〔次に〕
富山駅中心に走っていた電車の話に移るが、老人の休日は晴れた日は富山で電車撮影、雨天の日は金沢で映画鑑賞にふけった。
⇩ 車庫は南富山駅に隣接していたが、車両は郊外留置であった。写真の8023号は元県営モハ3号、木造の小型車で、立山開発鉄道と腰に記されている。昭和2年日立製作所製で、ポール集電であったものを戦後パンタに取り替えた。発電事業使用時代は2軸客車2両を牽引して登山した“強力(ごうりき)”であったとか。
⇩ モハ8067号機 元県営のデハニハ4号
昭和元年生まれの半鋼製で、富山地方鉄道に合併時にデハ7号となった。
⇩ モハ10055,56号は富山地方鉄道に合併時にデハニ5,デハ6号から変更された。
製造は55号が汽車会社、56号は日本車輌となっている。
⇩ 元黒部鉄道は富山地方鉄道に併合された。大正15年生まれのデ31、32はモハ601とクハ1021に変更され、その後の立山線への移管により、モハは13141号、クハは8042号を名乗ることになった。
⇩ クハは4種類(各2両)があったが、いずれも客車としての前歴を持つ。101、102は元越中鉄道のデハ101、102号を鋼体化したものであった。
⇩ クハ111、112は元県営のモハ1・2号のモーターを8042号に譲ったもので、本線から立山線に移転したものだ。
⇩ クハ132型は大型で片運転台、定員120名、最大長は17.8mであった。立山線では満員の登山客をさばいた。
⇩ クハ145型は132に次ぐ大型で、110人乗りである。戦後の改造車である。
⇩ モニ6573は本線用の客貨両用車でだが、朝のラッシュ時には全室に通勤者を押し込み、役目が終わると郵便室付きの貨車となる。元光明電鉄の車両は倒産後、富山地方鉄道に引き取られたが、3号車は立山線でフルに使用された。
⇩ 富山地方鉄道は国鉄富山駅を連絡駅としている。西から東へ、途中の「電鉄黒部」から南下して宇奈月温泉へ至るが、この線区がドル箱なのである。従って本線上には洗練された車両が行き交いする。当初の外部色は追って紹介するとして、当時の特急車両は2~4連で運行された。
⇩ 宇奈月温泉行きの急行には、戦後の産物、企画型車両を整備して投入した。
⇩⇩ ローカル列車は旧型車両オンリーで、時には企画型車両がやってきた。
⇩ 急行用も時には2両編成でローカル用に変身する。
⇩ 不二越工業ちかく
⇩ 市内中心部
⇩ 南富山駅留置線
⇩ 笹津線乗り入れ車と離合
⇩ 富山駅でのボギー車と単車
⇩ 笹津線の朝のラッシュは3両連結
⇩ 市の周辺部は単車でもガラガラ
⇩ 商店街でも空いている
⇩ 南富山駅留置線では旧型が待機
⇩ 富山駅郊外では貨物車ボ2が待機中。雪かき改造車はボ1
※このシリーズは、乙訓の老人より依頼されて米手作市が編集し投稿いたします。写真と記事の版権は、すべて乙訓の老人に所属します。
乙訓の長老様 ちょっと気になった写真があります。写真で13枚目のクハ123の行き先が「桜井」となっていますが調べてみると現在の「電鉄富山」とわかったのですが、撮影場所はどこの駅ですか。ひょっとしたら黒部駅(当時は国鉄黒部駅、今はあいの風とやま鉄道の黒部駅)の横にあった黒部支線の「地鉄黒部駅」ですか。それと単車の3530形の集電装置は面白いものですね。合理的といえば合理的ですが・・・21枚目の写真で3531形が写っている写真は電気ビルのところで撮影されたのですか。もし電気ビルのところであれば夜に撮った写真があります。ちょっと探してみないといけませんが。
どですかでん さま
割り込んですみません。仰せの電鉄桜井の駅名は現在の電鉄黒部駅の旧称です。たまたま手許にある時刻表の昭和57年5月改正の地鉄時刻表では未だ「電鉄桜井」のままでした。旧国鉄黒部駅(現JR黒部)との間に連絡支線がありました。余談ですが高校生の時の家族旅行で信州~北陸を回った際に、松本~糸魚川~北陸本線~黒部で乗り換えて、この支線で桜井~宇奈月と乗ったことがありました。糸魚川乗換時に北陸線の旧客中にオロ36格下げのオハ55(36・55ともうろ覚えで間違っておればご指摘下さい)を見つけたので数両分走って乗り込み、黒部までの間でしたが北陸旧線の車窓と旧ロ車のちょっとリッチな乗り心地を楽しんだことを憶えています。但し家族からはなぜ目前の客車に乗らず、わざわざ遠くの客車に乗るのかと文句を言われましたが。
ご投稿の皆様へ
「乙訓の老人」は、最近キーボードを打ちづらくなっておられます。
そのためコメントを頂いてもなかなか返事が出来ませんが、全てのコメントをご覧になっています。どうかご理解をお願い致します。
1900生様 黒部支線に乗られたのですか。ところで乗られた電車は地鉄黒部駅と電鉄桜井駅を行ったり来たりする電車だったのですか?ところで、なんで「桜井」なのでしょうかね。電鉄桜井の前は西三日市駅です。これは理解できます。国土地理院の地図に三日市の名前があるのですから。なんやかんやコメントを書きながらネットで調べていると1940年(昭和15年)周辺の村と合併して三日市町から桜井町になったとありました。駅の南側には黒部市役所があり、黒部三日市郵便局、県立桜井高校、三日市保育所があります。三日市、桜井、黒部が混在しています。これで納得です。電鉄黒部駅は1951年(昭和26年)に西三日市駅から電鉄桜井駅になったそうです。現在の駅舎は電鉄桜井駅に改称されたのと同時期のものだそうです。草卓人さんの富山廃線紀行によると電鉄黒部駅の黒部支線の分岐駅の頃と変わっていないようで、黒部支線の発着ホームは本線発着に使用しているそうです。写真にあるアルペンエキスプレスが停車しているところがそのホームになります。
「二丁拳銃」ならぬ「二丁Yゲル」のデ3530形を見て、こんな電車がいたとはと驚きました。背景の町並みの様子から昭和30年代後半、あるいは昭和40年代前半とアタリを付け、調べてみました。「鉄道ピクトリアル」に「昭和26年に登場した戦後生まれの単車で…」とあり、これまたビックリです。「乙訓の長老様」の解説を読めないのは残念ですが、自分なりに調べてみると、最後に残った3533が2008年に解体されたと分かり、まさか、21世紀まで生き延びていたは、これまたビックリしました。
南富山留置線の3533の後ろの電車は3534と思われ、この電車は1999年に廃車となっています。側面窓のHゴム化、前照灯2灯化、Zパンタと「2丁Yゲル」の頃とはすっかり変貌していますが、四輪単車が平成の世まで生きていたとは知りませんでした。後ろに見える高層マンションも最初は不思議に思えましたが、廃車の時期を考えると納得できました。
話は前後しますが、ウィキペディアには3531の廃車が1966(昭和41)年との記述があり、昭和40年前後の撮影と考えました。
珍しい電車の写真を披露していただき、ありがとうございます。
紫の1863様、
撮影時期につきましてお答えいたします。
渡された写真の裏に撮影年の記載がある物がありますが西暦と元号が混じっていて、さらに時期がずれている物もあります。記憶違いか記入間違いが考えられる物がありましたので私の一存で撮影時期は記載しておりません。因みに市内を走行している3531号には1960年(昭和35年)と記入してあります。
“乙訓の老人”から皆様へメッセージが来ました。
《ご迷惑をかけております。先日、アップして頂いたものの訂正と追加説明を送りますのでよろしくお願い致します。
①クハ123の停車駅は富山です。
②5014号 夕方のラッシュでは増結車となります。待機中です。
③野崎昭三氏撮影と記入
④吉川文夫氏撮影と記入
⑤ボ2を雪かき車と書いたがそれはボ1。ボ2は貨物車
⑥3531号の背後のビルは電電公社のものとよく似ています。でも全く覚えなし!
頂いたコメントへのお礼です。
現在、次の写真の整理が終わったところです。明日からコメントに挑戦です。》
皆様、どうかご期待ください。少し遅れますがご本人から返事もいただけるのようなので、激励のためにもどんどんコメントをください。
クハ123の停車駅は富山でしたか。ところで3531号の写真を私の撮った写真と比較してみると廃線になった宮下線だと思います。背後のビルは富山電気ビルで窓に特徴があるのでわかりました。富山まつりの帰りに撮った写真から見るとよく似ているのですが、建物上部に丸窓があるのでこの壁面ではなく、南富山方面の路線ではないようです。宮下線は電気ビル前から東田地方(ひがしでんじがた)の停留所に通じる路線です。東田地方には東部線が南北に走っていて途中で東に向かい西町で南富山への本線と接続していました。
宮下線が走っていた通りと3531号の背後のビルはこの写真のところだと思います。写真はテレビドラマのロケをしていて、古い自動車をロケに使用していたので撮ったものです。