天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【6】

山崎付近で東海道本線を撮る

東海道本線の長岡京~山崎~高槻は、昔から知られた撮影地で、たまたま近くに居住することになった私は、昭和・平成時代を通じて、よく撮影に行ったものです。“来た列車は全部撮る”が身上のため、コスパ面でもモノクロ撮影ばかりでしたが、今回、あらためてカラーを探してみると、僅かですが、カラーで写していたことが分かりました。約20年前のことで、当時としては、ごく当たり前の列車の風景ですが、20年経ってみると、その時代でしか見られなかった塗装もあって、カラーで写していたことの価値を改めて感じたのでした。今回は季節を少し先取りして、夏の臨時列車の運転時のものです。(以下すべて1997(平成9)年7月)。
当時のアーバンネットワークの代表シーン、「新快速」の221系と「普通」の201系がサントリー前のカーブを併走する。本日のニュースで、大阪環状線201系が最終営業を迎えたと伝えたが、それから20年近く、201系もよくぞ環状線で生き延びたものだ。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【5】

ツツジから新緑へ 蹴上を行く

先日の本欄で蹴上のツツジを載せましたが、“これだけ!”と思っていたら、別のところからまた出てきました。今回はポジで、前回はネガ、当時はカラーのネガ・ポジの両刀づかいだったことを、初めて認識しました。いずれもスキャンしてデータ化する過程は同じですが、結果は少し違います。ネガからは軟調に仕上るため、なめらかな階調があり、フィルムの劣化さえなければレタッチに手間は掛かりませんが、ポジからのスキャンは、コントラストが強くて白トビ、黒ツブレがあり、濃淡の調整に手間を要します。今回は、そんな違いも感じながら、5月のツツジ、そして6月の新緑へ移っていく蹴上付近の情景です(以下1997年5・6月撮影)。
紅白の幔幕が張られた蹴上浄水場の横を行く、京津線の80形、蹴上には仁王門通に陸橋があって、ここから、京津線がうまく収まった。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【4】

蹴上のツツジ

意気込んで開始したカラー同月版シリーズですが、アッと言う間に月末となりました。テーマ先行で、投稿は積み残しばかりですが、一件だけでも載せておきます。

先般、本欄に京津線蹴上の桜を載せました。そのあと蹴上では、ツツジの季節を迎えます。なかでも蹴上の山手に広がる京都市の蹴上浄水場一帯には、ツツジが多く植生し、5月連休明けごろの開花時期に合わせて、浄水場が一般公開されています。その横を行くのが京津線で、ツツジと電車の取り合わせを求めて、何度か訪れたものでした。
京津線蹴上~九条山に沿うのが、京都市の蹴上浄水場で、琵琶湖疏水開削に由来する歴史ある浄水場である。多くのツツジが植えられて、開花時期に合わせて公開され、年に数日間だけ、京津線との組み合わせを撮ることができた(以下すべて1997年5月)。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【3】

最終日の阪国(昭和50年5月)

“阪国(はんこく)”と総称された阪神電鉄併用軌道線、残っていた国道線(野田~上甲子園)、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)は、昭和50年5月5日を持って廃止されました。モータリゼーション化の渦に飲み込まれて、とくに国道線は、もはや路面電車としての体を成していなかったのが最大の理由です。しかし、甲子園線は、通勤・通学客、行楽客が終日あって、阪神本線からのフィーダー輸送として活用され、北大阪線も一定の利用者はありましたが、社会や会社のなかに、路面電車を残そうとする気持ちは、まだ芽生えていない、これもまた“昭和”の世代の考えでした。

阪国の最終日は、5月5日の“こどもの日”の祝日、全区間が乗車無料という大盤振る舞い、多くの人で終日賑わった(野田)。

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 令和は、総仕上げの時代

令和に改元されてから10日が経過しました。令和元年という年は、私にとって会社をリタイアしてから10年が経過し、そして自身が70歳を迎える年でもあるのです。70歳と聞くと、“よくぞ生きて来た”の思いが交錯します。鉄道趣味人生も、最後のラストスパートのとき、過去を振り返りながらも、健康年齢の間にできる目標をしっかり掲げて、到達点を目指して、日々前向きに進んで行きたいと願っています。
ちょうど10年前、自由人になった頃、“デジ青”誌上で、これからの目標として、次の4点を掲げました(原文ママ)。
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
以上の4点、どう実行できたか、この10年を検証しながら、令和の時代の趣味生活を見据えてみたいと思います。
10連休も終わったが、365日連休の私にとっては、“それが、なんやねん”という気持ちだ。ただ新幹線の混雑や、高速道路の渋滞を聞くと、何か取り残されたような疎外感を味わいながら、家に引き籠もっていた。唯一行ったのが、近くの阪急桂川鉄橋の夕景で、撮ってから、写真ソフトで“いじる”楽しさを覚えた。体力、気力が衰えた今、軽いカメラでサクッと撮って、すぐ引き揚げる。自分で“撮りたいもの”だけを撮る、この信念を貫きたい。

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鉄鈍爺の平成

元号が「令和」となり改元フィーバーも一段落したので、平成時代を振り返ります。
私が鉄道写真を画像化するキッカケは、パソコン通信が広まりだし、PC-9801で表示するため写真をスキャンし、degif510 と言うプログラムで GIF化したのが最初です。
平成元年(1989年)10月に、アスキーネットの pdd/naplps へ uploadしました。
これ ↓ が、その時の GIF画像です。

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 平成の桜を振り返る 【3】

 京津線蹴上の桜

平成の桜、阪急のつぎは京阪です。京阪の桜、と言えば、我々の世代では鴨川沿いの桜となりますが、これは、昭和の出来事、平成はすでに地下に潜っていますから、改めて時の流れの早さを感じます。平成時代の桜は、やはり京津線蹴上の桜でしょう。並行していた琵琶湖疏水のインクライン沿いに桜の並木が続いていました。この区間が廃止されて、市営地下鉄東西線に道を譲ったのが平成9年、もう20年以上前になります。この頃はカラーポジの全盛で、京津線と桜を絡めて、よく撮ったものです。ところが、私にとっては、もっと以前に廃止された鉄道にばかりに時間をとられ、京津線のことは、全く採り上げることはありませんでした。
京津線蹴上駅は、低床ホームが三条通にあり、電車の到着を待つ人びとの様子を、桜と重ねて狙ったものだ(以下すべて平成9年4月撮影)。

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十連休にボーとしないために

先日、日本橋駅近くの文楽劇場へ観劇にいくと上掲のチラシが置いてました。好物の近鉄2200系と2250系の画像が眼をひきました。2250系は今年1月の鉄路輝く写真展にも採用いただき60年ぶりに輝きました。2200系は十代に母親に連れられ神道団体の貸切列車で伊勢神宮初詣に毎年乗りました。今月は近鉄しまかぜが退位報告の陛下と共に大和路伊勢路と活躍し近鉄関係者もお疲れのことでしょう。落語と8ミリ映画という変な取り合わせ、8ミリ映画と聞いて温泉宿などを思い出されたのは後期高齢者でしょうね。日本橋駅は大阪メトロ近鉄阪神阪急で交通至便、十連休の暇つぶしにいかがですか。
クローバー会の皆さんも高齢の方々が増え、最近の桜井線撮影会の掲示板報告にも帰途の近鉄電車にトイレが付いていて助かったとありましたが、大阪線で数少ない5200系運用に乗車されたのはもっと幸運でしたね。通信員は前立腺が廃線となってから五年になりますが、皆様もPSA検査などで保線に努められ機嫌よく趣味に没頭されますように。
なお本稿掲示に当たり介護士壱号さまより適切なる介助を受けましたことに深謝いたします。

 

 羽村さんが遺したアルバムから 〈15〉

京阪特急への憧れ

阪急デイ100が大好きだった羽村さんですが、アルバム後半からは、京阪電車も多く見られるようになります。京都市内だけではなく、大阪まで足を伸ばして、走行中を撮っています。以下の写真は、昭和27年の撮影ですが、京阪の歴史を紐解くと、昭和25年に初めて「特急」が朝夕2往復走り出し、その翌年、昭和26年4月からは終日運転に拡大されます。この時、特急専用車として1700、1750形が計10両新造され、MT2両固定編成となり、初めて赤黄の特急色が採用されました。当時の国鉄、阪急にはない派手なカラーが、羽村さんの心を動かしたのでしょうか。
京橋を発車し、野田橋へ向けての併用軌道区間を行く鳩マークの天満橋行き特急。特急は、三条、天満橋とも7時始発、ラッシュ時30~40分ごと、10~17時1時間ごと、終発は20時で、三条~天満橋53分だった(昭和27年12月)。

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