京阪大津線の歴史を調べて(三井寺、坂本假停留場)

坂本仮停留場
反対側の終着駅坂本停留場も延伸開通の当初は仮の停留場が作られた。計画されていた最初の停留場(資料5)は3面のホームがあり、一番長いホームは約100mもあり、短いホームでも約40m、琵琶湖鉄道汽船100型は15m級であったので将来の2両連結運転も考慮されたと思われる立派なものであった。↑ 資料5:当初計画坂本停留場,長いプラットホームに加え、待合室等にもスペースが取られていた。(県政史料歴史史料昭と5より作図)
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京阪大津線の歴史を調べて(三井寺、坂本假停留場)その1

前項「大津電車軌道坂本延伸裏話」でも少し触れましたが、三井寺-坂本間が全通した後も両端の坂本、三井寺停留場は仮停留場のままでした。当初の計画は高規格の車両を使い、連結車も走らせるような考えで進んでいましたが、三井寺、坂本の両終端駅は駅部分の用地買収の遅れで開通を優先させて仮停留場で営業を開始しました。この年は大津電車軌道が太湖汽船と合併し、新たに琵琶湖鉄道汽船としてスタートを切った時でしたが、その後、乗客が思うように伸びず、当初の過大投資の為もあって工事は進まず、その内に経営状態が悪くなり、その後2年足らずで京阪電鉄と合併することとなりました。京阪電鉄は大正14年に京津電気鉄道と合併し、昭和4年4月11日に琵琶湖鉄道汽船の鉄道部門を合併して大津、琵琶湖への進出を果たしたわけですが、この合併した部分を今後どうしていくのか、方向性がまだきまらなかったため両駅の仮停留場の状態が続きました。 続きを読む

『通勤形電車』の変遷    河 昭一郎様ご寄稿 

河 昭一郎様より鉄道雑誌に掲載予定で編集された表題の論文をデジ青用にご寄稿頂きましたので掲載いたします。
ただ、頂いたのは出版用に割り付けられた完全原稿のため、そのままでは掲載できません。一旦ばらしてデジ青仕様に組み替えましたのでご了承下頂きます。内容・文章には手を付けておりません。併せて以前に投稿された藤本哲男さんの73系に関する記事もご覧下さい。

ロクサン形がルーツの通勤電車 クモハ73030 1962-1-4 京都

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再度、『かえだま』に関する考証を

河 昭一郎さんより、先の投稿に補追として写真と解説が送られてきました。
我々には事故による車輌運用の事件として面白おかしく伝えられてきた話題ですが、当事者には大変な、歴史的大事件だったことが先の河さんによるご投稿で明らかになりました。『かえだま』などと揶揄していた不見識を恥じるばかりです。
それでは送っていただいた当時の貴重な記録写真と解説をご覧頂きます。
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京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その3

3. 全線開業までの運行形態
先に開通した三井寺-螢谷間はカーブの多い路線で大正末期には開業時に作られた大津電軌1型(京阪合併後の旧80型)とその後増備された大津電軌11型(京阪合併後の90型)という路面電車タイプの車両によって運行されていた。これに対し、三井寺-坂本間はカーブの少ない直線の線路を主体に、当時の高速高規格電車での運行が計画された。開業時に新製された琵琶湖鉄道汽船100型(京阪合併後の旧800型)は15m級ではあったが片側ロマンスシート、片側ロングシートの当時としては先端を行く車両であった。螢谷-坂本間で線路がつながったと言っても三井寺を境に坂本側は高規格の高床式、螢谷側は路面タイプの低床式と全く異なり乗客は三井寺で乗り換えを強いられ、この状態は昭和6年まで続いた。ところで部分開業の時はどのような運転形態であったのだろうか。開業時に作られた仮停留場の図面を見ると、三井寺停留場と兵営前停留場は路面タイプの低いプラットホームで、これに対して山上停留場、松ノ馬場停留場は高床用のプラットホームであった。

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京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その2

2.5つの仮停留場

部分開業に伴って坂本、三井寺、兵営前、山上、松ノ馬場の5つの仮停留場の設置願いが出された。まず、先に紹介した昭和2年4月25日付「仮停留場設置御届」では兵営前、山上、松ノ馬場の3駅について仮停留場の設置願いが出された。兵営前、山上は前項で述べた陸軍との土地交換が遅れ、兵営前、山上間が完成しないため、三井寺-兵営前、山上-松ノ馬場の折り返し運転用に仮停留場を設置した。ところが同じ文書に書かれている松ノ馬場の理由書を見ると松ノ馬場停留場用地の一部及びその北側の用地で、当初住民の電車敷設反対があり、用地買収が遅れたためとある。

 

資料3:兵営前仮停留場平面図(県政史料室歴史史料、大と1より作図)
折り返しの設備を持ち、路面電車タイプの低床のホームが作られた。

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京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道坂本延伸裏話)その1

大正3年に螢谷-浜大津間を開通させた大津電車軌道は坂本までの延長を計画しましたが、江若鉄道との競合の問題もあり、大正11年にまず三井寺まで延長、そこから先坂本までの開通は昭和2年まで待たなければなりませんでした。昭和2年5月15日に開通したのは三井寺―兵営前間、山上―松ノ馬場間で、続いて松ノ馬場―坂本間が同年8月13日に開通、残った中間部分の兵営前-山上間が全通したのは同年9月10日でした。なぜこのように変則的な開通になったのか、また、4か月を待たずに部分開通を繰り返したのか、そこには興味ある話がいくつかありました。そこで第2弾は大津電車軌道の坂本延伸の裏話と言ったものをご紹介しようと思います。
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京阪大津線の歴史を調べて(1-4漣駅)

4.漣駅
大正11年5月15日に三井寺までの延伸を果たした大津電車軌道はさらに北への延伸を画策し、昭和2年に太湖汽船、湖南鉄道と合併した琵琶湖汽船鉄道として昭和2年に三井寺-坂本間を高規格で開通させた。
この区間は開通後、駅の名前の変更、移転、休止など目まぐるしく変わったが、漣駅は旧大津電車軌道部分を合併した京阪電鉄が昭和4年10月10日開業し、昭和19年8月15日廃止された。
設置されたのは当時の錦織駅(現在の近江神宮前から南に約200mのところで、屁ノ尻川沿いに県道から駅に行く道が作られ、対面式のホームが作られた。県道から駅に行く道は現在もそのまま残っており、線路を横断する踏切は漣踏切となっていて駅があったことが偲ばれる。資料7:漣駅付近図、県道から駅への取付け道路が屁ノ尻川に沿って作られている。(県政史料室歴史史料、大と50より作図)

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『昭和の電車』突然終了!最終回 新京阪デイ100とC5343

関三平先生の渾身の長編力作『昭和の電車』シリーズが突然打ち切りになりました。
こんな電車があったのか!と毎回驚いた事ばかりでしたが、なにより見たこともない車輌をカラーで見せて頂ける幸福をかみしめて拝見しておりました。

今回、新聞社で何があったのかは分かりませんが、価値の分からない編集者が打ち切ったのだろうと思います。幸い、関先生は他で続けるとのことですからそれを楽しみに待ちましょう。

どうしても見せたかった、と言われる“名勝負”新京阪対省線の決定版です。

京阪大津線の歴史を調べて(1-2大橋堀駅)

2.大橋堀駅
大橋堀駅は現在のびわ湖浜大津駅の東隣にあった駅である。当初大津電車軌道が路線申請した時は、現在の浜通りを拡幅して、石場から旧東海道を走る併用軌道で予定していたが、拡張費用がかさむことから、馬場より西側は明治22年東海道線が全通して枝線となった鉄道院の大津支線を借用することとなった。この区間が大津電車軌道として開通したのは大正2年3月1日である。大橋堀駅も資料は少なく、開通と同時に駅ができたのかどうかは諸説あり、大津市歴史博物館の大津市制100周年記念企画展「大津の鉄道百科展」図録には駅の開業時期が記載されていない。資料3:大橋堀停留場附近平面図(滋賀県政史料室歴史史料「昭と大6」より作図)大橋堀を渡る鉄橋と坂本町、橋本町(いずれも旧町名)の境界線から場所が特定できる。

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京阪大津線の歴史を調べて(1-1)

京阪大津線は京津線の前身、京津電気軌道が大正元年に三条大橋~札ノ辻間が開通、石坂線の前身、大津電車軌道が大正2年に大津(現在のびわ湖浜大津)~膳所(現在の膳所本町)が開通し、その後延伸、路線の変更があって現在の形となりました。総本家青信号特派員さんからお誘いを受けて、旧東海道線の遺構を調べた後に、京阪大津線についてもその遺構を調べたくていろいろな書物、地図を見ましたが、本によって記載の異なるものが多く、また、不明な点もあったため、滋賀県県政史料室の歴史的資料を調べてこれらを解明したいと考えました。先にご報告したように、県政史料室の歴史的資料は項目ごとに分類されており、そのリストも公開されていて調べやすくなっています。この宝の山の中から、まず、石坂線で廃止された駅について順に報告したいと思います。 続きを読む