少し前の飯田線 Ⅱ

前回は17m車を解説したが、今回から20mに入り、以降80系まで続けたいと思っている。飯田線に在籍した車両から旧形国電の概略を掴んでいただければ幸いである。時期は原則として昭和52年3月末現在の車両配置を基準にした。

(3)戦前形2扉車

戦前形2扉車は、大きく次の3グループに別れる。

  17mモハ32(前回解説したクモハ14000番台)と同一グループのクハ47000番台(事故復旧名義で車体を新製した011も含む)、050番台、サハ48、サハ45(旧サロ45)

元関西国電のクモハ42、43、53、クハ47100番台(元クハ58)

  元関西国電、流電グループのクモハ52、53、クハ47150番台(元サロハ66)、サハ48(034、1両のみ)

今回は①のモハ32と同一グループのクハ47、サハ48、サハ45を紹介する。

このグループの昭和52年3月末時点での配置は次の通りである。

クハ47 009、011、069、070、074、076(全車両伊那松島区配置)

サハ48 021、024(全車両豊橋区配置)

サハ45 昭和52年3月末は配置はないが、昭和43年9月まで012が配置され、富士電車区に転属した。

1.クハ47000番台

横須賀線の付属編成用として昭和6年に10両製造、全車両偶数(下り)向きであった。戦時中4扉化が計画されたが、004と010の2両が実施されたのみで終戦となった。この2両は後に関西に転属して、最後は片町線で終焉を迎えた。残る8両は戦災に遭うことなく終戦を迎えたが、70系の進出により身延線に転属。この時、静岡局の電動車偶数向き、制御車奇数向きの方針により、奇数(上り)向きに方転した。002と009は飯田線に転属したが、002は3扉化の上、クハ68200となり長岡区に転属。009のみが伊那松島区に残り、昭和58年8月に行われた、お別れ運転の先頭に立った。

 

クハ47001/昭和6年日車製、本来47009を掲示すべきであるが、良い写真がないため、トップナンバーの001を掲示した。(昭和48年5月6日 富士電車区)

2.クハ47050番台

横須賀線のサハ48を70系進出に伴い、ローカル線に転用するにあたりクハ化したものである。サハ48は28両作られた内、16両がクハ化されている。一部の車両はサハ時代に戦後代用2等車としてロングシート化されていたが、クハ化の際もシートはそのままであった。000番台との外観上の相違は殆どない。074と076は一時期(昭和36年頃)新前橋区に配置され、湘南色に塗られてクハ86と同様に使用されていた。鉄ピクNo.768(2005/11)のP38に準急「軽井沢号」(上野~横川間・横川~軽井沢間はバス連絡)に使用中の写真が掲載されている。

余談になるが昭和36年7月、安中市の新島 襄先生の所縁の場所を見学する学校行事があった。大阪14時55分発姫路発東京行の普通列車(144レ)で出発、当日中に東京に到着すると思ったら大間違いで、到着は翌朝の4時51分であった。ちなみに現在では15時発の新快速で出発すれば楽々当日中に到着する。上野から快速新前橋行に高崎まで乗車。車両は3枚窓のクハ86で、停車駅は赤羽、大宮、熊谷、深谷、本庄、高崎あった。車窓から畑ばかりの関東平野を見て、関西との違いを実感した。この時、上野駅で湘南色のクハ47とサハ48を見て、「何だ、これは」と思った。

クハ47069/昭和6年汽車会社でサハ48015として製作、昭和31年日車支店でクハに改造。(昭和48年3月26日 伊那松島)

クハ47070/昭和6年に日車でサハ48010として製作、昭和31年東急車両でクハに改造。(昭和52年5月4日 沢)

クハ47071/昭和6年汽車会社でサハ48017として製作、昭和31年汽車会社でクハに改造。昭和43年8月29日、平岡付近を走行中に崩壊した土砂に乗り上げ事故廃車となった。画像は豊橋区で湘南色の時であるが、廃車時の所属は伊那松島区であった。(昭和41年3月23日 中部天竜)

3.クハ47011

昭和27年豊川分工場で、昭和25年8月身延線内船~寄畑間のトンネル内で失火全焼したモハ30173の改造名義で作られた車両で当初クハ47023を名乗り、昭和34年12月の改番で47011となった。改造とは名義だけで、台枠、車体は完全な新製で座席は当時の湘南形と同じものを使用した。台車は廃車となった豊川鉄道の買収車サハ1、サハ2が履いていたTR11を流用したが、後にクハ16011のTR23と振り替えた。

(昭和40年3月20日 豊橋)

 

(昭和45年11月23日 辰野)

4.サハ48

昭和6年と7年に28両製作され、70系が登場するまで終始横須賀線で活躍した。戦後6両が代用2等車としてロングシート化された。戦災と事故で各4両、計8両が廃車、16両がクハ47に改造され、サハ48として残ったのは、18、21、24、27の僅か4両であった。21、24の2両は一時期宇都宮区に配置され、湘南色に塗られてサハ87と同様に使用され、後に豊橋区に転属し、30番台の4連運用に使用された。18と27は昭和39年2月まで横須賀線に残ったが、伊東線の元クロ49改造の48040、41と共に岡山区に転属した。

サハ48021/昭和6年汽車会社製(昭和48年7月28日 豊橋)

 

サハ48024/昭和7年日車製(昭和48年9月1日 豊橋)

5.サハ45

昭和5年と6年に横須賀線専用形式車として13両製作。戦時中の昭和19年4月、2等車廃止により、4扉化してサハ78に編入する改造が行われたが、沿線に海軍基地があり、要人の乗車を考慮して8月に復活、4、5、7、8、12の5両はサロのまま残ることになった。4扉改造車は4両が戦災廃車となったが、未改造の5両は70系登場後もサロとて活躍した。昭和39年から40年にかけてサハに格下げとなり、4、5、7、8は富士区に、12は豊橋区に転属した。

サハ45012/昭和6年日車でサロ45012として製作、昭和39年8月に格下げでサハとなった。豊橋区では湘南色に塗られ、30番台の4連運用に使用されたが、後に富士区に転属した。(昭和43年4月4日 豊橋)

【質問に答える】

【1487】でH.Kさんよりの質問の回答

.1 関西の国電は20m級が基本であったが、関東はおそらく院電からのなごりか鋼製車両や鋼体化車両の時代になっても17m車が作られた理由。

.1 関西地区で国電(当時は省電)が運転されたのは昭和7年12月1日、片町線の片町~四条畷間の電化開業に合わて、省電初の20m電動車としてモハ40、モハ41が作られた。鉄道省が半鋼製車を製作したのは大正15年で、東京地区では昭和8年前期のモハ33、モハ34まで17m車で作られた。これは車両基地の設備の準備が整っていなかったことが原因とされ、この問題が解決した8年後期からは20m車が投入され、以降は17mの新製車はない。鋼体化車は50系のことと思われるが、17m木製車の台枠以下の下回りを始め、使えるものを流用して作られたので、必然的に種車と同じ17m車になる。戦時中の昭和19年度から20m車化することになり、クハ79001~025の25両が計画されたが完成したのは8両であった。当件については、昨年11月に発売されたネコ・パブ社のRM LIBRARY「鋼体化国電モハ50系とその仲間たち」に詳しく解説されているので参照いただきたい。

クモハ11307/昭和8年新潟鐵工製、両運のモハ34036として誕生、昭和19年5月大井工機部で片運改造でモハ33018、昭和28年6月の改番でモハ11307となった。(昭和43年4月7日 弁天橋)

.2 横須賀線の電車化に際し初の2扉大型電車が作られたが、T車、Ts車、Tc車が20m級の設計であったのにMcのモハ32形(後のモハ14)はなぜ17級で作られたのか。

.2 モハ32形が作られたのは昭和5年で、当時20m車体の電動車は昭和3年製の大阪鉄道デニ500形(後の近鉄南大阪線モ6600形)位しか存在せず、車体延長による重量増加に対する従来の主電動機(MT15A)への不安、台枠、床下機器配置の新設計が間に合わなかったこと等が理由とされている。

.3 クハ77とモハ62は身延線用に作られた限定車両と推察されるが買収車や他の17m級国電を配置換えせずにわざわざ異端の新製車を作る理由はあったのか。

.3  身延線の前身、富士身延鉄道は、運賃が日本一高いと言われながらも赤字続きの経営難で、昭和13年10月1日国営に移管、昭和16年5月1日「輸送力増強をはかるため十分な改良を加えたい」という名目で買収された。(赤字の原因は、建設費及び電化工事費の多額の借入金金利の支払いと思われる)富士地区には、大規模な製紙工場や肥料工場があり、これらの工場が軍需産業への転用に伴う通勤者の激増で車両増備の必要性に迫られていたが、時節柄、電車運転線区は全国的に同じような状況のため、他線からの転用もままならず、鋼体化改造車の一部を身延線用に振向け、セミクロス、トイレ付きで製作したものと思われる。その意味ではこの車両も転用車である。

汽車住宅物語を拝借して

西村氏の投稿画面を見て驚いた。鋼製車体の元電車らしい汽車住宅ではないか。こんな電車があったのかな? あれば知らない電車となる。時代は戦後、老人の目の届くところでこんな電車が走っていたのだろうか。鋼製車体にリベットがあるが、大正時代でも、終戦直後のものでもなさそうだ。扉窓の下線が客室部分より低く、扉部の客溜まりも客室より低いようだ。台車はブリル21E、モーターは高床車用のものなのか。正面窓の巾は狭いようだ。と言うことは車体巾2m位? ならば軽便電車規格かな、と解釈してみた。ここまで頭に画いて地図を出し、若い頃の日本の電車を思い出してみた。思い当たるものがない。仙台市電43形についてひねくりまわした時もこんな電車は考えつかなかった。第2次世界大戦中、鋼製車体は完成したのに電装が出来ず、達磨さんとなっていたものが各地にあったとか。京都市電600686695の車体は九条車庫に戦中に搬入されたが、終戦を迎える迄そのままであった。仙台市電43形増備車3両は戦後になってやっと陽の目をみて、秋保と伊予で職場にありついた。こうしたことが実現できなかった汽車住宅がどこかにあったのか。

 大戦中の日本鉄道界のことを回想してみた。統制品である鉄道車両は武器の一つに位置づけられ、軍需工場や鉱産物採掘地帯での輸送用以外の新造は認められなかった。そこで先ず、軽便規格から目をつけたのは東武鉄道日光軌道線である。ここには戦時中、大分交通別大線から木造4輪電動車が送られていた。これを鋼製車体に取替えのためのものかと思った。早速ピク135号を探し出してみた。別府形テ20形3両、簡易鋼体化の車体はダブルルーフのまま。関係なし。別の戦時形5両はシングルルーフの木造車で、窓配置、数も異なり2段窓である。5両共に戦後、部品をかき集め電装したとある。全て当て外れとなった。考え直さねば……。

 

西村氏から汽車住宅物語が送られてきた。表紙絵の説明では「写真は1950年代の栃木県日光市にあった電車住宅を撮影したものである」とある。当たりである。だがピク135号掲載の写真に該当する電車が見当たらない。老人が初めて日光を訪れたのは1958年春のことである。この時すでに開業以来の旧型車は、1953年新造の100形、1955年新造の200形に取り換えられており、なにも残っていなかった。もう一度ピク誌の小林さんの紹介記事と写真を点検してみた。トレーラー、ハ5761の車体形状がもう一つ分からない。昭和4年汽車会社製造のボギー車となっている。これではないかと思ったが、確証がない。どなたかご存知の方、老人の探求欲を叶えさせ毛下さい。御願いします。

 

125日、長岡天神駅で2238分発河原町行きを待っていた。目の前に停車した梅田行き快急は93058Fである。耳にした話では9300系は6本で終わりだとか。

4本目からロングシート部の背もたれが50ミリ高くなり、最初に乗った時に気になった「しゃっくり」も収まり完成度は高くなったと思っている。細かいことを取り上げるといろいろ言いたいが、少なくとも京阪3000系より、老人の評点は高い。

 1年前にニュースを入れた都電の新車、2年度で5両を2回の新造。これで7500形を追放するのだそうだ。何時登場するのか聞き忘れた。

 伊予鉄に貰われの井の頭線3000系の残党、VVVF化して海を渡るのだとか。

 今回も写真がなくてごめんなさい。

EF55 さよなら運転

1月19日の【同軌講717】でロギング太郎さんよりご報告の通り、1月18日の「さよならEF55横川」号をもって営業運転を終了した。10月18日【738】でEF55の営業運転終了についてお知らせをしたが、最終日には是非見送りたいと思っていた。「さよなら運転」は12月に5回、1月に入って5回、計10回行われ、そのうち3回出かけたので、その時の模様等をお知らせしたい。

12月13日(土曜日)

この日は「さよならEF55みなかみ号」として高崎~水上間を運転された。たまたま高崎で仕事があり、先方とのアポが11時のため、新前橋~井野間で撮影した。赤羽駅7時過ぎの電車で出発したが、車内は一目で「鉄」とわかる乗客でほぼ満席、団塊の世代位の人が多く、中には「親子鉄」とおぼしき人もいた。高崎で107系や115系を少し撮影後、新前橋まで行き、井野寄りの陸橋で撮影した。EF55は単機で「磐越物語」用の12系客車を引いて通過した。時間があればもっと奥まで行きたかったが、今回はここで我慢せざるを得なかった。翌14日は水上まで行く予定をしていたが、朝から悪天気のため断念した。この日の水上は吹雪であったそうである。

 

         「さよならEF55みなかみ号」 新前橋~井野

1月16日(金曜日)

この日は、翌日上野発横川行で運転される「さよならEF55碓氷号」の送り込みが行われた。先頭にはEF641001が立ち、EF55は次位であることは判っていたが、たまたま休みが取れたので出かけた。赤羽駅を7時過ぎの電車に乗ったが、沿線には早くもカメラの列が見られた。取りあえず岡部で降り、通称「岡・本」で撮影しようと思ったが、激込みの様相であったので、深谷方面に戻った陸橋で撮影することにした。通過まで2時間以上もあるのに陸橋上には、すでに20名位の人がいた。電車や貨物列車が結構頻繁に通過するので退屈はしなかったが、電車にカメラを向けていた人は殆どなく、貨物列車にも無関心の人が多かった。人それぞれであるが、大半の人は「送り込み列車」の撮影のみが目的なのだろう。通過時刻が近付くにつれて、ますます人が多くなり最終的には80名位になり、パトカーが巡回する始末であった。

 

   翌日上野発の営業最終列車「さよならEF55碓氷号」の送り込み列車

 

                   赤羽駅通過

1月17日(土曜日)

この日は、上野発のEF55の最終日であった。EF55は戦後長く高崎線で活躍し、いわば「高崎線の機関車」であったので、以前から高崎線内で撮影しようと思っていた。(但し高崎線内は逆光)昨日と同じ電車で出発したが駅のホームの端や沿線には早くもカメラの砲列ができていた。どこで降りるか迷ったが、結局昨日と同じ岡部~深谷間の陸橋の反対側から撮ることにした。この場所は光線状態が今一つのため、人出は20名位であった。多くの人は順光で撮影できる信越線内に行ったのであろう。

その後、帰りの回送を撮影するため、信越線に移動した。群馬八幡で降りて、安中方面に歩き、碓氷川の「お立ち台鉄橋」の手前まで行ったが、今一つパッとしないため、結局引き返し、駅の近く踏切で撮影した。また、この日は、総本家青信号特派員さん、ロギング太郎さん、早川昭文さんが安中~磯部間で撮影され、その後、新島 襄先生の生家を訪ねられたそうである。ちなみに私は京阪沿線の中学校の時に「安中教会」と共に学校行事で訪ねている。撮影後、時間があるので久しぶりに両毛線を回って帰ろうと思い、211系5連の小山行きに乗車した。途中の下新田の車両基地には京浜東北線から引退した209系が4連と6連に組み直されて数本停められていた。トイレを設置して107系と115系の置換えに使用されると言われているが明らかにサービスダウンである。小山到着後、日光線の107系を見て帰ろうと思い宇都宮まで行ったが、発車まで30分以上あったので一旦駅の外に出た。宇都宮駅前には、地元資本の関東自動車、東武系の東野交通、JRバス関東の3社の路線バスが乗り入れているが、本数は関東自動車が圧倒的に多い。その関東自動車につい最近まで大阪市内を走っていた大阪市バスが入っておりビックリ。その他、元都バス、横浜市バス、川崎市バス、中扉両開き引き戸の京浜急行バス等が入り乱れて走っており、バスの博物館の様相を呈していた。話が横に逸れるが、7年位前は、関東自動車に元京阪宇治交通、東野交通に元京阪バスがおり、宇都宮駅前に両車が並び、樟葉の駅前のような光景が見られた。バスに見とれているうちに暗くなり、日光線は諦めて通勤快速で帰途に就いた。

         在りし日の思い出の高崎線を走る  岡部~深谷間

 

             折返しの回送列車   群馬八幡

1月18日(日曜日)

いよいよ営業最終日となり、赤羽をいつも電車で出発した。何処で撮影するか迷ったが、光線状態等を考慮し、安中~群馬八幡間の「お立ち台鉄橋」にした。今日は総本家青信号特派員さんが来られている筈で、高崎駅到着直後に携帯に電話すると「今コンコースにいる。同じ電車に早川さんと山川さんも乗っている筈」とのこと。エスカレーターを上がると特派員さんがおられ、暫くすると早川さんと山川さんとも合流することができた。満員の横川行(107系2連)に乗り、安中で下車。かなりの人が降りたが、行き先は全員「お立ち台鉄橋」である。約15分歩いて到着すると、既に150名位の物凄い人であったが、撮影場所は確保した。10時50分、定刻に営業運転の最終列車が通過した。上りの回送列車は、新島学園の先で撮影しようということになった。ここから現地までは4キロ以上の距離があるが、喋りながら歩いていると時間の経過を忘れてしまう。15人位の先客がいたが、なかなか良い場所であった。エンジン付きのパラグライダーで空から撮影していた人がいたのには驚いた。やがてDD51の引く回送列車の最後尾のEF55が目の前をゆっくりし通り過ぎて行った。

駅に戻り、「碓氷峠鉄道文化村」に行かれる、早川さん、山川さん、総本家青信号特派員さんとお別れして帰途に就いた。

久しぶりに皆さんと一緒に撮影して、楽しい一時を過ごさせていただき、時計の針が40年前に戻ったような日であった。 

             群馬八幡~安中(通称お立ち台鉄橋)

 

          安中~磯部間を行く最終営業列車の回送

かくしてEF55の「さよなら運転」は終了したが、自分でも不思議に思うくらいに拘った。昭和61年7月、営業復活運転の初日に撮影したことが原因かも知れない。

EF55に続く後ろの客車がいただけなかった。茶色の客車が既にないのならば致し方ないが、スハフ32、スハフ42、オハ47、オハニ36が現に在籍しているにも拘らず、12系が使用されたのは残念であった。昨今の諸情勢を考慮すると、安全性の見地から仕方がなかったのかも知れない。

EF55は、今回の復活運転に際し、大宮工場に入場して相当なお金と手間ひまをかけて整備をしており、このまま鉄道博物館に入れてしまうのは実にもったいない。もし、可能ならば、旧形客車を引いた元気な姿を再度見たいものである。

[番外]西北の杜号

平成5年3月7日早稲田大学鉄研の創立40周年記念列車で、上野~水上間を往復した。全区間EF5869が引き、高崎~水上間は先頭にEF551が連結された。編成は次の通りである。

←水上 EF551EF5889 +スハフ322357+オハ472261+オハニ3611+オハ472246+オハフ332555 (EF551は高崎~水上間のみ)

                  新前橋~群馬総社

掲示板記事が『レイル』に載る!

このたび発売されたプレス・アイゼンバーン『レイル』67号に、当クローバー会の重鎮、藤本哲男さんによる「法勝寺訪問記」、「山陰本線の客車たち」が24ページに渡って掲載されています。
特集テーマ「米子」にちなむ掲載で、「法勝寺」は昭和42年の自身の訪問記が記され、「客車」は山陰本線京都駅に出入りした客車が、藤本さん独自のカメラアイで綴られています。
「法勝寺」と聞いて思い出すのは、この掲示板に載った藤本さんの法勝寺の記事、そう、事の発端は、この掲示板を見ていた出版元のM氏が、須磨の老人を通じて、原稿依頼されたのが真相なのです。掲示板もクローバー会だけの連絡網でないことを改めて実感しました。趣味界のオピニオンリーダーもしっかり閲覧しているのです。
この出版の話を聞いたのは、先日、信越線へEF55の撮影に藤本さんと同行し、列車の通過を待っている間でした。鶴首して待っていた特派員は、昨日書店で発売を確認、値が張って普段は立ち読みで済ますものを、真っ先に買い求め読みふけりました。特派員も同じ年に法勝寺を訪れており、たいへん懐かしい気持ちでした。
同誌の「あとがき」で客車の例をとらえて、M氏は「日常のこまめな記録の成果」と述べています。事実、掲載されている客車は因縁のある車輌ばかりで、相当通い詰めなければ撮れないものばかりです。このスタイルを小学校の時から貫いてきた藤本さんは膨大な記録をお持ちです。掲示板でもすでにお馴染みですが、さらに出版界でもその一端が窺い知れたのです。

買って読もう『レイル』67号

 

DD16とEF55 そしてまたもや江若

       ぷるぷる様

EF55とDD16の完成ご同慶の至りです。DD16は私も多分同時期に買って いまだに完成しておりません。この調子でゆくとレールの上を走る日は来ないような・・・。    EF55もみごとな出来栄えで 工場長の力量に感服しきりです。あの台車を自作する元気は私にはとてもとても・・・。昨今は 度々この掲示板をにぎわしております江若鉄道シリーズの粗製乱造の一環として 先日キハ07キットの改造でキハ5124が一応出来上がり、現在キハ12にかかっているところです。特にキハ12は あの独特のマスクに手こずりました。屋根の曲げに失敗し、たたいて直しているうちに戦災復旧の70系客車のようにボコボコになって これからゴマカシ修理が必要です。これが終われば 次には仕掛かり中のオハ27 3両を完成させて復活シリーズは小休止しようかと思っていた矢先、Yahooオークションでキニ9のエッチング板が手に入りそうなので キニ9までやっつけようか、さりとてあの多くの窓抜きはうんざりだし・・・といったような具合です。そして車両復活はこれぐらいにして いよいよ高島町駅の復活に手をつけようかとネタ集めをしております。先輩諸氏からのアドバイスのおかげで まず日野BT31バスの図面ができました。そのうち 初めてのバス製作もやってみようと思っているところです。ジオラマ製作は全く経験がなく、わからないことだらけだけに かえって楽しい時間が過ごせそうです。それでは 橋本工房さんのご盛況ぶりに刺激されて当方も工場長の尻をたたくことにします。                         

守口の廃車体 ほか1点

拙老の投稿に早速反応があり、気をよくした老人は時間に追われ多忙中(極めて稀にそんな時もある)にも拘らずいそいそと次なるスキャンに取り掛かった。今度は住宅でなく、京阪守口にズラリ並んでいた廃車体である。番号は控えてあるが、二重三重に記されたものもあり、落書き?と思しきインチキ番号もあった。禿筆を以っていい加減な事を書くより、解説はそれこそ乙訓老人の出番であろう。撮影は1955年9月22日。

もう1枚。これは京阪と全く関係がないが、1958年3月27日伊田、ハ2618だったと思うのだが、こんな廃車体があり、半世紀たった現在でも印象深いので押し付けご紹介に及ぶ。これは2本通ったロッカーレール(縦梁)のみが鋼材、端梁は木材で、車体は鋼材上に根太を組み、隅柱、間柱を立て、その上部は長桁で押さえ、と全く当時の木造建築物同様の構造車体である。廃車時売れる鉄は外し端梁を残したが、その高さ分下に古枕木でもかましておけばいいものを、宙ぶらりんにしたから、当然ながらかくも見事に湾曲した、と推定。ごく当たり前の、但し屋根は食パン風ダブルルーフ(雨漏防止で多少加修している)の側戸式3等車である。

客車住宅

拙老も撮っています。時は1957年3月6日、場所は名鉄大江の近辺。バックの架線柱は名鉄常滑線です。大江にズラリ並んだボギー、2軸、木製半鋼製車の一群はかつて諸兄のお目を汚したことがありますが、その際行きがけの駄賃で撮影したナハ22802(仙ココ)の車体ハウスです。当時60系鋼体化改造の種車(といっても使うのは台枠と台車、連結器のみ)にするため、国鉄は全木製車を現車調査し、車体はその程度をAからDまで4段階に評価。Aが最もいいもので、妻面に丸で囲んでA、B、C、Dと白ペンキで記入していました。この住宅の妻にはBとありました。決してスラムではなく、周囲も住宅?自体も綺麗に保たれているのがお分かりでしょう。

かような住宅代用は電車もバスもあり、路面電車廃止時期には各地で幼稚園や公園の自治会集会所等に足を外した車体が流用されていたのは周知の通りです。国鉄では食堂や倉庫、組合事務所にもいっぱいありました。しかもスチーム地域暖房(そのエネルギープラントは蒸機のボイラー)が行き届いていたものも少なくありません。大和鉄道では電化・改軌で不要になった日車製単端式ガソリンカー車体が住宅になっていた由で、その住宅模型を作った奇特な人もいました。

拙老はその時期佐竹先輩とせっせと情報を交換し合い、かような「ハコ」―といっても主目的は旧2軸客車や雑型ボギー車ですが―を撮っていました。

工房便り–EF55引退報道

 

完成間近で後回しにされていたEF551

完成間近で後回しにされていたEF551

橋本工房では昨年末にデナ21が完成間近となり、後回しになっていたDD16が完成に近づきました。しかし、なぜDD16を着工したのか工場長の私も良く分かりません。後回しになるのはどこか面倒な工作を残していたり、パーツの入荷待ちとか、単なる気まぐれのこともあるでしょう。そんな話は良くあることなので工場長としては全く気にしていませんが、入場中の車両が引退となると心穏やかでは居られませんね。

このEF55もあまり多く工作を残していないのにいつの間にか片隅に追いやられていました。懐かしい鉄道模型社製のバラキットで、流線型の前頭部と後部運転台の妻部分は銅の電鋳品です。前頭部はあまり出来の良い鋳物ではない上に両サイド、ボンネット、前面窓、屋根と、5つに分かれており、組み立てた後、曲げ済みの車体中央部に合わせるのに苦労しました。台車枠はエッチング抜きが不正確で使い物にならず、1mmの厚板から自作しました。動力装置は天賞堂製で、EF58の動力装置を取り替えたときに発生した旧品を流用しています。 

何も未完成のままでご紹介する必要も何もないのですが工房便りが暫く途絶えていましたので、このような理屈をつけてご笑覧いただくことにしました。これも気まぐれと言うことでお許しの程を。下の写真は1972年頃しなのマイクロ社から発売のエッチング板キットを組み立てたものです。当時はこういった手がかかるけれど安価なキットが結構売られていて制作に熱中したものでした。2両分買った内、1両は作られずに永い間眠っていたもので、動力装置もそろっていたのが幸いしました。エンドウのDD13用を小改造しています。

完成に近づいたDD16だが、細部に工作間違いが発覚し手直しを迫られている

完成に近づいたDD16だが、細部に工作間違いが発覚し手直しを迫られている

「汽車住宅物語」という写真集をご存知ですか

汽車住宅物語の表紙

汽車住宅物語の表紙

K.H生さまへ

大分交通の客車住宅の写真を見て、「汽車住宅物語 / 乗り物に住むということ」という小さな写真集が書棚にあるのを思い出しました。渡辺裕之著   1993年3月30日発行の INAX ALBUM No.13   A5版48ページの写真集です。終戦直後の住宅難の時代に客車や電車の台車を外して 住宅や教室に転用した風景の記録です。ナハ22000の車内を4世帯の住宅にした平面図もあります。表紙だけをスキャンして添付してみました。 ご興味があれば お知らせ下さい。小さな本ですので、簡単に送れますので お貸し致します。

記憶の中の京阪電車 Ⅲ

京阪電車について過去2回書込みをしたが、よくよく考えると当クローバー会には、乙訓の長老を筆頭に京阪に超詳しい諸先輩方が多数おられるし、また、同社の元役員、社員の方、現役の方も多数おられるため、私如きが出る幕はないが、まあ8年間も乗っていると、たまには、珍しいこと、思いもかけないことに遭遇するものである。そんな思い出等をあと少しだけ書込みしたい。

1900の試運転

1900については、小林純爾氏が「青信号」やJTB Can Books「京阪特急」の中で詳しく解説されておられるので今更という感じであるが、昭和39年3月23日に撮影した「試運転」の写真が出てきた。1950+1913の2連が枚方市を発車したところであるが、周りの景色も何処となくのんびりしている。

 

 

706と並んだ1950

1800の急行

新1900形と交替して1800系はロングシート化され、一般車となったが、塗装は暫くの間そのままであった。1803-1881+1804は最初からロングシートで作られ、主に急行に使用されていた。

 

1809他5連の急行   昭和41年2月19日     丹波橋

 

最初からロングシートの1804  昭和41年2月15日     丹波橋 

スカートの無い2200

2200を初めて見たのは、昭和40年1月8日、3学期の始業式の日のことである。この日は授業がなく午前中に自宅に帰れるので、午後は京都駅で臨時列車の撮影を計画していた。電車が深草を通過した時、東側の留置線に停まっている車両(2205+2255)を見て、昼食もそこそこにカメラを持って深草に引き返した。最初見たときは2000と変わらないと思ったが、初めて営業運転で見たときスカートが付いていたので、逆に吃驚した。

 

 

昭和40年1月8日  深草

宇治線の300形3連

昭和39年頃の宇治線の朝ラッシュ時は殆ど300形3連であった。六地蔵辺りで満員になり、桃山南口、観月橋では超満員、ただでさえ小さな木製車体ははち切れんばかりであった。特に着膨れシーズンともなれば車掌さんは正に命がけの勤務であった。

 昭和39年3月20日  中書島

1000系5連の急行

昭和39年頃、1000系もよく急行運用に入っていた。この編成は中間に1200形を挟んだ綺麗な貫通編成であるが、それ以前は500形がよく入っていた。 

 

昭和39年11月3日   滝井

過渡期の1000形

1000形と1100形は運転室側にジャンパ線がなく、編成の中間には連結できなかったが、運用上不便なため昭和40年頃からジャンパ線の取付け工事が始まった。写真の1005は、準備工事としてジャンパ線の取付座が設置されたところである。

編成の先頭の1204は正面の窓枠がアルミサッシ化され、貫通扉が金属製のものに取り替えられている。

 

昭和41年1月15日  丹波橋

天然色写真で巡る40年前の九州 (10)

最後は筑豊本線

九州の締めは、また筑豊である。九州に入ってまず筑豊で撮り、夜行を駆使して九州各地を転戦したあと、最後は筑豊へ戻ってくる。「筑豊に始まり筑豊で終わる」である。
そのメインラインである筑豊本線、勾配区間で狙うなら、筑前内野~筑前山家間の冷水峠を置いて他はない。両側から25‰勾配がサミットとなる冷水トンネルまで続き、多くの列車に補機が付く。旅客列車では、普通列車の大部分がC55の牽く客車列車である。白眉は、朝に峠へ向かう急行「天草」である。先頭はDD51であるが、飯塚~鳥栖間には、D50またはD60の後補機が付く。
この列車は、筑豊本線経由で熊本へ向かっている。つまり博多を通らない急行列車である。距離だけで見れば、博多経由より若干短いのに加え、沿線の直方、飯塚の下車客の配慮もあったのだろう(当時、博多~飯塚間の篠栗線は全通していない)。今のように博多に一極集中している列車体系からは考えも付かない設定である。

加えて、当時の特急「かもめ」でさえも、小倉で長崎・佐世保編成を分割、長崎行きが鹿児島本線経由、佐世保行きが筑豊本線経由で運転され、両者が再び合流する原田~鳥栖~肥前山口では、2列車が10分の違いで雁行していた。

DD51が牽き、D60が押す「天草」。客車も興味深い編成(昭和44年3月22日)

さて、峠近くの高台から「天草」を迎え打ったのが上の写真。右に見える青年は? なにを隠そう40年前の特派員そのものである。当時は、モノクロとカラー、2台のカメラで写していた。モノクロは手持ち、カラーはヘナヘナの三脚に据え、レリーズを押して写していた。本人を避けてカメラを据えたつもりが、しっかりと画面に入ってしまったという次第。
並行する国道は2、3年前までは未舗装だったが、改良工事で車線も広げられて舗装された。その際に真っ白なコンクリートで山肌が固められてしまい、随分様相が変わってしまった。
いっぽう、貨物列車は、飯塚に集結した石炭列車は、若松や苅田港へ送られるので、この区間を通ることはないが、それでも一時間に一本程度は上下列車が通過する。まだD51はごく僅か、ほとんどがD50、D60だった時代である。

大型の門デフを付けたD5090が、菜の花畑の横を下って行く

 

須磨浦公園で見つけたロープウエィ

新春に走る583系(京都車)の臨時列車を迎撃しようと友人と語らい、
須磨浦公園へ来ました。 動画で撮影しましたので、
http://www.ec583.org/~y_square/temp/tetu290104.htm
にて
ご覧になれます。 ところでロケハンの途中で、こんなもの ↓ を見つけました。

駆動装置は山上に設置されている様で、峰には中間鉄塔らしき構造物が
遠望できます。砂防ダムの建設資材の運搬用に設置されたと思いますが、
人間は乗せず、資材を引き上げたり伐採した樹木を下ろしたりするもの
でしょう。施錠されているので近寄って見られませんが、まだまだ現役の
様にも見えます。

カゴの上部(油溜め?)の縁には「一 コケ」なんて表記もあります。
詳細をご存知の方、フォローを頂ければ幸いです。

賀正 秋保電車懐古

「拙老にチョッカイが出た」と須磨が書き込んだ。それに「乙訓は沈黙である」と応じたら、「敵前逃亡まかりならぬ」と、須磨からアームストロング砲による弾丸が乙訓めがけて飛んできた。未だ破裂していないから、どうにか生き永らえている。そこで須磨の大人提供の十六景について知ったかぶりをしてみよう。

 一景目。こんな侘しい風景の中をがったんごっとんと秋保街道沿いを走っている1407号、その兄弟406号の車中で乙訓はどんな思いを持って乗っていたのか、半世紀前のことだから全て忘却の彼方である。まして車庫へ行って在籍車の要目、来歴を教えてほしいとやっていないからピク誌369号が頼みの綱である。和久田氏の調査を下に受け売りを試みる。

二景目、電関はED1011925年日立製、122両あったとか。1両は1938年に福博電車へ譲渡された由。残る1両(旧2らしい)は廃線まで使われたとあるが、記憶にない。見たかどうかも? 花巻にもこんな小型がおったな、の程度。出力は22.4kw×2、運転台には蒲鉾形のコントローラーとハンドブレーキのハンドルしかなかった、ということだ。ブレーキは人力のみに頼っていたのか。電制はどうなのか。重い石を積んだ貨車を従えて大丈夫だったの? と問うてみたい。

三景目(車庫内)は開業時の電動車マハ13の後身、ボギー化されなかったマハ2→モハ402である。さて今も分からないマハなる称号である。「マ」とはなんじゃい。モをマとしたのは、モーターは“マワル”からなのか? 1925年大阪鉄工所製、出力は電関と同じ。兄弟のマハ13はボギー化されモハ14011403を名乗った。ボギー台車は都電の中古品で、ブリル27GEだったと言う。402はブリル21E系そのまま。

四景目(車庫内)。後で出てくるダブルルーフの木造ボギー車と車体形状が異なる。何号なのか分からない。最後まで在籍したモハ8両、サハ4両を消却法で残る車号を探してみたらモハ405号となった。だとすると1912年名古屋電車製造で、新三河電軌に納品されたものだと言うことになる。新三河16→名古屋市電123を兄弟17号と共に193812月に譲り受けたことになっている。出力18.7Kw×2。折扉が付いているのは当地へ来てからのものであろう。

五景目。一景目の延長線と判断する。

六景目。ホームがカーブしているから長町駅であろう。一景目の1407と違い窓が2段上昇型になっているモハ1408である。トレーラーはサハ406のようだ。それにしてもシングルポールは長いなぁ。

七景目。モハ411404の編成。404は自社製、19520126付竣工となっている。

八景目。モハ140319510414付でボギー化の届けが出ている。1401の方12

日遅れての竣工となったようだ。

九景目。モハ410は仙台市電になりそこねた2両のうちの1両である。バッファー、連結器がない。

十景目。同じく仙台市電なりそこなったもう1両である。モハ411は連結可能車である。4104112両は日本鉄道自動車、19466月製造で、19461213の入籍となっている。

十一景目。モハ1408.であろう。14071408は兄弟車両で、元は常南電気鉄道のものであった。峡西電鉄(後の山梨交通)を経て19420108日付けで譲渡された。19261月蒲田車両製の木造4輪車がプロトタイプ。これよりピク誌167号の受け売り。

常南電鉄は根崎(常磐線土浦の0.5km手前)~阿見(霞ヶ浦辺り)間4.1kmを1926(大正15)年109日に開業した。1928322日、根崎から土浦への延長なり全線開業となった。軌間1,067粍、直流!600Vであった。柿岡の地磁気観測所に近い地なのに直流電化が認められたのはどうしてなのか。であるのに利用者は少なく、1938228日に終焉の日を迎えた。もう少し頑張ることができたなら、ガソリン統制にあった代替バスのお世話になることなしに、霞ヶ浦海軍航空隊の足になったであろう。

 開業にあたり蒲田製木造4輪電動車5両(15)と付随車2両(67)新造した。電動車は最大寸法(L×W×H7,925×2,134×3,653粍、自重7頓、定員44人であった。1928年に5号は脱線大破しているが、車籍は残したままであったとか。廃線後、145(車籍のみ)、67の全車が峡西電気鉄道に売却され、15107111(順序不明)と改番された。672両は峡西電鉄では使用されなかったため無番号であったようだ。これらのうち3両が温泉電車となった。

先達の調査によると、

峡西?(常南・付6)→秋保マハ7→モハ1407(ボギー車改造19510414

峡西?(常南・付7)→秋保サハ5→モハ1408(電動ボギー車化19510426

峡西モハ110→秋保サハ3→サハ406 となる。

十二景目。当線オリジナルの付随車サハ1→サハ4011925年1月丸山車両製。19250601日認可とあるから開業以来のものだ。同型にサハ402がある。

十三、四景目。十一景目と共に何処の駅だろうか。電車の運転本数の割には交換可能駅が多かったのは、それだけ石材運搬列車があったのかな?

十五景目。秋保温泉終点の姿で、今もこの光景の雰囲気が残っている。

十六景目。サハ406であろう。

須磨の大人よ、ありがとう。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-13

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その6  フェスティニオグ鉄道1

パンクのお陰で VALE of RHEIDOL 列車の追っかけを断念した我々は、当初 Aberystwyth で泊まる算段だったが、中々のリゾート地でホテルも高そうなので北へ走った。パンクしたタイヤを早く修理すべくガソリンスタンド(とは和製英語で、ペトロルステーションといわねば通じないことも学んだ。ついでながら「パンク」も100%日本語?のようで、「タイヤー・フラッテド」という)を探したが、すべて無人化、かつての修理ブースもコンビニに化けていたりで、修理はできなかった。

途中手ごろなB&B(ベッド&ブレックファスト=朝食付き民宿)があったが満室。暗くなって2軒目でいいB&Bが見付かった。連泊の申出は満室の由で断念。廊下に置いてあるノートには、日本人の若い女の子(字から推察)が記入しており、車でないと絶対に来れないこんな田舎まで、女の子が、と感心した。

私事で恐縮だが、二女はイタリアのキャンティのドドドド田舎で結婚式をした。これはイタリア人の友人がそこの出身で、我々親たちはフィレンツェから車で送ってもらい、田舎のホテルに泊まったが、娘の友人はフィレンツェのホテルに荷物を置き、浴衣に着替え下駄履き姿で、一人でバスを乗り継いでやってきたのには驚いた。女性、それも若ければそこいらの男共がやたらと(必要以上に)親切なお国ではあるが、若い人の勇気には、ほとほと感心せざるを得ない。


奥がポーツマドック駅。機関車がいるのは堰堤の入口



ポーツマドック駅

翌朝ポーツマドック(こんな綴りなら読める)に向い、その手前の入江に堤防のような、約1km以上の土盛りの有料橋(通行料たった5ペニー)を渡ってフェスティニオグ鉄道の駅に。この橋というか堰堤はフェスティニオグ鉄道と有料道路の共用である。先ずは車を置き、何軒目かでまずまずの宿を確保。親父は今晩来るからというだけで、我々の人品骨柄卑しからぬを察知したと見え、前金も要求せず入口と部屋の2個の鍵を渡してくれた。パンク修理の店を訪ねたら、親切にも大分離れた場末の修理工場まで案内し、修理の間に自分は徒歩で帰っていった。


途中駅で給水中 機関士(手前)はちゃんとネクタイを締めていた

この鉄道は軌間が1フィート11 1/2インチ(597mm)、勿論スレート運搬目的の産業鉄道として、ウエールズでは最も有名である。当然車輌定規も狭いので、機関車はフェアリータイプが大活躍している。これは一見2輌の蒸機を背中合わせにした双合型のようだが、キャブは中央に1ヵ所で、両方のボイラーを焚く。フレームは1個で両方のボイラーが固着され、台車はボギー式で急カーブに対応。蒸気や排気はセンターピン部分で処理している。つまり機関車2輌分を機関士、助手各1名で運転できる。我国にはないタイプである。


終点の BLAENAU FFESTINIOG  ここは標準軌間の BRITISH RAIL に接続している

天然色写真で巡る40年前の九州 (9)

掲示板をご覧の皆様に新年のご祝詞を申し上げます。

新年早々、湯口先輩、藤本さん、西村さん、KH生さんの投稿も拝見し、不肖、総本家青信号特派員は今年もセッセと投稿を続けていくことにします。

鹿児島本線のC60・C61

今回の九州行きの大きな目的は、完全電化間近の鹿児島本線で、C60・C61を撮ることだった。昭和44年のこの時期、C60・C61に関しては、東北の牙城だった盛岡区は、前年の東北本線完全電化で姿を消し、奥羽本線用に青森区が残るのみ。九州は、長崎本線のDL化で鳥栖区になく、残るは鹿児島本線用の鹿児島区のみで、それも昭和45年10月に予定されている鹿児島本線熊本~西鹿児島間の電化までの命で、風前の灯だった。同じハドソン機でも、函館本線、呉線で急行列車をなおも牽いていたC62とは対照的だった。
さて、鹿児島本線の電化が迫っていたが、何ヵ所かは別線になる区間があり、まだ架線柱のない正統写真が撮れる。鹿児島に近い、上伊集院~薩摩松元間がその代表であった。単線ではあるが、旅客、貨物ともかなりの頻度で通り、しかも10~20‰の勾配が続く。

上伊集院から歩くこと10数分、いきなりやってきたのが、写真の下り急行「桜島」だった。牽引はC60102である。この時期の「桜島」は、東海道線最後の急行で名を売った「桜島・高千穂」時代のものでなく、大阪~西鹿児島間の不定期急行で、写真のようにグリーン車1両のみ、あとはすべてハザという列車であった。優等列車で蒸機牽引はこの「桜島」などの不定期・臨時列車のみ、あとはDD51牽引、普通列車はC60またはC61、貨物列車はD51、面白いのは、伊集院方から国鉄に乗り入れる鹿児島交通のDCで、車両は前記のキハ100ではなく、国鉄キハ10をベースにしたキハ300形が単行で使用されていた。また山野線の貨物を牽くC56が回送として普通列車にブラ下がっていく光景も見られた。

シラス台地を登って行くC60102の牽く「桜島」

 

少し前の飯田線Ⅰ

 年末の同軌講ではD51498の空焚き事件の話題で賑わい、大晦日の掲示板は、総本家・青信号特派員さん、湯口先輩の書込みで大盛り上がりであった。D51の修理が1年半も要するとなれば、当面予定されているものは、真岡鐡道からC11を借りてきて急場を凌ぐにしても、以前からよく運転されている高崎~水上間は、復旧工事完了まで運休を余儀なくされる。ならばEF55の引退先延ばしという選択肢もあると思うが、JR東日本としては今更計画を変更することはないであろう。

 昨年12月は、13日に新幹線0系、20日に京阪1900のさよなら運転が行われ、最後の花道を撮影に行かれた会員の方も多かったのではなかろうか。また、名鉄パノラマカーは26日をもって通常の営業運転は終了したが、あと暫くはイベント等で運転される予定で、タイミングよく犬山総会当日の運転は叶わぬ夢であろうか。

 12月23日、大阪出張時、午前中時間があり、パノラマカーの走行中撮影を計画したが、濃霧のためダイヤが乱れており、万一のアクシデントを考慮して結局前回と同じコースにした。天気がピーカンのため、下り列車はモロ逆行となってしまった。最終日が近いせいか平日にも拘らず、神宮前駅には30人、堀田駅は10人位の同業者がいた。大部分の人は他形式には見向きもしていなかったが、私はこんな時くらいしか名鉄の撮影ができないため、6000系等にもせっせとカメラを向けた。

 前回、JR東海ニュースリリースの紹介から飯田線の119系について書込みしたが、3月14日のダイヤ改正で「ムーンライトながら」の廃止により、同列車と飯田線の特急「伊那路」、身延線特急「ふじかわ」に使用されている「373系」にも大きな動きがありそうである。373系は3両編成×14本=42両在籍し、前述の列車及びその送り込みの普通列車、間合い運用で平日のみ大垣~米原間の普通列車に2往復使用されている。「ムーンライトながら」が廃止されると「伊那路」用として2本、「ふじかわ」用として3本、予備車2本位あれば充分であり、半数弱が余剰となると思われる。車令が若いので廃車にはならないだろうが、普通列車用としては乗客の多い本線筋では使い勝手が悪く、臨時特急、臨時快速、団臨位しか使い道がないのではなかろうか。セントラルライナーの増発、ワンマン化の上中津川以東のローカルに転用等も考えられなくはないが「ムーンライトながら」の廃止が思わぬところに波及することだけは確かである。

 ここからが本題で、過去「飯田線」については乙訓の長老より「クハユニ56」についての書込みや893-2さんの美しい風景写真による紹介等があったが、今回は17mについて少し触れてみたい。飯田線での17m車の活躍は、M車は昭和45年8月19日付廃車のクモハ14013、T車は昭和47年4月17日付廃車のクハ16446と447が最後で、我々の世代ではギリギリ間に合ったという感じである。当時の飯田線は蒸機全盛時代のためか、数少ない旧形国電ファン以外の人から注目されることは殆ど無かったように思われる。今回は「クモハ」と「クハ」のみの紹介とし、クモニ13、クモエ21、クエ28については項を改めて紹介する。本来ならばもっと数多くの車両について書きたいところであるが、自分で撮影したものの中から代表的なものを選択して紹介する。また、配置区は撮影時のものである。

(1)   3扉ロングシート車

飯田線に在籍した3扉ロングシート車は、クモハ11、クモハ12、クハ16、クハニ19、サハ17の5形式である。距離と乗車時間の長い路線には不向きのため、関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代の初めには姿を消したが、一部のクハ16は、スカ色に塗り変えられ、昭和47年4月まで在籍した。クモハ12は昭和62年、クモヤ22112からイベント用として復活した12041である。

クモハ11202(トヨ)  40.3.20    豊橋

昭和4年川崎車輌製でモハ31004として誕生、昭和28年6月の改番でモハ11202となった。昭和42年配給車に改造され、クモル24021となり大阪地区で使用され、昭和56年5月に廃車となった。

クハ16219(トヨ)   40.3.20    豊橋

この車の経歴は少々複雑で、昭和2年日車製でデハ73253として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30053、昭和24年に電装解除してクハ38065、昭和28年6月の改番でクハ16111、昭和30年二重屋根から丸屋根に改造してクハ16219となった。豊橋→北松本→伊那松島→北松本→富山港線と短期間に転属を繰返し昭和42年4月に廃車となった。

クハ16446(ママ)   46.9.25    伊那松島

最後まで残ったクハ16で、昭和15年7月大井工場で木製車の鋼体化改造車クハ65110として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16446となった。昭和34年にトイレが設置されたが番号は変更されなかった。廃車は昭和47年4月である。

クハ16451(ママ)   45.11.23   伊那松島

昭和14年3月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65067として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16451となった。昭和32年にトイレが設置され、昭和46年8月廃車となった。

クハ16491(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和15年11月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65117として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16491となった。昭和38年にトイレが設置され、昭和42年6月廃車となり、伊豆箱根鉄道に譲渡された。

クモハ12041(シス)  61.8.6     沼津

昭和62年3月飯田線のイベント用として、モハ10016改増のクモヤ22112を再度旅客車に復帰したもので、クモハ11100番台改造のクモハ12040の続番とした。新AA基準に達していないため、佐久間~相月間の峰トンネル区間の客扱いできない、老朽化等により平成13年廃車となった。現在伊那松島区に保管されているが、近々建設が予定されているJR東海の鉄道博物館で保存されるかどうかは微妙なところである。経歴はかなり複雑で、昭和2年汽車会社でデハ73331として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30131、昭和28年6月の改番でモハ11047、昭和29年豊川分工場での更新修繕Ⅰで運転台を撤去してモハ10016、昭和39年浜松工場で牽引車に改造されクモヤ22112となった。画像はクモヤ22112時代のものである。

(2)   2扉クロスシート車

2扉クロスシート車は、クモハ14、クハ18、サハ15の3形式が在籍した。クモハ14は戦前の横須賀線のエースで、低屋根に改造されなかった車は全車飯田線に集結した。距離と乗車時間の長い飯田線には向いていたが、老朽化のため関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代前半には姿を消したが、14007と009は富士急行に譲渡され、昭和57年まで活躍した。

クモハ14000(トヨ)   41.9.3   豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32001として誕生、戦前の横須賀線のエースであった。昭和28年6月の改番でモハ14001、更に昭和34年12月の改番でモハ14000となり、昭和44年8月に廃車となった。更新修繕Ⅱの実施が昭和29年10月と早かったため、正面の雨樋が直線のままで、原型の面影をよく残していた。

クモハ14001(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32005として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14002、更に昭和34年12月の改番でモハ14001となり、昭和44年6月に廃車となった。更新修繕Ⅱが昭和33年6月に実施され、正面雨樋が曲線となり、正面窓がHゴム化された。

富士急行モハ7031←クモハ14007(チウ) 50.3.23  東桂

昭和6年汽車支店製でモハ32023として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14023、更に昭和34年12月の改番でモハ14007となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7031となった。富士急行では、客窓のアルミサッシ化、シートの張替え、車内の塗り潰し等を実施の上、同時に譲り受けた元クハ16425のクハ7061と編成を組んだ。

富士急行モハ7032←クモハ14009(ママ) 50.3.23  河口湖

昭和6年汽車支店製でモハ32031として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14031、更に昭和34年12月の改番でモハ14009となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7032となった。富士急行での改造は、前述のクモハ14007と同じで、同時に譲り受けた元クハ16467のクハ7062と編成を組んだ。2編成ともに昭和57年11月に廃車となった。 

クハ18001(ママ)   41.3.13    三河川合

戦時中の昭和19年3月大井工機部で身延線用に木製車の鋼体化改造車クハ77001として誕生、昭和28年6月の改番でクハ18001となった。本長篠から乗車したのがこの車両で、途中停車時間の長い交換駅で撮影しようと思っていたところ、三河川合で切離されてしまいこのような写真しか撮れなかった。昭和41年9月に廃車となった。

サハ15000(トヨ)   41.3.13    本長篠

昭和4年田中車輌製でサロ37001として誕生、昭和28年6月の改番でサロ15000、昭和38年11月格下げでサハ15000となり、昭和41年7月に廃車となった。戦後長らく横須賀線で活躍していたが、昭和37年10月伊東線に転属、格下げ後の昭和39年2月日光線と東北本線宇都宮~黒磯間のローカル用として小山区に転属、昭和40年7月豊橋区に転属となったが僅か1年で廃車となった。

(3)   373系

3月14日のダイヤ改正で大きな動き予想される373系について少し触れておきたい。平成7年から8年にかけて老朽化した165系の代替として作られ、クモハ373+サハ373+クハ372の3両が1編成となっている。特急からローカル使用までの汎用性を持たせているため、扉は両開きでデッキの仕切りがなく、冬季「ムーンライトながら」に乗車する場合は座席の位置(特に進行方向前方の扉付近)によっては非常に寒く、それなりの防寒対策が必要である。

 

クハ372-5他3連の特急「伊那路」 19.11.3 中部天竜

 

クモハ373-5           19.11.3 中部天竜

高島町駅の写真ありがとうございます

新年明けましておめでとうございます。昨年は江若鉄道に関してこの掲示板上をにぎやかしましたが、今年もしつこく江若鉄道にこだわってゆきますので よろしくお願い致します。総本家様より高島町駅のスナップを提供頂きありがとうございました。今は車両の復活に時間を費やしていますが、是非レイアウトセクションも作りたいという夢を描いています。三井寺下の再現も考えましたが、カーブポイントが多いのと6帖ひと間はいるだろうと思うととても手が出ず、構内写真が少しあったり オハ27が留置されていた高島町なら作れるのではと何となく考えているところです。総本家さんとは同じ日に同じようなアングルで数枚スナップを撮っています。これが私の持っている高島町駅の写真のすべてで、大胆にもこの情報から再現を夢見ている次第です。高島町駅周辺を含め 写真などがありましたら是非ご提供ください。駅舎の前に停まっている江若バスも当然復活させたいのですが、これも自製するしかないかと覚悟しつつ、1/80の犬バスの出物でも見つかればいいのに・・・と横着心が首をもたげてきます。何はともあれ 本年もよろしくお願い致します。