■ 青信号表紙絵について
1957小使・沖中忠順

ワープロはおろかパソコンのパすら無縁な男にも「まる久」なる超一級の料亭に呼び出しが掛かった。当日の雰囲気は”窓”ですでに流布されていることであろう。席上、「先輩も何か投稿しなはれ、私らが打ち込みまんがな」と数名の方が言ってくれた。そこで2月4日拙宅にお越しの方々から質問のあった『青信号』表紙絵について思い出すまゝに43〜41年前のことを記すとしよう。本件は一度、60号に投稿したこともある。


1号 近鉄6800型 1958年12月10日発行
初代重沢編集長によれば、この頃、会員は各派に分かれ口角泡を飛ばして身びいきを発揮していたから、その中でも穏健派であった近鉄にしたのだろう、とのことである。が、私の記憶ではもう少し付け足しがある。会誌名を決める時、彼が「青信号で出発進行だ!」と言った後に当時、最も話題となったラビットカーこと近鉄6800型が表紙絵として採用されることになった。
当時の近鉄南大阪線は大和川北畔の矢田・阿倍野橋間が朝ラッシュ時に於いてネックとなっていた。6600系急行は同区間を7分30秒で走り、5600系3M編成の各停は10分10秒を要した。そのため河内天美を出ると急行、各停平行ダイヤとなり列車増発は不能となった。この区間は戦災を受けることなく、戦後の住宅建設も進み人口急増地でもあった。近鉄は矢田に待避線と折返し線を設け、ラビットカーを投入8分30秒運転とし、急行が矢田を通過すると30秒後に各停を続発させ、次の急行に追われることなく阿倍野橋に逃げ切るという画期的なダイヤ編成をしたのであった。




2号 加悦2号 1959年5月1日発行
重沢編集長が選出した。理由は言わずと知れた関西での鉄道創業期の遺産である。今も加悦のSL広場に展示されている。




3号 京都市電3号 1959年11月11日発行
関西最古の蒸気機関車の次は日本の電車の始祖の血を継ぐN電となった。28両の内の1両、どれでも良く3と名付けられただけ。



4号 宮崎交通4号 1959年12月16日発行
3号から湯口君(トオルチャンという)がかかわって来た。表紙絵を1形式1両の車両にしようと言い出し、彼が選出したのがこれである。



5号 花巻電鉄5号 1960年3月1日発行
汽車の次は電車やと、トオルチャンが選出。この時点では1両だが新造時は4、5の2両であった。



6号 西大寺鉄道6号 1960年4月20日発行
電車の次は気動車やと、トオルチャンが選出。正真正銘の世界で唯一のものと太鼓判付きであった。



7号 鷹取工場技能者養成所7号標本機 1960年7月20日発行
経歴不明機である。トオルチャンが1形式1両だというのを信ずる他ない。



8号 伊予鉄道8号 1960年10月14日発行
電車はまかしとけ、と小使が選出。同系車体は仙台市電に3両秋保電鉄に2両あるが、伊予では1形式1両だと、こじつけが通った。



9号 手塩鉄道9号 1961年1月18日発行
トオルチャンが選出。といっても彼しか分からない世界。それ程に彼は電車以外のものを良く知っていた。

10号 欠番
表紙絵に何を採用するか、話し合った記憶がある様な、ない様な、あいまいである。蒸機の次だから電車。編集長は旭川電軌の10号と言った様にも思う。

青信号制作余話
3〜8号と1年間に6冊も発行している。その間、京都鉄道趣味同好会々誌『急電』101号も我々の手で制作した。ただし筆耕まで、印刷はしていない。製本は沖中が半分やっている。こんな事で沖中の卒業は危ぶまれた。第2外国語はすんなりと通過したものの3回生で専門課程の単位をからっきし取っていない。夏休み前からガリ切り以外で机の前に座る様になった。
就職先は夏休み中に決まったが、後期に入るや悩み事を抱えてしまった。失恋なのである。詳細は省くとして、トオルチャンには「鉄道趣味者としてはあるまじき奴」と、ののしられた。そのため手掛けていた京阪電車・車両50年史もストップ状態となってしまった。でも気を取り直し学業の合い間にポツポツとまとめを開始した。9号で1、100型の顛末を紹介する筈がガリ切りでできず、10号に延期とした。
1961年春は卒業生が多く、その特集号になると編集長は意気込んでおり、原稿もぼつぼつ集まり3月中にガリ切りさえやればなんとかなると思っていた。だが、そうはいかなかった。後期試験が済んだとたん、就職先から出社せよとのこと。編集長もバイトに励むやら、トオルチャンは年貢の納め時と北海道へ行ってしまった。4月になるや沖中は富山へ赴任。前年12月塚口へ転居したトオルチャンは神戸通い。そうこうしている内に11号発行。10号は連休明けだと、京阪神では言っていたそうだが、富山の住人はのうのうと酒を喰らっていた。
職を持つと夜なべ仕事でガリ切りなど出来る訳がない。卒業前に高山礼蔵氏の橋渡しで野村董氏と会っている。用件はピク誌・私鉄めぐり「京阪電鉄」執筆依頼である。考えておきますと返事したつもりが、盆休みには京都へ帰らず、トオルチャン宅に重沢、羽村君と泊まり込み鳩首協議となり、1962年1〜7月にかけ6回連載となった。重沢君が青信号で4回連載した京阪物語、沖中の京阪車両50年史、トオルチャンが収集した古い写真などがピク誌掲載となった。この時、佐竹先輩も御尊父が保存なさっていた開業時の新聞記事を提供して下さった。
こんな事で10号には手が付けられなかった。14号では重沢元編集長は「10号は14号に併合された」との宣言をしているが、何がどうなったのか詳らかではない。従って10号は欠番なのである。

その後の青信号への関わり
息子が4才の時の事だと記憶しているのだが、鉄道模型を買ってくれとせがまれた。買うものではない、作るものだと言い聞かせ2人でしこしことHOペーパーボディつくりにしばらく励んだ。そしてEVEにお邪魔する様にもなった。その頃、青信号50号が送られて来て、立派な装丁と内容に驚いた。1983年には大西顧問退職謝恩を兼ねてDRFC25周年記念パーティがあり、そこで沖中がOBを代表して一くさり語る場が設けられた。当時の山岡会長の要請によりその原稿は青信号に掲載された。16号以来の投稿となった。これをきっかけとして現役陣との交流が再開された。
その結果、青信号の表紙について相談を受けることもあった。60号の能勢電60号は高間恒雄氏の紹介で山本武男氏の提供を受けた。62号はC62の声があり、それなら岩波君が適任、彼の「この一葉」としたらどうだと提案した。63号は”びわこ”だ、現役最後の姿が良いと、高橋弘氏に提供して頂いた。64号は福田編集長周辺で決まった様である。今年は無理としても来年は65号に取り組みたい。表紙絵は高松琴平電鉄の65号としたい。正真正銘の1形式1両の電車なのである。

Copyright(C) 2000-2001 by D.R.F.C. All Rights Reserved.
このページはリンクフリーです。
このページに関するお問い合わせはこちらへ