須磨浦公園で見つけたロープウエィ

新春に走る583系(京都車)の臨時列車を迎撃しようと友人と語らい、
須磨浦公園へ来ました。 動画で撮影しましたので、
http://www.ec583.org/~y_square/temp/tetu290104.htm
にて
ご覧になれます。 ところでロケハンの途中で、こんなもの ↓ を見つけました。

駆動装置は山上に設置されている様で、峰には中間鉄塔らしき構造物が
遠望できます。砂防ダムの建設資材の運搬用に設置されたと思いますが、
人間は乗せず、資材を引き上げたり伐採した樹木を下ろしたりするもの
でしょう。施錠されているので近寄って見られませんが、まだまだ現役の
様にも見えます。

カゴの上部(油溜め?)の縁には「一 コケ」なんて表記もあります。
詳細をご存知の方、フォローを頂ければ幸いです。

賀正 秋保電車懐古

「拙老にチョッカイが出た」と須磨が書き込んだ。それに「乙訓は沈黙である」と応じたら、「敵前逃亡まかりならぬ」と、須磨からアームストロング砲による弾丸が乙訓めがけて飛んできた。未だ破裂していないから、どうにか生き永らえている。そこで須磨の大人提供の十六景について知ったかぶりをしてみよう。

 一景目。こんな侘しい風景の中をがったんごっとんと秋保街道沿いを走っている1407号、その兄弟406号の車中で乙訓はどんな思いを持って乗っていたのか、半世紀前のことだから全て忘却の彼方である。まして車庫へ行って在籍車の要目、来歴を教えてほしいとやっていないからピク誌369号が頼みの綱である。和久田氏の調査を下に受け売りを試みる。

二景目、電関はED1011925年日立製、122両あったとか。1両は1938年に福博電車へ譲渡された由。残る1両(旧2らしい)は廃線まで使われたとあるが、記憶にない。見たかどうかも? 花巻にもこんな小型がおったな、の程度。出力は22.4kw×2、運転台には蒲鉾形のコントローラーとハンドブレーキのハンドルしかなかった、ということだ。ブレーキは人力のみに頼っていたのか。電制はどうなのか。重い石を積んだ貨車を従えて大丈夫だったの? と問うてみたい。

三景目(車庫内)は開業時の電動車マハ13の後身、ボギー化されなかったマハ2→モハ402である。さて今も分からないマハなる称号である。「マ」とはなんじゃい。モをマとしたのは、モーターは“マワル”からなのか? 1925年大阪鉄工所製、出力は電関と同じ。兄弟のマハ13はボギー化されモハ14011403を名乗った。ボギー台車は都電の中古品で、ブリル27GEだったと言う。402はブリル21E系そのまま。

四景目(車庫内)。後で出てくるダブルルーフの木造ボギー車と車体形状が異なる。何号なのか分からない。最後まで在籍したモハ8両、サハ4両を消却法で残る車号を探してみたらモハ405号となった。だとすると1912年名古屋電車製造で、新三河電軌に納品されたものだと言うことになる。新三河16→名古屋市電123を兄弟17号と共に193812月に譲り受けたことになっている。出力18.7Kw×2。折扉が付いているのは当地へ来てからのものであろう。

五景目。一景目の延長線と判断する。

六景目。ホームがカーブしているから長町駅であろう。一景目の1407と違い窓が2段上昇型になっているモハ1408である。トレーラーはサハ406のようだ。それにしてもシングルポールは長いなぁ。

七景目。モハ411404の編成。404は自社製、19520126付竣工となっている。

八景目。モハ140319510414付でボギー化の届けが出ている。1401の方12

日遅れての竣工となったようだ。

九景目。モハ410は仙台市電になりそこねた2両のうちの1両である。バッファー、連結器がない。

十景目。同じく仙台市電なりそこなったもう1両である。モハ411は連結可能車である。4104112両は日本鉄道自動車、19466月製造で、19461213の入籍となっている。

十一景目。モハ1408.であろう。14071408は兄弟車両で、元は常南電気鉄道のものであった。峡西電鉄(後の山梨交通)を経て19420108日付けで譲渡された。19261月蒲田車両製の木造4輪車がプロトタイプ。これよりピク誌167号の受け売り。

常南電鉄は根崎(常磐線土浦の0.5km手前)~阿見(霞ヶ浦辺り)間4.1kmを1926(大正15)年109日に開業した。1928322日、根崎から土浦への延長なり全線開業となった。軌間1,067粍、直流!600Vであった。柿岡の地磁気観測所に近い地なのに直流電化が認められたのはどうしてなのか。であるのに利用者は少なく、1938228日に終焉の日を迎えた。もう少し頑張ることができたなら、ガソリン統制にあった代替バスのお世話になることなしに、霞ヶ浦海軍航空隊の足になったであろう。

 開業にあたり蒲田製木造4輪電動車5両(15)と付随車2両(67)新造した。電動車は最大寸法(L×W×H7,925×2,134×3,653粍、自重7頓、定員44人であった。1928年に5号は脱線大破しているが、車籍は残したままであったとか。廃線後、145(車籍のみ)、67の全車が峡西電気鉄道に売却され、15107111(順序不明)と改番された。672両は峡西電鉄では使用されなかったため無番号であったようだ。これらのうち3両が温泉電車となった。

先達の調査によると、

峡西?(常南・付6)→秋保マハ7→モハ1407(ボギー車改造19510414

峡西?(常南・付7)→秋保サハ5→モハ1408(電動ボギー車化19510426

峡西モハ110→秋保サハ3→サハ406 となる。

十二景目。当線オリジナルの付随車サハ1→サハ4011925年1月丸山車両製。19250601日認可とあるから開業以来のものだ。同型にサハ402がある。

十三、四景目。十一景目と共に何処の駅だろうか。電車の運転本数の割には交換可能駅が多かったのは、それだけ石材運搬列車があったのかな?

十五景目。秋保温泉終点の姿で、今もこの光景の雰囲気が残っている。

十六景目。サハ406であろう。

須磨の大人よ、ありがとう。

おじん2人ヨーロッパ軽便 その23-13

THE GREAT LITTLE TRAINS of WALES その6  フェスティニオグ鉄道1

パンクのお陰で VALE of RHEIDOL 列車の追っかけを断念した我々は、当初 Aberystwyth で泊まる算段だったが、中々のリゾート地でホテルも高そうなので北へ走った。パンクしたタイヤを早く修理すべくガソリンスタンド(とは和製英語で、ペトロルステーションといわねば通じないことも学んだ。ついでながら「パンク」も100%日本語?のようで、「タイヤー・フラッテド」という)を探したが、すべて無人化、かつての修理ブースもコンビニに化けていたりで、修理はできなかった。

途中手ごろなB&B(ベッド&ブレックファスト=朝食付き民宿)があったが満室。暗くなって2軒目でいいB&Bが見付かった。連泊の申出は満室の由で断念。廊下に置いてあるノートには、日本人の若い女の子(字から推察)が記入しており、車でないと絶対に来れないこんな田舎まで、女の子が、と感心した。

私事で恐縮だが、二女はイタリアのキャンティのドドドド田舎で結婚式をした。これはイタリア人の友人がそこの出身で、我々親たちはフィレンツェから車で送ってもらい、田舎のホテルに泊まったが、娘の友人はフィレンツェのホテルに荷物を置き、浴衣に着替え下駄履き姿で、一人でバスを乗り継いでやってきたのには驚いた。女性、それも若ければそこいらの男共がやたらと(必要以上に)親切なお国ではあるが、若い人の勇気には、ほとほと感心せざるを得ない。


奥がポーツマドック駅。機関車がいるのは堰堤の入口



ポーツマドック駅

翌朝ポーツマドック(こんな綴りなら読める)に向い、その手前の入江に堤防のような、約1km以上の土盛りの有料橋(通行料たった5ペニー)を渡ってフェスティニオグ鉄道の駅に。この橋というか堰堤はフェスティニオグ鉄道と有料道路の共用である。先ずは車を置き、何軒目かでまずまずの宿を確保。親父は今晩来るからというだけで、我々の人品骨柄卑しからぬを察知したと見え、前金も要求せず入口と部屋の2個の鍵を渡してくれた。パンク修理の店を訪ねたら、親切にも大分離れた場末の修理工場まで案内し、修理の間に自分は徒歩で帰っていった。


途中駅で給水中 機関士(手前)はちゃんとネクタイを締めていた

この鉄道は軌間が1フィート11 1/2インチ(597mm)、勿論スレート運搬目的の産業鉄道として、ウエールズでは最も有名である。当然車輌定規も狭いので、機関車はフェアリータイプが大活躍している。これは一見2輌の蒸機を背中合わせにした双合型のようだが、キャブは中央に1ヵ所で、両方のボイラーを焚く。フレームは1個で両方のボイラーが固着され、台車はボギー式で急カーブに対応。蒸気や排気はセンターピン部分で処理している。つまり機関車2輌分を機関士、助手各1名で運転できる。我国にはないタイプである。


終点の BLAENAU FFESTINIOG  ここは標準軌間の BRITISH RAIL に接続している

天然色写真で巡る40年前の九州 (9)

掲示板をご覧の皆様に新年のご祝詞を申し上げます。

新年早々、湯口先輩、藤本さん、西村さん、KH生さんの投稿も拝見し、不肖、総本家青信号特派員は今年もセッセと投稿を続けていくことにします。

鹿児島本線のC60・C61

今回の九州行きの大きな目的は、完全電化間近の鹿児島本線で、C60・C61を撮ることだった。昭和44年のこの時期、C60・C61に関しては、東北の牙城だった盛岡区は、前年の東北本線完全電化で姿を消し、奥羽本線用に青森区が残るのみ。九州は、長崎本線のDL化で鳥栖区になく、残るは鹿児島本線用の鹿児島区のみで、それも昭和45年10月に予定されている鹿児島本線熊本~西鹿児島間の電化までの命で、風前の灯だった。同じハドソン機でも、函館本線、呉線で急行列車をなおも牽いていたC62とは対照的だった。
さて、鹿児島本線の電化が迫っていたが、何ヵ所かは別線になる区間があり、まだ架線柱のない正統写真が撮れる。鹿児島に近い、上伊集院~薩摩松元間がその代表であった。単線ではあるが、旅客、貨物ともかなりの頻度で通り、しかも10~20‰の勾配が続く。

上伊集院から歩くこと10数分、いきなりやってきたのが、写真の下り急行「桜島」だった。牽引はC60102である。この時期の「桜島」は、東海道線最後の急行で名を売った「桜島・高千穂」時代のものでなく、大阪~西鹿児島間の不定期急行で、写真のようにグリーン車1両のみ、あとはすべてハザという列車であった。優等列車で蒸機牽引はこの「桜島」などの不定期・臨時列車のみ、あとはDD51牽引、普通列車はC60またはC61、貨物列車はD51、面白いのは、伊集院方から国鉄に乗り入れる鹿児島交通のDCで、車両は前記のキハ100ではなく、国鉄キハ10をベースにしたキハ300形が単行で使用されていた。また山野線の貨物を牽くC56が回送として普通列車にブラ下がっていく光景も見られた。

シラス台地を登って行くC60102の牽く「桜島」

 

少し前の飯田線Ⅰ

 年末の同軌講ではD51498の空焚き事件の話題で賑わい、大晦日の掲示板は、総本家・青信号特派員さん、湯口先輩の書込みで大盛り上がりであった。D51の修理が1年半も要するとなれば、当面予定されているものは、真岡鐡道からC11を借りてきて急場を凌ぐにしても、以前からよく運転されている高崎~水上間は、復旧工事完了まで運休を余儀なくされる。ならばEF55の引退先延ばしという選択肢もあると思うが、JR東日本としては今更計画を変更することはないであろう。

 昨年12月は、13日に新幹線0系、20日に京阪1900のさよなら運転が行われ、最後の花道を撮影に行かれた会員の方も多かったのではなかろうか。また、名鉄パノラマカーは26日をもって通常の営業運転は終了したが、あと暫くはイベント等で運転される予定で、タイミングよく犬山総会当日の運転は叶わぬ夢であろうか。

 12月23日、大阪出張時、午前中時間があり、パノラマカーの走行中撮影を計画したが、濃霧のためダイヤが乱れており、万一のアクシデントを考慮して結局前回と同じコースにした。天気がピーカンのため、下り列車はモロ逆行となってしまった。最終日が近いせいか平日にも拘らず、神宮前駅には30人、堀田駅は10人位の同業者がいた。大部分の人は他形式には見向きもしていなかったが、私はこんな時くらいしか名鉄の撮影ができないため、6000系等にもせっせとカメラを向けた。

 前回、JR東海ニュースリリースの紹介から飯田線の119系について書込みしたが、3月14日のダイヤ改正で「ムーンライトながら」の廃止により、同列車と飯田線の特急「伊那路」、身延線特急「ふじかわ」に使用されている「373系」にも大きな動きがありそうである。373系は3両編成×14本=42両在籍し、前述の列車及びその送り込みの普通列車、間合い運用で平日のみ大垣~米原間の普通列車に2往復使用されている。「ムーンライトながら」が廃止されると「伊那路」用として2本、「ふじかわ」用として3本、予備車2本位あれば充分であり、半数弱が余剰となると思われる。車令が若いので廃車にはならないだろうが、普通列車用としては乗客の多い本線筋では使い勝手が悪く、臨時特急、臨時快速、団臨位しか使い道がないのではなかろうか。セントラルライナーの増発、ワンマン化の上中津川以東のローカルに転用等も考えられなくはないが「ムーンライトながら」の廃止が思わぬところに波及することだけは確かである。

 ここからが本題で、過去「飯田線」については乙訓の長老より「クハユニ56」についての書込みや893-2さんの美しい風景写真による紹介等があったが、今回は17mについて少し触れてみたい。飯田線での17m車の活躍は、M車は昭和45年8月19日付廃車のクモハ14013、T車は昭和47年4月17日付廃車のクハ16446と447が最後で、我々の世代ではギリギリ間に合ったという感じである。当時の飯田線は蒸機全盛時代のためか、数少ない旧形国電ファン以外の人から注目されることは殆ど無かったように思われる。今回は「クモハ」と「クハ」のみの紹介とし、クモニ13、クモエ21、クエ28については項を改めて紹介する。本来ならばもっと数多くの車両について書きたいところであるが、自分で撮影したものの中から代表的なものを選択して紹介する。また、配置区は撮影時のものである。

(1)   3扉ロングシート車

飯田線に在籍した3扉ロングシート車は、クモハ11、クモハ12、クハ16、クハニ19、サハ17の5形式である。距離と乗車時間の長い路線には不向きのため、関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代の初めには姿を消したが、一部のクハ16は、スカ色に塗り変えられ、昭和47年4月まで在籍した。クモハ12は昭和62年、クモヤ22112からイベント用として復活した12041である。

クモハ11202(トヨ)  40.3.20    豊橋

昭和4年川崎車輌製でモハ31004として誕生、昭和28年6月の改番でモハ11202となった。昭和42年配給車に改造され、クモル24021となり大阪地区で使用され、昭和56年5月に廃車となった。

クハ16219(トヨ)   40.3.20    豊橋

この車の経歴は少々複雑で、昭和2年日車製でデハ73253として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30053、昭和24年に電装解除してクハ38065、昭和28年6月の改番でクハ16111、昭和30年二重屋根から丸屋根に改造してクハ16219となった。豊橋→北松本→伊那松島→北松本→富山港線と短期間に転属を繰返し昭和42年4月に廃車となった。

クハ16446(ママ)   46.9.25    伊那松島

最後まで残ったクハ16で、昭和15年7月大井工場で木製車の鋼体化改造車クハ65110として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16446となった。昭和34年にトイレが設置されたが番号は変更されなかった。廃車は昭和47年4月である。

クハ16451(ママ)   45.11.23   伊那松島

昭和14年3月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65067として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16451となった。昭和32年にトイレが設置され、昭和46年8月廃車となった。

クハ16491(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和15年11月大宮工場で木製車の鋼体化改造車クハ65117として誕生、昭和28年6月の改番でクハ16491となった。昭和38年にトイレが設置され、昭和42年6月廃車となり、伊豆箱根鉄道に譲渡された。

クモハ12041(シス)  61.8.6     沼津

昭和62年3月飯田線のイベント用として、モハ10016改増のクモヤ22112を再度旅客車に復帰したもので、クモハ11100番台改造のクモハ12040の続番とした。新AA基準に達していないため、佐久間~相月間の峰トンネル区間の客扱いできない、老朽化等により平成13年廃車となった。現在伊那松島区に保管されているが、近々建設が予定されているJR東海の鉄道博物館で保存されるかどうかは微妙なところである。経歴はかなり複雑で、昭和2年汽車会社でデハ73331として誕生、昭和3年10月の改番でモハ30131、昭和28年6月の改番でモハ11047、昭和29年豊川分工場での更新修繕Ⅰで運転台を撤去してモハ10016、昭和39年浜松工場で牽引車に改造されクモヤ22112となった。画像はクモヤ22112時代のものである。

(2)   2扉クロスシート車

2扉クロスシート車は、クモハ14、クハ18、サハ15の3形式が在籍した。クモハ14は戦前の横須賀線のエースで、低屋根に改造されなかった車は全車飯田線に集結した。距離と乗車時間の長い飯田線には向いていたが、老朽化のため関西から転入したクモハ51形等と交替して昭和40年代前半には姿を消したが、14007と009は富士急行に譲渡され、昭和57年まで活躍した。

クモハ14000(トヨ)   41.9.3   豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32001として誕生、戦前の横須賀線のエースであった。昭和28年6月の改番でモハ14001、更に昭和34年12月の改番でモハ14000となり、昭和44年8月に廃車となった。更新修繕Ⅱの実施が昭和29年10月と早かったため、正面の雨樋が直線のままで、原型の面影をよく残していた。

クモハ14001(トヨ)   40.3.20    豊橋

昭和5年川崎車輌製でモハ32005として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14002、更に昭和34年12月の改番でモハ14001となり、昭和44年6月に廃車となった。更新修繕Ⅱが昭和33年6月に実施され、正面雨樋が曲線となり、正面窓がHゴム化された。

富士急行モハ7031←クモハ14007(チウ) 50.3.23  東桂

昭和6年汽車支店製でモハ32023として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14023、更に昭和34年12月の改番でモハ14007となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7031となった。富士急行では、客窓のアルミサッシ化、シートの張替え、車内の塗り潰し等を実施の上、同時に譲り受けた元クハ16425のクハ7061と編成を組んだ。

富士急行モハ7032←クモハ14009(ママ) 50.3.23  河口湖

昭和6年汽車支店製でモハ32031として誕生、昭和28年6月の改番でモハ14031、更に昭和34年12月の改番でモハ14009となり、昭和44年6月に廃車となったが、富士急行に譲渡され、同社のモハ7032となった。富士急行での改造は、前述のクモハ14007と同じで、同時に譲り受けた元クハ16467のクハ7062と編成を組んだ。2編成ともに昭和57年11月に廃車となった。 

クハ18001(ママ)   41.3.13    三河川合

戦時中の昭和19年3月大井工機部で身延線用に木製車の鋼体化改造車クハ77001として誕生、昭和28年6月の改番でクハ18001となった。本長篠から乗車したのがこの車両で、途中停車時間の長い交換駅で撮影しようと思っていたところ、三河川合で切離されてしまいこのような写真しか撮れなかった。昭和41年9月に廃車となった。

サハ15000(トヨ)   41.3.13    本長篠

昭和4年田中車輌製でサロ37001として誕生、昭和28年6月の改番でサロ15000、昭和38年11月格下げでサハ15000となり、昭和41年7月に廃車となった。戦後長らく横須賀線で活躍していたが、昭和37年10月伊東線に転属、格下げ後の昭和39年2月日光線と東北本線宇都宮~黒磯間のローカル用として小山区に転属、昭和40年7月豊橋区に転属となったが僅か1年で廃車となった。

(3)   373系

3月14日のダイヤ改正で大きな動き予想される373系について少し触れておきたい。平成7年から8年にかけて老朽化した165系の代替として作られ、クモハ373+サハ373+クハ372の3両が1編成となっている。特急からローカル使用までの汎用性を持たせているため、扉は両開きでデッキの仕切りがなく、冬季「ムーンライトながら」に乗車する場合は座席の位置(特に進行方向前方の扉付近)によっては非常に寒く、それなりの防寒対策が必要である。

 

クハ372-5他3連の特急「伊那路」 19.11.3 中部天竜

 

クモハ373-5           19.11.3 中部天竜

高島町駅の写真ありがとうございます

新年明けましておめでとうございます。昨年は江若鉄道に関してこの掲示板上をにぎやかしましたが、今年もしつこく江若鉄道にこだわってゆきますので よろしくお願い致します。総本家様より高島町駅のスナップを提供頂きありがとうございました。今は車両の復活に時間を費やしていますが、是非レイアウトセクションも作りたいという夢を描いています。三井寺下の再現も考えましたが、カーブポイントが多いのと6帖ひと間はいるだろうと思うととても手が出ず、構内写真が少しあったり オハ27が留置されていた高島町なら作れるのではと何となく考えているところです。総本家さんとは同じ日に同じようなアングルで数枚スナップを撮っています。これが私の持っている高島町駅の写真のすべてで、大胆にもこの情報から再現を夢見ている次第です。高島町駅周辺を含め 写真などがありましたら是非ご提供ください。駅舎の前に停まっている江若バスも当然復活させたいのですが、これも自製するしかないかと覚悟しつつ、1/80の犬バスの出物でも見つかればいいのに・・・と横着心が首をもたげてきます。何はともあれ 本年もよろしくお願い致します。