昭和の電車 改訂版(12)ー淡路交通モニハ1005ー

京都にいると「淡路交通」と書かれた観光バスを目にすることがあります。しかし、関先生も言われるとおり淡路島へはなかなか行かず、島ではどんな地位にいるのか分からない交通機関でした。もちろん鉄道部門など見たことも乗ったこともありません。前回掲載時に乙訓の長老様が関連したことを書かれたように思います。

前回の『鞍馬電鉄デナ1』は人気がなかったようで反応なし!
今回はさらに人気がないのかもと心配しています。

関三平先生より《クハ79066・79060への疑問に答える》

Z 色づけ前の最終原稿

関三平先生から、先日の「昭和の電車・国鉄クハ79060」へのご質問に関してお手紙でご回答を頂きました。関先生も乙訓の長老も電子手紙はお嫌いなようで、“巻紙”とは言いませんが、お手紙に資料写真を添えてお送りくださいましたのでご紹介します。なお、資料写真は原版をコピー機で複写したものです。

初回の時に藤本さんの解説にあり、先日の投稿への河さんからのご指摘にあった『クハ79066には運行表示窓があったはず』についてのご回答です。

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京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その4)

4.立木登山鉄道

大正11年に比叡山への参詣客を目的として大津電車軌道を含め3社が比叡山へのケーブルカー建設が出願された。これに合わせたのであろうか、大正11年12月1日大津電車軌道は立木観音の参拝客の為に、鹿跳橋手前の瀬田川べりから立木観音へのケーブルカー敷設の免許を出願した。

↑ 図6:立木登山鉄道計画平面図(滋賀県県政史料室歴史史料「大と21-1-7」に加筆)
鹿跳橋手前から立木観音本堂に至るケーブルカーであった。石山寺終点から立木山下停車場まで大津電車軌道の瀬田川沿いの路線の延長も計画されていたようだ。 続きを読む

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その3)

3.南郷線
石山線が運行を開始したすぐ後の大正2年8月4日に石山寺から立木観音までの延長の特許が認められた。当時は神社仏閣への参拝者目当ての鉄道路線がいくつかあり、南郷線も厄除けで有名な立木観音への足として計画された。

↑ 図5:南郷線計画図(滋賀県県政史料室歴史史料 明と90-23に加筆)
延長線の起点は現在の石山寺駅ではなく、石山寺門前になっている。石山線の終点は石山寺門前までで特許認可されていたが、石山寺や付近の住民の反対もありこの区間は完成しなかった。石山寺から南郷までは山が迫っておらず、特許線も川から少し離れたところを専用軌道で作ることになっていた。南郷の先、今年できた瀬田川令和大橋より先は山が迫り、細い里道部分を拡張して併用軌道で計画されていた。 続きを読む

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その2)

2.大津市内線

市内線は大正10年に京都-大津間の線路付け替えが完成し、新しく作られた大津駅と石山線を結ぶ目的で計画され、大正11年5月25日に三井寺-大津間で特許が認められた。この時の申請書は見当たらず、当時毎年発行されていた今の営業報告にあたる軌道表の大正11年版に、計画線特許として申請距離のみが記載されていた。このためルートははっきりしないが、当初の申請距離は1.046哩(1683m)で国道を使う併用軌道部分が0.15哩(241m)県道を使う併用軌道0.858哩(1381m)、新設軌道0.038哩(61m)となっている。

↑ 図4:市内線(大橋堀線ともいわれる)のルート
当初旧東海道から西近江路を通る路線だったが特許変更後、大橋堀停留場を結ぶ赤実線のルートとなった。 続きを読む

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その1)

大津電車軌道は明治39年に由利公正らが発起人となって石山-坂本間の特許出願を行い、翌明治40年9月21日に特許がおりました。その後建設に着手し、大正2年3月1日大津(現在のびわ湖浜大津)-膳所(現在の膳所本町)間を皮切りに路線を伸ばしていきました。
更に開通と同じ時期に堅田、南郷への延伸を図り、大正11年には三井寺と東海道新線にできた大津駅を結ぶ路線を計画しましたが、急な拡大と、不況の影響もあっていずれも建設着手に至らず、運行までこぎつけたのは当初路線の石山寺-坂本間のみとなりました。
1. 堅田延伸
明治40年9月に特許が降りた石山-坂本間の路線は現在のものとは全く違い、浜大津より東は浜通りを通り、石場から旧東海道に沿って石山寺に向かうもので、一方浜大津より西側は西近江路、現在の県道大津高島線(旧国道161号線)を下阪本まで行き、西に転じて坂本に至るものであった。堅田への延伸路線は下阪本から分岐して雄琴を通り、堅田町本堅田までの5哩で、大正2年8月27日付滋賀県知事あてに特許申請が出された。 続きを読む