【105222】京阪大津線の歴史を調べて(1-1)

京阪大津線は京津線の前身、京津電気軌道が大正元年に三条大橋~札ノ辻間が開通、石坂線の前身、大津電車軌道が大正2年に大津(現在のびわ湖浜大津)~膳所(現在の膳所本町)が開通し、その後延伸、路線の変更があって現在の形となりました。総本家青信号特派員さんからお誘いを受けて、旧東海道線の遺構を調べた後に、京阪大津線についてもその遺構を調べたくていろいろな書物、地図を見ましたが、本によって記載の異なるものが多く、また、不明な点もあったため、滋賀県県政史料室の歴史的資料を調べてこれらを解明したいと考えました。先にご報告したように、県政史料室の歴史的資料は項目ごとに分類されており、そのリストも公開されていて調べやすくなっています。この宝の山の中から、まず、石坂線で廃止された駅について順に報告したいと思います。 記事の続きを読む


【104508】滋賀県県政資料室の歴史史料

昨年総本家青信号特派員さまからお誘いいただいて、「レイル」誌の「京都・大津の鉄道遺跡を訪ねる」の大津部分を担当させていただきました。以前から地元を歩いていろいろ調べてはいたのですが、所詮ネット頼みの調査で推測の部分も多く、今から思うと全く恥ずかしい内容となってしまいました。それと相前後していつもお世話になっている大津歴史博物館の学芸員の方から、滋賀県庁にある県政史料室には鉄道関係の資料もいっぱいあるよというお話を伺いました。ネットで調べてみると確かにいろんな資料がありました。ただ、閲覧には申請が必要で、一度にたくさんの資料は閲覧できないとのことでそのままになっていました。 記事の続きを読む


【102463】関三平先生から会員諸氏へ

11月22日投稿の【102177】『近鉄ファンへのプレゼント!・伊勢電鉄モハニ231』に関して宮崎繁幹様から「モニ6231の前側部窓下のプレートは何か?」との質問がありました。私がハガキで先生にその旨をお尋ねしたところ、本日封書でご回答を頂きました。いつもの通り、達筆の長文ですので僭越ながら要約して掲載させていただきます。なお、INUBUSE氏から「近鉄社章と型式、定員、自重を刻印した鋳物のプレート」との回答を頂いております。
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【101548】高山ダムの工事用軌道

小生は社会科見学で工事用軌道のトンネルを見た記憶があります。しかし天ヶ瀬ダムではなく、何処だったのか思い出せず、悶々とした日を送っていました。
先日、KBS京都放送で南山城村の話題が放映され、正に覚えていた情景の写真に出逢いました。

高山ダムの工事用軌道(トンネルと右奥に吊橋が見える)

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【101519】 羽村さんが遺したアルバムから 〈8〉

 京福電鉄叡山線

この時代の京福と言えば、木造車のデナ1が代表だろう。1925年、叡山線の開業時に日本車両で1~6の6両が製造された。全長12.3m、片開き2ドアの木造車で、写真で見ると、きれいな木目模様が出ている。前面はタマゴ形の3枚窓、ドイツ・マン製の板バネ台車とイギリス製電装品を搭載しているのが特徴だった。固定編成化される前の原形の時代で、車体もグリーン一色塗りで、その後、2色塗装に改められる〔山端(現・宝ヶ池)、昭和26年〕。

羽村さんの写真をきっかけにして、鉄道模型や京阪電車にと、拡散を見せています。
ひとつのテーマから、各方面の投稿が集まるのも、“デジ青”の真骨頂でしょう。今回は、羽村さんの地元、左京区を走る、“叡電”、当時の京福電鉄叡山線・鞍馬線です。考えたら叡電は、始発も終点もすべて左京区内にあります。ひとつの行政区のなかで完結してしまう鉄道というのも、ほかにはちょっと例がないのではと思います。

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【101365】 羽村さんが遺したアルバムから 〈7〉

京阪電車

四条駅に颯爽とすべり込んで来た天満橋行きの1000系の特急3両編成。まだ鳩マークも無い時代で、赤白の円板の特急標識である。“京阪特急”は、撮影された前年の昭和25年9月、三条~天満橋に所要53分で走り始めた。朝夕2往復のみ、2両編成のささやかなスタートで、特別整備されたロマンスシートの1000、1100形が使用された。その後、中間に1600形が増結されて3両編成となり、まもなく写真のように、1500形に変更された(昭和26年4月)。

“羽村さんシリーズ”、また続けます。阪急、京都市電、バスと来て、つぎは京阪電車です。京都市左京区に住まわれていた羽村さんにとって、京阪電車は、いちばん近い郊外電車で、興味を持つようになるのも自然な成り行きだったのでしょう。撮影されたのは昭和26年、車両としては、赤と黄色の京阪特急色の1700系がデビューする前後で、私にとっても、記憶に残る以前の時代で、大変貴重な記録です。

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【100540】 羽村さんが遺したアルバムから 〈6〉

京都市営バスのトレーラーバス、進駐軍が持ち込んだ大型車両をヒントにつくられ、戦後混乱期の大量輸送に、京都でも活躍した。昭和22~24年の短い時期につくられたが、取り回しがよくないため昭和30年前後には姿を消した(昭和26年3月)。

羽村さんは、京都市電撮影の合い間には、バスも撮っていました。多くは、近くの銀閣寺前付近で撮られています。戦後5年が経過すると、京都見物に繰り出す余裕も出て来て、銀閣寺付近には、遊覧バスや貸切バスが集まって来ました。この時代、市電の撮影者は見られたものの、バスの撮影はたいへん少なく、貴重な記録です。そう言えば、乙訓老人も、地方私鉄へ行った際には、駅前でバスを写してから、カメラを仕舞ったと述懐されています。ちょうど、京都市バス事業は,昭和3年5月に出町柳から植物園を結ぶ2.5kmの路線で開業して以来、今年で90周年を迎え、今月にはさまざまなイベントが実施されます。

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【100484】 羽村さんが遺したアルバムから 〈5〉

百万遍の停留場で多くの乗客を乗せる800形のトップナンバー車、ポール集電の800形は、この年に新製が始まったバリバリの新車だった(昭和25年1月)。

今回は、羽村さんにとって、いちばん身近だった京都市電です。京都大学の近くにお住まいだった羽村さんにとっては、京都市電は趣味活動の原点でもあったでしょう。例の細密な系統図を描かれた「青信号」の記事“京都市電雑感”にも、冒頭で「京都に生まれ京都に育った小生にとって、京都市電は何と云ってもなじみの深い電車である(原文ママ)」と述べられています。これらの写真を撮られたのは、昭和25、26年であり、全盛時代の到達までには、まだ少し時代をさかのぼる終戦直後の空気が残っていました。

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【100338】大阪電軌デボ1000

近鉄は、いろんな私鉄を糾合して出来た大鉄道です。
子供の頃に父親が『ダイキに乗って・・・』と言うのを聞いて、ダイキとはなんだろう?と思っていたが、後に『近鉄』のことだと知って驚いたおぼえがあります。

でも、こんな面白い出で立ちの電車だったら楽しかったでしょうね!

大軌デボ1000


【100307】 羽村さんが遺したアルバムから 〈4〉

今回のアルバム、羽村さんが最も好きだった阪急京都線を採り上げます。以前、tsurukameさんからの寄稿でも、羽村さん撮影の阪急京都線について、詳細されています(2017年11月27日90622号)。今回は、スキャンしていて新たに発掘できた写真です。
前稿で乙訓老人の思い出にも書かれていますが、羽村さんが好きだったのは“阪急京都線”であり、“阪急”ではありませんでした。京阪電鉄を分離し、新制・京阪神急行電鉄として創立してから、まだ1年しか経っていない昭和25年からの撮影で、京都線は、“新京阪”の面影を十二分に伝えていました。
最初の撮影は、西京極駅で撮られたデイ100形2両の京都行き普通電車をとらえている。周囲の光景は、郊外の様相だが、右手には、西京極野球場(現・わかさスタジアム京都)が見える。この球場は、昭和7年、昭和天皇の成婚を記念して建てられたもの。また電車左手には、現在でも見られる、未成線として残った貨物線の分岐部がわずかに見えている(昭和25年11月)。

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【100207】 羽村さんが遺したアルバムから 〈3〉

続いての撮影地は、京福電鉄叡山線(現・叡山電鉄)に移る。住まわれていた左京区内だけを走り、身近な鉄道へは以後もよく訪れることになる。最初に撮ったのが、京都市電1000型が叡山線を走るシーンだ。ご存じのように、宝ヶ池競輪場で開かれた競輪の開催日にあわせて、元田中駅にあった渡り線を通って、京都市電が山端(現・宝ヶ池)まで運転されていた。前年の昭和24年12月から運転を始め、羽村さんも、そのニュースを聞いて、行かれたのだろうか。ただ、低感度のフィルムのため、晴れていても走行中の車両を写し止めるのは難しい。そこで、羽村さんは、流し撮りで車両を止められている。偶然の所産なのかは分からないが(私も技量もないのに写したら流し撮りになっていたことがあった)、背後を空で抜いて、市電のポールが強調されている。撮影場所は、修学院の南方と思われる(昭和25年3月)。

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