『図補』のミス券

図補の作成者も人間です。勘違いやウッカリも起こります。 (^^;)
でも収集者にとっては間違い探しも、楽しみの一つです。(趣味者として不謹慎だと言われそうですが、、、)

『駅名のミス』
どう言う訳か、八王子に係わるものが多いです。
図補の場合、発行している路線から離れた駅(その路線から行く人が少ない)の表示を省略したりします。つまり主要駅のみ表記する場合があります。
また駅名変更が起こっても、図補の作り置きが無くなるまでは旧券をそのまま使ったり、ゴム印を押して済ます場合もあります。これはミス券では、ありません。

『浜松車掌区』
高円寺、吉祥寺、八王寺!

高円寺、吉祥寺、八王寺!

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑭

城南宮道

“道”と言っても、その城南宮へは停留場から1キロほど西にありました。停留場名には、施設名などにプラスして、「~前」「~口」「~通」「~道」と接尾語を付すことが多くあります。「前」「口」は、他都市でもよく見られますが、「通」「道」は、かなり京都的と言えます。「道」は、この城南宮道のように、「前」よりも少し歩く場合に適用されるようです。その違いを端的に理解できるのは、「金閣寺“前”」と「銀閣寺“道”」です。さて、高瀬川沿いを走っていた、古来の竹田街道は、この城南宮道で新しい竹田街道と合流しますが、その地点には「城南宮参詣道」の大きな石碑があります。そして、まもなく近鉄京都線をくぐります。近鉄線の前身は奈良電鉄、さらにさかのぼると、敷設当時は現在のJR奈良線のルーツとなる奈良鉄道でした。京電が敷設された当時は平面で交差しており、開業直後には、電車と奈良鉄道の機関車が衝突して多数の死傷者を出したと言います。砂塵を巻き上げ、少し車体を傾けながら、北上を続ける9号系統693号。市電の向こうに伏見信用金庫の広告塔が見えるが、それ以外に高い建築物は何もなかった。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑬

七瀬川町

七瀬川と言う小さな川が、停留場付近を流れていました。川は、深草の大岩山を水源として西へ流れて、高瀬川に合流していました。この名称は、川筋に七つの橋が架けられ,また大岩山から高瀬川と合流するまでの間に七瀬があったところから名付けられたと言われています。豊臣秀吉が伏見桃山城を築城する際には、総外堀の役目も担っていたそうです。現在では、潤いと安らぎのある水辺に改修され、親水河川となっています。

【七瀬川町 定点対比】

乗降客の平均年齢が相当高そうな七瀬川、右は現況と思われる箇所、街並みに特徴がなく、定点と決めるものが見つからなかった。

 

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑫

竹田出橋

この竹田出橋で名神高速道路の下をくぐりました。前記のように、もともとの竹田街道は少し西を流れる高瀬川に沿って通じていて、そこに架かっていた橋を井手橋と言い、それが転化して“出橋”となったと言われています。この付近から西が、古来の竹田の中心で、今でも歴史を感じさせる家並みが残っています。旧ルート時代の停留場名も竹田で、明治45年の移設時に竹田出橋となりました。

 

【竹田出橋 今昔対比①】

名神高速道路の南側にあった竹田出橋。右は現況。

 

 

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑪

竹田久保町

かつての停留場名は「練兵場前」で、付近には、陸軍第16師団の京都練兵場がありました。陸軍の施設が密集し、軍都として伏見の街の別の側面を見せていました。近くの龍谷大学や京都府警察学校も、戦後に陸軍跡地にできました。市電時代にも付近には公共施設も多く、乗降の多い停留場でした。

【竹田久保町 定点対比】 

竹田久保町の交差点から南方向を見る。東側(左)では、竹田街道の拡幅工事が進んでおり、伏見線の廃止後には、現在見られる、片側2車線、歩道付きの道路に生まれ変わる。右は現在の様子、街並みはすっかり変わってしまった。西へ行くと、地下鉄くいな橋駅があり、通行も多い。東側には龍谷大学のキャンパスがあり、学生相手のファストフード店が並んでいる。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑩

深草下川原町

では、また京都市電伏見・稲荷線に戻って、停留場ごとに50年前のシーンを巡っていきます。河さんにとってはホロ苦い思い出の残る、深草下川原町から始めます。前記の勧進橋から、棒鼻の手前まで約2キロは、ほぼ一直線の竹田街道を南下していきます。ただ明治の頃は、ここから少し西を流れていた高瀬川に沿った、曲がりくねった道で、京電も同様に走っていました。明治45年に、一直線の広い道に付け替えたもので、京電も同様に移設されています。今でも、竹田街道を歩くと、交差する小さい道とは、少し高低差があり、拡幅時期に、低い土地に盛り土をして、新しい竹田街道を通したことが伺えます。市電時代には、まだ田んぼも散見されますが、大部分は工場・民家が混在した車窓風景が続いていました。正直、なかなか絵にはなりにくい区間で、撮影もスルーすることが多く、今回も、Mさんの貴重な記録で助けてもらいました。

【深草下川原町 新旧対比】

この付近では、竹田街道の東側を市電が走っていた。もちろん安全地帯も無く、乗客は命がけで電車に乗り込んだ。右の現況と対比すると、右手のビルがそのまま。

 

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とあるニュースの見出し

Yahoo! の見出しに『地下駅の強風、何とかならない? 髪ぼさぼさ「分け目逆に」と不満、その原因は』なんてなのがありました。
最近は記事の購読数を稼ぐために刺激的な文言が見出しとして多用されており、思わずクリックすると、阪急の西院駅と大宮駅のことでした。


画像は下り特急から通過する西院駅を撮ったものです。

記事本体は、以下のURLです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200315-11004048-maidonans-life
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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑨

稲荷

勧進橋から分岐する稲荷線は、明治37年に開業しました。その距離はわずか0.7kmで、専用軌道で上り勾配を上って行きました。上り詰めると、師団街道の踏切を通り、京阪電鉄と平面交差します。市電はいったん停止し、信号を確認後、京阪の線路と平面交差して、琵琶湖疏水に架かる橋上の「稲荷」に至っていました。すぐ向こうは国鉄奈良線で、同線の稲荷駅も近い距離にあります。伏見稲荷大社への参拝客が多く訪れていて、とくに初詣や初午、例祭の時は乗降客であふれていました。

稲荷に関して最近のトピックは、何と言っても停留場付近からレールが“発掘”されたことでしょう。停留場のあった橋の改修によって、コンクリートで埋められていたレールが露出したものです。

行った時は発掘レールはブルーシートで覆われていたが、今後は現地で保存・展示されると言う。最終日の午後、停留場付近を柔らかい陽光が包み込んでいた。みんな思い思いに別れを告げていた。501号の下部付近から、上記のレールが発掘された。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑧

勧進橋

鴨川を渡ると、京都市の南区から伏見区に入り、伏見・稲荷線の本場に入ってきた感がします。右にカーブすると、すぐに勧進橋の停留場で、土蔵造りの荒れ放題の待合所が東側にありました。ここから明治37年にできた稲荷線が左へ分岐して行きます。「伏見稲荷大社」と大書きされた石碑と、稲荷参詣道(新道)の竣工を記念した石碑が緑地帯のなかにありました。稲荷方面~中書島方面は、直通電車もなかったため、相互乗り換えには、ここで乗換券が発行されていました。また今回も大部分の写真をMさんから提供いただきました。稲荷から来た稲荷線と合流する勧進橋、安全地帯の無い停留場からの乗り降りはたいへんだ。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑦

十条通

十条通の交差地点に停留場が設けられていました。十条通は、京都市南部の東西の所要道路で市電時代から自動車の通行が多くありました。民家、商店も次第に途切れて、近くの鴨川の水流を利用した染工場などが見えてきました。正直、なかなか絵になりにくいところで、私自身は、1、2点しか撮っておらず、今回もMさんの撮影で助けてもらいました。

【十条通 定点対比】

停留場前には、古い家並みが残っていた。市電時代は商店もあったが、右の現況では、さすがに看板も無く廃業しているものの、家そのものは改装されて残っていて、この西南の一角だけは、市電時代のままだった。

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 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑥

札ノ辻

大石橋を出た市電は竹田街道を南下して行きます。古来からの竹田街道の街路をそのまま踏襲しているため、道は右に左に緩くカーブを続けます。商店、民家の連なる街並みを見ながら「札ノ辻」に到着です。いかにも旧街道らしい停留所名で、街道などに高札を立てた辻のことを言い、現在でも、地名や交差点名称として全国で見られます。この交差点は、東西の通りが、宇賀神社への参道に当たっていて、人通りも多かったようです。現在、この参道は、地図を見ると札ノ辻通とありました(今回の写真は、大部分Mさん提供の写真を掲載しています)。【札ノ辻 定点対比】いかにも街道筋らしい家々が連なっていた昭和の時代、停留場に到着する501号。左は、現在の札ノ辻交差点、中央の二階建てが、市電時代と変わっていないのが分かる。

 

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