ願いたい。
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【1569】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 総本家・青信号特派員  - 08/9/5(金) 23:51 -
  
▼田野城 喬さん:
ご愛読、ありがとうございます。私の不確実な記述を、思い出とともに補足していただきました。
オムロンのところは、現状を再確認してからと思いながら、記憶だけで書いてしまいました。石積みの擁壁はまだ残っているのですね。粟嶋堂は以前に行って、堂前の煉瓦敷きがなくなっているのは確認しているのですが、まだ裏手に残っているのですか。これが旧線時代の廃棄煉瓦とすれば、大発見だと思います。貴重な情報、ありがとうございました。

地図も3点掲載されていますが、とくに興味を引いたのは、真ん中の地図、大正11年のものです。旧線から現在線に移ったのが大正3年ですからその直後に編集されたことになります。駅前広場を見ると中央を点線が東西に横切っています。この点線は地番を区切るための線だと想像され、おそらく旧線の北端とも一致するのではと思います。その根拠として、その線をそのまま西へ延長してみると、ちょうど問題の国鉄バス裏の石垣のある場所へ行き着きます。

ご質問の猪熊通が線路と交差する北側の煉瓦土台の家、列車からもよく見えます。おそらく大雨でガード下が浸水したときに、家屋が浸水するのを避けるために、あのような土台になったと思いますが、京都ではまず見られない非常に珍しい工法だと思います。煉瓦が鉄道廃材からの転用かどうかとのご質問ですが、これはよく分かりませんが、鉄道廃材ではないような気がします。
鉄道廃材の転用は、公共施設かそれに近い施設に限られ、民間の家屋には及んでいないのではと推察されるのと、明治期の煉瓦は現在に比べてサイズが小さかったそうです。電車から見る限り、現在のサイズのようにも見えます。

このシリーズ、もう少し持ちネタがありますので、次回もお楽しみください。
引用なし
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【1570】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 田野城 喬  - 08/9/6(土) 15:47 -
  
連投お許し下さい。
昨日はカメラを持たずに行ったので、改めて写真を撮りました。
一部に勘違いもありそうなのでご検討下さい。
@駐車場を油小路から東を望む。正面奥が京都駅。車の後ろに擁壁が見える。
A擁壁の南側。石垣が残っていた。
B猪熊通りの民家。
C粟嶋堂のレンガ。どうも工事したときの残りをおいているようだ。古いようには見えなかった。
D特派員氏のいう中学校の塀。

添付画像
【s-P9070015.jpg : 271.3KB】

添付画像
【s-P9070020.jpg : 371.5KB】

添付画像
【s-P9070013.jpg : 317.6KB】

添付画像
【s-P9070026.jpg : 359.5KB】

添付画像
【s-P9070027.jpg : 255.0KB】
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : s-P9070015.jpg
・サイズ : 271.3KB

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・サイズ : 371.5KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : s-P9070013.jpg
・サイズ : 317.6KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : s-P9070026.jpg
・サイズ : 359.5KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : s-P9070027.jpg
・サイズ : 255.0KB
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【1583】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 田野城 喬  - 08/9/10(水) 12:22 -
  
手持ち最後の資料です。
昭和32年5月16日撮影の旧安寧小学校の全景です。
現在の堀川通りの七条からJR線間で、左に蛇行しているのは堀川です。人文字の書かれているのがグランドで右の校舎との間にある縦の細い道が堀川通りです。南側に東西へ延びてやや北へ振っているのが塩小路通り、右下に木が見えるのが道祖神社で今は東へ50mほど移動しています。
この旧堀川通りが今の堀川通りの西歩道あたりで、旧校舎から東へ現堀川通りが広がりました。グランドの南側に屋根の見えるあたりが今のリーガロイヤルホテルで旧東海道線は写真が切れる当たりを横切っていたのでしょうか。右上に少し見える通りが油小路通りです。
京都駅から塩小路通りを堀川方面へ向かうと交差点の正面に見える市営住宅はこのグランドに建っています。グランドの北側には現安寧校(廃校)校舎の新築工事が始まっています。

添付画像
【s-安寧校.jpg : 275.6KB】
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : s-安寧校.jpg
・サイズ : 275.6KB
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【1585】Re:京都駅付近の鉄道遺跡を偲ぶ (2)
 総本家・青信号特派員  - 08/9/10(水) 23:33 -
  
▼田野城喬さま&米手作市さま
京都駅付近の秘蔵の写真を惜しげもなく披露していただき、ありがとうございます。
【1580】の昭和30年代前半の西大路駅西の写真、鉄道少年時代の米手作市さまの様子がよく伝わってきます。危険を顧みない性格は、昔も今も変わらないのですね。下を流れるのは天神川ですか。ここは開業時代以来の区間であり、本来なら、開業時の煉瓦橋台があっても良さそうなのですが、昭和初期には写真に見られるコンクリート製に変えられています。ただし、ここから少し西へ行った箇所には、現在も開業時の煉瓦橋台が残っています。これは後日またご報告いたします。

【1583】の堀川塩小路付近の旧安寧小学校の写真も興味深く拝見しました。今の交差点のド真ん中にあったのですね。
それに関連して、戦後すぐの京都駅付近の航空写真を載せておきます。この航空写真は、昭和21年に米軍が日本全国を空撮したもので、国土地理院や地域の図書館で閲覧ができ、一部はネットでも閲覧することができます。戦前の廃線跡のように地上からではなかなか把握しにくいものでも、航空写真なら非常によく掴めます。
【1566】のように旧線時代の京都駅は、現在の駅前広場にありました。写真では駅前広場のちょうど中央を東西に横切っていたことになります。その左、写真ではちょうど真ん中にある白い用地(現在の中央郵便局用地)の南端をかすめて旧線は西へ延びています。旧線上に建てられた民家はきれいな方形になって横並びになっているのが分かります。【1570】の石垣もその線に沿っていることが、この写真からも理解できます。そして行き着くのが、南に振った塩小路通りとなり、田野城さまのアルバム写真の下辺に相当することになります。両者の写真を照らし合わせると、この付近の変化がより理解できますね。

添付画像
【昭和21年京都駅付近.jpg : 0.6MB】
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・名前 : 昭和21年京都駅付近.jpg
・サイズ : 0.6MB
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