天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【21】 秋編

北丹鉄道を走ったDRFC貸切列車

地元の京都・滋賀で、記憶に残る中小私鉄の廃止としては、江若鉄道、加悦鉄道、北丹鉄道が挙げられます。江若鉄道は、クローバー会の協力も奏功し、前稿でも報告されたように盛り上がりを見せています。加悦鉄道も、加悦、丹後山田に資料館があり、奥にはSL広場もあって、保存会によって継続的に活動が行なわれています。
それに比べると、北丹鉄道(福知山~河守12.4km)は、世の中からも忘れ去られようとしているのが気掛かりです。福知山市内には、北丹鉄道の資料館がありましたが、その後継となるポッポランドが昨年に閉鎖されてしまい、公開の場で、北丹を偲ぶことはできなくなりました。
話を約50年前に戻すと、江若の廃止後、DRFCでは、Tさんが先頭に立って、「北丹乗好会」を発足、熱心な活動が繰り広げられ、その頂点として、昭和45年11月に、貸切列車として結実します。私も何度か撮影に行き、昭和46年3月の休止(のちに廃止)を迎えることになります。その道程は、ちょうど江若とは、1、2年の遅れで進んだことになります。最終列車まで見届けた身としては、いつかは詳細を発表したいと思っていました。今回は、カラーだけですが、その一端を紹介しましょう。

秋の一日、釣り人が糸を垂れる由良川沿い、北丹鉄道のキハ101が貨車を牽いて、支流の荒河橋梁を渡って行く。北丹鉄道は、国鉄の福知山から出発して、由良川沿いを北上、河守までの12.4kmの路線で、大正12年に開業した。一日6往復で、キハ101、102いずれかの単行運転で、時折、写真のように貨車も牽いた。昨今の台風の来襲では、水没を免れそうにない光景だが、事実、由良川はよく氾濫して、北丹はその都度、よみがえってきた。

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颱風がくると思い出す大阪市電

12日に東日本に大量の雨を降らした台風19号は、長野車両センターにあった新幹線車両を水没させた。すぐ横の高架の本線上に疎開させておけばと思うのは、大阪市電の台風疎開を思い出したからです。
当時、大阪市電には今里車庫というのがあり、大雨が降るとすぐ水浸しになるという低地帯に設けられていました。台風が大阪来襲となると、交通局では市電が水没しないように車庫西方の上町台地の高台に市電を疎開させたものです。1961年9月、翌春の同志社大の入試を目指して浪人していた通信員は、台風が来るとの報道で、暴風雨をついて突撃取材したのが添付の画像です。
画面右側奥の建物は近鉄上本町駅ビルです。2201型がずらりと連なっているのは虎の子の新車で大事にされていたからでしょう。方向幕は今里車庫前となっています。吊掛駆動ながら新型台車に弾性車輪と間接制御の半鋼製車でした。大きな前面窓で戦後の大阪市電スタイルを知らしめた車両で、1954年に登場し全車が今里車庫に集中配置されていました。
東海道新幹線の鳥飼基地も淀川のすぐ横なのが気になります。大津の、無印不良品さんや86さんに琵琶湖の水をしっかり守ってもらわなあきません。

 

 

 さよなら ハワイアンブルーの電車 (下)

前稿で記した昭和時代の伊豆急100系との出会い以降、再会が叶わぬまま、時間ばかりが経過するうちに、100系は1両を残して、2002年に定期運用から撤退することになります。53両あった100系のなかには、改造車や、グリーン車、食堂車など、ほかの私鉄にはないゴージャスな車両もありましたが、海岸沿いを走るため塩害もあって、JRの113・115系を改造した200系の登場により、100系は撤退することになりました。

しかし、4両だけあった両運転台車のなかで、クモハ103は伊豆高原の構内入換用として、その後も使われていた。伊豆急の開業50周年の記念事業として、本線走行が可能なように保安装置などを改修し、2011年に動態保存車として復活したのだった(2016年 片瀬白田)。

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 さよなら ハワイアンブルーの電車 (上)

“ハワイアンブルーの電車”、もうすっかり聞かなくなった言葉です。60年前の伊豆急行の開業の頃には、雑誌にも広告にも“ハワイアンブルー”の文字が躍り、伊豆急行の愛称として定着していました。しかし伊豆急の電車もすっかり代替わりしてしまい、最後のハワイアンブルーの電車として、動態保存されていたクモハ103も営業を中止し、60年の歴史に幕を下ろしました。

動態保存として、ほかの車両がなくなったあとも1両だけ残されていたクモハ103だったが、保安装置の期限切れで、ついに7月のさよなら運転で本線を走らなくなった。

伊豆急行建設の歴史をたどると、昭和31年の東急電鉄による伊東~下田の鉄道敷設免許の申請に始まります。ところが翌年、ライバル関係にあった西武系列の駿豆鉄道からも同区間の免許申請が出て、にわかに伊豆半島を舞台にした東急vs西武の陣取り合戦が勃発します。箱根の山を舞台にした両者の戦いは有名ですが、結局、伊豆では先に申請していた東急に免許が下りて、別会社の伊豆急行によって建設が進められ、昭和36年12月10日に、伊東~伊豆急下田が開業します。開業の祝賀列車の正面窓には、五島慶太の遺影が飾られていました。

初めて伊豆急の電車を写したのは、開業後4年が経った昭和40年で、熱海の次駅、来宮駅付近で、隣を走る東海道線とともに撮影した。

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 “ビア電”乗って 昭和の近江鉄道を偲ぶ 【1】

7月13日に行なわれた近江鉄道“ビア電”ツアー、みんなで、“飲んで”“食べて”“乗って”、ほんと楽しく、愉快なツアーでした。7~9月のほぼ毎日、始発時刻・駅も変えて、車内で特選弁当を食べながら、ビール飲み放題の臨時列車に乗車するツアーです。料金のなかには一日フリーきっぷが含まれているため、私は、乙訓四人組の一員として、貴生川から、近江鉄道に乗車しました。車内先頭に陣取ったマルーン会長に会い、5人で八日市、近江八幡と、久しぶりの近江鉄道乗り鉄を楽しみ、集合地の近江八幡へ向かいました。
近江八幡14時05分発の“ビア電”に乗り込み、一気に生ビールを飲み干すと、「お代わり!」の声があちこちから上がった。 

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【7】

北陸の私鉄を巡る ① 福井鉄道南越線

最近の投稿・コメントを見ますと、“昭和”への思いの強さを感じます。今や二世代前の時代ですが、われわれ世代にとっては、輝きを失わない時代と言えるのでしょうか、私も負けずに昭和の天然色、続けます。
7月、8月に撮ったカラーを探すと、北陸方面のものが何点か出てきました。と言っても鉄道目的では無く、会社から海水浴へ行った前後に立ち寄りしたものでした。休日までも会社への帰属意識を強要された時代、私の勤務先では、会社の保養所が北陸にあったこともあり、夏になると決まって北陸方面に泊まりで海水浴に行きました。貴重な休日を奪われる団体行動から一刻も早く逃げ出したい私でしたがが、鉄道に立ち寄れる楽しみだけの一心で参加申込みをしたものでした。北陸本線の沿線では、それこそ各駅からローカル私鉄が枝分かれしていた。さすがに昭和50年代に入ると、かなり廃止が進んでいたが、今から見ると“こんなところに”と思うようなところまで私鉄が伸びていた。福井鉄道南越線もそのひとつで、国鉄武生駅の東隣に、写真の社武生駅があり、山手の粟田部まで伸びていた。国鉄とは線路がつながっていたので、貨車の受け渡しや、西側を走る福井鉄道福武線の電車と共通運用も可能だった(昭和49年7月)。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【6】

山崎付近で東海道本線を撮る

東海道本線の長岡京~山崎~高槻は、昔から知られた撮影地で、たまたま近くに居住することになった私は、昭和・平成時代を通じて、よく撮影に行ったものです。“来た列車は全部撮る”が身上のため、コスパ面でもモノクロ撮影ばかりでしたが、今回、あらためてカラーを探してみると、僅かですが、カラーで写していたことが分かりました。約20年前のことで、当時としては、ごく当たり前の列車の風景ですが、20年経ってみると、その時代でしか見られなかった塗装もあって、カラーで写していたことの価値を改めて感じたのでした。今回は季節を少し先取りして、夏の臨時列車の運転時のものです。(以下すべて1997(平成9)年7月)。
当時のアーバンネットワークの代表シーン、「新快速」の221系と「普通」の201系がサントリー前のカーブを併走する。本日のニュースで、大阪環状線201系が最終営業を迎えたと伝えたが、それから20年近く、201系もよくぞ環状線で生き延びたものだ。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【5】

ツツジから新緑へ 蹴上を行く

先日の本欄で蹴上のツツジを載せましたが、“これだけ!”と思っていたら、別のところからまた出てきました。今回はポジで、前回はネガ、当時はカラーのネガ・ポジの両刀づかいだったことを、初めて認識しました。いずれもスキャンしてデータ化する過程は同じですが、結果は少し違います。ネガからは軟調に仕上るため、なめらかな階調があり、フィルムの劣化さえなければレタッチに手間は掛かりませんが、ポジからのスキャンは、コントラストが強くて白トビ、黒ツブレがあり、濃淡の調整に手間を要します。今回は、そんな違いも感じながら、5月のツツジ、そして6月の新緑へ移っていく蹴上付近の情景です(以下1997年5・6月撮影)。
紅白の幔幕が張られた蹴上浄水場の横を行く、京津線の80形、蹴上には仁王門通に陸橋があって、ここから、京津線がうまく収まった。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【4】

蹴上のツツジ

意気込んで開始したカラー同月版シリーズですが、アッと言う間に月末となりました。テーマ先行で、投稿は積み残しばかりですが、一件だけでも載せておきます。

先般、本欄に京津線蹴上の桜を載せました。そのあと蹴上では、ツツジの季節を迎えます。なかでも蹴上の山手に広がる京都市の蹴上浄水場一帯には、ツツジが多く植生し、5月連休明けごろの開花時期に合わせて、浄水場が一般公開されています。その横を行くのが京津線で、ツツジと電車の取り合わせを求めて、何度か訪れたものでした。
京津線蹴上~九条山に沿うのが、京都市の蹴上浄水場で、琵琶湖疏水開削に由来する歴史ある浄水場である。多くのツツジが植えられて、開花時期に合わせて公開され、年に数日間だけ、京津線との組み合わせを撮ることができた(以下すべて1997年5月)。

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 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【3】

最終日の阪国(昭和50年5月)

“阪国(はんこく)”と総称された阪神電鉄併用軌道線、残っていた国道線(野田~上甲子園)、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)、甲子園線(上甲子園~浜甲子園)は、昭和50年5月5日を持って廃止されました。モータリゼーション化の渦に飲み込まれて、とくに国道線は、もはや路面電車としての体を成していなかったのが最大の理由です。しかし、甲子園線は、通勤・通学客、行楽客が終日あって、阪神本線からのフィーダー輸送として活用され、北大阪線も一定の利用者はありましたが、社会や会社のなかに、路面電車を残そうとする気持ちは、まだ芽生えていない、これもまた“昭和”の世代の考えでした。

阪国の最終日は、5月5日の“こどもの日”の祝日、全区間が乗車無料という大盤振る舞い、多くの人で終日賑わった(野田)。

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 令和は、総仕上げの時代

令和に改元されてから10日が経過しました。令和元年という年は、私にとって会社をリタイアしてから10年が経過し、そして自身が70歳を迎える年でもあるのです。70歳と聞くと、“よくぞ生きて来た”の思いが交錯します。鉄道趣味人生も、最後のラストスパートのとき、過去を振り返りながらも、健康年齢の間にできる目標をしっかり掲げて、到達点を目指して、日々前向きに進んで行きたいと願っています。
ちょうど10年前、自由人になった頃、“デジ青”誌上で、これからの目標として、次の4点を掲げました(原文ママ)。
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
以上の4点、どう実行できたか、この10年を検証しながら、令和の時代の趣味生活を見据えてみたいと思います。
10連休も終わったが、365日連休の私にとっては、“それが、なんやねん”という気持ちだ。ただ新幹線の混雑や、高速道路の渋滞を聞くと、何か取り残されたような疎外感を味わいながら、家に引き籠もっていた。唯一行ったのが、近くの阪急桂川鉄橋の夕景で、撮ってから、写真ソフトで“いじる”楽しさを覚えた。体力、気力が衰えた今、軽いカメラでサクッと撮って、すぐ引き揚げる。自分で“撮りたいもの”だけを撮る、この信念を貫きたい。

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