駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈14〉

ホームにて④ 「ラッシュの主役 高校生」余話(2) 会津坂下

高校生と駅、あと一回だけ載せます。全国各地、高校生が乗り降りする駅はあまたありますが、私にとってのベストワンを選ぶとすれば、只見線会津坂下駅に尽きます。昭和46年2月、夜行列車で会津若松に着いて、7:47発、C11の牽く只見線の列車に乗りました。会津若松を出た時は、それほどの混雑ではなかったと記憶していますが、以後、各駅に停車するごとに、続々と高校生が乗り込んで来て、客車の通路まで、びっしりの高校生となりました。そして8:35、列車は会津坂下に到着、約6分の停車。すると超満員の車内から、高校生がごっそり下車、駅の本屋へ通じる構内通路はたちまち高校生で埋め尽くされた。ほぼ男子学生、真っ黒な集団には圧倒された。

会津若松を出た只見線は、会津盆地を半周して会津坂下に着き、方向を西に転じて山と川に囲まれた只見川沿いの渓谷へ向かう。里と山地が接するところに、会津坂下の集落があった。福島県河沼郡会津坂下町であり、高校も、普通高校と農業高校の2つの高校があり、只見線沿いの広い通学区から、多くの高校生の乗降が見られた。

2014年10月の訪問だから、いまからちょうど10年前だ。不通だった只見線を、代行バスで乗り継いで、夕方に会津坂下に到着、蒸機が走っていた時代から、久しぶりの下車だった。下校時刻は過ぎていたが、駅には高校生の姿が見られて安心した。真っ黒な男子集団から、写材に適した女子高生に変わっていた。

会津坂下は、大正15年に、只見線の会津若松~会津坂下の開業時に設置され、順次、只見川の上流部へ延伸された。撮影当時は運転要員のみ所在していたが、その後信号扱いも遠隔操作となり、当駅での運転取扱も終了した。2面2線の交換・折返し可能で、いまでも会津若松~会津坂下の区間列車が運転されている。

本屋側のホームには、駅名の由来の説明板と、タブレット時代の閉塞機が展示されていた。駅前中央に見える閉まったままの食堂は以前、営業していて、何度か“名物”と書かれたカレーを食べたことがあるが、まるで当たり前のカレーだった、左手には、地元出身で、昭和の大物歌手、春日八郎の像、「赤いランプの終列車」の歌碑が建立されている。構内を横切る陸橋から駅を見下ろす。17:35、会津若松からの431Dが到着した。構内通路が閉鎖され数人の女子高生が待っている。431Dがホームに着き、高校生が続々と下りて来る。蒸機の時代と較べて、時間帯も違うが、同じような高校生の下車風景が見られた。それも、高校生のラッシュは、あっという間に終わり、あとは、静かな駅に戻った。背後には、この日が皆既月食の月が煌々と輝いていた。▲▲山間部へ向かう高校生を乗せた431Dが発車して行った。

18:18には、会津坂下までの433Dが到着、折り返し会津若松行きに乗車した。

夜も更けた会津坂下の駅舎、赤いポストがストロボに映えた。▲▲会津若松まで戻るキハ40 578の車内には乗客ゼロ、高校生がいない時間帯の列車の閑散ぶりを改めて思い知った。やはり高校生は大事な乗客だった。

 

 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈14〉」への24件のフィードバック

  1. こんにちは。総本家青信号特派員さまが撮られた駅の風景や通学風景の鉄道写真には、一般の鉄道写真にはない魅力が満載です。
    さて、ローカル線を支える高校生の列車通学ですが、木次線の出雲横田駅、駅から約1kmのところに県立横田高校(生徒数約200人)が立地しています。
    今年の5月の平日に出雲横田・備後落合間を往復したときのことです。午前7:50ごろに宍道方向方向からの列車が出雲横田駅に到着しました。改札口でみていると、2両編成のキハ120から高校生が続々と降りてきました。彼らは、列をなして駅入口のしめ縄をくぐり学校へ。
    小さなキハ120にこんなに人が乗っていたのか!と驚かされほどの乗車率です。(定員は立ち席を含め105~112人×2両)高校生達が降りた後、1両は切り離されて残置され、7:59、単行のキハ120は貸し切り状態で備後落合に向けて出発します。
    会津坂下ほど盛況ではありませんが、今どき結構見ごたえがあるローカル駅の光景です。機会があれば、ぜひ、お訪ねください。駅前には旅館が数軒ありますし、駅前ロータリー駐車場での駐車や仮眠も可能です。

    画像は、今はなき三江線三次行の始発列車、キハ120の車内の様子です。

    • takaginotamagoさま
      投稿すぐにコメントを頂戴し、ありがとうございます。写真も拝見しました。車内で目の色を変えてスマホに熱中する女子高生より、教科書・ノートで勉強している女子高生のほうが好きです。さて、木次線の出雲横田駅の様子も聞かせてもらいました。近くに県立横田高校があり、駅の乗降人数も、紹介しました会津坂下とほぼ同じですので、その様子が想像できます。2輌編成が単行で備後落合方面に行くこと、留め置きの1輌は、折り返し宍道行きになることも時刻表から読み取りました。実は、紅葉の頃の木次線に行きたいと密かに思っていましたが、列車本数と宿泊地が難しく思案していました。出雲横田にも旅館があることを聞き、ぜひ参考にさせていただきます。ありがとうございます。

    • takaginotamago様 8年前の2016年5月に木次線を訪ねた際には、まだDE15牽くトロッコ列車が休日運転されていました。横田駅にあった掲示です。休日にクラブ活動などで登校した横田高校生が定期券でトロッコ列車に乗る場面があったのでしょう。次の普通列車を待たず、乗り込みたい気持ちはよくわかります。乗車券、指定券を買うのがルールとは言え、高校生に支えられている鉄道なのですから、短距離の乗車なので せめて「立ち席のみ」という条件付きで乗せてやれば良いのにと、思いやりに欠けるJRの対応に情けなくなりました。そんなトロッコ列車ももう過去のものですが。

      • 西村雅幸さま
        興味深い情報をご提供くださり、どうもありがとうございます。
        トロッコ列車は、たしか1枚の指定席券で屋根付き席とトロッコ席の両方の席が確保できたかと思います。たとえ満席であったとしても、2両のうち1両分は空席のまま運行されていたはずです。
        高校生にとって、指定席券と乗車券の両方の購入を強いられるのは、少しかわいそうですね。営業規則とはいえ、路線を支えるお得意様に対する配慮がもう少しあれば・・・といったところでしょうか。貼り紙の「(原則として)」という表記も少し気になりますが。
        この春に訪ねたとき、出雲横田駅には委託ですが駅員さんがいらして、切符も発券してもらえました。もしかして、切符の売上増を目論んで、規則通りの厳しい運用になっていたのかもしれませんね。そんな推理も昔話になってしまいました。

        • takaginotamago様 早速のコメントありがとうございます。重箱の隅をつつくようなことに時間と勢力をつぎ込む一方で、莫大なロスや重大なミスを見逃がし「想定外」で逃げる昨今の風潮はいつから始まったのでしょうね。「無駄の効用」も昔話ですね。

          • 西村雅幸さま 
            takaginotamago様
            全くの同感です。要は現場(この場合は出雲横田駅や木次線管理所?)の声が支社や本社に届かない、ということの弊害ではと思います。西日本も他2社に続き段々と唯我独尊になってきたようです。
            私も同様の体験をしています。奥出雲号が走り始めた直後に指定券が中々取れず、最終的に往路だけが取れて乗車を思案したことがありましたが、最後は復路を雨天用の12系客車に乗ることにして往復しました。幸い好天に恵まれ12系には誰も乗ってこず、検察もありませんでした。
            またJR化直後の小海線に当時ブームになっていた清里方面に向けて新宿からの直通快速?「葉ッピーきよさと号」が運転されていました。直通車両が165系4連だったこともあり、終点野辺山まで全席指定でした。宿泊先のペンションの最寄り駅である甲斐大泉から清里まで一駅でしたが、うっかり乗り込んで指定券料を請求されたことがありました。大泉駅には駅員はいましたが、夏季繁忙期のため窓口業務に忙殺されていて改札無しの出入自由状態でした。帰路に要指定券の案内を確認したら、改札口の上方の隅の方に小さい字で張り紙がしてありました。無改札であったこともあり見落としてしまいました。
            この時も小海線内くらいは自由席にすればいいのにと思ったものでした。私の場合はレジャー利用でしたが、木次線の場合は通学利用でもあり、また横田→木次間は平日運転の普通列車(通学用?)とダイヤが共通になっていたこともあり、一般客とりわけ高校生には要指定券の認識が乏しかったと思われ、仰るような柔軟な対応があっても良かったケースではと思いますね。まだまだ風通しの悪い会社ですね。
            ついでですが最近の日本人はヤワになってきているとつくづく感じています。名門といわれた大企業での不祥事などを見聞するにつれ、経済だけでなく、人の面からもこの国はダメになってゆくのではないかと危惧していて、夜もおちおち寝ておれませんね。

  2. 総本家青信号特派員さま
    会津坂下駅ですか。懐かしいですね。私も何度か目撃していました。初めはC11の末期で昭和48年頃だったと記憶します。総本家さまと同じ会津若松を7:40頃の客レで滝谷、会津檜原方面に向かった際に、途中件の坂下で上りレと交換しましたが、その時に見た光景が同様のものでした。私はそれよりも交換レに連結されていたオハユニ61に眼がゆき、8㎜で撮影していました。その後SL時代に何度か訪れていますが、ある日塔寺付近で撮影後、宿を取った会津柳津に行くため夕刻のDCレのキハ53に乗ろうとした際に、ドアが開くと正面のロングシートに会員OBのS井氏とバッタリ出会ったことがあり、お互い思わず「アッ」と声を上げました。彼も卒業して札幌に赴任中とのことでした。柳津まで十数分間でしたが、お互いC11に関心があることを確認して、更に奥へ行くという彼と別れました。
    下ってキハ58を撮りに行った際にも若松から同時刻発の只見行58・40レに乗っています。10分ほど前に到着したDC4連の折返しでしたが、てっきり分割されて1両か2両になると思っていたところ、なんと4連そのままで折り返すことがわかり仰天したものです。当日は休日だったので坂下駅への通学高校生はごく僅かでしたが、同レは只見で折り返して午後の早い時刻に若松に戻るまで、ガラガラの4連で走っていたことになります。

    • 19000生さま
      やはり同様の経験をされていたのですね。夜行に乗って会津若松に着くと、必然的に乗らざるを得ない列車でした。撮影目的の蒸機列車に、乗らざるを得ないのは、痛し痒しですが、会津坂下のように、途中駅のスナップが楽しめました。はい、編成のなかにはオハユニ61がありましたね。まだ只見線沿いの道路事情も悪く、郵便輸送も鉄道に頼っていた時代でした。車内で、S井さんと会われたのですか。しばらくと言うか、卒業以来、50年以上お会いしていません。どうされているのかなぁ。S井さんが撮られた、素晴らしい写真は持っていて、その頃、みんなで行った各地を偲んでいます。

  3. 総本家青信号特派員様
    女子高校生はいませんでしたがC11312[會]の列車を降りた一人の爺さん、と言っても今の私よりずっと若いはずですが一人とぼとぼ歩いて行きました。1972年1月2日根岸駅のことです。会津坂下の春日八郎の他、本宮駅前にはイヨマンテの夜の伊藤久雄の碑があります。新幹線福島駅の発車ミュージック「栄冠は君に輝く」の古関裕而など福島県は凄い歌手や作曲家の出身地ですね。

    • 準特急さま
      凄い写真ですね。この歳で拝見すると哀愁漂うように感じられて仕方ありませんね。総本家特派員さまといい、いかなるシャッターチャンスも逃さずモノにしておられるのはさすがで、車両にしか眼が向かなかったことを恥ずかしく思います。根岸駅は下車したことはありませんが、何度も通りました。春日八郎の名は坂下から塔寺に向かうタクシーの運転手から聞きました。歌謡曲に疎い小生でしたが名前くらいは知っていましたから、運転手さんの郷土自慢を篤と聞かせてもらった記憶があります。昔はこういう運転手さんが多く居られましたね。
      只見線、会津線共に風光明媚で、どこをとっても絵になるポイントが多く、一時は第二の故郷のように思いながら通っていた時期がありました。

    • 準特急さま、味わい深い写真、ありがとうございます。線路は、列車の通る道でもあり、地元民が通る道でもありました。1900生様が、“第二の故郷”と評された只見線、準特急さんが大物歌手の宝庫とも評された福島県、先ごろ亡くなった西田敏行も郡山の出身でした。私も、福島、なかでも会津には格別の思いがあります。只見線も、渓谷区間は格別なのですが、会津坂下までの盆地の平坦区間を行くのも、当たり前だけれども引き付けられる風景です。一度、鉄抜きの観光で、盆地の南端にある保養施設に泊まったことがあります。やや高台になっていて、写真のように磐梯山が真正面に見え、麓からはDC列車の警笛が聞こえてきました。まさに“ふるさとの汽車”の思いでした。

  4. 1900生様
    いろいろな所に第二の故郷があるのはいいことですね。磐梯にスキー場の仕事があり大みそかから泊まっていましたが帰る時にロッジの人に無理言って早朝に川桁から会津若松乗りかえてC11の列車に乗りに行きました。もう各地に蒸機列車が少なくなっていた頃です。1月2日でしたからお目当ての女子高校生は見られませんでした。タクシーの運転士さんからは地元の生の情報を聴けますし、何よりその地の方言が旅をしている感じを強くしてくれます。

  5. 総本家青信号特派員様
    皆様
    「ラッシュの主役 高校生」余話とは直接関係がありませんが、只見線(当時は会津線?)の『C11』、akaginotamago様の『出雲横田』と1900生様の『オハユニ61』に関連して三題噺のようになりますが投稿いたします。
    1967年3月28日に合宿で出雲横田に泊まっています。宿泊先は現在でも営業している駅近くのN旅館でしたが、当日の飛び込みで宿泊費は2食付きで800円でした。
    木次から乗車した425列車は、宍道始発のオハフ61、オハ61、オハユニ61の3両編成でC11に牽引されて定時に到着しました。木次からはC56 110に付け替えられ、下車した出雲横田では2両を切り離し、備後落合に向かってC56がオハユニ61 21を1両だけ牽引して発車していきました。停車時間の間に八川方面に歩き撮った写真です。

    • 快速つくばね様
      木次線の思い出、聞かせていただきました。昭和42年にもう出雲横田へ行かれていたのですか、鉄研の合宿だったのでしょうか。私も後年にC56を求めて出雲横田へ行き、付近で走行中を撮りました。駅舎も神社建築で味わい深いですね。写真は、改札口から見たC56のキャブ付近、楷書の「いずもよこた」の駅名標がアクセントとなりました。

  6. 快速つくばね様
    私はその頃に2度木次線のSLレに乗っています。最初に乗ったのは1966年春でした。高校生最後の春休みを利用して京都21:56発下関行829レで翌朝松江に着き、松江城などを見てから宍道へ移動、つくばね様と同じ425レで備後落合に向かいました。編成・運用とも同じで、C56がたった1両のオハユニ61を牽いて中国山地を走る情景に魅了され、元来対象を非電化ローカル線に求めていたこともあり、その後暫くはHOで鉄模社のC56に自作のオハユニ61を繋いで再現していました。2度目は1968年頃で829レでの出発は同じでしたが、早暁上井で下車、倉吉線の始発ミキストで関金を往復、米子から急行「第1ちどり」で出雲横田へ、機械式キハ07単行に乗り継いで落合を往復、横田16:27発430レ松江行で戻りました。
    余談ですが横田発の07が発車待ちの間にブレーキが甘かったのかソロソロと転動を始めたので、運転台で雑誌を読んでいた運転士に知らせて事なきを得ました。1m近く転動していたと思います。また出雲坂根~三井野原間のスイッチバック区間では、客が小生だけの貸切で軽かったとはいえ、結構飛ばして上ったので、所定ダイヤでは所用24分のところなんと14分で着いてしまい、三井野原で10分間の時間調整をしていました。ドアは手動で客が閉めないと運転手が出て来て閉めるのを初めて見ました。当時07は総括制御車も残り少なくなってきていましたが、機械式は国鉄ではここ木次線と九州は豊後森機関区くらいにしか居ない絶滅危惧車でした。かろうじて0系DCのそれも機械式に乗車できた体験は得難い経験でした。

    • 1900生様
      コメントありがとうございます。私の木次線の乗車は、山陰均一周遊券の利用で呉線と結び付けて夜行の「第2ちどり」や上り「いなば」の利用が多かったと思います。写真は出雲坂根を出発する426列車です。木次でC56に付け替えて出雲横田で折り返す下り列車は、出雲横田に転車台がないため逆機運転(バック運転)をしていました。

    • 1900生様
      木次機関区(米キス)配置のキハ07 213です。この車両は200番台なので機械式から液体式のTC-2に交換されて総括制御が可能になっていました。

      • 快速つくばね様
        200番代が入っていましたか。知りませんでした。キハ52への置換え過渡期の頃でしょうか。就職して足が遠のいた時期だったかもしれません。お教え戴き有難うございます。

      • 米手作市さま
        木次機関区はこじんまりとしていて、レイアウトにするのにうってつけの風情がありました。いつかC56やキハ07を並べて写真のような景観を再現したいと思っていましたがついぞ叶いませんでした。

  7. 総本家青信号特派員様
    準特急様
    1900生様
    島根県に脱線しましたので、本線の福島県にポイントを戻します。福島県は、隣県なので車でよく訪れます。
    確かに福島県は有名な曲の歌碑が多いようです。安直派ですので駅から遠い場所の歌碑は遠慮して、駅近くにある歌碑を見学するために途中下車をすることがあります。福島県内の駅近の歌碑を整理してみましたが、他県と比べて鉄道に関するものが多いようです。以下、路線名、駅名と場所、曲名、設置理由の順です。
    ・東北本線「郡山」駅東口広場/高校三年生*作詞家の丘灯至夫が福島県の出身
    ・東北本線「本宮」駅東口前/あざみの歌・イヨマンテの夜・栄冠は君に輝く*歌手の伊藤久雄の出身地
    ・東北本線「桑折」駅前/異国の丘*作詞家の増田幸治の出身地
    ・常磐線「広野」駅構内/汽車*歌詞の「広野原」がこの付近という一説があるため
    ・常磐線「浪江」駅前/高原の駅よさようなら*作曲家の佐々木俊一の出身地
    ・磐越西線「川桁」駅前/高原列車は行く*作詞家の丘灯至夫、作曲家の古関裕而が福島県の出身で、歌詞がこの駅で接続していた磐梯急行電鉄(当時は日本硫黄沼尻鉄道部、通称:沼尻軽便鉄道)を歌ったものだから
    ・只見線「会津坂下」駅前/赤いランプの終列車*歌手の春日八郎の出身地

    写真は「広野」の『汽車』の歌碑ですが、珍しくホーム側に向かって設置されていて駅前広場からは見えません。

    • 快速つくばね様
      福島県に、駅前の歌碑だけで、これだけあるのには驚きました。鉄道の代表的童謡である「汽車」も広野が故郷であることは、知っていましたが、ここも福島県でしたね。また、つくばねさんの興味対象が際限なく広がっているのにも感心しました。以前、鉄道ピクトリアルに駅前の石碑を巡るシリーズがありました。当時、車両にしか興味がなく、この連載などまるで興味を示しませんでしたが、歳を経るにしたがって、鉄道の周囲にも関心を示す自分がありました。

  8. 快速つくばね様
    常磐線はC60、C61、C62を求めて広野駅前の旅館に泊まりましたが「今は山中、今は浜」「広野原」はトンネルも海もあり歌詞と風景が一致していました。翌日D50を求めて川桁に泊まりました。沼尻鉄道は「高原列車」の歌詞に合わないような感じが今でもします。「高原列車は行く」は小海線と個人的には思ってしまいます。磐梯のスキー場の仕事をしていた時に民宿の人で沼尻鉄道の運転をされた方もいました。作詞家が磐越東線の三春(正確にはわすれました)からの郡山を越えて沼尻列車に乗り体を治すために通った遠距離の旅は快速つくばねさんからお聞きしました。いつも教えてもらうばかりで恐縮しております。

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