数日前から我が家ではインフルエンザが跋扈していて、孫娘が保育園から持ち帰り、次にばあさんの家内が、次に母親たる娘が共に40°を越える高熱に倒れてしまいました。そのせいで買い出しから孫の送り迎え、風呂掃除等などでデジ青の製作がおろそかになってしまいました。
これから気を入れ直して取りかかります。
宮崎繁幹さんから「流石に地元の方々で、たちまちのうちに場所が解明されビックリでした。20年前にデジ青を知っていれば(未だ無かった?)、私鉄編も刊行できた
かもしれません。今回はDavisさんの作品ではなく、鐵道趣味社コレクションから、数点ばかり選んでお送りします。ただ殆どが戦前のモノであり、傷みが少し見られます。また難易度も高いかと思います。4枚お送りします。」とご連絡を頂き、次の難題4枚が送られてきました。
D5120 ナメクジの20号機。片側のデフに何やら細工がしてあり、テンダー上も覆いが設置されています。『何これ?』状態です。(宮崎)
C541 ちょうどC54の話題が出ていたので選択。長編成で大駅ですが場所が不明。(宮崎)
①撮影場所、郡山駅、②撮影日、1933(昭和8)年9月25日、③列車、青森発・上野行、急行104レ。
ダブルポールの単車が割に広い道を走る。前照灯にガードが付いているのは戦前の阪堺電車の特徴と思うが、確信なし! 場所も全く不明です。
これ有名な阪急の流線形異端車だと思いますが、こんな塗装があったんですね。場所は支線では無く、本線っぽいですが、『此処どこ?』状態。
デジ青探偵団には、お医者と、肉屋の調査をお願いしたく存じます。
本編は急に難易度が上がりますねえ。皆目見当が付きません。
4枚目の201は京阪時代の淡路でしょうか? 右の線路が新京阪線(現阪急京都線)で、左に分岐するのは天神橋へ続く線路のように思います。カーブの具合や踏切の位置など、高架線の工事が始まる前と一致します。。線路に挟まれた場所に立つ建物は古い航空写真で確認でき、その奥は柴島(柴島)浄水場ですので、淡路駅南方を望んだものと考えます。
201+601(後に251に改番)は千里山線で使用され、豊津や千里山駅での写真を見たことがあります。この写真を見ると天神橋が始発だったようで、天神橋-千里山に運転されていたようですね。
柴島は「くにじま」と読みます。
D5120号機の写真は興味をそそられます。20号機は昭和11年3月に汽車会社で誕生し、昭和46年1月に直方区で廃車となっています。いわゆる1次型、なめくじの一統ですが、他のなめくじと少し違っているようです。それは なめくじドームの後端が短いようで、加減弁が露出しているように見えます。またD51では珍しいわけではありませんが、アルコ式動力逆転機を装備しています。問題はデフレクター付近の怪しい覆い?です。上からホースらしきものが下りてきていたり、シリンダーカバー周辺にも細いホースのようなものが見えます。機関士からの前方視野を妨げる箇所にわざわざ取り付けてあるのは、何かの試験をする目的なのでしょうが、見当がつきません。ホース取付けのためだけだとすると、かなり頑丈そうな補強で、上に座って足を乗せられるようにも見えます。テンダーにも細工がありますがこれも謎です。給炭の際に、運転台に石炭が飛び散るのを防ぐシートを延ばせるようにしてあるのかもしれません。さて、肝心の撮影場所ですが、難しいですね。右手に立つ背が低く、羽根の短いこのような腕木信号機を見たことがありません。列車後方に多くの信号機が見え、大きな駅付近で、多分複線区間のようです。左手奥に何かの工場が見えますが、ヒントにはならずお手上げ状態です。
3番目の写真は、車両が車体、台車の形状から昭和初期の作品であること、車号が1桁であることから、その頃開業時に新製された車両であることが推測できます。
上記の条件で検索すると昭和2年、芦原橋~三宝間(後に浜寺まで延伸)で開業して、戦時中の昭和19年に大阪市に買収された「阪堺電鉄」(通称、新阪堺)がヒットします。
周り景色も何となくそれっぽく「阪堺電鉄」ではないかと思います。
画像は、昭和43年7月24日、大阪市電三宝線、浅香山通付近です。
D51 20もC54 1も新製配置の関係から東北の撮影では。
D51 20は戦前から複線区間なのに驚きで、さらに向こうに非電化線が接近してきているので水郡線のある郡山かなと。
しかしさらに奥の遠路を見ると高所に聳える腕木式の場内信号機の林立に驚きました。すると長町付近かもしれません。
それから常磐線の沿線は水質が悪いという話を聞いたような記憶が有り、D51 20の試験装備は水質と燃焼効率の試験かなと、最新のD51型で燃焼効率と出力調査があったかもしれません。
C54 1も東北とすると福島かなと大きな駅構内に想像するだけですが、奥に飯坂電車が写っているとばっちりなんですが、予測の域を出ません。
新阪堺は津守付近かと思ったのですが、これも当てずっぽです。
C541の写真のデータを発見しました。米手さまに、次なるネタを送ろうと、アルバムを見ていたら、この写真のプリントがあり、念の為に裏を見たら撮影データが記されていました。そんなん最初に気づかんかい!、と御叱りを受けそうですが、言い訳をば。皆様にご覧頂いて居る今回の画像は、オリジナルのキヤビネ乾板をデジカメで私が撮影し、ネガポジ変換したデジタル画像です。その為、プリントの存在に気づきませんでした、申し訳ない。記された内容は次の通りでした:①撮影場所、郡山駅、②撮影日、1933(昭和8)年9月25日、③列車、青森発・上野行、急行104レ。郡山の発車時刻は調べきれませんでしたが、青森発23時、上野着14時半なので、郡山は午前中でしょう。この頃、103、104レにはC54が専用されていたようです。大分前ですが、鉄道ファン誌の1977年5月号に西尾源太郎さんが『「54」機関車因縁ばなし』と題して「54」形式の機関車を語っておいでですが、冒頭がC54で、103レに乗車された経験を記されています。次回以降は、ネタばれしていないモノのみを載せて頂くよう気をつけます。
構内配線の感じから福島か郡山だろうかと推測をつけていましたが、郡山でしたか。
西尾源太郎さんの同記事は読んだ記憶が在ります。
今C54の情報を読むと昭和6年一挙17両新製も、軽量化とボイラ圧上昇でも、牽引力を保てずに空転が多くて、新製配置された東北方面での酷使に耐えずに戦前の10年に早くも全機福知山配転で、長大編成の任を解かれています。
福知山と言えば明智光秀。今では丹波平定の名君と讃えられるようになりましたが、長く不遇な将官でした。
というわけであんまり出したくないのですが悲運の播但線事故の機関車の事故後の保存中の姿を出しておきます。故人のコレクションでしたので、内密にお願いいたします。この写真には54を押し付けられた区の無念がこもっているように思えます。
やはり戦前の写真となると、ハードルが高くなりますね。
4枚目は新京阪線の淡路でしょう。天神橋からの千里山行きですね。この塗色はこの後デビューした京阪本線(当時は旧京阪と呼ばれていたのでしょうが)の流電1000型、1100型と同じ色で、その意味ではテストというか、モデル塗装だったのかもしれません。
3枚目は低床の半鋼単車で、扉間の窓が8枚、扉が運転台側に開く2枚引戸ということから、阪堺電鉄(通称新阪堺、戦時中に大阪市に買収され、市電三宝線となる)の開業時に製造された1型(→大阪市電731型)ですね。場所は私もさっぱり見当がつきません。
D51 20とC54 1の場所、時代もわかりません。D51の方は、複線区間だとすると、右側の線は側線か、さらに右方向へ分岐する支線でしょうか。右端に2本見える背の低い腕木式信号機がヒントになるのかもしれませんが・・・。
3枚目は阪堺電鉄(新阪堺)1形で決まりでしょう。西尾克三郎氏の「ライカ鉄道写真全集」第一巻に5号が掲載されています。撮影は昭和9年5月6日で、龍神通まで開業していました。西尾氏の写真は車体色が若干明るいこと、窓下に前照灯が無いことの差異はあるものの、同型車と見てよいと思います。
撮影場所はK.H.生様が書かれた津守付近のようですね。昭和17年の航空写真を見ると、南海を乗り越す辺りから南に4つのカーブがあります。宮崎様の写真左に見える長屋のような建物が見えるのは、最も南のカーブです。しかし、この角度は南向きで、逆光線になります。
一杯に開けた前面窓、日除けのヨロイ窓、半袖の服、帽子などから、夏に撮影されたようです。津守神社前から南に進み、宝橋通の手前100メートル付近、現在「西松屋」がある少し北になります。
ただ、航空写真に右手の家屋は見当たりません。決め手に欠けるところです。
電車の方向幕は3文字ですが、解読できません。「芦原橋」であるなら、「海辺で遊んだ行楽客を乗せ、西日を浴びて帰路につく」という答えもあるのですが、私の妄想ですね。
今回は、ムツカシイというよりはヒントがなさ過ぎますね。
地形や建築物、駅の構内など、手がかりがもう少しあれば諸探偵の皆さんもホンボシに近づけたかも知れませんが、所蔵されている宮崎さんがもっと早くから研究されていても突き止められなかったのだから引き分けというところでいかがですか?それにしても藤本さんの「新阪堺」は驚きました。ありがとうございました。
「新阪堺」の藤本さまの理論的解明法には、敬服いたしました。私などは、阪堺と新阪堺の区別もよく知らず、後者が大阪市電に買収されたことも知りませんでした。これを機会に少し勉強しまして、序に他にも新阪堺の記録があるのではと探索したところ、3枚出て来たので、以下連貼りでお目に掛けたく存じます。1枚目は106号で、留置中で前後にも電車がありますから、車庫でしょう。昔から前照灯の前にあるガードが気になっていました。関西でツララ切りでもないだろうと・・・。今回、考えてみるにこれは、ポールが下降した際、前照灯にぶつかるのを防ぐ為のものと思います。しかし、日本の電車でこのような装備をしたものを、他に思い浮かべることが出来ません。真相や如何に?
書き忘れました。何故に新阪堺の電車は屋根上とオヘソと2つも前照灯が必要だったのでしょう? 探偵団の皆様ご存じありませんか。
続きまして、新阪堺ののボギー車の走行風景です。場所は不明です。結構な築堤なので、南海線との立体交差部へのアプローチでしょうか?デジ青探偵団の皆様宜しくお願い致します。
同一場所を単車が走っていきます。周囲がぜんぜん写りこんでいませんが、築堤がヒントになりますか。
やっぱり津守付近の高野線を越える築堤だと思います。
この4車線道路の中央の2レーンがいきなり登り坂になり、端の2車線はそのまま踏切に。
幅が狭い高架なので大型トレーラーは踏切に回り、以前からこの道なんだろう?と思っていました。下に地図を貼ります。
付近の地図です。
後出しで恐縮ですが、最初にお目に掛けた新阪堺の単車の乾板が収めてあった箱と同じところにあった乾板に、この写真があったのに、気づきました。同一場所ではないが、同じ撮影者が少し移動して撮影したものかと思われます。頂いた情報から、ここは南海高野線を越えて降りてきたところでしょう。北側なのか南側なのか、私には判定できませんが。尚、撮影年月が乾板を入れた紙袋に記してあり、2枚とも、昭和8年6月でした。
築堤を下りてすぐに曲がる、この線形は南側です。電車の進行方向(右手)へ200メートル余り行くと、津守神社前の停留所がありました。
紫の1863さま、早速に教えて頂き、有難うございます。こうなると最初の写真も前にコメント頂いた通り、今回の写真の南方向へもう少し行った地点で撮影されたのでしょう。大阪へ行く機会があったら寄ってみたいと思います。
我が家に撮影時に近い昭和8年刊の「日本案内記」(鉄道省)近畿編がありましたので、古い地図を新阪堺の参照にあげておきます。津守の新阪堺の高野線高架区間が入っていないのは残念ですが、新阪堺の起点芦原橋付近や高野線木津川駅の貯木場舟だまりの様子などが窺え、とても興味深いです。
失礼、よく見たら入っていました。
もう一枚、堺市内終点までの地図を付けておきます。
新阪堺は堺市の中心にも外港のお大浜にも行けず竜神通りが終点で、これでは経営が苦しかったことが想像出来ますが、戦時体制に入り大阪湾沿いの産業工場への戦時通勤路線になり、大阪市に買収されて三宝線になったことは、不思議な命運でした。
津守のオーバークロス部分はミニ大大阪後期遺産に挙げておきたい気持ちが湧いてきました。
この写真から郡山を推理したK.H生さん、すばらしい!
これより特徴のあるD5120ならもっとタレコミがありそうなのに、とおもいますが・・。
飛び入りの後出しで失礼します。
D5120の撮影場所はC541と同じ郡山のようですが、東京方でなく青森方の逢瀬川橋梁付近から撮影したものと推察します。1960年(昭和35年)3月1日の白河-福島間の交流電化から1年以上経った1961年(昭和36年)7月15日に郡山-日和田間の複線化が完成しているので、このころの東北本線はまだ単線の状態で、左側の並行する線路は磐越東線のようです。右側の線は右側に分岐した磐越西線との間にある引上げ線で、現在は東北新幹線の高架橋の敷地となっています。林立している信号機は、中央が東北本線、左が磐越東線、右が磐越西線の場内(もしくは出発)信号機と思われます。左手奥の工場は、1916年に操業を開始した東洋曹達株式会社(現、保土谷化学)の郡山工場のようです。
快速つくばねさん、
なるほど、同じ日に撮ったと考えれば納得です。撮影旅行は時間が限られているので、出来るだけ移動はせずに多く撮ろうとするものです。その意味でも駅の両端で撮影するのが自然ですね。
これでほとんど判明して探偵所長としては面目を保てました、が、そうなるとますますD5120の、あの面妖な装置の謎です。これが判明すれば100%の解明です。
あれほどの装置ですからどこかに答えがあるように思いますが、D51ナメクジ大好きの特派員さん、教えてください!
と、書きましたが私の勘違いのようです。
C54の撮影が1933年ということですがD5120の完成が1936年3月とありますので同じ日の撮影はあり得ません。
郡山での撮影ということなので同日撮影と早とちりしました。
お詫びして訂正させて頂きます。
今まで沈黙を貫いていましたが、“ナメクジ好き”と推されたからには、噛まざるを得ません。と言っても、くだんの装置の由来は、皆目分かりませんが、周辺情報を少し。1000両余りのD51は、製造番号順にデビューしたのではなく、割り当てられた製造所ごとにデビュー時期が違います。昭和10年度製造のD51は、1~13が川車、14~23が汽車ですが、よく言われているのは実質1号機は、汽車のD5114で、くだんのD5120は、実質7番目のD51に当たり、デビュー当時に撮られたとすると、まだ試験運転の域を出ず、西村さんやKH生さんもお書きのように試験装置のような気がします。それにしても、会内外から侃々諤々の大論争、“これぞデジ青”です。
ありがとうございます。私たちの世代は学鉄連のクイズ大会で盛り上がった年代で、超難関クイズを司令塔として参加して突破するのが溜飲でした。
しかし鉄道の知識は「知ってる!」を闇雲に連発するのは個人的に野暮と思い、最近この手の話題から遠ざかっていましたが、話題の花が末広がりになるようコメント付けたいものです。
今回は楽しく参加させて頂きました。