【102463】関三平先生から会員諸氏へ

11月22日投稿の【102177】『近鉄ファンへのプレゼント!・伊勢電鉄モハニ231』に関して宮崎繁幹様から「モニ6231の前側部窓下のプレートは何か?」との質問がありました。私がハガキで先生にその旨をお尋ねしたところ、本日封書でご回答を頂きました。いつもの通り、達筆の長文ですので僭越ながら要約して掲載させていただきます。なお、INUBUSE氏から「近鉄社章と型式、定員、自重を刻印した鋳物のプレート」との回答を頂いております。
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【101548】高山ダムの工事用軌道

小生は社会科見学で工事用軌道のトンネルを見た記憶があります。しかし天ヶ瀬ダムではなく、何処だったのか思い出せず、悶々とした日を送っていました。
先日、KBS京都放送で南山城村の話題が放映され、正に覚えていた情景の写真に出逢いました。

高山ダムの工事用軌道(トンネルと右奥に吊橋が見える)

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【101519】 羽村さんが遺したアルバムから 〈8〉

 京福電鉄叡山線

この時代の京福と言えば、木造車のデナ1が代表だろう。1925年、叡山線の開業時に日本車両で1~6の6両が製造された。全長12.3m、片開き2ドアの木造車で、写真で見ると、きれいな木目模様が出ている。前面はタマゴ形の3枚窓、ドイツ・マン製の板バネ台車とイギリス製電装品を搭載しているのが特徴だった。固定編成化される前の原形の時代で、車体もグリーン一色塗りで、その後、2色塗装に改められる〔山端(現・宝ヶ池)、昭和26年〕。

羽村さんの写真をきっかけにして、鉄道模型や京阪電車にと、拡散を見せています。
ひとつのテーマから、各方面の投稿が集まるのも、“デジ青”の真骨頂でしょう。今回は、羽村さんの地元、左京区を走る、“叡電”、当時の京福電鉄叡山線・鞍馬線です。考えたら叡電は、始発も終点もすべて左京区内にあります。ひとつの行政区のなかで完結してしまう鉄道というのも、ほかにはちょっと例がないのではと思います。

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【101365】 羽村さんが遺したアルバムから 〈7〉

京阪電車

四条駅に颯爽とすべり込んで来た天満橋行きの1000系の特急3両編成。まだ鳩マークも無い時代で、赤白の円板の特急標識である。“京阪特急”は、撮影された前年の昭和25年9月、三条~天満橋に所要53分で走り始めた。朝夕2往復のみ、2両編成のささやかなスタートで、特別整備されたロマンスシートの1000、1100形が使用された。その後、中間に1600形が増結されて3両編成となり、まもなく写真のように、1500形に変更された(昭和26年4月)。

“羽村さんシリーズ”、また続けます。阪急、京都市電、バスと来て、つぎは京阪電車です。京都市左京区に住まわれていた羽村さんにとって、京阪電車は、いちばん近い郊外電車で、興味を持つようになるのも自然な成り行きだったのでしょう。撮影されたのは昭和26年、車両としては、赤と黄色の京阪特急色の1700系がデビューする前後で、私にとっても、記憶に残る以前の時代で、大変貴重な記録です。

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【100540】 羽村さんが遺したアルバムから 〈6〉

京都市営バスのトレーラーバス、進駐軍が持ち込んだ大型車両をヒントにつくられ、戦後混乱期の大量輸送に、京都でも活躍した。昭和22~24年の短い時期につくられたが、取り回しがよくないため昭和30年前後には姿を消した(昭和26年3月)。

羽村さんは、京都市電撮影の合い間には、バスも撮っていました。多くは、近くの銀閣寺前付近で撮られています。戦後5年が経過すると、京都見物に繰り出す余裕も出て来て、銀閣寺付近には、遊覧バスや貸切バスが集まって来ました。この時代、市電の撮影者は見られたものの、バスの撮影はたいへん少なく、貴重な記録です。そう言えば、乙訓老人も、地方私鉄へ行った際には、駅前でバスを写してから、カメラを仕舞ったと述懐されています。ちょうど、京都市バス事業は,昭和3年5月に出町柳から植物園を結ぶ2.5kmの路線で開業して以来、今年で90周年を迎え、今月にはさまざまなイベントが実施されます。

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【100484】 羽村さんが遺したアルバムから 〈5〉

百万遍の停留場で多くの乗客を乗せる800形のトップナンバー車、ポール集電の800形は、この年に新製が始まったバリバリの新車だった(昭和25年1月)。

今回は、羽村さんにとって、いちばん身近だった京都市電です。京都大学の近くにお住まいだった羽村さんにとっては、京都市電は趣味活動の原点でもあったでしょう。例の細密な系統図を描かれた「青信号」の記事“京都市電雑感”にも、冒頭で「京都に生まれ京都に育った小生にとって、京都市電は何と云ってもなじみの深い電車である(原文ママ)」と述べられています。これらの写真を撮られたのは、昭和25、26年であり、全盛時代の到達までには、まだ少し時代をさかのぼる終戦直後の空気が残っていました。

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【100338】大阪電軌デボ1000

近鉄は、いろんな私鉄を糾合して出来た大鉄道です。
子供の頃に父親が『ダイキに乗って・・・』と言うのを聞いて、ダイキとはなんだろう?と思っていたが、後に『近鉄』のことだと知って驚いたおぼえがあります。

でも、こんな面白い出で立ちの電車だったら楽しかったでしょうね!

大軌デボ1000


【100307】 羽村さんが遺したアルバムから 〈4〉

今回のアルバム、羽村さんが最も好きだった阪急京都線を採り上げます。以前、tsurukameさんからの寄稿でも、羽村さん撮影の阪急京都線について、詳細されています(2017年11月27日90622号)。今回は、スキャンしていて新たに発掘できた写真です。
前稿で乙訓老人の思い出にも書かれていますが、羽村さんが好きだったのは“阪急京都線”であり、“阪急”ではありませんでした。京阪電鉄を分離し、新制・京阪神急行電鉄として創立してから、まだ1年しか経っていない昭和25年からの撮影で、京都線は、“新京阪”の面影を十二分に伝えていました。
最初の撮影は、西京極駅で撮られたデイ100形2両の京都行き普通電車をとらえている。周囲の光景は、郊外の様相だが、右手には、西京極野球場(現・わかさスタジアム京都)が見える。この球場は、昭和7年、昭和天皇の成婚を記念して建てられたもの。また電車左手には、現在でも見られる、未成線として残った貨物線の分岐部がわずかに見えている(昭和25年11月)。

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【100207】 羽村さんが遺したアルバムから 〈3〉

続いての撮影地は、京福電鉄叡山線(現・叡山電鉄)に移る。住まわれていた左京区内だけを走り、身近な鉄道へは以後もよく訪れることになる。最初に撮ったのが、京都市電1000型が叡山線を走るシーンだ。ご存じのように、宝ヶ池競輪場で開かれた競輪の開催日にあわせて、元田中駅にあった渡り線を通って、京都市電が山端(現・宝ヶ池)まで運転されていた。前年の昭和24年12月から運転を始め、羽村さんも、そのニュースを聞いて、行かれたのだろうか。ただ、低感度のフィルムのため、晴れていても走行中の車両を写し止めるのは難しい。そこで、羽村さんは、流し撮りで車両を止められている。偶然の所産なのかは分からないが(私も技量もないのに写したら流し撮りになっていたことがあった)、背後を空で抜いて、市電のポールが強調されている。撮影場所は、修学院の南方と思われる(昭和25年3月)。

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【100199】 羽村さんが遺したアルバムから 〈2〉

最初の撮影は、昭和25年3月12日、この写真から始まっている。背後の建物は、大正時代に建てられた二代目京都駅、撮影場所は、いまで言う、八条口側から撮られたもの。手前には多くの側線があり、京都駅に発着する客車の留置線になっていた。スハ32系の客車を8620型が入換えをしているところだろう。ハチロクは、この当時、梅小路区に14両も配置され、東海道本線の貨物列車の補機、大津、石山、草津あたりまでの軽貨物の牽引、奈良線の貨物、時には入換えと大活躍していた。

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【100194】 羽村さんが遺したアルバムから 〈1〉

またまた投稿が開いてしまいました。腰を落ち着けて投稿することにします。デジ青では、米手さんによる、献身的な電子介護が続いています。見ることが叶わなかった会内外の貴重な記録が、本欄でよみがえり、改めて、そのご苦労に讃辞を送るものです。
私も、もう一人、天に召された会員のネガを預かっています。それは、昭和44年に、37歳の若さで亡くなられた、羽村 宏 さんです。羽村さんといえば、青信号初期号で、京都市電の全系統をカラーインクで色分けして、一枚ずつ手作業で系統図を作られた伝説の人です。私とは年代が違い、お会いしたことはありませんが、亡くなられた時、私は青信号22号の総指揮をしており、OBからの一報で、出来上がり直前の青信号を止めて、急遽、訃報を載せたことを覚えています。
羽村さんは、お住まいの左京区吉田にちなんで“吉田急行電鉄”と名付けられた、鉄道模型・レイアウトが主な趣味でしたが、写真も昭和25年から撮られています。これらの写真・ネガは、親しかった乙訓の老人宅で静かに眠っていました。ある時、老人の自宅へ遊びに行った時、「これ、おまえが保管せぇ」と渡されたのが、この青いネガアルバムでした。2004年のことで、以来、10年以上が経ちますが、預かった私も、一部は、出版に使わせてもらったものの、ネガのスキャンもせず、眠ったままでした。
このことを、老人に相談しますと、“すぐにでもデジ青に発表してくれぇ”と、強い口調で激励され、電子介護の一環として、発表することにしました。預かっているのは私であっても、羽村さんの遺された写真は、クローバー会共有で受け継いでいくべきものと思っており、ならば、“デジ青”での発表がもっとも相応しい媒体だと思うに至ったのです。羽村さんが遺された青いネガアルバムは二冊、B5ヨコ型で、1ページに8点のセミ判のネガが収められ、二冊で300点余りのネガがある。鉄道模型を写されたものもあって、実物の鉄道写真は200点程度だ。いまのデジカメなら、半日で撮ってしまいそうな点数だが、羽村さんは、約5年掛けてじっくり撮られた。決して寡作ではなく、この時代の撮影スタイルはこんなもので、一枚一枚、心を込めて撮られたのだ。

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